428166−2 | 日本共産党の創立考(創立時の動き) |
(最新見直し2006.12.5日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
いよいよ日本共産党結成の時期を迎えることになる。が、日共党史の「正史」とは云うものは未だ無く、辛うじて「市川正一の血涙の公判弁明録」がこれに値する。個々の事件、事案を考察したものや当時の党員の回顧録のようなものはあまたあるが、通史としてのものでれんだいこの評価に足りるものはこれを置いて他に無い。とはいえ残念ながら、「市川党史」は戦前の党創立前、1922年創立時、以降「1929.4.16の大検挙」までの僅か7年程の重要な活動を述べてしかいない。本来であれば、その後の党史、戦後の党史について記述されるべきであろうが、「正史」たるものがない。宮顕−不破系の日共党史なぞは至るところ噴飯史で正視出来るものではない。 という党史事情を踏まえつつ、以下、「市川弁明」を下敷きにしつつ考察していくことにする。最近、加藤教授に「コミンテルンへの定期報告書」研究=「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」がインターネット上で公開されており、これも貴重資料なので参照させていただいた。 ところで、最初に問題にしておかねばならぬことは次のことである。公認の党史がなべて触れていないところであるが、第一次共産党結成前期にあっては、大杉栄を頭目とするアナーキスト系の方がよりエネルギッシュで理論も深く、当局の弾圧に対してもひるむことなく活動を持続し得ている。これにより、アナーキストの多くが第一次共産党結成前後の状況に深く関わっている。この史実を的確に述べ伝えたものが見当たらない。れんだいこはこれをどう書き記そうか苦慮している。しかし、我等が左派運動史は端からええ加減に伝えられているのが分かり嘆息も深い。 しかし、いよいよ日共運動が開始されるや否や、アナーキスト系とボリシェヴィキ系のそれまでの共存的競合関係が壊されていく。これにはコミンテルンの指導も関係していたように思われるが、日共マルクス主義者の偏狭性にも因るのではなかろうか。至るところで論争が火花を散らせて行くことになる。しかし、大杉の在世中は氏の卓越した指導能力によってと思われるがむしろアナ系の方が理論でも労働戦線でもイニシアチブを取っていた。この辺りはもっと考察されねばならない。 その大杉らが関東大震災時に拘束され、その混乱に乗じて虐殺される。幸徳虐殺の「大逆事件」の場合には一応裁判手続きが踏まえられているが、大杉の場合即日なぶり殺しされている。この時、多くの朝鮮人、社会主義者も虐殺されており、仮に「関東大震災事件」と云うならば、日本左派運動は、先の「大逆事件」とこの「関東大震災事件」の両事件により、官憲の暴圧にひれ伏していくことになる。以下検証する。 2003.5.21日 れんだいこ拝 |
【日本共産党の創立事情その1・特にコミンテルンとの関係考】 |
通説はこうである。コミンテルンの働きかけとこれに呼応する我が国最初の共産主義者達がコミンテルン日本支部としての日本共産党の結成に向かった。1922(大正11).7.15日に日本共産党が創立され、この時堺利彦を委員長に選出している。但し、党の綱領が採択されないままの党創立という「本来の意味での党結成要件を備えていない」出航であった。このことは、時局の要請に「バスに乗り遅れるな」とばかりに事大主義的に応じたものの、そもそもの日共創立時においてより日本発としての主体性が欠けていたことを意味する。この「陰」の面が、日共運動に終始纏いついていくことになる。 れんだいこの「党創立時における没主体性批判」については、マルクス主義的共産主義運動はそもそも国際性にあるのだから、コミンテルンの指導により結成されたとして咎では無いとの異論もあろう。しかし、れんだいこはこう理解している。「理想的一枚岩的国際共産主義運動」なるものが世に在り得るのならそれで結構だ。しかし、思想、イズムをそういう風に国際センター機関の一元的指揮の下に跪かせるのは危険すぎる。よしんばレーニン的指導ならばぎりぎり許されても、スターリン的指導となるとロシア大国主義以外の何ものでもなくこれに拝跪するなどはあまりにも馬鹿げたことであった。 ちなみに、れんだいこのスターリン評は次の通りである。「れんだいこは、スターリンをマルクス主義者とは思っていない。もともと民族主義者で、当時のロマノフ王朝が日露戦争で日本に負けるような不甲斐なさに発奮してロマノフ王朝打倒、新権力樹立運動に加わった種類の人たちのドンではなかったか。スターリンは、ロシア民族主義の権化(ごんげ)では無かったか。この観点から有効な限りにおいてマルクス主義を利用した人であり、いつでも帝国主義列強との駆け引きの中で捨てることができた人」という風に見なしている。あるいは、最新の研究では、スターリンは無論10月革命遂行に結集した多くの幹部が、「シオンの議定書」派であったことが明らかになりつつある。 この認識からすると、日共運動がその運動の当初より、既にソ共党中央がスターリン権力に掌握されその指導を全面化しつつあったコミンテルンの指導に従っていったことは、あまりに世間知らずであったことになる。しかし、当時の日本左派運動は、ソ連を逸早く解放に成功した理想的労農国家としての祖国像を抱いていたので、却ってコミンテルンの指導を誉れにし更に進んでより緊密に擦り寄ろうとしこそすれ、一度はそこから離れて自律性(自主独立性)を担保するという観点は生ぜしめようも無かった。これが時代の「ニューマ」というものの威力であるかも知れぬ。 |
ちなみに、日共運動史にあって宿アとなっていたコミンテルン拝跪主義に最初に反発を示したのは、1950年初の「コミンフォルム評論(俗に「スターリン論評」と云われる)」報道に接して、「「コミンフォルムの若造が何を云うか」と憤懣をぶつけた当時の日共最高指導者・徳球書記長を嚆矢とする。ところが実際には、「コミンフォルム評論」がスターリン直々の論評であったことが判明するや、徳球は忽ち腰砕けになった。 この時、スターリンの尻馬に乗り、「無条件で論評に従うべきだ。それが国際共産主義運動の鉄の規律だ」との観点から徳球執行部の対応を批判し抜いた宮顕が、その後1955年の六全協を経て党中央を掌握し、反ソ共運動、反中共運動の挙句に自主独立路線を確立することになった。この功績は宮顕に帰属するが、随分胡散臭い自主独立路線ではある。通常ならば、徳球執行部批判の際に用いた論法の自己批判抜きに自主独立路線を説くことは厚顔の至りであろうが、日本左派運動はこういうところは問題せずの結果オーライ論者で占められているようで、つまりは御似合いなのだろう。 補足すれば、宮顕の履歴において評価しうるものがあるとすれば、この自主独立路線の確立である。しかしこれを精査すれば、自主独立路線はコミンテルン拝跪型の運動を土着型のものへ転換せしめたという限りのものであり、それは日本左派運動史上の変調性の是正という意義はあっても、それ自体は未だ海のものとも山のものとも分からない形式的なものである。宮顕履歴の評価は、そういう自主独立路線という入れ物にどういう内容のもの盛り込んだのかで問われねばならない。さて、宮顕路線とはどのようなものであったのだろうか。それは論者の判断にお任せしよう。 |
1922(大正11)年 |
【コミンテルン内に日本に関する綱領問題小委員会が設けられる】 |
6月、日本共産党創立について、高瀬らが、山川均、堺利彦、佐野学、暁共産党同志らと協議。第一次共産党の結成準備に着手する。コミンテルン第2回拡大執行委員会で、日本問題に関する綱領問題小委員会が設けられ、テーゼの作成が提議された。同年11−12月のコミンテルン第4回大会時にモスクワで討議・起草され、同大会日本共産党代表団(高瀬清、川内唯彦)が持ち帰って、1923.3月石神井での日本共産党臨時大会で審議され、「日本共産党綱領草案=22年綱領」となる。 |
【日本共産党の創立事情その2・党創設を担った主体、選出委員について】 |
7.15日、渋谷伊達町の高瀬の下宿にて共産党結党が執り行われた(「第一次共産党の創立」)というのが通説である。この時、共産党は第三インターナショナル日本支部として向うべく結成された。 創立大会の参加者は8名(堺利彦・山川均・近藤栄三、吉川守國、橋浦時雄、浦田武雄、渡辺満三、高瀬清)で、この時中央委員(執行委員、暫定委員とその名称は様々に伝えられている)に選出された者は、堺・山川・近藤・荒畑寒村・高津・橋浦・吉川の7名で、委員長に堺利彦、bQに佐野学が推挙されている。従って、第一次共産党時代の指導部は、堺−佐野体制とみなしてよいと思われる。 他にも、市川正一・渡辺政之輔・徳田球一・鍋山貞親・野坂参三らが参加している。経過から見て、黒幕は徳田球一と思われる。確認すべきは、日本共産党創立の中心メンバーは、「堺利彦・山川均・荒畑寒村」であり、この三名はいずれも後に脱党している。その後は労農党に依拠し、戦後は日本社会党左派として活躍することになる。してみれば、社会党左派こそ日共の生みの親としての元祖系譜に列なっていると云えそうである。 ここで疑問に思うことは、創立時のメンバーと「日本共産党の創立考(創立前までの流れ)」で見てきた「極東勤労者大会」参加帰国者との関係がはっきりしないことである。思案するのに、彼等「極東勤労者大会」メンバーは裏に隠れ、7.15日創立メンバーは公然面を担う為のいわば体よく押し上げられた「飾り」では無かったか。「飾り」とまでは行かないにしても。 それが証拠に第一に、大杉栄らアナーキスト系の流れが絡んでいない。不自然すぎることである。第二に、「極東勤労者大会」参加帰国者の有力メンバーにして戦後党運動の最高指導者として君臨することになる徳球が中央委員に選出されていない。徳球は、自著「獄中18年」においてこの時中央委員の一員に選出されたと述べているが、表見する史実には出てこない。徳球が虚偽を述べていると見なすより、むしろ裏合意として為されていた可能性がある。ということは、「表の合意」と「裏の合意」の二本立ての党創立ストーリーがあると考えられる、のではなかろうか。 徳球が出席していない理由として、コミンテルンからの支度金5万円を高尾が所持したまま党の活動資金として提供しないと云う事態が発生しており、これに徳球が共謀しているとの嫌疑が氷解していなかったという事情によると説く説がある。しかし、これは悪意のある者よりする誹謗かも知れず真偽不明としたい。むしろ確認すべきは、党創立時に既に徳球の地下工作が為されており、そのイニシアチブで党創立まで漕ぎ着けていることであり、この史実は疑うべくもない。 確認すべきは、日本共産党創立の中心メンバーは、「堺利彦・山川均・荒畑寒村」であり、この三名はいずれも後に脱党している。その後は労農党に依拠し、戦後は日本社会党左派として活躍することになる。してみれば、社会党左派こそ日共の生みの親としての元祖系譜に列なっていると云えそうである。 |
【日本共産党の創立事情その3・党創立日】 |
共産党結党は、1922(大正11)年7.15日、渋谷伊達町の高瀬の下宿にて執り行われたというのが通説である。しかし、「日本共産党創立=1922.7.15日」説は、今も確認し得ない。1930年代初頭の獄中闘争において徳田球一・市川正一らによって弁明されたものが「神話」化したものであり、史実としては確定されていない。 |
【日本共産党の創立事情その4・党綱領の未採択考】 | |||||||||||||
日本共産党は創立されたが、この時党綱領は採択されなかった。では、党の創立時に何ゆえ綱領が採択されなかったのかというと、以下に列挙する重要事項において参集した活動家達の間で見解が一致しなかったからであった。
そういう事情もあって、その年の秋のコミンテルン第4回大会時に「君主制の廃止」スローガンを掲げた「日本共産党綱領草案」がつくられ、それを1923.3月の臨時党大会で議論することになった。が、又しても紛糾、継続審議となっている。が、直後に国家権力による弾圧が襲い、結局「君主制の廃止」スローガンは審議未了のままで採択できなかった。 この経過を踏まえれば、日本共産党の現党中央が「創立時から、天皇制に一貫して反対してきた輝かしい伝統を持つ党」と自称してのは、厳密な意味では問題がある。 これらの議題は、いずれも最肝要な理論的課題にして未だ決着が着かないままに党の創立そのものが優先され、継続審議に付されたものの、戦前の党運動の全歴史を通じて否戦後の党運動の今日にいたるまで未解決のままに提起され続けている。「一時は行動主義、一時は理念的理論主義、一時はサロン主義に変調しながら党の旗を護るという気概だけが真紅であった」と評されるような歩みを進めていった、という史実経過を見せている。 加藤哲郎教授グループにより、これまで全く知られていない「草案ではない創立綱領」が発掘された。そこにも「君主制廃止」スローガンは見当たらないとして次のように見解披瀝している。
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【当時のコミンテルンの指揮系統】 |
この頃、佐野学、徳田球一を指導していたのは、コミンテルンの極東委員会の中心人物のヴォイチンスキーであった。ヴォイチンスキーは、日本資本主義の危機目前説の観点から指導した。トロツキー派であったため、スターリン対トロツキー政争の渦の中で失脚することになる。 |
【日本共産党の創立事情その5・創立後の最初の政治運動、相次ぐ入党考】 | |
共産党の創立後の最初の政治運動について、志賀義雄の「日本革命運動の群像」は次のように記している。
いよいよ日本共産党が結成されたという評判が左派戦線に波及していき、続々と党員拡大が進められて行った。主に、日本労働総同盟(友愛会の後身)その他の有力労働組合の活動家の中から、野坂参三・赤松克磨・山本懸蔵・杉浦啓一・辻井民之助・中村義明・鍋山貞親・国領伍一郎・渡辺政之輔などが結集し、インテリゲンチュアからは佐野学・市川正一・佐野文夫・青野季吉等が。米国共産党から日本人部からは鈴木茂三郎・猪俣津南雄などが入党してきた。 |
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加藤哲郎氏は、サイト「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」で、当時の日共指導部がコミンテルン宛に定期報告書を提出していたことを明らかにしている。これを見るのに、コミンテルンの歓心を引くよう順調に党活動が進展しつつあると過剰気味に報告されていることが判明する。 |
【山川均が「無産階級運動の方向転換論」打ち出す】 | |
7月、丁度共産党の設立が為された頃、「前衛8月号」に当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均の「無産階級運動の方向転換論」が発表された。この論文はその後の左翼運動と労働組合運動に重大な影響を及ぼすことになった。 その要旨は次のようなものであった。
このような内容を盛り込んだ「方向転換論」は、コミンテルン第3回大会の「大衆の中へ」という方針を前提として、それまでの社会主義運動と労働組合運動との反省の上に立って、スターリンの指導するボル系マルクス主義の立場からサンジカリズムを理論的に克服しようとする意図を含んでいた。 これをもっと分かりやすく云うと次のようになる。山川は、レーニン式コミンテルン運動の急進主義的前衛主義的党運動並びにボルシェヴィズム的組織論を忌避し、より穏和主義的に大衆組織の中へ入り込む党運動への「方向転換」を打ち出した。それは、当時の天皇制権力の苛酷な弾圧に屈服した上での敗北主義の立場からの合法的運動論であり、右翼社会民主主義との無原則的野合に繋がるものであった。 そういう面が、党内の求心主義者から批判され、賛同は得られなかった。しかし、在地主義的合法化共産党論を本質とする山川イズムはその後の流れの一方の主流となっていくことになる。 |
![]() 山川の提起する「無産階級運動の方向転換」をどう評価すべきか論が分かれるところである。「社労党の日本社会主義運動史」の見解を下敷きにしつつ批判的に構成し直すことにする。 |
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【「綱領草案」発表される】 |
1922(大正11).9月、綱領草案(「1922年9月綱領」)が発表されている。この綱領はソ連邦崩壊後漏洩されることになった機密資料の中から発見されたもので、加藤哲郎教授が「1922年9月の日本共産党綱領(上)(下)」論文中で、「モスクワに保存されていた日本共産党22年綱領」問題を検証している。 「1922年9月綱領」は、政治、経済、農業、外交の4部門に分けて社会分析を行い、党の要求をスローガン化させている。今日から見ていずれも先進的なそれであり、土地の公有的観点を取り除けばほぼ全ての要求が敗戦後の日本の統治システムの中に導入されていることを思えば感無量でもあり、他面戦後社会の構造分析を為す際の一つの示唆を与えているようにも思われる。 |
【日本労働組合総連合結成される】 |
第一次共産党が創設される前後、労働運動戦線の一本化の動きが始まっていた。関西に労働組合同盟会、関東に機械労働組合連合が誕生し、全国的総同盟結成機運を盛り上げた。 9.10日、総同盟系と反総同盟系の代表が交渉を重ね、日本労働組合総連合の準備委員会を開催し、規約草案作成まで漕ぎ着けた。しかし、総連合の中央集権制と理事選出の手法を廻って、日共系ボル派とアナーキズム系が対立した。 9.30日、大阪で統一組織・日本労働組合総連合の結成大会を開く運びとなった。この頃労働運動におけるマルキシズムとアナーキズムとの対立が現われてきたが(アナ・ボル論争)、大杉はアナーキズムの代表的論客であり、彼の活勒によってアナーキズムの影響力の方が優勢に推移していた。両派は建前はともかく本音では真剣に労働組合運動の統一を図ろうという意志は希薄で、むしろアナ・ボル両派が自派の制覇を狙って、その決戦の場をここに求めたに過ぎなかった。 かくして日本労働組合総連合の結成大会は堺、山川、荒畑などのボル派や大杉らのアナ派の面々をはじめ各派の社会主義団体、労働団体の幹部が勢揃いして見守る中、60団体を代表する代議員106名(組合員数2万7480名)が集まって、大阪中之島公会堂で開かれた。代議員には各三名の付き添いが許されていたうえ、これに両派の傍聴動員が加わって場内はごった返し、「この国の無産階級運動者が一時に総動員されたの感があった」。 |
【日本労働組合総連合が忽ち分裂する】 | |||
しかるに、日共系ボル派とアナーキズム派がのっけから対立し、議事は最初から激しい怒号と野次の中で始まった。大会は、総連合の組織原則をめぐり自由連合主義を唱えるアナ派と中央集権主義を唱えるボル派の対立でデッドロックに乗り上げた。そうこうするうち官憲が駆けつけ、解散を命ぜられた。 翌日、同じ会場で開かれた総同盟の大会は、アナ派が総同盟に歩み寄らない限り統一はありえないという決議をして戦線統一に門戸を閉ざしてしまった。この結成大会を機にアナ派は急速に凋落し、影響力を失ってしまった。そして、今度はそれまで隠されていた違った対立が総同盟内に発生し、総同盟の分裂へと発展していくのである。 10.3日、総同盟中央派は、次のように声明した。
10月、アナ系は、正進会、信友会ら19団体の共同宣言「全国の労働者諸君に告ぐ」を声明した。
この大会の史的位相は次のことにあった。山本勝之助、有田満穂の「日本共産主義運動史」は次のように記している。
アナとボルの蜜月時代が終わり、ボルはひたすら中央集権的組織論に向かい、アナは直接行動論に向うことになる。 |
【学生運動の拡がり】 |
1922年以降、学生運動は全国的スケールで拡大していく。9月、一高、三高、七高、佐賀高、浦和高、新潟高の7高等学校に、社会科学研究学生の連合として高等学校連盟が組織される。 11.7日、日本本共産党結成3カ月後のロシア革命記念日のこの日、全国学生連合会が結成された。新人会(東大)、文化同盟(早大)、7日会(明大)、社会批判会(日大)、社会思想研究会(早大高等学院)、7日会(女子医専)、社会思想研究会(一高)などから50名が東大に集まり、学生連合会が結成された。新人会(東大)と文化同盟(早大)がリーダーシップを執った。 |
11月、山川均、堺利彦、近藤、荒畑、佐野学らの創立委員が党の暫定的な綱領、規約を発表。
【「コミンテルン第4回大会」】 | |
11月、コミンテルン第4回世界大会へ向けて党代表として高瀬清を派遣、日本共産党をコミンテルン日本支部へと承諾。コミンテルン第2回世界大会で決定されたコミンテルン規約及び21か条の加入条件、その他プロレタリア独裁に関する指導原理を奉ずることを条件として。「ブハーリン起草の日本共産党テーゼ草案」が指示された。
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【「22年テーゼ」発表される】 | ||||||||||||
この時、活動方針として「日本共産党綱領草案」(以下、「22年テーゼ」と云う)が与えられた。この「22年テーゼ」が、日共運動の最初の党綱領となる。「22年テーゼ」は次のように指針していた。
「22年テーゼ」は、コミンテルンの押し付け綱領であったにせよ、日本共産党の最初の正式な綱領草案であったというところに歴史的意味を持っている。共産党はこのテーゼによって戦略目標を獲得したというのが功績である。但し、日共内での採択は未了のまま党運動が継続され、そのうち第一次共産党は壊滅させられたので、「22年テーゼ」は結局審議未了という経過を見せている。(「22年テーゼ」で検証する) |
【大杉、渡部政之輔らとともに南葛労働組合を組織】 |
11.7日、渡部政之輔らとともに南葛労働組合を組織し、共産青年同盟を創立し初代委員長に就任する。 |
1923(大正12)年 |
【「共産党第2回大会(「市川大会」)」】 | |
1923(大正12).2.4日、共産党の第2回大会が開催されている(近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」では、第一回党大会と位置づけされており、「とうとう日本共産党が生まれた。大正12年2月4日の午後を期して生まれた!」と記している)。コミンテルンから日本支部として正式承認された最初の大会であり重みがあった。千葉県市川市の料亭「一直園」で執り行われたことから「一直園大会」(市川会議)とも云われている。
コミンテルン第4回大会の諸決定に基づいて、党の組織体制の整備に向けて着々と手が打たれていき、実務的な議事が進行した。参加者は次の通り。堺利彦、荒畑勝三、橋浦時雄、高津正道、浦田武雄、渡辺満蔵、徳田球一、西雅雄、上田茂樹、仲宗根源和、市川義雄、佐野学、田所輝明、猪俣津南雄、高瀬清、渡辺政之輔、鍋山貞親、近藤栄蔵の18名。山川均は病弱を理由に出席していない。 |
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加藤哲郎氏は、サイト「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」で、1923(大正12).2.18日付け「市川党大会速報報告書」をコミンテルン宛に提出しており、これを見るのに内容は次の個所が注目される。 @・日本共産党と朝鮮共産党の親密な関係が明らかにされている。A・第4回世界大会代表2名(高瀬清・川内唯彦)とプロフィンテルン大会代表2名の労働者(山本懸蔵、棚橋小虎<?>)の無事帰国報告。B・片山同志との連絡網要請。C・2.1日党大会の報告。D・プロフィンテルン日本支部の発足。荒畑と山本が担当しており、有力メンバーとして野坂と山本の入党が報告されている。E・青年運動「ユース」の組織化に乗り出し、共産青年同盟が組織される見込み。F・党員の入党、離党状況確認。チタで収監された岩田富美夫につき、概要「日本共産党とは何の関係もない。彼は中国浪人(中国における「政治的」冒険家)の一人で、国家社会主義者である高畠素之のグループと緊密に結びついている。日本共産党は、彼が真の共産主義者になったことを証明するまで、彼を帰国させることを望まない」とある。 |
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加藤哲郎氏のサイト「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」で、1923(大正12).3.25日付け「市川党大会速報報告書」もコミンテルン宛に提出しており、これを見るのに内容は次の個所が注目される。 「第2回党大会までの日本共産党」の状況を詳細にコミンテルンに報告している。内容は次の個所が注目される。@・1923.2.5日、日本共産党第2回全国大会が開かれた。A・党員総数は大会時で361人で、細胞数が増えつつあること。B・労働者階級のなかに反・反動主義と呼ばれる秘密委員会を組織し、無政府主義の影響力を払拭するよう努力した。C・農民運動に付き、党の機関誌『農民運動』が大成功を収め、全国のほとんどすべての小作人組合のなかに定期購読者を獲得した。D・労働運動に付き、プロフィンテルン日本支部の組織化の準備に余念なく、プロフィンテルンの基礎となるべき地下委員会が設置された。日本労働組合総連合を組織しようと企てたが、無政府主義者の反対活動によって達成できなかった。この期間に、多少とも重要な8つのストライキがあり、党員が積極的役割を果たした。E・青年運動に付き、進展中であること。F・党機関誌『前衛』『農民運動』『労働新聞』の購読者数は労働者階級の熱狂的支持のもと、大きく増大している。G・会計報告。8月から1月までの収入、支出、残高報告をしている。H・安藤・野坂を含む13人の東京労働組合の影響力ある指導者の入党他を報告。I・機関誌『前衛』は、山川均編集の『社会主義研究』と合併し『赤旗』という新しい名前で合法的・非合法的な共産主義文献を体系的計画のもとに刊行する準備をしている。 「合法政党問題」が発生しており、現在党外に合法プロレタリア政党の組織化を計画している3つのグループがあること。これら3グループのどれも、強くなく、正直でなく、プロレタリア運動の力にならないであろう。日本共産党の中には、即時合法労働者階級政党の組織化を主張するグループがあるが、同時に、それに強く反対するグループもある。この問題は、近く招集される臨時党大会で取り上げられることになっている。 |
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近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」は、「市川大会」の意義を次のように記している。
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【「レフト」の結成】 | |
第2回党大会直後、東京・大森町新井宿の野坂の家で「レフト」が結成された。野坂の「風雪の歩み」は次のように記している。
この時の5名が「レフト」の中央委員となって活動を開始する。雑誌「労働組合」を発行し、千葉県の野田醤油争議、東京日本橋の白木屋呉服店洋服部の争議の指導、支援を行う。1923.6月の第一次共産党弾圧事件とその後の山川均らの解党決議に中で、「レフト」中央委員会も解体していくことになる。 |
【「石神井会議」】 | ||||
1923(大正12).3.15日、共産党の臨時党会議として石神井会議が開催された。この会議は第2回大会の継続大会の意味を持っていた。堺・佐野ら21名が出席して、「日本共産党綱領草案」(コミンテルンから高瀬が持ち帰ったブハーリン草案)について審議した。堺が常務報告を行い、細胞数14、党員58名と紹介している。次に、コミンテルンへの派遣代表として荒畑を選び承認されている。次に、当日の最大議題である「22年テーゼ」の審議に入っている。高瀬が後に「第一次共産党と天皇制の問題」と題する論文を発表しており、次のようにこの時の様子を明らかにしている。
但し、高瀬の「原則的に承認された」説に対し、「審議未了、継続審議」説もある。 この史実から何を窺うべきか。しまね・きよしの「もう一つの日本共産党」P58は次のように記している。
結局、「22年テーゼ」の採択を期したが又も「君主制の廃止」スローガンを廻って議論が紛糾、継続審議となった。結局、第一次共産党時代においては「君主制の廃止」スローガンは日の目を見ることなく潰(つい)えている。 石神井会議で取り上げられたもう一つの議題に、第一革命(ブルジョア革命)か第二革命(社会主義革命)かという日本革命の性格の問題規定論があった。高瀬は次のように記している。
この会議から約3ヵ月後の大正12年6.5日に一斉検挙(第一次共産党事件)が襲い掛かり、結局、綱領審議の会議は遂に開催されること無く、正式採択されないままに『原則的な承認』という形のまま党運動が歩みつづけるということになった。 佐野学を委員長とする綱領起草委員会を設け、荒畑をモスクワに派遣することなどを決定した。荒畑は1923年春、ロシアへ向う。 |
【「石神井会議」のモスクワ宛報告書】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
加藤哲郎氏のサイト「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」で、日付け不詳の「石神井大会速報報告書」もコミンテルン宛に提出しており、これを見るのにこの時の党内の論争内容を正確に報告しており、貴重資料となっている。内容は次の個所が注目される。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
3.15日党綱領を作成するために、日本共産党執行委員会によって、臨時党大会が3月15日に招集された。しかし大会は、綱領の内容に関わるいくつかの問題で代議員が鋭く分裂し、明確な結論を得るにいたらなかった。したがって我々は、あなたがたの指令[your instructions]が要求していた綱領作成を、延期しなければならなくなった。 延期の理由の一つは、我々があなた方の指令を受け取ったのが遅すぎ、ブハーリン同志による綱領草案と綱領づくりのための他の資料[the draft of the program by com. Buchkarin and other material for program making]が、我々に届いたのは、ようやく3月初めであったことである。しかし主たる理由は、党員たちの日本革命の見通しと、過渡期の戦術の問題について、鋭く意見が分かれ、合意点が得られなかったからである。 主たる不同意点は、次の2点である。 1 党員たちのあるグループは、日本においては政治革命がプロレタリア革命に先行するだろう、だから我々は第一革命を促進するための諸活動を組織すべきである、と考えている。他のグループは、我々はできるかぎり政治革命を妨害しようと試みながら、直接プロレタリア革命をめざすべきだと考えている[Another group maintains that we should aim straight at the proletarian revolution at the same time trying to hinder the political revolution as much as we can.]。 2 当面の戦術について、一方では、我々は活動の新しいチャンネルを開くために、合法的プロレタリア政党を組織すべきだ、と主張されている。これに反対して、合法政党の機は熟しておらず、我々の活動は、さらなる「政治的直接行動」への展望を持って労働者の経済闘争に集中すべきである、と信じるグループがある。 これらの意見の相違は、日本共産党の政策に基本的関連があるので、大会は、党員に問題を熟慮する十分な時間を与えるため、綱領採択を3か月延期することにした。その間、綱領委員会が指名され、党員たちの考えが十分に結晶されればただちに綱領が起草されうるように作業している。我々は残念ながら、[コミンテルン第3回]拡大執行委員会総会に我が党の綱領を提示できない。しかし、我々の困難を理解していただきたい。 臨時党大会は、初めて綱領の形式の問題をとりあげ、多くの異議もなく、以下の形式を採用することに合意した。
これに続いて、だれかが綱領第・段をカバーする日本の社会構造についての考えを表明するよう動議が出され、実行された。それから討論が始まり、一人が、日本においてはプロレタリア革命は政治革命なしで実現できる、という意見を表明した。しかし参加者の多数は、今日の階級分化とその力関係を考慮すると、政治革命のチャンスが大きく、政治革命の指導者は社会民主主義者かファシスト団体のいずれかになるであろう、という見解に傾いていた。 それから政治革命に対する共産党の態度について、白熱した議論が続いた。代議員のあるグループは、共産主義者は民主主義的ないしファシスト的革命指導者の陣営に潜り込むべくであり、我々は政治革命を促進してできるだけ早く共産主義革命をもたらす、という見解を論じた。他のグループは、我々は政治革命を可能な限り妨害し抵抗して、同時に労働者大衆の革命的闘争を組織し促進するために最善を尽くす、という考えを保持し反論した。 この論争は、戦術の基本問題に関わる論点に導いた。すなわち代議員のあるグループは、合法政党を組織しブルジョア議会をある程度利用すると主張したが、他のグループは、我々は労働者大衆を革命化しプロレタリア革命の発展のために政治的直接行動を採るべきだと主張した。 革命的戦術についての意見の相違が党内でかくも大きかったので、短時間で体系的な党綱領を作ることは不可能だった。したがって大会は、3か月以内に綱領を起草し、メンバーが主題についてより精通するよう、委員会を任命した。3か月たったら、執行委員会は、綱領委員会により起草された草案を土台にした綱領を決定するために、次の党大会を招集することとした。 我々は、過渡期における日本共産党の戦術について、おそらく見出された合意点として、以下のように述べることができよう。
他方で、合意に達することが困難であった諸点は、以下の通りである。
我々は、日本における一般政治的・社会的・産業的状況に関しては、拡大執行委員会総会への我々の代表である同志青木[荒畑寒村]が説明するよう信託されていることを、付け加えておく。 |
【「現今日本に於ける政治状態」】
加藤哲郎氏のサイト「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」で、「第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表となった荒畑寒村がモスクワに帯同した、ないし、荒畑の訪ソにあわせて上海かウラジオストック経由でモスクワに届けられた、コミンテルンでの日本問題の検討のための基礎資料=部門別報告書」(日本語手書き報告書で、日付・署名なし)が公開されている。これも貴重資料である。 |
「現今日本に於ける政治状態」を解析して、支配階級の構成状況を次のように書き出している。@・枢密院(天皇の政治諮問機関にして所謂元老の住家なり)、A・貴族院(貴族約百五十、大富豪約五十、国家功労者約百を以て組織す)、B・研究会一三五、茶話会四四、交友クラブ四五、公正会四二、同成会二七、無所属二六、純無所属三九、を挙げている。
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この文書を見れば、日本共産党の創立を廻って相当深刻な対立があり、議論されていたことが判明する。反対派は【政党組織無要論と尚早論】に依拠し、賛成派は【政党組織必要論と非尚早論】を主張した。趣旨は本文の通りであるが、加藤教授は、「当時の日本共産党が、明治社会主義における『直接行動派対議会政策派』、大正期の『アナ・ボル論争』の延長上にあったことが、よくわかる」とコメントしている。 |
【当時の党の主要活動】 |
この当時の党の主要活動は、1、これまで日本の労働運動を支配してきた小ブルジョア的な思想、サンジカリズム、議会主義等々を排斥し、ロシアボリシェヴィズムによる単一階級政党の創出。2・機関誌活動、前衛、労働新聞、農民運動を発刊。3・シベリア出兵によるソビエトロシア干渉反対、4・労農ロシア承認の為の支援活動、飢饉救済運動。5・労働運動のボル化、6・青年運動、水平者運動の指導等々。 |
【綱領審議の臨時大会開催】 |
5月、綱領審議の臨時大会開催。 |
(私論.私見)