場面2 寄り来る革命夢想家達考

 (最新見直し2007.7.16日)

 これより前は「第一次ブント運動の総括」に記す。

【「ジグザグ.デモかバレードか」】
れんだいこ  ブント考察に当たり「ジグザグ.デモかバレードか」に何の関係があるかと思われますが、意外に大有りなんですね。理論的な面での難しい話をひとまず置けば、これから考察するブント運動とこれに敵対した日共民青同系の違いは「ジグザグ.デモかバレードか」問題に尽きるように思われます。
座の一同  ふううむ。
れんだいこ  この問題が立ち表われたのは、1957.11.1日の国際共同行動デーにおいてでした。日本全国各地100ヶ所で集会.デモが行われ、その参加者は約80万と言われておりますが、全学連は81大学181自治会で十数万の学生が参加しました。

 この時、全学連中執内で対立が発生しております。全学連多数派の急進主義系のジグザグ.デモ指揮に対して、一部の学生自治会というか日共系の穏和派がこれを拒否しました。穏和派は急進派から「右翼反対派」と批判されておりましたが、「ストではなく授業放棄を」、「ジグザグデモではなくパレードを」と主張し、内部対立を執拗に煽っていました。
**氏  確かにそうだった。
れんだいこ  この頃、全学連指導部内には、「現在の情勢はアメリカ帝国主義の核戦争体制が一層強化され国際緊張は激化しつつある。従って、これに対しては激烈な形態で闘争しなければならない」という多数派と、「社会主義勢力の強化によって国際緊張は緩和しつつあり、従って大衆運動は幅広くしなければならない」という少数派の対立が発生していました。

 この間全学連指導部は砂川闘争、勤評反対闘争を労・学提携で急進主義的に闘っておりましたが、闘争の進め方を廻って宮顕系日共が指導する穏和化路線と対立し続けておりました。

 その時々の遣り取りで、前田裕日吾が次のように述べております。
 「激しい弾圧、獄中にあっても主義を守り、節を曲げなかった共産党の神話化された権威が地に堕ちてしまっていた」。

 こうした理論及び実践面での対立が行動方針にも反映し、「ジグザグ.デモかバレードか」、「ストライキか授業放棄か」という形で表面化していくことになりました。やがて非和解的なそれへと対自化しブントを結成せしめていくことになります。
**氏  そうだった。
れんだいこ  11.13日、全学連第14回拡大中委が開かれ、11.1行動を中心とする核実験反対闘争を総括するとともに、「右翼反対派」の中執委員2名(早大.神戸大)を「階級的裏切り行為」、「分裂行動」であるとしてこれを激しく非難し、中執罷免しました。
再来生田  かくて、全学連指導部と日共中央との対立が顕在化していった。
れんだいこ

 この頃の全学連の対立にもう一つの流れが発生しております。先に誕生していた我が国初の日本トロツキスト連盟が順調に成育し、この年12月頃、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称しました。この時、京大を地盤とする西京司グループの合流が為されております。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏して、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳です。

 
この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられます。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対して革共同派のフラク活動がかなり強力に進められていくことになります。但し、革共同内は、同盟結成後も引き続き党内のゴタゴタが続いていくことになり、一直線には伸張していきません。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れません。

れんだいこ  最低限以上の流れを踏まえて、ブントの誕生系譜を追跡していきたいと思います。

【最初の謀議】
れんだいこ  さて、ブント運動の打ったてはいつ頃に設定できるのでせう。確か57年12月頃、横浜の佐伯さんの家で「島・生田・佐伯」の3名が新党旗揚げのフラクションづくりを謀議したとか聞かされております。島さんこの辺りご説明願えませんか。 
 はい。私と生田、佐伯が謀議を凝らしたのは事実です。当時の背景を説明しますと、六全協後日共がとめどなく右傾化して行き、全学連運動に対しても「歌って踊ってマルクス」式の軟派運動へ枠組みし始めた。これを嘲笑するかのように56年から57年にかけて革共同運動が始まった。この間我々は日共の左派的砦を守ろうとして奮闘してきた。その限界を確認し、新党結成を決意したのが佐伯邸での三者会談ですね。
れんだいこ  その際重圧というものはいかばかりでしたのでせう。
 それは悲壮な決意だったですね。党の民主集中制原則と分派禁止は革命家としての不文律ならぬ最高規律ですから、これを破るということは、今後党中央との闘いを覚悟せねば出来ない訳です。敢えて言えば死をも恐れずでなければ決断できないことです。

 そういう秘め事の遣り取りをするのですから、今日では共産党の聖偶像は地に落ちておりますが、当時はまだ堅固なものがありましたから、おいそれと誰にでも相談できるというものではありませんでした。この時の三者会談にはそういう意味で重みがあるし、この三人がまずもってそういう不退転の決意の契りをしたことになります。そうご理解していただいて結構です。
れんだいこ  この時、島―生田同盟が結成されたと見なすことが出来ると思いますが、れんだいこには国際派の頭目と所感派の頭目とが同盟を契ったように見えます。明治維新に例えるならば、倒幕の為の薩長同盟のようなものでせうか。そこまで深い意味を見出すのは行き過ぎのようにも見えるでせうが、ブント運動が成功裡に進んだ革命運動となっていたならそのような意義付けが獲得できるところのように思えます。
ト書き  座の一同うーーんとため息を漏らす。
れんだいこ  この時のことを島氏は後年次のように追想していますね。
 「既に、『スターリン主義』が単なる一思想ではなくソ連という強大な国家意思の実現と、その物質化されたものとの認識に到達した限り、『スターリン主義』日共は最早変え得る存在ではなく、打倒すべき対象であり、欲するところは、これに代わる新しき前衛の創設である。この立場に立った生田は、密かに、しかし容易ならぬ決意を持って『新しき前衛』の準備に着手した。1957年の暮れの或る日、この合議のため生田と私、そして佐伯が会した場所こそ、9年後、生田の灰を迎えねばならなかったあの横浜の寺の一隅であった」。
ト書き  座の一同シーンとする。
れんだいこ  島さん、いきなりですがれんだいこは実はここで少し違うなという気持ちを持っております。島さんも属した国際派が宮顕系の系列でうごめいてきた事情から見えなくなっていると思うのですが、六全協後の宮顕運動をいきなりスターリニズム視させ、その批判運動に収斂させていったのは、間違いであったのではないでせうか。

 この当時はまだ唯一非転向人士としての宮顕神話が通用していた時代ですから止むを得ない面もありますが、どうみたって宮顕問題は質が異なるように思います。はっきり云えば戦前のスパイM以来の党中央潜入大物スパイの可能性があり、そういう胡散臭さで見る必要があります。

 ここの部分を見落として、ブントもまた革共同と同じ観点からスターリニズム批判の延長上で反日共運動を展開していった、と思うんでよね。しかし、それは大きな間違いであり、宮顕を「戦前のスパイM以降の党中央潜入大物スパイ」と見立てての反宮顕運動という批判の構図を据えるべきだった。この認識の不十分さが後のブント崩壊に繋がっているように思えてなりません。この点どう思われますか。
ト書き  座の一同うーーんとため息を漏らす。
 宮顕を「戦前のスパイM以降のの党中央潜入大物スパイ」と見る観点はありませんでした。それはさすがに事が重大過ぎませう。
れんだいこ  ここは非常に大事な論点になりますが、取りあえずここでは問題提起に止めておきます。

【ブントの日共観、宮顕観、党章草案について】
れんだいこ  こうして党内分派フラクション活動が開始される訳ですが、丁度この時期は日共第7回党大会直前ですね。その後の党綱領となる党章草案が出されておりますが、この点での理論的齟齬もあったようですね。 
 はい。党章草案の現状分析と規定、そこから導き出される戦略・戦術に我々は到底納得出来なかった。端的に云えば非常に右翼的民族排外主義的な且つ一国革命式の二段階革命論であり、この点では東大細胞総会のみならず東京都委員会でも厳しく批判し、我々は認めなかった。
れんだいこ  ここで問題にすべきことがあるのですが、宮顕の手になる党章草案を批判するのに的を得ていない気がするのですよね。どいういうことかというと、宮顕の対米従属論を批判するのに単に理論を持って対置しているに過ぎないのではないでせうか。その心情に、少なくとも先ほど指摘させていただいたように宮顕を不屈の非転向人士と見なしての神話化された聖像視があり、宮顕を革命家と認めた上でその理論も左派のそれの変種として扱っているのではないでせうか。それはナンセンスであるというのが、れんだいこの観点です。
 なるほど。
れんだいこ  れんだいこの推量するところ、宮顕の対米従属論はもっと悪意的であり、現状の正確な規定を無視した暴論の筈なんです。国家主権の独立という意味においてはサンフランシスコ条約によって達成したとみなすのが真っ当な歴史観だと思います。宮顕は、それをそう見なさず故意に対米従属規定に固執させた。問題は、なぜそうしたのかということの分析に向かうべきだと思うのですよね。

 結論から申しますと、宮顕は、対米従属論を持ち込むことにより日本の当面する革命方向を民族独立運動に誘い込もうとしている。その意図を裏から見れば、社会主義革命へ向かう路線を掣肘させようとしている。ここに宮顕流対米従属論の本質があると読み取るべきではないでせうか。れんだいこはそのように受け止めております。だから悪意ある確信犯なんですよね。
 なるほど。
れんだいこ  対米従属論からもたらされる「二つの敵論」の犯罪性は、それが逆に使われることにあります。60年安保闘争と64年の4.17ストの時の対応を比較衡量すれば、このことが露呈します。ブントは、60年安保闘争の時、「岸内閣―米帝打倒」を目指して闘いましたが、この時日共は頻りに穏健的な運動を呼びかけ、それでも勢いが止まらないと見るや、反米愛国主義運動へ流し込もうとしております。4.17ストの時には、ある意味で純然たる経済闘争でしたがかなり急進主義的に闘おうとする情勢が生み出されていた。これに対しても「敵の挑発に乗るな」論によって盛り上がりに水を差します。

 つまり、一貫して戦闘的運動に対して「エセ左」の側から敵対してくる。その際の調法な使い分けとして「二つの敵論」が使われているに過ぎないということが透けて見えて来る訳です。例えば、国内での闘いがオーバーヒートする時には反米愛国運動に捻じ曲げ、アメ帝との闘いへ向かうべき時には国内問題に眼を向けさせるというようなデタラメな使い分けの為にのみ使われる訳です。

 そういう意味で、対米従属論、二つの敵論はマヌーバー理論であるにしか過ぎない、ということを批判していかなければならなかったのではないでせうか。史実は、宮顕の偶像性を認めた上でその理論を理論的に批判することに忙しく、秘められた悪意まで暴いていかなかったという限界を持っているように思います。
 れんだいこ理論の白眉なところのようですね。鬼説ではあるな。
れんだいこ  革共同理論はあれはあれとして認められるものの、ブントは今述べたような観点から理論闘争、批判運動を展開して欲しかった、そういう違いを生み出すべきであったと思ったりしております。もっとも、戦前のリンチ事件の当事者の調書が漏洩され、宮顕のスパイ性疑惑がはっきりしてくるのは80年代になってからですからね、無理も無かった面もあります。もっとも、あの調書が漏洩されても未だに宮顕神話を信じぬいている人も居られますので、こうなるとカエルの面にションベンですわね。
ト書き  座の一同フウウゥとため息を漏らす。
 「宮顕=戦前のスパイM以降の党中央潜入大物スパイ」論から見れば、確かに納得できることがいくつもある。しかし、我々にはそこまでの観点は無かったわな。
ト書き  座の一同シーンとする。
**氏  しかし、そうなると大事(おおごと)ではあるわな。
れんだいこ  あまりのことに脳が判断停止している、させられているのではないのかと思っております。
ト書き  座の一同天空を見上げて何やら思案を凝らし始める。

【フラクション活動開始】
れんだいこ  さて、「三者会談謀議」以降、フラクション活動が開始されました。どのように行われていったのですか。 
 党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最年少の代議員の一人になった」(「生田夫妻追悼記念文集」の島氏の追悼文)とある通りで、生田はそのように組織活動に取り組み、同志の結合にも目配りしていきました。

 私は、「戦後史の証言ブント」で次のように述べております。
 「他方、我々はこの頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本を貪るように読み進めていきました。その様は、『一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた』」

 述べてある通りです。
れんだいこ  そうした過程で結集してきた方はどういう面々でせう。
 東大細胞では私、生田浩二・佐伯秀光・冨岡倍雄・青木昌彦。早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らが最初期のケルンですね。
 当時の全学連は、「東Cと京大教養、早稲田という学生運動の三大拠点」(小川登)を軸に展開されていた。「東大細胞が革命化すれば、全学連書記局細胞が革命化し、書記局細胞が革命化すれば、全学連全体が革命化する」(冨岡倍雄)という関係にあった。
れんだいこ  そういう意味で、東大と早大の急進主義者が気脈通じ合わせていったのも自然な流れだったのでせう。京大は革共同関西派の地盤の影響で少しもたついたようですね。この結集の意義を理論的に総括したのが57年末に打ち出された山口一理論文ですね。

 そうです。山口一理の「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」、「プロレタリア世界革命万才!」が原典となり、その後結成されるブントの理論的基礎となった。これを掲載した日本共産党東大細胞機関紙マルクス・レーニン主義第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜でした。

 山口一理論文はかなり長大な文面でしたが、国際共産主義運動と日本共産党の運動を系統的に批判的総括した記念論文足りえております。これが当時の全学連内の急進主義者たちに晴天の霹靂的な衝撃を与えていくことになりました。特に、次の下りは、宮顕主導の右翼的党運動に対する鋭角的なアンチの観点となった点で、忘れがたい名文句ですね。

 「日本共産党が『敵は優勢、味方は劣勢』という空虚なスローガンによってズブズブの大衆追随主義に革命部隊を封じ込め、抽象的な『平和と民主主義』のスローガンによって、プロレタリアートの前衛的部隊を武装解除させてしまったのであった」。
れんだいこ  この時の衝撃を、常木守は次のように表現しておりますね。
 「もう一つの戦慄は、重く立ち込めていた分厚い雲間が切れて、澄み切った青空が微(かす)かに姿を現したような強い解放感だった。これだったのだ。全世界と対峙すべき革命思想の理念がここに眠り込み、閉ざされていたのだ」。

 マジこういう雰囲気だったのでせうね。
再来生田  我々は、これを貪り読み、議論を積み重ねていった。この認識の下に島氏の周りに結集していくことになった。この流れでブント結成まで向かうんだわな。
れんだいこ  れんだいこが感心するのは、この流れは自然且つ理想的なことです。「革命的理論無ければ、革命的行動無し」を地で行っているように思います。
再来生田  東原吉伸は次のように述べている。
 「一体、島を頂点とするブントに結集した人々は、一人一人思い浮かべても実に多種多様、多芸多才であったが、しかしご本人も含め、押しなべて大雑把で、愉快で、女子大の同志諸君も含め、革命の『妄想男』や『妄想女』が大変多かった」

 その通りです。

 これより後は「ブント結成」に記す。





(私論.私見)