場面3 ブント結成

 (最新見直し2007.7.17日)

 これより前は「寄り来る革命夢想家達考」に記す。

【反党中央的動きの加速と全学連第11回大会の意義】
れんだいこ  さて、次の話題に急ぎます。いよいよブント結成過程の検証です。翌58年早々より活発に動かれているようにお見受けします。 
 はい。1月の東大細胞総会(細胞キャップ生田)でプロレタリア世界革命をぶち上げ、第1回フラクション研究会、第2回フラクション研究会、2月に第3回フラクション研究会を開いております。3月にも東大細胞総会が開かれておりますが、この頃においてはプロレタリア世界革命の見地が当然とされるようになっていました。
れんだいこ  そして、4.1日に反戦学同が社学同に組織替えすることが決定されていますね。
 はい。「50年党中央分裂」時に国際派系が反戦学同を結成しておりましたが、その後の理論的研究の積み重ねを経て、いつまでも反戦平和で行く訳には参らない。もっとストレートに社会主義の実現を目指して運動をより意識的革命的に発展させるべきであるとの認識に立つようになり、名称を日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、反戦学同を発展的に解消させることを取り決めました。

 この時、活動指針を次のように設定しました。
 概要「平和と民主主義、民主的教育とよりよき学生生活を目指す学生の大衆的政治行動の先頭に立って闘うと共に、それを、より意識的に帝国主義ブルジョアジーの打倒、社会主義の実現を目指す労働者階級の解放闘争に結合させ、多くの学生を社会主義の意識で捉えていかなければならないと確信するに到った」。

 これは、当時の日共が指針させようとする右傾化に対する明確なアンチの立場からの我々の回答でもありました。この左旋回が、宮顕党中央の指示に従う穏和主義グループとの対立を生み出していくことになりました。
れんだいこ  4月の党東大細胞総会も見事ですね。

 この時、宮顕党中央の打ち出した党章草案に対する批判的観点からの議案を採択し、近づきつつある第7回党大会に向けて理論闘争を強化することを宣言しました。その論点は、1.反米帝方向重視の宮顕路線に対する反日帝(独占資本)方向重視、2.党章草案の右翼的偏向に対する社会主義の明確な提起、3.革命の平和移行論や構造改革派の改良主義方向に対する批判、4.官僚主義の助長傾向に対する批判にありました。

 但し、この時点ではあくまで党内闘争の枠の中で原則的な立場から行うものとして枠組みしていました。「無原則な、自由勝手な党内の状況を断じて許しはしないだろう」と表明しているように、フラクション活動の公然宣言までには至っておりません。

れんだいこ  そして、社学同の結成大会へと続く。
 はい。5.25日、国際派にとって名誉ある反戦学同の第4回全国大会を開催し、打ち合わせ通り組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変えました。これが社学同の第1回大会となります。この時の人事で、清水丈夫が書記長になっております。

 
この時社学同は、党中央のゴリ押ししようとする党章草案と明確に対立する現状分析論、革命戦略論を打ち出しております。例えば、「日本独占資本は復活強化した」との評価を前面に出し反独占闘争を強調しております。これは、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する党章草案と決定的に対立しております。
れんだいこ  そういう意味では、当時の全学連主流派の理論能力にはそれなりのものが獲得されており、決して党中央の云うことの鵜呑みではなかった、ということを証左しておりますね。
 漸くれんさんにお褒めいただいたようだな。
ト書き  座の一同ふふふと微笑む。
れんだいこ  さぁこの辺りから事態が急ピッチで動き始めます。全学連第11回大会の模様を実況中継下さいますか。
 おおぃ、代わって説明してくれよ。れんさんの追撃がきつくてしんどいよ。
再来生田  では私が。当時我々は既に、党中央の意向を汲む高野派の連中と抜き差しならない対立に入っていた。いわゆる民青同系高野派は、全学連大会直前に森田実中執の代議員資格問題を持ち出し、執行部からの森田の追い落としにかかろうとしていた。それは砂川闘争以来の対立でもあり、尾を引いていたんだな。

 こういう駆け引きを経て、5.28―31日、全学連第11回大会が開かれた。294名の代議員と評議員、傍聴者など約1000名が集まった。大会は冒頭より激突の場となり、一部小競り合いも起こしつつ怒号と乱闘を現出した。しかし、大会二日目になって高野.小野両オブザーバーを議長職権で退場を命じ、すったもんだの挙句我々主流派が断然勝利した。

 大会は、10回大会以来の闘争を一貫して正しかったと規定し、この執行部の議案は賛成271、反対19、保留1という圧倒的多数の支持を得て可決した。人事で、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、佐野茂樹(京大)、書記長・小野寺正臣(東大)を選出した。社学同派が新執行部30名の全員を独占して民青同派を右翼反対派として閉め出した。つまり、日共党中央に忠実な代議員ことごとくを排除し、革共同も含めた反代々木系だけで指導部を構成したということになる。
れんだいこ  ということは、多少の小競り合いを通してであったけれども、議事妨害等の嫌がらせ戦術を指図した宮顕の思惑通りに事を運ばせず、社学同派が断固としてその策動を封じたということになりますね。いやぁ、立派なことです。

 もっとも、革共同が後押ししていたようですね。次のように述べております。
 「全学連11回大会における平和主義者『高野派』との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。『右をたたいて左によせろ』、これがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった」。

 こうありますので、革共同の支援があったということになるようですね。
ト書き  座の中からふうむと腕を組むものも出る。
れんだいこ  この時の決議内容を知っておくことは、当時の理論水準と傾向を知る上で大事なようですので確認させてください。
 これは私が説明しとこう。学生運動史上の功績として、武井さんの「層としての学生運動論」があった。我々はこれを継承し、新たに先駆性理論を創造付加させた。分かりやすく説明すると、日共理論のように学生運動に特別の意義を見出そうとしない傾向に鋭くアンチの立場を確立した訳であり、学生自治会の強化と全国的統一闘争を勝ち取ることで学生運動の自律的な役割を確認した。

 学生運動は労農運動の付属あるいは下位に立つのではなく、社会運動的に見て独自の有効な役割があるはずだと意義を見出そうとした。当然全学連執行部の責任が重大になるが、我々はその責務を充分に引き受け、社会のどの層よりも先駆的な前衛運動を目指していくことを誓った。学生運動にはそういう能力があると云う確信でもあった。

 先駆性理論とは、学生運動に政治闘争の任務を正面から引き受けさせ、労農同盟の先鋭部隊としての役割を自覚させ、反政府闘争、反帝闘争を率先的にリードする。学生運動が先陣となって、労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する、というものであった。

 この背景にあった認識は前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)と述べてある通りで、当時の事情を読み取っていただければ幸いです。 
れんだいこ  それは素晴らしい。理論というものはそういう風に積み上げられ、揚棄されていくべきだと絶賛したいと思います。付言すれば、れんだいこが高く評価する徳球系も学生運動の位置付けが弱く、「親のスネカジリ的小ブル性はそのままでは役に立たない」的論域を出なかった。但し、個々の能力形成については「闘争経験を積ます」充分な配慮をしていたとは思います。

 ところが、宮顕の指導となるや、「学生の本分は勉強すること」という文部省的タガ嵌めに向かい、「政治闘争は学園内から出てはいけない」式の反動封建的とも言える発想で説教し始めます。島さんらが、そのペテン論理を打ち砕いていった軌跡が心地よいですね。
ト書き  座の一同心なしか胸を膨らませ張り始める。
れんだいこ

 ところで、革共同はこの先駆性理論とも違う転換理論に拠っていたようですね。次のように述べております。

 概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」。

 どちらもよく似てはいますが、ブントはマス的に捉えより感性的行動論的に、革共同は個的により思弁的練磨的に位置づけているという違いが認められるようです。「層としての学生運動論」との絡みで云えば、ブントはもろに吸収し、革共同は必ずしも継承していないということになります。

れんだいこ

 こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及んで、その論の確かさが裏付けられます。但し、その後更に「学生こそ革命の主体論」までエスカレートさせられていくことになります。こうなるといかがなものでせうか。

 ちなみに、宮顕は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して、「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」との批判を強めます。
 我々全学連主流派は、そういう日共理論に対し、次のように評価しました。
 「戦後10年を経て、はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示している」。
れんだいこ  この反論なぞ素晴らしいですね。理論には理論で充分太刀打ちし得ているように思えます。この姿勢が大事ですよね。惜しむらくは、日共理論と言い換えるのではなくあくまで宮顕理論の変調さとして見据えて欲しかったですね。
 ちなみに、この時中国共産党の中国青年報は、「岸反動政府との徹底した対決の方向を打ち出した全学連第11回大会」との見出しで好意的に次のように論評しております。
 「全学連第11回大会が帝国主義者の攻撃の甘い評価に反対し、平和を守るための帝国主義者との徹底した闘いの方向を打ち出し、右翼日和見主義者との闘いにおいて大勝利した」。
れんだいこ  れんだいこが注目するのは、一つの左派理論として見た場合、島さんらが打ち出した方針の方が真っ当なのではなかろかと云う事です。中国共産党が後押ししたから云々という事大主義によってではなく、左派的観点を誠実に積みあげたら、当時島さんらが辿り着いた方向こそ誠実であり、自然であるというように受け止めております。それにしても、宮顕の指導方向の不自然さをみねばならないとも思いますね。
**氏  れんさん、「知的誠実さを積み上げたら我々の論になった」という見方は最高の誉め言葉だよ。
れんだいこ  はい。私はそのように見ております。ところで、この当時の全学連内のグループ情況を整理してくれませんか。
再来生田  合計四派になるな。1・日共系として民青同高野グループがいた。が、この時の全学連第11回大会で執行部からパージされる。新執行部はまず、2・森田グループ。この時全学連委員長になった香山を含む中執のかなりのメンバーがこのグループであった。もう一つは、3・都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループ。次に4・島グループ。新執行部はこの島グループが実質的に支えていた。

 学生運動のメッカ東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあったという意味でも、我々がイニシアチブを握った大会でもある。
れんだいこ  はい。これを穏和系と急進主義系という色分けで見た場合どのように整理できますか。
再来生田  そうさなぁ。後の展開を見ても森田グループは穏和系に属するな。してみれば、高野・森田グループが平和運動的な方向に止まろうとする。島グループが急進主義ないしは革命運動的な方向に向かおうとする。革共同は穏和系の関西派とそれよりは急進主義的な黒寛派がブリッジしていた。つまり、全学連が穏和糸と急進系に次第に二極化されつつあったとも云えるね。
れんだいこ  そうですね。ここを見ておかないとその後の流れが見えてきませんね。

【党中央と学生党員が党本部で衝突「6.1事件」】
れんだいこ  さて、いよいよ全学連主流派が宮顕党中央と決定的な衝突する場面に入ります。「6.1事件」の突発ですが、やはり突発なんでせうね。
再来生田

 起こるべくして起こった成り行きああなった事件だな。

れんだいこ  私が経過を纏めて見ます。全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出します。全学連大会終了の翌日の6.1日、大会に出席した学生党員議員約130名を代々木の党本部に集め全学連大会代議員.学生党員グループ会議を開きます。全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうとした、ということでせうね。そういう思惑で党の幹部出席の上で会議が開かれ、党中央が議長を務めて党中央主導の議事運営をなそうとしますが、ここで激しいブーイングが起こります。

 
この間の党中央の右翼的指導を腹に据えかねていた連中が一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾しました。直前の全学連大会で演じた高野派との闘いの裏に党中央青対の指導が働いていたのは事実でした。こうしたことに対する不満が爆発したというのが実際であったように思われます。党中央は議長を指名しようとしますが、全学連主流派はこれに反発します。この時党を代表して出席していた幹部は、紺野常任幹部会委員、鈴木市蔵大衆運動部長、高原、津島大衆運動部員でしたが、制止する力が無かった。こうして冒頭から大混乱となり殴り合いが発生します。この後のことはSさんお願いします。

 遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加えるという暴力沙汰を起こした。鈴木市蔵大衆運動部長が閉会宣言したが、この措置が全学連主流派をますます怒らせた。自ら議長を選出し、紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進めた。

 そして、次のような決議をする。

 「六全協以後党中央は学生運動に対し、指導を全く放棄してきたのみならず、学生運動の発展を妨害する役割すら果たしてきた。単に学生運動のみならず、労働運動、平和運動に対しても誤った指導をしてきている」。
 「日本革命運動と日本共産党の真の建設を進める上で、現在の党中央委員会はあまりにも無能力であるゆえに、全学連大会代議員グループは、党第7回大会が現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」。
 「全学連内の党中央派を除名する」。

 この間党中央を代表して出席していた紺野常任幹部会員は何らの指導性を発することができなかった。我々は、まともな応酬ができかねない紺野に会議を有効とする文書に署名させた。なお、党本部内の出来事であったにも関わらず、党中央側は誰もやって来ない。最終的にやって来たのは「あかつき印刷」の労働者たちだけだった。

れんだいこ  こうして中央青対が救出される訳ですが、醜態のみ見せることになりました。最後に「学生党員は、全学連中執グループに結集せよ」と叫んで、党本部から退去します。

 これが「6.1日共本部占拠事件又は全学連代々木事件」と云われているものですが、痛快ですね。ちなみに、この時の決議は通称「無能力.不信任決議」と云われておりますが、れんだいこから見てもその通りですからおかしくてなりませんねぇ。
 この時の経過に対して、党中央は、次のように声明した。
 「わたしたちは、多数派の諸君に殴打されて負傷した津島氏(中央学生対策部)を近くの代々木病院に連れていったが、多数派の諸君は診療室にまで乱入して手当を受けている津島氏に暴行を加えようとした。ここに、現在の学生運動におけるゲバルトへの極端な傾斜の萌芽を見ることができる」。
生田J  しかし、そういう事実は無いんだな。
れんだいこ  そういうフレームアップは宮顕らしい手法で、同種事件の際に再三使われます。戦前のリンチ致死事件なぞこういう話法が駆使されています。宮顕を甘く見てはいけませんね。

 
それはともかく、「6.1事件」は前代未聞の不祥事発生であり、かくて全学連指導部の共産党に対する公然たる反乱となりました。この瞬間より、党は全学連に対するヘゲモニーを失ったことになると云えます。れんだいこには、実に能力の高い見事な闘争貫徹であったように見えます。
 そういう評価を受けることは、我々にとって感無量だな。
れんだいこ  さて、これに宮顕が如何に対応したか、見てまいろうと思います。党中央はここに至って、これら学生の説得をあきらめパージしていくことになります。その後の組織固めとして、組織の統制・強化に乗り出していくことになります。

 如何にも宮顕らしい手の込んだ遣り方ですが、鈴木議長の閉会宣言以降の会議を無効とします。その時の声明が次のようなものです。
 「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける反党反革命分子である」。
 概要「一部悪質分子の挑発と反党的思想を粉砕する為にも、それら学生党員の責任を追及していく」。
 党中央は連日アカハタ紙面に、「未曾有の不祥事件」、「一部悪質分子による反党事件」としてキャンペーンを張り、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用し調査・査問・処分に乗り出すことになった。
れんだいこ  ところがこの時、全学連主流派は次のような党中央への恭順文書を差し出しているようです。6.11日、全学連書記局細胞は党中央委員会宛てに「上申書−6.1事件に関する我々の反省と要望」で詫びを入れております。党中央に楯突くと云っても、そういうレベルのものであったということが分かります。

 興味深いことは、この時の文書で、「党中央のアカハタ論文には多くの事実誤認が含まれており、その経過や原因について今後審議するべき点がある」としていることです。れんだいこはこういうところを見逃しません。恐らく、この指摘は事実であり、ということは宮顕の指示した声明の中には、意図的な詐術が多々記されていたということだろうと思います。宮顕はこういうところでは異常なほどプロパガンダ屋になるという特徴があります。案外見逃されがちですが、これはスパイ特有の史実捏造性癖のところであるように思われます。
ト書き  座の一同腕組みする者も出る。
 7.7日、党中央は、「一部学生党員の党規律違反にたいする処分について」とする論文を添えて、事件の首謀者を処分した。58.7.18日アカハタ(第2639号)がこれを報じ、常套的ですが規約に基づく「反党的挑発、規律違反」とする理由を述べた後、香山健一・全学連委員長、中執委・森田実・野矢鉄夫の3名を除名、党員権全面制限1ヵ年として小野寺正臣・土屋源太郎・松田武彦・西信雄・金山秀一・保田幸の6名、党員権全面制限6ヶ月として和田耕造・松川泰弘・手石玲二・千葉一夫・星宮煥生・山村庄一・灰谷慶三の7名、合計13名を党員権制限の厳格処分に付した。その後各地方党機関でも「6.1事件」の関係者を追跡し、年末までに72名処分した。
れんだいこ  この地方末端まで追い詰めていくやり方はとてもではありませんが、むしろ警察的手法そのものですね。皆さんこういうところを案外見逃しますが、れんだいこは宮顕スパイ論に立っておりますので容易に気づきます。
 この処分が却って全学連指導部の学生党員たちの党離れを加速させました。次のように述べている通りです。
 「党のこうした処分攻勢を契機として、全学連指導部は完全に党の統制を離れることを決意し、遂に党と袂を分かつこととなった」。
れんだいこ  紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれております。一見、喧嘩両成敗のようですが、留意すべきことは紺野は徳球系の残存幹部です。ということは、不可避的な「6.1事件」に旧徳球系の残存幹部を交渉に当たらせ、その時の対応の拙劣さを逆手にとって煙たい連中を排除して行ったことになります。宮顕の狡猾さが光っているという風に見ることができますね。
 ふぅぅむ。

【その後の全学連主流派の動き】
れんだいこ  「6.1事件」後の6.5日、全学連は勤評反対闘争に取り組んでおりますね。
再来生田  和歌山県教組、高教組、県庁職組、部落解放同盟、県地評、和歌山大等による「勤評反対共闘闘争会議」が結成され、第一波実力行使闘争に入りますが、全学連はオルグ団を現地に派遣し、現地闘争本部を設営して闘いの先頭に立ちます。
 我々は次のように認識しました。
 「和歌山における勝利は勤評闘争をして守勢から攻勢に転じさせる上での重要な契機をつくるだろう。和歌山における敗北は、全国的な闘いを展開しようとする日教組の後退を導き、敵の弾圧を許し日本民主勢力の後退を誘うであろう」(6.16書記局通信)。

 こういう位置づけで和歌山での勤評反対闘争に取組み、これが日共との決別後の最初の運動となりました。
れんだいこ  続いて、全学連第17回中委で独自の運動を指針化させていますね。
 7.5日、全学連第17回中委が開かれますが、この間の闘争の総括と第4回原水爆禁止世界大会への方針の検討を行いました。この時、日共党中央との組織的対立を不可避として、その後の方向の確認をすることに意義がありました。次のように認識しておりました。
 「開始された前進の巨歩を一歩進めるかあるいは後退してしまうかを決定すべき任務をこの中央委員会に委ねている」。

 こうして、全学連主流派は並々ならぬ決意で全学連第17回中委を開催しました。濃密の議論を重ねて独自の運動を指針化させました。宮顕運動に対しては次のように認識を一致させました。
 「政治スローガンをぼかし、幅広い統一戦線の名のもとに、運動それ自体を堕落させてしまう思想傾向が運動の阻害要因である」。

 そういう意思統一する重要な会議となりました。
れんだいこ  さてそれから日共第7回党大会へと続きます。7.23日、日共第7回党大会が開かれました。51年綱領の廃止を決議しましたが、新綱領については党内の反対が強く次の大会まで棚上げになりました。宮顕は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」(宮本顕治談話―1991.9.26日付け赤旗)と豪語しておりますが、実際には、最大懸案であった綱領路線が決着がつかず持ち越されました。つまり、宮顕談話はウソです。
 この論争を分析しますと、宮顕派は、「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論を媒介させての民族独立民主主義革命を優先させての二段階革命論」を主張します。これに対し、春日(庄)派は、「日本独占資本のみ=一つの敵論」を媒介させての直接社会主義を目指す一段階革命論を主張します。

 我々の見解は春日(庄)派に近いのですが、春日(庄)派はその為の実践を構造改革論に導こうとします。我々は、それはとても受け入れることの出来ない社民運動でしかないと見立てました。
れんだいこ  この時の論争をれんだいこ風にまとめれば、かなり遅れたステロタイプな論争でしかありませんでしたね。宮顕派、春日(庄)派の本質は穏和系にあるのですが、その事を隠そうとして時に「左」の見地に立ち、結論はいつでも「右」に帰着する。互いが相手の右の面を左から攻撃しているが、共に戻るところは右路線という風になっておりますね。ということは、理論闘争は付け足しで、真意はイニシアチブの争奪戦にあったとみなして良いように思われます。ここでは論争の中については省きますが、そういう類の論争であった、と見なすことが出来るように思われます。
座の一同  異議ナァッシィ。
 日共第7回党大会は、政治報告で学生運動に対して次のように述べています。
 概要「学生運動は全学連を中心に平和、独立、民主主義を目指す人民の闘争の中で次第に重要な役割を果たしている。同時に、学生の生活経験の浅いことからおこりがちな公式主義、一面性と独断、せっかちで持続性に乏しいという弱点を克服し、一層広範な学生を統一行動に組織するように指導しなければならない」。

 要するに、全学連の左傾路線に苛立ちを表明しているということです。
れんだいこ  「学生の生活経験の浅いことからおこりがちな公式主義、一面性と独断、せっかちで持続性に乏しいという弱点」という言い回しは、宮顕論理の特徴ですね。本人は革命家として少しも実績が無いのに、相手に対してはこれほど偉そうに平然と言い放つ。れんだいこにはとても気持ち悪いところです。

 第7回党大会には、私と生田らが全学連党代議員として参加しました。私が憤りを覚えたのは大会運営の遣り方でした。代議員は大会期間中、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断されました。

れんだいこ  宮顕派は、徳球時代を家父長的と批判しておりますが、徳球時代にはあり得なかったひどいやり方ですよね!
 次から次へと満場一致で宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、私と生田は却って党との決別を深く決意させました。「生田夫妻追悼記念文集」で次のように述べている通りです。
 「十年ぶりに開かれたこの大会が破廉恥な党官僚の居直りによって終わった時、そして、党内反対派が『党革新』の第一歩と幻想を抱いている時、六全協以来続いた党の混乱は終息した。この党の革命的再生はありえないことを確認し合い、その翌日、この党との決別を決意したのだ。決別は同時に私達の手による、革命的前衛の結成へ向かうことでもある」。

【全国フラクションの結成へと向かう】
 党大会終了の翌々日の8.1日、私は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員グループの主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案しました。
再来生田  星宮生は次のように証言している。
 「日共第7回大会以後、島の動きは活発になり、活動も明確に新党へと流れていった」。
ト書き  座の一堂興奮してくる。
れんだいこ  丁度この頃革共同が内部分裂を起こしていますね。歴史は立て合うところがありますが、まさに地で行くような動きを見せております。
**氏  革共同の党内闘争はお家芸やな。もっとも60年安保後のブントも感染したわな、はっはっはっ。
ト書き  座の中より失笑が漏れる。
れんだいこ  革共同の第一次分裂を確認しようとすると長くなりますのでざっとスケッチしてみます。この分裂で、結成時の有力メンバーであった太田竜派が離れることになります。要するに、トロツキー評価と第4インターとの関係の取り方を廻っての論争で、太田竜派がいわゆる純トロ教条主義的な対応を執った。ソ連の規定を廻っても対立した。太田竜派は、パブロ修正主義と呼ばれる理論を尊重し、ソ連を労働者国家と見なした上で、「反帝国主義、ソ連労働者国家無条件擁護」の戦略を採ります。その結果、後にソ連の原水爆実験が行われたときにはこれを無条件に擁護することとなります。

 これに対し反太田竜派の黒寛派は、「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐってことごとく対立し始めます。ソ連に対しても「反帝国主義、スターリニスト官僚(政府)打倒」の戦略を採ります。これが後に反帝.反スターリン主義へと純化していくことになります。ソ連核実験の際には反対という立場に立ちます。

 こうなると、これだけ食い違いを見せる両派の同居は出来ません。やがて党内紛争となり、これが原因で革共同第一次分裂へと向かうこととなります。分裂後、黒寛派が中央書記局を掌握することとなります。ただし、2ヵ月後の9月になると、黒寛は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられていきます。少々複雑怪奇な動きを見せております。
**氏  革共同のことはよう分からんなぁ。
 その後全学連は、8月から9月にかけて勤評闘争に全力で取り組みました。9.15日、勤評粉砕第一波全国総決起集会に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモしております。

 この後全学連主流派に結集する学生党員はフラクションを結集し、全国的組織化を進めていくことになりました。9月頃、機関紙プロレタリヤ通信を発刊して第1号は山口一理、第2号は久慈二郎、3.4.5号は島成郎、第6号は姫岡怜治が執筆しました。我々全学連主流派は、この時点で明確に日共内における党内闘争に見切りをつけたということでもあります。

 この動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していきました。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田・香山を中央人事からはずせと主張してきており、そうした革共同の影響も受けつつ、我々は独自の運動の創造を目指していきました。
れんだいこ  ここから全学連第12回臨時大会へと向かいますね。

 「6.1事件」で処分された学生党員らが結集した。凡そ20名程度ですが、このケルンが中心になって9.4日、全学連第12回臨時大会を開いた。代議員、評議員、オブザーバー450名が参加しました。全学連執行部(全学連主流派)は、反代々木系を一層明確にさせ、『学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動』を目指します。

 次のように意思一致させ、左旋廻を高らかに宣言しました。

 「全人民、そして日本プロレタリアートの運動の視点にはっきり立ったことにおいて画期的前進を遂げた」。
 「かかる右翼日和見主義が、現実の闘争の過程で理論的にも実践的にも完全に破産したことが、圧倒的多数の代議員によって確認された」。
 「日本独占資本との対決を明確に宣言する」。
れんだいこ

 宮顕党中央の右翼日和見主義的な党章草案(綱領路線)との訣別を理論的にも鮮明にしたということですね。ここに日共は、48年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなりました。

 この大会で、先の第11回大会での路線をより明確に定めました。次のように述べて勤評闘争を階級決戦として位置付けました。

 「平和擁護運動ではなく、戦争の根源である帝国主義を打倒することである。このためにはブロレタリアートの断固たる決起を促さなければならない」。
 「その中でただ一つ徹底的に闘いつつある日教組の勤評闘争を激発させ、ここに革命の突破口を開かねばならない」。

 日共のくびきから解き放たれた我々は、「非妥協的大衆阻止闘争、実力闘争が基本である」、「闘いが激化し泥沼の様相を帯びることを恐れてはならない」、「クラスから他クラスへ、一校から全市へ、全県へ、全国へ闘いをひろげよ」、「試験ボイコット、無期限ストライキによって闘いを続行させよ」云々とアジり抜くことになりました。そこには重石の取れた爽快さがありました。

れんだいこ  革命に恋している感じですね。

【警職法闘争】
れんだいこ  こうして全学連主流派が左旋回した時に、格好の政治テーマとして警職法闘争が始まりますね。
 10.4日、警職法改正法案が突如発表され、10.7日、国会に上程された。改正案は、現場警察官の判断次第で、国民の身柄の拘束や身体検査、住居立ち入りが認められるように条文されていた。それは、戦後憲法が保障していた集会、結社、表現、通信、労働者の団結権、団体交渉権その他の権利等々、国民の基本的人権を大幅に狭めるものであった。

 これを受けて、共産党、社会党、総評などの諸団体が一斉に反対闘争に立ち上がり、「こわい警察はごめんだ」、「オイコラ警察復活反対」が合言葉になった。この時、社会党・総評など65団体による警職法改悪反対国民会議が生まれ、全国40近い府県で共闘組織が結成された。
 我々全学連はたちまち呼応し、勤評反対闘争と並んで10−11闘争の最重要課題と位置付け、非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛けました。「ためらうことなくストライキに!国会への波状的大動員を、東京地評はゼネストを決定す、事態は一刻の猶予も許さない、主力を警職法阻止に集中せよ」と檄を飛ばしました。全学連も警職法改悪反対国民会議のメンバーに入りました。
れんだいこ  留意すべきは、社会党は左右両派の混合世帯ですが、この時点では全学連の闘いを評価していたことでせうね。全学連を警職法改悪反対国民会議のメンバーに入れるのは社会党のイニシアチブが強いときです。日共の影響が強まるにつれて全学連がパージされるようになります。

 これは宮顕の行くところどこにでも発生する左叩き現象ですね。既にこの時も、学生運動は、全学連主流派の指揮と日共党中央の指揮という二元化指導にされていました、以降、学生運動内にこの二元化が常態となりますね。
 10.9日、岸首相はアメリカの新聞記者に次のように語っています。
 「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」。

 この発言が火に油を注ぎましたね。
再来生田  10.28日、警職法阻止全国学生総決起集会に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモりました。11.4日、政府自民党は会期を延長して警職法の通過を狙いますが、翌11.5日、警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、450万人の労働者学生が決起します。全学連主流派4000名が国会前に座り込み、1万余の学生と、労働者が国会を包囲しました。
れんだいこ  この時の国会座り込み包囲闘争がその後のはしりになったのでせうか。眼の付け所が良かったように思います。
再来生田  11.5日、自民党は会期延長を強行し、警職法法案の成立を図ろうとしてきた。全学連はこれに抗議し、5000名が国会議事堂チャベル・センター前にも座り込み、労働者が後方から国会議事堂を包囲するようにして連なった。この歴史的闘争が岸内閣に危機感を深めさせ、この驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、岸内閣は1ヶ月後の11.22日に法案採決強行を断念します。遂に審議未了の廃案にさせました。
れんだいこ  これが島系全学連左派運動の端緒的勝利を記念しているように思えます。この闘争過程は、この時の経験が以降「『国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点でも大きな意味を持つことになりましたね。
 この時の宮顕党中央の変調は露骨なものでした。警職法提出の10.7日、社会党、総評、全学連らがこぞって反対声明を発し戦いの態勢を整えているそのときに「アカハタの滞納金の一掃」を訴え、一日遅れて漸く声明を出すという馬鹿馬鹿しさです。

 私は、次のように指摘し、日共を批判しました。
 「反動勢力が全学連の指導する学生運動の革命的影響が勤評闘争.研修会ボイコット闘争などにおいて労働者階級に波及するのを恐れて、この攻撃に集中しているその最中、全労、新産別らのブルジョアジーの手先の部分の攻撃と期を一にするかの如く、代々木の中央は、『全学連退治』に乗り出し、この革命的部分を敵に売り渡すのに一役買っている」。
 「何時も後からのこのこついて来て、『諸君の闘争を支持する』とか弱くく叫ぶだけだ」。
 概要「戦いの高揚期にきまって、『一部のセクト的動機がある』だの、『闘争を分裂させるものであって強化するものではない』などといい、全労.新産別らの自民党の手先に呼応している」。
れんだいこ  この時の日共の全学連に対する敵対は許しがたいものがありますね。

 日共は、この頃より全学連指導部を跳ね上がりのトロツキストと罵倒していくことになった。10.21日、「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表して、一連の学生党員の動きと思想を批判しています。

 この頃次のような説教を聞かせてくれました。

 「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。

 11.3日には、アカハタに「学生運動にもぐりこんだ挑発者と闘え」を発表しています。 

生田J  この論文で批判されていた法政大学第一細胞は、次のような見解を表明している。
 「殊に、日本共産党が1950年の分派闘争以来、常に反対派を抹殺し、組織的に排除される為に使われてきたトロツキストという言葉が、我々に対しても又も投げつけられていることには驚きと悲しみ以外の感情を以って対することしか出来ない」。
 「日本共産党に徴して見る限り、トロツキストなる言葉が使われた場合、その言葉を投げかけた側がその相手と意見を異にしており、そして相手を憎悪しており、その相手を組織的に排除せんとしているということを意味する以外の何物でもなく、1905年、1917年ロシア第一.第二革命の際にペテログラード.ソビエト議長として革命を闘い、10年後には追放されたレオン.トロツキーの思想とは何ら関係なく使用されているようである」。
れんだいこ  れんだいこには、聞くだに嫌らしい宮顕話法であることが分かります。己を超然とした高みに置いての品の無い論法です。党内に自分の好みの運動しか許さず、排除排除で統制しようとする。相手を「一面的な判断」呼ばわりするからには、己が「全面的な判断」を為し得る者である事を立証せねばならないでせう。宮顕の観点のどこにそのような革命家然としたものがあるでせう。

 「善意な大衆」という物言いも何なんでせうね。れんだいこには、そういう言い方でのエリート臭が嫌らしく鼻持ちなりませんね。結局、「善意な大衆」という時、一見大衆を擁護しているようで実は馬鹿にしているんですよね。

【全学連主流派が着々と伸張する】
れんだいこ  この頃、早大でも全学連主流派が堂々たる議論展開で勝利的に伸張していますね。
生田J  秋頃、早大で高野秀夫派との抗争で、反高野統一戦線が組まれ、小泉修吉―片山*夫(佐久間元)ラインが多数派となります。革共同全国委系本多派との連携であった。但し、その後は複雑な抗争史を刻んでいくことになる。
れんだいこ  金田路世・東京女子大学友会副会長は次のように述べております。
 「当時の日本共産党は、戦後革命敗北の責任を取ろうとせず、若者から見て権威失墜していた」。
 「56年入学から60年までの時期は、日和見主義的・権威主義的なスターリン主義ではなく、本当のマルクス主義があるはずだ、という大激論の時代でした」。

 この雰囲気でブント結成へと向かうことになります。

【ブント結成】
れんだいこ  さて、いよいよ共産主義者同盟=ブントの結成大会が開かれます。
生田J  12.10日、全学連主流派のフラク・メンバー約45名が中心になって日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)の結成を勝ち取りました。次のように宣言しました。
 概要「(日共流の)組織の前に綱領を!行動の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばならぬ」(「新左翼20年史」)。

 かく宣言し、新左翼党派結成を目指すことになりました。この時、学生組織として社会主義学生同盟(社学同)の結成も確認されました。
 古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、私・島成郎(東大医学部3年生・共産党東京都委員)がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島・森田・古賀・片山・青木の5名が選出されました。私は、この後続いて開かれた全学連第13回大会で学連指導部から退き、ブントの組織創成に専念することになりました。

 こうして、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして出航しました。帰り波止場を持たない片道切符でしたね。既に心が離れていたとはいえ日共学生党員細胞でいた者たちに党からの分離と、今後はブントへ結集していくよう強く訴えていくことになりました。

 この時結集した人たちは、門松暁鐘、富岡倍雄、山口一理、青木昌彦(姫岡玲治)、佐久間元、常木守、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らが居ります。北海道からも灰谷・唐牛ら5名が参加しています。関西から参加したのは奈良女子大だけでした。関西は革共同派の影響が強く、京大が少々もたついていました。
れんだいこ  ここに、先行した純トロツキスト系革共同と並んで、準トロツキスト系ブントという反日共系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになりました。この流れが新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流ですね。この両純・準トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していましたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことにもなります。
**氏  れんさんの纏め方はいつもユニークで分かり易いな、感心するよ。
れんだいこ  はっ有難うございます。この種の話が根っから好きなんですね。それはともかく、ここに生田浩二(東大経済学部4年生・共産党文京地区委員でもあった)さんの名前が出てきませんね。
再来生田  私はあいにく療養中でした。まもなく戦線に復帰事務局長に就きます。
れんだいこ  ブントは島書記長−生田事務局長指導部の下で担われていくことになります。このことの意味するものは重大なように思われます。通説としてブントはかっての国際派系譜で誕生したと見なされて居りますが、数の問題ではそうであっても執行部という質の面においてはそういう見方は正確ではないということになるのではないでせうか。

 生田さんは所感派の流れを汲むバリバリの党組織派学生党員であり、元東大自治会中央委議長でありました。その生田を裏方として表に島が立ち、その他有能闘士が取り巻きうごめいていたように見えます。してみればブントとは、所感派と国際派の急進主義部分のエッセンスが結合して誕生したとみなさねばならないのではないでせうか。なお、いかにもブント的ですが、この時革共同メンバーも参加していますね。
**氏  そんじょそこらの評論家の本より的確リアルだな、感心感心。
れんだいこ  有難うございます。これについて、1970年刊の「日本共産党史<私の証言>」で、島さんが次のように述べておられますね。
 「むしろ、所感派のゴリゴリだった奴が中心になったという感じですね。森田にしても、死んだ生田にしても、所感派だったわけですからね。それに50年分裂を知っている六全協後の全学連の活動家と言うのは僕ぐらいまでです」。

 ところが、
1971.1.29日付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」では、「ブントは、旧国際派系の急進主義的活動家を中心として結成された」という風に語られております。れんだいこは史実に合わないと思っております。仮に「数の問題ではそうであっても執行部の質という面においては、そういう見方は正確ではない」とすべきではないでせうか。むしろ、「国際派(島)と所感派(生田)の見事な結合として結成された」とみなすべきではないでせうか。

 れんだいこは、微妙なところではありますがこういうところの史実歪曲、偽造については、それは善意のものであれ許し難いように思います。決して良いことにはならない。日共の偽造は常態ですのでいちいち批判してたら限がないのですが、これを批判するブントの関係者からの偽造は厳に戒めねばならない、そう考えております。

 れんだいこ的には、「時の急進主義学生のうちもっとも早熟な部分が革共同に向かい、向かわなかったというか取り残された急進主義派がブント結成へ向かった。この頃既に国際派、所感派という対立は引きずっておらず、この時代における急進主義派学生が自前で結成した金字塔的党派がブントである」とみなしております。
**氏  島―生田さんたちの50年組世代には国際派、所感派の区別はあっても、55年以降の組のものにあってはそういうものは問われなかった。日共の右傾化に抗するグループとして新しい大同団結が始まっていたということになるな。
れんだいこ  なるほど。

【ブントの名前の由来】
れんだいこ  さてそれでは、ブントという名前の由来についてもコメントしておきませうか。
 我々がブントという名を付けたのはそう深い意味がある訳ではない。ブント(BUNT)とは ドイツ語で同盟の意味であるが、日共の党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められていた。それに決別する強い意志が込められていたとは云える。
 ちなみに、歴史的な意味でのブント(=BUND)とは、共産主義者同盟(=Bund der Kommunisten)の略称、通称であり、非公然の国際的な労働者組織(革命政党)の名称であった。1847年(弘化4年)から1852年(嘉永5年)まで続いた共産主義者の最初の組織で、その濫觴(もののはじまり)は、1834年(天保5年)パリに亡命していたドイツ人亡命者がつくった追放者同盟である。1847年(弘化4年)には科学的社会主義を受け入れ、同年夏、ロンドンで開かれた『義人同盟』の大会で『共産主義者同盟』と改称する。ここにブントの由来がある。

 この時、「(共産主義者の目的は)既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できる」と宣言されており、「支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ!万国のプロレタリア団結せよ!」の呼び掛けで結ばれています。有名な「共産党宣言」は、このブントの綱領であり、1848年(嘉永元年)マルクスとエンゲルスが起草したものである。つまり、ブントはこの原点に立ち返ろうとの思いが込められていたということになる。
 私はかって1971.1.29付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」で次のように述べております。
 概要「共産同(ブント)」と名乗ったことについてあまりたいした意味はないが、まだ当時、綱領、規約もなく、党という感じではなく、それかといって名がないのも困るので捜したら、エンゲルスの共産同というのがあり、これが一番よさそうだということで決めた」。

 まっ、そういういうことだな。
れんだいこ  了解です。ところで、れんだいこは、ブント結成の左派運動史的位置付けは余程重要と考えておりますので、いろんな角度から意義付けて見ようと思います。遠近法でズームアップさせて見ると次のように云えるかと思われます。

 日本左派運動史上におけるブント結成の意義を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、もはや党の直接指導を拒否し自律的な新左翼運動(主として学生運動)を立ち上げ、担おうとした気概から生まれたのではないでせうか。

 理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えて参ります。もっとも、その後の結果として、認識の仕方と行動的手法において食い違いが発生し、以降際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくことになりますが、島書記長の時代は不思議とこれを表面化させなかった、ということになるようです。

 ブント発生を近視的に見れば、六全協とその後の「50年問題について」の総括後の日共運動が宮顕式路線に純化しつつあった時期に当たっており、この流れに対する強い反発にあった様が伺えます。宮顕式路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押 し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」として止むを得ないものがあった。これを、島さんらがブントの結成へと流し込んで行ったという経過があるように思われます。このセンテンスからすれば、元来日共とブントは近い関係にあり、 ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と云えるように思われます。

 ブント発生を接視的に見れば、革共同との競り合いが見えてまいります。革共同は、六全協、ソ連共産党のスターリン批判、平和共存政策の打ち出し、ポーランド.ハンガリー動乱等を通じて逸早く日共スターリニズム運動に見切りをつけた俊英たちの先進的運動でした。全学連内への組織的浸透が進む中で、日共に愛想を尽かし、かといって革共同にも向かわなかった学生党員達が志向したのがブントであった。島―生田ラインの当時の東大細胞と早大細胞が指導部を構成しながら作り出したのがブントでせう。

 つまり、党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因として、先行する革共同系の動きがあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。してみれば、ブントには、なぜ革共同に向かわなかったのか、革共同にはなぜブントを吸収し得なかったのか、どちらにも理論的切開の義務があるように思われます。近くて遠い革共同とブントが織り成す絵巻物には一考の余地が大いにあると考えております。
ト書き  座の中から「近くて遠いとは、云いえて妙だな」のつぶやきが聞こえてくる。
れんだいこ  ところが、ブント創設に対して執った宮顕党中央の態度がひどいですね。何ら吟味も無くトロツキスト批判で中傷罵倒し続けております。自らの右翼偏向路線と反動的な党運営が絡んで生み出したとの内省はこれっぽっちもありません。トロツキズム批判するならするで、革共同とブントの差を踏まえるべきでせうが、それもありません。十派一からげ批判に終始します。
**氏  「スターリストとはそういうものよ」。
れんだいこ  申し訳ありませんが、そこが違うんだと云いたいんですけどね。宮顕の胡散臭さをスターリズム一般論に解消して批判していってはいけない。それはむしろ宮顕の狡猾さを見失ってしまうという観点を持っております。とはいえ、これを議論し始めると話が拡散しますのでここでは問いません。

【ブントと革共同の違いについて】
れんだいこ  ところで島さん。これをどうしても確かめたかったのですけれど、ブントと革共同の溝はどの辺りにあったのですか。ブントのトロツキスト自認ぶりについて生田さんは次のように述べておられますね。
 「私はトロツキストではないが、トロツキーをスターリン主義との闘いの最先端と捉え返すならば、トロツキストと呼ばれることを誇りに思う」(「60年安保とブントを読む」大瀬振氏の証言)。

 つまり、「スターリン主義との闘いの最先端」としてトロツキーから学び、論を継承する姿勢が見えてまいりますが、そうしたブントと革共同の理論の一致と不一致を明らかにしておく必要があるように思います。
 そうですね、いろんな理由がありました。これを理論的に述べることも出来るし、気質的体質的なものに因を求めることも出来ます。
れんだいこ  いかようにもご説明願えますか。
 れんさんらしい直接話法だな。それでは説明させてもらおう。我々は革共同の功績を軽んじるつもりは毛頭ない。それが証拠に事情の許す限り共闘してきたし、人的交流も制限しなかった。互いに切磋琢磨する良き関係で有りたいというスタンスを執った。革共同理論から学ぶものは学んだが、即座に結論が違うと感じた。道中の理論展開は良い。そこから帰納する結論に対して我々は違和感を持った。それが革共同に移行し得なかった理由である。

 これを説明するのに例えば次の諸点が有った。対立の第一点は、トロツキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロツキー及び第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対しブントは、第4インターにそれほどの価値を認めなかった。「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」と感じた。なぜなら、第4インター設立後相当の年月を経ているにも関わらず影響力を行使できるところまで至っていない。それは、スターリニズム批判にかまけて自身の刃が磨かれていない、そういう面もあるのではないかと考えたからでした。

 第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は、反帝・反スタ主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」によるソ同盟の防衛に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・ 軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」 とした。付言すれば、こうしたブントの政治理論が革共同に影響を与え、反帝・反スタ理論を生み出していくこととなったようにも思えますね。 
れんだいこ  なるほど。
 第三に、革共同の加入戦術を私は嫌悪しました。加入戦術とは、自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おうというものですが、私はそういう運動の進め方をスケベ根性とみなし、自力で血路を切り開くことを好みました。「既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創る」、ここに意義を見いだしていました。

 第四に、日共党中央に対しても民青同に対しても革共同に対しても論を堂々と対置させ、議論を求めていきました。その点で、革共同のやり方は公開的でなく、運動の進め方もセクト主義でした。その他革共同の労働運動至上論に対する反発もありました。
生田J  古賀がうまいこと云っているな。次のように当時を回想している。
 「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」。

 案外とこういう気質面の差が大きな役割を占めているのかも知れぬな。
れんだいこ  ブント結成時には革共同の混入を許しておりましたが、次第にそうした意見の相違を見て、「翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた」となるようですね。

【ブント主義とは】
れんだいこ

 ブントには独特の理論と感性というものがあったように思われます。その要因は、指導者としての島氏の「稀に見る政治思想家としての運動感覚」(常木守)、「学生運動の大衆的な展開を大胆に展開することに賭けるという、島君の大らかな資質」(武井昭夫)の影響であったように思えます。「全世界の獲得」を宣言した呼びかけは、青年期の何ものをにも怖じない自負心と気宇壮大さを感じさせますね。

生田J  島は常々「金平糖理論」を吹聴した。常木守が、「60年安保とブントを読む」の「不可視の核 私にとっての島成郎とブント」の中で次のように述べている。
 「『金平糖ってどうやってできるか、おめえ知っているか』ある時、島が云った。『薄い砂糖水の中にけしの実を入れて、砂糖(それと小麦粉だったか?)を注ぎ込みながら掻き回していると、砂糖の濃度があるレベルまで高まった瞬間に、それがけしの実の回りにバッと結晶するんだ』。

 彼は手真似で、砂糖水を入れた瓶を揺さぶり、砂糖を入れる手つきをしながら『バッと結晶するんだ』と愉快そうに大声で笑いながらいった。『バッとだよ。バッと』その笑いにはいつも島独特の魅力があった。『状況が大きく動くとき、その状況の核心をつかむことさえできたら、必ずその状況の中にある一番優れた要素がそこに引き寄せられ、集まってくる。(私注・もちろんガラクタも一緒にだがという文脈の中での語だった)」。
れんだいこ  島指導の受け取りようは各人様々ですが、他の方のそれを聞かせてくださいますか。
生田J  清水丈夫は次のように述べている。
 「政治闘争というものは、それが真剣勝負である以上、恐るべき困難や危機が絶えず立ち現れるのは当然だし、その中で逆風に逆らってギリギリのところで勝ち抜き、生き抜く―そういうものだ、ということを島さんから実地に叩き込まれたと思っています」。

 常木守は、次のように述べ、特筆されると云っている。
 「ブントはスターリニズムのくびきから身を解き放ち、100年を超える国際共産主義運動の原点に戻って突き出した『共産主義世界革命』の理念の復活をめがけて闘った」。

 林紘義は次のように述べている。
 概要「当時、共産党を見捨て、新しい前衛党としてのブントに結集した我々は、国際共産主義運動における、世界の労働者の解放闘争における、ブントの意義と役割を完全に自覚し、意気軒昂たるものがあった。我々にとっては、労働者の階級的運動こそ救いであり、しかもその運動は共産党によって、スターリン主義によって、世界中で数十年間にもわたって『堕落』させられ、解体させられてきたのだ。その結果として、世界の労働者の闘いは衰退と停滞を余儀なくされ、ファシズムなどに『敗北』し続けてきたのだが、しかしブントこそ、その限界を打ち破り、新しい運動の道を切り開いていくべき役割と運命を担って、世界に先駆けて、この日本に誕生したのであった」
れんだいこ  以上は「正」の面からの評価ですが、もう一つ「裏」の面もあるように思います。
生田J  佐藤粂吉は次のように指摘している。
 「『マルクスを捨ててマルクスに生きる』これが、ブント後の島の精神を貫いた一本の太い線である。『マルクスを捨ててマルクスに生きる』とは、『マルクスを求めずマルクスの求めたところを求める』ことであり、もっと平たく言えば『マルクスと決別し、歴史の大道に就く』ことを意味する。ブント前の島にとって、マルクスを生きることがすなわち歴史の大道を生きる事であった。それゆえに、島は何人にも劣らぬ誠実さにおいてマルクスを生きたのである。しかしある瞬間、マルクスを生きることが歴史の大道を生きることではないことを自覚した。その転回点こそブント第5回大会である」。
れんだいこ  そういうブント理論と精神が、当時の日共理論のことごとくと鋭角的に対立していましたね。
 ブント−社学同理論は次のように要約できる。
 日本共産党はもはや日本の革命運動を担う能力が無いと断じたこと。これに代わる『労働者階級の新しい真の前衛組織』の創出としてブントを受け皿にしたこと。こういう観点から、学生運動を労働運動との先駆的同盟軍として位置づけ、何を為すべきかを明示したこと。革共同理論から使えるところは遠慮なく取り込んでいたこと等々に特質がありました。
社会主義革命路線  日共の『民族解放民主革命の理論』(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段階革命論)に基づく右傾路線に対して、明確に一段階式(直接)社会主義革命路線を掲げていたこと。
反帝・反スタ路線  代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ、『全世界を獲得せよ』と宣言していたこと。共産主義世界革命へ向けての国際的なプロレタリアート運動の組織化へ向けての新前衛党創りを指針させていたこと。
日帝打倒  『日共の党章草案に見られたナショナリズム的な反米独立運動に対するアンチ、日本帝国主義との正面からの闘い。
世界永続革命路線  一国社会主義に対するアンチとして国際主義と世界永続革命。
レーニン主義  議会主義にはプロレタリア独裁、平和革命には暴力革命、スターリン主義にはレーニン主義の復権。
 という風に論を対置していました。
れんだいこ   ブントのこの時の理論的創造は、かなり質が高いものがありますね。そのままでは使えないまでも、今日でも通用しているというか、ますます価値を持っているように思えますね。
**氏  この明確にして分かりやすいのがブント理論の特徴だったな。
ト書き  座の中から「異議ナシ」の声あり。
れんだいこ  そういう理論と共に感性的なものにも特質が見られます。
生田J  ブントは労働者階級が担うべき闘争を学生運動に代行させようとしていた。それを支えるイズムがブント主義と云われるものであり、「先駆性理論」、「捨て石運動論」、「革命的敗北主義」、いみじくも社青同解放派が名づけた「一点突破全面展開論」等々の運動組織論であった。

 佐伯秀光が次のように述べている。
 「島は安保闘争から40年後に行った講演の中で、ブントの旗揚げに際して、基本的な考え方としたのが次の三点であったと要約しています。第一に、あらゆる権威にとらわれないこと。第二に、開かれた組織が良いこと。第三に、革命は世界革命だということ」。

 これらの特徴を総称して「ブント主義」と云われます。

 蔵田計成は次のように述べている。
 「『ブント主義』とは、『革命求心主義』であり、革命への限りなき情念である。その情念を支え、政治的実践に根拠と合目的性を与えたのが、ブント理論であった。その理論たるや様々あった。政治学、経済学、社会学、哲学などから演繹される革命綱領、革命思想をはじめ、戦略目標、戦術目的、スローガンなど、革命テーゼやテーゼ化された革命理論、思想、行動への指針や動因力となるべき様々な理論であった」。
れんだいこ  こうしてブントの旗の下へ若き有能人士が続々と参集してくることになりました。
生田J  常木守が次のように述べている。
 「日本共産党内での党内闘争の中から、東大細胞を中心とする学生党員の反乱によって生まれた。党中央との公然たる対決に進んでいった」。
 概要「当時都下最強と云われた日本共産党港地区委員会のほとんどの中核メンバーが、一人一人ブントへの加入に踏み切った。ヨッちゃんこと全電通の高橋良彦もその一人」。
 「相互に驚き呆(あき)れながら異質な感性を接触させ、その交錯によって成立していた運動体でもあった」。
 「一種の白熱した坩堝だった」。

【社労党の観点考】
れんだいこ  ブント結成の検証は案外と為されておりません。社労党の町田勝氏が機関紙「海つばめ」第783号で述べている次の一文はそういう意味で非常に参考になります。これを紹介させていただきます(一部文の順序を差し替えております)。
町田勝氏
 これ(ブント結成)に先立つ三年前の1955.7月、日本共産党は六全協で分裂状態に終止符を打ち、組織の統一を回復した。しかし、旧主流派・所感派と新主流派・国際派との野合による党中央指導部のその後の動きは党の革命的再生をめざす誠実な党員たちの期待を全く踏みにじるものであった。

  翌56年のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフによるスターリン批判、またこれを契機にしたポーランド、ハンガリーにおけるスターリニスト共産党の支配に反対する民衆の決起は、日本のスターリニストたちにも自分たちの思想と理論、組織と運動に根底からの深刻な総括と反省を迫るものであった。しかし、宮本顕治らは何一つ真剣に自己切開のメスを加えようとはしなかった。

 それどころか彼らは、ハンガリー民衆の蜂起を帝国主義の陰謀とののしり、ソ連の戦車による反乱鎮圧を『プロレタリア国際主義の現れ』と賛美するとともに、スターリン批判を『個人崇拝』や『家父長的指導』などに矮小化し、これらはすでに自分たちにとっては六全協で一足先に解決済みと居直り、あまつさえ党内問題を党外に持ち出したハンガリー党の無規律が帝国主義者の反革命的介入を許す一因となったとの口実の下に党内の官僚的統制の一層の強化に乗り出す始末であった。

 そして、翌57.9月に発表された『党章草案』は『51年綱領』を手直ししたに過ぎない『対米従属』論と『二段階革命』論のドグマに基づく『民族民主革命』という典型的なスターリニズムの民族主義的綱領であった。

 こうした中で、俄然、スターリン批判やハンガリー事件、新綱領路線をめぐって激しい論争が巻き起こった。党中央批判の一方の火の手は構造改革派からあげられ、他方ではこれとは全く別の観点から東大などの学生細胞に所属する党員たちからあげられた。

 58.1月、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』の山口一理論文でのろしをあげた学生党員たちは、5月には反戦学生同盟を社会主義学生同盟(社学同)に改称、続く全学連第11回大会では党中央派を押し切って主導権を確立、大会翌日に党本部で開かれた全学連大会党員グループ会議では『第7回大会では、現在の党中央委員会を不信任するよう要求する』との決議を採択した(六・一事件)。一方、これに対して、宮本らは卑劣にも大量の除名処分をもって答えた。

 ここに至って、学生党員らは公然たる分派闘争と新組織結成への動きを強めていく。9月には機関紙『プロレタリア通信』が創刊され、その第1号は現在の共産主義者の任務は『何よりも革命的前衛党のための粘りづよい努力を展開すること』にあると宣言した。そして、全学連もまたその闘いの一翼を担った勤評闘争、警職法闘争の大衆的な高揚を背景に、彼らは同年12月、共産主義者同盟(ブント)を結成したのである。

 1958.12月、『革命的左翼の政治的結集』を掲げて、共産主義者同盟(ブント)が誕生した。ここに初めて公認のスターリニスト共産党に代わる新たな革命的労働者政党をめざす闘いが公然と開始された。これは日本社会主義運動史上に時代を画する大きな歴史的な出来事であった。

 翌59.1月に創刊された機関誌『共産主義』第1号の、ブント結成宣言とも言うべき巻頭論文『全世界を獲得するために――プロレタリアートの焦眉の課題』は、『社会主義革命の成功を導く能力を持つ革命的前衛を結集せよ』と高らかに呼びかけた。

 このような一九五九年の現代についての検討から導かれる結論はなにか? それは世界資本主義の危機の成熟であり、この危機を逃れでる道、世界プロレタリア革命と共産主義の勝利の客観的諸前提の成熟であり、そして、この前提の存在にもかかわらず国際共産主義運動の勝利を阻害しているプロレタリアの指導部の危機による人類の歴史的危機である。

 そしてこの指導部の危機の克服の道は、ただ一つ。一切の公認の共産主義運動の指導部に対するあらゆる幻想からプロレタリアートを解き放ち、真の革命的マルクス主義の再生にもとづいた革命的左翼を独立させ、このもとに革命的労働者を結集させることによってのみなされるという結論である

 ブントの歴史的な意義――それは、数十年にわたって世界と日本の労働者階級の運動を支配してきたスターリン主義の呪縛からの解放を公然と宣言し、『社共に代わる新たな革命政党の結成』を提起したこと、そして結成と同時に直面した安保闘争を『帝国主義的自立への第一歩を踏み出した独占資本に対する労働者の階級的闘い』と位置づけ、実践的にもこの闘いを領導することによって共産党の醜悪な民族主義の反動性を徹底的に告発し、長年の『前衛党神話』を打ち砕いたこと、まさにここにこそあった。ブントのこの歴史的功績はどんなに強調しても強調しすぎることはないであろう。
れんだいこ  この歴史観、ブント観は的確で傾聴に値すると思っております。れんだいこ観点は、この見方に特殊宮顕の異質性=当局の潜入スパイであり、意図的に党の方針と運動を捻じ曲げるために党中央を簒奪している、という観点を接ぎ木すればほぼ重なります。しかし残念ながら、社労党もその他諸派も革共同もスターリニズム一般としての批判に終始しており、特殊宮顕グループの犯罪性を見据えておりません。そこが残念ですね。

【ブント運動のルネサンス性について】
れんだいこ  ところで、れんだいこは、ブント運動を格別高く評価する理由の一つにその運動手法のルネサンス性にあります。この手法がその後の運動に継承されなかったことが恨みて余りあると考えております。この観点から考察されることが皆無ですが、それだけ遠いところで運動している証左だと思っております。島さん、この辺りご説明願えますか。
 私は、ブント運動というものをルネサンスというセンテンスで考えていなかったのですが、云われてみれば人間精神の解放と云う意味では共通項があるのは確かですね。「戦後史の証言ブント」にも書いておりますが、日本共産党には、物言えば唇寒しという党内状況がありました。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的とも云える属性がありました。私は到底馴染めず、もっと違う運動方法があるはずだ、私たちブントがそれを創造するという意義を見出そうとしておりました。

 政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。「見ざる、聞かざる、言わざる」の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さを持った組織の創造を願いました。
れんだいこ  それって紛うこと無きルネサンス精神ですよね。近代化とはこの精神の有る無しであり、この精神の高さによって社会の前進が勝ち取られているという歴史分析の観点が必要なぐらいで、島さんの指導するブント運動がこれを志向したことは、とても大きな意義があると考えております。
ト書き  座の一堂から「ほぉぉ」というため息が漏れる。
 確かにブントに結集した者の心情として、そういうブント運動のルネサンス精神が共感を勝ち得たということも云えるわな。もっと早く気づくべきだったかもね。
れんだいこ  問題は、そう理解すべきところをわざわざ難しく理解しようとしておりますね。島さん自身が「戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」という捉え方をしております。これは少々危険な考え方ではないでせうか。
 どういう意味だ。
れんだいこ  島さんが先ほど述べられました斬新な組織運動というのは、専ら宮顕式の党運動の閉鎖性、欺瞞性批判でせう。それならそれでそのことを確認すれば良い事で、そこから急に概要『戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼』という風に結びつける必要があるのか、必然性があるのかという疑問です。戦後民主主義論は別の観点から論ぜられるべきだと思います。戦後民主主義は擁護すべきものですよ、これを論ずれば長くなりますが。
 むむっ。
**氏  確かに、その後の左派運動に瀰漫したファナティックな暴力性は、ルネサンス精神を大事にしていけば防げたかも知れないな。
れんだいこ  はい。そういう風に視点が広がってくると思います。

【全学連第13回大会】
れんだいこ  話を急ぎます。ブント結成大会を成功裏に推し進めるや翌日には全学連第13回大会を開催しますね。58年は都合3回も全学連大会を開いたことになります。この一事からも如何に激しく動いたかが分かりますね。

 12.13−15日、全学連第13回大会を開きました。この大会の意義は、ブント結成を踏まえて、学生運動をブント―革共同で領導することを鮮明にすることにありました。日共からの訣別と、「真の前衛党の組織化」が決意されます。

 学生運動の性格を次のように規定し直しました。

 「学生運動は労働者階級の同盟軍として、いかにして労働者階級を革命闘争に決起させるかという観点から運動方針を立てるべきであって、その結果中間層である学生の間に分化が起こるのは当然であって、これに動揺して統一しようとしてはならない」。

 日共系理論の痕跡を最後的に葬ったことに値打ちがあります。

れんだいこ  人事が難航したようですね。

 はい。イニシアチブを廻って最後まで難航しました。その結果、委員長・塩川喜信(東大、革共同関西派)、副委員長・小島弘(明大)、加藤昇(早大)、書記長・土屋源太郎(革共同関西派)、清水書記次長、青木情宣部長を選出しました。「革共同系が委員長と書記長の中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であった」とされていますね。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということですが、このことは、革共同の全学連への影響力が強まっており、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことを意味しています。

 このことは、全学連指導部の内部でブントと革共同の対立というしんどい抗争を発生させていくことになりました。見てまいりましたように、ブントと革共同の間には近くて遠いものがあります。運動論や革命路線論をめぐっての対立がいきなり表面化していくことになります。

 一番対立していたことは、革共同が経済主義的観点から反合理化闘争的安保闘争論で安保闘争に取り組もうとしたことです。「安保改定=日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握でした。それに対し我々は、そういう長たらしく分かりにくい位置づけで無く安保そのもので闘えば良い。革共同的安保論は経済主義、反合理化闘争への一面化であり、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくべきだと主張ました。

**氏  双頭の闘いは、当時の闘う学生の自派への引き抜き合戦へと進んだ。この時我々ブントの方が支持を得て、「その後の史実は、多くの学生はブントを支持し流れていった」ことを証左している。革共同理論はこの当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットしなかった。むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになった。私もその一人です。

【ブントの顔ぶれと組織構造】
れんだいこ  さて、この頃ブントに結集した面々を確認しておきませうか。豪華な顔ぶれですね。
生田J

 それは私がやって見よう。分かりやすくする為に大学別に纏めてみよう。年代別にもう少し整理する必要があるけども。

島成郎 書記長  東大医学部3年生・共産党東京都委員でもあった、後に精神科医。
生田浩二 事務局長  52.9月駒場の細胞キャップになり、以降所感派系東大細胞のリーダー、共産党文京地区活動。地区委員。「島の無二のパートナー」。後に71年でアメリカで留学中火災事故死亡。この系譜に、古賀、佐伯、森田実、中村光男ら、富岡倍雄ら。
香村正雄 機関紙  機関紙発行の責任者、現公認会計士。大瀬振(社学同委員長を経て機関紙「戦旗」編集長、その後高校教師)。
陶山健一 社学同OB  社学同委員長、卒業後農林省に勤め、ブントの労働者を指導し、後に中核派、その後も最後の最後まで労働者の闘いを信じ、革命運動に一生を捧げた人であり、教条主義的マルクス・レーニン主義者でもなく、空論を労働者に振りまいた人でもない。まさしく島さんも認めているように、全ての労働者から信頼された人だった、97年逝去」(佐藤正之)。
側近指導部  富岡倍雄(全学連書記局員、生田の後を次いで細胞キャップ。6.1事件は彼の中央委員弾劾で始まった、98年逝去)古賀(生田の片腕。、共産党文京地区活動、後に農学者)、多田靖(57年反戦学同書記長、現医師として診療所開設)、倉石庸。非東大系として常木守(山梨大学)、青山(守田典彦)(九大、九州ブント書記長)
理論G  佐伯秀光(山口一理)(、後に大学教授 )青木昌彦姫岡玲治門松暁鐘()、佐久間元(片山)。
急進主義系指導G  清水丈夫(、現中核派最高指導者)田川樺美智子(、安保闘争で死亡)、篠原浩一郎(社学同委員長、)、鈴木啓一(、森茂、現革マル派指導者)、山田恭*(60年社学同副委員長、現会社経営)らの面々。
リベラル系指導G  森田実(、後に著述家)、中村光男(57年反戦学同委員長、後に大学教授)、葉山岳夫(事務局次長、後に弁護士)らの面々。
東大自治会G  高橋昭八()。菱沢徳太郎()、加藤尚武(都学連中執、後に大学教授)、林道義(全学連中執、後に大学教授)、林紘義(都学連執行委員、現社労党最高指導者)、星野中()、長崎浩(本郷細胞、後にジャーナリスト)、西部邁()、中垣行博、坂野潤治(、後に大学教授)、小木和孝、河宮信郎(60年教養学部自治会委員長、後に大学教授)、石井**(後に医師)、河辺岸三(60年法学部自治会委員、後に書店勤務)、斎藤省吾(57年教育学部自治会委員長、後に教育労働者)、田中一行(中央委員会議長、後に大学教授)らの面々。
早稲田グループ  小泉修吉(早大ブント代表、後に映画監督)、佐久間元(片山○夫、現会社役員)、東原吉伸(全学連書記次長、現会社経営)、蔵田計成(59年都学連副委員長、その後ジャーナリスト)、小野正春(中国研究会委員長、後に中核派指導者)、山平松生(第二政経学部自治会委員長、後に書店勤務)、広瀬昭(後に経営コンサルタント)、平井吉夫(社学同副委員長、後に翻訳家)、泉康子(学生自治会副委員長、後に作家)らの面々。
中央大グループ  藤原慶久(60年社学同委員長、後に中核派指導者)らの面々。
京大グループ  今泉(「東の島、西の今泉」と云われた、後に医師)、小川登(旧細胞キャップ、後に大学教授)北小路敏(60年全学連委員長代理、後に中核派指導者)、二木隆(60年自治会常任委員、後に医師)、小林好男、榎原均らの面々。
北海道グループ 灰谷慶三(道学連書記長、後に大学教授)、唐牛健太郎(60年全学連委員長)、榊原勝昭(理学部自治会委員長、後に大学教員)らの面々。
その他  同志社大から、仲尾宏(学友会中央委員長、後に大学教授)、東北大学から、佐藤粂吉(61年全学連中執)、日本医科大から東顕(自治委員長、後に医師)。広大から千葉喬之(59年教養部学友会委員長)、後に高校教師)、大阪市立大から柳田健(経済学部自治会委員長、後に会社経営)らの面々。
女性グループ  北海道学連の今井素子、中村、須原、鎌塚らの面々。御茶ノ水女子大の松崎才子、東京女子大の金田路世、明治短大の大内良子)らの面々。
印刷所グループ  常任は山本庄平、藤本。手伝いとして、今井素子、荒木、下土井、大島康子、松崎才子他数名。
労働者グループ  高橋良彦、大島芳夫、竹内基浩、佐藤正之、西村卓司(三菱長崎造船所労組)、岡部通弘(全逓))らの面々。
革共同グループ  星宮*生(立命館大、56年全学連副委員長、現会社経営)、塩川喜信(東大、58年全学連委員長、その後大学講師)らの面々。
れんだいこ  今日から見ても錚々たる顔ぶれですね。よほどの有能士が集ったことが証されています。
生田J  日本共産党京大細胞キャップ・小川登は次のように評しています。
 「歴史的な1960年の安保闘争を指導したブント系全学連を担った人として、3人の名前をまず挙げたい。山口一理(佐伯秀光)、清水丈夫、島成郎の3人である」。
れんだいこ  以上のような組織図の上で傑出していた人がその3名になるという意味でせうね。それはそうとブントと社学同は組織的には別とはいうものの実際には厳密に区別されていなかったようですね。そういう面と指導組織体制にまた特徴が認められます。
 香村正雄は次のように証言している。
 「ブントは官僚組織を持たなかったので、書記局の決定は政治的なことだけで、事務的なことは、私(香村正雄)と島、私(香村正雄)と生田、古賀という具合で何となく進行させた」。

 蔵田計成は次のように証言している。
 「ブント指導部が解体したにも関わらず、6.15闘争を打ち抜くことができた最大要因の一つは、ブントのコミューン的組織実態にあった。ブントは官僚的ヒエラルキーとは無縁であり、ブントの成員一人ひとりが綱領的、政治的、思想的主体の党的体現者集団であり、運動・闘争組織であった点は特記事項に値する」。

【日共の敵対】
れんだいこ  こうしたブントの動きと全学連の急速な左傾化に対して、日共党中央は断固とした態度を執ります。宮顕の特質の一つですが、権力に対しては常に柔軟、左に対しては排除と鉄槌をお見舞いさせます。

 12.25日、幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と全学連指導部の極左主義とトロツキズムの打倒を公言しております。ブント結成後旬日も経たないうちですが、アカハタは12.25、27日の両日に亘って一面トップ全段抜きでこの幹部会声明を掲載しております。この時「「島他7名の除名について」も合わせて報じております。

 こうして日共は、ブント―社学同を排撃し、一方で党中央委員会の査問を開始し、正月と共に全国の学生細胞に直接中央委員などをさし向け、一斉弾圧を策しました。他方で、民青同学生班を強化育成していくことを指針させております。これが党中央の権威で罷り通ります。

 この後は「ブント解体考」に記す。





(私論.私見)