昭和時代史3、2.26事件までの流れ(1931年から1935年) |
更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).12.16日
【以前の流れは、「昭和時代史2、満州事変騒動(1931年から1932年)」の項に記す】
(「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。
(れんだいこのショートメッセージ) |
この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部-南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。 |
【5.15事件】 | |
5.15日、午後5時過ぎ、海軍将校と陸軍士官候補生9名による首相官邸襲撃事件が発生。白昼堂々、犬養毅首相が射殺(享年77歳)された。これを5.15事件と云う。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。
この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい) 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。 |
【「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)とは、西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924-1932)に積み重ねた政権交代方程式「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例を云う。しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのはその内閣が失政によって倒れたときだけである。
犬養首相がテロで倒れたとき、西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図した。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。結局、戦前期において再び政党内閣が復活することはなかった。 |
【犬養毅内閣→斎藤内閣】 | |
犬養首相の兇変直後、高橋是清蔵相が首相を臨時に兼任し内閣総辞職を行う。 5.26日、次の首相に斉藤実海軍大将が就任し斎藤内閣が成立した。「自立更生」をスローガンに発足した。政友会から3人、民政党から2人を閣僚に入れ「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。 この人事に反対だった近衛は次のように評している。
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議会側では政党内閣が後退し、憲政の危機と認識、政党のあり方をはじめ議会政治の改革のため、秋田清衆院議長の提唱により「議会振粛委員会」が設置された。副議長の複数制や委員会制度の改革、明治以来の議会慣行の改革が議論されたが、成果を得るに至らなかった。この議会改革が実らなかったことが、戦時体制へと進む要因のひとつとなった。
5.31日、塘沽停戦協定締結。これにより支那との紛争を抑えた。その後、内大臣府秘書官長の木戸幸一は永田鉄山と結託し、皇道派を潰して「華北分離工作」を強行! する。 |
6.29日、警視庁特高課が特別高等部に昇格。
【リットン委員会が再度現地調査】 |
7.4日、リットン委員会は再度来京して、北京に向かった。 |
7.18日、日本軍が熱河浸入。
7月、朝陽寺事件―または石本権四郎事件。満州国」の阿片専売のため良質の「熱河アヘン」入手のキーマンとして任命された(関東軍嘱託)石本権四郎が朝陽寺付近で拉致される。もと大連市長の兄鏆太郎(かんたろう)の手で捜索、遺体発見。下関から東京まで遺体搬送列車の行く先々で朝野を挙げて追悼集会。石本権四郎の履歴は次の通り。高知県出身、日清日露戦争で通訳。大正5年の第2次満蒙(まんもう)独立運動に参加。台灣總督府鴉片煙膏製藥所をへて、清国関東州でアヘンを製造。大正4年衆議院議員、大連市長。
7月、合法的社会主義政党である社会大衆党結党。
【政府が満州国を承認】 |
9.15日、斎藤実内閣は、日満議定書に調印して満州国を承認している。日本軍が満州国内に駐留するようになる。 |
【リットン委員会が、現地調査報告書を日本政府と国際連盟に提出】 |
9.1日、リットン報告書が日本政府に手渡される。 10.1日、リットン委員会が現地調査報告書を国際連盟に提出、10.2日、発表される。満州事変の契機となった日本軍の行動を正当な自衛権と認めないことを中心とする報告書を提出。国際連盟は19カ国委員会を設け、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況となった。 リットン報告書には、「満州は他に類例の無い地域であり、満州事変は一つの国が他の国を侵略したとか、そういう簡単な問題ではない」とも書かれており、報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化した。 |
10.6日、赤色ギャング事件。共産党員による銀行強盗事件だが、共産党側は当局のスパイによって扇動された謀略と主張。
10.30日、司法官赤化事件。東京地裁尾崎陞判事らを共産党シンパとして検挙される。
【松岡首席全権の国連総会演説】 |
10月、松岡洋右が首席全権として国連総会に向け派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選であった。12.8日、到着早々の松岡は、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行った。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、概要「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨のものだった。この演説は逆効果であったともいわれるが、松岡演説が史実に刻んだ意味は大きい。 |
11.3日、共産党中央委員の岩田義道が虐殺させられる。
12.8日、山海関で日華両軍衝突。
11.12日、熱海事件[共産党全国代表者会議の直前に一斉検挙]。
【皇道派と統制派の対立】 | |||
この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月、真崎甚三郎が参謀次長、柳川平助が陸軍次官、林銑十郎が教育総監に就任している。そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。これが皇道派となる。 他方、皇道派に対抗する格好で統制派が生まれた。統制派とは、1931(昭和6)年10月に橋本欽五郎ら桜会の中堅将校が計画して未遂に終わった「10月事件」以降、そのグループの流れを引いており、新官僚と結び、政財界に接近して作り上げた派閥である。彼らは、皇道派幹部の派閥人事や青年将校によるクーデター計画は軍の秩序を乱すと攻撃し、軍の統制を主張したことから統制派と呼ばれた。 皇道派の社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する」と言うものであった。その具体的手法として、私有財産の制限、土地の国有化等々の一見社会主義的政策を掲げていた。なお、一旦天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうと構想していた。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、共産主義と国粋主義を結合させた独特の理論を展開していたことになる。 北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である」としていたようである。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちであり、その部隊の兵士も徴兵された貧しい一般市民・農民出身者がほとんどであった。現実の国民の窮乏を肌身で感じ取っており、北一輝に共鳴する土壌があったということになる。とはいえ、20代,30代の青年の集まりで、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動に過ぎなかったという恨みがある。 荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍を支持していた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれた。このほかのメンバーには小畑敏四郎・山下泰文などがいた。 これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派であった。彼らは、次のように主張していた。
皇道派の運動に憂慮を募らせていた。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章などで、陸軍省エリート幕僚を中心としていた。 永田は皇道派を次のように批判している。
陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた。 陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことはできず議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失った。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買った。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。 新官僚と言われたの者達の中には、国維会グループ、岸信介などの満州組グループ、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ていた。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と結びついてゆくことになった。(「あの戦争の原因」) |
1933(昭和8)年の動き |
(この時代の総評)
重臣・財閥・政党の指導者を一斉に暗殺して、軍政府樹立を企画した、右翼団体によるクーデター計画が発覚する。「神兵隊事件」
1月、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が紅軍に対して抗日戦線の構築を命じる指令を下達。しかし、この頃国民党政府は抗日戦争には向かわず、江西省瑞金に築かれていた朱毛紅軍の本拠地へ攻撃を開始し始めたため、抗日戦の構築は進まなかった。
1月、大塚金之助、河上肇の検挙。
1.30日、ヒットラーが首相に就任。
2.4日、教員赤化事件。長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙開始。4月までに65校138名検挙。
2月、昭和天皇が、「近衛文麿と共に平泉澄博士と会食、大学の赤化状況を聞く」(木戸幸一日記)。
2月、近衛は、「世界の現状を改造せよ」と題する論文を発表し、文中次のように述べている。
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2.20日、斉藤実内閣が、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げ、国際連盟脱退も止むなしと決めた。
2.20日、小林多喜二が検挙され警視庁築地署で虐殺される。
2.24日、国連総会で、リットン報告書の採択が為され、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決、松岡洋右は、予め用意の宣言書「十字架上の日本」を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで国際連盟総会会場を退場した。
2.23日、日本軍、熱河省侵攻。2.25日、関東軍が熱河討伐声明。
3月、満洲国が阿片専売制度。
3.4日、ルーズベルト大統領就任。「ニューディール政策」[救済(Relief)・復興(Recovery)・改革(Reform)の3R政策]を掲げた。
【国際連盟が、リットン報告書を採択】 |
3.24日、国際連盟が、42対1(反対は日本のみ)でリットン報告書を採択。 |
【日本が国際連盟を脱退】 |
3.8日、日本政府は、国際連盟脱退を決定。 3.27日、日本は国際連盟を脱退。ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれた。日本代表の松岡洋右は、満州事変は日本の自衛権の発動であり、非は中国側にある、リツトン調査団の報告は一方的なものであり、それに基づく連盟の勧告案は不当であると熱弁をふるっている。遂に席を蹴って退出した。連盟脱退の瞬間であった。 翌日の新聞には、「連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す」の文字が一面に大きく掲載された。英雄として迎えられた帰国後のインタビューでは、「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。 |
4.17-19日、満州事変の収拾を巡る省部会議が開かれる。 ここから盟友「小畑敏四郎」と「永田鉄山」の対立が決定的になる。皇道派の小畑敏四郎は「ソ連との防衛戦では英米の援助は必要不可欠であり中国国民党との紛争は絶対に不可(北守論)」。統制派の永田鉄山は「国家に大切なものは完全なる独立自主である。その為には華北の資源は絶対に必要(支那一撃論)」。皇道派は「満洲に留まり英米よりの補給で国家を維持する」 。統制派は「華北に進出して完全なる独立自主を手に入れる」 。噛み砕くと 皇道派は「日本は単独で戦えないので敵はソ連に限定」 。統制派は「日本を単独で各国と戦える体制を作り上げる」。 |
4月、米国が金本位制停止。
【関東軍が華北に侵入】 |
5月、関東軍は華北に軍を進めた。「時あたかも、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツの目覚しい躍進があり、それに比べて、あまりにも情けない日本の現状-深刻な農業恐慌と政治の腐敗-にうんざりしていた国民は、勇敢で、且つ歯切れのよい軍部の行動に、大きな拍手を送った」。華北に攻め込んだ日本軍は、続いて北京・天津の近くまで兵を進めた。この頃から、世界が日本軍の侵略行為を非難するようになる。 |
【「京大(滝川)事件」】 | |
「京大(滝川)事件」を参照(転載)する。
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5月、昭和天皇が、「十一会にて赤の問題、滝川事件等論議する」(木戸幸一日記)。
5.31日、永田鉄山の「支那一撃論」が荒木貞夫陸軍大臣に潰されて、「北守論」に基づく塘沽停戦協定が結ばれる。
6月、昭和天皇が、「池田克司司法書記官より、学習院赤化事件の様子を聞く」(木戸幸一日記)。
6.7日、共産党幹部佐野学および鍋山貞親が獄中で転向声明。これ以後共産党被告の転向が続く。
【死のう団事件】 | ||||
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2023.8.27日、保阪 正康「特高警察の残虐な拷問と「虚偽のテロ計画」」。
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8.11日、桐生悠々、信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を掲載。その後問題化し、桐生は退社に追い込まれた。
9.13日、日本労農弁護士団の検挙。
10月、国民党の兵力50万人が約100機の航空機に支援されて、共産党の根拠地江西省瑞金への第5次攻撃を開始。四方から包囲された共産党軍10万は、瑞金の放棄を余儀なくされることになる。
10.14日、ドイツ、国際連盟脱退。
11.28日、共産党委員長野呂栄太郎の検挙[翌1934年2月19日:獄死]。
この年、ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードが、ロンドンの道路を横断中、中性子による核分裂の連鎖反応が原子爆弾の仕組みになり得るとひらめく。(リチャード・ローズ「原子爆弾の誕生」)
1934(昭和9)年の動き |
(この時代の総評)
【統制派の片倉衷少佐らが「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成】 |
1934(昭和9).1.5日、2.26事件の2年前、陸軍幕僚で後に「統制派」の中核となる片倉衷少佐が中心になって軍幕僚による「アンチ・クーデター」計画としての「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」を作成している。2.26事件で出された戒厳令は、この「要綱」に盛り込まれていたのとほぼ同じように実施され、事件終結後に太平洋戦争の泥沼に導いた軍事独裁政治は、ほぼ「要綱」通りに具体化されていったと云われている。ちなみに、片倉衷少佐は満州事変の首謀者・石原莞爾の懐刀と云われた人物である。 |
1.15日、日本共産党スパイ査問事件が発覚。
【陸相が荒木から統制派の林に交代、軍務局長に永田鉄山が抜擢】 |
1.23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任した。後任に同じ皇道派の真崎甚三郎が就任することになっていたところ、反荒木派の中堅幕僚が、参謀総長の閑院宮載仁親王を動かして巻き返しを図り、荒木陸相の後任に統制派の林銑十郎を就任させた。 |
1月、米国でドル通貨の40.94%切り下げ。
3月、統制派の林銑十郎陸相は、軍政方面におけるエリートで、大臣や次官への登竜門にして大臣・次官に次ぐ軍政方面のナンバー3の軍務局長に統制派の永田鉄山を起用した。永田鉄山は陸士を優等で卒業し、陸大も優等で卒業して、恩賜の軍刀を賜ったエリート中のエリートであった。この結果、統制派が陸軍省の実権を握り、この頃より皇道派が軍中央によって圧迫され始めた。
林陸軍大臣は永田軍務局長の「支那一撃論」を実行に移す。この時の人事で、皇道派は陸軍省中枢ポストから排除されている。参謀次長から教育総監に転じていた真崎もこの時罷免された。ここで皇道派(小畑敏四郎)の「支那と共存してソ連に備える政策」は一転して統制派(永田鉄山)の北支分離工作に転じる。基本的には皇道派・統制派の両派ともに、国体改革が必要な点では一致していたが、この時点で改革の方針を巡り、陸軍内部の改革派は二つに分裂したということになる。これ以降、二・二六事件まで陸軍内部では、怪文書が飛び交う皇道派と統制派の激しい対立が続くことになる。
この頃軍は、軍隊内務書を改訂し規律強化をはかる。しかし現場を知らない軍上層部の作成のため、上司への絶対服従・細かい規則の積み重ねを増やしただけの内容。結局、軍隊内務は厳格化・硬直化の方向に進んだ。内務規定があまりにも厳しくなり、現実からの隔たりが大きくなれば、逆に実際には守れない規則を形式上守ったことにするため、外面的辻褄合わせが横行する。内務規定厳格化は全くの逆効果になっていた。
【溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられる】 |
3月、溥儀が初代の満州国皇帝に即位。「五族(日・満・漢・蒙・朝)協和」が奏でられた。この満州国創設が「八紘一宇」の足がかりとなった。 |
【「帝人事件」発生で斉藤内閣総辞職】 | ||
昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。 時事新報の記事で帝国人造絹糸会社(帝人)株をめぐる贈収賄疑惑が浮上し、4月、検察が、台湾銀行所有の帝国人絹株の売買に背任、贈収賄の疑惑があるとして、台湾銀行幹部や帝人重役河合良成(かわいよしなり)、永野護(ながのまもる)らを逮捕起訴した。5月、大蔵省幹部も収賄の疑いで相次いで逮捕され、政治家や官僚16人を起訴し政財界に大きな衝撃を与えた。 7月、斎藤実内閣は総辞職に追い込まれた。内閣総辞職後、斎藤内閣の中島久万吉(くまきち)商工相、三土忠造(みつちちゅうぞう)鉄道相らも検挙された。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする大疑獄事件となった。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げであった。検挙当局の被検挙者に対する取調べ状況が明らかになるにつれ、その不当性を非難する声が高まり、司法ファッショのことばが生まれた。事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。1935年に公判が開始され265回にわたる公判のすえ、1937(昭和12)年、全員に無罪判決が下っている。 この事件の背後には、前年末以来中島商工相、河合良成ら財界グループ「番町会」のメンバーが推進していた政民連携運動を挫折(ざせつ)させ、斎藤内閣を倒壊させることをねらった政友会久原房之助(くはらふさのすけ)派、司法界の長老平沼騏一郎(きいちろう)枢密院副議長、軍部、右翼の策謀があったとされている。右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があった。 事件の黒幕とされている平沼騏一郎は、明治43年の大逆事件で、検事として社会主義者、幸徳秋水らに死刑を求刑。大本教弾圧にも指揮をとっている。 しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめもなく、後には司法次官に栄転する。「これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも身内優先、事なかれ主義という腐敗が蔓延していた様です」とコメントされている。 |
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「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79」の新世紀人 氏の2010.2.3日付け投稿「帝人事件、1934年(昭和9年)」を転載しておく。
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5.2日、出版法改正公布[皇室の尊厳冒涜・安寧秩序妨害への取締強化]。
6.1日、文部省に思想局を設置。
【斎藤内閣→岡田啓介内閣】 |
7.8日、海軍大将岡田啓介が内閣を組織、岡田啓介内閣が成立。陸相に統制派の林銑十郎、蔵相に高橋是清が留任した。 |
8.19日、ドイツで、ヒトラーが国民投票で総統に就任した。ドイツ第3帝国が成立した。
9.18日、ソ連が国際連盟に加入した。
9月、昭和天皇が、「今西京子と中条百合子の件」(木戸幸一日記)。
【永田鉄山】 |
「陸軍軍人の評価② 永田鉄山」。 永田鉄山は「陸軍の至宝」、「永田の前に永田なし、永田の後に永田なし」、「永田が生きていれば、太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば、東條が出てくることもなかった」と広く評価されている。石原莞爾が「陸軍の奇才」であるとするならば永田鉄山は「陸軍の天才」。陸軍士官学校の首席、陸軍大学の次席という枠を遙かに超える天才なのです。のちに統制派のリーダーとなるのに思想的に真逆の青年将校である「安藤輝三大尉」を非常に可愛がった。 第一次世界大戦ではデンマーク、スウェーデン駐在武官として客観的に学び、「次の戦争は必ず起きる」、「これからの戦争は国家総動員による総力戦である」、「日本は必ず起こる戦争に備えて総力戦体制を整えなければならない」とこの3つの固い信念の下に己を捨てて邁進して昭和10年8月12日に陸軍省軍務局長室で現役軍人相沢三郎中佐によって51歳の若さで斬殺された。青年将校の菅波三郎の言葉「蹶起の第一の理由は第一師団の満洲派遣。第二の理由は統制派が目論んでいた支那への侵略だ」。永田鉄山が支那への侵略を企んでいたという。
永田鉄山は陸軍内で非常に大事に育てられ「世界大戦」を身近で観察して、帰国後も多くの軍事戦略論文集を残して陸軍改革に貢献している。永田鉄山は「ドイツは全面的な軍事的敗北ではなく将来の再起を期すために講和を結んだ」と判断した。そして「戦争は避け難く、永久平和は来りそうもない、したがって次期大戦は不可欠であり、それはドイツ周辺から起こる」と判断している。だから「次の戦争に備えて単独で総力戦を戦えるように国家総動員体制を整える。 満洲事変以前に後の歴史を見切っていた。恐るべき洞察力。 そして総力戦体制を整えるためには政財官の協力が不可欠と洞察した。あらゆる組織から一目置かれるようになる。 大正10年(1921)10月27日にドイツバーデンバーデンにて 小畑敏四郎、岡村寧二、東條英機、鴨脚(いちょう)光弘と陸軍改革を固く誓い合う。これが有名な「バーデン・バーデンの密約」。ここで 「第一次世界大戦後の総力戦への対応」 、「ソビエト連邦樹立(共産主義への脅威)」 、「派閥政治の打破」 を固く誓い合う。 この「バーデン・バーデンの密約」から昭和20年8月15日の敗戦まで一気に流れていく。 |
【石原莞爾】 |
「陸軍軍人の評価③ 石原莞爾」。
永田鉄山と並び評される石原莞爾。永田鉄山は「戦争は避け難く永久平和は来りそうもない」と断言したが、 石原莞爾は「最後の大戦争後に世界統一して恒久平和が訪れる」と断言している。両者は、短期決戦の時代は終わり第一次世界大戦から「総力戦」の時代だ!という認識においては一致していた。永田は「貧弱な日本の総力戦体制を一刻も早く整える」、石原も「我が日本の国力は遺憾ながら頗る貧弱なり」と絶望している。① 総力戦体制を整える為の資源確保に満洲領有は絶対に必要だった。② 世界恐慌後の困難な不況と人口問題を打開する(日本の生命線)。③ 共産革命対策。④ 自存自衛の為にも満洲領有は絶対に必要。満洲北側のソ満境界に横たわる巨大な興安嶺山脈(こうあんれい)を利用してソ連の侵略を容易に防御する事が可能になる。(皇道派の小畑敏四郎がわずか17個師団でソ連に侵攻しようとしていた北進論は軍事戦略上成り立たない。あくまでも北守論)日本の満蒙領有により「軍閥、学匪、政商」の排除により治安が回復し急激な発展が可能になる。だからこそ五族共和の大義名分が成り立つ。のちの東條英機内閣№2の企画院総裁の鈴木貞一は「陸軍の派閥抗争なんて膨大な陸軍機密費の奪い合いに過ぎない」と矮小化している。満洲領有により「資源」「不況」「人口」「共産革命の防波堤」「対ソ防衛」が解決する。満洲事変の目的は「自存自衛」の為で、「五族共和」は後付けでありそれは正しい。石原と永田は満洲だけでは足りないと判断した。「人口問題や資源問題」の解決には北支五省も必要だと判断した。皇道派の「小畑敏四郎」は北支五省に踏み込むと米英と対立するから不可と判断した。ここで、
(統制派)「永田鉄山」 満洲+北支五省
(満洲組)「石原莞爾」 満洲+北支五省
(皇道派)「小畑敏四郎」満洲のみを堅持
と一夕会が割れた。これが陸軍の派閥抗争の始まりである。
「永田鉄山」を深く調べると「天才」、「石原莞爾」を深く調べると「奇才」。
「決戦戦争」、「持久戦争」、「最終戦争」、「世界統一」の螺旋の流れにあり「第一次世界大戦から持久戦争の流れで現在(昭和2年)があります。石原莞爾は「最終戦争は国家総動員による消耗戦略にあらずして・・・一挙にしかも徹底的に敵を殲滅するにあり。それは空中戦なり」と言っている。永田鉄山は次の戦争を念頭に置いていたが石原莞爾はその後の最終戦争を念頭に置いていた。「総力戦による持久戦争」の後に「最終兵器による最終戦争」が起こる、東洋の覇者の日本が西洋の覇者の米国を最終戦争で破り世界統一による恒久平和が訪れるとしていた。最終戦争論とは、戦争は決戦戦争の時代から持久戦争に移り、これに勝利した東洋の覇者の日本が西洋の覇者の米国に最終戦争で勝利して平和な世界になる。その最終戦争は20世紀後半で軍用機による大量破壊兵器を用いた主要都市を破壊・殲滅し勝敗を決するという。まるで宗教のような話。石原は日蓮宗、国柱会の田中智学に心酔する熱心な信者。根幹に日蓮宗があった。
明治38年(1905)、石原莞爾が仙台陸軍幼年学校卒業の時に日露戦争は終了した。
中央幼年学校入学直後にロシアとの講和条約に不満をもった国民による「日比谷焼き討ち事件」を実際に目の当たりにしている。
大正7年(1918)、陸軍大学を卒業するが陸大で学んだ実感が「日露戦争で日本は勝てたのは奇跡だ!ロシアが抗戦を続けていたら負けていた!日本は国力を向上させて次の戦争に備えなければいけない」。
大正10年(1921)【バーデンバーデンの密約】
昭和3年1月の段階で、石原莞爾も永田鉄山も小畑敏四郎も次期大戦は持久戦(消耗戦)を念頭に置いていた。皇道派の小畑敏四郎は次期大戦に持久戦(消耗戦)を戦えない日本は参加不可能と判断していた。永田鉄山は「総力戦を戦える国家づくり」を目指していた。石原莞爾は「総力戦を戦えば国家破綻だ」と絶望してた。
だからこそ石原莞爾は、
(永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次等が長州閥妥当の派閥を作る)
昭和6年には満蒙領有の時に米国の介入もあり得るが限定戦争に抑える。その為に「戦争により戦争を養う」事が出来るようにする。永田鉄山は次の世界大戦で日本は必ず巻き込まれると判断していた。永田鉄山は海軍による消耗戦も必至と判断していた。
石原莞爾は次の対戦は欧州戦争で日本は参戦せずに満洲経営で力を温存する。
ここだけは皇道派の小畑敏四郎と同じ考え方だった。
次の欧州戦争に日本は巻き込まれずに欧州戦争の覇者の米国との(最終戦争)は20世紀後半で航空機による首都の殲滅戦だから決戦戦争だと判断していた。
満洲事変に戻る。一夕会は「満蒙領有」を基本方針としていた。しかし石原莞爾は陸軍中央の「建川好次参謀本部第一部長」の強硬な反対意見を受け入れて「独立国家」樹立に方針変換する。
昭和6年12月13日に満州事変の最中に陸軍大臣が荒木貞夫に変わって帝国陸軍の方針が「満洲独立」にと傾いていく。昭和7年8月、石原莞爾は陸軍歩兵大佐に昇進。陸軍省陸軍兵器本廠附の段階で参謀本部第二部長の永田鉄山の満蒙領有に真っ向反対する。統制派の東条英機、武藤章は石原莞爾のこの「第一の変節」が面白くない。ここから後の対立が始まる。昭和8年5月31日、皇道派の荒木貞夫陸軍大臣が塘沽停戦協定を結び万里の長城の外には絶対に行かないと「支那一撃論」を潰す。これに永田鉄山、石原莞爾が大反発する。永田鉄山(統制派)の荒木貞夫、真崎甚三郎(皇道派)潰しが決定打となった。一旦、皇道派に潰された華北分離工作(北支を日本の勢力圏に入れる事)を復活させる事に永田鉄山が暗躍する。石原莞爾が
関東軍参謀から歩兵第四連隊長をへて昭和10年8月12日に参謀本部作戦課長に着任した時に、永田鉄山が相沢三郎中佐に斬殺される事件が起きる。陸軍省部が大混乱の中で「帝国陸軍作戦計画」を精査する。対ソ3割の戦力に愕然とする。昭和11年2月26日の2・26事件で石原莞爾は「荒木貞夫」、「真崎甚三郎」に対して激しい怒りをぶつける。それは自分を満洲から引き離した古い恨みと同時に「支那一撃論」を潰して時間を浪費して満洲北部の対ソ3割の圧倒的劣位を招いた当時の陸軍大臣、参謀次長に対する怒りだった。
{満州事変後2~3年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまったのであります}
と当時の心境をのちに語っている。
しかしそれは昭和9年1月23日に陸軍中央を追いやられた皇道派の責任ではない。
それから陸軍中央を支配した永田鉄山軍務局長等、統制派の責任だった。
昭和8年8月1日に仙台の歩兵第4連隊長となり2年間も中央を離れた石原莞爾はそれを知る由もなかった。
石原莞爾の第二の変節が「華北分離工作」。
【北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)の国民党からの分離を工作】
梅津・何応欽協定 昭和10年6月10日
(河北省に非武装地区)
![]() 土肥原・秦徳純協定 昭和10年6月27日
(察哈爾省の安全確保)
![]() により華北の日本軍勢力範囲を広げます。
これも石原莞爾は大賛成でしたが火薬庫の出来上がりです。
山西省の石炭、河北省の鉄は絶対に必要だったのです。
昭和5年3月1日
「なるべく武力行使は避けるが支那本部に兵力を用いる場合は、米英の参戦も覚悟せざるべからず」
昭和7年1月
「満洲はほんの足場である。山西省、陝西省(せんせい)までも進出しなければならない」
と発言しています
石原莞爾にとって「これを潰したのが荒木、真崎の皇道派」コンビです。
これが怒りの原因なのです。
昭和10年8月12日着任後に「帝国陸軍作戦計画」を精査して「対ソ3割の戦力」に愕然として方針を大転換します。
2・26事件直後の
昭和11年4月 華北分離工作を、あくまでも推し進めようとする関東軍の暴走を、抑える為に支那派遣軍を2倍強に増強したが、国民党には逆に日本の武力工作と誤解されてしまいます。まさに逆効果です・・・
昭和11年6月
国防国策大綱
① ソ連の「極東攻勢政略」を断念させることに全力を挙げる
② 日満北支での対ソ持久戦準備
③ 米英との親善関係の保持(北支分離工作の中断)
④ Etc・・・・
【長期持久戦には満蒙だけでは不十分で華北五省も制し支那と連携して東亜の持久自活の道を確立すべし】と主張していた石原莞爾が北支分断工作を中止した理由は
① ソ連の脅威の為です。
② 米英との親善関係です(補給の確保)
この石原莞爾の第二の変節で梯子を外され関東軍参謀だった武藤章は怒り狂いました。
昭和11年2月、2.26事件頃から関東軍は華北分離工作の一環としてモンゴル王族の徳王に内蒙軍政府を樹立させて参謀本部の石原莞爾の意向を無視して昭和11月11月内蒙軍に華北綏遠省を攻撃させました。(これが内蒙工作で関東軍の暴走です)
この時に慌てて参謀本部戦争指導課長となった石原莞爾が関東軍を視察に来て「内蒙軍政府は国民党政府との講和を」と指示すると武藤章関東軍参謀は「我々は満洲事変でのあなたの行動を見習いその通りに満蒙で実行している」と反論しています。
これを「半藤一利」「保坂正康」は支那事変でのやりとりだと歪曲して拡大解釈しています。
それでも石原莞爾は次の移動(昭和12年3月1日)で武藤章を参謀本部作戦課長として自分の部下に取り込みます。(華北分離工作や満蒙工作は永田鉄山の意志であり、その懐刀であった東条英機や武藤章はこの石原莞爾の裏切りが我慢できない・・・石原莞爾はそれでも武藤章を取り込めると過大評価をしてしまいました。その後の盧溝橋事件、第二次上海事変で決定的な対立を迎えた末にお互いに参謀本部中枢から左遷・・昭和13年7月北支那方面軍参謀副長に就任した武藤章は現実を思い知らされる・・・「石原閣下の言うとおりだった」と猛省して昭和14年9月陸軍省軍務局長となった折に 80万人に膨れ上がった支那派遣軍を50万人まで削減する努力を続けるがどうにもなりませんでした・・・
東條英機も後に陸軍大臣、総理大臣になり対米非戦に努めるもどうにもなりませんでした。
(まさに後の祭りです)
昭和11年12月12日 西安事件が起こり中国大陸は重大な岐路を迎えます。
共産党の毛沢東を西安に追い詰めて止めを刺そうとしていた張学良が督戦に来た蒋介石を裏切って逮捕して共産党に差し出しました・・・
そして「第二次国共合作」が成立して抗日勢力が団結したタイミングの
昭和12年1月に石原莞爾は「対支実行策改正意見」で華北分離工作方針は全面中止にしています。(これも後の祭りです)
この非常に不安定な状態で中国共産党に仕掛けられて昭和
12年7月7日に「盧溝橋事件」(北支事変)が起こります。
石原莞爾は必死に不拡大の為に奔走します。
武藤章は(華北分離工作)再開のチャンスと捉えます。
そして
(昭和12年)7月29日の河北省通州において冀東防共自治政府保安隊(日本の傀儡政権)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件が起こります。冀察(きさつ)政務委員会(29軍軍長宋哲元)(国民党の傀儡政権)に内通者した冀東保安隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田の犯罪です。つまり永田鉄山が推し進めた華北分離工作の悲劇の結果です。
石原莞爾は絶句します。かって永田鉄山と共謀して行った華北分離工作の悲劇なのです。
もしも塘沽停戦協定で止まっていて華北分離工作が無かったら起こらない悲劇だったのです。
昭和12年8月9日は石原莞爾の指示で揚子江沿岸に在留していた日本人約29,230名の上海引き揚げを完了し上海で行われていた船津和平工作の交渉初日でした。
その当日に大山(勇)事件が起こります。海軍士官と部下の二人が惨殺されます。
時を合わせたように
昭和12年8月9日察哈爾作戦勃発です。盧溝橋事件を北支分離工作完成の好機と捉えた関東軍参謀長の東條英機が暴走します。
石原莞爾は絶望します・・・・
4日後の8月13日に第二次上海事変(支那事変)から南京攻略戦、徐州作戦、漢口(武漢)・広東攻略、そして重慶爆撃へと泥沼に嵌っていきます・・・
そして昭和16年12月8日、大日本帝国は絶望の対米戦争に踏み切ります。
華北分離工作とは何だったのか???
すっかり忘れられてしまったのは何故なのか???
華北分離工作は総力戦体制を整える為の資源確保に始まりました
永田鉄山は暗殺の直前昭和10年8月4日、欒州事件で華北分離工作にブレーキを掛けます。
石原莞爾は2・26事件の直後に昭和11年6月国防国策大綱にて華北分離工作に大ブレーキを掛けます。
武藤章は昭和13年7月に北支那方面軍参謀副長に左遷されて華北分離工作の過ちに気付きました・・・・
東條英機は昭和16年10月18日に総理大臣になって華北分離工作の過ちに気付きました。
戦後、石原莞爾は山形県酒田の出張法廷に出廷した頃統制派系の記者である岩淵辰雄が近所で講演をすると聞き面会を求めました。
「真崎甚三郎大将の事で話がある」と・・・「今更話すことなどない」と断ったそうです。
石原莞爾は一体何を話そうとしたのでしょうか???
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「統制派」は共産主義、大日本主義、対米英蘇対決路線ですよね。「皇道派」は資本主義、小日本主義、米英蘇協調路線です。「統制派」は重税負担、「皇道派」は民力休養。「統制派」が「皇道派」に勝ち、日本を敗戦に追い込んだのではないのでしょうか?????日本は日清戦争直後のような「遼東還付」臥床嘗胆はできたはずです。むかし陸軍省いまZ省。 |
3月事件は二千五百人規模の蹶起計画です。
第一師団長の真崎甚三郎中将の「蹶起したら第一師団が全力で鎮圧する」との断固たる意思で中止に追い込まれた。その後の陸軍幕僚の10月事件は、当初は参加する予定だった青年将校が「二階級特進」「勲章授与」を囁かれ「私利私欲の蹶起はまっぴらゴメン」と離脱して空中分解です。
昭和6年のクーデターを中止に追い込んだ真崎甚三郎と青年将校が2.26事件の首謀者として断罪された。そして裏で蠢く悪人が、支那事変から日米戦争への道を作る。そして青年将校の蹶起が対米戦争への始まりだという嘘が戦後作られる。
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【以降の流れは、「昭和時代史4、2.26事件以降の流れ(1936年から1939年)」の項に記す】
(私論.私見)