引用、転載、複製について |
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).2.1日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2009.6月初頭、れんだいこは、著作権を廻る新たな削除要請を受け、その時のやり取りから明確な引用転載論を立ち上げておく必要を感じた。これにより、従来の著作権考に新たに引用転載論フォルダを設け、集中的に検討することにした。「引用、転載」の際のルールとマナーを確認する前に、著作権法上、引用と転載とはどう違うのかどう識別すべきか、これについて考察しておく。そもそも引用と転載との識別について、これをまともに論じたものに出くわさない。論者が銘々に説いており、しかもその根拠たるや怪しい。そこで、れんだいこが、この問題について提言しておく。次に、「引用、転載、複製の際のルールとマナー考」サイトで「引用、転載」はどうあるべきかを論じ、そのルールとマナーを確立させようと思う。 この問題の根源は、自称インテリが己の学問的営為の貧困を隠すイチジクの葉として著作権規制にうつつを抜かしているところにある。もう一つ、学問的精神的分野に著作権ビジネスを持ち込んで金儲けの対象にする「いわゆるユダヤ商法」のハゲタカ族の暗躍を見てとれる。政治的には、情報統制の新たな統治手法として活用され始めている。自称インテリの頭脳の凡庸さがこれに利用されている。こういう生態を確認することが肝要であろう。 2009.6.12日 れんだいこ拝 |
【引用転載論の前提について】 | |
内田樹・氏の2019.9.5日付け「[週刊ポスト」問題について」が冒頭で次のように記している。
私は、これが、著作権法上の引用転載問題の基本的姿勢であるべきだと思う。興味深いことに、このコピーフリー系の人士が概して良い仕事をしており、コピー事前通知承諾要す系の者が当人が拘るほどいい仕事をしていない傾向にある。世の中はよくできているなとつくづく思う。 |
【引用転載論の前提について】 |
その昔、まだ印刷機やカメラやコピー等の複写機やインターネット等が登場していない時代、書籍はまことに希少貴重本で、人がそれを広めようと欲すれば営々と写本することによってしか方法がなかった。仏教経典の写経の苦労は知れるところである。その当時の写経者からみれば、今日の印刷機やカメラやコピー等の複写機やインターネット等の登場は卒倒すべき羨ましいことに違いない。これが文明の利器に対する本来の評価である。 ところが不思議なもので、当時の写経者からみれば羨ましい限りの引用転載道具を持てる時代になるや、それを抑制する屁理屈論が登場し、結局は容易には引用転載できないようにしてしまう。それが昨今の著作権論である。しかも、この著作権論の登場したての頃は控え目であったから大過なかったが、次第に定向進化して今や強権著作権論時代となっており、その筆頭である読売新聞辺りの主張になると記事の見出しにも著作権が及ぶとして同語彙を使うことを許さず、あまつさえ口語にまで著作権を及ぼそうとしている。この連中がことのほか原発稼動とワクチン接種が好きなようなので何か裏があるんだろう。 近未来の日本は、もの言えば唇寒しで総員がマスクを着用させられ、何事か言葉を発するたびに傍らの著作権判定氏が判断し、著作権に抵触する文句を吐いた時には著作権協会へ幾ら幾ら金を払わないといけない、それを著作権判定氏がカウントすると云う仕組みの時代になりそうである。寝言の場合には許されるのかと思いきや、これにも課金される。そういう時代作りを目指す著作権狂が、そういう時代にならない社会を野蛮だと評して著作権王国へ連れて行こうとしてくれている。あたしは真っ平ご免だね。 2015.3.15日 れんだいこ拝 |
【引用と転載の違いについて】 | |
著作権法上、引用と転載を識別規定する条項はない。であるとするならば、引用と転載が同次元で捉えられていると解するべきであろうが、強権著作権論派は最高裁規定を持ち出して、縷々展開された規定論以外を転載とするというややこしい理解を持ち込んでいる。こういう理解が正論かどうか愚考してみたい。 著作権法上、引用に関してはしばしば言及されている。それに比して、転載は第32条2項で初めて登場する。次のように記されている。
ここに転載が登場することにより、引用と転載を識別する必要が生じている。れんだいこは、「引用とは、被著作物の文章の一部の抜書きである。転載とは、被著作物の文章の関連する箇所全部の転写である」と識別したい。これ以外に説明を加える必要を感じない。ところが、強権著作権論派は、最高裁規定からと思われるが質的に大きく違うとする見解を導き出している。その結果、「引用は著作権者への通知承諾なしにできるが、転載は要事前通知要承諾制であり勝手にはできない。これが学会の常識である」としている。 果たして、引用と転載をそのように識別すべきであろうか。問題は、引用と転載を、れんだいこのように同次元で捉え、ルールとマナー問題で処理せんとするのか、強権著作権論派のように質的違いで捉え、「要事前通知、要承諾制」を廻る差を生みだすのかということになる。れんだいこに云わせれば結論は明らかで、強権著作権論派の説くような質的差を持ち込むのであれば、著作権法上そのような規定条項がなければオカシイ。それがないということは同次元で捉えているからであろう。 しかしながら、強権著作権論派は、「ならば、それを証明せよ」とこちらに証明責任を負わせようとする。著作権法が何故に引用と転載を識別する条項を設けなかったのか説明せよという。バカバカしい。それを云うなら、強権著作権論派こそが、著作権法が引用と転載を識別する条項を設けていないにも拘わらず何故に「要事前通知要承諾制」を廻る差を持ち込むのか説明すべきであろう。手前が必要な証明責任を果たさずに、逆にこちらに投げかける。一見水掛け論になるが、ナイもののナイことの証明よりナイものをアルとする方の証明こそが為されるべきであろう。ところが強権著作権論派には妙な癖があり、ナイもののナイことの証明こそ為すべしとする。彼らはこういう詭弁論法を弄ぶ。 これを例えで解説する。人の腕が2本なところ、なぜ2本なのか証明せよと云われて証明できるだろうか。人の腕が2本なところ、3本だと云う者こそ、なぜ3本なのか説明すべきだろう。つまり、原理的な問いかけはなべて、法に依拠する方は解釈で済ませられるが、依拠しない方にこそ証明責任、説明責任があると云うべきだろう。これが一般的な原則であると思う。ところが、強権著作権論派は、「人の腕が2本なところ、なぜ2本なのか証明せよ」と攻めまくる。相手が答えられないので攻撃的に見えるが聞くものが聞けば馬鹿な話しでしかない。 もとへ。引用と転載には「効能の違い」があることに留意を要する。れんだいこが思うに、引用は「ルールとマナー問題」で全て解決される。但し、引用には、その抜き出し方で趣意改変の恐れがつきまとう。引用問題の肝心要はまさに「趣意改変の恐れ」にこそある。これに違わないようにすることに習熟せねばならない。不正な引用の場合に、これを察知する能力を練磨せねばならない。被引用者には抗議権があると云うべきだろう。著作権論の重箱の隅のようなところをいじくり回してた得意がるより引用能力の向上こそ目指すべきだろう。 これを思えば、転載は「全部引用」であるからして趣意改変の恐れはない。つまり、引用よりよほど安全無難と知るべきだろう。但し、表記の仕方によってつまり所定のルールとマナーを守らなければ「盗用の恐れ」(これを「パクリ」と云う)が生じてくるという違いが認められる。このことから、転載は極力控え、リンク掛けで応ずるようにとの要請が発生することになる。ところが、このリンク掛けの持つ真意がややこしい。一つには、リンク無条件フリーという意味があり、もう一つには、「転載禁止論」に沿ってリンクならば許可されるという面がある。 しかし、「盗用の恐れ」が生じない形での「引用の際のルールとマナーを遵守した転載」が認められないのかというとそうではないように思われる。インターネット空間においては、転載は禁止されるべきというより「リンク掛けした上での出所元明示の上での転載」はむしろ積極的に為されるべきではなかろうかと考える。それは、何より引用の際の危惧である趣旨改変の恐れがないのだから、むしろ引用より安全で著作権者の法益により適っていると思う。 転載にはもう一つ、内部告発的な或いは反通説的な貴重情報を保存するという役目がある。「転載不可、リンクのみ可」論者は、転載のもつこの機能に対する抑圧派になっていることを自覚せねばならない。リンクのみにしていたところ、いつの間にかリンク先が閉鎖されていた例は多い。あるいは危険情報シグナルで不開示にされている例が多い。これを逆に云えば、貴重情報を転載しておくことにより、万一元サイトが消えた場合のバックアップ体制を構築していることになる。「転載不可、リンクのみ可」論者は、これに水を差していることになる。 ということはつまり、引用より条件の厳しい転載論はナンセンスであるということになる。ところが実際には、引用=容認、転載=「要事前通知要承諾制」を唱える者が多い。思うに、転載に関してかくも厳しいハードルを課そうとする者は頭がオカシイのではなかろうか。少なくとも法哲学的考察ができない御仁には違いない。あるいは頭が半分賢いだけの単なる気難し家に過ぎないのに相当賢いと勘違いして事を混ぜようとしている性悪御仁であろう。 そもそも引用、転載は、紹介された側の著作物が評価されたことになる訳だから、悦びこそすれその反対ではなかろう。してみれば、偏屈な気難し家が慶事を凶事と表明しているだけのことではなかろうか。転載が厭なら、ネット界に登場せねばよいだけのことではないのか。なぜなら、ネットは最も転載し易い環境下にあるのだから。そういう環境を承知で出てきて、盗られた盗られたなどと叫ぶ者は世間に恥を上塗りしながら徘徊している痴呆に過ぎない。 よしんば被転載者の意向に添わない形であっても、文章が正確に転写されている限りにおいては致し方ないのではなかろうか。思想、宗教、政治系の遣り取りの場合、「引用、転載フリー」を認めなくては先へ進みようがないではないか。れんだいこサイトの場合、インターネット空間から任意にめぼしい情報を取り寄せ、後日の整理を期して転載しておく例がままある。あるいは議論用に批判的見地から転載しておき後日の叩き材にする場合がある。これを禁止するよりも互いに許容しあう方がインターネット空間の価値をより良く引き出すのではなかろうか。 もしこの行為が許されないのなら、サイト管理人は、その旨よく目につくように断り書きしておくか会員制パスワード方式で外部者閲覧不能措置をしておくべきではなかろうか。あるいは写真版のようにして転載不能処置をしている例があるが、れんだいこは好まないがそうでもすればよかろう。 なんとならば、情報には本質的に社会的共有性、通行性があり、れんだいこ的遣り方の方が理にかなっているからである。人類はこれまでそのようにして互いに知的育成をしてきたのであり、この遣り方を崩さねばならない根拠は何もないと考えるからである。 付言すれば、カラオケ屋で歌を歌っても著作権侵害で料金が取られ、図書館で本を借りても著作権侵害で料金が取られ、ああすれば著作権こうしても著作権なる時代がひたひたと押し寄せつつある。「引用、転載に著作権規制」を強めようとする動きは本質的にはこれと同じではなかろうか。それは無茶でござりまする。 2004.4.11日 れんだいこ拝 |
【引用、転載に対する強権著作権派からの様々な規制論について】 |
強権著作権派は、引用、転載に対する様々な規制論を廻らしている。決して一様ではないのだが、どうしても規制したいらしいことのみが伝わってくる。これを確認する。インターネットで「引用・転載について」を検索したところ、マナー基準を踏まえてもなお、1・「引用・転載全面禁止」、2・「引用・転載原則禁止」、3・「引用・転載許可制」、4・「学術利用と商用利用の区別による学術自由、商用事前連絡制」、5・「非営業利用と営業利用の区別による非営業自由、営業不許可」、6・「内部的資料自由、それ以外は不可制」等々非常に雑多な制限がはびこっている。 つまり、「引用、転載につき各界人士によって姿勢の違いが認められる」ということである。当然のことながら、こういう諸作法が生まれるということは、著作権法上「1・公正な慣行、2・正当な範囲内」という大命題があるだけで直接的な該当条文がないところから発生している。強権著作権派は大命題を如何に骨抜きにせんとして様々な理論理屈を持ち込んでいる。これにより様々な解釈が発生していると解すべきだろう。 滑稽なことは、これらの制限は、いわゆる学識権威あるいは社格が高いほど敷居が高いという比例関係にある。思わずその学識権威、社格の内実を問うてやりたくもなる。れんだいこは、どこの世界にもいる単に気難し屋が事をまぜているだけのことではないかと思う。世の中、訳の分からん気難し屋ほど始末に負えない者はいない。この連中が跋扈し始めると社会が窒息する。あるいは意図的な愚民化が仕掛けられているのかも知れない。れんだいこは、これらの連中とは闘う以外にないと考える。 著作権に巣食う気難し屋の悪質さは、法治主義の枠内を超えてつまり超法規的に恣意的私法を押し付けようとするところにある。繰り返すが、上記「ルールとマナー条件」として列記した1〜8は法的条文による直接的規制ではない。「A・公正な慣行、B・正当な範囲内」なる大綱は歴史的に獲得確認されたものである。この流れに棹差さんとして別系の悪知恵として、この大綱を骨抜きにする形で著作権の全域的適用、更なる規制強化を図ろうとする流れが作り出されつつあるということである。 れんだいこがこれを評するに、要するに銘々がてんでに単に好みで己の甲羅に合わせて要請しているに過ぎない。しかし待て。現下の著作権法というのは、これを作った官僚はかなり優秀であったのであろう、世界水準並みのものを心がけており、意外にも「何を規制してはならないか」を十分に弁えており、著作権法に何を盛り込み盛り込まざるべきか抑制的に踏まえて作成しているように思われる。 むしろ、著作権運動に於いては、他の規制緩和の動きと異なり、如何にも社会的正義らしく装いながら民間の方が官の規制よりも先走りして法規制強化の音頭を取っている感がある。規制緩和ならぬ規制強化運動を仕掛けている。しかしてそれが本当に正義であろうか。何のことはない、強権著作権派の諸論は、踏み込んではならないあるいは余程慎重且つ用意周到に配慮せねばならない頭脳労働の域にまで暴力的に資本主義商法による知の囲い込みをせんとする愚頓な営為なのではなかろうか。 2004.3.10日 れんだいこ拝 |
【「転載」及び「無断転載禁止」規定に対するれんだいこ見解について】 | ||||||
転載には「盗用の恐れ」が発生し、それを避けるためにリンク掛けで応ずるようにとの要請が発生する向きがあることについて既に述べた。ならば、転載は不能なのであろうか、これにつき以下考察する。 「転載禁止」は却って数多くの問題を発生させるのではなかろうか。特にインターネット掲示板の場合に顕著になるが、双方が議論を積み重ねた場合に、これをサイトアップするには関係者全員の同意がなければできないという説がある。これに縛られて議論するのに相当の手間隙を要しており、そのことを自慢げに互いに誉めそやすグループが要る。勝手にどうぞではあるが、そういうことになるのなら却って無責任議論の横行を招くのも致し方ない。 この愚を防ぐには「転載可論」にシフトする以外にない。これにより、掲示板投稿者は、その文面が後日まで晒されることを踏まえて責任ある論を為すべきではなかろうか。そしてそれが晒されても、一つは事実として又一つは相互の議論練磨に役立てられることになる。それは致し方ないのではなかろうか。 ここには偏(ひとえ)に思想性が横たわっている、この認識を持たないと「転載問題」は解けない。引用も含め転載には、A・無条件歓迎、B・許可制、C・無条件禁止の三規定が考えられる。 A・無条件歓迎派の見解は次のように論理構成している。
許可制派の見解は次の通りである(時間と紙幅の無駄ゆえ略、折を見て考察してみる)。無条件禁止派の見解は次の通りである(同様に時間と紙幅の無駄ゆえ略、折を見て考察してみる)。 れんだいこは、無条件歓迎派である。付け加えるとすれば、れんだいこは特にインターネット空間の公共性に注目したい。ひとたび公共空間に投げ込まれたものは、煮て食われようが焼いて食われようが致し方ない、端から「結構結構こけこっこぅ」とした方が良いのではなかろうか。特に、インターネット空間の場合には「古典的著作物」と違い、容易に書き換え、抹消、再転写が可能であり、過度の責任追及するには相応しくないと考える。むしろ、そういう媒体であることを弁え、インターネット空間は相互の認識共有、議論練成練磨の稽古道具として積極的に使われるべきであり、著作物的責任及び権利は極力抑制されるべきである、と考える。 れんだいこは、歴史的に嗜まれてきた著作権の非適用的伝統を覆すには「正当なる事由」が必要と考える。果たして、「転載禁止」にそれだけの合理性が認められるだろうか。むしろ、「転載禁止」に固執するのであればそもそもインターネット空間に登場しなければ良いのではなかろうか、そうすれば原理的に起こり得まい。あるいは、大書の但し書きで「転載禁止」とした上で、会員制パスワード方式エンターキー方式を採用する配慮が為されるべきではないのか。 なぜなら、インターネット公共空間を私的に取り込もうとしているのだから、それならそれで一般非閲覧式にすれば良いのではなかろうか。そうすれば、我々は我々でインターネット公共空間機能を更に高める遣り取りが満喫できようというものだ。 「転載禁止」により、実践的に次のような問題に出くわすことになる。例えば、れんだいこは、各新聞社情報を集め、取捨選択し、時には文面を改め、時にはそのまま引用し一文を作り上げることがある。この時、引用箇所に付きそれぞれ新聞社の了解を求めねばならないのだろうか。そうすると、文章全体における引用のし方まで問題にされる場合が出てこよう。こうなると原理的に無理ということになる。 では、様々な情報を集めて時に記事内容を借りながら一文ものすことは我々には許されていないということになるのであろうか。それはしかしながら相互コミュニケーション能力の向上にとって大きなタガハメではなかろうか。マスコミは時に表現の自由ということを主張するが、えらい独善的な自己都合論法に堕してはいないだろうか。元に戻って「結構結構こけこっこぅ」とした方が良いのではなかろうか。その上で、引用、転載の不正確な仕方につき「訂正抗議権」のようなものを認めればよいように思われる。 我々の知る権利、記録にしておく権利、備忘録にしておく権利等々は公序良俗に反しない限り認められて然るべきではなかろうか。相互がそのように利用しあうことこそ社会に有益なのではなかろうか。もしそれを望まないなら、インターネットという公共空間に出てこなければ良いだけではなかろうか。具体的にはいろんな事例が想定されるので一概には言えないが、大枠としてこの観点から認識を深めるべきではなかろうか。 2004.3.19日 れんだいこ拝 |
【HTML4.01の引用、転載要領について】 | ||||||
「HTML4.01の引用、転載要領」について、2005.12.7日、zhm氏よりご教示があった。これを転載しておく。
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【「引用可、転載事前承諾制論」について】 |
2009.6.10日、「引用可、転載事前承諾制論」を唱える御仁から、れんだいこの無断転載文に対する削除要請、法的措置辞さない論を聞かされた。この御仁を仮にAとする。れんだいこが無断転載していたのは、Aの編集による歴史上の或る人物に対する年次的著作の一覧表記文である。これは便利と思い、サイト名「関連著作」の中に全部転載で取り込んでいた。当然、編集者名、出所元のリンクも掛けており、これまでの経験上何ら問題ないとしていた。後日の参考にしようと思い取り込んでいただけなので、以来数年更新なしの野ざらしになっていた。 Aの抗議内容は、れんだいこサイトに転載されることにより、れんだいことAの親近性、れんだいこサイトの管理人がAではないかと問われて迷惑している云々というものであった。その法的裏付けとして、著作権法上、引用の場合には一定の所作を守れば引用可であるが、転載の場合には「要事前通知、要承諾制」としており無断転載はできないというものであった。当人が書いたものでもない著作集に著作権が発生するというのも変な話だが、これを手間暇編集著作権と云うらしい。これを論拠に転載ルール批判で削除要請してきたことになる。 れんだいこは、こういう手合いと云々しても消耗なので要請に応じることにした。そうまで云われても転載せねばならないほどの価値がないからである。そういう訳で「人生学院2」の方は直ぐに手直ししたが、あいにく元版の「人生学院1」の方はサイトそのものが開かず手の施しようがない。そこで、「人生学院1」が開かぬようになったため、「人生学院2」を新たに立ち上げ転写している状況下にあるという事情を縷々説明したが、「関係ない、れんだいこの所為で為したことであるから責任をもって処置せよ。これが社会常識」と喧しい。メールで数度、会社へ数度の電話があり、「当方は忙しいんだ。こういうことに構っていられない。直ちに応ぜよ」と頑として聞かない。果ては人格、能力の貧相に及び、この程度の常識が分からないとはいい年こいて何たるザマだ、あなたは本当に早稲田を出られているのですか云々と罵詈が終わらない。 れんだいこの方こそ、こういう御仁と関わりを持ちたくない。が、為す術がない。云われるように訴訟するなり、逮捕させるなり自由にしてくださいと居直った。ところがその日丁度、新型のパソコンが入り、これを導入してくれた世話人に顛末を話し善処をお願いしたところ、今まではできないと云っていたが「できるでせう」ということになった。かくて、該当サイトを削除処理し得た。 これが経緯であるが、著作権法上、注目すべき論点があるので確認しておく。Aの云うように、「著作権法上、引用の場合には一定の所作を守れば可であるが、転載の場合には引用ルールを守っても要事前通知、要承諾制であり無断転載できない」のであろうか。その根拠を尋ねたところ、該当条文は第32条(引用)であると云う。1項「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」により、引用はできるとする。 但し、2項「国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない」により、「これに該当しない著作物の場合には無断転載できない。要事前通知、要承諾制になっている」と云う。著作権法上、かく引用と転載が識別されていると云う。こういう理解の仕方もあるのかと腕組みして聞いていたら、「著作権法のイロハのイ」であるとも云う。最高裁の判例で、引用要件、転載要件について判示しているとも云う。電話口で、最高裁の判例を読み上げていた。 今、れんだいこは考えている。第32条(引用)をAの如く解すべきであろうか。れんだいこはこれまで引用と転載の間にかほどの隔たりがあるとは思っていなかったので、暫し愚考することにした。一晩おいた結論は、やはりオカシイ。れんだいこが思うのに、第32条(引用)1項は明白に引用可規定であり、2項は「特段の禁止の付則がない限り官行物の公表資料は、部分引用のみならず全部引用即ち転載までできる」とする規定である。こう読むのが自然ではなかろうか。すると2項は1項の発展系規定であるということになり、A的裏読みは何ら必要ない。 れんだいこの理解によれば、著作権法上、引用と転載の違いについての明確な規定はない。つまり、著作権法上は引用と転載は区別されておらず、一部引用が引用、全部引用を転載としているように思う。ところが、Aの理解は著しく異なる。引用と転載は、事前通知、事前承諾が要るのと要らないほどに大きく違うと云う。違わないというのなら、それを証明せよという。規定のない理由を証明することは難事だろうに、証明責任があると云う。逆に、あなたの方の証明はできるのかと問うと、最高裁判例によりかくかくしかじかだと云う。口ばかり達者なこういう手合いと延々と話を続けても消耗でしかない。 かくてAは、最高裁判例を持ち出しての引用と転載の厳密区分論により、何としてでも「要事前通知要承諾制」を持ち込もうとする。第32条(引用)2項を根拠とする盾によりそう主張する。れんだいこに云わせれば、かなり牽強付会なこじつけ理解のように思うのだが、勝手に解釈して頑として主張する者には漬ける薬がないというべきだろう。思えば彼らは当初、リンクするにも「要事前通知要承諾制」を持ち込んでいた。それができないとなると、引用転載の場合には「要事前通知要承諾制」が必要とし始めた。それができないとなると、転載の場合には必要とし始めた。どうやらこれが最後の砦となっている気配がある。 しかし残念ながら、れんだいこがその鉄条網をペンチで切断してあげよう。引用に比べて転載の場合には趣意改竄の恐れがない。最も留意せねばならない趣意改竄の恐れがないのであるから、引用以上に転載の方が認められるべきであろう。但し、この場合、盗用の謗りを免れるよう編集者名、出典元、出所元を明示しておく必要がある。リンクも掛けておけば良かろう。これを守りさえすれば、転載はできるとすべきだろう。更に分量規制を持ち出す者もいるが、れんだいこは必要を感じない。ただ法的に拘るほどのものではないので今後次第にルールとマナー化すれば良かろう。 問題は次のことにある。著作権法が指針しているところのガイドに従わず、何としてでも「要事前通知要承諾制」を持ちこみたい一群の強権著作権イストが現に存在しており、ますます凶暴化しつつある。知の世界でろくな研究できない者に限って、こういうところに関心を寄せたがる傾向がある。政治の世界でこれに対応しているのが個人情報規制であろうか。この法律を使って、市民に対してはどんどん情報管理化しつつ政治家の闇に対しては情報規制しつつある。連中は、勝手に構築した手前勝手な著作権法棒、情報規制棒を振り回しながら反対派に対してケッタイな人格能力誹謗するのを得手としている。 こうなると相手にせぬのに如かずであろう。逆に我らの言論空間を広めていくことに一層邁進せねば大変な世の中になるということであろう。嘴の黄色い者に学者ぶられて、人格能力攻撃を甘受せねばならないことほどバカバカしいことはなかろう。こう結論することによって精神浄化することができた。まずはめでたしとしておこう。 2009.6.10日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの引用転載論批判の批判】 | |||||
次のような「面白い文章」に出くわしたので、全文転載し、これを批判しておく。先にれんだいこの引用転載論を批判してくれているので叩き易い。期日表示がないので、いつ頃の出稿なのかは分からない。
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続きは、「引用、転載の際のルールとマナー考」に記す。
(私論.私見)