【その2、「ハト派元祖吉田ドクトリン」の形成】

 (最新見直し2005.7.17日)

 この前は、その1、戦後政治の大枠、タガ嵌めの俯瞰図について

 1950年代初頭に形成された「不文律吉田ドクトリン」に精通しておくことは戦後政治史考の必須事項である。「不文律吉田ドクトリン」こそ戦後日本が敷いた総路線であり、れんだいこの観るところ英明な政策判断であった。以下、これを概括しておくことにする。


 戦後日本の総路線は、1951.9.8日のサンフランシスコ講和条約、その5時間後の日米安全保障条約の締結により決着した。これを遂行したのが吉田茂首相であったが、この時吉田首相は、米国陣営側に与することを選択している。同時に講和後も米国軍を恒久的に残置させ、米国との軍事同盟締結を決断している。このような形で日本は主権を回復した。

 この時の吉田首相の判断がどう評価されるべきだろうか。吉田首相の「自由主義陣営への確固とした信頼、共産主義陣営に対する不信」は、今日では英明な判断であったことが判明している。吉田首相は次のように述べている。
 「共産政権誕生以来、ソ連は5千万人、中共は2百万の国民を殺したといわれる。人民を多数殺戮するような国に、何の進歩、何の発達、何の自由があり得るのか」

 この批判は、外交官時代の経験に拠ったものと思われるが、この当時における見識として優れていたものであった。

 余談話をしておく。当時の日共は、この時の「戦後日本の国際的な主権回復」という政治史的意味を曲解させ、次のような見解を披瀝している。
 「アメリカの仕組んだサンフランシスコでの単独講和によって、我が国の状態は再び大きく変化し、その条約によって我が国はむきだしにアメリカに占領されることになった」(「日共第5回全国協議会における一般報告」)

 これに対し、田川和夫氏は、「戦後日本革命運動史1」の中で次のように評している。
 「(この路線を敷設した吉田茂を敢えて歴史客観主義で評価するならば、)支配階級にとっての戦後史の最大の貢献者であり、『国葬』に附されるに相応しい業績を挙げた人物だということができよう」。

 左派運動圏に発生した対立する見解の見本であるが、どちらの見立てが正確を得ているだろうか。れんだいこが思うに、日共のこの見解は、徳球系から宮顕系に移って「より悪しき形で」引き継がれている。宮顕系は、「日共第5回全国協議会における一般報告」観点の植民地規定を引き継ぎ、「半独立国」、「対米従属国」規定を続けていくことになる。

 サンフランシスコ講和条約の史的意義を踏まえず、いつまでたっても日本の国家主権の独立をそれとしてみず、犯罪的なことは、よしんば従属規定によっても故に徳球系のように主権獲得の革命的闘争に向かうのならともかく、そうした闘いを放棄するばかりか、その後の国家主権の独立から日帝化への歩みを分析せず、これを「高度に発達した資本主義国にして対米従属」なる規定でお茶を濁すことにより、反米闘争に向かうことがあるものの対日帝闘争としての独自的取り組みを回避させていくことになる。まことに胡散臭い役割しか果たさないこの規定を弄ぶことになる。

 話を戻す。吉田首相は、サンフランシスコ講和条約及び日米安全保障条約締結により「不文律吉田ドクトリン」なる戦後日本の総路線を敷き、これがその後の指針として実際に貫徹されていくことになる。そういう重要な意味を持つ「不文律吉田ドクトリン」である故に以下これを解析しておく。

 吉田首相には次のような認識があった。
 「占領6年有余にして、日本は一日も早く独立を獲得せねばならぬ、とする私の考えはいよいよ強くなった。全面講和は理想としてはいいかも知れぬが、当時の国際情勢、殊に米ソの冷戦のもとにおいては、それは一場の夢に過ぎない。平和条約で独立は一応回復した。しかしこれは主権回復という意味での政治的独立であって、経済的独立には未だ前途尚遠しである。しかも、経済的独立に専念するためには、国の内外における安全が保障されねばならぬ。しかし、当時の我が国の経済状態は再軍備の負担に耐えるべくもない。況や、我が国の新憲法は厳として再軍備を禁じているにおいてをやである」。

 この「不文律吉田ドクトリン」をスケッチ的に素描すれば、次のように要約整理することができる。
1 体制選択  いわゆる資本主義と社会主義の対立という冷戦時代の綱引きにおいて、日本を資本主義陣営の側に組み込み国家運営していく。
1の補足 日米同盟  「体制選択」を具体的に日米安全保障条約締結による日米同盟化で、親米を旗幟鮮明にする。
経済政策  冷戦対立とは当時、経済政策における資本主義及び自由主義市場政策と社会主義及び国家統制管理政策の対立であった。これにつき、自由主義市場政策、資本主義を選択する。
2の補足 経済復興優先  敗戦後の国情に鑑み、経済復興政策を最優先する。日米同盟による再軍備要請については、経済的発展の妨げにならない範囲でこれを受け入れる。国家予算における公共事業費の積極的投入、他方で軍事予算の抑制、貿易立国を志向する。これがいわゆる「経済優先、軽武装論」である。社共系の非武装論に対して編み出された苦肉の策であるようにも思われる。
国家主義  官民結合の護送船団方式による民族主権国家を保持する。
3の補足 象徴天皇制  民族主権国家原理として天皇制を護持し、戦後憲法に結実した象徴天皇制を擁護する。
戦後憲法尊重  内政においては、戦後憲法の諸規定を尊重する。外政においては、海洋国家論に立ち通商国家としての平和的発展の道を模索する。

 この観点により、れんだいこはハト派と規定する。つまり、ハト派の政治史的意味は戦後憲法尊重であり、逆にタカ派とは憲法改正派を指すことになる。
4の補足 議会制民主主義  議会制民主主義を尊重する。官界財界学界から有能な士を見出し、強固な指導政党を創出し、且つ議会制民主主義の原理の上で国政をリードする。

 れんだいこが見るところ、概要以上のような趣旨を持つのが「不文律吉田ドクトリン」であった。これを戦前の統治システムと比較すればその違いがより見えてくる。よりはっきり云えば、土佐自由党の流れを汲む血筋が見えてくる。同時に国家主義者の面も見えてくる。これを総合的に評すれば、「国家主義者にして米欧流の民主主義の洗礼を受けている反共主義者的政治を本質とする政治」と規定することができよう。この「不文律吉田ドクトリン」的総路線が戦後日本政治史上初のハト派の嚆矢となる。そして、この流れが「戦後保守本流」となるところに戦後日本政治史の特質となる。

 理解すべきは、「不文律吉田ドクトリン」は現実の施政当局者のそれであり、青写真ではないということであろう。「不文律吉田ドクトリン」はイデオロギー的な空理空論に流れず責任政治的実践性を有していたことである。更に補足すれば、この政策の秀逸さは、左右からの政治的揺さぶりを排斥せず、これらをも巧みに取り入れながら国内的に国際的に大局的に政局の舵取りをしていったことであろう。少し褒めすぎだろうか。

 
かくて、「戦後日本を規定する大枠としてのタガ嵌め6特質」の舞台の上で、ハト派元祖「不文律吉田ドクトリン」が生み出され、「敗戦後復興期」を成功裡に御していったことが知られねばならない。これが50年代前半のことである。ハト派政治の登場が「戦後日本政治史の特質1」となる。

 
「不文律吉田ドクトリン」を2004年現在の政治史から見直せば、日本を資本主義、日米同盟化の流れに組み込みつつも、他方で民族的主権主義に依拠しており、その基盤上で賢明英明なる舵取りをしていたところに意味があるように思われる。

 2004年現在の政治情況に付言しておけば、ハト派とタカ派の政治史的意味は護憲か改正かにより識別されるが、何と、憲法改正派のタカ派の方が米英ユ連合に取り込まれており、よってより売国的であり、国際協調的なハト派の方が根本的に民族的という逆転構図が垣間見える。

 2004.7.8日 れんだいこ拝

【吉田政治と吉田学校について】
 吉田を首班とする日本自由党時代は、1948.10.14日の第二次吉田内閣から1954.12.7日までの連続足掛け6年2ヶ月、第一次を加えれば7年2ヶ月の長期にわたって続いた。この間様々の政争が発生しているが、「戦後日本の総路線となる不文律吉田ドクトリンの敷設者にして戦後復興の立役者」としての評価が正当と思われる。

 この時代、吉田首相は、いわゆる「吉田学校」で次期の政界を支える逸材を発掘育成している。後の政治史から見て必要なことを記せば、首相史としては池田隼人、佐藤栄作、田中角栄が三大吉田チルドレンになる。池田のチルドレンが大平、鈴木となる。ここまでが「生粋の吉田学校生」と看做せる。

 福田は、岸と佐藤の両系譜に跨っており、竹下、橋本、小渕はハト派系ながらイデオロギー的なものを持たずねじれている。宮沢は、池田ー大平系であるがこれも捩れている。三木、中曽根、小泉系は異筋であり、その心はむしろ米英ユ軍門に降っている。以上のように概括できる。

 2005.7.17日 れんだいこ拝

 この後は、その3、タカ派元祖鳩山の登場と自由民主党の誕生考





(私論.私見)