履歴概要

 岸首相の評価がこれまた難しい。まさに妖怪のゆえんである。いか、履歴の概略を記す。2004.8月号の月刊誌「現代」所収の歳川隆雄の「岸信介と小泉家」他を参照しつつれんだいこ風にまとめた。


【岸信介(きし・のぶすけ)】
1984年 9月25日〜1973年 4月25日(88歳)

 1896(明治29).11.13日、山口県の現・田布施町生まれ。旧制一高から東京帝国大学法学部独法科に入学。岸の回想によると、「国家改造案原理大綱」などで国家社会主義を唱導した北一輝、「大アジア主義」を提唱していた大川周明などの影響を受けている。

 1920年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、農商務省(後の1925年に農林省と商工省に分かれ、岸は商工省に移る)に入省。この間、重要産業の国家統制システム構築に際立った手腕を発揮し、「革新閣僚」としての評価を高めた。

 1936年、満州国実業部次長として満州へ渡り満州国経営に辣腕を振るう。この時代に、関東軍参謀長・東条英機、日産コンツェルンの総帥・鮎川義介ら軍・財の要人と結びつきを深めている。

 1939年、日本に帰国、商工省に復帰して商工次官となる。1940年、第2次近衛文麿内閣で商工大臣での入閣を打診されたが辞退。その後、小林一三商工大臣と衝突し辞職。しかし、1941年10月に発足した東條英機内閣で商工大臣として入閣。国家総動員体制を支える「新経済体制」の司令塔役として活躍している。

 43年末、戦局悪化への対応として商工省を軍需省(大臣は東条首相)に改編、岸は軍需次官(国務相)になる。その後、敗戦濃厚になるに及び「早期終戦」論に与して「反東条」と対立。1944年7月に閣内不統一で東條内閣を総辞職に追い込む。

 終戦に伴い帰郷していたが、1945.9.15日、A級戦犯容疑者として逮捕されるが、東京・巣鴨拘置所に収監される。A級戦に対する極東国際軍事裁判(東京裁判)は1946.5月に始まったが、岸は起訴猶予扱いとなり被告席に座らせることから免れている。1948.12月、逮捕から3年3ヵ月後正式に不起訴となり釈放される。

 この頃、第二次吉田内閣が発足し、「吉田ドクトリン」の下で戦後の総路線が敷かれつつあった。出獄後の岸は政界復帰に意欲満々であったが46年の公職追放令が解けず政治活動を封じられていた。1952.4月、講和条約発効後、公職追放令が解除され、岸は日本再建連盟を発足させる。この時の三大スローガンが、@・自主憲法制定、A・自主軍備確立、B・自主外交。結成3ヵ月後に正式に会長に就任し、岸の戦後政治家活動がスタートする。

 1952.10月、日本再建連盟は、衆議院選挙に16名の立候補者を擁立(岸は不出馬)している。「共産主義の侵略排除と自由外交の堅持」、「憲法改正と独立国家体制の整備」等の基本政策を掲げ闘った結果、武知勇記1名、他に推薦候補が数名当選したのみで惨敗する。この時、改進党の小泉純也が推薦候補として当選しており、岸−小泉の政治的近さが判明する。

 52年総選挙で惨敗した岸は、日本再建連盟を核とする「救国国民運動」的党派運動を断念し、53.3月、政権与党の自由党に入党する。その直後「」バカヤロー解散」となり、1953年4月、外遊先から自由党公認候補として立候補、当選する。戦時中の大政翼賛会選挙以来、11年ぶりに議会に復帰したことになる。

 当選後の岸は吉田政治を容認せず、反吉田系保守新党の旗揚げに邁進する。1954.4月、石橋湛山・芦田均らと共に新党結成促進協議会を結成。同年11月、自由党を除名される。1954.11月、自由党岸派、鳩山一郎派、改進党などを糾合し、日本民主党を結成する。この時の綱領には「自主独立の完成を期す」とあり、基本政策の柱として「経済自立の達成と独立体制の整備」が掲げられ、「独立体制の整備」の具体的目標として@・憲法の自主的改正、A・国情に即しない占領諸法制の改廃、B・自衛体制の整備と日米安保条約の改定促進、等々が記されていた。

 岸は鳩山総裁のもとで幹事長に就任する。岸は、保守合同の狙いについて後日次のように語っている。「吉田茂さんを追い出して、自由党を新しい政治に吸収してしまうというのが私の考えだった」。

 この当時第5次吉田内閣であったが吉田政権は、日本民主党結成により少数与党に転落し、1954.12月総辞職する。これを受け、第1次鳩山一郎内閣が発足する。鳩山−岸同盟による反吉田運動が功を奏したことになる。

 1955.2月、鳩山内閣は、「憲法改正」、「日ソ国交回復」をスローガンに総選挙に挑む。しかし、獲得議席が過半数に及ばず、逆に社会党の右派、左派がそれぞれ伸張した。

 1955.11月、保守結集機運が高まり、自由党と民主党が保守合同、自由民主党を結成した。この時、岸は幹事長に就任している。岸のこの間の政局中枢への食い入りのスピードの速さが瞠目される。

 1956.12月、岸は鳩山総裁の後継総裁公選に立候補し政権獲得に動く。しかし、石橋・石井光次郎連合に僅か7票差で破れる。岸は、石橋内閣の外務大臣として入閣する。ところが、石橋首相は2ヵ月後に病気で倒れ、岸は首相臨時代理に就任。

 1957.2月、石橋内閣が総辞職すると全閣僚留任、内閣を引き継ぐ形で首相に就任。外相を兼任。こうして岸は、巣鴨出獄から8年余、政界復帰から僅か4年で権力の頂点に上り詰める。8月、内閣改造を行い、藤山愛一郎を外相に起用する。

 岸内閣の前半は勤務評定実施・警察官職務執行法改定(社会党などの反対で廃案)などに取り組む。後半は新日米安全保障条約調印・批准に力を注いだ。結果として新安保条約に関連した一連の混乱の責任をとって、1960年6月23日に総辞職。退陣後は憲法改正運動などを積極的に行うなど精力的に活動。自民党政権にも影響力を残した。





(私論.私見)


 

日本国憲法を考える
 改正をタブー視させた二つの要因

 
 戦後、憲法についてのこうした本質的な論議が避けられてきたのは、マルキシズムの影響が非常に強かったことがあります。しかも、マッカーサーの占領政策によっても、国家主義が非道徳的なものとして否定された。その行き過ぎが災いして今日まで、本質的な法論議が行なわれないできたのです。
 憲法の基礎には、歴史的、伝統的な日本的共同社会、あるいは文化的共同体という実体がなければならないのに、共同体や国家に言及すること自体、罪悪とされた。マルキシズムにおいては、「国家は悪の装置」であり、やがては滅びるものとされた。昭和20年代は、憲法に言及することはタブーで、戦争に疲れた国民には、社会党や、吉田茂首相のいう「一国平和主義」が蔓延していました。憲法改正というと、すぐ第九条(戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)が連想されました。
 その後もながらく「憲法を改正すれば戦争になる」というデマゴーグに、国民が強く影響されてきました。国家や国民的共同体に触れる政治家や知識人は、すぐ右翼とのレッテルを貼られ、私も激しく排斥されました。
 私は当時の吉田内閣にも、果敢に論戦を挑みましたが、それは占領が終わって、日本の安全保障をどうするか非常に重要な問題が控えていたからです。
 自主独立の国家像、防衛戦略に移行するという重要課題について、私からみれば吉田首相は余りにも策略的であり、言葉は悪いが卑怯でした。吉田首相は、「日本が独立した場合は、防衛らやらなければならない。独立国とはこういうものである」あるいは「日本が国連に将来入ったときには、国際的な責任もはたさなければならない」と言わなければなりませんでした。吉田首相は「今は一国平和主義でしばらくいく」という措置は暫定的であることを明言すべきところを避けました。
 結局、安保条約は結ばれましたが、「他国依存」「一国平和主義」的思想に終始しました。一方で、当時の社会党をはじめ野党も一国平和主義的な思想を強く喧伝していました。「青年よ、銃をとるな」「母よ、子どもを戦場に送るな」というスローガンが蔓延し、戦争に疲れていた国民はそのスローガンにのったわけです。
 吉田首相は、護憲・一国平和主義と言ったほうが票が集まり選挙に勝てるから、それに合わせた答弁で国会その他を乗り切ってきました。それに対して私は、選挙に勝つ、負けるは短期的な考え方で、一国の首相はもっと長い目で国家の行く末、運命を考えてあるべき姿を提示すべきだと反論しました。吉田首相は紋付、袴姿で自らを国士らしく見せるゼスチャーはうまかったが英国流の現実主義者、功利主義者でした。それに国民は幻惑されていたと思ったから、私は強く反発したわナす。
 もうひとつ、憲法論議をタブーとさせたのは、戦争によって疲弊して、疲れた国民が、現行憲法によってようやく手にした平和な生活や個人の自由や権利を、二度と政治の主導によって失うまい、あるいはようやく回復した生活を再び乱されてはならないという危機感をもった点も見逃せません。「憲法に手を着けることは戦前に返ることだ」というイメージを国民が持ってしまった。だから、吉田路線に反対する私や鳩山一郎氏、岸信介氏などは非常に苦しい環境のもとで「憲法改正をしよう」と言っていました。いまはそれに比べると、国民がよく理解するようになったという状況だろうと思います。
 鳩山内閣が成立して、憲法改正・日ソ交渉を旗印に国会を解散して選挙に打って出ました。それを岸内閣が受け継いで、憲法調査会が実を結んだわけです。昭和30年代の憲法調査会に参画したのは、今や、国会では私一人になりました。私や鳩山一郎氏や岸信介氏は吉田路線に挑戦していました。
 独立後の日本の安全保障を占領当時のまま放置しておくわけにはいかないですから、警察予備隊、保安隊を発足させ、さらに自衛隊に改編して、それに安保条約というアメリカ製のギプ?はめた。当面の日本の安全保障を実現したわけです。そこで憲法調査会を作って全般的に見直して、正常な国民意識のあり方はどうあるべきかを議論しようというのが、鳩山・岸両氏の考えでした。さらに、岸首相は、安保条約の改定を主張しました。
 なにより、吉田首相が、昭和26年に単独講和に調印した安保条約は、片務的でした。たとえばアメリカの軍人が日本国内で犯罪行為を犯した場合にも、裁判権はアメリカが持っている。あるいは、条約の期限も無期限になっている。さらに、日本に内乱が起きた場合には、アメリカ軍が出動できるとなっている。そういう、隷属的、国辱的な内容を岸内閣は直そうとした。期限を十年に限り、アメリカ軍出動の条項は削除することを決め、裁判権も回復した。われわれもそれを支持した。ただ残念ながら、その改定された安保条約を国会で通過させる議会運営に失敗して、60年(昭和35年)に国民を巻き込んだ大騒動が起きました。しかし、いま冷静になって振り返ると、やはり安保条約は必要だというのは、言論の世界では統一されてきたと思います。
 改正をタブー視させた
 二つの要因


安倍副長官と岸信介首相  5月16日

 

 先週末、私が支部長を務める自民党奈良県第一選挙区支部主催で「安倍内閣官房副長官&高市経済産業副大臣・対論セミナー」なる催しを開いてみました。

 流石に「大ブレイク中」の安倍人気、2000人近くが足を運ばれ、会場に入りきれないお客様がロビーに溢れる程の騒ぎとなりました。

 

 安倍副長官と私は衆議院議員初当選が同期(平成5年)で、年令も7歳しか違わない同世代、そして国家観に共通する所が多いので、何とか気を許して友人付き合いをさせていただいています。

 当日は、安全保障、外交、教育、憲法等、実に生真面目な議論をしたのですが、随所でホノボノ系の楽しい話も伺えました。

 

 安倍副長官が安倍晋太郎外相の息子さんというだけでなく、あの岸信介首相のお孫さん

でもあることから、お祖父様との思い出についても尋ねてみました。

 岸信介首相は、世論の反対を押し切って日米安保条約改定を断行し、批准直後に退陣に追い込まれた首相です。新聞報道によると(私はまだ生まれていなかったので)、左派からは、反米感情や米国の対アジア戦争に巻き込まれるのではないかとの懸念からの反発が有り、足元の保守派からも、「自主防衛を目指すなら、安保改定よりも憲法改正を優先すべき」との批判があったといいます。

 岸首相の決断は、日米安保がもたらしたその後の日本の平和と繁栄により評価され、さらに最近では、日本がテロリズムや北朝鮮の脅威に直面していることで、再度高く評価されているように見受けられます。

 

 安倍副長官によると、お祖父様が日米安保条約改定に取り組まれた昭和35年、自宅周辺は「安保反対!安保反対!」と叫ぶデモ隊に包囲されていたそうです。

 当時、6歳だった安倍副長官には、「安保反対」の意味が解るはずもなく、お兄様と2人で「アンポ・ハンタイ、アンポ・ハンタイ」と言いながら家中を走り廻っていたのだとか・・。

 お父上の晋太郎さんは「こらっ、安保賛成と言え!」と息子達を叱ったけれども、岸首相は、ニコニコしながら楽しそうに孫達を見守っておられたそうです。

 現在の日本を取り巻く国際環境の中で、安倍副長官は、孫としてというよりも1人の政治家として改めて岸政治を評価していると、思いを語ってくれました。イラク戦争への対応に関する日本の「国家意思」の決定に際して、日本の国益と世論との狭間で、官邸内でお祖父様と同じ様な苦労をされたからでもあるでのでしょう。

 
 ところで、事前に会場内のお客様から寄せられていた「福田官房長官と仲が悪いって本当ですか?」という質問には「福田先生が私の仲人だったので、仲が悪いなんてことはありません」と、必死で否定されていたのが笑えました。


昭和35年6月15日、新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の反対を叫ぶ全学連、労組など580万人(警視庁発表は65万人)が国会を包囲し戦前・戦後最大級のデモを展開した。更に全学連の約8000人が国会構内に突入し警官隊と大規模な衝突がおこった。この時、東京大学・文学部の樺(かんば)美智子さん(当時22歳)が圧死した。

警察とデモ隊の双方に数千人の負傷者を出したものの死者は1人にとどまったのは奇跡と言ってよいほど大規模な衝突であった。が、樺美智子さんの死は世論を動かし、その結果《岸内閣が崩壊》し戦後史の大きな転換期として位置付けられることになった。

−安保闘争とは−
日本は昭和20年8月15日の無条件降伏から米国を中心としたGHQ(連合国総司令部)が日本に進駐。最高司令官のマッカーサ元帥の統治下となった。日本は戦後復興の早期実現と独立国家としての地位獲得のため講和条約の締結を目指す。

昭和26年9月8日米国・サンフランシスコで吉田茂首相全権が米国全権のディーン・アチソンと《講和条約=サンフランシスコ講和条約》を調印し昭和27年4月28日発効とした。同時に日本は「日米安全保障条約(以下、旧安保)」に関しても調印した。

この旧安保の要旨は日本は米国に駐留権を与えるが、駐留軍は日本の安全保障(第三国からの攻撃に対して)が明確になっていない片務的な条約であった。

日本側にとって不公平で不利益な旧安保を是正するため日本政府は米国政府に働きかける。根気強く米国側に説得と根回しを経て昭和35年1月19日岸首相が渡米。そこでようやく日米は合意に達し「新安保条約」に調印した。この新安保によって日本は米国に駐留権を与え米国は日本が第三国から攻撃された場合、日米相互で防衛することを保障するという両方向の条約となった(下図参照)。
(尚、この条約は10年間の期限付きであったが昭和45年の期限切れ以降、自動継続され今日に至っている)。

項目 旧安保 新安保
相互防衛義務 明文規定無し 日本国の施政下にある領域
米国の基地使用目的 1.極東における国際平和と安定の維持
2.内乱鎮圧の援助
3.外国からの武力攻撃に対する日本国の安全のため
1.日本国の安全
2.内乱鎮圧−削除
3.極東における国際平和と安定維持・・・使用することをゆるされる
第三国の基地使用 米国の同意必要 削除
事前協議 なし 駐留米軍の配置・設備の重要な変更などについて
日米経済協力 なし 促進
自衛力の漸増 米国は期待 憲法の範囲内で維持発展
有効期限 無期限 10年
基地利用の細目 行政協定 地位協定(NATOなみに改善)

岸首相は帰国後、国会で「新安保条約」承認を6月までに済ませてアイゼンハワー大統領の来日を6月19日と設定した。が、岸の目論見は崩れ国会も世論も大揺れとなる。

この頃、米国の偵察機U2がソ連(現、ロシア)領空内で撃墜され米ソのトップ会談が崩壊。ソ連・中国の共産圏が日本に対して強行姿勢をとり始める。国会も「極東における国際平和・・・」の極東とはどの地域を含むのか、事前協議を義務付けた「重要な変更」とはどの範囲をさすのかなど審議は空中崩壊した。

5月19日審議が進まない中、自民党主流派による強行採決を行う。この強行採決で世論は一気に「反岸」に傾いた。マスコミも「民主主義の崩壊」と連日のトップ記事で論陣を張った。後に岸は強行採決に対して「法的に有効であるが政治的には最悪の選択」であったことを認めている。

この強行採決で一気に表舞台に登場したのが「共産主義者同盟=ブント」であった。ブントは軍事闘争から転換した日共の六全共路線にあきたらず日共から分派した新左翼で急進派の先端に位置した。ブントは東大を中心に全学連を組織し「安保反対」の活動を開始した。このブントの手伝いをしていたのが前述の樺美智子さんであった。

彼らの「安保反対」デモは労組から一般市民まで広がっていく。連日デモが繰り返され参加者が増大していった。しかし、岸の強気姿勢は変わらずで、6月19日のアイゼンハワー大統領の来日をあくまで主張。大統領の安全を確保するため自衛隊出動まで検討していた。が赤城防衛庁長官は自衛隊を出動させれば益々デモはエスカレートし社会全体の崩壊に繋がるとして反対する。次第に岸は孤立していく。最終的な決定打だったのが樺美智子さんの死だった。岸は、これ以上世論を納得させることは無理と判断。参議院での「新安保」自然承認という形での「最悪の法案成立」と引き換えに米国大統領の来日断念と自らの首相辞職を表明。後任の池田勇人に託して舞台から降りたのだった。