れんだいこ |
いよいよ安保の年となり正念場を迎えますが、ブントは機関紙「戦旗」(編集長・大瀬振)を創刊します。事務所の手配といいこういう裏方は香村正雄氏が為されていたようですね。 |
S |
59年の年末から60年の初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上してきた。藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉は1.6日に終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。
政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に結晶するする国際協調主義に基づく戦後民主主義秩序に違背する危険不当なものであった。 |
再来生田 |
東京共闘会議は羽田動員をあきらめず、1.12日に羽田抗議集会実行委員会を結成することを決めた。この決定は社会党の浅沼に伝えられたが、彼は、次のように激励した。
「党としては、国民会議の線をはずれることはできないが、議員個人が大衆と結びついて活動するのは当然だ。大いにやってくれ」。 |
|
れんだいこ |
社会党の特徴が現れていますね。左に対して建前では厳しく反対するが、裏口を開けているという気がします。 |
再来生田 |
それに較べて日共はひどい。正反対の動きをしております。この時野坂、宮顕が金属執行部の党員を呼びつけて次のように恫喝しています。
「総評が本気になって第二地評をつくろうとしているから、跳ね上がるべきでない」。 |
要するに、「闘うな指示」ですから身動き取れなくなり、金属協議会、地区共闘がガタガタにされました。 |
島 |
1.12日、警視庁公安一課の三井氏が、全学連書記局を訪ねて来ました。この時点で羽田動員をぶち上げていたのは我々だけでしたが、「実力阻止を思いとどまるように」との異例の説得がありましたが、ブント全学連のやる気の実地偵察であった気もします。 |
再来生田 |
1.14日、安保阻止国民会議の全国代表者会議が開催される。岸訪米に対する態度を議論したがまとまらず、幹事会に預けられた。この時の様子を、56年に東京地評書記局専従書記の竹内基浩氏が次のように証言しています。
概要「席上、総評・社会党・共産党、特に共産党が断固反対を主張する。で幹事会ではまとまらんと。もう一度代表者会議を開くがやっぱり地方代表はいうことを聞かない」。 |
|
れんだいこ |
1.14日アカハタ声明は次の痛り。
「16日にはデモの形で羽田動員を行わないとする国民共闘会議の決定を、これを支持する我が党の方針は、多くの民主勢力によって受け入れられている」。 |
|
再来生田 |
1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられたが、この時日共の態度は曖昧であった。というか穏和な送り出し方針をいち早く打ち出しております。日共は、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかったという史実がある。
その時の言い回しが次のようなけったいなものです。
「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)。 |
|
れんだいこ |
こういうのを詭弁と云わずに何と云うのでせう。「体は秩序整然、口は抗議」という宮顕手法が典型的に表われております。しかし、こういう論理に騙されるのは、騙される方も低脳としか云いようがありませんね。 |
再来生田 |
そういう社共の方針を見て、総評も羽田闘争の取り組みの中止を機関決定した。革共同も社学同反対派の名で羽田動員に反対した。 |
れんだいこ |
安保改定阻止国民会議は、いったんは「大規模なデモで岸以下の全権団の渡米を阻止する」方針を決めながら、二日前になって、社共両党.総評幹部などの判断でそれを取り消し、盛り上がる下部を押さえにかかりました。昨年末の「11.27の国会乱入を再現しては困る」という配慮からでした。これを「幹部の裏切り」と怒ることはできても、行動で示すことはできなかった。 |
島 |
この時我々は必死になって情勢を読み、見通しを論じました。戦術如何では全学連内に分裂傾向が深まることもあり得ました。次のように見立てました。
「社共の裏切りが大衆的な怒りを呼び起こしている現状では、何をやっても『浮き上がる』恐れはない。最高の闘争形態をとるべきだ。ブントが全員逮捕されても、それは安保闘争を進めることになっても。停滞させることにはならない」。 |
かくて、社共の見送り方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくという方針を決定しました。ブントと全学連が唯一怒りを引き受け、実際行動で示そうとした訳です。 |
れんだいこ |
しかしかなりの幹部級が逮捕され、組織には痛手となりましたね。 |
島 |
全国各地から同盟員を集め、殆ど組織を裸のままぶつけた闘いになりましたので、従来の常識からすれば冒険主義と非難されるに値するものでした。「左翼公式戦術から見るなら邪道そのものであった」のですが、社共、総評、国民会議が尻込みしている中で我々が行動で示す必要があると「まなじりを決しました」。 |
れんだいこ |
「云うに任せよ、自ずと歴史が判定する」というところですね。まさにアナーキー系ブントの面目躍如なところだと思います。その時の指導者としての島さんの闘争観、歴史観をお聞かせ願えますか。 |
島 |
「私達は、政治というものが、決して政治家の予測するような漸進的な仕方で動くものではないことを知っていました。政治が流動化するとき、常々は保守的な大衆がいったん動き出した時、それはいかなるものをも乗り越えて進むものだと云うことを確信していました。
この機会を逃すような政治組織、自らの勢力拡張の為にのみ闘いを利用し、それを押し止めたり、おののいたりするような既成政党−まさにこのようなものに反逆して私達の組織をつくったのだ。だからこそ、大衆の流れがまさにせきをきって迸(ほとばし)らんとするとき、私達は賭けた。これに堪えられぬ組織は、それだけで死に値する、と決意しました」。 |
|