「1922年9月綱領」 |
(最新見直し2006.12.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
加藤教授により、「22年テーゼ」に先行して「1922年9月綱領」が存在したことが確認された。この綱領はソ連邦崩壊後漏洩されることになった機密資料の中から発見されたもので、加藤哲郎教授が「1922年9月の日本共産党綱領(上)(下)」論文中で、「モスクワに保存されていた日本共産党22年綱領問題」を検証している。
コミンテルン文書館に保管されていた「1922年9月綱領」の発見は、定説の「日共の『日本共産党綱領草案=22年綱領』観」を覆すものであると云う。英文タイプ文書で、日本語文はなかった。「1922年9月の日本共産党創立大会綱領」(PROGRAM
OF THE COMMUNIST PARTY OF JAPAN)(Adopted by the National Convention of
the Communist Perty of Japan, Sept. 1922)と題名が為されており、「1922年9月、日本共産党全国大会で採択」と明記され、「General
Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」の直筆手書き署名があり、さらに中央に星印、そのまわりに「日本共産党幹部之印、The
Executive Committee of the Communist Party of Japan」と彫られた大きな朱色の丸印まで押されている。加藤教授は、「官憲の手に成る偽造文書とは考えられない」と判定している。 |
【「綱領草案」発表される】 |
1922(大正11).9月、綱領草案(「1922年9月綱領」)が発表されている。 「1922年9月綱領」は、政治、経済、農業、外交の4部門に分けて社会分析を行い、党の要求をスローガン化させている。今日から見ていずれも先進的なそれであり、土地の公有的観点を取り除けばほぼ全ての要求が敗戦後の日本の統治システムの中に導入されていることを思えば感無量でもあり、他面戦後社会の構造分析を為す際の一つの示唆を与えているようにも思われる。 |
【日本共産党綱領】 | ||
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【加藤哲郎教授の日本共産党綱領評】 | |||
加藤哲郎教授は、概要次のようにコメントしている。 | |||
今日の日本共産党の公式党史では、概要「日本共産党は、1922年7月15日に東京渋谷で創立大会を開き、党規約を採択し、コミンテルンへの加盟を決議、中央執行委員長に堺利彦を選出した」として、1921年4月堺利彦・山川均・近藤栄蔵らの日本共産党準備委員会「日本共産党宣言」、「日本共産党規約」の存在は認めている。が、綱領については、1994年版「日本共産党の七十年」は次のように記している。
今日の日本共産党が初めての綱領的文書として公認する「綱領草案」とは、1924年のレーニンの死の頃、コミンテルン「共産主義インタナショナル綱領問題資料集」に初めて発表された「日本共産党綱領草案」を指している。その典拠が村田陽一編訳「資料集 コミンテルンと日本」第1巻の次の注記である。
公式党史「日本共産党の七十年」は、モスクワで作成された「日本共産党綱領草案」を「党の最初の綱領的文書」として扱うが、1922年「創立大会」があったと仮定しても、学問的にはそこで「綱領」がつくられたかどうかが論点になっている。松尾尊兌、犬丸義一、村田陽一、岩村、川端氏らは、「規約(英国共産党暫定党規)が作成されたことは確実だが、綱領については不確実。戦前の証言は綱領を作成しなかった」、「正式の綱領は創立当時存在せず、きわめて簡単な行動綱領のみ暫定的にきめられたのであろう」と結論づけて、共産党中央見解党史を補強している。 |
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これに対して、加藤教授は「これまでの日本共産党史に関する論争問題の多くは、案外簡単に資料的裏付けを得て解決されるであろう」とコメントしている。加藤教授は、「日本共産党22年9月綱領の内容と特徴──天皇制問題の不在」と題して「日本共産党綱領」を次のように検討している。
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加藤教授は、「22年綱領の起草者・署名者──山川均起草、荒畑寒村・堺利彦署名?」で、「この22年日本共産党綱領は、本当に1922年9月に、正規の全国大会で採択されたものであろうか?事実とすれば、大会での正式綱領採択という決定内容においても、7月15日とされてきた創立大会開催日についても、旧来の日本共産党史研究は、大きく書き換えられることになる。このレベルで、従来の研究が主として依拠してきた、第一次共産党参加者と目される人々の回想・証言が、改めて検証されなければならない」と問い、次のように述べている。
先に松尾・犬丸説を引いて紹介したように、当時の関係者の証言には、創立時の日本共産党に規約のみならず綱領もあったという証言は、ないわけではない。野坂参三は、堺利彦から第一項目「君主制の廃止」をきりとった「行動綱領」をみせられたといい(『風雪のあゆみ』第4巻、新日本出版社、1977年、86-87頁)、鈴木茂三郎は、初対面の山川均から無造作に「第一次共産党の綱領」を示されたと証言している(「わが交遊録」『鈴木茂三郎選集』第4巻、労働大学、1971年、24頁)。 高瀬清は、主著『日本共産党創立史話』では触れていないものの、『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房、1970年)に付された座談会「『暁民共産党』と第一次共産党」では、「あとで『英国共産党綱領』といわれる」綱領があり、コミンテルン第4回大会で「持っていった綱領は討議されました。そのうえでブハーリンによる修正が起草された」、「日本から持っていった綱領には天皇制の問題が書いてない。それを補正するという意味でブハーリンが修正案を出したわけです。日本に持って帰って討議にかけるという条件があるんですから。綱領はきまったのです」という(478頁)。 また、志賀義雄は、浦田武雄からの伝聞として「必要な綱領規約案はやはりつくっていたそうです。最近、浦田さんに聞いてもそういっていました。日本共産党の方針書をすべてモスクワ製とする一部の史家は、日本帝国主義の逆宣伝を半ばうのみにしているのです。その中に、君主制の問題は書いてなかった。というのは、これを書くと危ないから、わかり切ったこととしてふれないでおこうということであった」と述べている(『日本共産主義運動の問題点』読売新聞社、1974年、69-70頁)。 |
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正式の綱領は持たなかったが、「極めて簡単な公式を採用せるに過ぎざる暫定的」綱領の存在を認めている、とも読める。ただし犬丸義一は、これを極東民族大会日本代表団がブハーリンから示された「帝政の廃止」を含む「行動綱領」と読むが、それは野坂参三『風雪のあゆみ』第4巻の「君主制の廃止」要求が当初から日本共産党の綱領的第一要求であったことを根拠づける記述に、引きつけすぎている。加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)で詳述したように、野坂参三『風雪のあゆみ』は、当時日本共産党議長・名誉議長であった著者野坂と日本共産党公式党史を正統化するための、虚実混淆の「伝説」である。 今日では、極東民族大会でブハーリンが日本代表団に「天皇の廃止」を求めたという徳田球一予審訊問調書(『現代史資料』第20巻、71頁)に発する「神話」も解体したし(岩村前掲書79頁以下、川端前掲書315頁以下)、そもそも第一次共産党が天皇制打倒をメイン・スローガンにしたという話自体、疑ってかからなければならない。むしろ、ここに紹介した「天皇制の問題が書いてない」1922年9月日本共産党綱領であれば、当時の党員たちの暫定的な出発点・合意点たりうるであろう。 それではこの綱領は、いつ、どのようにして作られたのであろうか? 筆者はこれを、9月に、ただし正規の「全国大会」での字句の検討などは経ずに、指導部数名により起草・決定され、モスクワに届けられた、と考える。それは、コミンテルン第4回大会への代表(高瀬・川内)の離日時期であるが、高瀬がそれを帯同したか、それとも上海ないしウラジオストック経由のルートで密使により届けられたか、いずれかであろう(たぶん後者)。 ではなぜ「全国大会採択」となるのか、それは、極東民族大会出席者が帰国し伝えたコミンテルンの意向を受けて、22年6月以降9月までに、7月15日とは特定できないが7月の渋谷高瀬下宿での会合を含む幾度かの会合がもたれ、そのどこかで、おそらく口頭で上記綱領の骨子が指導部から説明されて、ほとんど討論されることなしに、指導部に起草が一任されたもの、と考えられる。したがって、それら一連の準備会合のうちで、どれを「全国大会」とするかは、党指導部の解釈の問題となる。 その種の会合としては、鈴木徹三『鈴木茂三郎(戦前編)』(日本社会党機関紙局、1982年)で「橋浦時雄日記」から引かれた22年「六、七月頃幡ヶ谷における幹事会における山川氏執筆の英国共産党暫定規約(カモフラージュ名)が検討され、党の銅印も発表された(吉原太郎がもたらしたもの)」会合、「この頃山川、徳田、吉田一の三人による片山指令の党改組なるものの」会合(142頁)、高瀬・橋浦証言の7月15日「創立大会」ないし「細胞代表者会議」、その後と橋浦が回想する「山川氏宅」で山川が指導部の分担を割り振った会合、などが知られている(『寒村自伝』290ー291頁)。高津正道の「堺、山川、荒畑、橋浦、吉川、私などが組織の秘密の会合を市内のあちこちで持って協議した」という回想もある(高津『旗を守りて』笠原書店、1986年、203頁)。荒畑寒村が大久保百人町の自宅で党創立会合を開いたかもしれないと述べた間接証言もある(志賀義雄前掲書、113-114頁)。9月にも同種の会合があっても、なんの不思議もない。 最後に、署名者・起草者の問題がある。「General Secretary Aoki Kumekichi, International Secretary Sakatani Goro」とは何者であろうか? 結論的に言えば、筆者は、このInternational Secretary Sakatani Goroを堺利彦と特定し、General Secretary Aoki Kumekichiは、従来公認党史においてさえ「初代委員長」とされてきた堺利彦ではなく、荒畑寒村と判定する。ただし綱領自体を起草したのは、堺でも荒畑でもなく、おそらく山川均であろう。署名に付された朱印は、橋浦時雄が回想する幡ヶ谷の準備会議で山川執筆の規約が検討(承認?)されたさい吉原太郎がもたらしたという「銅印」であろう。当初のモスクワとの連絡に用いられた、日本共産党の公印と考えられる。 これらの根拠を示すためには、別の資料を紹介しなければならない。詳しい紹介は次回以降にするが、コミンテルンに公式に加わったばかりの1923年の日本共産党は、ひんぱんにモスクワに公式報告書を提出していた。 それらのなかには、同じ公印を使った文書だが、「Sakatani Goro」をInternational Secretaryではなく、今度はGeneral Secretaryに選んだことを示す23年2月市川大会報告書、コミンテルンから綱領作成指令・草案が届いて、それを討議し審議未了となったことを弁明しつつ、「同志Aoki」をコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への代表としてモスクワに派遣することを告げた23年3月石神井大会報告書、なども綴じ込まれていた。これらによって、犬丸・松尾・岩村氏らがあれこれと論じてきた論争点のいくつかが、第一次資料によって決着することになる。 まず、1922年夏の「International Secretary Sakatani Goro=堺利彦」の根拠であるが、これは比較的簡単である。日本共産党綱領と同じオーピシの後ろのジェーロの冒頭文書(f.495/op.127/d.61/1-3)は、「Feb.18, 1923 An abstract of the proposed report to the Comintern」と題された公式報告書で、22年綱領と全く同じ公印が押され、「全国大会が東京近郊で2月1日に開かれた。執行委員5名、各専門部から7名、細胞を代表する62名の代議員が出席した」として、その議題を紹介し、新執行部選出を告げている。 その文書の末尾の署名が、「G.S. Sakatani Goro, I.S. Hanada Yoshio」となっており、GS=General Secretary, IS=International Secretary であるから、23年2月大会で新たに選ばれたGSが、22年夏のISと同一人物であることがわかる。この23年2月市川党大会については、出席者数・氏名などいくつか論争点はあるが、日本での従来の研究でも代表者(総務幹事長)に堺利彦が選ばれたことは一致している。したがって、堺のモスクワ向けの党名が「Sakatani Goro」であったことになる。ついでにいえば、この市川大会でIS=国際幹事になったのは佐野学で、「Hanada Yoshio=佐野学」となる。 「General Secretary Aoki Kumekichi=荒畑寒村」の根拠は、やや複雑である。そもそも第一次共産党の最高指導者は堺利彦といわれるが、堺は、22年夏全国大会で選ばれた「委員長」ではなく「国際幹事」であった。General Secretary(旧ソ連風に訳せば「書記長」) とモスクワに報告されたAoki Kumekichi とは誰になるのか? これについては、高瀬清が22年7月会合で「暫定役員として総務幹事に山川、荒畑、高津、国際幹事に堺、会計幹事に橋浦、規律委員に吉川の諸氏を決定」(『日本共産党創立史話』175頁)と回想し、荒畑寒村『寒村自伝』に引かれた橋浦時雄の「荒畑、山川、高津の三人が総務幹事、堺さんが国際幹事、私が会計幹事になったことは、山川氏宅において山川氏が割振ったものでよく記憶に残っています」という証言がある(『寒村自伝』論争社、1961年、290-291頁)。いずれも堺利彦が「委員長」になったなどとは言っておらず、堺は「国際幹事」で「総務幹事」は山川均・荒畑寒村・高津正道の3人であったという。 ではGeneral Secretaryとして党を代表し、IS=堺と共に綱領に署名したAoki Kumekichi は、3人の総務幹事中の誰になるのか? 堺が1871年生の日本社会主義の最長老であることは誰の目にも明らかだが、高津は1893年生、荒畑1887年生、山川1880年生、これだけでも総務幹事中の幹事長格は、山川均である。ましてや橋浦によれば、この役員人事を決めたのは、開催月日は書いていないが(7月高瀬宅会合後の)山川宅での会合で、山川自身が「割振った」ものである。全24条規約の起草者も、山川均とされる。高瀬回想では「どんな文書でも山川さんが書いたんです。わるくいえば堺・山川の党だった」「コミンテルン第4回大会にこの決定を報告する代表の選定に入ったが、この問題は堺、山川、近藤の三氏に委任」されたともいう。これら一連の証言からすれば、日本共産党のGS=Aoki Kumekichiの最有力候補 は、山川均となる。 しかし、よく知られているように、山川は第一次共産党との積極的関わりを、晩年まで否定し続けた。多少とも事実関係に触れた『社会主義』第62号(1956年10月)の座談会では、「西、田所、上田の三青年から党結成の報告を聞いて初めて知った」と述べて、盟友荒畑寒村さえ「とうてい私の承服し得ざるところ」と書いた(『寒村自伝』、291頁)。 同時に『社会主義』座談会で、岩井章が「共産党が結党したのは大正十年ですね」と述べたのに対し「いや十一年です。十一年の夏ころだったでしょう」と、1921年春の準備委員会ではなく22年夏を創立時期にしている(28頁)。また綱領との関わりでは、しばしば引かれるように、『前衛』22年7/8月合併号の山川論文「無産階級運動の方向転換」を市川正一の3・15公判陳述「日本共産党闘争小史」が「日本共産党の党議決定」としたのに対して「党の意向など頭から考慮に入れていなかった」(42頁)と答え、23年石神井大会で山川が天皇制打倒に反対したとする俗説に、次のように反論する。
しかし、「君主制の廃止」をかかげたいわゆる22年綱領草案ではなく、ここに紹介した「天皇制の問題を書いてない」22年9月綱領なら、山川均起草でもおかしくない。筆者は現段階では、その内容的特徴からして──署名者Aokiではなく──、綱領起草者については、山川均と推定する。英文タイプ文書なため、筆跡鑑定は困難で、あくまで推定に留まるが(当時の指導者たちの英語力、英文タイプ保持者と字体の特徴等から、タイピストを特定できる可能性はある)。 同時に、生まれたばかりの日本共産党は、ボリシェヴィキ型の「書記長」制度をまだ持っていない。「加入条件」である「民主集中制」理解も牧歌的だった。綱領にGSと署名できるのは、山川・荒畑・高津の3名で、「総務幹事長」は決まっていないようである(犬丸前掲書180頁は「堺利彦が委員長(General Secretary)となったという点ではほとんど一致」とするが、それは直後の高瀬『創立史話』の引用と矛盾する)。 ただし、橋浦時雄は、1957年の荒畑寒村からの問い合わせの後、56年に書き出した回想録を66年に「第一次共産党事件の経緯」としてまとめている。そこでは、1921年春の日本共産党準備委員会=第1期の役員を「準備会の幹事に堺、山川、荒畑、高津、近藤栄蔵、橋浦が当り、堺国際、山川総務、橋浦会計などがきまった。荒畑は京都で下獄してその年の末に出獄した」としたうえ、第2期=22年初めから7月15日「第一回大会」までに「荒畑出獄、総務主席就任、近藤栄蔵幹事辞任」と記し、第3期=7月15日以降23年2月市川大会までの時期について、「堺国際、荒畑総務主席(関西部兼任)、橋浦会計(兼産業部)、高津政治部、浦田農民運動部、吉川規律委員会長等が選任」されたと回想している(「橋浦時雄日記」鈴木徹三前掲書、141-142頁)。これが正しいとすると、「山川総務」は21年準備委員会の段階で、22年は荒畑寒村が「総務主席=General Secretary」であったことになる。そしてこの方が、執行委員会が互選で「総務幹事長1名、総務幹事2名、国際幹事1名、会計幹事2名」を決めるという創立時全24条規約第14条にも近い(松尾前掲論文、86頁、ただし橋浦66年回想では、山川・高津が総務幹事であったかどうかは不明)。なお、典拠は不明だが、警察資料である立山隆章『日本共産党検挙秘史』では、創立時共産党の「最高幹部(執行委員)」リストに、堺・山川・橋浦・高津とともに「荒畑勝三(委員長)」を挙げている(92頁)。 そして「Aoki=青木」とは、第一次共産党時代の荒畑寒村の党名であることは、予審訊問調書で荒畑自身が「大正十二年ニ検挙サレタ第一次ノ日本共産党ノパーテイネームトシテ青木ト云フ名ヲ使用シテ居リマシタ」と認めている(『現代史資料』第20巻、7頁)。 さらに、後述モスクワへの石神井大会報告書で、大会後のコミンテルン第3回拡大執行委員会総会への日本共産党代表に選ばれたのは「com. Aoki(同志青木)」で、それが荒畑寒村であることは、『寒村自伝』等から容易にわかる。創立時日本共産党綱領に署名したGS=Aoki Kumekichi とは、「極メテ簡単ナ公式ヲ採用セルニ過ギザル暫定的」綱領の存在を認めていた荒畑勝三=寒村であったと判定できる。なお、綱領原文とともに本稿草稿を読んだ石堂清倫氏によると、内容的には山川と思われるが、英訳の文体は荒畑ではないか、ともいう。 山川により起草されたと思われ、荒畑・堺によって署名された日本共産党綱領に記された「全国大会、1922年9月」とは、あるいは橋浦の回想する7月高瀬宅会合後の山川宅の指導部会議、荒畑が述べたという荒畑宅での創立会合であったかもしれない。これが、綱領採択という指標からみれば、日本共産党の創立=第1回大会である。もっともこの時期の共産党が、規約通りに動いていたとは考えにくい。あるいは6-9月の一連の会合を集約して、荒畑・堺・山川が「全国大会」とモスクワ向けに潜称した可能性も否定できない。とにかく日本共産党は、1922年夏、「綱領には天皇制の問題が書いてない」まま、ひとまず綱領と規約をもち出発した。 |
(私論.私見)