れんだいこ |
ここでブントと田中清玄氏との関わりを見ておこうと思います。60年安保闘争後の63.2.26日に鳴り物入りでいかがわしく報道されたのですが、当時ブント側からの反論が弱く、ていよく宮顕に利用されてしまいました。これの総括が出来ていないと考えておりますのでここで考察しておこうと思います。 |
S |
1963.2.26日9時半過ぎよりTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」が放送され、「安保闘争時の全学連活動家について、彼らが名うての反共右翼である田中清玄氏から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていること」などが暴露された。取り上げられていた「全学連闘士」達とは、当時の全学連委員長・唐牛健太郎、書記次長・東原吉伸、共闘部長・小島弘、社学同委員長・篠原浩一郎らであった。
この「資金援助」自体は、田中清玄氏も当時の全学連指導者側も認め、東原氏の手記や「週刊朝日」の追跡調査(「録音構成『歪んだ青春』の波紋-安保の主役たちと日共と田中清玄氏−」)でも裏付けられた。概要を明らかにすれば次のような諸事実が露見していた。
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「田中氏から貰った金は、当時の金で4〜5百万円で、4万円、5万円、多いときで50万円と、何回かにわたって受け取った。何名かの者は飲み食いから毎月の小遣いまで貰っていた。田中氏の家へ行って飯を食ったこともある」。 |
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「闘争の戦術指導の遣り取りも為されていたらしく、『非常に参考になったことは事実ですよね』と回顧している」。 |
3 |
「60年安保闘争時、田中は配下の武道家集団を全学連の護衛につけ、児玉系右翼の襲撃から護っていた」。 |
4 |
「田中は唐牛、東原、篠原達の就職の面倒まで見ていた。唐牛氏も『革命の布石を打つためには、誰の所で働いたって構わない』としていた。東原氏も『神戸の田岡一雄氏とその配下の佐々木竜二氏には、何かとお世話になった』と述べている。ブント書記長島氏も、ブント解体後の一時寄宿していた」。 |
5 |
「警察・検察の温情に接しており、警視総監をしていた小倉謙氏や、その時の学連の闘争を扱っていた野村佐太男検事正と時々会い、フランクな話をし、そしてこの方々が、『若い学生と全学連に並々ならぬ温かい感情と同情心をもって事に当たられていると聞いたときは、全く驚いた』と証言している。当時の公安一課長をしていた三井氏とも運動の最中に会っていたが、『全学連に対して、並々ならぬ同情心を持っておられた』と述懐している」。 |
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**氏 |
「唐牛問題」は、日共がこの問題を大々的に取り上げ、60年安保闘争時の全学連指導者ブントのいかがわしさを喧伝していくことになった、という意味で政治的事件となった。この時の日共の飛びつきようは異様なほどに徹底し、地区党の末端まで「トロツキストの正体は右翼の手先」だとする録音テープを大量に配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。その結果、60年安保闘争に金字塔を打ち立てた当時のブントの「いかがわしさ」が浮き彫りになり、その輝かしい功績もろともが葬り去られて行くことになった。 |
れんだいこ |
問題は、この日共系のプロパガンダに対して、当事者のブント側の反論がか弱く、他の左派諸派もまた沈黙を余儀なくされていることにあります。この構図が今日まで続いていると云っても過言でありません。このことは何を語るか。日共側のこの理論攻勢に新左翼側が同じ理論闘争のレベルで対応し得ていないだけの能力しか持っていない、ということではなかろうか。時の権力を勝手に機動隊に仮想して、肉弾戦を如何に戦闘的にやろうとも、こうした理論面での切開をしないままのそれでは情けない。 |
**氏 |
それでは一つお聞かせ願いますか。 |
れんだいこ |
はい。まずは、この時の日共党中央の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、この時党は、田中清玄氏を主として民族主義者的な名うての「職業的な反共右翼」として描き出し、その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたといういかがわしさを浮きだたせ、よってブント系トロツキストの反共的本質を明らかにするという三段論法をとった。
日共側は、田中清玄像を「職業的な反共右翼」としてフレームアップさせていたが、事情通はそれでは納得しない。田中清玄氏は戦前の武装共産党時代のれっきとした委員長であった。通り一辺倒な「職業的な反共右翼」で済ますわけには行かない。
という訳で、この種の問いかけを為す者に対しては次のように説明していた。
概要「戦前、日本共産党の指導部にいたことがあり、1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え、しかも逮捕されるといちはやく獄中転向して、出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ。そして戦後は、労働運動や民主運動の破壊工作に渡り歩く職業的な反共右翼として名前を売っていた。TBSラジオのナレーターも云っていたように、戦後、彼は土建業に従事するようになったが、合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた。戦後の大争議と云われた苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」。 |
まず、田中清玄氏をかように像化して憚らない宮顕論法が如何に悪質なものであるのかを順次見ておこうと思う。第一に、田中清玄氏は云われるような「日本共産党の指導部にいたことがあり」で済まされるような存在ではない。その真実像は「清玄血風録・赤色太平記」で簡単ながらスケッチしているので参照されたい。田中氏は、上述しましたが「戦前日共党の最高幹部として、一時期れっきとして委員長を勤めた者」です。そういう経歴を持つ者を、「日本共産党の指導部にいたことがあり」などと云いなすことは的確な表現ではない。というか、宮顕特有の落し込め詐術である。
次に、「1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え」とあるが、この判断もまた宮顕特有の逆裁定見解でしかない。史実は、田中氏は、昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の「4.16事件」という両弾圧で壊滅的危機に陥った直後の党活動の立て直しに着手し成功した功績を持っている。これが正しい評価である。
一般に「武装共産党」時代と云われますが、この時期「革命運動に重大な損害」を与えたかどうかは判定が難しい。急進主義運動で対権力闘争をひるむことなく展開し、直接対決した珍しい史実を残しているが、それは誉れな財産となっていると評価することも可能でせう。この時期蒔かれた種がその後の大衆運動の諸分野で着床したことも見落とされてならない功績です。史実の語るところ「革命運動に重大な損害」を与えたのは、宮顕が主導した「小畑中央委員リンチ致死事件」の方がズバリそのものではないでせうか。
次に、「逮捕されるといちはやく転向」も事実に反している。特高の度重なる拷問に頑強に抵抗し、その強靭な体力ゆえに奇跡的に生命が維持されたとも云うべき踏ん張りを見せている。この点ではむしろ、本人の弁にも関わらず拷問を受けなかった宮顕その人の方が胡散臭い。
田中氏の「転向」はそうした不屈の獄中闘争後のことであり、それは当時の国際情勢とコミンテルン指導の変調さを思案した結果の思想問題であり、必要以上には踏み込むべきではなかろう。むしろ、当時の転向雪崩現象は一辺の批判では済ましえない内実を持っているのではなかろうか。むしろ、不屈の闘士然として伝えられている宮顕神話の獄中下の様子こそ奇異そのものであることが今日判明している。この件については「宮顕の獄中闘争について」で解明しているので参照されたし。
次に、「出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」も、何を根拠にそのような捻じ曲げ断定しているのであろう。氏のその後の様子は自伝で確認されようが、一風変わって山本玄峰老師に私淑し、三島の龍沢寺での修行生活に入っている。ほぼ時局とも没交渉であり、時の支配層より大戦末期での敗戦処理方法において師事する玄峰老師の聴聞が為され、その秘書的活動で当局と渡り合っている史実は残されているが、「侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」ようなものでは断じてない。
次に、戦後の活動であるが、その詳細は自伝に譲るとして「合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた」というような形跡はない。「苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」については詳細不明であるが、捏造の可能性のほうが高い。宮顕話法はこういう為にする批判の為の史実捻じ曲げは常習的であるので、迂闊には乗れない。
これについては、2002.6.15日発刊の「60年安保とブントを読む」の中で、東原吉伸氏が次のように書いている。
「独占支配に対抗すると称して工場占拠・労組による経営管理まで行おうとするソ連の第5列、日共の指導する労働争議などを分裂・解体する仕事にも体を張った。泥沼に叩き込まれていた王子製紙苫小牧の180日に及ぶ争議の現地指導を最後まで行い、解決させ、会社蘇生の基礎を固めた」。 |
肝心なことは、解決のさせ方であったと思われるが、これ以上は分からない。
以上逐一の反論で判明するように、宮顕共産党の田中清玄批判は悪質さ重度のそれである。この辺りの正確な事情が不問のままに、「職業的な反共右翼」像がフレームアップさせられ、その指導を受けていたブント指導部のいかがわしさが糾弾されるという構図で、「唐牛問題」が展開された。この非道ぶりが知られねばならない。 |
**氏 |
なるほど。 |
れんだいこ |
63年当時のブントは、この後おってみていくことになりますが分裂状態で崩壊状況にあり、日共のこうした欺瞞的な策動に対し有効な反撃が組織できませんでした。れんだいこなら、こう反論します。
田中清玄氏は、あなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していく
ことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、当時においては政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の
「国家百年の計」よりなす憂国の情の然らしめたものでもあった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。もし、これを不正というのであれば、宮顕の戦前の党中央進出過程と戦後の党分裂期の国際派時代の潤沢な資金について究明していく用意がある。 |
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**氏 |
なるほど。 |
れんだいこ |
更に云えば、次のような認識の共同化ができていたのではないでせうか。
1 |
岸―児玉ラインに対する田中のアンチの立場。民族主義者に移し身していたが、岸―児玉ラインとは一線を画していた。新興勢力の糾合に尽力していた。 |
2 |
戦前の武装共産党時代の委員長の経験を持つ田中との感性的理論的な一致。 |
3 |
ソ連、中国等に指導される日本左派運動からの脱却という点での認識の一致。 |
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**氏 |
なるほど。 |
れんだいこ |
そういう認識の一致が為されれば、ブントから見て田中氏の武装共産党時代の委員長、その後の獄中生活、コミンテルンとの遣り取り等々の経験から学ぶことが多かった。この辺りの事情は次のように述べられております。
「一方で、田中清玄の目から見れば、背中に重い十字架を背負わされたこの若き革命家に、自分の過去をダブらせていたに違いない。彼は、革命運動はまさに殉教であることを見すぎてきた人物であった。その為に、自分の生き様をさらけ出すことで、自分の持つ多くのものを、とりわけ革命闘争の持つダイナミズムを経験した先輩として、この若き革命家に感じ取って欲しいと希求していることが、同席している者にも強く伝わってきた」。概要「田中氏は過去の日々を想いめぐらせ、自己の体験から築き上げたすべてを、その行動哲学や人脈を、この時点から船出した若き革命家に、参考になったり役に立つなら継承してもらいたいと希求していた」。 |
そういうことではないでせうか。 |
**氏 |
東原吉伸は次のように証言している。
概要「島と田中氏とは概要「議論は結構噛み合い、延々と続いた。それ以来、二人はよく会った。お互い話題には事欠かなかった。島は遣り繰りして、不思議にこの会合のスケジュールは確保した」。 |
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れんだいこ |
ところで、宮顕系党中央が、「唐牛問題」で当時のブント活動家を批判するのに、「権力によるトロツキスト泳がせ論」を満展開させていたことも見落としてならない点です。TBS放送「歪んだ青春−全学連闘士のその後」でこのことが裏付けられたとしていたが、その根拠として、1・挑発行動の戦術指導を受けていた。2・検察・警察首脳とも密接な関係にあった。3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していた等々を暴露しています。これにどう反論すべきであろうか。残念ながら当時のブントはこれにも沈黙させられた。
れんだいこなら、こう反論します。
1 |
挑発行動の戦術指導を受けていたについては、その通りであるが、「挑発行動」と捻じ曲げるのは宮顕得意のすり替え論法であり、我々はあの当時最も先鋭且つ効果的な方法を必死になって模索していたのであり、そうした時に田中氏の戦前の武装共産党時代の経験は大いに参考になった。このことのどこに不都合がありや否や。 |
2 |
検察・警察首脳とも密接な関係にあったについては、公安は公安なりに真剣に情報取に向かうものであり、我々が運動の利益を考えながらこれに是々非々で対応するのは闘争現場の現実がしからしめるところである。そういう意味で、小島氏の「公安は僕を捕まえたいが、捕まえると全学連とのパイプ役がいなくなるので、向こうも困る。当時はそんな訳で、警察と一種の信頼関係があった」のは、革命の弁証法のひとコマである。ここに疑義を差し挟み傲然(ごうぜん)とする者こそ、過去一度もそのような運動主体になりえなかった者の為にする批判ではないのか。 |
3 |
60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していたについては、我々の革命の侠気に対して、田岡氏が侠気の理解者となって立ち表われたのであり、それは世の中の味わい深く興味深いところでもある。それは、同じ左翼陣営を構成する日共側の執拗な我々のパージに比較して鮮やかに対照的であった。
この問題の眼目は次のことにある。そのことによって、活動家が当局のスパイにされたのか、強制的に転向を余儀なくされたのか。実際はまさに侠気によって支えられていたのではないのか。自分達が行き所をなくすよう画策しておいて、侠客家田岡氏の世話になったことをもって日共がそれをしも認められないとするのは悪質姑息な暴論であろう。我々はむしろ逆に、これを非難する我が身の反侠客性を恥じよと問い掛けたいと思う。 |
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**氏 |
なるほど。 |
れんだいこ |
ところで、「唐牛問題」を廻って真剣に協議せねばならないことは、運動上に付き纏う金権パトロン問題ではないでせうか。こう課題を見据えたとき、「唐牛問題」は日共対トロツキスト運動の非難合戦の地平を離れて普遍性を獲得します。人も運動体も聖人君子的仙人思想にとらわれては何事も為しえません。金権まみれの現体制の批判運動を展開するからといって、運動側に金権にまみれずにあたかも霞を食って生きていくべしとする論法と手法が強制される必要は全くない。むしろ、そういう規制を設ける論調は、一度でも実際に我が身を革命運動の中に置いたことのない者の為にする無益理論でしかない。
運動を持続的長期化させる場合に常に纏いついてくるものは資金問題である。ここに工夫と手当てなしには運動は一歩も進展しない。運動側内で支援金を出し続け支えあうべきだ論も嘘臭い。この論自体は結構だが、この論が第三他者からの支援金を排除しようとするなら、それは有害な潔癖主義でしかない。むしろ、我が社会を批判し変革するにも、我が社会が生命線にしているところの金権を活用する能力を持ってしか運動の成果を生み出せないという矛盾をそのままに踏まえるべきではなかろうか。一つ一つの過去の運動経験を検証し、運動体にとって有益な資金調達と排除すべきそれを識別し、運動の発展のために叡智を尽すべきではなかろうか。
この資金カンパについて、島氏は次のように述べています。
「ブント書記長としての私の仕事の大半はカネ作りであったとさえ云える」。 |
「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」。 |
「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」。 |
「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」。 |
「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。唐牛自身次のように述べている。「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネがなかったですよ」。 |
運動に付き纏うのは、いつもこの現実です。ここをキレイ事云う者が、一体過去において何ほどの運動を創出しえたのだろう。「唐牛問題」での田中清玄の献金は、そのことによってブント運動が捻じ曲げられたのかどうか、ここが眼目であって、献金自体を却下する必要がなく、それを咎める日共見解は悪質な暴論でせう。
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**氏 |
そりゃそうだな。 |
れんだいこ |
付言すれば、金の問題でキレイ事言い過ぎる者には警戒した方が良いですね。裏がどうなっているか分かりはしないと逆に疑ってかかるぐらいで丁度良いように思われます。宮顕―不破は一貫してこの方面で相手を突いて参ります。しかし考えて見ませうよ。金と女の問題で突いていけば大抵の人がやばい訳ですよ。それでいて、宮顕や不破らは攻め一方で自分達が詮索されないような仕掛けで問題にしてきます。そこに大いなる不正があると考えるべきです。
金は私腹を肥やすものでない限り、更に法の枠内であれば、ケ小平的意味ではないのですが文句としては「黒猫でも白猫でも調達してくること自体悪くない」と考えるべきです。でないと大きな闘争なぞ出来はしません。現実に金はあればあるだけ調法という運動圏での公理を獲得すべきでせう。下手な道徳運動に絡められるのは却って良くないと考えております。 |