428166−2 日本共産党の創立考(創立時の動き)

 (最新見直し2006.12.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 いよいよ日本共産党結成の時期を迎えることになる。が、日共党史の「正史」とは云うものは未だ無く、辛うじて「市川正一の血涙の公判弁明録」がこれに値する。個々の事件、事案を考察したものや当時の党員の回顧録のようなものはあまたあるが、通史としてのものでれんだいこの評価に足りるものはこれを置いて他に無い。とはいえ残念ながら、「市川党史」は戦前の党創立前、1922年創立時、以降「1929.4.16の大検挙」までの僅か7年程の重要な活動を述べてしかいない。本来であれば、その後の党史、戦後の党史について記述されるべきであろうが、「正史」たるものがない。宮顕−不破系の日共党史なぞは至るところ噴飯史で正視出来るものではない。

 という党史事情を踏まえつつ、以下、「市川弁明」を下敷きにしつつ考察していくことにする。最近、加藤教授に「コミンテルンへの定期報告書」研究=第一次共産党のモスクワ報告書・上下がインターネット上で公開されており、これも貴重資料なので参照させていただいた。

 ところで、最初に問題にしておかねばならぬことは次のことである。公認の党史がなべて触れていないところであるが、第一次共産党結成前期にあっては、大杉栄を頭目とするアナーキスト系の方がよりエネルギッシュで理論も深く、当局の弾圧に対してもひるむことなく活動を持続し得ている。これにより、アナーキストの多くが第一次共産党結成前後の状況に深く関わっている。この史実を的確に述べ伝えたものが見当たらない。れんだいこはこれをどう書き記そうか苦慮している。しかし、我等が左派運動史は端からええ加減に伝えられているのが分かり嘆息も深い。

 しかし、いよいよ日共運動が開始されるや否や、アナーキスト系とボリシェヴィキ系のそれまでの共存的競合関係が壊されていく。これにはコミンテルンの指導も関係していたように思われるが、日共マルクス主義者の偏狭性にも因るのではなかろうか。至るところで論争が火花を散らせて行くことになる。しかし、大杉の在世中は氏の卓越した指導能力によってと思われるがむしろアナ系の方が理論でも労働戦線でもイニシアチブを取っていた。この辺りはもっと考察されねばならない。

 その大杉らが関東大震災時に拘束され、その混乱に乗じて虐殺される。幸徳虐殺の「大逆事件」の場合には一応裁判手続きが踏まえられているが、大杉の場合即日なぶり殺しされている。この時、多くの朝鮮人、社会主義者も虐殺されており、仮に「関東大震災事件」と云うならば、日本左派運動は、先の「大逆事件」とこの「関東大震災事件」の両事件により、官憲の暴圧にひれ伏していくことになる。以下検証する。

 2003.5.21日 れんだいこ拝


日本共産党の創立事情その1・特にコミンテルンとの関係考
 通説はこうである。コミンテルンの働きかけとこれに呼応する我が国最初の共産主義者達がコミンテルン日本支部としての日本共産党の結成に向かった。1922(大正11).7.15日に日本共産党が創立され、この時堺利彦を委員長に選出している。但し、党の綱領が採択されないままの党創立という「本来の意味での党結成要件を備えていない」出航であった。このことは、時局の要請に「バスに乗り遅れるな」とばかりに事大主義的に応じたものの、そもそもの日共創立時においてより日本発としての主体性が欠けていたことを意味する。この「陰」の面が、日共運動に終始纏いついていくことになる。

 れんだいこの「党創立時における没主体性批判」については、マルクス主義的共産主義運動はそもそも国際性にあるのだから、コミンテルンの指導により結成されたとして咎では無いとの異論もあろう。しかし、れんだいこはこう理解している。「理想的一枚岩的国際共産主義運動」なるものが世に在り得るのならそれで結構だ。しかし、思想、イズムをそういう風に国際センター機関の一元的指揮の下に跪かせるのは危険すぎる。よしんばレーニン的指導ならばぎりぎり許されても、スターリン的指導となるとロシア大国主義以外の何ものでもなくこれに拝跪するなどはあまりにも馬鹿げたことであった。

 
ちなみに、れんだいこのスターリン評は次の通りである。「れんだいこは、スターリンをマルクス主義者とは思っていない。もともと民族主義者で、当時のロマノフ王朝が日露戦争で日本に負けるような不甲斐なさに発奮してロマノフ王朝打倒、新権力樹立運動に加わった種類の人たちのドンではなかったか。スターリンは、ロシア民族主義の権化(ごんげ)では無かったか。この観点から有効な限りにおいてマルクス主義を利用した人であり、いつでも帝国主義列強との駆け引きの中で捨てることができた人」という風に見なしている。あるいは、最新の研究では、スターリンは無論10月革命遂行に結集した多くの幹部が、「シオンの議定書」派であったことが明らかになりつつある。

 この認識からすると、日共運動がその運動の当初より、既にソ共党中央がスターリン権力に掌握されその指導を全面化しつつあったコミンテルンの指導に従っていったことは、あまりに世間知らずであったことになる。しかし、当時の日本左派運動は、ソ連を逸早く解放に成功した理想的労農国家としての祖国像を抱いていたので、却ってコミンテルンの指導を誉れにし更に進んでより緊密に擦り寄ろうとしこそすれ、一度はそこから離れて自律性(自主独立性)を担保するという観点は生ぜしめようも無かった。これが時代の「ニューマ」というものの威力であるかも知れぬ。
 ちなみに、日共運動史にあって宿アとなっていたコミンテルン拝跪主義に最初に反発を示したのは、1950年初の「コミンフォルム評論(俗に「スターリン論評」と云われる)」報道に接して、「「コミンフォルムの若造が何を云うか」と憤懣をぶつけた当時の日共最高指導者・徳球書記長を嚆矢とする。ところが実際には、「コミンフォルム評論」がスターリン直々の論評であったことが判明するや、徳球は忽ち腰砕けになった。

 この時、スターリンの尻馬に乗り、「無条件で論評に従うべきだ。それが国際共産主義運動の鉄の規律だ」との観点から徳球執行部の対応を批判し抜いた宮顕が、その後1955年の六全協を経て党中央を掌握し、反ソ共運動、反中共運動の挙句に自主独立路線を確立することになった。この功績は宮顕に帰属するが、随分胡散臭い自主独立路線ではある。通常ならば、徳球執行部批判の際に用いた論法の自己批判抜きに自主独立路線を説くことは厚顔の至りであろうが、日本左派運動はこういうところは問題せずの結果オーライ論者で占められているようで、つまりは御似合いなのだろう。

 補足すれば、宮顕の履歴において評価しうるものがあるとすれば、この自主独立路線の確立である。しかしこれを精査すれば、自主独立路線はコミンテルン拝跪型の運動を土着型のものへ転換せしめたという限りのものであり、それは日本左派運動史上の変調性の是正という意義はあっても、それ自体は未だ海のものとも山のものとも分からない形式的なものである。宮顕履歴の評価は、そういう自主独立路線という入れ物にどういう内容のもの盛り込んだのかで問われねばならない。さて、宮顕路線とはどのようなものであったのだろうか。それは論者の判断にお任せしよう。

1922(大正11)年

コミンテルン内に日本に関する綱領問題小委員会が設けられる

 6月、日本共産党創立について、高瀬らが、山川均、堺利彦、佐野学、暁共産党同志らと協議。第一次共産党の結成準備に着手する。コミンテルン第2回拡大執行委員会で、日本問題に関する綱領問題小委員会が設けられ、テーゼの作成が提議された。同年11−12月のコミンテルン第4回大会時にモスクワで討議・起草され、同大会日本共産党代表団(高瀬清、川内唯彦)が持ち帰って、1923.3月石神井での日本共産党臨時大会で審議され、「日本共産党綱領草案=22年綱領」となる。


日本共産党の創立事情その2・党創設を担った主体、選出委員について
 7.15日、渋谷伊達町の高瀬の下宿にて共産党結党が執り行われた(「第一次共産党の創立」)というのが通説である。この時、共産党は第三インターナショナル日本支部として向うべく結成された。

 創立大会の参加者は8名(堺利彦・山川均・近藤栄三、吉川守國、橋浦時雄、浦田武雄、渡辺満三、高瀬清)で、この時中央委員(執行委員、暫定委員とその名称は様々に伝えられている)に選出された者は、堺・山川・近藤・荒畑寒村・高津・橋浦・吉川の7名で、委員長に堺利彦、bQに佐野学が推挙されている。従って、第一次共産党時代の指導部は、堺−佐野体制とみなしてよいと思われる。

 他にも、市川正一・渡辺政之輔・徳田球一・鍋山貞親・野坂参三らが参加している。経過から見て、黒幕は徳田球一と思われる。確認すべきは、日本共産党創立の中心メンバーは、「堺利彦・山川均・荒畑寒村」であり、この三名はいずれも後に脱党している。その後は労農党に依拠し、戦後は日本社会党左派として活躍することになる。してみれば、社会党左派こそ日共の生みの親としての元祖系譜に列なっていると云えそうである。

 ここで疑問に思うことは、創立時のメンバーと「日本共産党の創立考(創立前までの流れ)」で見てきた「極東勤労者大会」参加帰国者との関係がはっきりしないことである。思案するのに、彼等「極東勤労者大会」メンバーは裏に隠れ、7.15日創立メンバーは公然面を担う為のいわば体よく押し上げられた「飾り」では無かったか。「飾り」とまでは行かないにしても。

 それが証拠に第一に、大杉栄らアナーキスト系の流れが絡んでいない。不自然すぎることである。第二に、「極東勤労者大会」参加帰国者の有力メンバーにして戦後党運動の最高指導者として君臨することになる徳球が中央委員に選出されていない。徳球は、自著「獄中18年」においてこの時中央委員の一員に選出されたと述べているが、表見する史実には出てこない。徳球が虚偽を述べていると見なすより、むしろ裏合意として為されていた可能性がある。ということは、「表の合意」と「裏の合意」の二本立ての党創立ストーリーがあると考えられる、のではなかろうか。

 徳球が出席していない理由として、コミンテルンからの支度金5万円を高尾が所持したまま党の活動資金として提供しないと云う事態が発生しており、これに徳球が共謀しているとの嫌疑が氷解していなかったという事情によると説く説がある。しかし、これは悪意のある者よりする誹謗かも知れず真偽不明としたい。むしろ確認すべきは、党創立時に既に徳球の地下工作が為されており、そのイニシアチブで党創立まで漕ぎ着けていることであり、この史実は疑うべくもない。

 確認すべきは、日本共産党創立の中心メンバーは、「堺利彦・山川均・荒畑寒村」であり、この三名はいずれも後に脱党している。その後は労農党に依拠し、戦後は日本社会党左派として活躍することになる。してみれば、社会党左派こそ日共の生みの親としての元祖系譜に列なっていると云えそうである。

日本共産党の創立事情その3・党創立日

 共産党結党は、1922(大正11)年7.15日、渋谷伊達町の高瀬の下宿にて執り行われたというのが通説である。しかし、「日本共産党創立=1922.7.15日」説は、今も確認し得ない。1930年代初頭の獄中闘争において徳田球一・市川正一らによって弁明されたものが「神話」化したものであり、史実としては確定されていない。 

 
最近になって加藤哲郎教授グループにより、「日共創立7.15日説」を覆す資料が呈示された。「大原社会問題研究所雑誌」掲載の「旧ソ連秘密文書解読第2弾『1922年9月の日本共産党綱領(上・下)』」に拠れば、モスクワで「22年党綱領」が発掘され、それによれば、概要「日共の創立は1922年の7月ではなく9月であり、堺ではなく荒畑寒村を総務幹事(書記長)として日本共産党が結成された」とのことである。

 
いずれにせよ、この前後に開かれたことは疑いない。重要なことは、この会合において、1・コミンテルン規約、2・21ケ条の加盟条件、3・プロレタリア独裁の指導原理、4・コミンテルン第4回大会への代表派遣、5・党綱領・規約の承認、6・党役員の選出が為されたということである。それは、コミンテルンの「22年テーゼ」が高瀬の手を通じて示され、それが叩き台となった、と云われている。(「補足・党創立異聞、君主制取扱い議論考」で検証する)


日本共産党の創立事情その4・党綱領の未採択考
 日本共産党は創立されたが、この時党綱領は採択されなかった。では、党の創立時に何ゆえ綱領が採択されなかったのかというと、以下に列挙する重要事項において参集した活動家達の間で見解が一致しなかったからであった。

党創立の是非論  労働運動との絡みで党創立の是非論、時期尚早論。
君主制廃止の是非論  「君主制(我が国では天皇制)に対する態度問題」
ブルジョア革命かプロレタリア革命かの戦略論  ブルジョア革命かプロレタリア革命か、どちらを目指すのか、その相関論。
「アナ・ボル論争」総括論  「アナ・ボル論争」をどう総括するのか

 そういう事情もあって、その年の秋のコミンテルン第4回大会時に「君主制の廃止」スローガンを掲げた「日本共産党綱領草案」がつくられ、それを1923.3月の臨時党大会で議論することになった。が、又しても紛糾、継続審議となっている。が、直後に国家権力による弾圧が襲い、結局「君主制の廃止」スローガンは審議未了のままで採択できなかった。

 この経過を踏まえれば、日本共産党の現党中央が「創立時から、天皇制に一貫して反対してきた輝かしい伝統を持つ党」と自称してのは、厳密な意味では問題がある。
 

 これらの議題は、いずれも最肝要な理論的課題にして未だ決着が着かないままに党の創立そのものが優先され、継続審議に付されたものの、戦前の党運動の全歴史を通じて否戦後の党運動の今日にいたるまで未解決のままに提起され続けている。「一時は行動主義、一時は理念的理論主義、一時はサロン主義に変調しながら党の旗を護るという気概だけが真紅であった」と評されるような歩みを進めていった、という史実経過を見せている。

 加藤哲郎教授グループにより、これまで全く知られていない「草案ではない創立綱領」が発掘された。そこにも「君主制廃止」スローガンは見当たらないとして次のように見解披瀝している。
 概要「君主制廃止スローガンについては、当時の日本共産党のモスクワへの報告書類では、いわゆる『27年テーゼ』まで君主制が問題になった形跡はなく、問題にされたのは、もっぱら『政治革命とプロレタリア革命』の関係、普通選挙と合法無産政党結成問題だけでした」。

【当時のコミンテルンの指揮系統】

 この頃、佐野学、徳田球一を指導していたのは、コミンテルンの極東委員会の中心人物のヴォイチンスキーであった。ヴォイチンスキーは、日本資本主義の危機目前説の観点から指導した。トロツキー派であったため、スターリン対トロツキー政争の渦の中で失脚することになる。


日本共産党の創立事情その5・創立後の最初の政治運動、相次ぐ入党
 共産党の創立後の最初の政治運動について、志賀義雄の「日本革命運動の群像」は次のように記している。
 「ロシアから手を引け」という対露非干渉運動であり、神田のキリスト教青年会館で初めて演説会を開いている。司会者は市川正一の弟義雄で、開かれるとすぐに解散をくって実際には演説はやられなかった。この運動は大阪、京都、尼崎でも計画されていた」。

 いよいよ日本共産党が結成されたという評判が左派戦線に波及していき、続々と党員拡大が進められて行った。主に、日本労働総同盟(友愛会の後身)その他の有力労働組合の活動家の中から、野坂参三・赤松克磨・山本懸蔵・杉浦啓一・辻井民之助・中村義明・鍋山貞親・国領伍一郎・渡辺政之輔などが結集し、インテリゲンチュアからは佐野学・市川正一・佐野文夫・青野季吉等が。米国共産党から日本人部からは鈴木茂三郎・猪俣津南雄などが入党してきた。
 加藤哲郎氏は、サイト第一次共産党のモスクワ報告書・上下で、当時の日共指導部がコミンテルン宛に定期報告書を提出していたことを明らかにしている。これを見るのに、コミンテルンの歓心を引くよう順調に党活動が進展しつつあると過剰気味に報告されていることが判明する。

山川均が「無産階級運動の方向転換論」打ち出す
 7月、丁度共産党の設立が為された頃、「前衛8月号」に当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均の「無産階級運動の方向転換論」が発表された。この論文はその後の左翼運動と労働組合運動に重大な影響を及ぼすことになった。

 その要旨は次のようなものであった。
 「日本無産階級運動の第一期はまず少数前衛分子が自己の進むべき目標をはっきり見ることであった。即ち思想を純化し徹底化することであった。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を遙か後ろに残して進出したが、今や少数分子は敵のために本隊から断ち切られる危険がある。そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、後方に残された大衆の中へ帰って来ることでなければならぬ。『大衆のなかへ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ」。

 我々当面の運動はこの大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。我々の運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得てこなければならぬ。我々は無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的勝利を目的とする運動を今日よりも一層重視しなければならぬ。我々はいやしくも資本家の支配と権力の発露するあらゆる戦線に於いて、無産階級の現実の生活に影響する一切の問題に対して単なる否定の態度から積極的闘争の態度に移らねばならない。政治的否定は消極的であって、政治的対抗が真に積極的な戦術である。

 それではこの「大衆の中へ!」の「方向転換」は具体的にはどのようなものか。「無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そして我々の運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ」、「我々は勢い無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日より重視しなければならぬ。言い換えれば、我々の運動は実際化されねばならぬ」。

 つまり、こういう意味になる。過去二十年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった。少数の前衛が、本隊である大衆を後方に残して、思想的にマルクス主義理論を徹底化させ、純化させた。これは、独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった。

 今や、この第一期の意義の時代が終わり、次の第二期の時代に入るべきだ。運動の第二期においては、その徹底化させ純化させた思想を携えた前衛が、大衆の中に立ち帰り、意識の遅れた大衆を運動に参加させなければならない。その為には、大衆の日常的要求を組織し、その部分的闘争の意味を充分に評価すべきであって、『我々はいやしくも資本家の支配と権力の発露するあらゆる戦線に於いて、無産階級の現実の生活に影響する一切の問題に対して単なる否定の態度から積極的闘争の態度に移らねばならぬ。政治的否定は消極的であって、政治的対抗が真に積極的な戦術である』。即ち、戦線を無産階級政治運動にまで拡大しなければならない」。

 このような内容を盛り込んだ「方向転換論」は、コミンテルン第3回大会の「大衆の中へ」という方針を前提として、それまでの社会主義運動と労働組合運動との反省の上に立って、スターリンの指導するボル系マルクス主義の立場からサンジカリズムを理論的に克服しようとする意図を含んでいた。


 これをもっと分かりやすく云うと次のようになる。山川は、レーニン式コミンテルン運動の急進主義的前衛主義的党運動並びにボルシェヴィズム的組織論を忌避し、より穏和主義的に大衆組織の中へ入り込む党運動への「方向転換」を打ち出した。それは、当時の天皇制権力の苛酷な弾圧に屈服した上での敗北主義の立場からの合法的運動論であり、右翼社会民主主義との無原則的野合に繋がるものであった。

 そういう面が、党内の求心主義者から批判され、賛同は得られなかった。しかし、在地主義的合法化共産党論を本質とする山川イズムはその後の流れの一方の主流となっていくことになる。

(私論.私見) 山川均の「方向転換論」について
 山川の提起する「無産階級運動の方向転換」をどう評価すべきか論が分かれるところである。「社労党の日本社会主義運動史」の見解を下敷きにしつつ批判的に構成し直すことにする。
 「日本の社会主義運動は平民社時代の末期に議会政策派と直接行動派に分裂して以降、直接行動派の流れを汲む観念的で急進的なサンジカリズム的な傾向を根強く残していた」。
(私論.私見)

 「直接行動派の流れを汲む観念的で急進的なサンジカリズム的な傾向」とはアナ系運動及びそれに影響されたマルクス主義急進主義派のことを指していると思われるが、社労党がこのように認識するのならかなり本質的に右派的な党派であることが分かる。

 「こうした状況が早急に止揚されなければならない時期を迎えていたことは明らかで、その限りでは山川の問題意識は正当であった。しかし、山川が指し示した『転換』は日本の社会主義運動の現状を脱却し、正しい『方向』に導くものであったであろうか」。
 「日本の社会主義運動の歴史と現状を踏まえて、この時、提起されるべきは、これまでのサンジカリズム的な傾向を徹底的に克服し、真にマルクス主義的な立場に立ったプロレタリア政党(当時の状況にあっては合法・非合法の組織と活動を結合した)の結成をめざして、すべての革命的な分子を糾合し、そのための理論的、組織的な準備を開始することであったろう」。
 「ところが、山川の提起した方向はそうではなく、当時の社会主義運動や労働運動の直面していた欠陥を単に『前衛たる少数者』が『大衆』と遊離していることにのみ還元し、『前衛たる少数者』(山川は彼らを「思想的には徹底し純化していた」かに言うが、決してマルクス主義的に「徹底し純化していた」わけではなかったのだ)と『大衆』との結合を図るとの美名の下に、革命的な分子を個々バラバラに、あるいはせいぜい活動家グループとして、『大衆の当面の利害を代表する運動』すなわち労働組合運動や改良主義的な政治運動の中に追いやり、埋没させて、この貴重な勢力をそこに分散、解消してしまうというものでしかなかった」。
(私論.私見)

 この批判はおかしい。この論法に拠れば、山川の方向転換論が、「日本左派運動を労働組合運動や改良主義的な政治運動の中に追いやり、埋没させて、この貴重な勢力をそこに分散、解消してしまうという『ようなものでは無かった』」ことが判明すれば、論拠を失うであろう。

 「『前衛たる少数』と『大衆』との結合―社会主義運動の発展と勝利にとって、これが不可欠なことは言うまでもない。しかし、この『前衛たる少数者』がマルクス主義的な綱領や規約に基づく革命政党に組織されていてこそ、『大衆』との結合が本当の意義をもつのであって、革命的分子が個々バラバラに存在する『前衛たる少数者』では余り意味がないのである。ところが、山川は社会主義運動におけるプロレタリア革命党の役割や意義を少しも理解していない。いたずらに『大衆』や『大衆運動』との結合を唱える前に、それとは相対的に独立した形で意識的に革命政党を建設していくという独自の課題のあることを彼は知らないのだ」。
(私論.私見)

 社労党がこのように批判するのなら、是非社労党の軌跡でもって模範的マルクス主義政党振りを示してみよ。この党派の理論的探求には敬意を表しているが、この党派にも得手勝手な論法が鼻について仕方ない。

 「山川の主張は日常的な組合運動や改良闘争を通じて社会主義的な革命運動を発展させるという自然発生性に跪く経済主義の一種に他ならない。この『方向転換』論の延長上に『共同戦線党』論も出てくるのだが、第一次共産党が弾圧で解体させられた後、『根こそぎ解党』を唱えて解党主義に走り、党の再建に腐心する荒畑寒村の協力要請をにべもなく拒否したのもまたその必然的な帰結であった」。
(私論.私見)

 山川の方向転換論の本質は右派系理論であることにある。但し、物事には欠点もあれば長所もある。この両面を見据えて、弁証法的に欠点を批判し長所を再生的に受け継ぐような批判が欲しい。

【「綱領草案」発表される】

 1922(大正11).9月、綱領草案(1922年9月綱領)が発表されている。この綱領はソ連邦崩壊後漏洩されることになった機密資料の中から発見されたもので、加藤哲郎教授が「1922年9月の日本共産党綱領(上)(下)」論文中で、「モスクワに保存されていた日本共産党22年綱領」問題を検証している。

 加藤教授によると、コミンテルン文書館に保管されていた「1922年9月綱領」の発見は、定説の「日共の『日本共産党綱領草案=22年綱領』観」を覆すものであると云う。英文タイプ文書で、日本語文はなかった。「1922年9月の日本共産党創立大会綱領」(PROGRAM OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN)(Adopted by the National Convention of the Communist Perty of Japan, Sept. 1922)と題名が為されており、「1922年9月、日本共産党全国大会で採択」と明記され、「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」の直筆手書き署名があり、さらに中央に星印、そのまわりに「日本共産党幹部之印、The Executive Committee of the Communist Party of Japan」と彫られた大きな朱色の丸印まで押されている。加藤教授は、「官憲の手に成る偽造文書とは考えられない」と判定している。

 これを素直に見れば、これは草案ではなく、正式に採択された「日本共産党綱領」ということになる。「これがモスクワに届けられ、旧ソ連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所コミンテルン・アルヒーフに保存されていた」と云う。この文書がこのたび加藤教授らによりモスクワで発見された。これまで知られていなかった「まぼろしの1922年9月の日本共産党創立大会綱領」であり、日本共産党創設期の重要文書ということになる。

 「1922年9月綱領」は、政治、経済、農業、外交の4部門に分けて社会分析を行い、党の要求をスローガン化させている。今日から見ていずれも先進的なそれであり、土地の公有的観点を取り除けばほぼ全ての要求が敗戦後の日本の統治システムの中に導入されていることを思えば感無量でもあり、他面戦後社会の構造分析を為す際の一つの示唆を与えているようにも思われる。

 
「1922年9月綱領」の採択に当り、「君主制廃止」スローガンを廻って議論が重苦しく為されている。辛うじて採択されたものの実際の日本の運動にはほとんど影響を与えなかった。この綱領は、モスクワで23年秋に作成され、24年に独英仏語で発表されたが、同様に影響力を持たなかったようである。(「1922年9月綱領」で解析)


【日本労働組合総連合結成される】
 第一次共産党が創設される前後、労働運動戦線の一本化の動きが始まっていた。関西に労働組合同盟会、関東に機械労働組合連合が誕生し、全国的総同盟結成機運を盛り上げた。

 9.10日、総同盟系と反総同盟系の代表が交渉を重ね、日本労働組合総連合の準備委員会を開催し、規約草案作成まで漕ぎ着けた。しかし、総連合の中央集権制と理事選出の手法を廻って、日共系ボル派とアナーキズム系が対立した。

 9.30日、大阪で統一組織・日本労働組合総連合の結成大会を開く運びとなった。この頃労働運動におけるマルキシズムとアナーキズムとの対立が現われてきたが(アナ・ボル論争)、大杉はアナーキズムの代表的論客であり、彼の活勒によってアナーキズムの影響力の方が優勢に推移していた。両派は建前はともかく本音では真剣に労働組合運動の統一を図ろうという意志は希薄で、むしろアナ・ボル両派が自派の制覇を狙って、その決戦の場をここに求めたに過ぎなかった。

 かくして日本労働組合総連合の結成大会は堺、山川、荒畑などのボル派や大杉らのアナ派の面々をはじめ各派の社会主義団体、労働団体の幹部が勢揃いして見守る中、60団体を代表する代議員106名(組合員数2万7480名)が集まって、大阪中之島公会堂で開かれた。代議員には各三名の付き添いが許されていたうえ、これに両派の傍聴動員が加わって場内はごった返し、「この国の無産階級運動者が一時に総動員されたの感があった」。

【日本労働組合総連合が忽ち分裂する】

 しかるに、日共系ボル派とアナーキズム派がのっけから対立し、議事は最初から激しい怒号と野次の中で始まった。大会は、総連合の組織原則をめぐり自由連合主義を唱えるアナ派と中央集権主義を唱えるボル派の対立でデッドロックに乗り上げた。そうこうするうち官憲が駆けつけ、解散を命ぜられた。

 翌日、同じ会場で開かれた総同盟の大会は、アナ派が総同盟に歩み寄らない限り統一はありえないという決議をして戦線統一に門戸を閉ざしてしまった。この結成大会を機にアナ派は急速に凋落し、影響力を失ってしまった。そして、今度はそれまで隠されていた違った対立が総同盟内に発生し、総同盟の分裂へと発展していくのである。

 10.3日、総同盟中央派は、次のように声明した。

 「我等は労働組合をもって資本家階級に対抗する労働者階級の闘争機関と解釈する。而して資本家階級に於いては全産業的に、全国的に、あらゆる権力を集中して資本主義制度の城塞を防護すると共に労働者階級の搾取と抑圧とにこれを用いている。かくの如き資本家階級の戦闘力に対抗するには、労働者階級は労働組合の集中せる戦闘力をもって当たらざるべからざるは何人も認むるところである」。

 10月、アナ系は、正進会、信友会ら19団体の共同宣言「全国の労働者諸君に告ぐ」を声明した。

 「我々は何人よりも、より以上に戦闘力の強くなることを欲する労働者だ。しかしながら如何に戦闘力を欲すればとて当然中央集権的になるべき合同組織に賛成して、現在我々が通説にその日その日に悩みつつある束縛の鎖に繋がれるようなことは断じて欲しないのだ。それは金力の鎖を断ち切ろうとするために権力の鎖を一層強くするに過ぎない」、「真の労働者が他人の束縛を欲しない気持ちを心のドン底に持っている以上、如何なる労働運動も、この気持ちを土台にしなければならない。労働者は理屈によって集まるだろうが、それよりも更に気持ちを持って集まることが一層力強いことを知っているのだ」、「理論によって行為が生まれるのではなく、行為によって理論が生まれるものならば、我々労働者のこの気持ちは当然理論の土台を為すものだ。我々はこの意味に於いて自主、自治の気持ちによる自由連合が必要であり、又それが最も力強いものであることを断言して憚らぬ」。

 この大会の史的位相は次のことにあった。山本勝之助、有田満穂の「日本共産主義運動史」は次のように記している。

 「この大会の対立はこれまで長く日本の社会主義運動を支配したアナーキズム乃至アナルコ・サンジカリズムが、ロシア革命に祝意を表しながら、ポルシェヴィキ党の中央集権、独裁に反対してきた最後の告白であり、ポルシェヴィキに対する別離の場所でもあった。そしてその後日本の労働運動史に組合主義的割拠主義的分立永久に残すことになり、又ポルシェヴィズム派は中央集権的科学的結合によって日本の労働運動を強く支配するに至るのであった。而してアナ系の直接行動は過激社会運動取締法案を誘致し、他面中央集権独裁政権権力は治安維持法の死刑法を招くことになるのである」。

 アナとボルの蜜月時代が終わり、ボルはひたすら中央集権的組織論に向かい、アナは直接行動論に向うことになる。


 1922年、雑誌「無産階級」が発刊された。当時、豊橋で陸軍中尉をやっておった市川義雄が共産主義運動に参加するために、将校を辞めたときの退職金を元手にして発刊した。事実上、市川正一が主筆で、堺利彦の回顧によると「今日、日本でもっとも理論的水準の高い雑誌である」。
【学生運動の拡がり】
 1922年以降、学生運動は全国的スケールで拡大していく。9月、一高、三高、七高、佐賀高、浦和高、新潟高の7高等学校に、社会科学研究学生の連合として高等学校連盟が組織される。

 11.7日、日本本共産党結成3カ月後のロシア革命記念日のこの日、全国学生連合会が結成された。新人会(東大)、文化同盟(早大)、7日会(明大)、社会批判会(日大)、社会思想研究会(早大高等学院)、7日会(女子医専)、社会思想研究会(一高)などから50名が東大に集まり、学生連合会が結成された。新人会(東大)と文化同盟(早大)がリーダーシップを執った。

 11月、山川均、堺利彦、近藤、荒畑、佐野学らの創立委員が党の暫定的な綱領、規約を発表。


コミンテルン第4回大会

 11月、コミンテルン第4回世界大会へ向けて党代表として高瀬清を派遣、日本共産党をコミンテルン日本支部へと承諾。コミンテルン第2回世界大会で決定されたコミンテルン規約及び21か条の加入条件、その他プロレタリア独裁に関する指導原理を奉ずることを条件として。「ブハーリン起草の日本共産党テーゼ草案」が指示された。

 1922(大正11).11.5日よりコミンテルン第4回大会がモスクワで開催された。日本共産党代表として、その成立報告を兼ねて派遣されたのは高瀬と川内唯彦の2名であった。第二チタに到着すると、同地には高尾平兵衛・水沼熊・長山直厚ら7名が滞在しており、第一チタにおいて吉原太郎の指導で、シベリア出兵兵士への反軍宣伝を行っていた。片山潜執筆の反軍ビラをばら撒いていた。この当時、吉原はアメリカ・ソビエト・日本を股にかけて活動していた労働ボスであったが、ヴェイチンスキー・片山潜らとしっくり行かなかったようで後に国際的山師の汚名を着せられることになる。但し、この時点ではコミンテルンから日本代表のような形で尊重されていた。高瀬は北浦・水沼らを率いてモスクワに到着し、両名はクートべに入学した。

 コミンテルン第4回大会は、日本共産党の創立を正式に承認し、「コミンテルン日本支部日本共産党」との正式名称が定められた。これによって日本共産党はコミンテルンの一支部としての公認資格を得ることになった。当時、各国の共産党は、ウェルトパルタイ(世界党)として規定されていたコミンテルンの各国支部として位置づけられており、コミンテルンの認可と指導を受けることが革命主義の証であった。各国が在地的な党運動を目指すという自主独立運動路線は邪道視され、プロレタリア国際主義の旗の下求心力を強めようとしていた。

 ジノヴィエフは諸代表の前で次のように報告している。

 共産主義インターナショナル執行委員会及び幹部会は、大衆政治活動にはじめて乗り出した若き党に特別の顧慮と注意を払っている。過去15ヶ月間、共産主義インターナショナル執行委員会の援助によって日本、中国、インド、トルコ、エジプト、ペルシャのような国々は共産党及び共産主義グループが組織された。これらの国々には、第3回大会の時までは、僅か少数のルーズな組織を持つグループしか存在しかなかったのだ。これらの党は数的にはまだ弱い。だが中核は既に組織されている。(中略)日本にも小さな党ができた。それは執行委員会の援助によってサンジカリストの最も良い分子と結合している。これは若い党だが、重要な中核である。日本の党は今こそその綱領を発表すべきだろう。

「22年テーゼ」発表される

 この時、活動方針として「日本共産党綱領草案」(以下、「22年テーゼ」と云う)が与えられた。この「22年テーゼ」が、日共運動の最初の党綱領となる。「22年テーゼ」は次のように指針していた。

「封建制度の威力認識」  概要「日本の資本主義は今なお前代の封建的関係の痕跡を持っており、封建制度の残存物は今日なお国家の機構において優位を占めている」。
「国家権力の質規定」  概要「国家機関は、なお商工ブルジョアジーの一定部分と、大地主とからなるブロックの手に握られている」。
「革命戦略・戦術論」  概要「当面の革命はブルジョア革命を急ぐべきであり」、プロレタリア革命との関係については、「ブルジョア革命の完成はブルジョアの支配の転覆及びプロレタリア独裁の実現を目標とするところのプロレタリア革命の直接の序曲となりうるであろう」。
「当面の運動方針」  @・君主制の廃止、貴族院の廃止、A・普通選挙権の実施、B・8時間労働制の導入、C・土地国有、D・ソビエトロシアの承認等々政治・経済・農業・税制・国際関係に関する22項目の行動綱領を提示した。

 「22年テーゼ」は、コミンテルンの押し付け綱領であったにせよ、日本共産党の最初の正式な綱領草案であったというところに歴史的意味を持っている。共産党はこのテーゼによって戦略目標を獲得したというのが功績である。但し、日共内での採択は未了のまま党運動が継続され、そのうち第一次共産党は壊滅させられたので、「22年テーゼ」は結局審議未了という経過を見せている。(「22年テーゼ」で検証する)

【大杉、渡部政之輔らとともに南葛労働組合を組織】

 11.7日、渡部政之輔らとともに南葛労働組合を組織し、共産青年同盟を創立し初代委員長に就任する。


1923(大正12)年

共産党第2回大会(「市川大会」)

 1923(大正12).2.4日、共産党の第2回大会が開催されている(近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」では、第一回党大会と位置づけされており、「とうとう日本共産党が生まれた。大正12年2月4日の午後を期して生まれた!」と記している)。コミンテルンから日本支部として正式承認された最初の大会であり重みがあった。千葉県市川市の料亭「一直園」で執り行われたことから「一直園大会」(市川会議)とも云われている。

 この会場は徳球が設営したようである。近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」は徳球について次のように記している。

 「会場の選定は徳田球一にまかされた。徳田はその頃から既に新進気鋭なポルシェヴィキの鋒ぼうを現して、後の党書記長たる資格の片鱗は現われたわけだった。彼は浅草奥山の有名な茶屋一直の主人と懇意だった。その関係で千葉の出店一直園を会場に借りることに決まった」。

 コミンテルン第4回大会の諸決定に基づいて、党の組織体制の整備に向けて着々と手が打たれていき、実務的な議事が進行した。参加者は次の通り。堺利彦、荒畑勝三、橋浦時雄、高津正道、浦田武雄、渡辺満蔵、徳田球一、西雅雄、上田茂樹、仲宗根源和、市川義雄、佐野学、田所輝明、猪俣津南雄、高瀬清、渡辺政之輔、鍋山貞親、近藤栄蔵の18名。山川均は病弱を理由に出席していない。

 大会は、近藤が議長となり開会宣言、規約、綱領、運動方針を山川作成原案に基づき可決した。1・高瀬によるコミンテルン第4回大会の内容報告、2・規約の改正審議、3・執行委員の選出等々が議題となっていた。執行委員には、堺・佐野学・吉川・浦田・上田茂樹・渡辺満三・杉浦啓一・中曽根源和・小岩井浄・辻井民之助の10名が選出されている。

 この時、執行委員会の開催は一網打尽にされたときの危険を考慮し、常務処理と執行委員会の中継ぎに当たる常任委員を選び、総務幹事長・堺利彦、秘書・中曽根源和、国際幹事・佐野学、会計監事・吉川守圀、政治部委員・橋浦時雄、労働部委員・渡辺政之輔、農村部委員・浦田武雄、学生部委員・猪俣津南雄、軍事部委員・市川義雄とした。「22年テーゼ」の審議は次回の石神井会議に持ち込んだ。

 加藤哲郎氏は、サイト第一次共産党のモスクワ報告書・上下で、1923(大正12).2.18日付け「市川党大会速報報告書」をコミンテルン宛に提出しており、これを見るのに内容は次の個所が注目される。

 @・日本共産党と朝鮮共産党の親密な関係が明らかにされている。A・第4回世界大会代表2名(高瀬清・川内唯彦)とプロフィンテルン大会代表2名の労働者(山本懸蔵、棚橋小虎<?>)の無事帰国報告。B・片山同志との連絡網要請。C・2.1日党大会の報告。D・プロフィンテルン日本支部の発足。荒畑と山本が担当しており、有力メンバーとして野坂と山本の入党が報告されている。E・青年運動「ユース」の組織化に乗り出し、共産青年同盟が組織される見込み。F・党員の入党、離党状況確認。チタで収監された岩田富美夫につき、概要「日本共産党とは何の関係もない。彼は中国浪人(中国における「政治的」冒険家)の一人で、国家社会主義者である高畠素之のグループと緊密に結びついている。日本共産党は、彼が真の共産主義者になったことを証明するまで、彼を帰国させることを望まない」とある。
 加藤哲郎氏のサイト第一次共産党のモスクワ報告書・上下で、1923(大正12).3.25日付け「市川党大会速報報告書」もコミンテルン宛に提出しており、これを見るのに内容は次の個所が注目される。

 「第2回党大会までの日本共産党」の状況を詳細にコミンテルンに報告している。内容は次の個所が注目される。@・1923.2.5日、日本共産党第2回全国大会が開かれた。A・党員総数は大会時で361人で、細胞数が増えつつあること。B・労働者階級のなかに反・反動主義と呼ばれる秘密委員会を組織し、無政府主義の影響力を払拭するよう努力した。C・農民運動に付き、党の機関誌『農民運動』が大成功を収め、全国のほとんどすべての小作人組合のなかに定期購読者を獲得した。D・労働運動に付き、プロフィンテルン日本支部の組織化の準備に余念なく、プロフィンテルンの基礎となるべき地下委員会が設置された。日本労働組合総連合を組織しようと企てたが、無政府主義者の反対活動によって達成できなかった。この期間に、多少とも重要な8つのストライキがあり、党員が積極的役割を果たした。E・青年運動に付き、進展中であること。F・党機関誌『前衛』『農民運動』『労働新聞』の購読者数は労働者階級の熱狂的支持のもと、大きく増大している。G・会計報告。8月から1月までの収入、支出、残高報告をしている。H・安藤・野坂を含む13人の東京労働組合の影響力ある指導者の入党他を報告。I・機関誌『前衛』は、山川均編集の『社会主義研究』と合併し『赤旗』という新しい名前で合法的・非合法的な共産主義文献を体系的計画のもとに刊行する準備をしている。

 「合法政党問題」が発生しており、現在党外に合法プロレタリア政党の組織化を計画している3つのグループがあること。これら3グループのどれも、強くなく、正直でなく、プロレタリア運動の力にならないであろう。
日本共産党の中には、即時合法労働者階級政党の組織化を主張するグループがあるが、同時に、それに強く反対するグループもある。この問題は、近く招集される臨時党大会で取り上げられることになっている。
 近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」は、「市川大会」の意義を次のように記している。
 「云うまでもない日本共産党は、誰彼がでっ上げたというものでは絶対にない。それは前にも述べた通り、日本の古くからの社会運動にロシア革命の精が宿って必然に実のった成果に過ぎぬ。その母体は、堺、山川、荒畑等々が苦難の長い年月護り抜いてきた社会運動の伝統である。その根は、土に深く埋もれた幸徳等幾多の犠牲者によって固められている。大杉達無政府主義者の運動も、凡て目醒めた労働者農民の血みどろな闘争も、それぞれこの母体の完成に貢献している。私自身は、単に、ロシア革命の花粉を運ぶ小さな蜜蜂であったに過ぎぬ。蜂は、媒介の役を終わったら、もう花に用はない。飛び去るがいい、飛び去るがよい!」>

【「レフト」の結成】
 第2回党大会直後、東京・大森町新井宿の野坂の家で「レフト」が結成された。野坂の「風雪の歩み」は次のように記している。
 概要「労働組合部の主な仕事の第一は、全国の労働組合運動の中の戦闘的な労働組合を結集して、我が国の労働組合運動を階級的に強化するための、中核となる集団を組織することであった。この集団を、私たち仲間の間では『レフト』と呼んでいた。この『レフト』は、また、プロフィンテルンと連繋をとる日本の中核ともなったのである。

 『レフト』の創立協議会は、2月の下旬か、3月の上旬かであったが、出席者は杉浦啓一と渡辺政之輔と私、それに関西から総同盟大阪連合会の西尾末広と平井美人が加わって、合わせて5人であった」。

 この時の5名が「レフト」の中央委員となって活動を開始する。雑誌「労働組合」を発行し、千葉県の野田醤油争議、東京日本橋の白木屋呉服店洋服部の争議の指導、支援を行う。1923.6月の第一次共産党弾圧事件とその後の山川均らの解党決議に中で、「レフト」中央委員会も解体していくことになる。

【「石神井会議」】
 1923(大正12).3.15日、共産党の臨時党会議として石神井会議が開催された。この会議は第2回大会の継続大会の意味を持っていた。堺・佐野ら21名が出席して、「日本共産党綱領草案」(コミンテルンから高瀬が持ち帰ったブハーリン草案)について審議した。堺が常務報告を行い、細胞数14、党員58名と紹介している。次に、コミンテルンへの派遣代表として荒畑を選び承認されている。次に、当日の最大議題である「22年テーゼ」の審議に入っている。高瀬が後に「第一次共産党と天皇制の問題」と題する論文を発表しており、次のようにこの時の様子を明らかにしている。
 意訳概要「コミンテルン草案を日本側で再起草することが求められており、綱領草案委員として佐野学・野坂参三・渡辺満三・杉浦啓一・荒畑勝三・高津正道の6名が選出されていた(堺、山川、近藤、佐野らが綱領審議委員説もある)。しかし討議がまとまらず、石神井会議がぶっつけ本番となった。佐野が『22年テーゼ』を朗読した。革命の戦略論では、ブルジョア革命かプロレタリア革命かが議論され、プロレタリア革命を目指すことで結論を得た。

 特に『君主制の廃止』条項を廻って議論が百出していることが指摘された。堺がこれを受けて、『モナーキーの問題は、云わなくても分かっていることであるから、ここでは議題として取り扱わないようにした。もしこの問題をここで論議したことが露見した場合には、徒に犠牲を多く出すことになる云々』と発言し、大逆事件の例を踏まえて議論を避けるように主張している。これに対し、議長役の猪俣が『たとえいかなることがあろうとも、かかる重大問題を議題にのぼせないでおくわけにはいかない云々』と反論している。堺は、苦渋しつつ『この問題を討議するなら僕は退場する云々』と重ねて反対している。君主制問題の討議を主張したのは、議長役の猪俣と綱領草案委員会の中心人物であった佐野であった。委員長・堺は『実は、この集まりも危険なのだ。警戒しなくてはいけないのだ』と繰り返したが、流れとして慎重に討議を進めて行くことになった。佐野がコミンテルン草案の趣旨を再度説明した後、承認決議となり、満場に異議無く、『これを原則的に承認』することになった」。

 但し、高瀬の「原則的に承認された」説に対し、「審議未了、継続審議」説もある。

 この史実から何を窺うべきか。しまね・きよしの「もう一つの日本共産党」P58は次のように記している。
 「天皇制について云えば、戦前の共産党を他の諸社会主義政党から決定的に分離したものは天皇制との闘争であり、その結果として蒙った苛烈な弾圧であったにも関わらず、共産党がその主要闘争目標として設定した天皇制を、理論として明確に把握し得なかったことは事実であった」。
 「これは単に堺の慎重な配慮の結果であるとするだけで済まされる問題ではない。そのような慎重な配慮をしなければならないほどの重大な政治権力であっただけに、天皇制の問題は徹底的に論議されなければならなかったのである」。

 結局、「22年テーゼ」の採択を期したが又も「君主制の廃止」スローガンを廻って議論が紛糾、継続審議となった。結局、第一次共産党時代においては「君主制の廃止」スローガンは日の目を見ることなく潰(つい)えている。

 石神井会議で取り上げられたもう一つの議題に、第一革命(ブルジョア革命)か第二革命(社会主義革命)かという日本革命の性格の問題規定論があった。高瀬は次のように記している。
 「論議は容易につかず、騒然として大討議場と化した。議長の猪俣は時々注意したが、山本懸蔵は第一革命を重視することには絶対反対を唱え、吉川・野坂らは過渡的に承認すべしと論じ、高津・荒畑・西雅雄・市川義雄らもまた発言を求めて治まらず云々」という状況であったと記している。概要「結局、これもこれと関連した合法政党の組織問題とからんでまとまらず、議論沸騰して、採決が出来ず、議長猪俣が会議の延期を宣言して午後9時半、ようやく散会した」。

 この会議から約3ヵ月後の大正12年6.5日に一斉検挙(第一次共産党事件)が襲い掛かり、結局、綱領審議の会議は遂に開催されること無く、正式採択されないままに『原則的な承認』という形のまま党運動が歩みつづけるということになった。


 佐野学を委員長とする綱領起草委員会を設け、荒畑をモスクワに派遣することなどを決定した。荒畑は1923年春、ロシアへ向う。

【「石神井会議」のモスクワ宛報告書】
 加藤哲郎氏のサイト第一次共産党のモスクワ報告書・上下で、日付け不詳の「石神井大会速報報告書」もコミンテルン宛に提出しており、これを見るのにこの時の党内の論争内容を正確に報告しており、貴重資料となっている。内容は次の個所が注目される。
 3.15日党綱領を作成するために、日本共産党執行委員会によって、臨時党大会が3月15日に招集された。しかし大会は、綱領の内容に関わるいくつかの問題で代議員が鋭く分裂し、明確な結論を得るにいたらなかった。したがって我々は、あなたがたの指令[your instructions]が要求していた綱領作成を、延期しなければならなくなった。

 延期の理由の一つは、我々があなた方の指令を受け取ったのが遅すぎ、ブハーリン同志による綱領草案と綱領づくりのための他の資料[the draft of the program by com. Buchkarin and other material for program making]が、我々に届いたのは、ようやく3月初めであったことである。しかし主たる理由は、党員たちの日本革命の見通しと、過渡期の戦術の問題について、鋭く意見が分かれ、合意点が得られなかったからである。

 主たる不同意点は、次の2点である。

 1 党員たちのあるグループは、日本においては政治革命がプロレタリア革命に先行するだろう、だから我々は第一革命を促進するための諸活動を組織すべきである、と考えている。他のグループは、我々はできるかぎり政治革命を妨害しようと試みながら、直接プロレタリア革命をめざすべきだと考えている[Another group maintains that we should aim straight at the proletarian revolution at the same time trying to hinder the political revolution as much as we can.]。

 2 当面の戦術について、一方では、我々は活動の新しいチャンネルを開くために、合法的プロレタリア政党を組織すべきだ、と主張されている。これに反対して、合法政党の機は熟しておらず、我々の活動は、さらなる「政治的直接行動」への展望を持って労働者の経済闘争に集中すべきである、と信じるグループがある。

 これらの意見の相違は、日本共産党の政策に基本的関連があるので、大会は、党員に問題を熟慮する十分な時間を与えるため、綱領採択を3か月延期することにした。その間、綱領委員会が指名され、党員たちの考えが十分に結晶されればただちに綱領が起草されうるように作業している。我々は残念ながら、[コミンテルン第3回]拡大執行委員会総会に我が党の綱領を提示できない。しかし、我々の困難を理解していただきたい。

 臨時党大会は、初めて綱領の形式の問題をとりあげ、多くの異議もなく、以下の形式を採用することに合意した。
 序論的部分(近代資本主義の本質、プロレタリア階級の発展とその不可避的勝利、共産主義の実現、その他の共産主義的な諸理論と諸原理)
 日本の現在の社会構造に関わる部分(日本資本主義と日本プロレタリア階級の諸特徴、階級分化、政治権力の所在、農民によって占められる特殊な地位、水平運動の特徴づけ、階級闘争の過去・現在・未来)
 日本の共産主義運動の目標(政治権力の奪取、プロレタリア独裁、ソヴェト・レジームの樹立)
 共産主義革命の戦術(政治、産業、農業、国際、等)

 これに続いて、だれかが綱領第・段をカバーする日本の社会構造についての考えを表明するよう動議が出され、実行された。それから討論が始まり、一人が、日本においてはプロレタリア革命は政治革命なしで実現できる、という意見を表明した。しかし参加者の多数は、今日の階級分化とその力関係を考慮すると、政治革命のチャンスが大きく、政治革命の指導者は社会民主主義者かファシスト団体のいずれかになるであろう、という見解に傾いていた。

 それから政治革命に対する共産党の態度について、白熱した議論が続いた。代議員のあるグループは、共産主義者は民主主義的ないしファシスト的革命指導者の陣営に潜り込むべくであり、我々は政治革命を促進してできるだけ早く共産主義革命をもたらす、という見解を論じた。他のグループは、我々は政治革命を可能な限り妨害し抵抗して、同時に労働者大衆の革命的闘争を組織し促進するために最善を尽くす、という考えを保持し反論した。


 この論争は、戦術の基本問題に関わる論点に導いた。すなわち代議員のあるグループは、合法政党を組織しブルジョア議会をある程度利用すると主張したが、他のグループは、我々は労働者大衆を革命化しプロレタリア革命の発展のために政治的直接行動を採るべきだと主張した。

 革命的戦術についての意見の相違が党内でかくも大きかったので、短時間で体系的な党綱領を作ることは不可能だった。したがって大会は、3か月以内に綱領を起草し、メンバーが主題についてより精通するよう、委員会を任命した。3か月たったら、執行委員会は、綱領委員会により起草された草案を土台にした綱領を決定するために、次の党大会を招集することとした。

 我々は、過渡期における日本共産党の戦術について、おそらく見出された合意点として、以下のように述べることができよう。
政治・社会  完全に民主的な政府の要求[demand for a thoroughly democratic government]、2、貴族院の廃止、3.徴兵制廃止、4.言論・集会・結社の自由、5.デモンストレーションの自由、6.プロレタリア政治教育体制の樹立、7.水平運動の革命化、8.陸軍・海軍の革命化、9.植民地反乱の促進(朝鮮・台湾)、10.軍国主義に反対する宣伝・煽動。
産業  赤色労働組合主義の普及、2.8時間労働日その他労働条件の改善、3.労働保険その他類似の措置。
農業  農民諸組織の革命化、2.小作人・貧農の獲得 。
国際  ソヴェト・ロシアの即時承認と貿易再開、2.植民地における自治、3.東洋の被抑圧民族との共同。

 他方で、合意に達することが困難であった諸点は、以下の通りである。
 我々は普通選挙運動を積極的に進めるべきか否か、
 我々はブルジョア議会を積極的に利用すべきか否か、
 我々の主たる努力はプロレタリア大衆に政治反乱を積極的によびかけることであるか否か、
 我々はただちに合法的社会民主主義政党ないし労働者政党を組織すべきか否か。

 我々は、日本における一般政治的・社会的・産業的状況に関しては、拡大執行委員会総会への我々の代表である同志青木[荒畑寒村]が説明するよう信託されていることを、付け加えておく。

「現今日本に於ける政治状態」
 加藤哲郎氏のサイト第一次共産党のモスクワ報告書・上下で、「第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表となった荒畑寒村がモスクワに帯同した、ないし、荒畑の訪ソにあわせて上海かウラジオストック経由でモスクワに届けられた、コミンテルンでの日本問題の検討のための基礎資料=部門別報告書」(日本語手書き報告書で、日付・署名なし)が公開されている。これも貴重資料である。

 「現今日本に於ける政治状態」を解析して、支配階級の構成状況を次のように書き出している。@・枢密院(天皇の政治諮問機関にして所謂元老の住家なり)、A・貴族院(貴族約百五十、大富豪約五十、国家功労者約百を以て組織す)、B・研究会一三五、茶話会四四、交友クラブ四五、公正会四二、同成会二七、無所属二六、純無所属三九、を挙げている。

 衆議院につき、「政友会系と見るべきもの最も多く、憲政会の勢力はその半数に当る。革新クラブはここには味方を有しない」と概括して、政友会を「第一資本家地主党」として283、憲政会を「第二資本家党」として104、、革新クラブを「中産階級党」として45、庚申クラブを「変体的資本家党、無所属」として25、「無産階級は未だその代表者の一人をこれ等の機関に有せず。単に間接的に極めて少しばかり彼等の政権の運用を牽制してゐるに過ぎない」。

 この支配階級は次の如き三要素から成り立ってゐる。(a)貴族・官僚、(b)地主、(c)資本家として、「
日本に於ては、この中で貴族院に勢力を有する(a)が長く政治的中心勢力を把握して専政を行ってゐたが、近年に至つてこの封建的要素は漸次に勢力を失ひ、衆議院が漸次に勢力を得来る傾向と、(b)漸次に勢力を失い(c)が漸次に勢力を得来る傾向とは、他の資本主義国の歴史の如くであるが、日本の貴族官僚(その主魁は所謂元老)と、多くの場合彼等を支持する地主との勢力は、まだ甚だ強いものがある」。

 (c)が最近に至つて、(b)の勢力を包含する既成政党に依つては、完全に自階級の利害を代表し得ざることを自覚し、新たに純粋なる資本家党『商工党』を組織し初めたことは、支配階級中に利害階級の相違の存在することを示すものであるが、彼等は苟も無産階級に対する時は常に完全なる共同戦線に立つことを忘れない。

 現在の彼等の施政の大綱領は、その支配的特権の維持と拡張とである。彼等の努力は、大戦に依つて世界の経済王となつた米国と、共産主義及共産主義国を背景とする無産階級とに如何にして対抗すべきかに傾注されてゐる。彼等は政治界の大問題たる普選問題も、日露協商も、専らこの立場から考慮してゐる。

 普通選挙案は、多数党の尚早論に依つて前議会に於ても通過を見なかつたが、二三年内には必ず通過すべき形勢が看取される。恐らくはその普選は『満二十五才以上の男子』と云ふ制限付のものであらふが、それでも一千萬人以上の有権者となり、従来の有権者数(三百萬人)の三倍となるであらふ。

 日本の労働組合は、概して一九一八ー一九年頃までは、議会政策の立場より普選要求の運動をやつてゐたが、一九二〇年後は直接行動の信者となり、今日では普選要求運動に参加する労働組合は殆んど無く、日本労働総同盟の如きも年の大会に於て、普選運動不参加の決議を通過せしめてゐる。かくの如く、組織労働者は議会運動に対してボイコット的態度を示してゐるが、一般労働階級の態度は、必ずしもこの態度に一致しない。従つて無産階級の大部分は、この参政権の獲得と共に、議会にその代表者を送り、その代表者達は社会民主党を組織するであらう。組織された労働者と雖も、その幹部らは彼等の傘下に走るかも知れない。

 【JCPの立場】

 この攻勢に応ずる為に、改良主義者に先んじて、CPの外郭として公然の労働党を造り、無産大衆をこの党に加盟せしめて、侮れる指導者の改良的議会政策に堕落せしめず、共産主義の原則によつて革命的政治行動行ふべしといふ議論がJCPの党員の一部に盛んになつて来た。

 この政党組織の問題については、党員間に二種の意見があつた。一つは政党組織の無用乃至尚早論であつて、他は政党組織の必要乃至非尚早論であつた。その内容は次の如くである。

 【政党組織無要論と尚早論】


 (a) 無産階級運動のエーゼントとしては、政党よりも労働組合であらふ。日本の労働組合はこの種のファンクションを発揮し得る特種の革命的性質を有する。別に政党を造る必要はない。

 (b) 無産階級は普選の実施後議会に相当の興味を感じ、彼等の代表者を議会に送るであらふ。然しながら無産階級は結局議会行動の無効と支配階級的議会の本質を知るに至つて、議会をボイコットするに違ひない。従来議会を攻撃して直接行動を唱え来つた吾々が議会利用論を棄てざるを得ざる破目に陥るよりも、寧ろ今日よりあらゆる議会運動の排斥を以て押し通すがよい。

 (c) 現在の労働者大衆農民大衆の自覚の程度を以てしては、たとひ政党を造るもこの勢力が党内に優越勢力となり、党は欧羅巴の社会民主党の二の舞を演ずるであらふ。即ち改良的議会政策に堕落するであらふ。たとひ政党を組織するとするも今日は尚ほ早すぎる。

 (d) 労働組合は無産階級運動の本隊である。従つて吾々は労働組合運動に主力を注がねばならない。然し今日本の労働組合運動は総連合と赤色加盟と云ふ二大問題を有するから、たとひ政党を組織するとするも、この問題を解決後にすべきであつて、今政党組織の運動を起して、組合の闘士をその運動に吸収し、この二大問題の解決に支障を来してはならない。

 (e) 吾々の政党は無産階級的本質を持つべきである。無産階級的性質を有する政党は今日尚ほ充分に成立し得まい。かかる性質の政党が充分成立するためには、労働組合の内容が今少し充実した後であることを要する。

 【政党組織必要論と非尚早論】

 (a) 労働組合や小作人組合は生産者としてその経済的利害関係を基礎としてゐるから、無産階級及中産階級の革命の促進に役立ち得る要素の或る部分を抱擁するに過ぎない。そしてかかる要素は無組織のままに置けば改良主義者やファシスタの指導の下に走る怖れがある。吾々は資本主義制度に反抗するあらゆる要素を吸収し得る無産階級の政党を組織して、吾々のコントロールの下に置かねばならぬ。

 (b) 無産階級運動に於いて小作人と都市労働者との団結を計ることは極めて大切である。然るに両者の利害関係は必ずしも一致しない点がある。そして地主は努めてこの点を高調して自分等に向ふ反感を都会(その中には労働者もゐる)に向けやうとする。この両者を緊密に団結せしめる為には、両者の連合会の組織を分つべしとの説があるが、別個に政党を組織して両者を是に加盟せしめる方がより有効である。

 (c) 普選の実施を見越して改良主義者達は既に政党の組織の下準備を進めつつある。今日に於て吾々が、吾々のコントロールの下に革命的政治運動を行ひ得る政党を組織するに非れば、無産階級の大衆は彼等の指導の下に走るかも知れない。然かも彼等の政党組織に反対するためには単に妨害を試みるのみでなく、吾々が無産階級の大衆を抱擁し得る政党を今日に於て組織し初めねばならない。今日では労働組合の幹部が加盟しないと云ふ観測もあるが、JCPがこの目的のために動員すれば彼等を加盟せしめることは困難ではない。

 (d) 吾々は従来の主張通りに、大衆をしてあらゆる議会行動をボイコットさせ、単に院外に於て示威運動を行はせるべきだといふ意見があるが、新有権者の多数がこのボイコットに共鳴するとは考へられない。ボイコット運動は恐らくは大衆を離れ、大衆を率ひることを困難にするであらふ。此意見は大衆が遠からず議会に飽くと云ふ予想の下に立つてゐるが、CPのコントロールの下に動く政党の革命的議会行動は大衆を飽かせる懼れはない。吾々は戦線を議会にまで拡大せねばならない。

 この両説は最初容易に接近しさうもなかつたが、ボイコット論者は単なる政党組織尚早論者に代り、又即時組織論者もその準備としての数ヶ月間の宣伝を必要とすることを承認するに至つたので、両者の意見は最近非常に接近して来た。

 JCPは政党組織の仕事を政治部に行はしめることとし、政治部は次の如きタクチックに依つて政党組織の準備を行ひつつあつた。

(a) 組織の手続
 1 政治運動の必要の宣伝
 2 政党組織の必要の宣伝
 3 創立委員会の組織
   A 労働組合、小作人組合、社会主義団体の幹部を集めて政党組織の問題について懇談会を開く。
   B この懇談会の範囲を漸次に拡張して数回開く。
   C この懇談会を政党創立委員会に造り上げる。
(b) 組織の方針
 1 綱領はなるべくレベルを下げること。
 2 幹部中には一定数の党員を入れること。
 3 JCPのコントロールし得る範囲内に於いては右翼社会主義者をも加盟せしめること。
 4 現在、吾々と別個に政党を組織せんとしてゐる分子をば吾々の政党組織運動に入れて彼等の計画を止めさせること。
 この文書を見れば、日本共産党の創立を廻って相当深刻な対立があり、議論されていたことが判明する。反対派は【政党組織無要論と尚早論】に依拠し、賛成派は【政党組織必要論と非尚早論】を主張した。趣旨は本文の通りであるが、加藤教授は、「当時の日本共産党が、明治社会主義における『直接行動派対議会政策派』、大正期の『アナ・ボル論争』の延長上にあったことが、よくわかる」とコメントしている。

【当時の党の主要活動】

 この当時の党の主要活動は、1、これまで日本の労働運動を支配してきた小ブルジョア的な思想、サンジカリズム、議会主義等々を排斥し、ロシアボリシェヴィズムによる単一階級政党の創出。2・機関誌活動、前衛、労働新聞、農民運動を発刊。3・シベリア出兵によるソビエトロシア干渉反対、4・労農ロシア承認の為の支援活動、飢饉救済運動。5・労働運動のボル化、6・青年運動、水平者運動の指導等々。


【綱領審議の臨時大会開催】

 5月、綱領審議の臨時大会開催。

 第一次共産党結集者・堺、山川、荒畑、近藤、佐野、高津、田所輝明(建設者同盟)、浦田、市川正一(無産階級社)、渡辺満三(時計工組合)、杉浦啓一(関東機械工組合)、上田茂樹(無産者同盟)、高瀬、橋浦、吉川、中曽根、野坂(労働総同盟)、西雅雄(赤旗社)、渡辺政之輔(南葛労働会)、猪俣、徳田(水曜会)、山本懸蔵(労働総同盟)、鍋山貞親等々。これに秘匿メンバー。





(私論.私見)