【その3、タカ派元祖鳩山の登場と自由民主党の誕生考】

 (最新見直し2006.9.22日)

 この前は、その2、「ハト派元祖吉田ドクトリン」の形成

【鳩山政権の登場】

 吉田時代を終焉させたのは、1954.11.24日の鳩山一郎率いる日本民主党結成であった(衆議院121名、参議員18名の全139名)。元々吉田と鳩山は、進歩党の幣原政権が瓦解した1946.4.22日時点では自由党仲間(鳩山が総裁で吉田がbQ)であった。政局の流れは鳩山政権樹立に向かった。直前にGHQが干渉し鳩山は公職追放された。「社共両党の連携による民主人民政府」樹立の動きも為されたが、自由党とも誼を通ずる社会党の二面政策が仇となり不発に終わった。

 5.10日、鳩山と吉田会談により吉田茂が自由党総裁を引き継ぐことになった。この時吉田は暫定的に引き受け、「鳩山が追放解除されたら総裁を君に返す」約束をしていたと伝えられている。しかし、吉田政権は長期となり都合8年の長きにわたって日本の戦後を指導支配し、戦後型保守本流の源を作ることとなる。これによりかっての盟友鳩山と吉田は敵対していくことになる。この抗争ドラマは、同時期の社会党、共産党のそれよりも激烈である。

 日本民主党結成に一役買ったのが岸俊介であった。「岸の履歴概要」によれば、戦前の「革新官僚」エリートであり、東条内閣で商工大臣として入閣、国家総動員体制を支える「新経済体制」の司令塔役として活躍している。戦後、A級戦犯として公職追放されていたが、1952.4月、講和条約発効後に公職追放令が解除される。岸は日本再建連盟を発足させ政治活動を開始する。この時の三大スローガンが、@・自主憲法制定、A・自主軍備確立、B・自主外交であった。「不文律吉田ドクトリン」政治の真っ向からの否定にその特質が認められる。

 岸は自由党に入党し、「バカヤロー解散」を受けての1953.4月の衆議院選で初当選する。当選後の岸は吉田政治打倒に執念を見せ、反吉田系保守新党の旗揚げに邁進する。1954.4月、石橋湛山・芦田均らと共に新党結成促進協議会を結成。同年11月、自由党を除名される。この岸派と鳩山派、改進党などを糾合し結成されたのが日本民主党であった。岸は鳩山総裁のもとで幹事長に就任する。

 日本民主党結成にはそうした背景事情がある。政権党を任ずる自由党内の「反吉田ワンマン政治」勢力の糾合であり、この一点で野合していた。そういう事情からいわゆる右翼からリベラルまでが呉越同舟していた。後の政治史から見て必要なことを記せば、岸、石橋湛山、河野一郎、三木武吉、松村謙三らが参集している。これにより自由党は185名に転落した。これ以降、吉田の跡目相続した緒方竹虎自由党と鳩山民主党が、政権党を目指して激しく抗争していくことになる。

 退陣前の吉田は次のように述べている。概要「私が辞任するときはだ、私の政策を継承できる人間が、後継者でなくてはならん。鳩山には政権は渡さん。あの病人に何ができる。思想も政策も私と逆だ。憲法改正、再軍費‐‐‐危険だ。あれが天下を取るようなら、私は断じて止めない」。この吉田発言で窺うべきは、「思想と政策」を重視していることであろう。

 これを鳩山の側から見れば次のようになる。概要「戦後の自由党は、戦前の官に対する民派であった政友会の伝統を踏まえて鳩山一郎を総裁に担いで、三木武吉や河野一郎達が作ったものだ。追放で政界離脱を余儀なくされている間に吉田に一時庇を貸したが、いつのまにか官派が牛耳る党に変貌せしめられていった。それは母屋丸ごとハイジャックされた観がある。今、その母屋を取り返す絶好のチャンスが廻ってきた」。

 1954.12.10日、鳩山を首相とする第一次鳩山民主党内閣が成立する。この時鳩山ブームが起きているが、吉田時代がいわば官僚派で占められていたのに対し、主として党人派が登用された清新さに拠った。この機運を反映するかのように、鳩山首相は、政策スローガンとして「明朗にして清潔な政治」を掲げた。

 しかし、
鳩山の政策そのものは、「不文律吉田ドクトリン」に比して後の「岸ドクトリン」への架け橋となる右翼的なそれで、「自衛のための憲法改正」、戦後日本の再軍備化を促進させようとしていた。それは、解釈合憲で再軍備を進めていった吉田政治の手法に対する反旗であった。この時の鳩山の弁は次の通り。「憲法を素直に読めば、吉田君のやってきた警察予備隊から保安隊へというやり方は『白馬は馬にあらず』と強弁するようなものだ。明らかに憲法に違反し、指す軍備を進めながら、これは軍隊ではないと言う。私は、吉田君のようなウソは嫌いだ」、「憲法を守れない以上は、守れるように憲法を改正すべきだ。国民をだまし、だましながら再軍備を進める。そういうやり方は、議会政治の将来に禍根を残す」。「鳩山一郎回顧録」に拠れば、概要「再軍備と憲法改正は、二つの問題のようで、実は最初から一つに組み合わさった問題」であった。

 
ここに、戦後日本の政権党内に吉田を元祖とするハト派、鳩山−岸を元祖とするタカ派の二潮流が立ちあらわれ、綾なす抗争を繰り広げていくことになる。これが50年代半ばから後半のことである。政権上層部でのハト派政治とタカ派政治の抗争が「戦後日本政治史の特質2」となる。



【「自由民主党誕生」について】

 翌1955年、戦後日本政治史上画期的な再編成の年となる。その先鞭をつけたのが日共であった。朝鮮動乱を機に「50年分裂」した日共は、それまでの徳球系から宮顕系へと宮廷革命し統一された。徳球系志田派がこれを橋渡しする。これを見て、社会党も左右両派が統合していくことになる。左派社会党(委員長・鈴木茂三郎)の和田氏と右派社会党(委員長・河上丈太郎)の浅沼氏の両書記長会談が行われ、速やかに統一を完成する」申し合わせをすることになる。こうした動きに合わせるかのように、緒方自由党と鳩山民主党が党合同に向かうことになる。実にこの年は偶然かシナリオ通りか判明しないが画期的な政界再編成の年となる。

 1955.4.13日、民主党総務会長の三木武吉氏が、保守合同をぶちあげる。「大目的の為には、昨日の敵は今日の友、自由党総裁緒方はもとより、吉田といえどもだ、今度は手を握る努力をせねばならん。保守の総結集は、わしの最後の政治目的だ」と述べている。同日かどうか不明であるが次のようにも述べている。「今や保守勢力結集による政局安定はダ、民主・自由両党ともごく一部の感情論を除けば皆強く望んでいる。185名の少数党の民主党で政策推進を行うということ自体がダ、根本的に無理である。民主党はダな、自由党に対し、引き抜きや切り崩しなどの工作をせず、近く表玄関から呼びかけるつもりだ。保守結集の形は、合同でも提携でも構わないが、その時機は今や熟しておると言ってもいい」。

 三木武吉は、自由党の窓口としてやはり総務会長であった「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」との名文句の生みの親大野伴睦に白羽の矢を立て、交渉を続けた。二人はそれまで犬猿の中で、三木は大野を「雲助」と呼び、大野は三木を「タヌキ」と罵詈合う30年来の政敵であった。この両名が恩讐を越えて会談すること都合60数回に及ぶ。「救国の大業を成就させたい、保守合同が天下の急務」、「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、お国のためじゃと云えばよい」との思いで極秘会談した、と伝えられている。

 この動きを、読売新聞社主・正力松太郎が支援している。「貴君らが画策している、自由・民主両党の大同団結には、ワシも大賛成だ。ついては運動資金に不自由していることだろう。これを使って、偉業を成就して欲しい。―衆院議員・正力松太郎は、こう云って、現金1千万円、今の金に換算して約10億円をポンと、テーブルの上に出した」、「鳩山一郎政権下の30年春、三木、大野の『政敵二人』は密かに自由、民主両党の合同による、保守新党の結成を目指して動いていた。だが、運転資金で動くに動けない状態だった。そこに、一千万円もの運動資金だ。これで、保守合同の動きに弾みがついた」(「別冊歴史読本「昭和秘史歴代総理と財界巨頭」のP57「正力松太郎―一千万円の代償は伴食大臣」.1987.11.15日発行」)とある。この背景から、「強い保守党」を臨む「奥の院」の思惑が見えてくる。

 5.27日、民主党の岸幹事長、三木総務会長、自由党の石井幹事長、大野総務会長の四者会談が開かれ、その流れで6.4日、鳩山・緒方両党総裁会談が実現した。会談後、「両党総裁は、保守勢力を結集し、政局を安定することに、意見の一致をみた。これが実現には、両党の党機関をして当たらせる」声明を発表した。

 6月末、難交渉を経て、両党より10名ずつの政策委員が選ばれ、政策協定づくりに向かうことになった。この時の委員は、民主党側から福田赳夫、中村梅吉、井出一太郎、早川崇、堀木謙三。自由党から水田三喜男、船田中、塚田十一郎、灘尾弘吉らの面々であった。9.22日、「保守合同のためには、自由、民主両党議員全員で、新党結成準備会を結成する」と、民主党が党議決定を可決、9.25日、自由党もこれを可決した。10.13日、日経連が総会で、「清新強力な政治力が急務」と決議する。10.20日経済同友会も「速やかに保守合同を実現せよ」と決議する。


 こうしたことを敢えて記すのは、こういう「相互批判の自由と求心力」の鑑がここに見て取れるからである。残念ながら、日本左派運動にはこの種の能力が無く、相互に罵詈増減し合う批判能力しか形成されていない。究極、日本政治史においては、いわゆる保守派の方が能力が高いということではなかろうか。

 10.13日、左右社会党の統一大会が開催され、統一綱領を採択した。その統一綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」等々と明記され、共産党によるソ連型運動を否定的に総括した労農派社会主義論を満展開していた。「右社の露骨な反共主義と漸進的改良主義を盛り込んだ『統一綱領』の下に再び野合を遂げてしまうのである。『統一綱領』の無原則な折衷主義は『階級的大衆党』というわけの分からない『党の性格』規定に象徴されている」(社労党「日本社会主義運動史」)ともみなされている。

 11.6日、三木・岸・大野・石井の四者会談で、@・新党の運営は、代行委員制とする。A・31年頃、総裁公選を行う。B・第三次鳩山内閣を発足させるを打ち合わせした。

 
11.15日、「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党(鳩山)と日本自由党(緒方)、改進党の保守も又合同し、自由民主党(以下、自民党と記す)が誕生した。こうして保守合同も為された。この時、岸が鳩山総裁のもとで幹事長に就任しているがこの間の政局中枢への食い入りのスピードの速さが瞠目される。岸は、保守合同の狙いについて後日次のように語っている。「吉田茂さんを追い出して、自由党を新しい政治に吸収してしまうというのが私の考えだった」。そういうこともあって、吉田茂は、「政敵鳩山とは与せず」として合流しなかった。これに殉じて、佐藤栄作と橋本登美三郎が無所属に留まった。数ヵ月後3名とも入党している。池田隼人、田中角栄らは結局自民党に入る。

 留意すべきは、自民党の当初よりの合従連衡性であろう。この時点より、自由党、民主党、更にそれぞれの党内の分派がそれぞれの立場を認められつつ寄り合い世帯し、且つ政権与党政治に向けて集中するという作法を確立させていたことである。この間規約が作られている。誰がこの規約作りの任務に当たったのか定かではないが、何と文字通りの意味での「民主集中制」を仕上げている。

 これに比すれば、日本左派運動党派の「民主集中制」こそまやかしで、「盲目的党中央集中制」という中世的封建的制度のそれでしかない。世上、「保守対革新」という対立軸で評されるが、規約論、組織論で見る限り自民党こそ革新派であり、自称左派こそ保守である。爾来、この観点より問われることがないままに不毛な「保守対革新的対立軸」で指標される運動がダラダラと展開されていくことになる。


 それはともかく、
衆議院299名、参議院118名、合計417名を有するに至った自民党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。ここに「保守・革新」の二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えた。ちなみに、この時の社会党の衆議院議席は154、自民党は299であった。これを「自社55年体制」という。1955年がこの体制のスタートとなった。「自社55年体制」が「戦後日本政治史の特質3」となる。

 
「自社55年体制」の功罪の政治史的考察はもう少し後のところで触れることにする。


 この後は、その4、岸ドクトリンの登場と二大ドクトリンの抗争考





(私論.私見)