戦後国債発行史その1

 (最新見直し2013.11.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦前、日本政府は大東亜戦争の軍事費を賄うため戦時国債を濫発した。日本勧業銀行の「報国債券」、「戦時報国債券」、大蔵省の「大東亜戦争割引国庫債券」など総額約1400億円。2008年現在価格に換算しておよそ56兆円という巨額なものだった。敗戦とともに巨額の国債が残り、政府は破産状態に陥った。

 戦後、日本政府は、「財政法」を制定して「国家財政の基本原則」を打ち立てた。4条1項に「国の歳出は、公債または借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない(国の経常経費に当てる目的で公債を発行することを禁止する)」と明記して公債と借金を禁じた。

 これに基づき、大蔵省は歳入と歳出が同規模の均衡財政政策即ち均衡予算主義を採用し、いわゆる健全財政を貫いた。財源確保としての国債の発行を抑制してきた。それは、かっての戦争期に軍事費調達のために国債を安易に発行して遂にはそれが膨大になり、過激なインフレを招き、巨額の財政赤字による財政危機を招来させ、それを脱するために更に国債を発行するという雪達磨式に陥り、国家財政を畸形化させてきた戦前の歴史を繰り返さない、「国債発行は一切やめよう」という反省の上に立脚していた。

 戦後憲法9条の平和条項は、反戦平和の観点からのみならず、この財政健全主義観点からも理解されねばならない。殆ど注目されていないが、財政健全主義の観点から導入されたと考える視点を持ちたい。その政策がいつ放棄され、いつか来た道を再び歩み始めたのか。誰がこれを促進させたのか、これを見ておく。

 「シオンの議定書」によると、当該国の国債発行はユダヤの篭絡政策である。誰が音頭を執ったのかでシオニスタンぶりが分かろう。奇妙なことに、マスコミは、三木、福田、中曽根、以下歴代、小泉というシオニスタンをヨイショする妙な癖を持つことが判明する。要するに、そのような論調でないと国際金融資本ユダヤ帝国の制裁が待ち受けており、プロパガンダ役を引き受けることで社命が安泰という構造にあることに起因しているのであろう。

 「シオンの議定書考」の「国債、外債、国家破産に関する記述一覧」、「ゴイム政府の要職(大統領、首相その他)操作に関する記述一覧」、「ゴイム政府操作に関する記述一覧」、「言論機関、マスコミに関する記述一覧」を読み取ればさもありなんということになろう。

 「【詳説・戦後】赤字国債(1)福田は神に祈った」の記事詳細:イザ!(阿比留瑠比」は、次のように記している。
 「財政法により発行が許されない赤字国債だが、昭和40年度補正予算で、佐藤栄作内閣の福田赳夫蔵相が東京オリンピック後の景気対策のため、特例法により禁を破った。50年度補正予算(三木内閣)で発行を再開して以来、バブル経済で税収が増加した一時期を除き、歴代内閣が発行を重ねてきた。借金のための借金とも呼ばれ、膨大な財政赤字の要因となった赤字国債は、景気対策に本当に必要だったのか。それとも財政規律を忘れさせる“麻薬”なのか」。

 「戦後国債発行史」は何人にも分かるように誰かが公開せねばならない。でないと判断できないだろう。本来、行政当局がその任に与っている筈で、「財務省ホームページ」があるのはあるが物足りない。
 (http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/sy014.htm))

 年度ごとの「戦後国債発行史」を掲載していない点を見てそれが分かる。従ってむしろ重大なことを隠蔽しようとしている気がしてならない。原因と真相にメスを入れぬまま国民に財政危機を明らかにし税収負担を訴えるという狙いでのみ各種指標が公開されている気がしてならない。

 ならば、国会がそれを為すのかというとこれまた機密情報化させており、一向に埒があかない。というか任に対して能力が追いついていないのかも知れない。となると少なくとも、左派党派がこれを暴露せねばならないはずだがやる気もないのだろう、今日ある通りだ。ならばと、つたないながられんだいこが手がけねばならない。いつも思うのだが、何もれんだいこがせねばならんことではないでせうに。

 ところが、ネット検索で格好の資料が見当たらない。いつものことだが、肝要な情報に限ってネットではなかなか手に入らない。どうでも良いような情報はあまりかえっているというのに。以下、知識を共有する為、れんだいこが入手した情報を時代順に書きつけ、誰にでも分かるようにしておく。「どこへ行く日本」、「財務省発表、国債及び借入金並びに政府保証債務現在高」その他を参照する。

 2005.1.16日、20063.24日再編集 れんだいこ拝


【池田政権時代まで】
 戦後日本の財政政策は、1947(昭和22)年に制定された財政法に基づいて行われている。同法は、GHQ最高司令長官マッカーサーが経済顧問として招致したアメリカのデトロイト銀行の頭取ジョセフ・ドッジのいわゆる「ドッジライン」の指針に基づいて、総予算均衡主義を骨子としていた。それは、戦前の日本政府の財政政策を批判しつつ財政と金融の健全化を重視させていた。

 この間、1954.12月から1957.6月の2年7ヶ月にわたる神武景気、1958.7月から1961.12月までの3年3ヶ月にわたる岩戸景気、1962.11月から1964.10月までの2年にわたるオリンピック景気を経験している。重要なことは、戦後日本は、世界史上未曾有の経済発展を遂げながら、1965(昭和40)年の池田首相ー田中大蔵大臣時代までは、国債は発行されなかったことである。

 この期間、1960(昭和35).7.19日から1963(昭和38).7.18日の第1次池田内閣、第2次池田内閣、第2次池田内閣第1次改造内閣期を水田三喜男が蔵相を務めている。水田蔵相の通算在任期間は、1960.7.19〜1963.7.18日。

 1963(昭和38).7.18日から1965(昭和40).6.3日の第2次池田内閣第2次改造内閣、第2次池田内閣第3次改造内閣、第3次池田内閣を田中角栄が蔵相を務めている。

 どこへ行く日本は次のように述べている。
 「戦後、所得倍増計画による高度成長政策をとったのは池田内閣であるが、首相池田勇人は国債の発行を最後まで厳に戒めていた。池田は戦前の大蔵官僚として国債発行の怖さを十分知っていたからである」。

【佐藤政権時代(1964.11.9日〜)】

【1964.11.9日〜1965.6月、佐藤政権の田中蔵相時代】
 1964.11.9日、池田首相の後任に佐藤が就任し、佐藤政権が発足した。蔵相は田中が続投し、第1次佐藤内閣まで務める。田中蔵相の通算在任期間は、1963.7.18日〜1965.6.3日。

 1963年頃から24カ月続いた「オリンピック景気」後、1965年になると「ポスト・オリンピック不況」(65年不況又は証券不況とも云う)に陥った。1964.12月にサンウエーブ、日本特殊鋼、1965.3月に山陽特殊鋼の大型倒産が続出した。5.21日、山一證券の経営危機が発生し、取引客が各支店に殺到して、預託している株券・債券・現金の払い戻しを求め、
取り付け騒ぎ となった。時の大蔵大臣田中角栄は、日本銀行総裁、取引銀行頭取たちを集め、その場で融資を渋る頭取たちを一喝して、無制限・無担保の 日銀特融(日本銀行からの特別融資) を決めた、この英断により日銀特融により救済した。但し、この時点までは国債が発行されていない。

【1965(昭和40)年、佐藤内閣の福田蔵相の下で、戦後初の国債しかも「赤字国債」が発行される】
 1965(昭和40).6.3日、山一證券事件処理後、第1次佐藤内閣第1次内閣改造が行われ、大蔵大臣は田中角栄から福田赳夫に代わる。

 福田蔵相になるや国債発行の動きが始まり、これに対して大蔵省と日銀の興味深いやり取りが為されている。6月、政府の意向を挺する大蔵省代表の下村治と政府と独立する日銀代表の吉野俊彦との間で以下のようなやり取りが行われた(「NHK そのとき歴史が動いた第284回 所得倍増の夢を追え〜高度経済成長の軌跡」)。ちなみに下村治は池田勇人首相が打ち出した「所得倍増計画」の生みの親であり、後に大蔵官僚出身のエコノミストとなる。吉野は、日銀出身のエコノミストとなる。
下村  「たとえ赤字国債でもためらわず発効すべきです。でないと手遅れになります」。
吉野  「国債発行は禁断の木の実になるおそれがあります。満州事変以降の苦い経験を忘れてしまったのですか」。
下村

 「政府に、勇気があれば、すむことです」


 7.27日、佐藤栄作首相、福田赳夫蔵相の下で戦後の経済・財政政策を全面転換させ、財政投融資の増額と、特例国債(赤字国債)発行を内容とする補正予算を決定した。同時に、昭和41年度の予算編成における「建設国債」の発行も決定した。福田蔵相の「ご安心」のお墨付きで戦後初の国債発行に踏み切った。11.19日、赤字国債発行 を閣議決定し、40年度補正予算案の他に「65年度補正予算」を組んだ。

 11.24日、約2000億円の赤字国債発行のための特例法を国会に提出した。福田は次のように答弁している。
 「年度途中の税収落ち込みに対して公債を出す。これは率直に歳入補(ほ)填(てん)公債であるという理論をとるべきだ。長期にわたる考え方(公債政策)とは根本的に違う。厳密に区別しなければならない」。

 これによると、福田蔵相は、赤字国債発行はあくまで一時的な措置で、歳入不足を建設国債で賄える前例を作ってしまうと歯止めがなくなると懸念していたことになる。補正予算案の国会論議は、戦後初の赤字国債の発行で白熱化し、特例法成立は1966(昭和41).1.18日までずれ込む。

  政府は山一証券の破綻など“戦後最大の不況”を口実として4条1項末尾に「但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」という但書を追加した。その上で特別立法による「歳入補填国債」を発行した。「借金を禁じる」という「国家財政の基本原則」を政府の公務員(議員と役人)が率先して踏みにじったことになる。

 佐藤政府は、財政特例法に基づく臨時特別措置として戦後初の「赤字国債(特例国債)」を発行した。実際の発行は翌1966(昭和41).1月で、発行額2590億円。8月には約2600億円を発行した。それは、税収減を乗り切る為の景気刺激対策的意味合いを持つ緊急措置として導入された。事実、景気効果が現われ、以降「いざなぎ景気」(1965.11月〜1970.7月までの4年9ヶ月、57カ月)に入る。

 1960年代後半の「イザナギ景気」の中で、国債は発行され続けていく。福田が手本としたのは、昭和2年の昭和金融恐慌時に田中義一内閣で蔵相に就任、4年の世界恐慌を克服した高橋是清の政策だった。高橋は救国国債を発行し、景気が回復すると国債を減少させる政策をとった。これにより日本は世界で最も早く世界恐慌による不況を脱出した。福田は、著書「回顧九十年」(岩波書店、1995年)の中で次のように自賛している。
 概要「私は公債が景気調節に貴重な役割を発揮できると考えていた。不況の時は公債発行で景気を刺激し、景気が良くなり過ぎれば公債発行を抑制するか、やめれば景気が正常に戻る。つまり公債政策は悪用すると大変な過ちになるが、適切に運用すると景気を平準化する機能をもつ。正しく高橋是清、福田赳夫の考え方で(公債政策を)やっていけば、国力増進に大きな役割を果たす。(私が)四十年不況」に直面して決断した国債発行策は、今顧みても評価されるべきものがあるのではないか」(170P)。

 発行された国債は、国債引受シンジケート団(「シ団」)と資金運用部で一括引き受けられた。発行条件は建前上、発行者と「シ団」との協議によって決定するという仕組みにしていた。
(私論.私見) 「佐藤ー福田ライン」による戦後初の国債発行踏み切りについて

 1965年の時点での福田蔵相の下での赤字国債発行につき逆に見えてくることは、その直前の田中蔵相下ではこれを拒んでいたということである。俗説は、「諸悪の根源」を角栄に被せて嬉々としているが、真の意味で「諸悪の根源」を云うならば、この時の福田采配に求めるべきではなかろうか。その福田は、「この国債発行で1965年度の日本の財政は赤字がゼロになり、福田蔵相の手腕が評された」というおまけつきの評価を得ている。自称インテリ達の底の浅さを物語る逆裁定な謂いではなかろうか。

 「佐藤ー福田ライン」による戦後初の国債発行踏み切りは、ある意味で、ハト派系池田政治の所得倍増政策の成果を羨望し、対抗的に打ち出した人気取り政策であったように思われる。福田は以降一貫してその任にある時、国債発行促進政策を採用し続けることになる。れんだいこには、福田政治のこの手法は姑息に思われる。その禁を破って以来、国債発行が常態化していき、遂に雪だるま式症状へと突入していくことを思えば、踏み入ってはならないタブー破りではなかったか。その罪は重いというべきではなかろうか。それを、「(私が)四十年不況」に直面して決断した国債発行策は、今顧みても評価されるべきものがあるのではないか」と語って恥じない福田の識見の貧相さを見て取るべきだろう。それにしても、赤字国債の方から踏み込んでいった必然性が見えてこない。福田蔵相のこの政策を後押ししたのはどんな勢力なんだろうか、と考えざるを得ない。

 2005.1.16日 れんだいこ拝


(私論.私見) 「ウィキペディア1965年の政治 日本国債」の欺瞞的記述について
 2012.1.16日、れんだいこツイッターに、「国債発行も角栄さんの時から開始」なるツイートが舞い込んだ。その根拠を問うと、「ウィキペディア1965年の政治 日本国債」がリンク紹介された。これによると、「5月末頃、田中角栄蔵相、山一證券経営危機、日銀特融を決断。7月末頃 国債発行を決定」と記載されているからして、田中蔵相時代に国債発行されたのではないかとのロジックになっている。しかし、これは、「ウィキペディア1965年の政治 日本国債」の記述がオカシイ。意図的故意か単なる省略し過ぎかにつき判定難いが恐らく前者であろう。れんだいこは、かく推定する。国債発行は、「1965(昭和40).6.3日、山一證券事件処理後、第1次佐藤内閣第1次内閣改造が行われ、大蔵大臣が田中角栄から福田赳夫に代わって以降、佐藤首相―福田蔵相コンビで遂行されたものである。この史実を正確に確認しないといけないところ、敢えてミスリードするような書き方になっているのではなかろうか。許し難いと思う。

 2012.1.16日 れんだいこ拝
 大蔵大臣(現・財務大臣)・福田赳夫の国債解禁政策に論戦を挑み、政府を批判したのが社会党の木村禧八郎議員だった。木村議員は、1965年(昭和40年)12月25日の参議院予算委員会で質問に立って、福田大臣を追及した。このときの「木村―福田」質疑は、いま振り返ると、現在の日本へ警告に満ちている。

【1966(昭和41)年、佐藤内閣の福田蔵相の下で、今度は「建設国債」が発行される】
 1966(昭和41).8.1日、第1次佐藤内閣第2次内閣改造が行われ、福田蔵相が再任された。福田蔵相の通算在任期間は、1965.6.3日〜1966.12.3日。

 佐藤栄作首相、福田蔵相の下で、今度は堂々と66年度予算に組み込まれる形で、「歳入補填国債」を「建設国債」という名称に変更して発行した。「財政法4条1項の規定は国の経常経費に当てる目的で公債を発行することを禁止するものである。建設目的の国債発行は《但書》の範囲であるので問題はない」。発行額は7300億円。以降、毎年「建設国債」が発行されていくことになる。「赤字国債」発行は抑えられていた。1966年普通国債残高は9000億円、1967年普通国債残高は1兆6000億円、1968年普通国債残高は2兆1000億円。1969年普通国債残高は2兆5000億円。
(私論.私見) 「佐藤ー福田ライン」による戦後初の赤字国債、建設国債の発行踏み切りについて
 「佐藤ー福田ラインによる赤字国債、建設国債ともどもの戦後初の国債発行踏み切り」は正確に見据えられねばならない。

【1966(昭和41)年、佐藤内閣の水田蔵相の下で、】
 1966(昭和41).12.3日、第1次佐藤内閣第3次内閣改造が行われ、蔵相に水田三喜男がカムバックした。水田蔵相時代は、第2次佐藤内閣、第2次佐藤内閣第1次改造内閣を経て1968(昭和43).11.30日まで続く。

【1967(昭和42)年、佐藤内閣の水田蔵相の下で、】
 1967(昭和42)年、第2次佐藤内閣、第2次佐藤内閣第2次内閣改造で、水田蔵相が引き続き留任する。水田蔵相の通算在任期間は、1966.12.3日〜1968.11.30日。

【1968(昭和43)年、佐藤内閣の福田蔵相の下で、】
 1968(昭和43).11.30日、第2次佐藤内閣第2次内閣改造で、蔵相に福田赳夫がカムバックする。

【1969(昭和44)年、佐藤内閣の福田蔵相の下で、】
 

【1970(昭和45)年、佐藤内閣の福田蔵相の下で、再び「赤字国債」が発行される】
 1970(昭和45).1.14日、第3次佐藤内閣で福田蔵相が再任される。佐藤栄作首相、福田蔵相の下で、再び「赤字国債」が発行され、その後毎年計上されていくことになる。金融面で、日銀は積極的な金融緩和を推進し、公定歩合を69.9月のピークから、70.10月に6%へ、71年には4回引き下げて4.75%へ、さらに72.6月には4.25%へと急ピッチで引き下げていく。
(私論.私見) 「佐藤ー福田ライン」による赤字国債、建設国債の常態化について
 「佐藤ー福田ラインによる赤字国債、建設国債の常態化こそが史実であり、その責任は重いとみなすべきであろう。

【1971(昭和46)年、佐藤内閣の福田蔵相の下で、】
 福田蔵相が第3次佐藤内閣まで務める。福田蔵相の通算在任期間は、1968.11.30日〜1971.7.5日。

【1971(昭和46)年、佐藤内閣の水田蔵相の下で、大型補正予算が組まれる】
 1971(昭和46).7.5日、第3次佐藤内閣内閣改造が行われ、水田三喜男が再度カムバックする。

 8月、ニクソンショック。

 「いざなぎ景気」後の景気後退局面に入り、71年度一般会計予算は、前年度当初比18.4%増、うち公共事業関係費は19.7%増、財政投融資計画も19.59%増の積極財政となった。10月の円切上げ必至の情勢下、大型補正予算を決定するとともに年内所得税減税、財投追加を行なった。普通国債残高は、46年、4兆円。

【1972(昭和47)年、佐藤内閣の水田蔵相の下で、積極財政が敷かれる】

 1972年、佐藤栄作首相、福田蔵相の下で、 さらに積極財政が展開され、一般会計予算規模は前年度当初比21.8%増、公共事業関連費は26.4%増、財投計画は31.6%増となった。1972年普通国債残高は5兆8000億円。

 水田蔵相の通算在任期間は、1971.7.5日〜1972.7.7日。


【田中政権時代(1972.7.7日〜)】

【1972(昭和47)年、田中内閣の植木蔵相の下で、積極財政が敷かれる】
 1972.7.7日、佐藤首相の後任に田中が就任、田中政権が発足する。第1次田中角栄内閣蔵相に植木庚子郎が抜擢され同年12.22日まで続く。同日の第2次田中角栄内閣で愛知揆一が登用される。

 田中首相は、自民党総裁選挙出馬を前提に作成した野心的な政策ビジョンである「日本列島改造論」に則り、積極路線を推進する。3回にわたり追加刺激策が追加された。「日本列島改造景気」(1972.1月から1973.11月までの1年11ヶ月、23カ月)に入る。

 12.22日、第2次田中角栄内閣が組閣され、愛知揆一が蔵相に就任する。

【1973(昭和48)年、田中内閣の愛知蔵相の下で、引き続き積極財政が敷かれる
 1973年、73年度予算案も景気刺激的な積極財政策を採った。田中内閣による「日本列島改造景気」で、各種指標がうなぎのぼりに上がり、悪政的にインフレが進行していった。この時期、「福祉元年」政策で「老人医療費無料化」、2兆円減税が実現している。

 10.17日、第4次中東戦争勃発に伴い第一次オイルショックが発生し、石油の公示価格が乱昇する。石油価格上昇は日本も直撃、田中角栄内閣の「列島改造」によるインフレをさらに加速させた。その対策に追われる最中、11.23日、愛知蔵相が急逝する。愛知蔵相の通算在任期間は、1972.12.22日〜1973.11.23日。

 11.23日、第2次田中角栄内閣が行われ、田中首相が臨時的に蔵相を兼任する。

【1973(昭和48)年、田中内閣の福田蔵相の下で、緊縮財政に転換する
 11.25日、第2次田中内閣の第1次内閣改造が行われ、福田蔵相が登場する。

 73年秋、政策当局はインフレ抑制政策を強化し、金利の大幅引上げや窓口指導強化を行ない、財政支出削減を行なった。「列島改造計画」も棚上げした。74年度予算で、列島改造関連予算に大鉈を振るった。この年の消費者物価指数が23%も上昇、「狂乱物価」と呼ばれ、トイレットペーパーなどの買い占め騒動が起きたことを踏まえ、緊縮的なマクロ経済政策をとった。これにより、「戦後初のGDPマイナス成長」(▲1.2%))となり、税収ダウンした(法人税29%減少)。所得税の大減税として2兆円減税(昭和49年度分1兆7830億円、昭和50年度分1860億円)を実施した。田中の政治的ライバルの福田のインフレ対策であった。74年度予算は公共工事の実質3割カット等、戦後もっとも緊縮型になった。この間、41年度以降しばらくは赤字国債の発行は行われなかった。1973年、普通国債残高は7兆6000億円。

【1974(昭和49)年、田中内閣の福田蔵相の下で、緊縮財政を押し進める】
 福田蔵相が第2次田中角栄内閣第1次改造内閣の期間務める。福田蔵相の通算期間は、1973.11.25日〜1974.7.16日。

【1974(昭和49)年、田中内閣の大平蔵相の下で、緊縮財政見直しに入る】
 1974(昭和49).7.16日、第2次田中内閣第1次内閣改造が行われ、福田に代わって大平正芳が蔵相に就任する。大平蔵相は、第2次田中内閣第2次改造内閣、三木内閣を経て1976(昭和51).12.14日まで務める。


 11.26日、田中首相退陣表明。1974年普通国債残高は9兆7000億円。

(私論.私見) 「田中首相時代の赤字国債抑制政策」について
 田中首相時代、建設国債は発行されたようであるが、赤字国債の発行が抑制された。この辺りもう少し実証的に精査してみる必要があろう。

【三木政権時代(1974.12.9日〜)】

【1975(昭和50)年、三木内閣の大平蔵相の下で、再々度「赤字国債」発行に踏み切る】
 1974.12.9日、金脈問題で総辞職した田中首相の後任に三木が就任し、三木政権が発足した。蔵相は大平が続投。

 1975年、年初から不況の影響をうけて法人税、所得税を中心に税収が激しい落ち込みをみせ、74年度予算は歳入欠陥を別措置で切抜けた。しかし、75年度には歳入不足問題がさらに深刻化し、歳入不足は3兆円に上ると予想された。このため、三木首相ー大平蔵相の下で、「財政危機宣言」を発し、75.9月の第76臨時国会に補正予算案と財政法特例法案(「昭和50年度の公債発行の特例に関する法律」)を提出し、11月に成立させた。
田中角栄が首相をロッキード事件の影響から退任した直後に時限立法による「特例債」、つまり赤字国債を発行するようになったことになる。

 これにより、2兆2950億円の赤字国債と、追加の建設国債を発行し、補正後の国債発行額は5兆4800億円、財政の国債依存率は26,44%になった(この時は公債発行額約5兆3千億円(うち特例公債は約2兆3千億円)。公債依存度25.3%ともある)。

 こうして、75年度補正予算で赤字国債に再び手をつけた。1973年の第一次石油危機後に本格化したオイル・ショック不況による税収減を乗り切るという名目であった。以降、赤字国債発行が常態化し、1989年まで15年間毎年発行され続けていくことになる。


 8月三木首相が米国のフォード大統領と会談。11月、ランブイエで開かれた第一回主要先進国首脳会談。1975年普通国債残高は15兆円。

【1976(昭和51)年、三木内閣の大平蔵相の下で、
 月、サンフアン・サミット。直後、ワシントンで日米首脳会談。

 9.15日、三木内閣改造で、大平蔵相続投。

 12月、総選挙の敗北の責任をとって三木首相退陣。
 

 この年度は赤字国債3兆7500億円で建設国債も含めた国債依存率が29.9%の高率に達し、当初予算から初めて赤字国債が組み込まれていた。1976年普通国債残高は22兆1000億円。

 大平蔵相の通算在任期間は、第2次田中角栄内閣第1次改造内閣、第2次田中角栄内閣第2次改造内閣、三木内閣の1974.7.16日〜1976.12.14日。
(私論.私見) 「三木首相時代の赤字国債再発行政策」について
 三木首相時代、赤字国債が再発行されていった。その背景が検証されねばならない。

【福田政権時代(1976.12.24日〜)】

【1976(昭和51)年、福田内閣の坊蔵相の下で、】
 1976.12.24日、三木首相の後任に福田が就任し、福田政権が発足する。蔵相は坊秀男。坊蔵相は、1977(昭和52).11.28日まで務める。福田首相は、「景気回復」と「経済摩擦の解消」を課題に打ち上げる。

 
福田は、田中政権末期において緊縮型の予算を編成したが、2年後に自身が首相になると積極財政に向う。しかも、赤字国債の発行を本格的に開始する。「国債依存率が戦後初めて30%を超えてもやむをえない」とした。福田は、1977年の急激な円高の進行の中で、経済成長率を7%にする公約を掲げ、「建設国債、政府保証債、国庫債務負担行為を積極的に活用し、住宅建設および社会資本の大幅促進を図る」ために、世間が「15ヶ月予算」と呼んだ53年度予算編成と併せて52年度の2次補正大型予算を編成した。公共事業などの景気対策を切れ目なく執行することによって景気を回復させようという政策であった。単年度中の複数回の補正予算は、福田が蔵相として景気回復に取り組んだ40年度以来であった。

【1977(昭和52)年、福田内閣の坊蔵相の下で、割引国債が発行される】
 1977.1月、割引国債が発行された。以降、78.6月に中期国債(3年債)、79.6月に2年債、さらに80.6月に4年債が発行されていく。中期国債はともに公募入札制が導入された。又、83.2月に変動利付債(15年債)や83.99月に20年債なども発行される。このように国債大量発行が続く。赤字国債発行額は52年度が約3兆5000億円、53年度が約4兆5000億円に上り、建設国債を含めた国債依存率は30%を超えた。その結果、第1次オイルショックで49年にマイナス0・5%まで落ち込んだ実質経済成長率は、52年に4・5%、53年に5・4%まで回復した。

 3月、福田首相が最初の首脳会談。カーター大統領。

 ロンドン・サミット。

 坊蔵相の通算在任期間は、1976.12.14日〜1977.11.28日。

【1977(昭和52)年、福田内閣の村山蔵相の下で、】
 11.28日、福田内閣改造で、村山達雄が蔵相に就任する。1977年普通国債残高は31兆9000億円。

【1978(昭和53)年、福田内閣の村山蔵相の下で、赤字国債の大量発行が続く】
 7月、ボン・サミット。7%成長の為の積極的な財政運営。53年度予算の政府原案では、一般会計34兆円に対して、国債発行額は11兆円に迫り、国債依存率は32%に上昇した。1978年普通国債残高は42兆6000億円。

 1978(昭和53)年、G5の強い要請で78年度から大量の赤字国債の発行を続行した。不況が深刻化した76年から国債発行額は年々増加していく。国債発行という本来的には財政的禁じ手を恒常化させていった。

 塩田潮の「百兆円の背信」(講談社、1985年)は次のように記している。
 「『やりすぎの福田』は、景気刺激も奏功しないまま、在任中の2年間で、・・・歳出を4割増やし、国債の発行残高を22兆円から93%増の42兆円へ急膨張させた」(179P)。

「どこへ行く日本」は次のように断じている。
「福田はそれから10年後に内閣総理大臣となって日本国の財政を決定的に破綻させる端緒をつくることになる」。
「日本の借金財政は、石油危機後の難しい時期であったとはいえ、『経済の福田』の時代に泥沼にはまった」。
「福田内閣の時に、三木内閣の時の国債残高に比べて2年で倍増した。更に中曽根内閣の時に大平内閣に比べて倍増した」。
「福田は40年不況を公債発行によって乗り切ったことを、自画自賛したが、自分が首相になると更に公債依存政策を加速させて、現在の国家財政の危機的状況になる基礎を造った」。

 大蔵省幹部として福田に仕え、次官退任後は衆院議員に転身、経済企画庁長官を務めた相沢英之は次のように語っている。
 「福田さんは財政規律に厳しかった。皮肉にもその人が戦後初めて赤字国債を発行したわけだが、オレがやらねばという使命感があったのだと思う。政局より、国家をどうするかという大局を考える本物の政治家だった」。
(私論.私見) 「福田首相時代の大量国債発行政策」について
 福田首相時代、赤字国債が大量に発行されていった。その背景が検証されねばならない。
 村山蔵相の通算在任期間は、1977.11.28日〜1978.12.7日。

【大平政権時代(1978.12.7日〜)】

【1979(昭和54)年、大平内閣の金子蔵相の下で、】
 1978.11月、総裁選挙で福田首相が大平正芳に敗れ、「天の声にも変な声もたまにはある」との名言を残し、政権の座を降りた。

 1978.12.7日、福田首相の後任として大平が就任、大平政権発足、蔵相に金子一平が就任。金子蔵相は、第1次大平内閣の蔵相として1979(昭和54).11.9日まで務める。

 79年度予算を成立。実質経済成長率6.3%実現と経常収支黒字半減達成のために、大幅な財政支出拡大を組み込んだ。 

 第二次石油危機。イラン革命が引き金となって第二次石油危機が発生する。原油価格の高騰は、進行中の国際商品価格の上昇とともに、再び世界経済にインフレの高進と不況をもたらした。79年、80年には第二次石油危機の影響で巨額の経常赤字となる。

 1979年、公債発行額約13兆5千億円(うち特例公債は約6兆9千億円)。公債依存度34.7%。1979年普通国債残高は56兆3000億円。

 大平内閣時、一般消費税導入構想が打ち出されたが、総選挙の敗北とともに挫折した。

 6月、東京サミット。


【1979(昭和54)年、大平内閣の竹下蔵相の下で、】

 11.9日、第二次大平内閣で、竹下登が蔵相に就任。竹下蔵相は、1980(昭和55).7.17日まで務める。


【1980(昭和55)年、大平内閣の竹下蔵相の下で、】
 5月、日米首脳会談。経済問題では大平は内需拡大と市場開放で対米貿易黒字削減努力を約束、カーターはインフレ抑制、石油輸入削減、輸出促進で経常収支赤字減らしの努力を行なうとした。
(私論.私見) 「大平首相時代の財政再建政策」について
 大平首相時代、財政再建政策が導入されることになった。この辺りをもっと精査する必要があろう。

【鈴木政権時代(1980.7.17日〜)】

【1980(昭和55)年、鈴木内閣の下で、】
 7.17日、大平首相の後任として鈴木が就任、鈴木政権発足、蔵相は渡辺美智雄。渡辺蔵相は、鈴木内閣改造を経て1982(昭和57).11.27日まで務める。

 大平政権は財政再建の第一歩に踏み出す。福田時代の大量国債発行のツケに対して、財政再建が云われるようになり、1980年代の課題となった。鈴木内閣は、「1981(56)年度から毎年2兆円の国債減額を行い、1984(59)年度までに赤字公債の発行をゼロにする」、「1990(65)度までに赤字国債依存の脱却」を設定、ゼロ(マイナス)・シーリングの方針を立てて財政再建に取り組み、公共事業を抑制した。昭和53年度以降58年度まで所得税減税を見送る。「60年償還」に変更。しかし、80年にピークを迎えたあとも引き続き高水準を持続した。1980年普通国債残高は70兆5000億円。
(私論.私見) 「鈴木首相時代の財政再建政策」について
 鈴木首相時代、財政再建政策に本格的に着手することになった。この辺りをもっと精査する必要があろう。

【1981(昭和56)年、鈴木内閣の渡辺蔵相の下で、】
 1981(昭和56).3月、第2次臨時行政調査会発足。増税なき財政再建→歳出削減。

 11.30日、鈴木内閣改造で、蔵相に渡辺美智雄が続投。1981年普通国債残高は82兆3000億円。

【1982(昭和57)年、鈴木内閣の渡辺蔵相の下で、】
 1982(昭和57)年、57年度予算をゼロ・シーリングに組む。

【鈴木内閣の下で「臨時行政改革推進審議会」が設置される】
 1982.6月、鈴木善幸首相の時代、臨時行政改革推進審議会が設置され、経団連前会長で第二次臨時行政調査会の会長を引き受けていた土光敏夫氏が引き続き会長に任命された。

 1981年度の国債発行額は12兆8999億円で、うち赤字国債は5兆8600億円であったのが、82年度には国債発行額が14兆447億円、赤字国債が7兆87億円と膨らんでいた。1985年度からは国債の償還が本格的に始まることになっており、「財政再建」策が焦眉の課題になりつつ有った事情を反映していた。
1982年普通国債残高は96兆5000億円。

【中曽根政権時代(1982.11.27日〜)】

【1983(昭和58)年、中曽根内閣の竹下蔵相の下で、】
 1982(昭和58).11.27日、鈴木首相の後任に中曽根が就任、中曽根政権が発足、蔵相に竹下登が就任。竹下蔵相は、第2次中曽根内閣、第2次中曽根内閣第T次内閣改造、第2次中曽根内閣第2次改造改造を経て、1986.7.22日まで務める。

 1983.12.27日、第2次中曽根内閣で、蔵相に竹下が続投。

 中曽根内閣内閣の初予算となった83年度政府予算案」は、 一般会計1.4%増で50兆円乗せ。一般歳出は前年比マイナスの超緊縮財政の中で、防衛費だけ6.5%増で突出、GNP比率0.978%。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」と云われた。ODA(政府開発援助)は8.9%増で、韓国訪問の手土産に使われた。

 国債発行額は、13兆3450億円(建設国債が6兆3650億円、赤字国債は6兆9800億円)で、前年度当初より2兆9050億円多く、国債依存度は26.5%に上がった。1983年普通国債残高は109兆7000億円。 
(私論.私見) 「中曽根首相時代の赤字国債再発行政策」について
 中曽根首相時代、赤字国債が再発行され、以降再常態化することになった。口先の財政再建とは裏腹に今日的危機に繋がる政策を導入していった。この辺りをもっと精査する必要があろう。

【1984(昭和59)年、中曽根内閣の竹下蔵相の下で、】
 11.1日、第2次中曽根内閣の第1次改造で蔵相に竹下が続投。1984年普通国債残高は121兆7000億円。 

【1985(昭和60)年、中曽根内閣の竹下蔵相の下で、】
 1985年のプラザ合意(ドル高の是正)。円高と金利低下政策を生み出す。課も余り現象となり、これがバブル経済を生み出していくことになる。

 12.28日、第2次中曽根内閣の第2次改造で、蔵相に竹下が続投。1985年普通国債残高は134兆4000億円。 

【1986(昭和61)年、中曽根内閣の竹下蔵相の下で、】
 中曽根内閣の竹下蔵相の下で、

【1986(昭和61)年、中曽根内閣の宮沢蔵相の下で、】
 7.22日、 第2次中曽根内閣の第3次改造で、蔵相に宮沢喜一が就任。宮沢蔵相は、第3次中曽根内閣、竹下内閣の1988(昭和63).12.9日まで務める。

 1986.12月から1991.2月までの4年3ヶ月、53ヶ月、バブル景気に沸く。→ 平成不況。1986年普通国債残高は145兆1000億円。 

【1987(昭和62)年、中曽根内閣の宮沢蔵相の下で、】
 中曽根内閣の下で、6兆円を超える赤字国債が補正予算として組まれ、国債発行が再び増加し始める。内需拡大・民営化・行政改革を持ち出して、財政健全化を放棄した。「増税なき財政再建」という言葉と裏腹に、鈴木政権の下で1984年度までに赤字国債脱却の目標を設定ゼロ・シーリングの方針を立てて財政再建に取り組み、公共事業を抑制してきた政策が放棄された。1987年普通国債残高は151兆8000億円。 
(私論.私見) 「中曽根首相時代の大量国債発行政策」について
 中曽根首相時代、赤字国債、建設国債ともどもが大量に発行されていった。それは経済政策上の欲求として為されたものではなく、明らかに日本の国家財政の畸形化を促す政治政策として導入されたものである。その背景が検証されねばならない。

【竹下政権時代(1987.11.6日〜)】

【1987(昭和62)年、竹下内閣の竹下蔵相の下で、】
 11.6日、 中曽根首相の後任に竹下が就任。12.9日、竹下政権発足、蔵相を兼任する。1988(昭和63).12.24日まで続く。

【1988(昭和63)年、竹下内閣の竹下蔵相の下で、】
 竹下首相が、1988.12.9日〜12.24日まで臨時蔵相を務める。 

 1988.3
月には国債残高は153兆円にも達し、GNP43.6%を占めるまでになり、国債依存度は21%と高く、国債発行抜きにしては財政が成り立たない状況が出来上がってしまった。歳入の中に占める国債依存度が高くなり、歳出との間に構造的ギャップできてしまった


【1988(昭和63)年、竹下内閣の村山蔵相の下で、】
 12.27日、竹下内閣改造で、蔵相に村山達雄が就任。村山蔵相は、竹下内閣改造内閣、宇野内閣を経て1989(平成元).8.10日まで続く。1988年普通国債残高は156兆8000億円。 

【1989(昭和64)年、竹下内閣の村山蔵相の下で、】
 4月、「増税なき財政再建」という言葉と裏腹に消費税が導入された。日経平均株価の史上最高額3万8915円を記録。

 9月、日米構造会議。

【宇野政権時代(1989.6.3日〜)】

【1989(平成1)年、宇野内閣の村山蔵相の下で、】
 1989.6.3日、竹下首相の後任に宇野が就任、宇野政権が発足。蔵相に村山達雄が続投。

【海部政権時代(1989.8.10日〜)】

【1989(平成1)年、海部内閣の橋本蔵相の下で、】
 1989.8.10日、宇野首相の後任に海部が就任、海部政権が発足。蔵相に橋本龍太郎が就任する。橋本蔵相は、第2次海部内閣、第2次海部内閣改造を経て1991(平成3).10.14日まで務める。

 平成元年の通常国会で予算審議をした平成2年の予算は、一連の財政再建によって初めて赤字国債の発行がゼロになった特筆すべき予算となった。平成2年からしばらく赤字国債の発行額がゼロで続く。しかし、三木内閣時より再発行され続けた赤字国債は、この15年の間に建設国債も含め国債発行残高166兆円にも膨れ上がっていた。1989年普通国債残高は160兆9000億円。


【1990(平成2)年、海部内閣の橋本蔵相の下で、】
 1990.2.28日、第2次海部内閣が発足、蔵相に橋本龍太郎が続投。

 80年代の民営化路線(国有財産の売却)による86年から88年のNTT株の売却収入約10兆円を原資として、
1990年から1993年(平成2年から5年)まで赤字公債発行ゼロが実現した。

 
6月、先の日米構造会議を受けて公共投資基本計画作成。公共事業拡大路線がとられた。

 この年に湾岸戦争が発生し、その拠出金のために約1兆円の赤字国債を発行。

 12.29日、第2次海部内閣改造で、蔵相に橋本龍太郎が続投。1990年普通国債残高は166兆3000億円。

【1991(平成3)年、海部内閣の橋本蔵相の下で、】
 1991(平成3).10.14日まで、海部内閣の橋本蔵相の下で、。

【1991(平成3)年、海部内閣の海部蔵相の下で、】
 1991(平成3).10.14日、第2次海部内閣改造が行われ、海部首相が蔵相を兼任する。11.5日まで続く。

 バブルが崩壊して、不況が長引くなか、再び借金財政に戻る。「日米構造協議」でアメリカの強い要請が為され、内需=公共事業拡大策として、91年から10年間に430兆円の公共事業を約束する。それは、さらに95年から10年間にかけて630兆円に拡大される。

【宮沢政権時代(1991.11.5日〜)】

【1991(平成3)年、宮沢内閣の羽田蔵相の下で、】
 1991.11.5日、海部首相の後任に宮沢が就任、宮沢政権が発足。蔵相に羽田孜が就任。羽田蔵相は、1992(平成4).12.12日まで続く。1991年普通国債残高は171兆6000億円。

【1992(平成4)年、宮沢内閣の羽田蔵相の下で、】
 8月、総合経済対策。

 1992年普通国債残高は178兆4000億円。 1992年普通国債残高は178兆4000億円。

【1993(平成5)年、宮沢内閣の羽田蔵相の下で、
 1990年から1993年(平成2年から5年)にかけて赤字公債発行ゼロ。93年度から国債発行を16兆円へと増やした。これが始まりとなり、95年度に21兆円と大台を超える。以降急増していくことになる。

【細川政権時代(1993.8.9日〜)】

【1993(平成5)年、細川内閣の藤井蔵相の下で、
 1993(平成5).8.9日、細川政変により宮沢首相の後任に細川が就任、7党1会派による非自民連立の細川政権が発足した。蔵相に新生党の藤井裕久が就任。藤井蔵相は、細川内閣、羽田内閣を経て1994(平成6).6.30日まで務める。

 細川政権は当初は「赤字国債を発行しない」ことを政権公約の柱のひとつとしていた。藤井蔵相は「後世に恥を残す政策をとるべきできない」と、当初は赤字国債発行に反対した。予算の財源をめぐって政府・与党内で激論が続いた。1993年普通国債残高は192兆5000億円。

【1994(平成6)年、細川内閣の藤井蔵相の下で、
 1994(平成6).2.3日、細川首相が、税率7%の「国民福祉税」の導入構想を発表した。大型減税を実施する一方、その財源として税率3%の消費税を廃止し、社会福祉目的の間接税を作ろうというもので、赤字国債発行は、これを導入するまでの一時的な措置と位置づけられていた。だが、この構想には、消費税にも反対だった社会党が閣僚引き揚げをちらつかせながら猛反発。世論の批判も受け、細川は5日後の8日に撤回。結局、財源は確保できず、赤字国債発行だけが既定路線化していった。

 1994(平成6).2.15日、3兆1338億円の赤字国債発行を盛り込む6年度予算案を編成した。バブル経済の崩壊や円高などの影響で、日本経済は低迷し、税収も落ち込んでいた。また、5年には戦後最悪の冷害被害が生じ、コメ作況指数(平年作=100)は「75(著しい不良)」。これらに対応するため「赤字国債の発行再開はやむをえない」との判断に至ったことによる。藤井蔵相は後年、「私も最後は赤字国債発行に妥協した。経済の低迷に加え、冷害によるコメの不作に対策を講じるにはやむをえなかった」と述べている。

【羽田政権時代(1994.4.28日〜)】

【1994(平成6)年、羽田内閣の藤井蔵相の下で、
 1994.4.28日、細川首相の後任に羽田が就任、羽田政権が発足。蔵相に藤井裕久が続投。

【村山政権時代(1994.6.30日〜)】

【1994(平成6)年、村山内閣の武村蔵相の下で、】
 1994.6.30日、細川、羽田孜と続いた非自民連立政権は、発足から1年足らずで崩壊し、羽田首相の後任に村山が就任、自民、社会、新党さきがけによる連立の村山政権が発足した。蔵相に新党さきがけの武村正義が就任。武村蔵相は、村山内閣改造内閣を経て1996(平成8).1.11日まで務める。

 平成2年から平成5年度までいわゆる赤字公債を発行しなかったが、平成6年度に再び特例公債を発行する。その後各年度において特例公債の発行を余儀なくされていくことになる。平成6年以降今日まで赤字公債が止めどなく増えていく。1994年普通国債残高は206兆6000億円。

【1995(平成7)年、村山内閣の武村蔵相の下で、】
 1994(平成6)年、村山税制改革のもとでの所得税先行減税。

 中央政府国債291.8兆円(建設国債142.4、赤字国債60.9)地方自治体99.3.合計391.1。

 4月、情報通信・科学技術分野の振興を名目に補正予算で赤字国債の発行を決定。これを境に、赤字国債へ依存する第二次財政危機の時代に入る。減税特例公債とか震災特例公債とかなんとか理由を付けながらいわゆる赤字国債を再び発行する。

 8.8日、村山内閣改造で、蔵相に武村正義が続投。

 9月、経済対策。

 1992.8月の総合経済対策から95.9月の経済対策まで景気対策に努め、主として公共事業へのてこ入れ。財源のほとんどが建設国債の発行で賄われた。

 11.14日、武村蔵相の下で、大蔵省は、96年度予算編成に当たり、11兆5200億円前後の財源不足に陥ると発表した。武村蔵相は赤字国債の大量発行に踏み切るとの見解を表明。バブル経済による税収の急増で、赤字国債的体質から脱却して7年ぶり。.中央政府国債329.4兆円(建設国債158.0、赤字国債62.8)、地方自治体112.7、合計442.1
1995年普通国債残高は225兆2000億円。

【1996(平成8)年、村山内閣の武村蔵相の下で、】

【橋本政権時代(1996.1.11日〜)】

【1996(平成8)年、橋本内閣の久保蔵相の下で、】
 1996(平成8).1.11日、年初早々村山内閣が退陣。村山首相の後任に橋本が就任、橋本政権が発足。蔵相に日本社会党の久保亘が就任。久保蔵相は、1996.11.7日まで務める。

 当初予算で多額の赤字国債の発行。

 5.16日、橋本首相と財政制度審議会、社会保障制度審議会、政府税制調査会、経済審議会の4機関のトップ懇談会が開かれ、大蔵省管轄の財政制度審議会中心に改革を与えることを決めた。 1996.7月、財政制度審議会構造改革特別部会が、中間報告を答申。11月、行政改革会議かせ発足。橋本首相が、財政改革を内閣の重要課題に据えると表明。

 国債残高240.5兆円、国債費16.4兆円、借換債26.6兆円。見通し。2000年、333、22.8、29.2.2003年、426、26.4、38.9.。2006、544、31.5、38.8.

 中央政府国債360.9兆円(建設国債163.2、赤字国債69.3)、地方自治体122.5、合計483.4.

【1996(平成8)年、橋本内閣の三塚蔵相の下で、】
 11.7日、第二次橋元内閣で、蔵相に三塚博が就任。三塚蔵相は、第2次橋本内閣改造を経て1998(平成10).1.28日まで務める。

 92年度から96年度までの5年間で69兆円の国債の増発に追い込まれた。1990年代中葉からの発行額は過去の大量発行時代をさらに超える規模となった。銀行という中毒患者ですら消化しきれなくなり、政府の資金運用部と日銀のリリーフを仰ぐことを余儀なくされた。96年度予算では7年ぶりに償還財源の手当てのない赤字国債の大量発行を余儀なくされた。

 1996年普通国債残高は244兆7000億円。1996年の国債及び借入金並びに政府保証債務現在高は、国債及び借入金現在高が343兆6000億円。

【1997(平成9)年、橋本内閣の三塚蔵相の下で、】

 9.11日、第二次橋元内閣の改造で、蔵相を三塚博が続投。三塚蔵相の通算在任期間は、第2次橋本内閣、第2次橋本内閣改造内閣を経て、1996.11.7日〜1998.1.28日。

 現在、国債発行残高は
389兆円であり、一般会計の税収分の約8年分である。歳入に占める国債の割合(国債依存度)384%であり、歳出に占める国債の利払い費(国債費)の割合は25%と先進国の中でもトップの最悪水準である。

 1997(平成9)年、消費税率5%に引き上げ。建設公債9兆2370億円。赤字公債7兆4700億円公債依存度21.6%。国債の元利返済のために16兆8000億円計上。利払いだけで11兆7000億円。

 1997年度の財政投融資計画は51兆3571億円、国の一般会計・一般歳出当初予算43兆8067億円を上回る規模に達している。国家予算77兆円。16.7兆円(7.5兆円の赤字国債)の国債発行折込。

 「1997年度末の日本国の公的債務一覧」に拠れば、中央政府が384.2兆円(普通国債254.2兆円)、地方自治体が131.7兆円、。合計515.9兆円。その他、国家関連債務が63.1兆円あり、総額579兆円。国民一人当たり463万円の借金を抱えていることになる。公的債務対GDP比率112%。

 11.28日、「財政構造改革法」(「財政構造改革の推進に関する特別措置法」)が臨時国会で成立。赤字国債の発行を抑制することなどによって、現在の財政赤字を是正しようとするもの。1・2003年度までに赤字国債発行をゼロにする。2・2003年度までに国と地方の財政赤字を対GDP比で3%以下にすることを指針させた。

 中央政府国債384.2兆円(建設国債171.6、赤字国債74.6)、地方自治体131.7、合計515.9。

 1997年普通国債残高は258兆円。1997年の国債及び借入金並びに政府保証債務現在高は、国債及び借入金現在高が368兆5000億円。

【1998(平成10)年、橋本内閣の橋本蔵相の下で、】

 三塚辞任後1998.1.28日、第2次橋本内閣改造が行われ、橋本首相が蔵相を兼務する。1.30日まで務める。


【1998(平成10)年、橋本内閣の松永蔵相の下で、】
 1998(平成10).1.30日、第2次橋本内閣改造が行われ、松永光が蔵相に就任する。松永蔵相は、7.30日まで務める。

 5月、「財政構造改革法」が不景気な経済の現状に合わないとして改正され、財政健全化の目標も2005年まで延期された。

【小渕政権時代(1998.7.30日〜)】

【1998(平成10)年、小渕内閣の宮沢蔵相の下で、】

 1998.7.30日、橋本首相の後任に小渕が就任、小渕政権が発足。蔵相に宮澤喜一が就任。宮沢蔵相は、小渕内閣第1次改造内閣、小渕内閣第2次改造内閣、第1次森内閣、第2次森内閣、第2次森改造内閣、第2次森改造内閣 (省庁再編後)、を経て2001(平成13).4.26日まで務める。

 1998年、98年度度予算が2.4日に成立。国債発行額は予算ベースで15兆5570億円。1兆480億円の赤字国債の発行。これに小渕政権が公約したばかりの7兆円の減税が加わる。さらに金融機関救済の30兆円枠があり、これに過去の借換分が15兆円控えている。合計すると年間の予算に匹敵する金額である。元金を返済してこなかったつけがこうやって経済危機を増幅しているのである。

 5.29日、「財政構造改革法」が改正される。財政健全化目標の達成年度を2003年度から2005年度に延長し、経済情勢に応じて弾力的に赤字国債が発行できるようにした。 11年度当初予算の社会保障関係費の量的縮減目標を「おおむね2%」から「極力抑制」へ 。  6.17日、補正予算が成立。2兆100億円の赤字国債が追加発行され、当初予算と合わせた赤字国債の発行額は、9兆1400億円となった。97年度の補正後の発行実績を9000億円上回った。「財政構造改革法」は完全に吹き飛ばされた。

 1998年普通国債残高は295兆2000億円。1998年の国債及び借入金並びに政府保証債務現在高は、国債及び借入金現在高が426兆9000億円。


【1999(平成11)年、小渕内閣の宮沢蔵相の下で、】
 1999.1.14日、第一次小渕内閣改造で、蔵相に宮澤喜一が続投。

 99(平成11)年度当初予算では31.5兆円(建設国債約9.3兆円、赤字国債約21.7兆円)と急増。「景気対策としての定率減税+恒久減税」。減税規模(平年度)4.1兆円(国税 3.0兆円、地方税 1.1兆円。国債発行額は、約37兆5000億円(公債依存度 42.1%)。

 平成11年度に於いて、赤字国債発行額24兆3476億円で過去最高。国債発行の全体額も37兆5136億円、これも過去最高。建設国債と赤字国債のバランスが崩れ、赤字国債が上回る。小渕首相は「世界一の借金王」と平気でうそぶく。

 国債に短期の借入金まで含めると国の借金残高は501兆円。2000年度末に544兆8419億円(645兆円説もあり)に達する見込み。この額は国民一人当たり510万円になる。このうち普通国債は、99年度に321兆円(うち建設国債197兆円、赤字国債115兆円)、2000年度見込み残高は364兆円(うち建設国債203兆円、赤字国債137兆円)。1999年から2000年までの1年間に借金残高が43兆円余増えたことになる。

 10.5日、小渕内閣第二次改造で、蔵相に宮澤喜一が続投。

 11月、「経済新生対策」を機に、18兆円不況対策の財源をまかなうために、第二次補正予算で7.5兆円の追加発行。99年度の国債発行額は38.5兆円となる。

 1999年普通国債残高は331兆7000億円。1999年の国債及び借入金並びに政府保証債務現在高は、国債及び借入金現在高が477兆7000億円。

【2000(平成12)年、小渕内閣の宮沢蔵相の下で、】
 2000年度予算では当初から32.6兆円(うち赤字国債23.5兆円)と国債発行を認めまた。 5年国債を新たに発行。

【森政権時代(2000.4.5日〜)】

【2000(平成12)年、森内閣の宮沢蔵相の下で、】
 4.5日、小渕首相の後任に森が就任、森政権が発足。蔵相に宮澤喜一が続投。7.4日、第二次森内閣で、蔵相に宮澤喜一が続投。12.5日、第2次森内閣改造で、蔵相に宮澤喜一が続投。

 2000年度末現在の長期債務残高(国・地方合わせて645兆円)。国内総生産(GDP)比は、戦争末期の1943年の水準(133%)に匹敵するまでになっている。

 2000(平成12).12.11日、「財政構造改革の推進に関する特別措置法停止法」成立。財政構造改革法全体の施行を当分の間停止した。2000今年度の国債依存度は38.4%。

 国債に短期の借入金まで含めると国の借金残高は、99年度は第二次補正予算後に501兆円。大蔵省の最新の発表によると、2000年度末に544兆8419億円に達する。普通国債は、99年度に321兆円(うち建設国債197兆円、赤字国債115兆円)、2000年度見込み残高は364兆円(うち建設国債203兆円、赤字国債137兆円)となる。この一年間に借金残高が43兆円余も増えた。

 日本の長期債務残高は、2000年度に645兆円という巨大な額に達する。この額は国民一人当たり510万円になります。これは、国内総生産と比べて130%にあたる。
 それによると国債が一日あたり542億円強ずつ増えている。19日間で1兆円増え、一年間には20兆円弱も増える勢い。2月末日の一世帯あたりの国債負担額が719万円、これも1年あたり45万円ずつ増えている試算になる。

 2000年普通国債残高は367兆6000億円。2000年の国債及び借入金並びに政府保証債務現在高は、国債及び借入金現在高が522兆円、政府保証債務現在高が55兆7000億円。

【2001(平成13)年、森内閣の宮沢蔵相の下で、】 
 1.6日、中央省庁再編後、蔵相に宮澤喜一が続投。

 2001(平成13)年、平成13年度補正後予算。公債発行額30兆円。財務省のホームページによると小泉元首相就任の2週間前、平成13年3月末の「国債及び借入金」の現在高は、538兆3863億円。平成13年度の国債残高の明細は下記の財務省HPで確認できる。http://www.mof.go.jp/gbb/1c020t.htm

 以下、「戦後国債発行史その2」に記す。




(私論.私見)