れんだいこ |
自然承認の日は目前に迫って参りました。
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S |
国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的 に無期限ストに突入した。
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6.17日、社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。 |
れんだいこ |
6.18日、樺美智子女史の東大合同慰霊祭が行われました。
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S |
6.19日、国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。 |
再来生田 |
ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時共産党の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。こうしているうちにも時計の針は回り、12時を越すと共に新安保条約は自然成立した。6.19日午前零時、新安保条約が自然成立。この時4万人以上のデモ隊が国会周辺を取り囲んでいた。 |
ト書き |
翌早朝、夜の帳が白々と明けていった時、群集が重い腰を上げ、散乱したプラカードや紙屑やゴミを集め、捜し出してきた箒まで持ち出して、まるで町内会の清掃作業ででもあるかのように清掃が始まった。そしてそれを燃やし始めた。 |
れんだいこ |
この日予想に反して何も起らなかったということですね。 |
再来生田 |
常木守は次のように述べている。
概要「大デモの隊列が津波のように国会へ押し寄せ取り巻いた。何かが起こるはずだったが、何も起きなかった。ざわめきが遠ざかり、何十万の人々の巨大な群れが沈黙の中に沈んだ」。 |
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れんだいこ |
これをブントの敗北と見るべきかどうか。 |
再来生田 |
清水丈夫は次のように述べている。
「6.18で何十万人の大衆の結集が実現されながら、何ら為すことなく6.19の新安保条約の自然成立を迎えざるをえなくなったということは、かなり必然的なことだったといえます。6.18がブントの限界の露呈―破産の日であったということははっきりしていると思います」。 |
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れんだいこ |
島さんの気持ちはどうだったのですか。 |
島 |
「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田・・・・・」(「文集」)。 |
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れんだいこ |
闘った者のみが味わう感慨と苦痛でせうね。 |
島 |
「恐ろしいほどのバイタリティーで動いている日本産業社会の構造に迫り得る、何らの武器も持たなかったことも思い知らされた」。 |
「自ら拠って立ち、自らを促してきた原理への確信の揺らぎ」。 |
「最も基本的諸問題についてのイメージさえ描けない」(「ブント私史」島)。 |
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れんだいこ |
ということは、いざ権力を眼前にした時の萎えのようなものを語っているように思えます。意味深ですね。 |
S |
6.22日、第19次統一行動。総評.中立労連が政治ゼネスト第3波600万人、国会請願デモ10万人。
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れんだいこ |
この時日共は、党組織を大挙動員しています。都自連に結集した学生は8000名。何なんでせうね。 |
S |
6.23日、新安保条約の批准書交換が行われ、新安保条約が発効した。岸首相は、芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、退陣の意思を表明し次のように語った。
「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」。 |
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**氏 |
イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞に「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントつけている。
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