れんだいこ |
さて、「三者会談謀議」以降、フラクション活動が開始されました。どのように行われていったのですか。 |
島 |
党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最年少の代議員の一人になった」(「生田夫妻追悼記念文集」の島氏の追悼文)とある通りで、生田はそのように組織活動に取り組み、同志の結合にも目配りしていきました。
私は、「戦後史の証言ブント」で次のように述べております。
「他方、我々はこの頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本を貪るように読み進めていきました。その様は、『一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた』」。 |
述べてある通りです。 |
れんだいこ |
そうした過程で結集してきた方はどういう面々でせう。 |
島 |
東大細胞では私、生田浩二・佐伯秀光・冨岡倍雄・青木昌彦。早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らが最初期のケルンですね。 |
S |
当時の全学連は、「東Cと京大教養、早稲田という学生運動の三大拠点」(小川登)を軸に展開されていた。「東大細胞が革命化すれば、全学連書記局細胞が革命化し、書記局細胞が革命化すれば、全学連全体が革命化する」(冨岡倍雄)という関係にあった。 |
れんだいこ |
そういう意味で、東大と早大の急進主義者が気脈通じ合わせていったのも自然な流れだったのでせう。京大は革共同関西派の地盤の影響で少しもたついたようですね。この結集の意義を理論的に総括したのが57年末に打ち出された山口一理論文ですね。 |
島 |
そうです。山口一理の「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」、「プロレタリア世界革命万才!」が原典となり、その後結成されるブントの理論的基礎となった。これを掲載した日本共産党東大細胞機関紙マルクス・レーニン主義第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜でした。
山口一理論文はかなり長大な文面でしたが、国際共産主義運動と日本共産党の運動を系統的に批判的総括した記念論文足りえております。これが当時の全学連内の急進主義者たちに晴天の霹靂的な衝撃を与えていくことになりました。特に、次の下りは、宮顕主導の右翼的党運動に対する鋭角的なアンチの観点となった点で、忘れがたい名文句ですね。
「日本共産党が『敵は優勢、味方は劣勢』という空虚なスローガンによってズブズブの大衆追随主義に革命部隊を封じ込め、抽象的な『平和と民主主義』のスローガンによって、プロレタリアートの前衛的部隊を武装解除させてしまったのであった」。 |
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れんだいこ |
この時の衝撃を、常木守は次のように表現しておりますね。
「もう一つの戦慄は、重く立ち込めていた分厚い雲間が切れて、澄み切った青空が微(かす)かに姿を現したような強い解放感だった。これだったのだ。全世界と対峙すべき革命思想の理念がここに眠り込み、閉ざされていたのだ」。 |
マジこういう雰囲気だったのでせうね。 |
再来生田 |
我々は、これを貪り読み、議論を積み重ねていった。この認識の下に島氏の周りに結集していくことになった。この流れでブント結成まで向かうんだわな。 |
れんだいこ |
れんだいこが感心するのは、この流れは自然且つ理想的なことです。「革命的理論無ければ、革命的行動無し」を地で行っているように思います。 |
再来生田 |
東原吉伸は次のように述べている。
「一体、島を頂点とするブントに結集した人々は、一人一人思い浮かべても実に多種多様、多芸多才であったが、しかしご本人も含め、押しなべて大雑把で、愉快で、女子大の同志諸君も含め、革命の『妄想男』や『妄想女』が大変多かった」。 |
その通りです。 |