れんだいこ |
さて、次の話題に急ぎます。いよいよブント結成過程の検証です。翌58年早々より活発に動かれているようにお見受けします。 |
島 |
はい。1月の東大細胞総会(細胞キャップ生田)でプロレタリア世界革命をぶち上げ、第1回フラクション研究会、第2回フラクション研究会、2月に第3回フラクション研究会を開いております。3月にも東大細胞総会が開かれておりますが、この頃においてはプロレタリア世界革命の見地が当然とされるようになっていました。 |
れんだいこ |
そして、4.1日に反戦学同が社学同に組織替えすることが決定されていますね。 |
島 |
はい。「50年党中央分裂」時に国際派系が反戦学同を結成しておりましたが、その後の理論的研究の積み重ねを経て、いつまでも反戦平和で行く訳には参らない。もっとストレートに社会主義の実現を目指して運動をより意識的革命的に発展させるべきであるとの認識に立つようになり、名称を日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、反戦学同を発展的に解消させることを取り決めました。
この時、活動指針を次のように設定しました。
概要「平和と民主主義、民主的教育とよりよき学生生活を目指す学生の大衆的政治行動の先頭に立って闘うと共に、それを、より意識的に帝国主義ブルジョアジーの打倒、社会主義の実現を目指す労働者階級の解放闘争に結合させ、多くの学生を社会主義の意識で捉えていかなければならないと確信するに到った」。 |
これは、当時の日共が指針させようとする右傾化に対する明確なアンチの立場からの我々の回答でもありました。この左旋回が、宮顕党中央の指示に従う穏和主義グループとの対立を生み出していくことになりました。 |
れんだいこ |
4月の党東大細胞総会も見事ですね。 |
島 |
この時、宮顕党中央の打ち出した党章草案に対する批判的観点からの議案を採択し、近づきつつある第7回党大会に向けて理論闘争を強化することを宣言しました。その論点は、1.反米帝方向重視の宮顕路線に対する反日帝(独占資本)方向重視、2.党章草案の右翼的偏向に対する社会主義の明確な提起、3.革命の平和移行論や構造改革派の改良主義方向に対する批判、4.官僚主義の助長傾向に対する批判にありました。
但し、この時点ではあくまで党内闘争の枠の中で原則的な立場から行うものとして枠組みしていました。「無原則な、自由勝手な党内の状況を断じて許しはしないだろう」と表明しているように、フラクション活動の公然宣言までには至っておりません。
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れんだいこ |
そして、社学同の結成大会へと続く。 |
島 |
はい。5.25日、国際派にとって名誉ある反戦学同の第4回全国大会を開催し、打ち合わせ通り組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変えました。これが社学同の第1回大会となります。この時の人事で、清水丈夫が書記長になっております。
この時社学同は、党中央のゴリ押ししようとする党章草案と明確に対立する現状分析論、革命戦略論を打ち出しております。例えば、「日本独占資本は復活強化した」との評価を前面に出し反独占闘争を強調しております。これは、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する党章草案と決定的に対立しております。 |
れんだいこ |
そういう意味では、当時の全学連主流派の理論能力にはそれなりのものが獲得されており、決して党中央の云うことの鵜呑みではなかった、ということを証左しておりますね。 |
島 |
漸くれんさんにお褒めいただいたようだな。 |
ト書き |
座の一同ふふふと微笑む。 |
れんだいこ |
さぁこの辺りから事態が急ピッチで動き始めます。全学連第11回大会の模様を実況中継下さいますか。 |
島 |
おおぃ、代わって説明してくれよ。れんさんの追撃がきつくてしんどいよ。 |
再来生田 |
では私が。当時我々は既に、党中央の意向を汲む高野派の連中と抜き差しならない対立に入っていた。いわゆる民青同系高野派は、全学連大会直前に森田実中執の代議員資格問題を持ち出し、執行部からの森田の追い落としにかかろうとしていた。それは砂川闘争以来の対立でもあり、尾を引いていたんだな。
こういう駆け引きを経て、5.28―31日、全学連第11回大会が開かれた。294名の代議員と評議員、傍聴者など約1000名が集まった。大会は冒頭より激突の場となり、一部小競り合いも起こしつつ怒号と乱闘を現出した。しかし、大会二日目になって高野.小野両オブザーバーを議長職権で退場を命じ、すったもんだの挙句我々主流派が断然勝利した。
大会は、10回大会以来の闘争を一貫して正しかったと規定し、この執行部の議案は賛成271、反対19、保留1という圧倒的多数の支持を得て可決した。人事で、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、佐野茂樹(京大)、書記長・小野寺正臣(東大)を選出した。社学同派が新執行部30名の全員を独占して民青同派を右翼反対派として閉め出した。つまり、日共党中央に忠実な代議員ことごとくを排除し、革共同も含めた反代々木系だけで指導部を構成したということになる。 |
れんだいこ |
ということは、多少の小競り合いを通してであったけれども、議事妨害等の嫌がらせ戦術を指図した宮顕の思惑通りに事を運ばせず、社学同派が断固としてその策動を封じたということになりますね。いやぁ、立派なことです。
もっとも、革共同が後押ししていたようですね。次のように述べております。
「全学連11回大会における平和主義者『高野派』との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。『右をたたいて左によせろ』、これがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった」。 |
こうありますので、革共同の支援があったということになるようですね。 |
ト書き |
座の中からふうむと腕を組むものも出る。 |
れんだいこ |
この時の決議内容を知っておくことは、当時の理論水準と傾向を知る上で大事なようですので確認させてください。 |
島 |
これは私が説明しとこう。学生運動史上の功績として、武井さんの「層としての学生運動論」があった。我々はこれを継承し、新たに先駆性理論を創造付加させた。分かりやすく説明すると、日共理論のように学生運動に特別の意義を見出そうとしない傾向に鋭くアンチの立場を確立した訳であり、学生自治会の強化と全国的統一闘争を勝ち取ることで学生運動の自律的な役割を確認した。
学生運動は労農運動の付属あるいは下位に立つのではなく、社会運動的に見て独自の有効な役割があるはずだと意義を見出そうとした。当然全学連執行部の責任が重大になるが、我々はその責務を充分に引き受け、社会のどの層よりも先駆的な前衛運動を目指していくことを誓った。学生運動にはそういう能力があると云う確信でもあった。
先駆性理論とは、学生運動に政治闘争の任務を正面から引き受けさせ、労農同盟の先鋭部隊としての役割を自覚させ、反政府闘争、反帝闘争を率先的にリードする。学生運動が先陣となって、労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する、というものであった。
この背景にあった認識は前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)と述べてある通りで、当時の事情を読み取っていただければ幸いです。 |
れんだいこ |
それは素晴らしい。理論というものはそういう風に積み上げられ、揚棄されていくべきだと絶賛したいと思います。付言すれば、れんだいこが高く評価する徳球系も学生運動の位置付けが弱く、「親のスネカジリ的小ブル性はそのままでは役に立たない」的論域を出なかった。但し、個々の能力形成については「闘争経験を積ます」充分な配慮をしていたとは思います。
ところが、宮顕の指導となるや、「学生の本分は勉強すること」という文部省的タガ嵌めに向かい、「政治闘争は学園内から出てはいけない」式の反動封建的とも言える発想で説教し始めます。島さんらが、そのペテン論理を打ち砕いていった軌跡が心地よいですね。 |
ト書き |
座の一同心なしか胸を膨らませ張り始める。 |
れんだいこ |
ところで、革共同はこの先駆性理論とも違う転換理論に拠っていたようですね。次のように述べております。
概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」。 |
どちらもよく似てはいますが、ブントはマス的に捉えより感性的行動論的に、革共同は個的により思弁的練磨的に位置づけているという違いが認められるようです。「層としての学生運動論」との絡みで云えば、ブントはもろに吸収し、革共同は必ずしも継承していないということになります。
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れんだいこ |
こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及んで、その論の確かさが裏付けられます。但し、その後更に「学生こそ革命の主体論」までエスカレートさせられていくことになります。こうなるといかがなものでせうか。
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ちなみに、宮顕は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して、「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」との批判を強めます。 |
島 |
我々全学連主流派は、そういう日共理論に対し、次のように評価しました。
「戦後10年を経て、はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示している」。 |
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れんだいこ |
この反論なぞ素晴らしいですね。理論には理論で充分太刀打ちし得ているように思えます。この姿勢が大事ですよね。惜しむらくは、日共理論と言い換えるのではなくあくまで宮顕理論の変調さとして見据えて欲しかったですね。 |
S |
ちなみに、この時中国共産党の中国青年報は、「岸反動政府との徹底した対決の方向を打ち出した全学連第11回大会」との見出しで好意的に次のように論評しております。
「全学連第11回大会が帝国主義者の攻撃の甘い評価に反対し、平和を守るための帝国主義者との徹底した闘いの方向を打ち出し、右翼日和見主義者との闘いにおいて大勝利した」。 |
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れんだいこ |
れんだいこが注目するのは、一つの左派理論として見た場合、島さんらが打ち出した方針の方が真っ当なのではなかろかと云う事です。中国共産党が後押ししたから云々という事大主義によってではなく、左派的観点を誠実に積みあげたら、当時島さんらが辿り着いた方向こそ誠実であり、自然であるというように受け止めております。それにしても、宮顕の指導方向の不自然さをみねばならないとも思いますね。 |
**氏 |
れんさん、「知的誠実さを積み上げたら我々の論になった」という見方は最高の誉め言葉だよ。 |
れんだいこ |
はい。私はそのように見ております。ところで、この当時の全学連内のグループ情況を整理してくれませんか。 |
再来生田 |
合計四派になるな。1・日共系として民青同高野グループがいた。が、この時の全学連第11回大会で執行部からパージされる。新執行部はまず、2・森田グループ。この時全学連委員長になった香山を含む中執のかなりのメンバーがこのグループであった。もう一つは、3・都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループ。次に4・島グループ。新執行部はこの島グループが実質的に支えていた。
学生運動のメッカ東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあったという意味でも、我々がイニシアチブを握った大会でもある。 |
れんだいこ |
はい。これを穏和系と急進主義系という色分けで見た場合どのように整理できますか。 |
再来生田 |
そうさなぁ。後の展開を見ても森田グループは穏和系に属するな。してみれば、高野・森田グループが平和運動的な方向に止まろうとする。島グループが急進主義ないしは革命運動的な方向に向かおうとする。革共同は穏和系の関西派とそれよりは急進主義的な黒寛派がブリッジしていた。つまり、全学連が穏和糸と急進系に次第に二極化されつつあったとも云えるね。 |
れんだいこ |
そうですね。ここを見ておかないとその後の流れが見えてきませんね。 |