場面15 | その後の新左翼運動がどこをどう誤まったのか考その1、左派運動のあり方考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.11日
これより前は「あぁ無情」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
この課題について思うことは、次のことである。れんだいこは、学生時代を民青同系の中で過ごした。自治会執行部が連中であったことから何気なく交流が始まったということに過ぎなかったけれども。キャンパスには他の党派としては革マル派しかいなかった。名残りとして社青同解放派を恋る一定の隠然勢力があったぐらいである。従って、ブントは一番遠いセクトであった。そういう立場のれんだいこが、今ブントを見直そうとするのは皮肉と云える。皮肉ではあるが、遠くから見るので渦中の者には見えない視点があるだろう、ということになるだろうか。 一番困ったことは、島さんの葬儀に参列して、その前後の頃ブント系と思われる掲示板に出没してみたが、第二次ブント以降の分裂に継ぐ分裂の過程でのブント論がノスタルジーされていることであった。失礼ながらもの言うと、第一次ブントが何ものかについてほぼ認識がないままのブント論でしかなかった。なぜかようなことになってしまっているのか分からない。党史を学ばない運動なぞ有り得ないのに、その有り得ないことが起っていることが分かった。 以来、第一次ブント論をまとめたいという思いがずっとあった。折々に書き続けていたが、このたび島成郎記念文集刊行会(事務局・古賀康生)により「60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む」、「ブント書記長島成郎を読む」2冊が発刊されたことを期に一つのストーリーに纏めてみた。この考察が活用され、もっと豊かに肉付けされることを望んで止まない。 |
【ブント運動に於ける好暴力運動性志向考】 | |||
「その後の新左翼運動がどこをどう読み誤ったのか」は、第二次ブント運動の最北の果てに位置する連合赤軍の破産、パレスチナ支援に向かった日本赤軍の破産、よど号グループ赤軍派、中核派・社青同解放派対革マル派の党派間抗争の経験から考察したほうが実践的かも知れない。そういう意味で歴史を逆からズームアップさせて検証して見たい。 まず第一は、ブントにも濃厚にある好暴力運動性志向である。これは特に連合赤軍事件に関係している。一体全体、左派運動の中に運動圏内の中への暴力が公然と持ち込まれるなぞということが許されて良いことだろうか。革命運動としての暴力性の不可避性と運動圏内の中での暴力性は認識上明確に区別されるべきではなかろうか。史実は、ごちゃまぜにされたまま、というか専ら運動圏内への暴力性の跋扈のほうにエネルギーを費やしてしまったのではなかろうか。 もっとも、左派圏内に左派でもないものが左派用語を駆使しながら暴力的に跋扈し始めたとき、これにどう対応すべきかという暴力論も必要であるから、更に困難な認識上の区別を獲得せねばならない、という問題もある。そういう意味での理想的な運動を展開する党派が生まれたら、次第に力量を増し、大衆的な支持を一挙に獲得する可能性があるのではなかろうか。残念ながら、未だ不十分という思いがする。 れんだいこは、「戦後学生運動論」の「れんだいこの戦後学生運動論雑記」の中で次のように記している。
さて、第一次ブントの暴力性はどの程度にあったのだろうか。これを検証してみたい。60年安保闘争時のデモ隊は素手とスクラムによるせいぜいジグザグ・デモを特徴としていた。加えて、島―生田指導部にあっては、論争を重視し、自治会運動においても堂々とした所信を披瀝しながらの自治委員獲得運動を展開しており、これを勝利的に貫徹した。従って、運動圏内に暴力性が持ち込まれることもなかった。これはブントの作風であり、継承されるべき重要事項であるように思われる。 その例外として、全学連大会での反対派の締め出しが起っている。主として民青同系及び革共同関西派に対して適用されたが、返す返すも残念な汚点であるように思われる。もっとも同情すべき余地も多い。なんとならば、民青同系の場合、宮顕系日共の号令一下、全学連中央の指導に対する混乱を意図的作為的に演出してきている訳だから、戦闘的に闘う指針を議決する為には強権的に締め出して整風する以外に方法が無かった。そういう意味では評価が難しい。 第一次ブントの暴力性は、専ら対国家権力との闘争に費やされた。国会構内への数次の突撃、羽田空港占拠、首相官邸突撃等々はその象徴的事件である。この暴力性が是認されるのか、されないのか、論者によって意見が分かれるであろうが、れんだいこは是認したいと思う。何とならば、当時の岸内閣のウルトラ右翼的な安保改定経過と憲法改正論を思えば、それを掣肘するのにブント的な抗議の表明こそが真に有効であったと思うから。事実、岸内閣は打倒された。左派運動史上、自らの運動で内閣を打倒した例はこれを措いてない。そういう意味での金字塔となっている。 してみれば、全体的に見てブントの暴力性は極めて理に叶っていた、とみなされるのではなかろうか。第一次ブントの暴力は、それが左派運動圏内に使われるようなことは必要止むを得ずの場合にしか起さず、主として対国家権力そのものとの闘争に向かった。それも警官隊との衝突を好んだ訳では無く、そこを飛び越して先にあるもの即ち最高権力体としての国会へ突入したいが為に、これを遮るものへの暴力行使であった。それは運動上不可避であった。というような観点から、れんだいこは、第一次ブントが暴力性の発露において極めて原則的であったことを高く評価したい。残念ながら、この原則性がどんどん損なわれていくのがその後の左派運動であるように見受けられる。その由来を別章で考察しようと思う。 第一次ブントの暴力性で惜しむべきことは、次のことではなかろうか。ブントは、革命論・戦略論については日共と明確に対峙し得たが、組織論、運動論では同じ殻を引きずったのではないのか。これは日共の党活動の作法をそのまま下敷きにしていたことを語っているのではなかろうか。 「自分たちの為す事は正しい」とする確信があり、ともすれば「目的が正しければ、どんな手段を使っても許される」という「目的は手段を合理化する論」に依拠していた面があることが否定できないように思われる。「政治の原理は、『奴は敵だ。敵は殺せ』だ」(埴谷雄高「幻視の中の政治」)、「党は選民であり、党外の者は賤民であるという固定意識」(埴谷雄高「永久革命者の悲哀」)的論理を受容していた面がある。つまり、民主主義の素養と更にこれを練磨するという点での意識が決定的に欠如していた。第一次ブントが持っていたこの面での未熟さが、その後の暴力礼賛の水路となっていったのではないのか。 |
【第一次ブントの理論の秀逸さ考】 | ||||
ブントの功績の第二は、理論の秀逸さである。かの時代に被さる閉塞に対し原因を明らかにし、打開する方向を明示した。この先見力は、かの時代においてはかなり高い能力を有していたのではなかろうか。恨むべきは、この高みを持つブント理論の血肉化を促すべき理論活動がどこまで旺盛であったのか分からないことである。そういう割引き面を持ちながらも、二十代の俊英が頭脳を結集して理論活動に励み、今日から見ても堪え得る数々の共通認識を持ちえたことは驚くべき功績であるように見受けられる。
「山口一理」のペンネームで当時のブント理論を体現した佐伯秀光氏は、「60年安保とブントを読む」の中で次のように述べている。
佐伯氏は更に次のように云う。
かく語る佐伯氏の自負こそ当時のブント精神そのものであり、この観点から「10月革命への道」その他諸論文が打ち出され、時代を切開していたのではなかったか。 そのブント理論の白眉は、ゾ連邦の変質を鋭く認識してスターリズム規定の下に一刀両断的に打倒を掲げたことにある。当時に在ってこの認識の獲得がどれほど革命的先進的であったことか。その意味で、第一次ブントは日共の当時の理論とソ連邦崩壊後の居直り理論との落差につき嘲笑する資格があるというべきだろう。 ブント理論のスターリズム批判は理の当然として、スターリズム運動に替わるトロツキズム運動にも替わる世界革命に向けての自前の運動造りに向かうことになった。残念ながらこの方向においてはうまく行かなかった。というか、その前にブント自身が解体したことにより見果てぬ夢となった。 ブント運動は挫折を伴いながらも実践運動におけるそういう功績と共にマルクス理論そのものの検証にも功があった。一言でいえば「マルクスに帰れ」と云う認識の下にマルクス主義の再生へ向けての理論活動を旺盛化させた。「レーニン主義の復権」は、理論と実践の結合というモチーフから辿り着いた水準であった。レーニン主義の読み取りを単純化させた面が無きしもあらずであるが、マルクス理論の正統系譜がレーニズムであるとする観点はこれまた貴重であったと思われる。 と同時に、ブント理論の秀逸さはごった煮的柔軟なカオス構造にあった。マルクス主義であれアナーキズムであれ、その他諸々の有益理論を摂取し得る創造性豊かな開放系構造を用意しつつあったように思われる。残念ながら、この良さが即自的にしか認識されておらず、為に継承されていないように思える。 |
【第一次ブントの理論のごった煮的柔カオス構造考】 | |
ブントの功績の第三は、理論同様に実践の面でもまたごった煮的柔カオス構造にあった。この良さも即自的にしか認識されておらず、為に継承されていない。その対極は、理神論的硬直ロゴス構造であるが、これよりもたらされる『排除の論理』の弊害を思えば、第一次ブント運動が潰えたことは惜しみて余りある。 れんだいこに云わせれば、60年安保闘争後のブントが革共同に吸収されていったことは返す返す残念である。史実的には数年後、革共同全国委が革マル派と中核派に分裂し、ブントの指導者の多くが中核派に移行していることを見れば、ブントが革共同全国委の指導者本多氏を引き連れて先祖返りしたと見なせないことも無い。しかし、この経過は二流の歩みのようにれんだいこには見える。 もともとブントは革共同に行く必要なぞ無かったのではないのか、これがれんだいこの長年の疑問であった。こたび島氏の当時の「ノート」が公開されたが、この疑問が正論であることが裏付けられた。島氏自身そのように問いかけ、何がしかの裏工作に懸命であったことが書き付けられている。だがしかし、一度落ちた指導者のイスは二度と廻って来なかった。力尽き自身の行く末を暗中模索していかざるを得なかった。この経過が「ノート」に書き連ねられている。 そういう裏づけを得たのでここでも問うてみたい。
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【第一次ブントの反権威主義考】 |
ブントの情念として反権威主義の面があったことが案外考察されていない。当たり前すぎると見えないということだろうと思われる。 |
【第一次ブントの反タカ派主義考】 |
ブントの基本的スタンスとして反タカ派主義の面があったことが案外考察されていない。当たり前すぎると見えないということだろうと思われる。 |
れんだいこの第一次ブント総論】 |
れんだいこは、第1次ブントに対し、一見理論が秀逸なようでさしたるものではなく、その偉大さは本能的に岸政権打倒に向かった、その本能的な正しさを高く評価しています。その後の日本左派運動は、理論も低く、本能もデタラメになったような気がしております。それが今日の低迷の真の要因のように思っております。その意味で、限定的では有りますが、本能的に正しく闘った第1次ブントの面々に敬意を表しております。 |
これより後は「その後の新左翼運動がどこをどう読み誤ったのか考その2、池田内閣考」に記す。
(私論.私見)