【その4、岸ドクトリンの登場と二大ドクトリンの抗争考】

 (最新見直し2006.9.22日)

 この前は、その3、タカ派元祖鳩山の登場と自由民主党の誕生考

 案外と正視されていないが、戦後与党政治は敗戦後の市混乱を経て二つの原理から指導されている。その一つが「吉田ドクトリン」であり、他方が「岸ドクトリン」である。「吉田ドクトリン」と「岸ドクトリン」は与党政治の原理として互いに縄のように結びつきながらも反発している。この対立抗争を弁証法的に見ないままに呪文の如き「政府自民党批判」を為してきたのが日本左派運動の愚昧さである。

 このサイトでは、「吉田ドクトリン」、「岸ドクトリン」の特質と相違を浮き上がらせ、その政治史的意味を解析してみる。

 2004.7.8日 れんだいこ拝


【タカ派岸政権の登場】
 以下、岸政権の登場過程を検証する(岸信介論)。
 1956.12.18日、日本の国連加盟が可決されたのを飾りに、 12.20日、第三次鳩山政権が退陣した。鳩山退陣後の政局は、岸信介と石橋湛山と石井光次郎の3名で争われた。自民党は派閥の合従連衡で成り立っており、岸を擁立したのは、岸派、佐藤派、河野派、大麻派。川島正次郎を筆頭に、赤城宗徳、椎名悦三郎、南条徳男、福田赳夫らが参謀となった。石橋を擁立したのは、改進系革新派の石橋派、三木派、石田博英が指揮をとった。石井を擁立したのは、旧緒方派、石井派、池田派。

 この政争過程で注目すべきは、吉田派が池田派と佐藤派に分裂したことである。岸が佐藤の実兄であったこともあって佐藤派は岸を支持した。石井は緒方派であり、かって「反吉田」運動の急先鋒に立っていたが、池田派は石井を支持した。こうして、吉田学校の日本柱の池田と佐藤が初めて対立する動きを見せた。後の政治史から見て必要なことを記せば、田中角栄は池田の懇願にも拘わらず佐藤派入り、大平正芳は池田派入りしている。

 
ポスト鳩山を廻ってこの時、億単位の金が乱れ飛んだ。総裁選挙資格のある国会議員、地方議員に対し、買収戦が行われたと伝えられている。ここで付言すれば、角栄政治を金権の元凶視するプロパガンダが為されているが、それはオオウソであり、既にこの頃からそれ以前からもこの「悪しき習慣」が確立されていることが分かる。しかして、普通選挙制と議院内閣制によりもたらされる権力闘争の必然的付随物とみなすべきではなかろうか。この「戦後普通選挙制度を前提にした権力闘争に伴う金権政治」の流れが「戦後日本政治史の特質4」となる。

 
3名の立候補者による自民党総裁選はもつれにもつれた。第一回公選結果は、岸223票、石橋151票、石井137票、いずれも過半数とならず決選投票に持ち込まれた。誰もが岸総裁実現と思いきや、石井グループが石橋支持に回り石橋258票、岸251票となり、石橋が7票差という歴史的僅差で岸を破った。

 12.23日、石橋湛山内閣(56.12.23〜翌年2.23日総辞職)が成立するが、翌1957.1.25日、石橋首相が病魔に倒れ、2.23日、石橋政権が崩壊する。石橋は僅か2ヶ月の悲劇の宰相となった。

 
1956.2.25日、岸外相が首相に任命され、岸政権が発足する。岸はA級戦犯として収容された巣鴨プリズンから釈放されて8年2ヶ月、代議士になってから僅か3年10ヶ月で権力の頂点に立つことになった。時に60歳、まさに還暦に不死鳥の如く蘇り、「昭和の妖怪」と綽名されていくことになる。「戦時のことは十分反省して、今日では民主政治家として充分国民のために働く覚悟である」と声明している。

 岸政治の要諦は、敗戦国日本が背負った対米従属性に対する国家主義的独立を目指すものであった。しかしながら、敗戦の重みそのものからして「日米新時代」として立ち現れざるを得ず、国内的復古政治と国際的日米協調政治を両建てすることは一種戯画的なそれであった。にも拘らず、岸政治は、鳩山系タカ派政治を更に濃厚なしつつ戦前型支配秩序に仕上げていこうとする。これが50年代後半から60年代初頭のことである。このタカ派政治の流れが「戦後日本政治史の特質5」となる。

 こうして、戦後日本の指針原理として吉田ドクトリンと岸ドクトリンの二大原理が立ち現れ、以降の政治史はこのどちらの側につくのかという形で末裔達が政権を争っていくことになる。この構図が80年代の中曽根政権の登場まで続き、中曽根政権がタカ派系勝利の構図を敷くことによりピリオッドする。

【警職法の上程、左派の法案阻止闘争】
 1958.10.8日、岸内閣が、警察官職務執行法警職法改悪を抜き打ち的に国会に上程した。「政府を取ってみて、警察をにぎっていないのは寂しい。戦前の政府は警察を握っていたので強い政治が出来た。今は公安委員会を通じての弱いもので全く困る」(10.25日付け東京新聞「岸首相、警職法を語る」)と述べている。

 これに日本左派運動が猛然と法案阻止闘争を繰り広げる。
この時社会党・ 総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全学連もそのメンバーに入った。この時の学生運動は既に、宮顕系日共による穏和化指導を批判し、急進的な運動を目指すグループが台頭しつつあった。この頃の社会党の国会闘争の様子が次のように伝えられている。

 「国会は連日の実力阻止闘争で肉弾戦が闘われた。当時、その翌年の勤評反対闘争、さらに五八年の警職法反対闘争でも、社会党の国会議員は、今のような『絶対反対はしない』などというような腰抜けでなく、とくに戦前の運動経験をもつ御老体が先頭に立って院内で身体を張って“実力阻止”をしばしばくりひろげたのである。私は、このような雰囲気のなかで、25歳という若さもあって、社会党秘書団の先頭に立って身体をぶっつけて闘った。そして私はこの実力闘争で目立つようになり、一時は自民党の代議士を殴ったという理由で、自民党の田村元という若い代議士が私を告訴しようとしたこともあった。この当時、実力戦の小休止の時間には、社会党の控室でじゅうたんの上に白墨で円を書き、秘書団のわれと思わん者たちが相撲をとったものである。この相撲のまわりには代議士や秘書団が群がり熱のこもった声援が飛んだ。そして、当時の社会党秘書団といえば団結カの強いことで有名であり、国会内の衛士は秘書団10名に対して30名の衛士で対決しても散を乱して逃げることがしばしばであった。自民党の日当で雇われた浅草あたりの暴力団などは社会党の秘書団の前では団結力がないため絶えず蹴ちらされていた。このような戦闘性を含んだ社会党は60年安保に至るまで強烈な“セックス・アッピール”があったのである」(高見圭司「55年入党から67年に至る歩み」。

 
10.29日、社会党の川上丈太郎が衆院予算委員会で「岸君に訴う」演説を行っている。要約概要「私はこの戦争の責任者の一人として岸君に心から訴えたいことは、あれだの戦争をさせた、そうして日本の国内及び国外に非常な迷惑をかけたこの事実を私は忘れては相成らぬと考えておる。この誤りを再びさせないといういうことが、戦争に責任を持てる人の態度でなければならぬ。私は、深刻にその問題を岸君に訴えたい。そう考えてみて、静かに岸君の政治の姿を拝見しますと、岸君の政治の全体というものは、戦争前の世の中に日本を戻そうという意図のもとに動いているとしか解釈できない。私は、戦争によって大きな犠牲を払うたけれども、今日の日本の憲法を持ったことによって日本は救われたと考えている。従って、戦争の責任者としては、この憲法を守り通していくことが、政治的責任者の立場である、こう考えている。そういう意味において、憲法を守り通していくことが、私の過去において犯した過失をお詫びするものだと信じている。私が岸君にお願いしたいことは、この精神を岸君が忘れては相成らぬということである」。

 11.4日、政府自民党は会期を延長して警職法の通過を狙った。しかし、11.5日、警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、全学連4000名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と、労働者が国会を包囲した。全国で450万人の労働者がなだれ込み、全学連は全国63都市で40万を動員した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後の12.11日、法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降 「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つこ とになった。


【ブントの結成】
 注目すべきは、こうした左派運動の盛り上がりの中から翌60年安保闘争を領導する「日本共産主義者同盟」(ブント)が創設されていることである。れんだいこは次のように記している。「12.10日、先に日共を除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メンバー約45名(全学連主流派)が中心になって、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも言う)を結成した。ここに、先行した『純』トロツキスト系革共同と並んで、『準』トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流である。この両『純』・『準』トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。その学生組織として社会主義学生同盟(社学同)の結成も確認された」。

【岸政権のその後】
 1959.1.24日、自民党総裁選で、岸首相は反主流の推す松村謙三を破って再選された。岸320票、松村166票。この時松村は「金権政治の打破」をスローガンにして闘った。自民党の総裁選挙で金権打破が打ち出されたのは、これが最初であった。この当時の自民党内派閥地図は、主流派が岸(衆議員63名)、佐藤(39)、大野(41)、河野(33)の四派で、反主流派は池田(47)、石井(26)、三木・松村(30)、石橋(14)の四派であった。つまり八派に分かれていた。大野・河野両派がキャスチング・ボートを握っていたことになる。

 この後は、その5、日本左派運動の支離滅裂考





(私論.私見)