補足・党創立異聞、君主制取扱議論考 |
(最新見直し2006.12.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦前の日本共産党創立記念日を廻って、通説の1922(大正11).7.15日創立説に疑問が呈されている。同時に、創立時の綱領に於ける君主制の位置づけを廻って見解が分かれている。加藤教授がこれを精力的に考究しており、本サイトで別途に考察しておくことにする。「コミンテルンへの定期報告書」研究=「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」がインターネット上で公開されており、これも貴重資料なので参照させていただく。 2006.12.25日 れんだいこ拝 |
【「日共創立日考】 | ||
共産党結党の「1922.7.15日、渋谷伊達町の高瀬の下宿にて執り行われた」というのが通説である。これを仮に「高瀬清式日本共産党創立史話説」(略して「高瀬説」)と命名する。しかし、この高瀬説は、1930年代初頭の獄中闘争において徳田球一・市川正一らによって弁明されたものが「神話」化したものであり、史実としては確定されていない。 1930年の徳田球一予審訊問調書からであり、31年の市川正一「日本共産党闘争小史」で3・15、4・16事件公判闘争の統一見解となった。7月15日が創立記念日とされたのは、その「10周年」を記念する1932年『赤旗』7月5日号の岩田義道執筆という党中央委員会アピール「八月一日を準備せよ!」からである。そ
但し、これに先行して、1・1919年のコミンテルン創立大会で、リュトヘルスにより紹介された「日本の社会主義者の挨拶」がある。2・1921.4.24日(?)に日本共産党準備委員会が「日本共産党宣言」、「規約=憲章」を作成し暫定執行委員会を持った。3・同年後半、近藤栄蔵らによるいわゆる暁民共産党が存在し、コミンテルンや中国・朝鮮の共産主義者たちから「日本共産党」として扱われてきた、という流れが有る。これを受けて、「日共創立1922.夏」に、正規の全国大会が開かれ(あるいは開かれたかたちをとり)、そこで綱領・規約をつくり、コミンテルンに報告して承認され、正式にコミンテルン日本支部として再出発した。こうして「コミンテルン型共産党としての日本共産党」が創立された、ということになる。
1923.2月の大会が第2回大会と明記されているこの文書に従えば、前年22年夏の全国大会が第1回の創立大会とならざるをえない。党務・会計報告が「1922.8月」から報告されていることは、第1回大会が7月ということが考えられる。 |
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【「君主制取扱い議論考】1923年10月22日に秘かに開かれた党大会報告書(f.495/op.127/d.69/64-76)22年綱領・23年報告書・石神井大会コミンテルン指令等 | ||
「9 おわりに──「天皇制神話」と「革命伝説」を超えて」で次のように記している。これをれんだいこが咀嚼して解析してみる。
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徳田球一 1929.5.20日の第2回訊問調書で、天皇制の歴史を機関説風に概観している。5.27日の第8回訊問調書で次のように述べている。「君主制ノ廃止トハ所謂ブルジョアデモクラシーノ徹底ノ中心的目標デアツテ此ノスローガンハ即チブルジョアデモクラシーノ徹底ト見テ良イノデアリマス」、「ブルジョアデモクラシーヲ徹底スル為ノ所謂行動ノ中心的目標トシテ君主制ノ撤廃ヲスローガントシテ居ルノデアル」。1930.1.28日の第10回訊問以降は、党史についても固有名詞を挙げて積極的に自説を展開し、極東民族大会について、「ブハーリンニヨリテ、当面日本共産党ガ為スベキ行動綱領ニ付テ次ノ如キ指示ヲ与ヘラレマシタ。(一)日本ニ於ケル政権ノ構成ガ半封建的デアリ、而テ地主即チ天皇ノ覇権ノ下ニアル事ヲ前提トシテ、『ブルジョアデモクラシー』ノ徹底ガ当面ノ政治政策デアル事ヲ断ジマシタ。而シテ其『スローガン』トシテ、(一)天皇の廃止、(二)普通選挙権ノ獲得、(三)言論、集会、出版、結社の自由ヲ掲ゲマシタ」。「創立大会ハ一九二二年七月ニ行ハレマシタ」「党ノ綱領ニ付テデアリマスガ、之ハ私達ガ齎ラシタ極東民族大会ニ於テ支持サレタ既述ノ内容[=「天皇の廃止」]ヲ充分討議シ決定スル事ガ出来ズ、何レ此創立大会後直チニ派遣サル、『コミンターン』第四回大会ヘノ代表ノ帰国ヲ待ツト云フ事ニナリマシタ」。1930.1.31日の第11回訊問調書で、第2回市川大会での高瀬清報告によると断りつつ、22年末コミンテルン第4回大会で「日本共産党ノ採用スベキ綱領ガ同志ブハーリンニヨリテ作成」され、高瀬がこれを持ち帰り、「日本ニ於テ討議シテ決定スル事ニナツタ」とし、第2回大会で「党綱領ノ討議決定ニ関シテハ更ニ臨時大会ヲ開イテ之ヲ討議スル事トナリ、其間各『ヌクリア』ニ於テ此綱領ノ審議ヲシテ置ク事ニナリマシタ」。 「然ラバ綱領審議大会[=石神井大会]デハ何ガ為サレタカ」の問いに、徳田は「此綱領審議大会ニハ私ハ出席シマセヌノデ大体後デ聞知シタ事ニヨツテ述ベマス」といいながらも、「審議ノ中心ハ勿論同志ブハーリンノ綱領草案ヲ基礎ニシタノデアリマスガ、最モ問題ニナツタノハ君主ノ日本ノ政治及経済上ニ於ケル地位及此制度ノ廃棄ト云フ事デアリマシタ。併シ遂ニ此事ハ解決ヲ見ナカツタノデ、遂ニ綱領審議ノ効果ヲ得ナイ事ニナリマシタ」とあたかも出席したがごとくに話す(78頁)。ただしこの時点では、「ブハーリンノ綱領草案」の内容を、「既ニ極東民族大会ノ時ニ指示サレタ闘争題目」「先ヅデモクラシー徹底ノ為メニ普通選挙運動及一般労農大衆ノ政治行動ニ対シテノ党ノ政策」(78頁)と「行動綱領」風にしか説明していない。すでに日本共産党を離れた荒畑寒村に、「第一次日本共産党ノ創立大会ハ大正十一年七月デアツタノカ」と予審判事が訊ねたのは、30年2月18日、徳田供述の2週間後のことであった(同12頁)。ところが、いったん27年テーゼ、28年第1回普選まで、徳田なりの武勇伝風党史が述べられた後の1930年4月1日、豊多摩刑務所内での第23回訊問で、予審判事藤本梅一は「日本共産党綱領草案(註、草案ノ序言的部分ハ全部同志ブハーリンノ綱領草案ト一致スル)」(「共産党インターナショナル綱領問題材料集」一九二四年カール・ホイム発行独文ヨリ訳出)なる文書を徳田に示し、「第一次共産党第三回大会ニ於テ審議サレタブハーリン起草ノ日本共産党綱領草案ト云フノハ斯様ナモノデナイカ」と訊ね、長文の「之ヲ読聞ケタリ」。徳田の答えは、2か月前には自分は出席していなかったと断っていたはずなのに、「之ト同一内容ノモノデシタ。 被告人 徳田球一」(同181頁)──これが、今日まで続く「神話」の誕生の瞬間であった。 |
したがって、今日「22年日本共産党綱領草案」とか「二二テーゼ」として知られるものは、早くても1923年石神井会議以後に作られたものである。さらにいえば、23年6月コミンテルン第3回拡大執行委員会総会ブハーリン綱領問題報告での以下の発言の土台となったのは、この日本共産党報告書、及び、石神井大会決定でモスクワに派遣された荒畑寒村の持参した報告書類であったと考えられる。
しかし、この6月21日時点でブハーリンが「手もと」にあるという綱領草案も、24年『綱領問題報告集』所収の成文と同一とは、考えにくい。せいぜい山川・荒畑・堺の22年日本共産党綱領を日本資本主義論風にソフィストケートした程度のものであったろう。
というのは、この第3回拡大執行委員会の頃、6月5日の日本共産党検挙について、6月中に上海で書かれたと思われる、もう一つの日本語「報告書」がある。署名はないが、「執行委員会の訓令によりて日本を脱走した我々三人」=佐野学・高津正道・近藤栄蔵の合作と思われ、内容と筆跡からして、おそらく佐野学執筆である(f.495/op.127/d.61/81-98)。
そこには、「第一 JCPの近況」「〈四)各部委員会」に「・綱領委員会」の項があるが、以下のような短いもので、ブハーリンのいう「草案」作成に、日本本国の綱領委員会が関与した形跡はない。
更に「第二 今次の検挙事件」についての報告「(1)発覚原因」で、発端となった早稲田大学軍研事件の経緯の説明のなかで、次のように述べる。「君主制廃止」に触れた重要文書が押収されたという認識はなく、比較的冷静に書かれている。
そして「(二)警察側の手中にありと想像せられる物件」では、次のように述べる。
どうやら石神井大会議事録は、すでに一斉検挙前の時点で、もともと押収されても大逆事件の再来につながるような性格のものではないと認識されており、逮捕を覚悟した党員たちにもその旨伝えられ、意思統一されていたようである。これは、高瀬清が晩年に回想する、獄中で堺利彦が死刑を覚悟したり、高瀬自身が取り調べで議事録を示されて天皇制問題を筆記していなかったことに気づき安堵する話とは、大分異なる。
そして、「第三 今後の方針に関する見解」は、次のようになっており、モスクワで綱領を作成する方向を、日本共産党側から提案している。
ここに、第一次共産党検挙事件の結果として、日本共産党綱領の作成が、日本支部=日本共産党執行委員会側からモスクワに託された、と推定できる。
ちなみに、この頃モスクワに派遣されていた「Aoki」=荒畑寒村の予審訊問調書、『共産党をめぐる人々』(弘文堂、1950年)などの回想には、いわゆる日本共産党綱領草案への言及はない。『寒村自伝』では、石神井大会決定として「コミンテルンに提出して承認を得べき綱領草案」を挙げただけで(313頁)、小山弘健との対談では「綱領をどういうふうに問題にしたのか記憶ありませんね」という(小山編『回想・日本の革命運動』第5巻、現代史研究所、1971年、13-14頁)。晩年の石堂清倫・伊藤晃による聞き取りでも、綱領問題への言及は残さなかった(『運動史研究 9』「特集 荒畑寒村」三一書房、1982年)。
荒畑がモスクワで感じとったのは、「ロシアの指導者で日本に亡命し、日本語を解し、日本の事情に通じている者はほとんど絶無」「これではコミンテルンの執行部が、いかに世界の革命的頭脳を網羅していようとも、日本の情勢に関する的確な知識を得て具体的な方針をたて得る筈がない」ことであった(『寒村自伝』400頁)。自分が代表となった第3回拡大執行委員会総会でブハーリンにより日本共産党綱領が言及されたという記憶さえなく、むしろ直前に東京で起こった第一次共産党検挙に心を痛めたことを記している。
荒畑はまた、「君主制の廃止」スローガンについて、既に引用した1930年予審訊問調書で「無産者独裁」の綱領を「理論的ニ追究サレレバサウデアル」ものとしてのみ認めたが、山川均が「市川」大会で「規約」に天皇制廃止を加えることに反対したという「日共伝説の受売り」には、「山川君はこの大会に出ていなかった」事実を挙げて、一笑に付している(『寒村自伝』313頁)。荒畑寒村にとっては、第一次共産党自体が「粗製濫造の共産党」だったが、その後の徳田球一・市川正一・野坂参三らによる「党史の粗製濫造」に、あきれ果てていたのだろう。
そのようにして読むと、松尾尊兌が発掘し詳しく分析した石神井大会議事録に「君主制」論議などなく、「日本共産党綱領草案」の内容に照応する具体的論点がみられない理由がわかる。この23年3月石神井大会討論、6月第一次共産党検挙事件時点でもなお、日本共産党は本稿で紹介した「1922年9月日本共産党綱領」の路線・水準にあったと考えられる。
以上の推定の裏付けとして、ここで、松尾尊兌が石神井大会議事録解読のさいに用いた、第一次共産党事件堺利彦予審調書における綱領問答に立ち返ってみよう。基本資料でありながら、なぜかわが国では活字になっていないので、大原社会問題研究所所蔵の長谷川博がもっていたと思われる写本を用いる。綱領問答は1923年6月8日第2回調書のなかにみられるが、重要なので、長文だが敢えて引用する。なお、筆者は日本語文語体毛筆書き下ろし文書の解読に慣れていないため、冒頭の1-5問は省略し、原本丁数169第6問答以下の暫定読み下しである。
以上の1923年6月の堺利彦による石神井会議供述から分かることは、第一に、堺利彦が予審判事に問われて初めにイメージし答えた「ブハーリンの綱領草案」とは、1922年11月にコミンテルン英文機関紙『インプレコール』に公表された、一般綱領(世界綱領)草案であったことである。
このブハーリン「共産主義インタナショナル綱領(草案)」は、かつて筆者が独文『インプレコール』1921年11月21日号から解読して、コミンテルンにおける全般的危機論の原型として紹介したもフであるが(加藤『国家論のルネサンス』青木書店、1986年、191頁以下)、全体が「・ 資本主義的奴隷制」「・ 労働者の解放と共産主義的社会秩序」「・ ブルジョアジーの打倒と共産主義のための闘争」「・ プロレタリア独裁への道」の全4章で構成された、当時の共産主義革命理論の簡潔な体系的記述であった。問答中の堺の4段の内容紹介は、それに完全に照応している。
第二に、予審判事が第2回訊問で堺に提示した押収証拠「大正十二年押第七七四号ノ二十二」は、その後の問答と、後に紹介するモスクワへの報告書の内容からして、堺の記憶にあった英文『インプレコール』のブハーリン綱領草案であるのかどうかは、はっきりしない。松尾は裁判記録中の全押収物件を整理して「『ヴハーリン』の『プログラム』草案」を「押774-22」に分類したが、このブハーリン世界綱領草案は今日でも邦訳はないから、英文または独文『インプレコール』でなければならない。ところが堺の4段の説明内容に対する予審判事の無関心からして、どうやら『インプレコール』ではなかった可能性がある。
また、この「押774-22」は、今日知られている限りの資料では、堺の第2回調書以外の訊問や公判で用いられた形跡はない。それが堺に提示された後のやりとりからすれば、それは、・・・・の番号が出てくる石神井大会議事録そのもの(松尾のリストの「押774-3」)である可能性が高い。「ブ氏=ブハーリンのプログラム」にしろ「インストラクション=指令」にしろ、「第一革命と第二革命」の論点、「戸田[議長=猪俣津南雄?]」にしろ、ここに出てくるのは、すべて松尾の発掘した議事録及び党規改正案の範囲内での質疑応答である。
仮にもしも「押774-22」が、いわゆる「二二年テーゼ=日本共産党綱領草案」であれば、当然重要な証拠として他の被告への訊問や公判廷でも用いられ、「第二の大逆事件」になるはずであるが、それはもちろんありえない。第3回訊問以後は、この証拠ナンバーは記録に残っていない。
そのため議事録と堺調書を精査した松尾は、「この『押第七七四の二二』そのもの、あるいはその写しが入手できれば一目瞭然となろうが、あるいは今日知られている[日本共産党綱領草案の]邦訳とは異質なもの、すなわち、二二テーゼの骨子を要約したものである可能性もある」と記したが(前掲論文、134頁)、たとえ「要約」ないし「骨子」であっても、日本の情勢分析や君主制廃止スローガンが入っていたならば、物的証拠が乏しく被告らの供述も曖昧なこの治安警察法事件では証拠として法廷に持ち出されたであろう。
実際は、松尾が詳しくリスト・アップしたように、堺利彦の23年末保釈出獄後の24年2月8日第9回調書、及び25年8月20日(=治安維持法制定後)の東京地裁第1審判決文中で、「押774-1」が「英国共産党暫定党規」、「押774-2」が「党規改正」書類、「押774-3」が「議事録」となっており、この3点が物的証拠の中心である。それゆえに、取り調べの重点は、「押774-3」=議事録の筆跡鑑定による書記高瀬清・仲宗根源和の特定に費やされた。「押774-22」は、なぜか使われていない。
どうやら、堺がこの第2回調書の問答で聞かれている「押774-22」の内容は、佐野学のもとから押収されて警察の手に渡り、松尾がアメリカで発掘した、石神井大会議事録そのもの=「押774-3」のようである。皮肉なことに、それは『インプレコール』に載ったブハーリン世界綱領草案と同じく・・・・の全4段で構成されていたが、その内容は、前述のように、ブハーリン綱領草案の・・・・とは対応しない。そのため問答は、官憲側にとっては、よく意味の通らないものになっている。
そのさい堺が、官憲側の「誤解」を意識したかどうかは不明だが、「第一革命と第二革命」の理論問題、「無産政党結成問題」には一般的に答えつつも、日本共産党の存在の有無、石神井大会の有無、ブハーリン指令=「インストラクション」の存在や議長・発言者の氏名特定にはむすびつかないよう供述していることは、明らかである。この時点での「党の秘密」とは、日本共産党結成の事実そのものであり、綱領の内容に立ち入ったものではなかったことがわかる。
第3回以降の訊問で、堺は市川・石神井の会合への出席は認め、共産党もできたらしいと認めるようになるが、自分の積極的関わりは否定し、市川・石神井会合は合法政党結成準備の話し合いだったともいう。23年11月5日の第6回調書では、「党ノ組織ニシテモ石神井ノ会ニシテモ議事録ニ表ハレテ居ル様ナアンナニキチントシタモノテハナク乱雑ナモノテアツタノテス アノ議事録ハ事ヲ誇張シテ」いる、と逃げる。その結果、第1審・第2審判決とも、物的証拠とされたのは「押774-1・2・3」であり、堺に示ウれた「押774-22」ではなかったのである。
この謎の解明は、更なる第一次共産党事件裁判記録の発掘を必要とするが、もしも「押774-22」が英文『インプレコール』のブハーリン綱領であったならば、日本に関係する叙述は全然ない外国語の公刊物であるから、治安警察法第28条(秘密結社・加入)による起訴立件の有力証拠にはなりえない(これら法律問題については、小田中聡樹「第一次共産党事件」『日本政治裁判史録 大正』、渡辺治「治安維持法の成立をめぐって」『季刊現代史』第7号、1976年、参照)。前述した事件後のコミンテルンへの日本語報告書の内容や公判過程からして、コミンテルンからの「インストラクション=要旨ないし骨子」が押収されていた可能性もない。
第三に、堺が「押774-22」を示され訊問された1923年6月時点では、24年1月に『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』に公表され、「君主制の廃止」を第一スローガンにかかげた日本共産党綱領草案は、堺はもちろん目にしたことはないし、警察側も存在を知らない。そしてそれは、・・・・の番号などなく、1930年に徳田球一が予審判事から読み聞かされたように、「草案の序言的部分ハ全部同志ブハーリンの綱領草案ト一致スル」と注が付された、全く別個の草案であった。松尾は、議事録と堺調書の解読からこの矛盾に気づき、真実に肉薄したが、石神井討論時にもなんらかの「二二テーゼ」が存在し押収されたと前提したために、鍋山証言に依拠した中途半端な結論になった。
しかし、以上の問答を含む第一次共産党事件の日本側公式裁判記録には、またモスクワに送られた日本共産党の1923年の公式報告書類にも、「君主制廃止」問題は全く登場しない。警察・検察側も「君主制廃止」などもともと問題にしておらず、もっぱら日本共産党結成の有無、「ブハーリンのインストラクション」と議事録中の「第一革命と第二革命」、及び出席者・発言者を問題にしていた。それが、通説では「堺らの天皇制廃止問題の慎重な扱い方、より直接的には[ 議事録から君主制論議を省いた]高瀬の機転によるもの」(小田中前掲論文)とされてきたのであるが、果たしてそうであろうか?
過激社会運動取締法案が流産し、治安維持法が制定される狭間での事件であるから、「歴史の後知恵」ではそのように理解されがちであるが、すでに1924年初めには英独仏語で公刊されていた日本共産党綱領草案が、25年の治安維持法成立過程で問題にされた形跡はない。権力側にとっては「朝憲紊乱」「国体の変革」の格好の事例となったであろうにもかかわらずである。その存在そのものが、どうやら「27年テーゼ」から28年3・15事件にいたる時期まで、知られていないようである(渡辺治教授のご教示による)。
日本共産党綱領草案の日本語訳は、青野季吉「震災前後二三」(『社会科学』1928年10月)や太田黒年男編著『日本左翼運動小史』(新興書房、1929年)、白揚社編集部編『日本共産党小史』(白揚社、1931年)などに伏せ字だらけで紹介されるが、それ以前から『共産主義インタナショナル綱領問題資料集』各国語版は流布していたともいう(犬丸「これまでの日本共産党の資料集と研究の概観」『現代史資料月報』1964年11月、岩村前掲書、103頁)。とはいえ、共産党側でも、当時のコミンテルン文献に最も精通し、無産政党の綱領問題を詳しく研究し論及していた山川均が、「ウワサを小耳にはさんだ」ことはあったが、現物を見たのは「昭和二、三年ごろ」フランス語版『綱領問題資料集』であったという(『山川均自伝』395頁、なお、山川『無産政党の研究』叢文閣、1925年、『無産政党の話』千倉書房、1931年、参照)。
第四に、見方によっては「のらりくらり」と評しうる以上の堺供述は、高瀬清回想のいう「死刑を覚悟した」悲愴な黙秘ないし陳述ではなく、逮捕前に執行委員間で意思統一した通りの、コミンテルン日本支部=非合法共産党結成を隠匿するという方針に沿ったものである。むしろ、6月一斉検挙前に「暁民共産党事件」の欠席判決で豊多摩刑務所に入り、そのため執行委員会決定を伝えられていなかった堺の娘婿高瀬清が、自分の党名=「梅田」を明かすなど、秘密の一部を漏らしていたことがわかる。
同じく別件で事前に逮捕されていた徳田球一は、「警察側の手中にありと想像せられる」印刷工「小林進」=極東民族大会に徳田・高瀬らと同行し、党資金詐取の疑いがもたれていた「小林進次郎」とのつながりからして、堺利彦らから警戒される立場にあった(徳田「わが思い出」『徳田球一全集』第5巻、五月書房、1986年、218、306、424頁、『寒村自伝』292頁)。
もっともその高瀬や徳田さえ、権力側に「君主制の廃止」討論をもらすことはなかったようである。もともとそんな討論は、石神井会議では出なかったのであろう。だから高瀬回想のいう堺の「従容として死につくという悲愴な覚悟」(高瀬『日本共産党創立史話』147頁)や関東大震災直後の混乱した獄中で高瀬が「私はあの記録を予審廷で見ましたが、オヤジのことは一言も書いてありません」と秘かに伝え堺を安心させる話(同157頁以下)は、おそらく高瀬のフィクションである。堺自身が、すでに検挙直後の訊問で「押774-22=744-3」=議事録を目前に示され質問されていたのであり、その後の調書・裁判記録からも、高瀬のいう意味での「悲愴な覚悟」は読みとれない(「震災の獄中」『堺利彦全集』第6巻、法律文化社、1970年、をも参照)。
たぶん真実は、こうであったろう。1922年9月には、山川が起草し堺・荒畑の署名した日本共産党綱領が存在した。それは、コミンテルン第4回大会時に、モスクワで不充分とみなされた。その理由は、高瀬が回想する「天皇制の問題が書いてない」どころか、もっとプリミティヴな社会主義観・世界観レベルの問題であったと思われる。
そこで、コミンテルン全体の綱領作成作業にあわせて日本の新綱領作成が課題となったが、高瀬・川内の帰国する22年12月時点では、ブハーリンの世界綱領草案はすでに独文『インプレコール』21年11月21日号に発表され討議されていたものの、日本についての綱領草案は、もともと存在しなかった。しかし新綱領をつくれという指令は高瀬により日本に持ち帰られ、市川大会で報告され、石神井大会直前にその素材としてブハーリン世界綱領草案と簡単な4段構成の指令が届けられた。しかし日本の共産主義者は、大逆事件以前からの直接行動論対議会政策論、アナーキズム対ボリシェヴィズムの対立の流れを色濃く残しており、審議未了になった。そこに第一次共産党検挙と関東大震災で綱領どころではなくなり、「解党」へと向かったのだろう。
いわゆる「日本共産党綱領草案」は、「最大の半封建的大地主で日本政府の元首たるミカド」を問題にし、「君主制の廃止」を「政治的分野における要求」の第一に掲げるがゆえに、日本の共産主義者にとっては衝撃的なものとなったが、それは実は、1924年初出のドイツ語版に「草案の序言的部分は大きく全体が同志ブハーリンの綱領草案と一致する」と注記されていた(Materialien zur Frage des Programms der Kommunistische Internationale, Hamburg 1924, S.274) 。英語版では、この注が「この草案はブハーリンの草案にほかならない。日本の同志たちは、それに日本共産党の特殊的要求にかんする一章をつけくわえた。ここでは、この補足的な章はのせない」とあったため、村田陽一は『コミンテルン資料集』第2巻(大月書店、1979年)に訳出するさい、「この注は誤解にもとづくもの」と解釈し(610頁、訳注306)、『資料集 コミンテルンと日本』第1巻(大月書店、1986年)再録にあたっては、その英語版訳注を無視してしまった。
しかし、独語版・英語版注は「誤解」ではなく、コミンテルンの側からすれば、もともと1924年に公表された日本共産党綱領草案とは、ブハーリン世界綱領草案の・・・・に、今日「22年綱領草案」とか「二二テーゼ」とよばれている日本に直接言及した部分を付け加えた(第V章?)構成であったと推定できる。これは、当時のコミンテルンの綱領討論における世界綱領と民族綱領との関係に、ぴったりと照応する(加藤『コミンテルンの世界像』84頁以下、参照)。
この第・章=日本の民族綱領の成文は、おそらく関東大震災後の1923年秋に、モスクワのコミンテルン東洋部及び上海のコミンテルン極東ビューローで作られたものであろう。そのさい、岩村登志夫が注目したヴォイチンスキーの役割が重要であろう。
かつて岩村『コミンテルンと日本共産党の成立』が詳しく論じたように、1922年9月のコミンテルン理論機関誌『共産主義インタナショナル』各国語版に掲載されたヴォイチンスキーの論文「日本の階級闘争」は、日本における封建遺制評価、君主制=絶対主義説や普通選挙・合法大衆政党への積極的態度において、いわゆる日本共産党綱領草案に連なる認識を示していた。
しかし、この方向が、コミンテルンの公式見解として強く打ち出されるのは、1923年11月5日にコミンテルン執行委員会で決定され、11月8日に日本へ送られたという極秘テーゼ「震災後における日本共産党の戦術についてのテーゼ」以降と思われる。そこでは、「日本の軍閥と封建的官僚の政府」に対して、「勤労者の統一戦線」を樹立し「現存体制の打倒」スローガンを掲げる必要を強調していた(村田陽一編訳『資料集 初期日本共産党とコミンテルン』大月書店、1993年、3頁以下)。
その同じ頃、上海のコミンテルン極東ビューロー責任者ゲ・ヴォイチンスキーは、第二論文「日本におけるブルジョアジーと封建制の残存物」(『新しい東方』第4号、岩村前掲書、101頁以下)を書いており、それを「1923年12月頃刊行」と紹介した岩村は、その内容が24年発表の日本共産党綱領草案にも反映された可能性があるとして、「1923年6月のコミンテルン第3回拡大執行委員会総会は、3月の日本共産党第1回全国協議会による綱領草案採択が荒畑から報告され、草案自体の確定がブハーリン報告に示唆されるが、その後の修正がなかったという保証はない」と述べていた(103頁)。この前段の記述は史実に照らして訂正さるべきであるが(3月石神井会合は全国協議会ではなく臨時党大会、6月荒畑報告に綱領問題は登場しない)、その末尾の叙述は、綱領草案成文が23年秋に作られたと考えると、合理的に説明できる。
ただしこの頃、国内の日本共産党臨時中央ビューローも、関東大震災後の党再建に取り組んでいた。国内に残された党員たちは、正規の党大会を開き、23年11月10日付で英文タイプ報告書「To the E.C.of the C.I.」(f.495/op.127/d.58/72-74)、11月15日付で日本語手書き報告書(f.495/op.127/d.69/64-76)をモスクワに送っている。
そこでは、10月22日に秘密裡に党大会を開き、臨時ビューローを廃止し、本山[饒平名智太郎?]を総幹事(GS)、野田[佐野文夫?]を国際書記(IS)とした6人の国内執行委員会(山田[赤松克麿?]=財務幹事、大井[北原龍雄?]、田[立田泰?]、朝日[浅沼稲次郎?]が幹事)を再建したこと、 6月検挙、関東大震災後の戒厳状況下で、党組織を整理・再編し、「合法活動」に専念し普選運動・合法労農政党など「民主主義運動」に積極的に加わる新方針を決定したこと、そのため党内に16名の委員から成る政党組織準備委員会を設けたことなどを、モスクワに伝えた。無論、組織の維持でせいいっぱいで、綱領討議どころではなかったが、3月石神井大会時に比すれば、「第一革命」説・「合法無産政党積極設立」説の全面採用であり、党内路線対立の解消であった。
しかしモスクワでは、この6月検挙と関東大震災後の大杉栄虐殺、亀戸事件、朝鮮人虐殺、戒厳状態を見て、「現存体制の打倒」に力点をおいた新指令を作り、「君主制の廃止」を第1スローガンにした綱領草案を仕上げようとしていた。国内共産党が天皇制国家の弾圧・テロルからようやく合法政党結成・普選運動積極参加の方向に歩みだしたのに対して、モスクワのコミンテルンは、それを封建遺制とその国家機構の分析にまで徹底し、政治的にも「君主制の廃止」スローガンを正面に掲げるよう求めたのである。
佐野学・近藤栄蔵らの入露後、モスクワには、片山潜を中心に佐野・近藤らを加えた「在外日本共産主義者団」が設けられていた(f.495/op.127/d.58/28-43)。彼らこそ、コミンテルン執行委員会東洋部と国内共産党の橋渡しになるはずであったが、これら在露日本人共産主義者も、日本共産党綱領草案作成に加わったかどうかは不明である。その後の回想や獄中供述等から判断すると、積極的役割を果たしたとは考えられず、おそらく日本人の手の届かないところで作られたものであったろう。
だから、生まれたばかりの日本共産党にとっての「君主制の廃止」スローガンの衝撃は、1922年1月極東民族大会でも、同年9月創立綱領作成時でも、23年2月市川・3月石神井大会においてでさえなく、23年6月第一次共産党検挙事件、9月関東大震災以後の最も活動困難な時期に突然モスクワで発表され、ようやく自力で普選運動積極参加、合法政党設立の方向に歩み出した国内共産党を「解党」に導く一契機となったと思われる。もっとも「解党」論議のなかでさえも、日本共産党綱領草案や「君主制廃止」が中心論点であった形跡はないのであるが。
それを、1930年の徳田球一は、「27年テーゼ」を念頭において、「君主制の廃止」が党創立準備期からのバックボーン・中心論点で政治目標であったかのように歴史を捏造した。この、いまや治安維持法を持った天皇制権力と、冒険主義的な「武装共産党」「非常時共産党」獄中指導部との奇妙な合作=逆方向からの利害の一致として、「一貫して天皇制に反対した共産党」という「神話」が、一人歩きを始めたのである。
おそらくその徳田球一・市川正一らの公判闘争の筋書きに触発されて、重要当事者の一人であった高瀬清は、自ら歩んだ軌跡をおぼろげに回想し、自分がコミンテルン第4回大会時に日本共産党綱領草案を持ち帰り、「君主制の廃止」が石神井大会での中心論題であったと前提して、その討論内容・波紋についての、あれこれの「伝説」を創作したのであろう。第一次共産党について述べることの少なかった山川均が、石神井大会での天皇制討論について、「真偽は保証できません」「石神井大会には私は出ていないし、その他の機会、たとえば堺さんや荒畑君などとの私的な話の中でも、天皇制の問題を論議したことは一度もなかった」と言い切ったことの意味が(『山川均自伝』395頁)、改めてここに浮かび上がってくる。
最後に残された問題は、その「解党」を受けて、1925年1月上海での日本共産主義者会議で採択されたとされる 「上海テーゼ」の、次のような叙述の解釈である。
このいわゆる「上海会議一月テーゼ」は、1933年頃に東京地方裁判所検事局思想部でつくられた謄写印刷版が、1964年に山辺健太郎『現代史資料』第14巻(みすず書房)に収録されて、知られるようになったものである。そのさいの官憲訳は、上記引用の「絶対主義」が「専制主義」、「君主制反対」が「専制政府に対する」となっていたが(同書37頁以下)、1993年に村田陽一が、本稿の資料と同じ旧ソ連共産党ML研コミンテルン・アルヒーフから英文タイプ文を発掘して『初期日本共産党とコミンテルン』に新たに訳出・収録した(ただし典拠の資料番号は不明、「解題」ではヴォイチンスキー執筆、ロシア語から訳出とされている)。
本稿の立論との関わりでは、官憲訳でも村田訳でも「二年前に共産主義インタナショナルによって決定された日本共産党の綱領案」と述べられているのがポイントで、1925年1月の「二年前」とすると、日本共産党綱領草案は22年末ないし23年市川・石神井大会期に「共産主義インタナショナルの決定」であったことになり、その時点ですでに「絶対主義=君主制」反対スローガンがコミンテルンから指令された、ということを意味する。したがって、この「上海テーゼ」からは、むしろ通説の方が合理的に説明できる。
しかし、以上に紹介してきた1923年期の日本共産党からモスクワへの報告書類からは、「絶対主義=君主制打倒」の方向性は、理論的にも政治的にも見出しえない。むしろ封建遺制=軍閥官僚とブルジョアジーとのブロック権力説が支配的である。そして、山川均は、この「上海テーゼ」についての高橋正雄の質問に答え、「私が読んだものには、そういう部分[=「天皇制打倒」スローガン]はなかった」と回想している(前掲『社会主義』座談会、48頁)。荒畑寒村の「いわゆる上海テーゼ」の理解も、「解党の誤謬を認めて再建のために積極的な運動を開始すること」であったというものである(『寒村自伝』469頁)。「22年綱領草案=君主制廃止」の神話は、結局「27年テーゼ」以降のものではなかろうか? この問題については、筆者は「上海テーゼ」の原文を確認しえないため、保留にしておこう。
【日本共産党の創立事情その4・党綱領の未採択考】 | ||||||||||||
日本共産党は創立されたが、この時党綱領は採択されなかった。では、党の創立時に何ゆえ綱領が採択されなかったのかというと、以下に列挙する重要事項において参集した活動家達の間で見解が一致しなかったからであった。
そういう事情もあって、その年の秋のコミンテルン第4回大会時に「君主制の廃止」スローガンを掲げた「日本共産党綱領草案」がつくられ、それを1923.3月の臨時党大会で議論することになった。が、又しても紛糾、継続審議となっている。が、直後に国家権力による弾圧が襲い、結局「君主制の廃止」スローガンは審議未了のままで採択できなかった。 この経過を踏まえれば、日本共産党の現党中央が「創立時から、天皇制に一貫して反対してきた輝かしい伝統を持つ党」と自称してのは、厳密な意味では問題がある。 これらの議題は、いずれも最肝要な理論的課題にして未だ決着が着かないままに党の創立そのものが優先され、継続審議に付されたものの、戦前の党運動の全歴史を通じて否戦後の党運動の今日にいたるまで未解決のままに提起され続けている。「一時は行動主義、一時は理念的理論主義、一時はサロン主義に変調しながら党の旗を護るという気概だけが真紅であった」と評されるような歩みを進めていった、という史実経過を見せている。 加藤哲郎教授グループにより、これまで全く知られていない、「草案ではない創立綱領」も発掘されており、そこにも「君主制廃止」スローガンは見当たらない。「君主制廃止」スローガンについては、「当時の日本共産党のモスクワへの報告書類では、いわゆる『27年テーゼ』まで『君主制』が問題になった形跡はなく、問題にされたのは、もっぱら『政治革命とプロレタリア革命』の関係、普通選挙と合法無産政党結成問題だけでした」という見解が披瀝されている。 加藤哲郎氏は、サイト「第一次共産党のモスクワ報告書・上下」で、当時の日共指導部がコミンテルン宛に定期報告書を提出していたことを明らかにしている。これを見るのに、コミンテルンの歓心を引くよう順調に党活動が進展しつつあると過剰気味に報告されていることが判明する。 |
【「綱領草案」発表される】 |
1922(大正11).9月、綱領草案(「1922年9月綱領」)が発表されている。この綱領はソ連邦崩壊後漏洩されることになった機密資料の中から発見されたもので、加藤哲郎教授が「1922年9月の日本共産党綱領(上)(下)」論文中で、「モスクワに保存されていた日本共産党22年綱領」問題を検証している。 「1922年9月綱領」は、政治、経済、農業、外交の4部門に分けて社会分析を行い、党の要求をスローガン化させている。今日から見ていずれも先進的なそれであり、土地の公有的観点を取り除けばほぼ全ての要求が敗戦後の日本の統治システムの中に導入されていることを思えば感無量でもあり、他面戦後社会の構造分析を為す際の一つの示唆を与えているようにも思われる。 |
【日本共産党綱領】
以下、加藤教授による英文オリジナルからの訳出文である。 |
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第3共産主義インターナショナルの支部である日本共産党は、非合法のプロレタリア政党であり、その目的[aim]は、ソヴェト権力を基礎としたプロレタリアート独裁樹立を通じての、資本主義レジームの打倒[overthrow
of the Capitalist regime]である。 日本は、東洋の資本主義諸国のなかで最も強力で、世界戦争中に占めたその有利な地位が、資本主義体制の突然の発展と拡張をもたらした。世界経済危機の圧力のもとで、日本資本主義は、すでにして不平等な搾取と迫害を、勤労大衆、労働者、農民及びその他の下層住民へいっそうしめつけようと、懸命にたたかっている。共産党は、これらプロレタリア大衆を強力な戦闘体へと組織し、政治権力と生産体制をプロレタリアートの手中に奪取するプロレタリア革命へと彼らを導く任務を自ら引き受ける。 (労働運動) 日本における労働者の運動は、なお揺籃期にある。労働組合運動は、日本の帝制[Japanese Zardom]のくびきのもとで、なお正常な発展線上に従ってこなかった。大多数の受動的で脅迫され未組織な大衆とならんで、自覚的で戦闘的な少数派分子がおり、その気質とイデオロギーは、ヨーロッパの労働者の最も進んだ部門のそれに匹敵するほど革命的である。未組織労働者のあいだでさえ、いかなる野蛮に抑圧された無産者[toilers]のなかにも広がり根付いているような、本能的反抗の感情がある。 これらの本能的反抗と革命的要求に対して、共産党は、もっとも明白に定義づけられた目的[purpose]と、それを実現する[of realizin it]最も有効な諸手段を与えるよう努める。この目的のために、共産主義者は、組合の政策を支配できるように、すべての労働者の組織に浸透し、未組織大衆をプロレタリア的闘争へと教育し導き組織するように、彼らとの緊密な接触を保持しなければならない。 この困難な仕事のなかで、党は、プロレタリア独裁樹立という究極的目標をしっかり保持しつつも、労働者の日常的諸闘争に積極的に加わるために、あらゆる機会に「統一戦線[the United Front]」という共産主義戦術を遂行して、その合法的諸活動を組織しなければならない。こうした路線でのその成功的闘争を通じてのみ、共産党は、プロレタリア大衆党、プロレタリアートの真の前衛党という性格を身につけることが期待できる。 産業労働者のより積極的で影響力ある部門のいくつかは、アナルコ・サンディカリズムのイデオロギーという小児病に冒されてきた。彼らは「自由な労働者のレジーム」という幻想的考えを素朴に胸に抱いて、中央集権的組織とプロレタリア独裁樹立を含むすべての「政治的な」活動に反対し、なお少数派労働者を指導し影響を与える地位にあり、プロレタリアートの目前の必要のための不可分の努力と究極的勝利の双方に損害を与えている。 これらの革命的分子には、我々の原理の問題ではいかなる譲歩をもなすことなしに、彼らのできるだけ多数を我々の目標と戦術にかちとるために、党によって最大限の忍耐と寛容をもって接近されなければならない。 (農業問題) 農業の領域では、窮乏化の過程が着々と進行し、小作と土地集中の顕著な増大をもたらしている。この傾向は、突然の産業発展・拡張によって拍車をかけられている。産業労働者の反抗的活動により目覚めされて、農村無産者は組織化し、彼らの階級敵と闘いはじめ、戦争によって引き起こされた切実な労働力不足によって彼らの地位が強化されたことを見出してきた。産業不況に入って後にさえ、小作人と農民は、彼らの闘争と組織化を続けている。彼らは、耕作を放棄せざるをえないような小作料の軽減を要求している。何千エーカーもの土地が、小作人によって放棄されてきた。そして地主たちは、雇用労働と農業機械の助けによって、その土地を自分で耕すよう余儀なくされている。 こうした情勢を考慮し、とりわけ小農民と小作人が全人口の70パーセント近くを占め、彼らの助けなしにはプロレタリアの勝利は不可能であるというより基本的な事実をふまえて、日本共産党は、小作人の組織化においてイニシアティヴをとり、農村労働者が共産主義の理想を理解し、彼らの唯一の救済を社会革命のなかに見出すようになるように、農村におけるたゆまぬ宣伝と煽動を続けるべきである。 (政治活動) この国における諸政党は、資本家階級の党である。しかしながら、彼らの支配は、封建日本の遺制である官僚と軍部の影響力によってチェックされている。したがって、この二つの勢力の対立と妥協が、今日の政治の骨格を成している。ブルジョア民主主義は、なおその最盛期にはいたっておらず 、普通選挙権は、なお闘争日程にのぼっていない[The Bourgeois Democracy is yet to see its palmiest day, and the universal suffrage to be fought for]。 共産党は、議会制度それ自体はブルジョアジーの機構にほかならず、プロレタリア革命の道具としては頼りにならないという真理を完全に確信しながらも、にもかかわらず、議会制度の完成はプロレタリアートの闘争の正常な発展における基本的一階梯を成すという立場をとる。したがって党は、「民主主義の進歩[progress of Democracy]」を早めるように助ける、プロレタリアートの政治活動を組織する。 しかしながら、我々の議会内外の政治活動は、我々の全般的な共産主義的宣伝・煽動の特徴を留めなければならない。それらは、一方でのプロレタリア的闘争の拡大・深化とブルジョア民主主義の欺瞞[hypocresy]・無益の暴露、他方でのプロレタリアートに対する彼ら自身の政府機構を創出する必要の示威、から成っている。そのようにしてのみ、党は、プロレタリアートが彼らの闘争の本質的に政治的な性格を確信し、彼らの闘争を最期の政治権力奪取へと持続することができるようになると信じる。そして、そのようにしてのみ、我々は、労働者・農民・兵士ソヴェトを基礎にしたプロレタリア独裁樹立を目的とする我が党の指導に、プロレタリアートが従うであろうと確信する。 (軍国主義) 東洋のドイツとして知られる日本帝国は、世界的に有名な軍事官僚制をもっている [The Japanese Empire, known as a Germany of the Orient, has its world-famous Militarilist Bureaucracy]。日本の主戦論者[Jingoes]たちは、アメリカ合衆国との戦争という考えにさえ、尻込みしていない。そして、彼らの自然な同盟者は、貪欲に市場を切望するブルジョア資本家である。 軍国主義者の影響力の秘密は、彼らの愛国主義にある。 軍国主義者が学校と軍隊内で熱心に説いてきた愛国主義は、なお大多数の人々を掌握している。愛国主義の毒により盲目にされ聞こえなくされて、彼らはまだ、軍隊の真の機能が、資本主義的支配を維持し、資本家が生産者大衆をいつまでもより効率的に搾取し抑圧することであることを、理解できないでいる。 共産党は、断固として軍国主義と闘う。党は、愛国主義の呪縛を断って、軍国主義者の権力の土台を転覆し、かくして革命的プロレタリアートの赤軍組織化への道を準備しなければならない。 (朝鮮、中国、シベリア問題) 日本共産党は、あらゆる種類の帝国主義政策に断固として反対する。党は、公然であれ秘密であれ、中国・シベリアへの侵略、これらの国々の政府への干渉、中国・満州・モンゴールにおける「影響圏」「既得権」及び類似の性格を持つすべての他の企てと実行に反対する。 日本帝国主義のすべての犯罪の中でも最も悪名高いのは、朝鮮併合と朝鮮人民の奴隷化である。日本共産党は、たんにその行動を非難するだけではなく、朝鮮人民の解放のために必要なあらゆる措置を講じる。朝鮮独立のために闘っている朝鮮の愛国者の多数派は、ブルジョア・イデオロギーと民族主義的偏見から解き放たれてはいない。我々は、たんに朝鮮革命の勝利のためばかりではなく、彼らを我々の共産主義的原理に獲得するためにも、彼らと共同して行動することが必要である。朝鮮革命は日本における民族的危機をもたらすであろうし、朝鮮と日本の双方のプロレタリアートの運命は、二つの国の共産党の統一した努力によってもたらされる闘争の成功ないし失敗に依存するであろう。 極東における三つの重要な民族である中国・朝鮮・日本は、彼らの政治的・社会的・経済的生活において互いに密接に関係し合っており、かくして、共産主義の目標へと共に行進する責務をもつ。プロレタリアートの国際連帯[iternational solidarity]、とりわけこれら三国の国際連帯は、たんにそれら諸国ばかりでなく全世界のプロレタリアートの勝利と解放のために、絶対欠くことの出来ない条件である。
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加藤哲郎教授は、概要次のようにコメントしている。今日の日本共産党の公式党史では、概要「日本共産党は、1922年7月15日に東京渋谷で創立大会を開き、党規約を採択し、コミンテルンへの加盟を決議、中央執行委員長に堺利彦を選出した」として、1921年4月堺利彦・山川均・近藤栄蔵らの日本共産党準備委員会「日本共産党宣言」、「日本共産党規約」の存在は認めている。
が、綱領については、1994年版「日本共産党の七十年」は次のように記している。
今日の日本共産党が初めての綱領的文書として公認する「綱領草案」とは、1924年のレーニンの死の頃、コミンテルン「共産主義インタナショナル綱領問題資料集」に初めて発表された「日本共産党綱領草案」を指している。その典拠が村田陽一編訳「資料集 コミンテルンと日本」第1巻の次の注記である。
公式党史「日本共産党の七十年」は、前述のように、モスクワで作成された「日本共産党綱領草案」を「党の最初の綱領的文書」として扱うが、1922年「創立大会」があったと仮定しても、学問的にはそこで「綱領」がつくられたかどうかが論点になっている。松尾尊兌、犬丸義一、村田陽一、岩村、川端氏らは、「規約(英国共産党暫定党規)が作成されたことは確実だが、綱領については不確実。戦前の証言は綱領を作成しなかった」、「正式の綱領は創立当時存在せず、きわめて簡単な行動綱領のみ暫定的にきめられたのであろう」と結論づけて、共産党中央見解党史を補強している。 |
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これに対して、加藤教授は「これまでの日本共産党史に関する論争問題の多くは、案外簡単に資料的裏付けを得て解決されるであろう」とコメントしている。加藤教授は、「日本共産党22年9月綱領の内容と特徴──天皇制問題の不在」と題して「日本共産党綱領」を次のように検討している。
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「22年綱領の起草者・署名者──山川均起草、荒畑寒村・堺利彦署名?」
加藤教授は、「この22年日本共産党綱領は、本当に1922年9月に、正規の全国大会で採択されたものであろうか?事実とすれば、大会での正式綱領採択という決定内容においても、7月15日とされてきた創立大会開催日についても、旧来の日本共産党史研究は、大きく書き換えられることになる。このレベルで、従来の研究が主として依拠してきた、第一次共産党参加者と目される人々の回想・証言が、改めて検証されなければならない」と問う。 先に松尾・犬丸説を引いて紹介したように、当時の関係者の証言には、創立時の日本共産党に規約のみならず綱領もあったという証言は、ないわけではない。野坂参三は、堺利彦から第一項目「君主制の廃止」をきりとった「行動綱領」をみせられたといい(『風雪のあゆみ』第4巻、新日本出版社、1977年、86-87頁)、鈴木茂三郎は、初対面の山川均から無造作に「第一次共産党の綱領」を示されたと証言している(「わが交遊録」『鈴木茂三郎選集』第4巻、労働大学、1971年、24頁)。 高瀬清は、主著『日本共産党創立史話』では触れていないものの、『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房、1970年)に付された座談会「『暁民共産党』と第一次共産党」では、「あとで『英国共産党綱領』といわれる」綱領があり、コミンテルン第4回大会で「持っていった綱領は討議されました。そのうえでブハーリンによる修正が起草された」、「日本から持っていった綱領には天皇制の問題が書いてない。それを補正するという意味でブハーリンが修正案を出したわけです。日本に持って帰って討議にかけるという条件があるんですから。綱領はきまったのです」という(478頁)。 また、志賀義雄は、浦田武雄からの伝聞として「必要な綱領規約案はやはりつくっていたそうです。最近、浦田さんに聞いてもそういっていました。日本共産党の方針書をすべてモスクワ製とする一部の史家は、日本帝国主義の逆宣伝を半ばうのみにしているのです。その中に、君主制の問題は書いてなかった。というのは、これを書くと危ないから、わかり切ったこととしてふれないでおこうということであった」と述べている(『日本共産主義運動の問題点』読売新聞社、1974年、69-70頁)。 |
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正式の綱領は持たなかったが、「極めて簡単な公式を採用せるに過ぎざる暫定的」綱領の存在を認めている、とも読める。ただし犬丸義一は、これを極東民族大会日本代表団がブハーリンから示された「帝政の廃止」を含む「行動綱領」と読むが、それは野坂参三『風雪のあゆみ』第4巻の「君主制の廃止」要求が当初から日本共産党の綱領的第一要求であったことを根拠づける記述に、引きつけすぎている。加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)で詳述したように、野坂参三『風雪のあゆみ』は、当時日本共産党議長・名誉議長であった著者野坂と日本共産党公式党史を正統化するための、虚実混淆の「伝説」である。 今日では、極東民族大会でブハーリンが日本代表団に「天皇の廃止」を求めたという徳田球一予審訊問調書(『現代史資料』第20巻、71頁)に発する「神話」も解体したし(岩村前掲書79頁以下、川端前掲書315頁以下)、そもそも第一次共産党が天皇制打倒をメイン・スローガンにしたという話自体、疑ってかからなければならない。むしろ、ここに紹介した「天皇制の問題が書いてない」1922年9月日本共産党綱領であれば、当時の党員たちの暫定的な出発点・合意点たりうるであろう。 それではこの綱領は、いつ、どのようにして作られたのであろうか? 筆者はこれを、9月に、ただし正規の「全国大会」での字句の検討などは経ずに、指導部数名により起草・決定され、モスクワに届けられた、と考える。それは、コミンテルン第4回大会への代表(高瀬・川内)の離日時期であるが、高瀬がそれを帯同したか、それとも上海ないしウラジオストック経由のルートで密使により届けられたか、いずれかであろう(たぶん後者)。 ではなぜ「全国大会採択」となるのか、それは、極東民族大会出席者が帰国し伝えたコミンテルンの意向を受けて、22年6月以降9月までに、7月15日とは特定できないが7月の渋谷高瀬下宿での会合を含む幾度かの会合がもたれ、そのどこかで、おそらく口頭で上記綱領の骨子が指導部から説明されて、ほとんど討論されることなしに、指導部に起草が一任されたもの、と考えられる。したがって、それら一連の準備会合のうちで、どれを「全国大会」とするかは、党指導部の解釈の問題となる。 その種の会合としては、鈴木徹三『鈴木茂三郎(戦前編)』(日本社会党機関紙局、1982年)で「橋浦時雄日記」から引かれた22年「六、七月頃幡ヶ谷における幹事会における山川氏執筆の英国共産党暫定規約(カモフラージュ名)が検討され、党の銅印も発表された(吉原太郎がもたらしたもの)」会合、「この頃山川、徳田、吉田一の三人による片山指令の党改組なるものの」会合(142頁)、高瀬・橋浦証言の7月15日「創立大会」ないし「細胞代表者会議」、その後と橋浦が回想する「山川氏宅」で山川が指導部の分担を割り振った会合、などが知られている(『寒村自伝』290ー291頁)。高津正道の「堺、山川、荒畑、橋浦、吉川、私などが組織の秘密の会合を市内のあちこちで持って協議した」という回想もある(高津『旗を守りて』笠原書店、1986年、203頁)。荒畑寒村が大久保百人町の自宅で党創立会合を開いたかもしれないと述べた間接証言もある(志賀義雄前掲書、113-114頁)。9月にも同種の会合があっても、なんの不思議もない。 最後に、署名者・起草者の問題がある。「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」とは何者であろうか? 結論的に言えば、筆者は、このInternational Secretary Sakatani Goroを堺利彦と特定し、General Secretary Aoki Kumekichiは、従来公認党史においてさえ「初代委員長」とされてきた堺利彦ではなく、荒畑寒村と判定する。ただし綱領自体を起草したのは、堺でも荒畑でもなく、おそらく山川均であろう。署名に付された朱印は、橋浦時雄が回想する幡ヶ谷の準備会議で山川執筆の規約が検討(承認?)されたさい吉原太郎がもたらしたという「銅印」であろう。当初のモスクワとの連絡に用いられた、日本共産党の公印と考えられる。 これらの根拠を示すためには、別の資料を紹介しなければならない。詳しい紹介は次回以降にするが、コミンテルンに公式に加わったばかりの1923年の日本共産党は、ひんぱんにモスクワに公式報告書を提出していた。 それらのなかには、同じ公印を使った文書だが、「Sakatani Goro」をInternational Secretaryではなく、今度はGeneral Secretaryに選んだことを示す23年2月市川大会報告書、コミンテルンから綱領作成指令・草案が届いて、それを討議し審議未了となったことを弁明しつつ、「同志Aoki」をコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への代表としてモスクワに派遣することを告げた23年3月石神井大会報告書、なども綴じ込まれていた。これらによって、犬丸・松尾・岩村氏らがあれこれと論じてきた論争点のいくつかが、第一次資料によって決着することになる。 まず、1922年夏の「International Secretary Sakatani Goro=堺利彦」の根拠であるが、これは比較的簡単である。日本共産党綱領と同じオーピシの後ろのジェーロの冒頭文書(f.495/op.127/d.61/1-3)は、「Feb.18, 1923 An abstract of the proposed report to the Comintern」と題された公式報告書で、22年綱領と全く同じ公印が押され、「全国大会が東京近郊で2月1日に開かれた。執行委員5名、各専門部から7名、細胞を代表する62名の代議員が出席した」として、その議題を紹介し、新執行部選出を告げている。 その文書の末尾の署名が、「G.S. Sakatani Goro, I.S. Hanada Yoshio」となっており、GS=General Secretary, IS=International Secretary であるから、23年2月大会で新たに選ばれたGSが、22年夏のISと同一人物であることがわかる。この23年2月市川党大会については、出席者数・氏名などいくつか論争点はあるが、日本での従来の研究でも代表者(総務幹事長)に堺利彦が選ばれたことは一致している。したがって、堺のモスクワ向けの党名が「Sakatani Goro」であったことになる。ついでにいえば、この市川大会でIS=国際幹事になったのは佐野学で、「Hanada Yoshio=佐野学」となる。 「General Secretary Aoki Kumekichi=荒畑寒村」の根拠は、やや複雑である。そもそも第一次共産党の最高指導者は堺利彦といわれるが、堺は、22年夏全国大会で選ばれた「委員長」ではなく「国際幹事」であった。General Secretary(旧ソ連風に訳せば「書記長」) とモスクワに報告されたAoki Kumekichi とは誰になるのか? これについては、高瀬清が22年7月会合で「暫定役員として総務幹事に山川、荒畑、高津、国際幹事に堺、会計幹事に橋浦、規律委員に吉川の諸氏を決定」(『日本共産党創立史話』175頁)と回想し、荒畑寒村『寒村自伝』に引かれた橋浦時雄の「荒畑、山川、高津の三人が総務幹事、堺さんが国際幹事、私が会計幹事になったことは、山川氏宅において山川氏が割振ったものでよく記憶に残っています」という証言がある(『寒村自伝』論争社、1961年、290-291頁)。いずれも堺利彦が「委員長」になったなどとは言っておらず、堺は「国際幹事」で「総務幹事」は山川均・荒畑寒村・高津正道の3人であったという。 ではGeneral Secretaryとして党を代表し、IS=堺と共に綱領に署名したAoki Kumekichi は、3人の総務幹事中の誰になるのか? 堺が1871年生の日本社会主義の最長老であることは誰の目にも明らかだが、高津は1893年生、荒畑1887年生、山川1880年生、これだけでも総務幹事中の幹事長格は、山川均である。ましてや橋浦によれば、この役員人事を決めたのは、開催月日は書いていないが(7月高瀬宅会合後の)山川宅での会合で、山川自身が「割振った」ものである。全24条規約の起草者も、山川均とされる。高瀬回想では「どんな文書でも山川さんが書いたんです。わるくいえば堺・山川の党だった」「コミンテルン第4回大会にこの決定を報告する代表の選定に入ったが、この問題は堺、山川、近藤の三氏に委任」されたともいう。これら一連の証言からすれば、日本共産党のGS=Aoki Kumekichiの最有力候補 は、山川均となる。 しかし、よく知られているように、山川は第一次共産党との積極的関わりを、晩年まで否定し続けた。多少とも事実関係に触れた『社会主義』第62号(1956年10月)の座談会では、「西、田所、上田の三青年から党結成の報告を聞いて初めて知った」と述べて、盟友荒畑寒村さえ「とうてい私の承服し得ざるところ」と書いた(『寒村自伝』、291頁)。 同時に『社会主義』座談会で、岩井章が「共産党が結党したのは大正十年ですね」と述べたのに対し「いや十一年です。十一年の夏ころだったでしょう」と、1921年春の準備委員会ではなく22年夏を創立時期にしている(28頁)。また綱領との関わりでは、しばしば引かれるように、『前衛』22年7/8月合併号の山川論文「無産階級運動の方向転換」を市川正一の3・15公判陳述「日本共産党闘争小史」が「日本共産党の党議決定」としたのに対して「党の意向など頭から考慮に入れていなかった」(42頁)と答え、23年石神井大会で山川が天皇制打倒に反対したとする俗説に、次のように反論する。
しかし、「君主制の廃止」をかかげたいわゆる22年綱領草案ではなく、ここに紹介した「天皇制の問題を書いてない」22年9月綱領なら、山川均起草でもおかしくない。筆者は現段階では、その内容的特徴からして──署名者Aokiではなく──、綱領起草者については、山川均と推定する。英文タイプ文書なため、筆跡鑑定は困難で、あくまで推定に留まるが(当時の指導者たちの英語力、英文タイプ保持者と字体の特徴等から、タイピストを特定できる可能性はある)。 同時に、生まれたばかりの日本共産党は、ボリシェヴィキ型の「書記長」制度をまだ持っていない。「加入条件」である「民主集中制」理解も牧歌的だった。綱領にGSと署名できるのは、山川・荒畑・高津の3名で、「総務幹事長」は決まっていないようである(犬丸前掲書180頁は「堺利彦が委員長(General Secretary)となったという点ではほとんど一致」とするが、それは直後の高瀬『創立史話』の引用と矛盾する)。 ただし、橋浦時雄は、1957年の荒畑寒村からの問い合わせの後、56年に書き出した回想録を66年に「第一次共産党事件の経緯」としてまとめている。そこでは、1921年春の日本共産党準備委員会=第1期の役員を「準備会の幹事に堺、山川、荒畑、高津、近藤栄蔵、橋浦が当り、堺国際、山川総務、橋浦会計などがきまった。荒畑は京都で下獄してその年の末に出獄した」としたうえ、第2期=22年初めから7月15日「第一回大会」までに「荒畑出獄、総務主席就任、近藤栄蔵幹事辞任」と記し、第3期=7月15日以降23年2月市川大会までの時期について、「堺国際、荒畑総務主席(関西部兼任)、橋浦会計(兼産業部)、高津政治部、浦田農民運動部、吉川規律委員会長等が選任」されたと回想している(「橋浦時雄日記」鈴木徹三前掲書、141-142頁)。これが正しいとすると、「山川総務」は21年準備委員会の段階で、22年は荒畑寒村が「総務主席=General Secretary」であったことになる。そしてこの方が、執行委員会が互選で「総務幹事長1名、総務幹事2名、国際幹事1名、会計幹事2名」を決めるという創立時全24条規約第14条にも近い(松尾前掲論文、86頁、ただし橋浦66年回想では、山川・高津が総務幹事であったかどうかは不明)。なお、典拠は不明だが、警察資料である立山隆章『日本共産党検挙秘史』では、創立時共産党の「最高幹部(執行委員)」リストに、堺・山川・橋浦・高津とともに「荒畑勝三(委員長)」を挙げている(92頁)。 そして「Aoki=青木」とは、第一次共産党時代の荒畑寒村の党名であることは、予審訊問調書で荒畑自身が「大正十二年ニ検挙サレタ第一次ノ日本共産党ノパーテイネームトシテ青木ト云フ名ヲ使用シテ居リマシタ」と認めている(『現代史資料』第20巻、7頁)。 さらに、後述モスクワへの石神井大会報告書で、大会後のコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表に選ばれたのは「com. Aoki(同志青木)」で、それが荒畑寒村であることは、『寒村自伝』等から容易にわかる。創立時日本共産党綱領に署名したGS=Aoki Kumekichi とは、「極メテ簡単ナ公式ヲ採用セルニ過ギザル暫定的」綱領の存在を認めていた荒畑勝三=寒村であったと判定できる。なお、綱領原文とともに本稿草稿を読んだ石堂清倫氏によると、内容的には山川と思われるが、英訳の文体は荒畑ではないか、ともいう。 山川により起草されたと思われ、荒畑・堺によって署名された日本共産党綱領に記された「全国大会、1922年9月」とは、あるいは橋浦の回想する7月高瀬宅会合後の山川宅の指導部会議、荒畑が述べたという荒畑宅での創立会合であったかもしれない。これが、綱領採択という指標からみれば、日本共産党の創立=第1回大会である。もっともこの時期の共産党が、規約通りに動いていたとは考えにくい。あるいは6-9月の一連の会合を集約して、荒畑・堺・山川が「全国大会」とモスクワ向けに潜称した可能性も否定できない。とにかく日本共産党は、1922年夏、「綱領には天皇制の問題が書いてない」まま、ひとまず綱領と規約をもち出発した。 |
(私論.私見)