履歴概要 |
岸首相の評価がこれまた難しい。まさに妖怪のゆえんである。いか、履歴の概略を記す。2004.8月号の月刊誌「現代」所収の歳川隆雄の「岸信介と小泉家」他を参照しつつれんだいこ風にまとめた。 |
【岸信介(きし・のぶすけ)】
1984年 9月25日〜1973年 4月25日(88歳) |
1896(明治29).11.13日、山口県の現・田布施町生まれ。旧制一高から東京帝国大学法学部独法科に入学。岸の回想によると、「国家改造案原理大綱」などで国家社会主義を唱導した北一輝、「大アジア主義」を提唱していた大川周明などの影響を受けている。 |
(私論.私見)
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戦後、憲法についてのこうした本質的な論議が避けられてきたのは、マルキシズムの影響が非常に強かったことがあります。しかも、マッカーサーの占領政策によっても、国家主義が非道徳的なものとして否定された。その行き過ぎが災いして今日まで、本質的な法論議が行なわれないできたのです。 憲法の基礎には、歴史的、伝統的な日本的共同社会、あるいは文化的共同体という実体がなければならないのに、共同体や国家に言及すること自体、罪悪とされた。マルキシズムにおいては、「国家は悪の装置」であり、やがては滅びるものとされた。昭和20年代は、憲法に言及することはタブーで、戦争に疲れた国民には、社会党や、吉田茂首相のいう「一国平和主義」が蔓延していました。憲法改正というと、すぐ第九条(戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)が連想されました。 その後もながらく「憲法を改正すれば戦争になる」というデマゴーグに、国民が強く影響されてきました。国家や国民的共同体に触れる政治家や知識人は、すぐ右翼とのレッテルを貼られ、私も激しく排斥されました。 私は当時の吉田内閣にも、果敢に論戦を挑みましたが、それは占領が終わって、日本の安全保障をどうするか非常に重要な問題が控えていたからです。 自主独立の国家像、防衛戦略に移行するという重要課題について、私からみれば吉田首相は余りにも策略的であり、言葉は悪いが卑怯でした。吉田首相は、「日本が独立した場合は、防衛らやらなければならない。独立国とはこういうものである」あるいは「日本が国連に将来入ったときには、国際的な責任もはたさなければならない」と言わなければなりませんでした。吉田首相は「今は一国平和主義でしばらくいく」という措置は暫定的であることを明言すべきところを避けました。 結局、安保条約は結ばれましたが、「他国依存」「一国平和主義」的思想に終始しました。一方で、当時の社会党をはじめ野党も一国平和主義的な思想を強く喧伝していました。「青年よ、銃をとるな」「母よ、子どもを戦場に送るな」というスローガンが蔓延し、戦争に疲れていた国民はそのスローガンにのったわけです。 吉田首相は、護憲・一国平和主義と言ったほうが票が集まり選挙に勝てるから、それに合わせた答弁で国会その他を乗り切ってきました。それに対して私は、選挙に勝つ、負けるは短期的な考え方で、一国の首相はもっと長い目で国家の行く末、運命を考えてあるべき姿を提示すべきだと反論しました。吉田首相は紋付、袴姿で自らを国士らしく見せるゼスチャーはうまかったが英国流の現実主義者、功利主義者でした。それに国民は幻惑されていたと思ったから、私は強く反発したわナす。 もうひとつ、憲法論議をタブーとさせたのは、戦争によって疲弊して、疲れた国民が、現行憲法によってようやく手にした平和な生活や個人の自由や権利を、二度と政治の主導によって失うまい、あるいはようやく回復した生活を再び乱されてはならないという危機感をもった点も見逃せません。「憲法に手を着けることは戦前に返ることだ」というイメージを国民が持ってしまった。だから、吉田路線に反対する私や鳩山一郎氏、岸信介氏などは非常に苦しい環境のもとで「憲法改正をしよう」と言っていました。いまはそれに比べると、国民がよく理解するようになったという状況だろうと思います。 鳩山内閣が成立して、憲法改正・日ソ交渉を旗印に国会を解散して選挙に打って出ました。それを岸内閣が受け継いで、憲法調査会が実を結んだわけです。昭和30年代の憲法調査会に参画したのは、今や、国会では私一人になりました。私や鳩山一郎氏や岸信介氏は吉田路線に挑戦していました。 独立後の日本の安全保障を占領当時のまま放置しておくわけにはいかないですから、警察予備隊、保安隊を発足させ、さらに自衛隊に改編して、それに安保条約というアメリカ製のギプ?はめた。当面の日本の安全保障を実現したわけです。そこで憲法調査会を作って全般的に見直して、正常な国民意識のあり方はどうあるべきかを議論しようというのが、鳩山・岸両氏の考えでした。さらに、岸首相は、安保条約の改定を主張しました。 なにより、吉田首相が、昭和26年に単独講和に調印した安保条約は、片務的でした。たとえばアメリカの軍人が日本国内で犯罪行為を犯した場合にも、裁判権はアメリカが持っている。あるいは、条約の期限も無期限になっている。さらに、日本に内乱が起きた場合には、アメリカ軍が出動できるとなっている。そういう、隷属的、国辱的な内容を岸内閣は直そうとした。期限を十年に限り、アメリカ軍出動の条項は削除することを決め、裁判権も回復した。われわれもそれを支持した。ただ残念ながら、その改定された安保条約を国会で通過させる議会運営に失敗して、60年(昭和35年)に国民を巻き込んだ大騒動が起きました。しかし、いま冷静になって振り返ると、やはり安保条約は必要だというのは、言論の世界では統一されてきたと思います。 |
改正をタブー視させた 二つの要因 |
安倍副長官と岸信介首相 5月16日
先週末、私が支部長を務める自民党
流石に「大ブレイク中」の安倍人気、2000人近くが足を運ばれ、会場に入りきれないお客様がロビーに溢れる程の騒ぎとなりました。
安倍副長官と私は衆議院議員初当選が同期(平成5年)で、年令も7歳しか違わない同世代、そして国家観に共通する所が多いので、何とか気を許して友人付き合いをさせていただいています。
当日は、安全保障、外交、教育、憲法等、実に生真面目な議論をしたのですが、随所でホノボノ系の楽しい話も伺えました。
安倍副長官が安倍晋太郎外相の息子さんというだけでなく、あの岸信介首相のお孫さん
でもあることから、お祖父様との思い出についても尋ねてみました。
岸信介首相は、世論の反対を押し切って日米安保条約改定を断行し、批准直後に退陣に追い込まれた首相です。新聞報道によると(私はまだ生まれていなかったので)、左派からは、反米感情や米国の対アジア戦争に巻き込まれるのではないかとの懸念からの反発が有り、足元の保守派からも、「自主防衛を目指すなら、安保改定よりも憲法改正を優先すべき」との批判があったといいます。
岸首相の決断は、日米安保がもたらしたその後の日本の平和と繁栄により評価され、さらに最近では、日本がテロリズムや北朝鮮の脅威に直面していることで、再度高く評価されているように見受けられます。
安倍副長官によると、お祖父様が日米安保条約改定に取り組まれた昭和35年、自宅周辺は「安保反対!安保反対!」と叫ぶデモ隊に包囲されていたそうです。
当時、6歳だった安倍副長官には、「安保反対」の意味が解るはずもなく、お兄様と2人で「アンポ・ハンタイ、アンポ・ハンタイ」と言いながら家中を走り廻っていたのだとか・・。
お父上の晋太郎さんは「こらっ、安保賛成と言え!」と息子達を叱ったけれども、岸首相は、ニコニコしながら楽しそうに孫達を見守っておられたそうです。
現在の日本を取り巻く国際環境の中で、安倍副長官は、孫としてというよりも1人の政治家として改めて岸政治を評価していると、思いを語ってくれました。イラク戦争への対応に関する日本の「国家意思」の決定に際して、日本の国益と世論との狭間で、官邸内でお祖父様と同じ様な苦労をされたからでもあるでのでしょう。
ところで、事前に会場内のお客様から寄せられていた「福田官房長官と仲が悪いって本当ですか?」という質問には「福田先生が私の仲人だったので、仲が悪いなんてことはありません」と、必死で否定されていたのが笑えました。
項目 | 旧安保 | 新安保 |
相互防衛義務 | 明文規定無し | 日本国の施政下にある領域 |
米国の基地使用目的 | 1.極東における国際平和と安定の維持 2.内乱鎮圧の援助 3.外国からの武力攻撃に対する日本国の安全のため |
1.日本国の安全 2.内乱鎮圧−削除 3.極東における国際平和と安定維持・・・使用することをゆるされる |
第三国の基地使用 | 米国の同意必要 | 削除 |
事前協議 | なし | 駐留米軍の配置・設備の重要な変更などについて |
日米経済協力 | なし | 促進 |
自衛力の漸増 | 米国は期待 | 憲法の範囲内で維持発展 |
有効期限 | 無期限 | 10年 |
基地利用の細目 | 行政協定 | 地位協定(NATOなみに改善) |