昭和時代史3、2.26事件までの流れ(1931年から1935年)


 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).12.16日

 【以前の流れは、「昭和時代史2、満州事変騒動(1931年から1932年)」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部-南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。

 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。


【5.15事件】
 5.15日、午後5時過ぎ、海軍将校と陸軍士官候補生9名による首相官邸襲撃事件が発生。白昼堂々、犬養毅首相が射殺(享年77歳)された。これを5.15事件と云う。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。

 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。

 「日本国民に檄す。日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事! 何処に皇国日本の姿ありや。政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と、悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と! 日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ。武器を執って! 今や邦家救済の道は唯一つ『直接行動』以外の何物もない。国民よ! 天皇の御名に於いて君側の奸を葬る屠れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を鷹懲(ようちょう)せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ! 農民よ、労働者よ、全国民よ! 祖国日本を守れ。 而して、陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を活用し、朗らかな維新日本を建設せよ。民衆よ! この建設を念願しつつ先ず破壊だ! 凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ! 」。

 この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい)

 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。

【「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)】
 「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)とは、西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924-1932)に積み重ねた政権交代方程式「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例を云う。しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのはその内閣が失政によって倒れたときだけである。
内閣名 政権与党/野党 内閣総辞職理由
24 第一次加藤高明内閣 憲政会・政友会・革新倶楽部/ 政友・革新閣僚による閣内不統一。
25 第二次加藤高明内閣 憲政会/政友会 加藤首相病死。
26 第一次若槻礼次郎内閣 憲政会/政友会 緊急勅令案否決。
27 田中義一内閣 政友会/憲政会(民政党) 張作霖爆殺事件処理の不手際。
28 濱口雄幸内閣 民政党/政友会 濱口首相テロで重傷。
29 第二次若槻礼次郎内閣 民政党/政友会 安達内相による閣内不統一。
30 犬養毅内閣 政友会/民政党 五・一五事件による犬養首相横死。

 犬養首相がテロで倒れたとき、西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図した。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。結局、戦前期において再び政党内閣が復活することはなかった。

【犬養毅内閣→斎藤内閣】
 犬養首相の兇変直後、高橋是清蔵相が首相を臨時に兼任し内閣総辞職を行う。

 5.26日、次の首相に斉藤実海軍大将が就任し斎藤内閣が成立した。「自立更生」をスローガンに発足した。政友会から3人、民政党から2人を閣僚に入れ「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。

 この人事に反対だった近衛は次のように評している。
 「政治の責任者は責任をとれる者でなければ駄目だ。軍部がその善悪は別として事実上の政治推進者であるのに責任をとらない。従って、軍部に責任を負わせて組閣させるか、そうでないのならあくまで政党内閣を貫くべきだ。どっちつかずの中間内閣は不可だ」。

 議会側では政党内閣が後退し、憲政の危機と認識、政党のあり方をはじめ議会政治の改革のため、秋田清衆院議長の提唱により「議会振粛委員会」が設置された。副議長の複数制や委員会制度の改革、明治以来の議会慣行の改革が議論されたが、成果を得るに至らなかった。この議会改革が実らなかったことが、戦時体制へと進む要因のひとつとなった。


 5.31日、塘沽停戦協定締結。これにより支那との紛争を抑えた。その後、内大臣府秘書官長の木戸幸一は永田鉄山と結託し、皇道派を潰して「華北分離工作」を強行! する。

 6.29日、警視庁特高課が特別高等部に昇格。


【リットン委員会が再度現地調査】
 7.4日、リットン委員会は再度来京して、北京に向かった。

 7.18日、日本軍が熱河浸入。


 7月、朝陽寺事件―または石本権四郎事件。満州国」の阿片専売のため良質の「熱河アヘン」入手のキーマンとして任命された(関東軍嘱託)石本権四郎が朝陽寺付近で拉致される。もと大連市長の兄鏆太郎(かんたろう)の手で捜索、遺体発見。下関から東京まで遺体搬送列車の行く先々で朝野を挙げて追悼集会。石本権四郎の履歴は次の通り。高知県出身、日清日露戦争で通訳。大正5年の第2次満蒙(まんもう)独立運動に参加。台灣總督府鴉片煙膏製藥所をへて、清国関東州でアヘンを製造。大正4年衆議院議員、大連市長。


 7月、合法的社会主義政党である社会大衆党結党。


【政府が満州国を承認】
 9.15日、斎藤実内閣は、日満議定書に調印して満州国を承認している。日本軍が満州国内に駐留するようになる。

【リットン委員会が、現地調査報告書を日本政府と国際連盟に提出】
 9.1日、リットン報告書が日本政府に手渡される。

 10.1日、リットン委員会が現地調査報告書を国際連盟に提出、10.2日、発表される。満州事変の契機となった日本軍の行動を正当な自衛権と認めないことを中心とする報告書を提出。国際連盟は19カ国委員会を設け、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況となった。

 リットン報告書には、「満州は他に類例の無い地域であり、満州事変は一つの国が他の国を侵略したとか、そういう簡単な問題ではない」とも書かれており、報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化した。

 10.6日、赤色ギャング事件。共産党員による銀行強盗事件だが、共産党側は当局のスパイによって扇動された謀略と主張。


 10.30日、司法官赤化事件東京地裁尾崎陞判事らを共産党シンパとして検挙される。


【松岡首席全権の国連総会演説】
 10月、松岡洋右が首席全権として国連総会に向け派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選であった。12.8日、到着早々の松岡は、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行った。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、概要「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨のものだった。この演説は逆効果であったともいわれるが、松岡演説が史実に刻んだ意味は大きい。

 11.3日、共産党中央委員の岩田義道が虐殺させられる。


 12.8日、山海関で日華両軍衝突。


 11.12日、熱海事件[共産党全国代表者会議の直前に一斉検挙]。


【皇道派と統制派の対立】
 この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月、真崎甚三郎が参謀次長、柳川平助が陸軍次官、林銑十郎が教育総監に就任している。そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。これが皇道派となる。

 他方、皇道派に対抗する格好で統制派が生まれた。統制派とは、1931(昭和6)年10月に橋本欽五郎ら桜会の中堅将校が計画して未遂に終わった「10月事件」以降、そのグループの流れを引いており、新官僚と結び、政財界に接近して作り上げた派閥である。彼らは、皇道派幹部の派閥人事や青年将校によるクーデター計画は軍の秩序を乱すと攻撃し、軍の統制を主張したことから統制派と呼ばれた。

 皇道派の社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する」と言うものであった。その具体的手法として、私有財産の制限、土地の国有化等々の一見社会主義的政策を掲げていた。なお、一旦天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうと構想していた。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、共産主義と国粋主義を結合させた独特の理論を展開していたことになる。

 北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である」としていたようである。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちであり、その部隊の兵士も徴兵された貧しい一般市民・農民出身者がほとんどであった。現実の国民の窮乏を肌身で感じ取っており、北一輝に共鳴する土壌があったということになる。とはいえ、20代,30代の青年の集まりで、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動に過ぎなかったという恨みがある。

 荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍を支持していた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
 「本件に参加したのは、若者ばかりである。こうした純真な青年たちがこうしたことをやった心情を考えると、涙の出る思いがする。彼らは名誉や私欲のためにやったのではない。真に皇国のためになると信じてやったことである。だからこの事件を事務的に処理すべきではない」。

 両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれた。このほかのメンバーには小畑敏四郎・山下泰文などがいた。

 これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派であった。彼らは、次のように主張していた。
 「軍人の政治活動は軍人勅諭によって禁じられた事であり、軍人は全て組織の統制に従うべきである。そんなことを認めれば国家のためになるなら、上官の命令に反抗しても良いことになる。これでは軍の規律が緩んでしまう。厳しく統制することにより、国家の危急に備えなければならない」。

 皇道派の運動に憂慮を募らせていた。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章などで、陸軍省エリート幕僚を中心としていた。

 永田は皇道派を次のように批判している。
 「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、清竜刀式頭脳、まだ残って居ること、及び過度に日本人の国民性を自負する過誤に陥って居る者の多いことが危険なり。国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造が出来ないのが欧米と日本との国情の差中最大のものなるべし、此の欠陥を糊途するため粉飾するために、負け惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるは、止むを得ぬ事ながら、これを実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」。

 陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた。

 陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことはできず議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失った。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買った。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。

 新官僚と言われたの者達の中には、国維会グループ、岸信介などの満州組グループ、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ていた。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と結びついてゆくことになった。(「あの戦争の原因」)

1933(昭和8)年の動き

(この時代の総評)

 重臣・財閥・政党の指導者を一斉に暗殺して、軍政府樹立を企画した、右翼団体によるクーデター計画が発覚する。「神兵隊事件」

 1月、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が紅軍に対して抗日戦線の構築を命じる指令を下達。しかし、この頃国民党政府は抗日戦争には向かわず、江西省瑞金に築かれていた朱毛紅軍の本拠地へ攻撃を開始し始めたため、抗日戦の構築は進まなかった。


 1月、大塚金之助、河上肇の検挙。


 1.30日、ヒットラーが首相に就任。


 2.4日、教員赤化事件。長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙開始。4月までに65校138名検挙。


 2月、昭和天皇が、「近衛文麿と共に平泉澄博士と会食、大学の赤化状況を聞く」(木戸幸一日記)。


 2月、近衛は、「世界の現状を改造せよ」と題する論文を発表し、文中次のように述べている。

 「今や欧米の世論は、世界平和の名に於て日本の満洲に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振りかざし或は不戦条約を盾として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさへある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは、日本に非ずしてむしろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。ただ、日本は此の真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来に於て実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」。

 2.20日、斉藤実内閣が、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げ、国際連盟脱退も止むなしと決めた。


 2.20日、小林多喜二が検挙され警視庁築地署で虐殺される。


 2.24日、国連総会で、リットン報告書の採択が為され、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決、松岡洋右は、予め用意の宣言書「十字架上の日本」を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで国際連盟総会会場を退場した。


 2.23日、日本軍、熱河省侵攻。2.25日、関東軍が熱河討伐声明。


 3月、満洲国が阿片専売制度。


 3.4日、ルーズベルト大統領就任。「ニューディール政策」[救済(Relief)・復興(Recovery)・改革(Reform)の3R政策]を掲げた。


【国際連盟が、リットン報告書を採択】
 3.24日、国際連盟が、42対1(反対は日本のみ)でリットン報告書を採択。

【日本が国際連盟を脱退】
 3.8日、日本政府は、国際連盟脱退を決定。

 3.27日、日本は国際連盟を脱退。ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれた。日本代表の松岡洋右は、満州事変は日本の自衛権の発動であり、非は中国側にある、リツトン調査団の報告は一方的なものであり、それに基づく連盟の勧告案は不当であると熱弁をふるっている。遂に席を蹴って退出した。連盟脱退の瞬間であった。

 翌日の新聞には、「連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す」の文字が一面に大きく掲載された。英雄として迎えられた帰国後のインタビューでは、「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。

 4.17-19日、満州事変の収拾を巡る省部会議が開かれる。 ここから盟友「小畑敏四郎」と「永田鉄山」の対立が決定的になる。皇道派の小畑敏四郎は「ソ連との防衛戦では英米の援助は必要不可欠であり中国国民党との紛争は絶対に不可(北守論)」。統制派の永田鉄山は「国家に大切なものは完全なる独立自主である。その為には華北の資源は絶対に必要(支那一撃論)」。皇道派は「満洲に留まり英米よりの補給で国家を維持する」 統制派は「華北に進出して完全なる独立自主を手に入れる」 噛み砕くと 皇道派は「日本は単独で戦えないので敵はソ連に限定」 統制派は「日本を単独で各国と戦える体制を作り上げる」。

 4.22日、滝川事件の始まり。鳩山一郎文相が京都帝大法学部教授滝川幸辰の辞職を要求。

 4月、米国が金本位制停止。


【関東軍が華北に侵入】
 5月、関東軍は華北に軍を進めた。「時あたかも、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツの目覚しい躍進があり、それに比べて、あまりにも情けない日本の現状-深刻な農業恐慌と政治の腐敗-にうんざりしていた国民は、勇敢で、且つ歯切れのよい軍部の行動に、大きな拍手を送った」。華北に攻め込んだ日本軍は、続いて北京・天津の近くまで兵を進めた。この頃から、世界が日本軍の侵略行為を非難するようになる。

【「京大(滝川)事件」】
 「京大(滝川)事件」を参照(転載)する。
 日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年に京都大学で起きた学問の自由および思想弾圧事件。ことの発端は、のちに天皇機関説問題で美濃部達吉を攻撃する貴族院の菊池武夫議員が貴族院で、京大法学部の刑法学者滝川幸辰(ゆきとき)教授の「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演内容(犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべき、という意味)を「赤化教授」、「マルクス主義的」と攻撃したことにはじまる(「自由主義は共産主義の温床」との思想がその背景にあった)。

 これを受けて当時の鳩山一郎文相(戦後公職追放されるが、その後解除され、1954年に首相となる)は、滝川教授の著書『刑法読本』を危険思想として批判、大学の最高法規「大学令」に規定した「国家思想の涵養」義務に反すると非難した。1933年4月10日には、内務省が滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発売禁止処分とし、同年4月22日には、文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職を要求する。

 これに対し京大法学部では学問の自由・思想信条の自由(基本的人権)の侵害であるとして抗議するが、文部省は同年5月26日、京大法学部の意見を無視、滝川教授の休職処分を強行する。

 当時、治安維持法を基礎法とする権力による苛酷な弾圧体制が確立され、その体制下で権力は、容赦ない取り締まりと厳しい反共宣伝を、あらゆるメディアを媒介に行っていたが、そうした状況下の京大では、宮本英雄法学部長・佐々木惣一・末川博両教授を筆頭に15人の教授の内8人の教授と、18人の助教授内13人が文部省に抗議の意思を貫き、「死して生きる途」(恒藤恭教授の言)を選び辞任し、一部の京大法学部の学生は、教授を支援する戦いを展開した。だが、京大の他学部教官をはじめ全国の大学の教員や学生は、権力の強権政治の前に屈伏して沈黙を守った。もっとも、東大の美濃部逹吉・横田喜三郎両教授らごく少数の教授は、京大法学部教官支持の論陣をはった。しかし東大法学部としてはなんの態度表明も行わなかった(敗戦後、東大総長に就任し、講和条約締結に際して全面講和論を展開して、当時の吉田首相から「曲学亞世(きょくがくあせい)の徒」と批判された南原繁博士は、このことを「終生遺憾」とした)。そのため全国的運動に発展せず、京大事件は教授辞職で終結をむかえることとなった(なお、滝川教授は36年弁護士を開業)。

 さて、戦後教育界の民主化政策の下での1945(昭和20)年11月19日、京都大学法学部は、全学生を法経第1教室に集め、「京大(滝川)事件」に関して、黒田法学部長が、時の鳩山文相が、京大法学部教授会の意向を無視、さらに小西総長の文部省に対する教授辞職の具申もないままに、法学部の滝川幸辰教授に辞職を迫った(形の上ではは休職処分)ため、ついに時の京大法学部全教授も辞表提出を見るにいたったという全貌を説明するとともに、学内自治による清新な京大再建の方針を明らかにし、すでに定年年令をすぎていたため、名誉教授として復帰の佐々木愡一教授と南方にいる宮本英雄教授を除く滝川幸辰(後京大総長に就任)、恒藤恭、田村徳治教授と立命館大学の学長に就任していた末川博教授に対して、直ちに大学への復帰を懇請した(また、同月21日には九州帝大法学部教授会が、向坂逸郎、石浜知行、高橋正雄、佐々弘雄、今中次麿教授ら5人の復職を、東北帝大は服部英太郎と宇野弘蔵両教授の、23日東京産業大学〔後の一橋大学〕は大塚金之助教授の復帰をそれぞれ決定した)。

 ただ京大(滝川)事件の真相に関しては、たとえば、その真相にせまる一つの資料である滝川教授の処分を決定した「文官高等分限委員会」の議事録が、国立公文書館に保管されているが、政府はその公表を、事件からすでに70年近くが経過しているにもかかわらず、拒否し続けている。それはそこに、これまでの研究で明らかになったものとは異なる事実が記載されており、今日においても、権力を維持してきた一定の勢力にとって問題になるほどに重要な内容を含んでいるとしか思えない措置である。それにしても、国民としての知る権利が、政府によって閉ざされている現実は、戦後半世紀しか経過していない日本における民主主義の歴史の軽さと、その成熟度の程度を見せつけている。

 京大事件の結末そのものは、強大な天皇制国家権力の前に敗北という形で終結したが、京大教授や学生のかかる権力に対して行った教授支援運動が、敗戦後、誤った歴史とそれに抗して運動を学ぶ契機となり、それが学問の自由と大学の自治法理確立の礎になった。

 憲法第23条が保障する学問の自由の原理と、教育公務員特例法第4条~第12条が明記する採用、昇任、転任、降任、免職、休職、懲戒、勤務評定等々関しては、大学の管理機関の審査が必要としたことに代表されるような大学自治の原理は、歴史的には、京大事件の顛末がその起源といえる。

 5月、昭和天皇が、「十一会にて赤の問題、滝川事件等論議する」(木戸幸一日記)。


 5.31日、永田鉄山の「支那一撃論」が荒木貞夫陸軍大臣に潰されて、「北守論」に基づく塘沽停戦協定が結ばれる。


 6月、昭和天皇が、「池田克司司法書記官より、学習院赤化事件の様子を聞く」(木戸幸一日記)。


 6.7日、共産党幹部佐野学および鍋山貞親が獄中で転向声明。これ以後共産党被告の転向が続く。


【死のう団事件】
 あまりに異様な「集団割腹」
 永田鉄山刺殺事件の半年後に二・二六事件が起こるのだが、その10日ほど前の2月17日午後、東京市内で奇妙な事件が起こった。国会議事堂前、宮城前広場、外務次官邸前、内務省3階、警視庁前で5人の青年が一斉に割腹自殺を図ったのである。彼らは「死のう、死のう、死のう」と繰り返しながら、ビラを撒いた。その後、座り込んで、所持した短刀で腹を切った。いずれも未遂であった。いわゆる「死のう団事件」である。この事件はテロとクーデターの相次ぐ時代を象徴する意味を持った。知識人が、前述した中島健蔵に見られるように暴力への恐怖を持つのとは対照的に、庶民のなかからは、そういう時代を逆手にとって、自らの存在を暴力によって表現する、突出した行為もあったのである。死のう団事件は通常のテロとは異なり、いわば国家のテロに対して身を斬って抵抗した姿であった。この事件の裏側には意外な事実がいくつもあり、国家がバランスを失う姿が如実に示されていた。死のう団事件は、確かに表面的には不気味であり、暴力が前面に出てくる時代の怖さも表していた。東京市内の主要な建物の前で、「死のう、死のう、死のう」と叫びながら、割腹自殺を行うのだから、異様と言えば、これほど異様なことはない。しかしこの事件を丹念に追いかけていくと、テロとクーデターの時代を象徴する内実が含まれている。

 私は、1970年代初めにこの事件を事細かに調べて一冊の書としてまとめたことがある(『死なう団事件―軍国主義下の狂信と弾圧』)。私にとっては、ノンフィクションの一作目でもあった。それだけにこの事件については、裏の史実もすべて知っている。  結論ふうに書くことになるのだが、この事件はテロやクーデターの連鎖する時代に連なるものである。ただしそのテロリズムとは、官憲によって行われる国家暴力であった。奇妙な表現を用いるが、「逆テロ」とでもいうべき事件であった。昭和5(1930)年から11(1936)年までのテロとクーデターの時代に、官憲側(この場合は特高警察ということになるのだが)もテロリストと同様の心理状態、行動形態になっていったということでもあった。思想犯に対する取り調べ自体、思想犯を時代の空気の写し絵のように仕立て上げるものでもあったのだろうが、特高刑事のなかには時代の空気のなかでテロリストと同様の心理状態になってしまう者も存在したということである。死のう団と言われる宗教団体に集まった男女の青年層は、まさにその「逆テロ」の標的になったというべきであった。
 活発な布教活動と「不惜身命」
 この団体の正式の組織名は、もともとは日蓮会と名乗っていたが、この頃は日蓮会殉教衆青年党と称していた。日蓮の経典、あるいは教えに直接に従うという組織であり、いまどきの言い方をするならば、日蓮の教えに対して原理主義者であろうとしたことにもなる。彼らが口にする「死のう!」という合言葉は、「不惜身命」を時代に合わせて噛み砕いた表現であったというのである。この団体は東京の蒲田区(現・大田区)糀谷、さらには神奈川の川崎などを中心として青年層を軸に広がった宗教組織であった。指導者は江川桜堂という30代の日蓮主義者であった。彼は浅草の統一閣などで学ぶ一方、日蓮の経典を読破した。やがて江川は、既存の宗教団体は信仰の原点を忘れて、この世に妥協するだけの権威主義的団体になってしまったのではないかと考えるようになった。そういう考えを蒲田や川崎などの駅頭で人々に向かってひたすら説き続けた。いわゆる辻説法である。大正末期から始まった江川の説法は、労働者や勤労学生、さらには職人など、自分の生き方を模索していた若い世代に受け入れられた。日蓮の原点に返ろうとの説法に共鳴、共感する青年が江川の周りに集まってくるようになった。昭和4(1929)、5(1930)年には1000人余もの会員が集まったという。むろん最初の頃は、「死のう団」などとは名乗っていない。しかし会員が集まってくれば、そこに指導者グループが形成される。それだけではない。宗教団体としての法的規制も受けなければならない。江川の日蓮会は、そういうあり方を取らず、ひたすら経典の解釈を学ぶという団体であった。当初は直接の行動はためらう集団でもあった。会員たちの街頭説法、それに経典の学習、その繰り返しだけでは運動に広がりがない、もっと全国的な団体にしていこうという声が次第に高まっていく。確かにこの頃撮影された日蓮会の街頭説法の写真を見ると、日蓮会の旗が乱舞し、さらに笛や太鼓の一団もいて派手な広宣流布の様子が窺えるのである。昭和五年の指導部に集まった会員の集合写真を見ると、老若男女が入り交じっての布教活動には活力があったことも伝わってくる。

 日蓮会の広宣流布の手法が優れていたのは、蒲田には映画撮影所があり、その現場で働いている装置や小道具係、さらには映画の宣伝マンなどが加わっていたからとも言えるのではないか。 昭和のテロとクーデターの時代に入ると、こういう先鋭的な宗教グループのなかに、なにがしかの行動を求める者が一気に増えていくことになる。 加えて昭和7(1932)、8(1933)年には東京音頭が流行し、街中でレコードがかかると街の人たちは輪を作って踊り出すのである。盆踊りがごく自然に庶民の日常生活に飛び込んでいった。音頭と踊りは日常を超える世界への誘いでもある。さらに昭和8年ごろの特徴だが、伊豆大島・三原山で心中事件が頻発している。庶民の日々の生活に自殺とか心中などがあっさりと溶け込んできたのだ。そういう風潮に影響されたのであろうが、日蓮会にも何らかの行動を主張する一派が現れた。昭和8年の春、日蓮会のなかから「我々は不惜身命の精神で、それこそ死ぬつもりで広宣流布の活動に入ろう」と主張する一派が現れ、具体的な行動で全国への広宣流布を続けていこうとの方針が青年たちの間に生まれた。不惜身命をこの時代の社会的空気に合わせて、「死のう」というスローガンに集約し、その精神で全国に日蓮会を広めるために、有志が全国行脚を行うことになった。それを「殉教千里行」と名づけ、計画が練られた。
 2023.8.27日、保阪 正康「特高警察の残虐な拷問と「虚偽のテロ計画」」。
 昭和8年7月2日、青年部員28人が全員羽織・袴姿で、手に長旅に耐える樫の杖を持ち、頭に鉢巻きを締め、千里行の合言葉を口にして、横浜の杉田梅林に集まった。やがて金沢街道を歌を歌ったり、太鼓を叩いたりしながら行進を始めた。彼らの作詞作曲による広宣流布の歌や結束を固めるための合言葉を叫んでの行進であった。 その合言葉は、 我が祖国の為に、死のう! 我が主義の為に、死のう! 我が宗教の為に、死のう! 我が盟主の為に、死のう! 我が同志の為に、死のう!というスローガンであった。奇抜な服装に、なんとも奇妙で不気味なスローガンを唱和して行進を続けるのだから、世間の注目を浴びないわけはない。逗子の桜山で休憩をとっている青年男女に、神奈川県警の警官20人余が現れて彼らを検挙し、バス二台に押し込め、葉山署に連行した。神奈川県警の特高刑事たちが集められ、日蓮会の青年たちは分散留置されることになった。そんな時も指導者の一人が、「死のう!」と叫ぶと全員が唱和するのだから、やはり不気味な集団ではあったわけである。神奈川県警は、「これは第二の血盟団事件だ」と判断して、日蓮会をテロリスト団体だと決めつけた。当時、神奈川県警の特高警察は、左翼、右翼にかかわらず残虐な拷問を行うことで恐れられていた。「カナトク(神奈川県警察部特別高等課)」という隠語じみた呼び名は、思想犯にはまさに拷問警察という意味だったという。死のう団の青年たちはそんなことは知らない。こうして警察に捕まるのも「法難」であるという受け止め方だったのである。

 青年たちがどういう拷問を受けたかは、彼らが釈放の後に詳細に書き残している。 そういう資料を、私はほとんど読んだのだが、実際にこんなことができるのかという凄まじい仕打ちであった。とにかくテロの団体にデッチ上げようというのだから、特高警察は、虚偽の計画を新聞などに次々と発表している。昭和8年7、8月の新聞をめくるとよくわかるのだが、東京日日新聞、都新聞、東京朝日新聞、国民新聞、横浜貿易新聞、読売新聞など全ての新聞に、死のう団なるテロ団体の計画暴露、大陰謀の内容などという見出しの下、まったく事実無根の計画が次々と報道されていく。その計画なるものは、増上寺の焼き討ち、日蓮宗寺院の焼き討ち、日蓮宗の幹部殺害計画、田中智学、西園寺公望、田中光顕などの暗殺計画などだったというのだ。盟主の江川桜堂に命を捧げての身だから命じられたら実行するという組織で、血盟団事件、神兵隊事件などに連なる危険な団体であるというのが特高警察の描いた壮大な虚報であった。

 こうした虚偽のテロ計画は、この時逮捕された青年たちには考えも及ばない内容であった。ごく普通の平凡な青年たちにとって、日蓮の教義に自らを託するという生き方を目指しているのに、お前たちはこういう人物を殺そうとしているんだろう、白状しろと殴られる、蹴られる、柔道の道場に連れて行かれて何度も投げ飛ばされる。そういう拷問の連続で、言われたことに逆らっても仕方ないと、つまりは「はい、はい」と言われた通りに頷く以外になかったというのだ。「殉教千里行」には女性も含まれていた。たとえば女子医専の学生だったり、家事手伝いの女性であったり、5、6人いたようである。その女性たちは釈放されると、ほとんどが錯乱状態になっていたという。彼女たちは真っ裸にされて辱めを受けたり、性器に悪戯をされていたというのだ。女子医専の学生の母親は、特高警察を訴えている。「カナトク」の拷問によって、娘が人生を棒に振ることになったというのであった。母親が訴えた訴状に添付した手記には、次のようなことが書かれている。

 「〔目を離すと〕物を壊したり、茶瓶をがりがり食べてしまったり、ですから家中夜昼なし、惨状は目も当てられぬ有様で御座います。然し、変わり果てた娘の姿を見ますと“おお、尤(もっと)もだ、尤もだ。赤裸にされてあんなひどい目に逢ったのだもの、気が狂うのが当り前だ”と存じました。“誰も居ないのだからね、母さんだけなのだからね”と幾ら言っても、ズロースのはき換えをさせません。足を堅く重ねて仕舞います。(略)それをまあよくも赤裸にして、大勢たかって、なぶりものにして呉れたと思い、なぶり者にされた娘の気持を考えますと、如何に歯を喰いしばって堪えても、泣かずには居られません」。

 この女性の妹、そして弟も千里行に参加して逮捕され、拷問を受けている。花嫁修業中の妹は拷問が元で、やはり精神のバランスを崩している。弟は東京府立八中の4年生であったが、拷問で身体中が傷だらけであった。特高警察は、この学生はテロリストだと学校に言いふらし、退学を求めた。しかし成績が常に三番以内であるのを惜しんで、校長や教師たちが庇い続けた。日蓮宗の信者としての行動に確かに誤解を生む部分はあったにせよ、テロなどと無縁の青年たちが、特高警察にいいように弄ばれたのであった。

 8.11日、桐生悠々信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を掲載。その後問題化し、桐生は退社に追い込まれた。


 9.13日、日本労農弁護士団の検挙。


 10月、国民党の兵力50万人が約100機の航空機に支援されて、共産党の根拠地江西省瑞金への第5次攻撃を開始。四方から包囲された共産党軍10万は、瑞金の放棄を余儀なくされることになる。


 10.14日、ドイツ、国際連盟脱退。


 11.28日、共産党委員長野呂栄太郎の検挙[翌1934年2月19日:獄死]。


 この年、ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードが、ロンドンの道路を横断中、中性子による核分裂の連鎖反応が原子爆弾の仕組みになり得るとひらめく。(リチャード・ローズ「原子爆弾の誕生」)


1934(昭和9)年の動き

 (この時代の総評)

【統制派の片倉衷少佐らが「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成】
 1934(昭和9).1.5日、2.26事件の2年前、陸軍幕僚で後に「統制派」の中核となる片倉衷少佐が中心になって軍幕僚による「アンチ・クーデター」計画としての「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成している。2.26事件で出された戒厳令は、この「要綱」に盛り込まれていたのとほぼ同じように実施され、事件終結後に太平洋戦争の泥沼に導いた軍事独裁政治は、ほぼ「要綱」通りに具体化されていったと云われている。ちなみに、片倉衷少佐は満州事変の首謀者・石原莞爾の懐刀と云われた人物である。

 1.15日、日本共産党スパイ査問事件が発覚。


【陸相が荒木から統制派の林に交代、軍務局長に永田鉄山が抜擢】
 1.23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任した。後任に同じ皇道派の真崎甚三郎が就任することになっていたところ、反荒木派の中堅幕僚が、参謀総長の閑院宮載仁親王を動かして巻き返しを図り、荒木陸相の後任に統制派の林銑十郎を就任させた。

 1月、米国でドル通貨の40.94%切り下げ。


 3月、統制派の林銑十郎陸相は、軍政方面におけるエリートで、大臣や次官への登竜門にして大臣・次官に次ぐ軍政方面のナンバー3の軍務局長に統制派の永田鉄山を起用した。永田鉄山は陸士を優等で卒業し、陸大も優等で卒業して、恩賜の軍刀を賜ったエリート中のエリートであった。この結果、統制派が陸軍省の実権を握り、この頃より皇道派が軍中央によって圧迫され始めた。

 林陸軍大臣は永田軍務局長の「支那一撃論」を実行に移す。この時の人事で、皇道派は陸軍省中枢ポストから排除されている。参謀次長から教育総監に転じていた真崎もこの時罷免された。ここで皇道派(小畑敏四郎)の「支那と共存してソ連に備える政策」は一転して統制派(永田鉄山)の北支分離工作に転じる。
基本的には皇道派・統制派の両派ともに、国体改革が必要な点では一致していたが、この時点で改革の方針を巡り、陸軍内部の改革派は二つに分裂したということになる。これ以降、二・二六事件まで陸軍内部では、怪文書が飛び交う皇道派と統制派の激しい対立が続くことになる。

 この頃軍は、軍隊内務書を改訂し規律強化をはかる。しかし現場を知らない軍上層部の作成のため、上司への絶対服従・細かい規則の積み重ねを増やしただけの内容。結局、軍隊内務は厳格化・硬直化の方向に進んだ。内務規定があまりにも厳しくなり、現実からの隔たりが大きくなれば、逆に実際には守れない規則を形式上守ったことにするため、外面的辻褄合わせが横行する。内務規定厳格化は全くの逆効果になっていた。


【溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられる】
 3月、溥儀が初代の満州国皇帝に即位。「五族(日・満・漢・蒙・朝)協和」が奏でられた。この満州国創設が「八紘一宇」の足がかりとなった。

【「帝人事件」発生で斉藤内閣総辞職】
 昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。 時事新報の記事で帝国人造絹糸会社(帝人)株をめぐる贈収賄疑惑が浮上し、4月、検察が、台湾銀行所有の帝国人絹株の売買に背任、贈収賄の疑惑があるとして、台湾銀行幹部や帝人重役河合良成(かわいよしなり)、永野護(ながのまもる)らを逮捕起訴した。5月、大蔵省幹部も収賄の疑いで相次いで逮捕され、政治家や官僚16人を起訴し政財界に大きな衝撃を与えた。

 7月、斎藤実内閣は総辞職に追い込まれた。内閣総辞職後、斎藤内閣の中島久万吉(くまきち)商工相、三土忠造(みつちちゅうぞう)鉄道相らも検挙された。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする大疑獄事件となった。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げであった。検挙当局の被検挙者に対する取調べ状況が明らかになるにつれ、その不当性を非難する声が高まり、司法ファッショのことばが生まれた。事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。1935年に公判が開始され265回にわたる公判のすえ、1937(昭和12)年、全員に無罪判決が下っている。

 この事件の背後には、前年末以来中島商工相、河合良成ら財界グループ「番町会」のメンバーが推進していた政民連携運動を挫折(ざせつ)させ、斎藤内閣を倒壊させることをねらった政友会久原房之助(くはらふさのすけ)派、司法界の長老平沼騏一郎(きいちろう)枢密院副議長、軍部、右翼の策謀があったとされている。右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があった。

 事件の黒幕とされている平沼騏一郎は、明治43年の大逆事件で、検事として社会主義者、幸徳秋水らに死刑を求刑。大本教弾圧にも指揮をとっている。 

 しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめもなく、後には司法次官に栄転する。「これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも身内優先、事なかれ主義という腐敗が蔓延していた様です」とコメントされている。
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79」の新世紀人 氏の2010.2.3日付け投稿「帝人事件、1934年(昭和9年)」を転載しておく。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/29_framepage.html

【◎】 番町会事件(帝人事件、1934年)
【参考】『角川 日本史辞典』(1966.12)


 一九三四年、番町会の会員が検挙された事件。一九三三年ごろから、郷誠之助の番町私邸に集まった財界若手実業家水野護、長崎英造、河合良成、小林中、正力松太郎らのグループを番町会という。一九三三年、帝国人絹株高騰で番町会メンバーが台湾銀行から鈴木商店担保株を買い受け、これをスキャンダルとして武藤山治が「時事新報」で暴露。平沼騏一郎、政友会久原房之助派らはこれを政民連携運動の破壊に利用。一九三四年、帝人事件として番町会メンバー、中島知久平商相らは検挙されたが、一九三七年、全員無罪となる。【参考】大内力著『ファシズムへの道』(中公文庫・日本の歴史 )

 この本では、この事件に4ページ近く費やされている。大事件であったらしい。〝齋藤内閣打倒の動き〟 昭和九年に入ると、そろそろ齋藤内閣も人々にあきられ、いろいろな方面から政局の転換を促す動きが現れはじめた。たとえば軍部は、さらに強力な内閣を出現させて、自分たちの政策をもっとおしすすめようという意図を露骨に持ち始めていた。高橋(是清)蔵相の財布のひもが案外かたく、軍備拡張がおもうにまかせないこともその一つの理由であった。とくに海軍は一九三五~六年の危機をさかんに唱え、軍縮条約の破棄を主張していたが、財政上の理由もあって、齋藤はそれを抑えるほうにまわっていた。陸軍は華北への進出をあせっていたが、昭和八年九月、広田弘毅が外務大臣になってからは、多少ともブレーキがかけられた。イギリスとの話し合いによって中国問題の打開をはかろうというのが、広田の基本方針だったからである。(中略)

 このころ政党の内部にも、また官僚の一部にも軍部の横暴にたいする反発があったが、そういうことも軍部を刺激する要素となった。(中略)。政党も軍部の進出を抑えるべく財界とも共同して戦線統一をはかりはじめていた。河合良成、郷誠之助、永野護など若手財界人の結成する番町会が肝煎りになって、政民両党(立憲政友会、立憲民政党)の連合運動をすすめ、議会政治擁護の気勢をあげたのは昭和八年(1933)末から九年一月にかけてであった。第六十五議会では、珍しく政民両党から軍部にたいする攻撃がさかんにおこなわれた。

 とくに、陸軍省調査部長の東条英機の主張でだされたといわれる、軍民分離を促す言動にたいする警告という陸海軍の共同声明(1933年12月9日)は、議会の攻撃のまととなり、それは軍部の狼狽を現すものだとか、軍人の政治介入であるとかといった批判やら非難が軍部大臣に集中した。(中略) しかし政党のほうは、軍と対立することで統一されていたわけではむろんない。軍と提携して勢力を伸ばそうとするもの、もう一度政党に政権をとり戻そうと考えるものなど、さまざまの動きが渦をまいていた。またこの軍部に対する攻撃にしたところで、むしろそれによって政治を窮地に追い込むことが目的だったのであって、かならずしもファシズムから日本を守ろうとするほどの意識の高いものではなかった。

 したがって同じ第六十五議会では、中島商相にたいする「足利尊氏問題」とか、鳩山文相にたいする樺太工業問題とかの追及がおこなわれた。(中略)。こうした一連の事件は、とくに政友会の久原房之助の画策にでたものだが、この 各個撃破によって齋藤内閣は大いによろめいた。

 もう一つ、この内閣の大きな敵役になったのは枢密院の平沼だった。これより先、昭和九年(1934)五月に枢府議長の蔵富勇三郎が辞任したが順調に行けば副議長の平沼が昇格するところだった。ところが西園寺(公望)が平沼を嫌っていたこともあって、齋藤は一木喜徳郎(前宮相)を議長にすえた。このことから平沼は大いに齋藤にふくみ、久原と結んで倒閣運動にのりだすのである。中島や鳩山の問題も平沼の差し金だというし、やがておこる帝人事件は、検察のボス平沼のうった大芝居であった。

〝帝人事件〟 帝人事件の発展は、当時、鐘紡をやめた武藤山治が社長をしていた『時事新報』が、一月十六日から「番町会を暴く」という記事をのせはじめたことにある〔これを書いたのが和田日出吉氏〕。これは、・ 政党と政商の結託暗躍はあらゆる社会悪の源となり、つひに五・一五事件の洗礼を受けた非常時内閣下において政党政商等はしばらくその爪牙をかくして世の指弾を避くるに汲々たる折柄、ここにわれらは、わが政界財界のかげに奇怪な存在をきく。曰く『番町会』の登場がそれである。すなはち彼等はいまや、その伏魔殿にたてこもり、かつて政党政商がなせるが如き行為、紐育(ニューヨーク)『タマニー』者流にも比すべき吸血となしつつ政界財界を毒しつつあるといふ。しかもこの『番町会』のメムバーとして伝えられるものに、某財界の巨頭(郷誠之助)を首脳としこれを囲繞するものに現内閣の某大臣(中島久万吉)あり、新聞社員(正力松太郎)あり、政権を笠に金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する異常は眼にあまるものあり・・


 という書き出しのように、一種の暴露ものであった。武藤がなぜこういう記事をのせはじめたのかは、かならずしもはっきりしないが、長く少数党(実業同志会)を率いて政界にあり、しかも番町会の外にあった武藤には、筆誅をくわえたいという意図も動いていたことはたしかだろう。それに新聞の販売政策がからんでいたのである。

 この記事は、番町会の罪悪をたくさん並べたてて暴露していたが、その一部として帝人問題がとりあげられた。帝人=帝国人絹というのは鈴木商店系の人絹会社であるが、このころの人絹ブームにのって、営業成績は向上をつづけていた。ところが金融恐慌以来、この会社の株二十二万株あまりが台銀の担保に入っていた。この株価の上昇が見込まれていたので、金子直吉(鈴木商店)らは、このさい台銀からそれを買い戻そうということになり、その斡旋を番町の面々に依頼した。とくに水野護がその中心になり、正力が永野の依頼で活躍したといわれているが、かれは、そこで鳩山一郎・黒田英雄大蔵次官らに働きかけ、島田茂台銀頭取を動かして、ついに十一万株の払い下げを実現させた。

 そのさい、株価の問題で金子らと折り合いがつかなかったので、永野らは別に買受団をつくり、一株百二十五円でこれを買い取った。だが、それと同時に帝人が増資を決めたので、この株はたちまち百四十ー五十円にあがり、永野らは大儲けをした。・・これが、暴露されたことのおおよその内容であった。

 この記事がでたあと、検事局が動き出し、四月十八日には台銀の島田頭取、帝人の高木復亨社長および永野、河合良成、長崎英造など番町会メンバーが召喚された。そして五月に入ると大蔵次官黒田英雄、銀行局長大久保偵次らが収賄容疑で拘引され、やがて起訴された。また中島も召喚されたが、そのとき参考人としてよばれた三土忠造は、検事の主張する事実を否認したので偽証罪に問われた。こうして、帝人事件は空前の大疑獄となったが、齋藤内閣は黒田次官の起訴確定後、七月三日、ついに責任を取って辞職した。倒閣がここに成功をみたわけである。

 ところで、この帝人事件の裁判は昭和十年(1935)六月からはじまり、十二年十月までかかったが、結果は全員無罪であった。(中略)。この事件は、一方では明らかに倒閣を目的とした政治疑獄であり、それとしては十分目的を達していた。その張本人が平沼であった。かれは、その主催していた右翼団体国本社の一員であった検察の大物塩野季彦(第一次近衛内閣の法相)を使って、この事件をデッチあげさせたといわれている。事実、このときの検事の取調べは猛烈で、中島以下にも拷問に近いことまでし、虚偽の自白を強要した。検察ファッショという言葉が生まれたのもこのときからである。平沼の背後にはむろん右翼や軍部があったし、平沼は、今度こそ政権は自分のところに転がりこむと読んでいた。それをまたかついでいたのが久原の一派であった。(中略)

 なお、この事件の最中の昭和九年(1934)三月九日には、武藤山治が北鎌倉の自宅から駅に向う途中、福島某なる青年にピストルで撃たれて死ぬという事件がおこった。これは一時は背後に番町会があるのではないかとして騒がれたものだったが、実は武藤の恐喝に失敗した肺患の青年がやった単なる偶発事件にすぎなかった。

◎関連人物と『長篇 人絹』の登場人物(【・・・】は作中変名)。以下のリストは仮テキストで調べ切れていません。
武藤山治(「時事新報」)【武藤山治。実名で登場】/報知新聞記者(和田日出吉)【輪田、大森山人】/報知の森田久
金子直吉【兼子】/郷誠之助【谷請之介男爵】/水野護【長井】/長崎英造 /河合良成【相川】/正力松太郎【羽戸】 
島田茂台銀頭取【田島頭取】/高木復亨帝人社長【木谷帝人社長】
平沼騏一郎(枢密院、検察のボス)/中島知久平商相/中島久万吉商工相【嶋中九萬吉商工大臣、政民連携運動】/鳩山一郎/久方日銀総裁/黒田英雄大蔵次官【目黒次官】/久原房之助(政友会)/検察の大物塩野季彦/銀行局長大久保偵次【久保銀行局長】/三土忠造鉄道大臣【三浦鉄相】
福島某【福馬進市】

 5.2日、出版法改正公布[皇室の尊厳冒涜・安寧秩序妨害への取締強化]。


 6.1日、文部省に思想局を設置。


【斎藤内閣→岡田啓介内閣】
 7.8日、海軍大将岡田啓介が内閣を組織、岡田啓介内閣が成立。陸相に統制派の林銑十郎、蔵相に高橋是清が留任した。

 8.19日、ドイツで、ヒトラーが国民投票で総統に就任した。ドイツ第3帝国が成立した。


 9.18日、ソ連が国際連盟に加入した。


 9月、昭和天皇が、「今西京子と中条百合子の件」(木戸幸一日記)。


【永田鉄山】
 「陸軍軍人の評価② 永田鉄山」。

 永田鉄山は「陸軍の至宝」、「永田の前に永田なし、永田の後に永田なし」、「永田が生きていれば、太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば、東條が出てくることもなかった」と広く評価されている。石原莞爾が「陸軍の奇才」であるとするならば永田鉄山は「陸軍の天才」。陸軍士官学校の首席、陸軍大学の次席という枠を遙かに超える天才なのです。のちに統制派のリーダーとなるのに思想的に真逆の青年将校である「安藤輝三大尉」を非常に可愛がった。
 第一次世界大戦ではデンマーク、スウェーデン駐在武官として客観的に学び、「次の戦争は必ず起きる」、「これからの戦争は国家総動員による総力戦である」、「日本は必ず起こる戦争に備えて総力戦体制を整えなければならない」とこの3つの固い信念の下に己を捨てて邁進して昭和10年8月12日に陸軍省軍務局長室で現役軍人相沢三郎中佐によって51歳の若さで斬殺された。青年将校の菅波三郎の言葉「蹶起の第一の理由は第一師団の満洲派遣。第二の理由は統制派が目論んでいた支那への侵略だ」。永田鉄山が支那への侵略を企んでいたという。

 永田鉄山は陸軍内で非常に大事に育てられ「世界大戦」を身近で観察して、帰国後も多くの軍事戦略論文集を残して陸軍改革に貢献している。永田鉄山は「ドイツは全面的な軍事的敗北ではなく将来の再起を期すために講和を結んだ」と判断した。そして「戦争は避け難く、永久平和は来りそうもない、したがって次期大戦は不可欠であり、それはドイツ周辺から起こる」と判断している。だから「次の戦争に備えて単独で総力戦を戦えるように国家総動員体制を整える。 満洲事変以前に後の歴史を見切っていた。恐るべき洞察力。 そして総力戦体制を整えるためには政財官の協力が不可欠と洞察した。あらゆる組織から一目置かれるようになる。

 大正10年(1921)10月27日にドイツバーデンバーデンにて 小畑敏四郎、岡村寧二、東條英機、鴨脚(いちょう)光弘と陸軍改革を固く誓い合う。これが有名な「バーデン・バーデンの密約」。ここで 「第一次世界大戦後の総力戦への対応」 、「ソビエト連邦樹立(共産主義への脅威)」 、「派閥政治の打破」 を固く誓い合う。 この「バーデン・バーデンの密約」から昭和20年8月15日の敗戦まで一気に流れていく。

【石原莞爾】
 「陸軍軍人の評価③ 石原莞爾」。
 永田鉄山と並び評される石原莞爾。永田鉄山は「戦争は避け難く永久平和は来りそうもない」と断言したが、 石原莞爾は「最後の大戦争後に世界統一して恒久平和が訪れる」と断言している。両者は、短期決戦の時代は終わり第一次世界大戦から「総力戦」の時代だ!という認識においては一致していた。永田は「貧弱な日本の総力戦体制を一刻も早く整える」石原も「我が日本の国力は遺憾ながら頗る貧弱なり」と絶望している。① 総力戦体制を整える為の資源確保に満洲領有は絶対に必要だった。② 世界恐慌後の困難な不況と人口問題を打開する(日本の生命線)。③ 共産革命対策。④ 自存自衛の為にも満洲領有は絶対に必要。満洲北側のソ満境界に横たわる巨大な興安嶺山脈(こうあんれい)を利用してソ連の侵略を容易に防御する事が可能になる。(皇道派の小畑敏四郎がわずか17個師団でソ連に侵攻しようとしていた北進論は軍事戦略上成り立たない。あくまでも北守論)日本の満蒙領有により「軍閥、学匪、政商」の排除により治安が回復し急激な発展が可能になる。だからこそ五族共和の大義名分が成り立つ。のちの東條英機内閣№2の企画院総裁の鈴木貞一は「陸軍の派閥抗争なんて膨大な陸軍機密費の奪い合いに過ぎない」と矮小化している。満洲領有により「資源」「不況」「人口」「共産革命の防波堤」「対ソ防衛」が解決する。満洲事変の目的は「自存自衛」の為で、「五族共和」は後付けでありそれは正しい。石原と永田は満洲だけでは足りないと判断した。「人口問題や資源問題」の解決には北支五省も必要だと判断した。皇道派の「小畑敏四郎」は北支五省に踏み込むと米英と対立するから不可と判断した。ここで、
(統制派)「永田鉄山」 満洲+北支五省
(満洲組)「石原莞爾」 満洲+北支五省
(皇道派)「小畑敏四郎」満洲のみを堅持
と一夕会が割れた。これが陸軍の派閥抗争の始まりである。
 「永田鉄山」を深く調べると「天才」、「石原莞爾」を深く調べると「奇才」。
 「決戦戦争」、「持久戦争」、「最終戦争」、「世界統一」の螺旋の流れにあり「第一次世界大戦から持久戦争の流れで現在(昭和2年)があります。石原莞爾は「最終戦争は国家総動員による消耗戦略にあらずして・・・一挙にしかも徹底的に敵を殲滅するにあり。それは空中戦なり」と言っている。永田鉄山は次の戦争を念頭に置いていたが石原莞爾はその後の最終戦争を念頭に置いていた。「総力戦による持久戦争」の後に「最終兵器による最終戦争」が起こる、東洋の覇者の日本が西洋の覇者の米国を最終戦争で破り世界統一による恒久平和が訪れるとしていた。最終戦争論とは、戦争は決戦戦争の時代から持久戦争に移り、これに勝利した東洋の覇者の日本が西洋の覇者の米国に最終戦争で勝利して平和な世界になる。その最終戦争は20世紀後半で軍用機による大量破壊兵器を用いた主要都市を破壊・殲滅し勝敗を決するという。まるで宗教のような話。石原は日蓮宗、国柱会の田中智学に心酔する熱心な信者。根幹に日蓮宗があった。
 明治38年(1905)、石原莞爾が仙台陸軍幼年学校卒業の時に日露戦争は終了した。
中央幼年学校入学直後にロシアとの講和条約に不満をもった国民による「日比谷焼き討ち事件」を実際に目の当たりにしている。 大正7年(1918)、陸軍大学を卒業するが陸大で学んだ実感が「日露戦争で日本は勝てたのは奇跡だ!ロシアが抗戦を続けていたら負けていた!日本は国力を向上させて次の戦争に備えなければいけない」。
 大正10年(1921)【バーデンバーデンの密約】
(永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次等が長州閥妥当の派閥を作る)
 昭和3年1月の段階で、石原莞爾も永田鉄山も小畑敏四郎も次期大戦は持久戦(消耗戦)を念頭に置いていた。皇道派の小畑敏四郎は次期大戦に持久戦(消耗戦)を戦えない日本は参加不可能と判断していた。永田鉄山は「総力戦を戦える国家づくり」を目指していた。石原莞爾は「総力戦を戦えば国家破綻だ」と絶望してた。 だからこそ石原莞爾は、
昭和6年には満蒙領有の時に米国の介入もあり得るが限定戦争に抑える。その為に「戦争により戦争を養う」事が出来るようにする。永田鉄山は次の世界大戦で日本は必ず巻き込まれると判断していた。永田鉄山は海軍による消耗戦も必至と判断していた。
石原莞爾は次の対戦は欧州戦争で日本は参戦せずに満洲経営で力を温存する。
ここだけは皇道派の小畑敏四郎と同じ考え方だった。
次の欧州戦争に日本は巻き込まれずに欧州戦争の覇者の米国との(最終戦争)は20世紀後半で航空機による首都の殲滅戦だから決戦戦争だと判断していた。
 満洲事変に戻る。一夕会は「満蒙領有」を基本方針としていた。しかし石原莞爾は陸軍中央の「建川好次参謀本部第一部長」の強硬な反対意見を受け入れて「独立国家」樹立に方針変換する。
昭和6年12月13日に満州事変の最中に陸軍大臣が荒木貞夫に変わって帝国陸軍の方針が「満洲独立」にと傾いていく。昭和7年8月、石原莞爾は陸軍歩兵大佐に昇進。陸軍省陸軍兵器本廠附の段階で参謀本部第二部長の永田鉄山の満蒙領有に真っ向反対する。統制派の東条英機、武藤章は石原莞爾のこの「第一の変節」が面白くない。ここから後の対立が始まる。昭和8年5月31日、皇道派の荒木貞夫陸軍大臣が塘沽停戦協定を結び万里の長城の外には絶対に行かないと「支那一撃論」を潰す。これに永田鉄山、石原莞爾が大反発する。永田鉄山(統制派)の荒木貞夫、真崎甚三郎(皇道派)潰しが決定打となった。一旦、皇道派に潰された華北分離工作(北支を日本の勢力圏に入れる事)を復活させる事に永田鉄山が暗躍する。石原莞爾が
関東軍参謀から歩兵第四連隊長をへて昭和10年8月12日に参謀本部作戦課長に着任した時に、永田鉄山が相沢三郎中佐に斬殺される事件が起きる。陸軍省部が大混乱の中で「帝国陸軍作戦計画」を精査する。対ソ3割の戦力に愕然とする。昭和11年2月26日の2・26事件で石原莞爾は「荒木貞夫」、「真崎甚三郎」に対して激しい怒りをぶつける。それは自分を満洲から引き離した古い恨みと同時に「支那一撃論」を潰して時間を浪費して満洲北部の対ソ3割の圧倒的劣位を招いた当時の陸軍大臣、参謀次長に対する怒りだった。
{満州事変後2~3年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまったのであります}
と当時の心境をのちに語っている。
しかしそれは昭和9年1月23日に陸軍中央を追いやられた皇道派の責任ではない。
それから陸軍中央を支配した永田鉄山軍務局長等、統制派の責任だった。
昭和8年8月1日に仙台の歩兵第4連隊長となり2年間も中央を離れた石原莞爾はそれを知る由もなかった。
石原莞爾の第二の変節が「華北分離工作」。
【北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)の国民党からの分離を工作】
梅津・何応欽協定  昭和10年6月10日
(河北省に非武装地区)➡昭和10年11月 冀東防共委員会(日本傀儡)
土肥原・秦徳純協定 昭和10年6月27日
(察哈爾省の安全確保)➡昭和10年12月 冀察政務委員会(国民党傀儡)
により華北の日本軍勢力範囲を広げます。
これも石原莞爾は大賛成でしたが火薬庫の出来上がりです。
山西省の石炭、河北省の鉄は絶対に必要だったのです。
昭和5年3月1日
「なるべく武力行使は避けるが支那本部に兵力を用いる場合は、米英の参戦も覚悟せざるべからず」
昭和7年1月
「満洲はほんの足場である。山西省、陝西省(せんせい)までも進出しなければならない」
と発言しています
石原莞爾にとって「これを潰したのが荒木、真崎の皇道派」コンビです。
これが怒りの原因なのです。
昭和10年8月12日着任後に「帝国陸軍作戦計画」を精査して「対ソ3割の戦力」に愕然として方針を大転換します。
2・26事件直後の
昭和11年4月     華北分離工作を、あくまでも推し進めようとする関東軍の暴走を、抑える為に支那派遣軍を2倍強に増強したが、国民党には逆に日本の武力工作と誤解されてしまいます。まさに逆効果です・・・
昭和11年6月
国防国策大綱
① ソ連の「極東攻勢政略」を断念させることに全力を挙げる
② 日満北支での対ソ持久戦準備
③ 米英との親善関係の保持(北支分離工作の中断)
④ Etc・・・・
【長期持久戦には満蒙だけでは不十分で華北五省も制し支那と連携して東亜の持久自活の道を確立すべし】と主張していた石原莞爾が北支分断工作を中止した理由は
① ソ連の脅威の為です。
② 米英との親善関係です(補給の確保)
この石原莞爾の第二の変節で梯子を外され関東軍参謀だった武藤章は怒り狂いました。
昭和11年2月、2.26事件頃から関東軍は華北分離工作の一環としてモンゴル王族の徳王に内蒙軍政府を樹立させて参謀本部の石原莞爾の意向を無視して昭和11月11月内蒙軍に華北綏遠省を攻撃させました。(これが内蒙工作で関東軍の暴走です)
この時に慌てて参謀本部戦争指導課長となった石原莞爾が関東軍を視察に来て「内蒙軍政府は国民党政府との講和を」と指示すると武藤章関東軍参謀は「我々は満洲事変でのあなたの行動を見習いその通りに満蒙で実行している」と反論しています。
これを「半藤一利」「保坂正康」は支那事変でのやりとりだと歪曲して拡大解釈しています。
それでも石原莞爾は次の移動(昭和12年3月1日)で武藤章を参謀本部作戦課長として自分の部下に取り込みます。(華北分離工作や満蒙工作は永田鉄山の意志であり、その懐刀であった東条英機や武藤章はこの石原莞爾の裏切りが我慢できない・・・石原莞爾はそれでも武藤章を取り込めると過大評価をしてしまいました。その後の盧溝橋事件、第二次上海事変で決定的な対立を迎えた末にお互いに参謀本部中枢から左遷・・昭和13年7月北支那方面軍参謀副長に就任した武藤章は現実を思い知らされる・・・「石原閣下の言うとおりだった」と猛省して昭和14年9月陸軍省軍務局長となった折に 80万人に膨れ上がった支那派遣軍を50万人まで削減する努力を続けるがどうにもなりませんでした・・・
東條英機も後に陸軍大臣、総理大臣になり対米非戦に努めるもどうにもなりませんでした。
(まさに後の祭りです)
昭和11年12月12日  西安事件が起こり中国大陸は重大な岐路を迎えます。
共産党の毛沢東を西安に追い詰めて止めを刺そうとしていた張学良が督戦に来た蒋介石を裏切って逮捕して共産党に差し出しました・・・
そして「第二次国共合作」が成立して抗日勢力が団結したタイミングの
昭和12年1月に石原莞爾は「対支実行策改正意見」で華北分離工作方針は全面中止にしています。(これも後の祭りです)
この非常に不安定な状態で中国共産党に仕掛けられて昭和
12年7月7日に「盧溝橋事件」(北支事変)が起こります。
石原莞爾は必死に不拡大の為に奔走します。
武藤章は(華北分離工作)再開のチャンスと捉えます。
そして
(昭和12年)7月29日の河北省通州において冀東防共自治政府保安隊(日本の傀儡政権)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件が起こります。冀察(きさつ)政務委員会(29軍軍長宋哲元)(国民党の傀儡政権)に内通者した冀東保安隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田の犯罪です。つまり永田鉄山が推し進めた華北分離工作の悲劇の結果です。
石原莞爾は絶句します。かって永田鉄山と共謀して行った華北分離工作の悲劇なのです。
もしも塘沽停戦協定で止まっていて華北分離工作が無かったら起こらない悲劇だったのです。
昭和12年8月9日は石原莞爾の指示で揚子江沿岸に在留していた日本人約29,230名の上海引き揚げを完了し上海で行われていた船津和平工作の交渉初日でした。
その当日に大山(勇)事件が起こります。海軍士官と部下の二人が惨殺されます。
時を合わせたように
昭和12年8月9日察哈爾作戦勃発です。盧溝橋事件を北支分離工作完成の好機と捉えた関東軍参謀長の東條英機が暴走します。
石原莞爾は絶望します・・・・
4日後の8月13日に第二次上海事変(支那事変)から南京攻略戦、徐州作戦、漢口(武漢)・広東攻略、そして重慶爆撃へと泥沼に嵌っていきます・・・
そして昭和16年12月8日、大日本帝国は絶望の対米戦争に踏み切ります。
華北分離工作とは何だったのか???
すっかり忘れられてしまったのは何故なのか???
華北分離工作は総力戦体制を整える為の資源確保に始まりました
永田鉄山は暗殺の直前昭和10年8月4日、欒州事件で華北分離工作にブレーキを掛けます。
石原莞爾は2・26事件の直後に昭和11年6月国防国策大綱にて華北分離工作に大ブレーキを掛けます。
武藤章は昭和13年7月に北支那方面軍参謀副長に左遷されて華北分離工作の過ちに気付きました・・・・
東條英機は昭和16年10月18日に総理大臣になって華北分離工作の過ちに気付きました。
戦後、石原莞爾は山形県酒田の出張法廷に出廷した頃統制派系の記者である岩淵辰雄が近所で講演をすると聞き面会を求めました。
「真崎甚三郎大将の事で話がある」と・・・「今更話すことなどない」と断ったそうです。
石原莞爾は一体何を話そうとしたのでしょうか???
「統制派」は共産主義、大日本主義、対米英蘇対決路線ですよね。「皇道派」は資本主義、小日本主義、米英蘇協調路線です。「統制派」は重税負担、「皇道派」は民力休養。「統制派」が「皇道派」に勝ち、日本を敗戦に追い込んだのではないのでしょうか?????日本は日清戦争直後のような「遼東還付」臥床嘗胆はできたはずです。むかし陸軍省いまZ省。
 3月事件は二千五百人規模の蹶起計画です。
第一師団長の真崎甚三郎中将の「蹶起したら第一師団が全力で鎮圧する」との断固たる意思で中止に追い込まれた。その後の陸軍幕僚の10月事件は、当初は参加する予定だった青年将校が「二階級特進」「勲章授与」を囁かれ「私利私欲の蹶起はまっぴらゴメン」と離脱して空中分解です。 昭和6年のクーデターを中止に追い込んだ真崎甚三郎と青年将校が2.26事件の首謀者として断罪された。そして裏で蠢く悪人が、支那事変から日米戦争への道を作る。そして青年将校の蹶起が対米戦争への始まりだという嘘が戦後作られる。

 【以降の流れは、「昭和時代史4、2.26事件以降の流れ(1936年から1939年)」の項に記す】






(私論.私見)