世の対立の真相としての思想闘争考 |
(最新見直し2013.03.18日)
【世の対立の真相としての思想闘争考】 |
「思想考、思考の嗜好性について」、「思観、史観、史眼考」を受けて本稿に入る。「世の対立の真相としての思想闘争考」と云う標題を掲げ、その論考に挑んでみる。 一般に命題は、マクロのものになればなるほど解析が難しい。そこで命題を要素化させ、その個別要素ごとに分析すると云うのが普通にやられていることであるのも致し方ない。問題は、その個別分析が最終的には全体解析に結び付けられなければならないところ、往々にして個別分析に止まるきらいがあることにある。しかしこれは仕方ないかも知れない。或る人に分析能力と総合能力の二つを合わせ持つのを願うのは酷かもしれない。人の頭脳には得手不得手があり、人は分析派と総合派に別れるのかも知れない。そこで、大命題を大命題のままに問い解析する者の登場が望まれることになる。この際、総合派に願うことは、分析派の営為を尊重し、その上で総合解析してくれることであろう。或いは分析派の分析能力を大きく超え、分析派の営為を正しい軌道に乗せる為の指針をつくってくれることであろう。 こういうことができる総合派が史上に現われるのは千年に一人と思われる。歴史に残る宗教的開祖がこれに値する。インドの仏陀、中国の諸子百家、日本では役行者、西欧ではモーゼ、イエス、マホメット。 2013.03.23日 れんだいこ拝 |
東洋と西洋では寿命観が決定的に違う。ここを無視して、東洋人が西欧学を下手に学んでもろくなことにならない。田吾作が下半身を肥え担ぎスタイルのまま上半身を蝶ネクタイで背広着て宴会に出て居るようなものと思えば良い。 |
(私論.私見)