吉田時代を終焉させたのは、1954.11.24日の鳩山一郎率いる日本民主党結成であった(衆議院121名、参議員18名の全139名)。元々吉田と鳩山は、進歩党の幣原政権が瓦解した1946.4.22日時点では自由党仲間(鳩山が総裁で吉田がbQ)であった。政局の流れは鳩山政権樹立に向かった。直前にGHQが干渉し鳩山は公職追放された。「社共両党の連携による民主人民政府」樹立の動きも為されたが、自由党とも誼を通ずる社会党の二面政策が仇となり不発に終わった。
5.10日、鳩山と吉田会談により吉田茂が自由党総裁を引き継ぐことになった。この時吉田は暫定的に引き受け、「鳩山が追放解除されたら総裁を君に返す」約束をしていたと伝えられている。しかし、吉田政権は長期となり都合8年の長きにわたって日本の戦後を指導支配し、戦後型保守本流の源を作ることとなる。これによりかっての盟友鳩山と吉田は敵対していくことになる。この抗争ドラマは、同時期の社会党、共産党のそれよりも激烈である。
日本民主党結成に一役買ったのが岸俊介であった。「岸の履歴概要」によれば、戦前の「革新官僚」エリートであり、東条内閣で商工大臣として入閣、国家総動員体制を支える「新経済体制」の司令塔役として活躍している。戦後、A級戦犯として公職追放されていたが、1952.4月、講和条約発効後に公職追放令が解除される。岸は日本再建連盟を発足させ政治活動を開始する。この時の三大スローガンが、@・自主憲法制定、A・自主軍備確立、B・自主外交であった。「不文律吉田ドクトリン」政治の真っ向からの否定にその特質が認められる。
岸は自由党に入党し、「バカヤロー解散」を受けての1953.4月の衆議院選で初当選する。当選後の岸は吉田政治打倒に執念を見せ、反吉田系保守新党の旗揚げに邁進する。1954.4月、石橋湛山・芦田均らと共に新党結成促進協議会を結成。同年11月、自由党を除名される。この岸派と鳩山派、改進党などを糾合し結成されたのが日本民主党であった。岸は鳩山総裁のもとで幹事長に就任する。
日本民主党結成にはそうした背景事情がある。政権党を任ずる自由党内の「反吉田ワンマン政治」勢力の糾合であり、この一点で野合していた。そういう事情からいわゆる右翼からリベラルまでが呉越同舟していた。後の政治史から見て必要なことを記せば、岸、石橋湛山、河野一郎、三木武吉、松村謙三らが参集している。これにより自由党は185名に転落した。これ以降、吉田の跡目相続した緒方竹虎自由党と鳩山民主党が、政権党を目指して激しく抗争していくことになる。
退陣前の吉田は次のように述べている。概要「私が辞任するときはだ、私の政策を継承できる人間が、後継者でなくてはならん。鳩山には政権は渡さん。あの病人に何ができる。思想も政策も私と逆だ。憲法改正、再軍費‐‐‐危険だ。あれが天下を取るようなら、私は断じて止めない」。この吉田発言で窺うべきは、「思想と政策」を重視していることであろう。
これを鳩山の側から見れば次のようになる。概要「戦後の自由党は、戦前の官に対する民派であった政友会の伝統を踏まえて鳩山一郎を総裁に担いで、三木武吉や河野一郎達が作ったものだ。追放で政界離脱を余儀なくされている間に吉田に一時庇を貸したが、いつのまにか官派が牛耳る党に変貌せしめられていった。それは母屋丸ごとハイジャックされた観がある。今、その母屋を取り返す絶好のチャンスが廻ってきた」。
1954.12.10日、鳩山を首相とする第一次鳩山民主党内閣が成立する。この時鳩山ブームが起きているが、吉田時代がいわば官僚派で占められていたのに対し、主として党人派が登用された清新さに拠った。この機運を反映するかのように、鳩山首相は、政策スローガンとして「明朗にして清潔な政治」を掲げた。
しかし、鳩山の政策そのものは、「不文律吉田ドクトリン」に比して後の「岸ドクトリン」への架け橋となる右翼的なそれで、「自衛のための憲法改正」、戦後日本の再軍備化を促進させようとしていた。それは、解釈合憲で再軍備を進めていった吉田政治の手法に対する反旗であった。この時の鳩山の弁は次の通り。「憲法を素直に読めば、吉田君のやってきた警察予備隊から保安隊へというやり方は『白馬は馬にあらず』と強弁するようなものだ。明らかに憲法に違反し、指す軍備を進めながら、これは軍隊ではないと言う。私は、吉田君のようなウソは嫌いだ」、「憲法を守れない以上は、守れるように憲法を改正すべきだ。国民をだまし、だましながら再軍備を進める。そういうやり方は、議会政治の将来に禍根を残す」。「鳩山一郎回顧録」に拠れば、概要「再軍備と憲法改正は、二つの問題のようで、実は最初から一つに組み合わさった問題」であった。
ここに、戦後日本の政権党内に吉田を元祖とするハト派、鳩山−岸を元祖とするタカ派の二潮流が立ちあらわれ、綾なす抗争を繰り広げていくことになる。これが50年代半ばから後半のことである。政権上層部でのハト派政治とタカ派政治の抗争が「戦後日本政治史の特質2」となる。
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