れんだいこ |
日共主導によるハガチー事件が、ブン ト系全学連を大いに刺激した風があり、以降一段と闘争のエポック.メイキングに向かっていくこととなった。蔵田計成氏は次のように証言しています。
「6.10ハガチー闘争の衝撃的な高揚を目の前にして誰よりも党派的危機感と戦慄を覚えたのはブント同盟員であった」。 |
|
再来生田 |
ハガチー事件が起った時我々は全都学細代を開いておりました。全学連指導部は、次のように意思統一致しました。
「労働者のストはダラ幹によって小規模なものにされている。共産党は安保闘争を反米闘争にそらし、国民会議も右翼的なダラクした状態の中で自然成立をはばむ道は国会突入以外にない」。 |
4.26以降初めて完全な意思統一がなった。6.15日に照準を合わせて国会突入と無期限の座り込み、総指揮は北小路、技術的装備を生田が担当することを取り決めました。 |
S |
6.11日、23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。 |
島 |
この頃警備側のトップ三井警視庁公安第一課長が、ブントの事務局を訪れています。「アイク訪日に対して全学連はどう動くか」の直接事情聴取であったように思います。私は次のように云ってやりました。
「ブントは別に何もやらない。しかし、大衆の怒りがどう爆発するかは、分からない。統制ある指導をしたいと思っても、4.26以来、ブントの幹部はほとんどパクられているじゃないか。連中を早く返せ」。 |
そのせいかどうかは知りませんが、つかまっていた連中のうち、唐牛と篠原以外は、全員が保釈になりました。まさに丁丁発止の駆け引きでしたね。 |
れんだいこ |
この頃、岸首相が自衛隊の出動を要請していますね。 |
再来生田 |
岸首相はアイゼンハワー大統領の訪日に固執し、防衛庁長官赤城宗徳を南平台の私邸に呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請した。赤城は次のように述べて反対した。
概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」。 |
|
れんだいこ |
内閣不一致が露呈しているということですね。 |
再来生田 |
当時の自衛隊陸上幕僚長杉田一次も、「陸幕がアイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)を完成し、大統領訪日に際し、諸行事にいささかも齟齬を来たさないような態勢ができつつあった」と、治安出動を含めた諸準備が為されていたことを明らかにしている。しかし、この時動かなかった。 |
れんだいこ |
いよいよその日になりました。 |
S |
6.15日、国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。この日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。 |
**氏 |
大衆は、整然たるデモを呼びかける共産党を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。 |
再来生田 |
ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人が国会前に集結した。午後5時過ぎ、国会裏を通行中のデモ隊に、自称「維新行動隊」名の右翼が棍棒をふるって襲い掛かり、約80名が負傷した。これに刺激されたような形になり、先頭部隊が国会南通用門に突入突破した。明大.東大.中大の学生が主力であった。京都から呼び寄せていた中執の北大路敏氏が総指揮を執り、宣伝カーに乗りアジった。 |
れんだいこ |
当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。 |
ト書き |
この時都自連に結集した1万5000名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っている。 |
れんだいこ |
この時の日共の変調指導ぶりが暴露されています。日共の指揮者たちは、「トロツキストの挑発に乗るな」とピケットラインを張り、デモ隊を国会から銀座方面に流し続けたとのことです。
辻泰介氏は、「暗黒の代々木王国」の中で次のように記しています。
「デモがぴっしりと取り巻き、ひしめいている国会周辺で、私と同じような地区委員や勤務員の多くの同志たちが、赤い腕章を巻いて、交通整理のような役をやらされていました。それは、どういう交通整理であるかというと、体当たりするような激しいデモを国会にぶつけ、機動隊にぶつけている全学連の一かたまりの部隊と、人数はそれの十倍もあって、長蛇の列を為して国会めがけてデモってくる労働組合の大部隊との間に、割って入って(割って入ってというよりは、予め、丁度通行禁止の立て札のように一列を作って立っていて、)労働組合員たちのデモを右のほうに円滑に流れさせて行く、そういう交通整理でした」、「労働者と学生とを一本化させなかった。その少なくとも一つの原因は、私たち共産党員が身をもって作った方向指示器にあったのです。わずか50メートルの間隔・僅かなのに、この間隔が埋められ、埋め尽くされることは、60年安保闘争ではとうとうありませんでした」。 |
次のような証言も有ります。
「宮本書記長が、国会デモがますます膨れ上がり、騒然とし始め、首都の至る所がデモによっていわば制圧され始めたこの時期、まるでセキを切ったように人々が街頭に溢れ出したこの時期に、党本部に全国の責任者を集めて、『ジグザグデモはまかりならん』というお達しをした、ということを、東京都の役員から聞かされた」。 |
概要「宮顕氏が指示したことのポイントは、ジグザグデモはやめろ、ということだ、というのです。半信半疑の私に−だって、もうその頃は、ジグザグなどは『声ある声』も『声なき声』も、女でも子供でもやりまくっていたのですから。アカハタの権威ある主張は、安保を如何に闘うか、ではなくて、本当に、『ジグザグデモはけしからん』ということを、それだけを主張していたのです。もう、マサカではありませんでした。後から思えば、宮本を頂点とする党中央にとって、『ジグザグデモを止めろ』というのが『安保を如何に闘うか』の方針に他ならなかった訳です」。 |
宮顕系党中央のここ一番の時の異様な動きを見据え伝えねばならないと思います。こうした事実が伝えられておりません。 |