思想考、「思考の嗜好性」について |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).5.13日
【「思考の嗜好性」について】 |
気づいたことを書き留めておく。れんだいこは、我がホームページ「人生学院」サイト上にかなりのテーマに対し、既成の理解とは異なる論点を数多く提供してきている。それは何も奇をてらったものでもれんだいこの売り込みを狙ってのものではない。そういう意味では、もっと押し出しすれば良いと思われるほど控えめだから、れんだいこのこの気持ちはそのままに受け取られるべきだろう。 それはそれとして、れんだいこが云いたいことは次のことである。主として左派圏に向けられたものだが、れんだいこ思想観(以下、これを仮に「れんだいこ思観」と命名する)、れんだいこの歴史観(以下、これを仮に「れんだいこ史観」と命名する)は、かなり衝撃的な内容を随所で公開している。当初の労作からもう3年以上になる。しかし、全くと云ってよいほど反応がない。然るべきところからない。ないのは構わないのだけれども、れんだいこ思観、史観より前段階のそれらが相変わらず平気で開陳され続けていることが腑に落ちない。 連中がもしれんだいこ論文集に行き当たってなくて読んでないのなら構わない。しかし、「蛇の道はヘビ」と云って嗅覚で寄って来るとしたもんだ。その嗅覚が悪くて読んでいないのなら構わない。単にそれだけのことであろう、しかしセンサーが悪いということにはなる。付言すれば、センサーが良くないということは、左派運動にとっては特に致命的ではある。そういう折柄、自ずと幾十人かの人達と交流を保てるようになったのは幸せである。 問題は、次のことにある。読んでいて、異論があるのに異論を提起をせず、相変わらずの懐メロを説き続けているとしたら、こういう人士って果たして学問的だろうか、真摯的と云えるだろうか。仮に、れんだいこ論文集の内容がお粗末の極みでまともに相手するに足らずというのであれば、逆に手前達の論文が内容豊かであることを証せねばなるまい。 れんだいこは、学者が難解晦渋に語る癖があるのは承知している。しかし、その難解晦渋さから滴(したたり)落ちる知恵について感心したことは滅多にない。むしろ、自称インテリのお里が知れてしまうほどの凡俗さ退屈さをカモフラージュせんが為に意図的に難解晦渋にしている例の多さに驚かされている。おっと、こういうことが云いたいのではない。 れんだいこが云いたいことは次のことである。以上を踏まえると我々は次の事実を確認せねばならないのではなかろうか。「人は一体、論が正しいかどうかというよりは、自分が寛げる論に依拠して論を張っているだけなのではないのか」。「持論を覆さねばならないほどの弁証法的発展に耐えるほど頭脳トレーニングする人は滅多にいないのではなかろうか」。「三年一日の否十年一日の持論を振りまき、同調者に愛想振りまき、異論者を敵意するそういう癖があるばかりではなかろうか」。 れんだいこは、以上のような思考の癖を「思考の嗜好性」とみなそうと思う。それを是非論で悪いとか良いとか云おうとしているのではない。人にはそういう癖がある、ということを指摘したいのだ。むしろ、そういう癖を踏まえて、それでも何がしかの弁証法的発展を期する為に、何をどうすれば良いのかを探りたい、というところに真意がある。 その手段を煎じ詰めれば、原則的なことばかりが抽出されるように思われる。人であれ本であれ良き師に出会うこと、そういう人士との不断のトレーニングさてまた自己研鑽により理論と実践の検証を交互作用的に為し続けていくこと、課題を正面から引き受け姿勢を正して処することという公理的なことが浮かんでくる。 しかし、それを如何にわが身に引き受けるのか受けないのかも、その人の癖とか性分、性格に関係しており、ひいてはそれらを踏まえた能力問題に帰着する。だから、指摘してみてもあまり役に立たないかも。 この観点に照らすと、れんだいこ論文集で指摘された数々の既成観念の転換指令に無頓着なままに相変わらず壊れたテープレコーダーの如くに百年一日の理論、見解、実践に依拠しつつ左派運動圏内に棲息する連中は、よほど無能力と云われねばならないだろう。こういう連中の屯(たむろ)する左派運動が首尾よく進展することなぞ有り得ないだろう。せいぜい体制内云いたいことだけ云う派あるいは旗本偏屈男のままに自己悦楽的な生涯を経るだけのことだろう。もっとも、この指摘は、左派運動圏にだけ向けられ通用するというものではない。一事万事で仕事にも何もかもに云えることだろう。 そういう人生が良いか悪いかということではない。そういう人士をそれとして認め、れんだいこは、れんだいこの癖、性分、性格、能力からして別の道を歩みたい、そして道連れを求めたいと思う訳である。それが、れんだいこにとっては最も自然なのだ。この自然のままに生きるのが一番幸せなのだ。考えてみれば、れんだいこは、この欲求を阻害するモノに対して、それが人であれ集団であれ国であれ社会であれ体制であれ、それらのモノに向かって闘っているのかも知れない。 れんだいこは、欲を云えば、この道連れを増やしたい、叶うなら幾何級数的に爆発させたい、そういう世の中がどんな風になるのか責任を持って処してみたい、と願うばかりである。そうしているうちに、その途上のどこかの地点でお迎えがやって来るだろう。そういう人生を経てみたいと思っている。 何やらもやもやした思いのままに書き付けてみた。これを読み賛同される方が居られれば書き付けた値打ちがあったことになる。 2004.2.1日 れんだいこ拝 |
【「思想の共時性、物質性、共有性」について】 |
「思考の嗜好性」に言及しえたら次のテーマに向わねばならない。それは「思想の共磁(時)性、物質性、共有性」である。「思想の共磁(時)性」とは、同じ時代の共鳴性のことであり、「思想の物質性」とは、思想の実在力性とも言い換えることができ、「思想の共有性」とは、その語彙の通りである。 こうなると、思想は、特殊な光芒を放っているように思える。まさに「思想は包丁である。調理するには便利なものだが振り回すものではない」ということになる。思想とは、人間種族にとって根源的なもので、これを曖昧模糊にする共同が良いという訳ではない。互いが思想を鍛えて共同することが本来望まれている。 但し、思想には陥りやすい罠がある。これを観念論的に構築し過ぎると、人が頭で立っているかのような転倒理論に嵌(はま)ってしまう。マルクスは、ヘーゲル哲学との弁証を通じてこのことを指摘している。れんだいこは、これはよほど貴重な指摘のように思う。問題は、頭で立つ思想、哲学を排除すれば解決するというものではないことにある。思想は、まさしく人が二脚の足で立ち、その頭部の頭脳で紡ぎだすという原理原則に則り磨かねばならない。なぜなら、人の人たる所以はやはり脳髄活動の中に色濃く認められるのだから。 このことを弁えた上で、思想は、時代の枠組みの中で、且つ闘争的且つ釣り合い的調和概念で理解されねばならないように思える。俗に、イデオロギー論とは、この地平で述べられている、とれんだいこは解する。 この問題が如何ほど重要なのか。実は、マルクス主義的階級闘争論より根が深く、こちらの方がより根源的な闘いではないか、とさえ考えている。つまり、「人類は階級闘争の歴史である」は、「人類は思想闘争の歴史である」と云い代えても何ら遜色ないと考えている。それほど重要なのが思想であるということが理解されれば、れんだいこの思いは通じている。何を観念論的なことを云いやがると批判されるようなら、その御仁はこの問題の重要性を分かっていないことを証左している。れんだいこはそのように考えている。 ならば、思想闘争の実態とはどういうものなのか。これを明らかにする。 思想は自由で良い。いろんなものの見方、考え方があって良い。但し、思想は常に吟味されねばならない。その吟味は、不断に質が問われ検証されねばならないと考える。単なる云いっ放しのようなものは思想足り得ないと思う。ならば、質はどのようなもので測られるべきか。ここが問題である。「思想は自由で良い。いろんなものの見方、考え方があって良い」以上、測ること自体が忌避されるべきではないかと云う考え方が生まれる余地がある。しかし、果たしてそうだろうかと問わねばならない。これが思想の質論の始まりとなる。 (以下略、気の向くまま)。 2005.4.4日、2011.6.8日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)