場面13 60.6.18日【安保条約自然成立、国会包囲デモ】考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.11日

 これより前は「全学連の国会突入、樺美智子死亡考」に記す。

【安保条約自然成立】
れんだいこ

 自然承認の日は目前に迫って参りました。

 国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的 に無期限ストに突入した。

 6.17日、社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。
れんだいこ

 6.18日、樺美智子女史の東大合同慰霊祭が行われました。

 6.19日、国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。
再来生田  ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時共産党の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。こうしているうちにも時計の針は回り、12時を越すと共に新安保条約は自然成立した。6.19日午前零時、新安保条約が自然成立。この時4万人以上のデモ隊が国会周辺を取り囲んでいた。 
ト書き  翌早朝、夜の帳が白々と明けていった時、群集が重い腰を上げ、散乱したプラカードや紙屑やゴミを集め、捜し出してきた箒まで持ち出して、まるで町内会の清掃作業ででもあるかのように清掃が始まった。そしてそれを燃やし始めた。
れんだいこ  この日予想に反して何も起らなかったということですね。
再来生田  常木守は次のように述べている。
 概要「大デモの隊列が津波のように国会へ押し寄せ取り巻いた。何かが起こるはずだったが、何も起きなかった。ざわめきが遠ざかり、何十万の人々の巨大な群れが沈黙の中に沈んだ」。
れんだいこ  これをブントの敗北と見るべきかどうか。
再来生田  清水丈夫は次のように述べている。
 「6.18で何十万人の大衆の結集が実現されながら、何ら為すことなく6.19の新安保条約の自然成立を迎えざるをえなくなったということは、かなり必然的なことだったといえます。6.18がブントの限界の露呈―破産の日であったということははっきりしていると思います」。
れんだいこ  島さんの気持ちはどうだったのですか。
 「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田・・・・・」(「文集」)。
れんだいこ  闘った者のみが味わう感慨と苦痛でせうね。
 「恐ろしいほどのバイタリティーで動いている日本産業社会の構造に迫り得る、何らの武器も持たなかったことも思い知らされた」。
 「自ら拠って立ち、自らを促してきた原理への確信の揺らぎ」。
 「最も基本的諸問題についてのイメージさえ描けない」(「ブント私史」島)。
れんだいこ  ということは、いざ権力を眼前にした時の萎えのようなものを語っているように思えます。意味深ですね。

 6.22日、第19次統一行動。総評.中立労連が政治ゼネスト第3波600万人、国会請願デモ10万人。

れんだいこ  この時日共は、党組織を大挙動員しています。都自連に結集した学生は8000名。何なんでせうね。 
 6.23日、新安保条約の批准書交換が行われ、新安保条約が発効した。岸首相は、芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、退陣の意思を表明し次のように語った。
 「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」。
**氏

 イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞に「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントつけている。


【樺美智子追悼国民葬】
 6.23日、樺美智子追悼国民葬。参加者約1万名。日共は不参加を全党に指示し、次のように述べた。
 「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」。
**氏  その夜、全学連主流派学生250人が、アカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。
れんだいこ

 日共は、これをトロツキストの襲撃として公表し、6.25日、アカハタに党声明として次のように顛末を報じています。

 「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」。
**氏  ちなみに、6.25日「人民日報」は、「安保闘争における樺美智子を『日本の民族的英雄』と称えた」毛沢東の談話を掲載している。
れんだいこ  この対比が鮮やかですね。これは、実際に革命に成功させた者と単なる口舌の徒との認識の違いのように見えますね。
ト書き

 6.25日から7.2日にかけて第20次統一行動。しかし、自然承認後、安保闘争は急速に衰えていくことになった。

 安保闘争は、南朝鮮の李承晩政府打倒の闘争と共に国際的にも高く評価された。国民会議が結成され、17次にわたる統一行動を組織し、社共統一戦線を作り出し、総評他の諸組織をこれに結合させていた。安保は改訂されたが、アイゼンハワー大統領の来日を阻止し、岸内閣を打倒させた。政治的な偉大な経験と訓練を生み出した。この時代の青少年にも大きく影響を与え、政治的自覚を促した。この時から幾年か後、再び学生運動の新しい昂揚を向かえるが、この時蒔かれた種が結実していったともみなせられるであろう。

**氏  日共は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。

 「擬制の終焉」(60.9月号)は次のように記している。
 「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」。

 これが実感を持って受けとめられた。
ト書き  この後まもなくデモ参加者も急速に潮を引いていくことになり、この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。

【60年安保闘争総括考】
れんだいこ  こうして安保闘争は終わりましたが、戦後反体制運動の画期的事件となりました。この価値は今も燦然と輝いているように思います。
再来生田  常木守は、「60年安保とブント」の中で、「60年安保闘争―民衆の直接的な政治行動とブントの革命理論を交錯させた運動」であったとして、次のように評している。
 「安保闘争は、日本共産党の党内闘争の中から国際共産主義運動の鬼子として生まれ、反体制運動の『邪魔者』として現れたブントが、民衆の直接的な政治闘争と切り結び、既存の指導部を越えた民衆の運動の先端に突き抜けた政治闘争だったが、それゆえにまた、その墓場ともなった闘争でもあった」。
 「私達はあの時、何に対して『敗北』したのか。また、『敗北』したのは何だったのか。その後の状況が鮮明にしたように、私達が高度資本主義の経済的な新たな自己展開力に『敗北』したことは、誰の目にも明瞭である。しかし、私達はそれによって吸引され、形成され始めていた民衆社会への混沌とした転換期にある民衆それ自体に『敗北』したことを理解できなかった」。

 多田靖は、次のように評している。
 「安保闘争の総括は敗北の確認に尽きるものではない。人民の闘いの偉大な経験として積極的総括こそ為されるべきであろう」。

 小川登は、次のように評している。
 「60年安保闘争に象徴されるラディカルな闘争戦術、時々の情勢への対応と闘争戦術の根幹は、いわゆるシミタケ(清水丈夫)全学連書記長によって体現されていた、といってよい。色の白い男前の彼は、全国の女子学生の憧れの的であった」。

 大瀬振は、次のように評している。
 「嫌なことや苦しいこともあったはずだが、今残っているのは高揚感と充実感だけ」。
 「ブントが生まれることによって、初めて一定の大衆的基盤を持った非共産党的革命派の運動が出現した。いわゆる『新左翼運動』は、ブントと共に始まったといってよいだろう」。
 
 星宮*星は、次のように評している。
 「20代の青春の真っ只中を燃え立たせた、結果や失敗や損得を無視して、情熱・理想の赴くままに疾走していった。掛け替えの無い青春の一時期だったと思う。この時期、最も抜きん出ていた友人の一人が島成郎であった。彼を知りえたのは私の人生にとっても限り無い、良き歴史の一ページであったと思う」。
れんだいこ  こうして様々な印象で語られていますが、「60年のブントを体験し、中途半端な燃焼と中途半端な総括のままである自分」(山田恭*)というところが最大公約数的な実際であったのではないでせうか。この陰影がその後に尾をひいていくことになりました。
**氏
れんだいこ  「60年安保」で宮顕の指導する日共の変調さが浮き彫りになりました。徳球時代のアカハタ編集長・藤原春雄氏は、「現代の青年運動」(新興出版社)の中で次のように批判しております。
 「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。その為、安部闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」。

 ところが、後の民青同系全学連委員長となる川上徹氏のような捉え方もある。

 「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロッキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロッキストとの様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」(著書「学生運動」)。
**氏  いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感があるな」。
れんだいこ  社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように総括している。
 「60年安保闘争ではこの国民会議を中心に23次にわたる統一行動が繰り広げられることになるのだが、しかし、60年に入って新安保条約の調印、国会承認という正念場を迎えてもなお総評幹部たちの間からは『安保は重い』といったつぶやきが聞こえる有様で、春闘の賃上げ闘争と抱き合わせの形で時限ストを打つといった闘いが関の山であった。

 だが、それも当然であろう。というのは、彼らは安保闘争を単に平和主義、民族主義、民主主義の観点から提起したに過ぎず、何千万労働者大衆の搾取・抑圧に基礎をおくブルジョアジーの支配に反対し、そして今や再び帝国主義的な自立と発展の方向に歩み出そうというブルジョアジーの野望に反対する労働者の階級的な闘いの一環として安保闘争を位置づけ、組織しようとはしなかったからである。

 そして、社会党や総評に輪をかけてこの闘いを民族主義的な方向にねじ曲げ、解体し、足を引っ張ったのが共産党であった。宮本体制が確立しつつあった共産党は、新安保条約が『依然として対米従属の屈辱的条約』であると憤慨し、『安保闘争のほこ先をアメリカ帝国主義にも向けさせる』(『七〇年党史』より。文中『にも』などといっているが実際には反米民族闘争に還元)ことにこれ努め、また大衆闘争を『請願デモ』などの合法的な『整然たる行動』に押し込めるために狂奔した。そして、全学連などの自然発生的な闘いの高揚に恐怖し敵対し、それを『極左挑発行動』と非難し、彼らに『挑発者』、『トロツキスト』、『帝国主義の手先』等々のあらゆる悪罵・中傷を浴びせることに血道を上げたのである。

 こうして、60年安保闘争は社共の醜い日和見主義とその反労働者的な本性を白日の下にさらけ出し、労働の解放のためには社共に代わる新たな労働者党の創設がどうしても必要なことを決定的に明らかにした。この点でそれは大きな歴史的な意義を持ったのであった。

 あれから40年、これが真実であったことは、今では誰もが認めるところであろう。この日和見コンビはその後の資本主義の相対的な安定と繁栄の中ですっかり体制内に取り込まれ、その片方の主役であった社会党はその支持母胎であった総評もろともブルジョア的な堕落を重ねた挙げ句、組織的にも消滅してしまうという劇的な末路をたどり(今では見る影もない小政党にやせ細った社民党がわずかにその衣鉢を継いでいるに過ぎない)、もう一方の主役である共産党もまたその日和見主義を全面開花させ、『「対米従属』の色眼鏡は今なおかけたままだが、もはや『資本主義の枠内での改革』しか言わない俗悪な改良主義政党に転落してしまっている」。
れんだいこ  この時代の公安当局の弁えを見ておくことも意味があるように思います。
再来生田  東原吉伸は次のように証言している。
 「焦土と化した日本の国土と、敗戦による荒廃した人心をいかに立て直すか、これが当時有為の人間の、言葉に出さない共通命題だった。『学生は未来の社会の宝だ。出来ることなら逮捕を避けろ』といった公安幹部が、当時、少なからずいたという」。
 「自衛隊の治安出動についても岸側から要請が出されたが、当時の赤城防衛庁長官は、『世界で唯一、自国民に銃口を向けたことがないのが日本軍の伝統と誇り』として、岸首相の要請を斥けていた」。
れんだいこ  ということは、この時代の当局者には度量があり、今日のように何でも頭ごなしの規制や権力行使に対して一定のブレーキをかけていたということになるかと思われます。

 れんだいこは、これは、一時期戦後保守主流派を形成したハト派とその後のタカ派への移行という観点を媒介しないと解けないと思っておりますが、日本左派運動は一律的な政府自民党批判しかしないので見えてこない点だろうと思います。

【60年安保闘争から何を学ぶべきか】
れんだいこ

 青春を全学連と共に過ごした経歴を持つ森田実は、この頃のことを次のように回想しています。

 「1956年の砂川闘争から1960年の安保闘争、その後の共産主義批判のなかで、私は清水教授とより深く接し、多くのことを学んだ。60年安保闘争の直後に清水教授から直接聞いた一つの言葉を私は忘れることはできない。 『人間は自分自身の経験からは絶対に離れられない。それがどんなに惨めなものであっても捨てることは不可能だ。いかなる体験であろうとも生涯背負っていかなければならないのだ』。それから40年。清水教授のこの言葉は、私にとって一つの大切な人生の指針となった。 その2、3年前まで私はマルクス主義の信奉者だった。共産党のなかでは、自らの体験を重視する姿勢は『個人主義・経験主義』として厳しく批判された。党員個人の体験にもとづく創造的な提案はマルクス、エンゲルス、レーニンの言葉よりも下に見られ軽視された。

 私はこの共産党内の観念過剰の空気に同化することができなかった。私は1955年夏の六全協以後、党中央への厳しい内部批判活動を行い、中央本部と激しく対立し、ついに1958年に中央委員会決議により除名された。共産党から離れて自由にものを考えるようになった頃、清水教授から直接話を聞く機会が増え、清水教授の経験重視の思考から大きな刺激を受けた。清水教授の墓石には、自筆の次の言葉が刻まれている――『経験、この人間的なるもの』――『経験』が清水教授の生涯を通じての思索活動の中心におかれていたことが、この言葉に示されている」。

 森田氏は体験の重要性をかく語っている。それによると、体験は経験とは少し違うとして次のように云う。

 「体験と経験は個人生活のレベルでは同じ意味であり、『広辞苑』(岩波書店)でも「体験」を「自分が身をもって経験すること、また、その経験」と定義している。しかし、哲学の世界では少し違いがある、と云う。『岩波哲学・思想事典』によると、その差は次のようなものである(丸山高司氏執筆) 。「〈体験〉概念は、多くの点で〈経験〉概念と重なり合うが、それとの相違点をあえて強調するなら、直接性や生々しさ、強い感情の彩り、体験者に対する強力で深甚な影響、非日常性、素材性、などのニュアンスをもっている」。

 このことを踏まえて次のように述べている。

 「『体験』は私の人生を動かしてきた決定的な要素なのである。故清水幾太郎教授の教えのとおり、自分自身の体験はいかなる偉人の体験よりもずっと大切で価値の高いものである。しかも、たとえ自分自身の体験がどんなに醜く恥すべきものであったとしても、それから逃れることはできない。己の体験をしっかりと受け止め、これと共存する以外に道はないのである。この認識と強い自覚を持てば、人それぞれに前向きで個性ある人生を送ることが可能になるだろう」。

 これをれんだいこ的に理解すれば次のようになる。森田氏が云わんとすることは次のようなことではなかろうか。森田氏は60年安保闘争を多くの仲間と闘った。今日から見ればいろいろ鋭さ稚拙さその他もろもろ功罪あろうが、闘った者のみ分かる手応えというものがあり、それは机上の何万冊の書よりも大事なものであった。あの時の手ごたえ、掴んだ感覚を大事にしながらその後を軌跡していったことが、今日から見て非常に有益であった。このことを強調しておきたい、ということではなかろうか。

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 これより後は「あぁ無情」に記す。





(私論.私見)