れんだいこ |
この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1960年秋のノート」に記されていますね。
「8.20日(中略)29歳。いま、私にとって最大のヤマ場にいるようだ。一人静かに考える機会でもある。今日より私は、私の行動と思索(という割には余りにとりとめない)を、ノートに詳細に記そうと思う。PB(政治局)での敗北の日からもう一週間、休養を命ぜられてのこの一週間は、どのような日々であったのか」。 |
そういう自問自答を経て、次のようなブント運動総括を書き付けております。 |
島 |
概要「9.1日(中略)12時に引き揚げ、名簿の整理をしつつ、今後の構想をねる。今度こそPartei目指すKernをorganizeするつもりだ。予定メンバーは、、Ko、KI、A、O、Su。第一にTheorie(れんだいこ注―理論)、第二にGelt(々資金)、第三にPerson(々人物)、このWahrheit(々基本原則)はかわらない。
<余の分派綱領の条件>
第一、第4回大会の問題点を理解し、左に立ったこと。
第二、4〜6月の時期に一貫して左に立ったこと。
第三、宇野経済学に対する態度。綱領第三次草案。
第四、反東大であること。最も危険な体系的な日和見主義。
<余の分派綱領の作成>
第一、現在の同盟の、日本階級闘争の基本的問題を明らかにすること。
第二、同盟1年半の批判的総括(安保・三池闘争の総括)。
第三、同盟綱領草案についての批判的検討の開始。付随して、東大批判。
第四、世界・国内情勢。
第五、日本の左翼の検討。
第六、日本革命の展望。第七、世界革命の展望。
<余の文書活動>
第一、同盟の基本問題。
第二、日本の階級闘争と革命的学生運動。理論戦線原稿、学生運動史の書き出し。
第三、日本左翼の批判。日本革命思想史の書き出し。
<メモ>
6.18を挫折と見ること。何が故に挫折したか、この原因を追求すること。×労働者階級の運動がプチブル(社民総評共)の運動としてとどまったこと。×これを突破した学生運動もまたプチブルの壁を遂に破れなかったこと。
○主体としての労働者階級の革命党が存在しなかったこと。いかなる意味でか。
○同盟―小ブル急進主義者のサークル。思想、理論、組織、行動において。
△<三池>と<安保>必然性。×資本家階級の動向。
△<岸から池田へ>。
▲労働者革命党か、小ブル急進主義者グループか?
<日本資本主義>
<革命と学生>同志樺美智子に捧ぐ。1960年の日本学生運動。 |
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れんだいこ |
島さんが、三分派とは又違うブント総括をしようとしているのが分かります。同時に、ブントの最高指導者として垣間見えた深淵をもてあましている様子が伝わり、胸が熱くなります。しかし、どの課題も重い、重すぎます。
その重圧を紛らわせるようにその後のブントの様子を聞き取りに向かっていますね。
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島 |
「9.2日(中略)香村より電話あり。中野喫茶にて、結婚後1日目の彼から、最近のブントの様子と出版社のことについて、ノートを取りながら詳しく聞く」。「1時過ぎ、印刷所へ。庄平さんと2時間に亘って印刷所の様子及びブントのことについて。やはり予想通り、問題の鍵は金である。事務所は電話も止まっている。約20日間も政治から離れていたので、二人の話を聞きながらすっかりくたびれた。神経が弱っているな」。 |
「彼(富永)の話を聞く。全学連は完全に清水のもとにかたまっているらしい。確かに学生運動に手を出すのは困難。下手に手を出せば、革共のようになる。姫岡(注・青木昌彦)は、清水と一心同体となっている。さて、いかにすべきか」。 |
「9.3日(中略)東大細胞意見書、及びそれへの反論。山崎、田川の文書を読む。先日来考えていた反東大フラクの欠陥をたしかめる。この意見書と一緒にやることは出来ない!小ブル急進主義か共産主義かというスローガンは明らかに誤謬である!ロシアにおけるナロードニキに対する合法マルクス主義者を想起させる」。 |
「大阪読売にブントの暴露記事が出たことで、T氏が直ちに事情聴取にО氏を飛行機で帰させたとのこと。その記事が面白い。ブントは4派に分かれている。20人でも革命が出来るという島書記長派。この派から分かれた極左の服部・東大。右派の早大・九州。硬軟両派を操る清水・青木派。この分析は当たらずといえども遠からず、だ」。「4人と一緒に吉本隆明の家を襲う。彼の考えは俺とすこぶる共通している。夜11時まで雑談」。 |
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れんだいこ |
この日記から分かることは、島さんは専ら革通派(東大派)に対して違和感を発しておりますね。 |
島 |
確かにそうですね。しかし私のスタンスが決められて居らず、外部に対して発信できない。私自身がそういう情況でした。 |
れんだいこ |
日記は更に続きます。 |
島 |
「9.4日午前中、生田宅を訪れ、久しぶりに意見交換。宇野についての彼の考え―前衛党形成について、ブントの将来について、多くの食い違い有り。青木の評価―理論的無節操」。 |
「9.5日(中略)事務所へ約1ヶ月ぶりに顔を出す。生田、古賀、片山、灰谷の諸氏がボヤッと雑談している。六全協の後の地区委員会事務所の如し」、「今週中に鈴木、古賀、陶山、倉石、清水、青木、他と会う。革共編集の安保闘争を読む。さてさて、一番大馬鹿なのはブントである。その頂点に俺がいる。約3ヶ月贈れて、俺は安保闘争についての評論を本格的に始める。それとともに、三池闘争について、これを通じての日本労働運動の全面的検討を開始する。これを抜きにしては、日本革命の展望は語れないであろう」。 |
「9.9日約4日間のときが、続く。9月に入って、若干の人々と会ってから一層の虚無的状況に陥る。政治というものは無慈悲なものだ。俺の出る余地は、現在のところまったくない。俺の危機―10年ぶりの、強いて言えば57年以来の、そして今後一生を定めるであろう―そんな時点にいることを感ずる。政治的に葬られるのは、不思議なことに全く苦痛を伴わない。しかし、俺が公然と攻撃され、反撃できない状況にいるのに拘らず、敗れたという感は全く無い」。 |
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れんだいこ |
生田、古賀、片山、灰谷の諸氏の無聊と島さん自身引き続き虚無的に陥っている様子が伝えられております。 |
島 |
「信頼すべきものは一人も居ない。清水の180度転回。青木の政治的無節操(本来の日和見主義)。片山の政治性(陰性な)。生田の非論理的道学者。どれもこれも気に食わない。ただ一人きりで闘いに立ち上がれない俺の怠惰さも」。 |
「樺さんが死んでから―私の身近で、私に死の一つの実感を知らせたのは彼女が初めてであった。『死んでも』という言葉は、私にとって形容詞として使えなくなっていた。『彼女は死ぬべくして死んだか』この設問に答えなければならなかったとき以来、私の政治人生の最も大きな混乱期が始まったといえる」。(9.30日の日記には、「6.18のあの挫折の悔い、樺さんの死に対するすまなさ」と書き付けている) |
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れんだいこ |
清水も片山も生田も頼りにならない、微妙に総括の仕方がズレているもどかしさが表現されておりますね。わざわざ書き記しているところを見るとこの三名にそれだけ期待していたということでもあるのでせうね。続いて、樺さんの死に対する強い責任が神経を傷めつづけており、寂寥に陥っていることが分かります。 |
島 |
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れんだいこ |
島さんのブント総括はどのような観点に立脚しようとしていたのか、聞いておきたいところです。 |
島 |
このブント創出から敗北と崩壊の過程について、私は「戦後史の証言ブント」の中で次のように語っております。
「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」、「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」。 |
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れんだいこ |
そうですよね。この観点こそが歴史的ですよね。この功の面を見ずに、敗北だった論へ導くなぞナンセンスの極みでせうに。 |
島 |
「私はブントに集まった人々があの時のそれぞ れの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」、「安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。 |
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れんだいこ |
当時のブントの皆様はなぜこの観点を共有できなかったのでせう。そこが不思議なところですね。 |