ウェブサイトの著作権について

 (最新見直し2006.10.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
  「ウェブ著作権問題」は、論者が、人民大衆の知育練磨に資する観点を保持しているかどうかのリトマス試験紙的な役割を担っているように見える。サヨがサヨ丸出しで反人民性をモロダシにしているのが、全域全面適用強権著作権論ではないかと思っている。彼らは頼まれもせぬのに勝手に護民官を気取り、人民大衆の知育練磨に警察的な目を光らせ、権利刃物を振り回している。類は友を呼ぶの理で、そういう連中はそういう連中なりにたむろする溜まり場があるようである。そこではお互いに規制を掛け合っており、だから著作権糸がもつれてしようがない。それでもその蛸壺が性に合っているらしく、議論の質というのは互いに独りよがりのお粗末君であるというのに互いに相手の良識と見識を褒めそやしている。滑稽としか言いようがない。

 出版書物型ブック著作権については既に「れんだいこの著作権法論評、悪法式読み取りとなぜ闘わねばならないのか」で考察した。ここでは「インターネットウェブサイトの著作権について」(以下、「ウェブ著作権」と記す)を考察する。れんだいこは次のように考えている。

 インターネットは、これを観客として使う方法と主体として使う方法の二通りある。観客だけの場合には観客に止まるが、主体になる場合は舞台に上がることもできるし観客にもなることができる。そういう意味で、極上の使い方は主体となることであろう。

 インターネットで主体になるということは、ホームページを持つことである。正式な理解かどうかは分からないが、れんだいこは、ホームページの各章をサイトと理解している。その全体をウェブサイトと云うのかも知れない。ウェブ著作権は、こういうホームページを持つ者に関係する論題である。逆に云えば、ホームページを持たない者には直接には関係しない論題である。一応そういう前提を確認しておきたい。

 そのホームページのトップの記載及びそこから分岐する各サイトの内容がどこまで尊重されるべきか、権利保護されるべきかを問うのがウェブ著作権考である。これにつき、れんだいこのスタンスが確定してきた。著作権規制全域強化論者とどこが食い違っているのかが見えてきた。

 要するに、規制強化派は、ブック著作権と同等の値打ちを認め、「1・法と、2・ルールとマナーと、3・拡大解釈」の三段締めで説教しようとしている。れんだいこは、ブック著作権にしてもさほど強く認める必要は無いと思っているが、ウェブ著作権ならなおのこと緩やかにせよと申し述べている。爾来、この種の識別を為した上での著作権論は為されていない。れんだいこは、それは粗暴ではないかと思っている。

 れんだいこは、ウェブ著作権の特質に書き直し上書き機能を見て取っている。その機能に対して、仮に「黒板おさらい著作権」あるいは「草案著作権」と命名することにする。この認識に立って、書いたら消し又書き直し続ける黒板上の文字に著作権をどの程度まで認めるのかという問題として把握する。ウェブ著作権問題の過半はここにある。

 ここにブックと寸分違わぬ著作権を認め、ルールとマナーを持ち込み、大真面目に説教しているのが著作権サヨイスト達である。れんだいこは、黒板の性質からしてルールとマナーだけで良いがな。断りなくても良いがな、役に立てば黒板の本望だろうと申し上げておる。さて、どちらに軍配があがりしや。

 2005.12.22日、2,006.10.1日再編集 れんだいこ拝

 (れんだいこのショートメッセージ)
 活字出版書物型のいわゆるブック著作権(以下、「ブック著作権」と云う)については既に「れんだいこの著作権法論評」で考察した。ここではインターネットサイトの著作権(以下、「インターネット著作権」と云う)を考察する。インターネットの著作権は、これを形態で仕分けすれば、1・ウェブサイト著作権、2・「リンク、引用、転載著作権」、3・掲示板著作権の三系から構成されているように思われる。ここでは、前者のウェブサイト著作権(以下、「ウェブ著作権」と記す)を考察する。

 基本的な観点は、「
補足「Webの創成( World Wide Webの誕生経緯)考で言及した。それによれば、文字の発明も然り、Webの発明も然りで、凡そ著作権的規制に馴染まない共有精神によって世に提供されていることが判明する。

 それはともかく、ウェブ著作権を廻って様々な欲深言説が為されている。中には、サイト主催者が自ら、「このサイトに収録している文章・写真の著作権はクマのものです。無断転載などもってのほかであります」と堂々と明記しているものまである。この種の傲慢不遜な見解に出会い、今後ホームページが隆盛していくことを思うとき、何がしかの統一見解が急がれているように思う。

 れんだいこの観点は、「無断転載などもってのほかであります」見解とは初手から違う。「インターネット通信は、人民大衆の公共財産として扱われるのが相応しい」、「ウェブ著作権は認められても、弱々しいぐらいで丁度良い」、「ウェブサイト著作権は弱く、ウェブ掲示板著作権ともなると究極的に弱々しく認められるぐらいが丁度良い」、「掲示板に投稿された文章を、自分が書いてもいないのに管理人権限で著作権取得するなどとはおこがましい」と思っている。だがしかし、この見解は少数派のようだ。少し愚考して見たい。

 ウェブ著作権に対するれんだいこ見解は次第に煮詰まりつつある。見えてきたことはこうだ。著作物一般に自然権的なものとして即権利保護されるべきだ論は、れんだいこは採らないが、まずはそれで構わないとしよう。問題は次のことにある。1・広く人民大衆に公開して相互に便宜を共有し合う情報的性格にして、2・特別に権利保護の申請も審査も異議申し立ても経由しないような、3・ブック著作権とは明らかに質が異なり、上書き自由で変更されやすいいつでも草案的なウェブ著作権は、認められるにしても「消極的権利」として位置付けられるべきではなかろうか。掲示板著作権ともなると云わずもがなであろう。

 著作権の重要構成要素に財産権つまり印税収入権がある。これを「積極的権利」とみなしうる。しかし、ウェブ著作権の場合、財産権的要素が認められるにしても弱々しいものであるべきではなかろうか。逆に、改竄、歪曲、複製などに抗議する権利として、名誉権ないし人格権的なものは認められても良い。その限りにおいて損害賠償権というものも包摂されるであろう。しかし、財産侵害権としての損害賠償権とは又違うものであるべきだろう。

 論理的に見て、その解明まではできないが、どこかの段階で自然権から社会権へと出藍(止揚、揚棄)している筈である。その社会権を私有財産的に取り扱うのか公共財産的に取り扱うのかで、著作権法はここで二股に分岐している。目下は両派が喧騒し合っている状況で、留意すべきはいわゆるサヨが私有財産派として登場していることである。根が胡散臭い輩はこういうところで馬脚を表わすことになる。

 彼らは、インターネット空間に著作権壁を廻らし、著作権杭を打ち込み、著作権棒を振り回し、始末が悪いことにそれを正義と勘違いして人に説教している。れんだいこが告げておく。れんだいこは、君たちと丁度反対のことをしようと思う。著作権壁を取り外し、著作権杭を引き抜き、著作権棒を取りあげよう。れんだいこは、それこそ正義と得心して聞く耳持つ者に語り続けようと思う。

 2002.9.13日、2005.12.3日再編集 れんだいこ拝


Re:Re:5002著作権について れんだいこ 2005/12/21
 匿名さんちわぁ。おっしゃっていることが何となく理解できました。お礼にれんだいこの新しい気づきをお伝えさせていただきます。

 れんだいこは、同じ文字の羅列ではあるけれど、製版されたブックとインターネット空間の文章とは明らかに性質が違うと考え始めております。質が違えば対応が変えられねばなりません。ここのところが同一視されて論じられ過ぎているのではないかと考えております。

 どう違うのか。例えてみますと、インターネット空間の文章は、書いた上に何度も書き直す習字で言う練習用のおさらいのようなものではなかろうか。それに比してブックは大会に出品されたでき上がったものではなかろうか。

 何度も書き換えられるものには公的責任能力が弱く、為にそれに責任を追求するのは無意味である。むしろ、その特性を見定めた上で互いに利用しあい意見しあうのが望ましい。但し、主体としての書き手の私的責任はあるでせう。他方、出品(出版)されたものは公的責任能力が強く、為に公的論評を待つばかりとなる。

 両者のこの性質の差を著作権問題でも顧慮せねばならないのではなかろうか。インターネット空間の文章はブックのそれとは格段に責任が低いけれども、それを踏まえて速報性、議論交差、一般公開性に優れているからして、自ずとこちらの方で愛用される。この愛用のされ方に合わせたルールとマナーづくりが望まれているのではなかろうか。その際のルールとマナーは、ブックのそれほどには厳格なものであるには及ばない。

 具体的に述べますと、リンクフリーは当たり前。引用、転載も出所を明らかにしておればフリーでなければおかしい。「無通知無承諾批判」はナンセンス。但し、引用、転載時の字句の間違いの訂正、段落変えまでは許されるが、趣旨の改ざんはご法度ということになりますか。

 「無通知無承諾批判」はなぜナンセンスなのか。それは、「要通知、要承諾」にすると、対抗言論の際に取り込みにくくなるからです。相手は言いたい放題、無責任な言論を為しているのに、その言論をまな板の上にのせようとしても承諾がとれないからできないというのでは「言い得言い勝ち」を許すことになるからです。

 議論もそうですが、権力犯罪を暴く際にも同じです。小ネズミを批判しようとした際に、小ネズミの発言を取り込むのに小ネズミの了解取り付けを要するなんてことにしたら、それが了解されない場合告発できない。そういうことを考えるとネット上に晒されたものは互いに自由に使いあえるという風にしていないとおかしいのではないでせうか。

 世の中には好んで気難しく捉える連中がいる。普通の感性では、引用、転載され、それが検索で出てくることは慶びです。例え批判的に取り上げられていても正確に引用、転載されていたなら仕方がないというべきです。嫌ならサイトアップしなければよいのです。それを、検索で見つけて、「俺に黙って引用、転載しやがった。けしからん」と云う人は変人です。

 ピッポ事件のように、元文が判決文で、それを第三者がサイトアップし、それに手間隙かけただけのものを、俺の著作権を侵害したなどとわめき、お気に入りの掲示板へ誘い、そこの管理人が調子こいて煽るなどということはナンセンスの極みです。著作権違反批判がマナー批判へ移行した挙句ダンマリしておりますが便利な性格です。云っている側の方がマナーが悪いのです。こう書くと連中また怒り始めるのかな。

>  インターネットの特質と云える自由な情報受発信・友愛・ボランティア精神は相手(読者)を縛るものでないが、実生活に根ざしたものが、求められる。
>  生き馬の目を抜く様な、金銭的な対価を求める特許/発明の様なものとは異なる面がある]
> ・・・・・・と言った感じでしょうか?

 この指摘から発想し、思いつくまま書いてみました。「実生活に根ざしたものが、求められる」の趣旨がやや曖昧ですが、互いの能力が高まるように利用しあうべし、その為に余計な規制は控えるべし、互いに弁えるべしとする公理を掲げればよいのではないでせうか。

 長くなりましたのでこれぐらいにしますが、地文取り込みの際のルールとマナー問題というのもあります。これは少々難しく、さてどう考えるべきかということを考えております。

【「ウェブ著作権問題」と軍事・防衛問題との通底考】
 「ウェブ著作権問題は軍事・防衛問題と通底していると云えば驚かれるであろうか。れんだいこにはそのように見える。これを説明するとこうなる。

 わが国の軍事・防衛は、憲法前文での国際協調精神の称揚と9条規定でタガハメされている。曰く概要「国際間の紛争を武力で解決する方策を放棄し、逆に不断の平和外交、国際協調政策で軍事的衝突事態に至らないよう努力する」ことを称揚している。これを更に要約すると「非武装・平和協調路線」と云うことができる。この路線は、それまでの「強武装・軍事対抗路線」と鮮やかな対比を為している。軍事・防衛の必要性とそれが莫大な金食い虫であることを両天秤に掛けて、両路線のどちらに実在力があるのか今も喧騒中である。

 ところで、「ウェブ著作権問題」をこれに比すると、「緩著作権・自主規律路線」と「強著作権・法的規制路線」との対立の最中にあると云える。興味深いことは、特に日共系の者が、軍事・防衛問題において「軽武装・平和協調路線」を云いながら、著作権問題においては「強著作権・法的規制路線」の立場に立っていることである。多くの者はこれを偶然の事象とみなすであろうが、れんだいこは日共のエセ左翼の馬脚性を現していると見る。


 もっと云うなら、日共系エセ左翼派の「軽武装・平和協調路線」は擬態であり、彼らは著作権問題での「強著作権・法的規制路線」と同様に本当は軍事・防衛問題に対しても「自衛当然、非常事態時の強権発動推進派、正義の鉄槌当然派」なのではないのか、ということになる。実際にはいざその時にならないと正体を現さず、平生は「軽武装・平和協調路線」に擬態しているので、批判しようにもヌカ釘になるがれんだいこにはそのように見える。

 その日共は遂に、「2004不破綱領」で自衛隊容認論を打ち出した。もっとも、自衛隊を解消する方向で認めるという例の変態幻惑論法で玉虫色肯定しているので、馬鹿な連中は「解消論に立っているので容認はしていないのだ」なる珍論で悦に入っているようであるが。

 話を戻す。日共のそういう本質を知りつつ接するなら、裏切られることなく対応し得るということで、被害を最小限に抑えることができよう。人は、党派も含めて口先の謂いでは正体が分からない、相手の本性と言説の場合には本音を見極めるべきだ。そういう観点を確立すべきだと考える。

 もとへ。「ウェブ著作権問題」は、単に著作権問題としてだけではなくもっと奥行きの広い観点を介在させている。そのことを知ってこの問題に対する各自の見解を確立すべきであろう。要点は、国家権力を使って法的規制で解決していく方向にシフトするのか、市民的民間力で自由・自主・自律的な基準作りに勤しむべきか、という二股の道のいずれを採るのかにある。かく構図を設定したい。その上で、ウェブ著作権を廻っての強権発動派に対する批判的スタンスを確立したい。

 以上、「ウェブ著作権問題」と「軍事・防衛問題」とは通底しているということがお分かりいただけたであろうか。タカ派にシフトするのかハト派で行くのかという問題である。「ウェブ著作権問題」はタカ派、「軍事・防衛問題」はハト派というのは整合しない。そう説いている者が居るとすれば、どちらかが本音でどちらかが擬態である。そう見抜きたい。

 2003.7.17日、2006.10.1日再編集 れんだいこ拝

【「ウェブ著作権問題」と憲法改正問題との通底考】
  「ウェブ著作権問題」と憲法改正問題が通底していると云えば驚かれるであろうか。れんだいこにはそのように見える。これを説明するとこうなる。

 ウェブ著作権も憲法も、現実はその法の記すところよりはるかに進んでなし崩し的に規制強化されているところで共通している。例によって日共批判するが、この党は口先では憲法改正反対を論じているが、奇妙なことにこの党は既に逸早く党内憲法とも云うべき自らの党規約を改正したところである。つまり、憲法改正の水先案内していることが知られねばならない。日共不破の推進した悪事であるが、規約前文を排除し、旧規約を更に反動的に改悪した。つまり、党内憲法に当る党規約を改正したばかりの党が憲法改正反対を云っていることになる。れんだいこに云わせれば、全くデタラメであり、どちらかが本音でどちらかが擬態である。そう見抜きたい。

 ウェブ著作権も同様に、現行著作権法の記す趣旨からどんどん外れて改正が進められている。法がある種の弁えで記していないところを見つけては、強権規制解釈を生み出しそれを社会的に適用させようとしている。日共のホームページ上の著作権論を見よ。不都合記事掲載出版物に対する指し止め交渉経緯を見よ。何とも理不尽な著作権法解釈により出版社は無論その広告媒体を掲示していたJRに抗議したりしている。史実的に部落解放同盟の糾弾手法を批判してきた歴史を持つが、著作権法となると途端に糾弾調に憑依する。その滑稽さが咎められない。

 著作権法は今や、サヨの裏支持もあって、政府当局によって法の記すところよりもどんどん規制強化で改竄空洞化されつつある。そういう方向へリードされつつある。いずれ大幅な改正が間近いということになろう。

 れんだいこは、こういう動きのハーモニー性からして、「ウェブ著作権問題」と憲法改正問題が通底していると見立てている。「ウェブ著作権問題」で強化派に立つ者が、憲法改正反対というのは辻褄が合わない現象である。どちらかの立場がウソである。日共の場合、どちらが擬態であろうか。これは銘々が考えればよい。著作権法問題は奥行きも広がりも深いと思う所以である。

 2005.12.29日、2,006.10.1日再編集 れんだいこ拝

【「ウェブサイトと活字出版物との質の違い」について】
 今日、サイト著作権とブック著作権との質の違いを踏まえぬまま既存の著作権法を適用し、万事事足れりとする一群の論者が居る。この作法に対して、サイト著作権とブック著作権は次の点で明らかに違うではないかという観点から苦言を呈してみたい。当然ながら、質が違えば対処法も変える必要があろう。
 「上書き容易による主体責任の難しさ」

 眼に触れ、読むことでは双方同じであるが、サイト著作権の場合は、上書き自由つまり常に書き換え可能である。活字出版物はこれが容易ではない。その代表例はれんだいこサイトの「左往来人生学院」である。いつでも任意に書き換えられている。丁度黒板のようなものである。だからいつでも草案である。このことは何を意味するのか。れんだいこが思うに、インターネットサイトに「書き手としての主体責任」を問う事は元来難しいのではなかろうか、ということになる。「書き手としての主体責任」が弱ければ、その権利主張も弱いものにならざるを得まい。

 これを仮に「黒板著作権理論」又は「草案著作権論」と称することにする。書いたら消し又書いて消す黒板上の文字に著作権を認める程度をどの程度にすべきなのかという理論的考察になる。
 「情報速報性と交換機能性」

 眼に触れ、読むことではブック著作権もサイト著作権も同じであるが、サイト著作権の場合は、閲覧自由自在性が高いという特徴が認められる。このことは何を意味するのか。れんだいこが思うに、インターネットサイトの本質は「情報速報性と交換機能性」にあることを認めるべきでなかろうか、ということになる。「情報速報性と交換性機能性」を認めれば、これを制限しようとする動きは反モラルと云わざるを得まい。むしろ、「インターネットサイトの楽市楽座化」こそ望ましいのではなかろうか。

 これを仮に「楽市楽座著作権理論」と称することにする。門前市を為す人だかりに登場する護民官の規制はどの程度までが適正なのかという理論的考察になる。
 「性質の差を認めた上での共存共栄性」

 インターネットサイトは活字出版物とどう競合し、どう共存し得るのか。れんだいこには、それぞれ長所と短所があるように思われ、相互に阻害し合うよりは、相互に棲み分けしむしろ共存共栄的に関わり合えるのではなかろうかと考えている。ブックの強みは持ち運び、目線の自由性、線引き、書き込み自在性にある。インターネットサイトで評価を得た内容を活字出版し、それを購入するという水路も開けそうである。

 これを仮に「試食著作権理論」と称することにする。試し食いさせ気に入ったら買わす誘引関係にあるものを、試食段階でルールとマナーをどの程度まで厳しく咎めるべきかという理論的考察になる。

 こうなると、活字出版物とネット文書の関係は、互いが強みを専門化させ、それぞれの機能を充実させていくことで、併せて活字文化の裾野を広げることに努めるるべしということになるのではなかろうか。この観点は、今しばらく市場の流れを見るという姿勢につながる。ネット文書に対してあわてて強権発動して規制していくことに何の利益もなかろう。諮問会議が開かれるのなら、規制方向ではなくむしろレッセ・フェール化の知恵の談義をすべきであろう。

 更に補足しておく。「商行為、事業行為性」について考察しておく。人がどういう理由によってインターネットを利用しようとも構わない。が、インターネット空間に自前のサイトを持つことは、ある種これは商行為、事業行為ではなかろうか。これは、だから引用、転載制限的著作権を尊重しなさいということにはならない。むしろ、商行為、事業行為なら誰しもその普及を願い、手前のほうから広告宣伝費を費やすとならば相当の経費がかかるとしたもんだ。それを善意であるいは評価してよしんば批評であったり叩き台であったとしても採りあげられること自体が宣伝してくれている訳だから、むしろ感謝したり甘受すべきことではなかろうか。それをどこでどう偏屈に理解してか、「相成らん、規制せよ」などという作法は本末転倒ではなかろうか。

 もう一つ。「認識向上、議論練成の為に自由化されるべし」について考察しておく。。サイト間は相互に利用し合い、認識向上、議論練成の為に大いに資するべきではなかろうか。互いの主張が著作権壁に囲まれ、意思疎通に困難を生ぜせしめるなどというのは、むしろアンフェアーではなかろうか。特に、掲示板での遣り取りで、得手勝手な罵詈雑言した挙句、それを著作権壁で囲うのは「云い得云い勝ち」を許すことになりはしないか。

 これらの識別をせぬままつまりミソとクソの仕分けが出来ぬ者が、加えて何事にも統制手法を好む者が、著作権法片手に如意棒を振り回してネット文書に対する規制を刺客しているのが現実ではなかろうか。しかも、これを正義面して薀蓄たれるサヨ族が居る。気色悪いったらありはしない。この観点こそ保持すべきだ。

 補足すれば、引用、転載、リンク等は、著作権法というよりも活字、写真、イラスト、漫画等に伴う市民的自由、自主、自律のモラル問題で解決し得るのではなかろうか。それをマニュアル的に整備するのならすれば良かろうが、その反モラルに対する抗議はあくまでマニュアル土俵の上で為されるべきで、著作権法と関係持たせる必要はなかろう。

 著作権法の条文が増えすぎて、著作権鑑定士がいなければ身動き取れないような社会へ誘導されるのはまっぴらご免だ。この観点こそ保持すべきだ。

 2004.2.15日、3.30日再編集  れんだいこ拝

【インターネット・サイトの著作権考】
 CRIC「マルチメディアと著作権」でズバリ解説されている。手引きとして分かりやすく書かれているので、以下これを学習することにする。【ホームぺージは著作権で保護されるのでしょうか】の「QアンドA」で、次のように回答されている。
 ネットワーク化の時代を迎え、インターネットによって情報を伝達するために企業や個人レベルでもホームぺージを立ち上げる例が多くなってきました。本来ホームぺージとは、インターネットの情報発信システムWWWで最初に表示される画面のことをいい、いわば雑誌の表紙に当たる部分を指しますが、実際にはもっと広く、このホームぺージに続く一連のファイルすべてを含む言葉として理解されているようです。ここでは後者の意味に捉えることとしましょう。

 ところで、ホームページはテキストファイルで構成されている単純なものから、写真、動画などの画像データや音声を含むさまざまなものまで多種多様です。これらが著作物として著作権法による保護を受けるかについてですが、結論から先に言えば、少なくともその表現に創作性があれば著作物として保護されると考えてよいでしょう。

 確かに著作権法10条1項に定められている著作物の具体的例示の中には入っていませんが、これは同法の立法当時にはホームページのようなデジタル創作物の登場はまったく予期されていなかったのですから、いわば当然といえましょう。同法の2条1項1号には、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」を著作物として定義しているので、これに該当する限りホームページを著作物とみることは一向に差し支えありません。

 これに似たことはこれまでにもありました。コンピュータ・プログラムが登場した頃、これの無断複製が多発したことがありますが、裁判所は10条1項にコンピュータ・プログラムが例示されていなかったにもかかわらず、これを著作物として認めプログラムの創作者を保護しました。そして、これがきっかけとなって昭和60年の著作権法改正でプログラム著作物が明記されるにいたったという経緯があります(著作10条1項9号)ので、ホームページも同様と考えてよいと思います。したがって他人の作ったホームページを全部または一部ダウンロードすれば複製権の侵害に当たると考えます。

 ホームページを作成する行為は個人レベルでも可能ですが、複雑かつ高度なものになると外注に出すことも多いと思います。この場合にはホームページの著作権帰属について明確にしておくことが必要であるのは当然ですが、そこに盛り込む情報について他人の著作権や著作者人格権を侵害することのないようホームページ作成者の注意を喚起するなど慎重な配慮をすることが望ましいといえましょう。
(私論.私見) ホームページへの著作権適用当然論について
 これにつきれんだいこは次のように考えたい。先の「QアンドA」に拠れば、「ホームぺージに続く一連のファイルすべて」は、著作権法10条1項に定められている著作物の具体的例示の中には入っていないが、コンピュータ・プログラムが例示されていなかったにもかかわらず、これを著作物として認めプログラムの創作者を保護した判例も有り(これがきっかけとなって昭和60年の著作権法改正でプログラム著作物が明記されるにいたったという経緯がある)、同様にみなされるべきだと主張していることになる。これが専門的見解のようである。

 
問題は、インターネット・ホームページ又は掲示板に著作権が認められるとして、その範囲と程度の見極めが肝心なのではなかろうか。著作権法10条1項の具体的例示されている保護対象のものと同質で認められるとすべきか、インターネット・サイトの特殊性に鑑み何らかの逆制限を加えられるとすべきか、ここが論点なるべきなのではなかろうか。

 
一体、著作権とは何と何の権利で構成されているのだろう。れんだいこがこれを吟味するのに、1・財産権としての権利、2・リンク・引用・転載に対するマナー請求権のようなもの、3・名誉及び人格権のようなものとの三部作から構成されているのではなかろうか。

 
以下、これを逐一分析して見る事にする。

 1・財産権としての権利について

 「ホームぺージに続く一連のファイルすべて」はこれを作成した者からすれば財産には違いない。しかし、ブック著作権と同等程度の権利を発生させて良いものだろうか。内容的に見て明らかな違いがあるように思われる。ブックは、まさに出版されているが故に活字及びイラストその他が修正不能に固定されている。しかし、サイト著作権は常に修正可能のものである故に暫時的であるともみなせる。他にも、ブックのその多くは有料で頒布ないし購入されるものであるが、インターネット・ホームページは常に人目に晒し続け、閲覧自由に仕掛けされている。他にも、ブックであれば手にとり、線引きも自由で、いずこへでも持ち運び自由で読書することができるが、インターネットの場合それらに比して極めて不便である。
こうした違いが権利保護の程度において変化を蒙らないとすれば、それは理論が未熟であるということを意味しないだろうか。

 
サイト著作権に財産権が認められるとしても、特許的印税収入権があらかじめ何らかの申請(届け出)、審査を経ている労苦を思えば、サイト著作権の立ち上げ即財産権保護はかなり虫が良い話ではなかろうか。費用無料で認められるような権利は、今後インターネット・ホームページの社会的効用が大になるにしても、訴訟的な損害賠償請求による対価は極力控えめにしか認められないとすべきではなかろうか。

 
インターネット・ホームページは相互に利用し合い、その利益を互いが吸収し合う方向でもって良しとすべきではなかろうか。れんだいこが「インターネット空間は人民的財産である」と云うのは、これが為である。現下の著作権論は、クモの巣網掛け論であり、それは世の中をうっとうしいものにするだけのことではなかろうか。

 2・リンク・引用・転載に対するマナー請求権のようなものについて

 リンクについて。次の三点で見解が相違しているようである。1・原則自由制、2・原則許可制にまず分かれる。1の原則自由制は更に、1―1.不通知自由、1―2.事後通知望ましい自由に分かれる。さて、どう理解すべきだろうか。れんだいこ見解は次の通りである。

 2・原則許可制にするのであれば、トップページを公開して、それより先には会員制パスワード方式で部外者閲覧不可方式にすべきではなかろうか。自由に閲覧させ、閲覧した者がそれを紹介するのに許可が要るとするなら、誘引行為をすべきでないと考えるべきではなかろうか。つまり、2・原則許可制はナンセンスというのがれんだいこ観点である。

 次に、1―2.事後通知望ましい自由についてであるが、まさに望ましいであってマナー問題に収斂するのではなかろうか。つまり、ならばいっそのこと1―1.不通知自由制にし、任意に通知が為されるべしとするのが筋ではなかろうか。言論の遣り取りの場合、好意的でリンクするのみならず論敵としての参考資料としてリンクする場合もある。こう云う場合にはむしろ通知不要とする方が互いにメリットあることではなかろうか。つまり、「通知するかしないかが自由であり、自律に任されている」と解すのを相当とすべきではなかろうか。

 引用及び転載問題については、「引用、転載について、そのルールとマナー考」で言及することにする。

 3・名誉及び人格権のようなものについて

 これはほぼ考えにくい権利とすべきではなかろうか。なぜなら、公開して万人に閲覧させておきながら、その利用に付き名誉及び人格が侵害されるというのは論理矛盾であり、利用者に対しては逆に感謝状を贈っても良いことだと考えるから。問題は、内容がマナー違反的に改変又は歪曲され引用、転載された場合の控訴権として、その際の法理論として認められるということではなかろうか。その程度のことであるように思われる。

 つまり、サイト著作権の名誉及び人格権は積極的権利と云うより対抗的権利という消極的権利とみなすべきではなかろうか。そもそも「マナー違反的な改変又は歪曲引用、転載」については、インターネット空間の特殊性として人民大衆側的抗議で解決可能であると考える。意図的嫌がらせ行為的なものは、度が過ぎれば既に司直の手が伸びる仕掛けになっており、警察に任せればよい。

 その他考察すべきことについては、必要に応じて順次加えていきたい。

 2002.9.10日、2005.11.25日再編集 れんだいこ

 この種の事に関係しての手引き研究がインターネット上で紹介されている。あまりにも膨大なので読めないが、いつしかの研究用にここにリンクさせていただくことにする。

 ☆社団法人 テレコムサービス協会 「プロバイダ責任法名誉毀損・プライバシー関係ガイドライン」(平成14年5月24日)
 http://www.telesa.or.jp/01provider/01images/provider_020524_2.pdf

【「HTMLソースやCSSソースの著作権考」】
 「HTMLソースやCSSソースの著作権問題」が発生しているとのことである。これについては、「HTMLソースやCSSソースに著作権は発生するか?」で考察されているのでこれを参照する。

 著作権法第10条は次のように規定している。
1 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
(1)小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物   
(中略)
(9)プログラムの著作物
2  事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない。
3  第1項第9号に掲げる著作物に対するこの法律による保護は、その著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない。この場合において、これらの用語の意義は、次の各号に定めるところによる。
(1) プログラム言語 プログラムを表現する手段としての文字その他の記号及びその体系をいう。
(2) 規約 特定のプログラムにおける前号のプログラム言語の用法についての特別の約束をいう。
(3) 解法 プログラムにおける電子計算機に対する指令の組合せの方法をいう。

 プログラムのパクリについて争った H15. 1.31 東京地裁 平成13(ワ)17306 著作権 民事訴訟事件の判決文では以下のように述べられている。
 ある表現物が,著作権法の保護の対象になる著作物に当たるというためには,思想,感情を創作的に表現したものであることが必要である。そして,創作的に表現したものというためには,当該表現が,厳密な意味で独創性のあることを要しないが,作成者の何らかの個性が発揮されたものであることは必要である。  

 この点は,プログラム(電子計算機を機能させて一の結果を得ることができるようにこれに対する指令を組み合わせたものとして表現したもの)形式で表現されたものであっても何ら異なることはない。プログラムは,具体的記述において,作成者の個性が表現されていれば,著作物として著作権法上の保護を受ける。  

 ところで,プログラムは,その性質上,表現する記号が制約され,言語体系が厳格であり,また,電子計算機を少しでも経済的,効率的に機能させようとすると,指令の組合せの選択が限定されるため,プログラムにおける具体的記述が相互に類似することが少なくない。

 仮に,プログラムの具体的記述が,誰が作成してもほぼ同一になるもの,簡単な内容をごく短い表記法によって記述したもの又は極くありふれたものである場合においても,これを著作権法上の保護の対象になるとすると,電子計算機の広範な利用等を妨げ,社会生活や経済活動に多大の支障を来す結果となる。

 また,著作権法は,プログラムの具体的表現を保護するものであって,機能やアイデアを保護するものではないところ,特定の機能を果たすプログラムの具体的記述が,極くありふれたものである場合に,これを保護の対象になるとすると,結果的には,機能やアイデアそのものを保護,独占させることになる。

 したがって,電子計算機に対する指令の組合せであるプログラムの具体的表記が,このような記述からなる場合は,作成者の個性が発揮されていないものとして,創作性がないというべきである。

 さらに,プログラム相互の同一性等を検討する際にも,プログラム表現には上記のような特性が存在することを考慮するならば,プログラムの具体的記述の中で,創作性が認められる部分を対比することにより,実質的に同一であるか否か,あるいは,創作的な特徴部分を直接感得することができるか否かの観点から判断すべきであって,単にプログラムの全体の手順や構成が類似しているか否かという観点から判断すべきではない。

 以上を踏まえて、「HTMLソースやCSSソースに著作権は発生するか?」管理人は次のように述べている。
 「現在、HTMLやCSSソースの著作権を争った裁判の判例がありませんので、この判例は参考になると思います。この判例に準ずるなら、著作権が認められるためには、かなり奇抜…というか創造性豊かなHTMLソースやCSSソースを書く必要があるでしょう」。
 「以上のことを踏まえると、やっぱり著作権は認められないと考えた方がいいでしょう」。

【「送信可能化」と「自動公衆送信」について】
 「送信可能化」(著作権法2条1項九の五号)とは、「個人がホームページを開設する場合、インターネットプロバイダーと契約してプロバイダーが用意するネットワークに接続されたWWWサーバ(自動公衆送信装置)にコンテンツ情報を送信・蓄積することになる」。これを「送信可能化」と云う。著作権法では、このことをもって著作物が公表されたものとみなしている(著作権法4条2項)。

 「自動公衆送信」(著作権法2条1項九の四号)」とは、「ユーザーがこのホームページにアクセスすると、そのコンテンツがユーザーに自動的に送信される」。これを「自動公衆送信」と云う。著作権法では、つまりホームページの開設は、放送(無線公衆通信)、有線放送の放送局開設と同じように扱われることになる。

 上記が、「送信可能化」と「自動公衆送信」の正確な理解ということになるようである。


 以下は、法解釈。総合科目・情報と倫理−インターネットと法−」(2000.1.17日、24日、名古屋大学大学院法学研究科教授・加賀山茂)を参照しつつ、れんだいこ風に整理した。れんだいこ見解は別であるが、とりあえず通説としてみておく。

 著作権法23条によれば、自動公衆通信も送信可能化も、著作権者のみがこれを行うことができる。従って、著作権者は、不正利用者に対し、著作権を侵害でホームページのコンテンツの廃棄等を含む自動公衆通信の差止めを請求することができる(著作権法112条)。

 著作権法21条によれば、ホームページに他人の著作物を使用する場合,他人の著作物を許可を得ることなくそのまま複製すると著作権法に違反することになる。これに対して、著作権法32条で、他人の著作物を出所を明示して必要最小限の範囲で引用する場合には著作権を侵害することにならない。

 ホームページに見出しのみを掲げてリンクを張る場合には、利用されるのは著作者のURLのみであって、著作物を複製しているわけではない。したがって、このような行為は、著作物の最も適切な引用方法であり、著作権を侵害しないと考えられる。

 もっとも、リンク先のホームページに違法な複製物が掲載されている場合には、無断複製を拡大する行為となり、著作権法には違反しないとしても、民法709条による著作者に対する不法行為責任を負わなければならない危険性が生じる。



 



(私論.私見)