昭和時代史2、2.26事件までの流れ(1931年から1935年) |
更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).12.16日
【以前の流れは、「昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ」の項に記す】
(「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。
(れんだいこのショートメッセージ) |
この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部-南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。 |
1931(昭和6)年、満州事変発生後の動き |
【柳条湖事件勃発→満州事変発生】 | |
9.18日、柳条溝事件が発生した。ここから満州事変と云われる一連の経過が始まる。柳条湖事件とは、9.18日夜、奉天に近い(奉天駅から8キロ北東に位置している)柳条溝付近で、南満州鉄道の線路が何者かの手によって爆破され、関東軍がこれを張学良系中国軍の仕業だとして一挙に軍事行動を満展開していくことになったその引き金になった事件のことを云う。関東軍は、これを中国軍の仕業として守備隊が付近の張学良指揮下の中国軍北大営を奇襲攻撃した。睡眠中の中国兵は算を乱して逃亡し、19日午前2時、日本軍弟29連隊は奉天城に無血入城した。 翌9.19日の朝日新聞報道は次の通り。
ちなみに関東軍とは、日露戦争後の1906(明治39)年に遼東半島南端の関東州租借地と満鉄付属地の守備のために組織された関東都督府陸軍部が前身。簡単に言えば、日露戦争で得た、満鉄・租借地などの中国での日本の利権を守るための植民地駐留軍ということになる。 今日では時の関東軍参謀・大佐板垣征四郎、関東軍参謀(作戦主任参謀・中佐)石原莞爾、奉天特務機関員・花谷正、張学良顧問補佐・今田新太郎などが参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らと連絡を取り合いながら仕掛けた謀略であり、火付け実行役は無政府主義者大杉栄を殺害した甘粕大尉グループが請け負ったとされている。ちなみに、甘粕大尉は大杉栄夫妻と橘宗一殺人の咎で10年の刑期を受け服役していたが、三年で千葉刑務所から出所していた。 石原たちは満州の関東軍(約1万)を勝手に動かし、中国北方軍閥の張学良軍(約22万)に戦いを挑み、見事にこの事変を成功させる。この満州事変は国家の閉塞状況を打破してくれる物として不況のさなか国民の拍手喝采を浴びる。この事変を成功させた石原は国民的英雄となった。 |
【政府「事件の不拡大方針、現地解決」方針を決定】 |
事件の翌日9.19日早朝ラジオの臨時ニュースは、興奮におののくアナウンサーの声で柳条湖事件の勃発を伝えた。第二次若槻内閣は緊急閣議を招集し、「事件の不拡大、現地解決方針」を決定し、陸軍三長官(南陸相・金谷参謀総長・武藤教育総監)に杉山次官、小磯軍務局長を交えた陸軍三長官会議が開かれここでも不拡大方針を決定している。とはいえ、「軍の安全を保障する上において占拠せる諸地確保のため必要ならば障害除去のため積極的行動を採るもやむを得ぬ」としていた。但し、関東軍を抑え、軍事行動を抑止する具体的な措置は何も採られなかった。 |
【松岡洋右日誌】 | ||
「上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン」より。
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【抑制派(石原完爾)とヨウ懲派(東条英機)が対立。勢いとまらず関東軍の暴走始まる】 |
この時石原完爾は、ソ連南下防止のため日支が提携する必要を力説し、「平和的な解決を目指せ、戦争は阻止しなければならない」と説得に努めている。 しかし、「暴れる支那は懲らしめるぺ゛し(暴支ヨウ懲)」と主張する関東軍参謀の東条英機、参謀副長の今村均らの勢いが勝り、政府や軍中央が事件の処理方針を廻って議を練っている間にも現地では新たな軍事行動を発生させていた。9.19日本庄繁関東軍司令官に圧力をかけ関東軍を出撃させ満鉄沿線を制圧。 9.21日、関東軍司令官・本庄繁と朝鮮軍司令官・林銑十郎は、柳条溝事件勃発直後打ち合わせ、在満居留民への驚異をあおり、それを理由に独断で部隊を越境派兵。海外に派兵する為には天皇の奉勅が必要で、これ無しのままの派兵は重大な軍規違反であったが、軍中央に事後承認を迫った。 この時陸軍参謀総長は内閣の閣議決定を待たずに直接、天皇に上奏しようとするが、これに猛反発したのが永田鉄山(陸軍省軍事課長・大佐)。「閣議の承認を得ずに上奏するのは、天皇に対する道でない」と主張し強硬に反対。直接上奏は取りやめられ、閣議決定を待つことになる。つまりたかが軍事課長の意見が陸軍トップの三長官の考えをひっくり返している。 9.22日、閣議で朝鮮軍の越境が承認される。軍中央は、この林の天皇の統帥権干犯罪に値する独断の報に接しても問題とせず、翌日の閣議において朝鮮軍出兵を認めさせ、天皇の事後承諾を仰いでいる。天皇のしぶしぶながらも裁可が為され、こうして既成事実の追認化への道が開かれていくことになった。現地関東軍はこれに味を占め、その後更に軍事行動を拡大していくことになった。こうして、柳条溝事件に端を発して満州事変が勃発していくことになり、日本帝国主義はこれを契機に暴力的な局面へと傾斜していくこととなった。 9.24日、政府は日本軍の行動を自衛のためとし、事態不拡大をうたった声名を発表。 張学良指揮下の中国軍隊は寝込みを襲われ敗走させられている。続いて早くも二日後吉林に進撃、10.8日には退却を続ける中国軍を追って張学良政権の移転先であった錦州を爆撃、調子づいた関東軍は北部満州にも軍を進めハルピンを陥落させ、11.9日にはチチハルを占領した。こうして、日本軍はまたたくまの短期間で全満州を手中にした。 翌昭和7年2月5、ハルビン占領。これで満州の主な都市を全て占領。以後、満州国樹立に向かう。同年3月1日、満州国設立宣言。清朝最後の皇帝溥儀を皇帝として担いだが、完全に関東軍の傀儡政権。政府の実体を見ても、名目上は大臣に満人を据えたものの、実権は日系官僚が握っていた。 |
【昭和天皇は「東洋王道」を捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 】 | ||||||||||||||||||||||||
(出典元失念) 張作霖爆殺の収拾策について、昭和天皇が田中義一首相に「食言」であると叱責したことについては、昭和天皇自身、『昭和天皇独白録』のなかで、次のように記している。
鹿島は、この天皇の物の言い方はおかしいと考えた。なぜならば、陸軍の規定によると、国外に駐屯する軍隊を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長であるからである。では、その参謀総長は、自分の裁量でいかようにも軍隊を動かせるのかというと、それはできない。大日本帝国憲法の第一一条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇なのである。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。 このあたりのことを、もう少し詳しく説明すると、まず陸軍のなかには、陸軍省と参謀本部の二つがあり、陸軍省のトップは陸軍大臣で、参謀本部のトップは参謀総長であった。海軍のなかにも、海軍省と軍令部の二つがあり、海軍省のトップは海軍大臣、軍令部のトップは軍令部総長であった。東條英機が出てきてややこしくなったのは、陸軍大臣であった彼が、総理にもなり、陸軍参謀総長までをも兼任したからである。 天皇の国家統治の大権(明治憲法による)は、国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった。次のように機能を分けていた。
参謀本部と大本営の関係、陸海軍省と参謀本部・軍令部の関係は、次のようになっている。
これらの軍の組織と天皇との関係については、憲法で輔弼(ほひつ)と輔翼(ほよく)という言葉を使って規定されていた。当時の日本の国家の形は、明治憲法に基づく立憲君主国であり、天皇が国家の統治権を総撹(そうらん)(政事・人心などを一手に掌握すること)するとされていた。その天皇の大権は、一般行政と統帥の二つに分かれていて、国務上の輔弼は政府が、統帥権のほうは参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が輔翼(ほよく)(補佐したすけること)するということになっていた。 「輔弼」というのは、天皇の行為としてなされ、あるいはなされざるべきことについて進言し、採納(採用)を奏請(そうせい)(天皇の決定を求めること)し、その全責任を負うことであり、「輔翼」とは補佐というような意味である。 ` 昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する 陸軍参謀総長であっても、海外に、駐屯している軍隊を自由に動かせないことについては、陸軍参謀であった瀬島龍三が、さまざまな著書のなかで「一兵卒足りとも(天皇の裁可がなければ)動かせない」と述べている。瀬島参謀は、そのために鳥の子紙(雁皮を主原料として漉いた(すいた)和紙。平滑・綿密で光沢がある)に攻撃命令を書き、それとは別に、「別紙の件につき、允裁(いんさい)(御裁可のこと)を仰ぎ奉り候なり」というのを書き、それらを持って参謀総長が宮中に赴き、そこに天皇が墨で裕仁とサインをし、侍従が「天皇御璽(ぎょじ)」の四字を刻んだ金印を捺(お)して(御璽御名が揃って)、はじめて軍隊が動いたのである。 ちなみに、戦後に防衛庁の戦史室の人が調べたところ、大東亜戦争中の陸軍に関する陸軍部命令は二二〇〇通ほどもあり、そのうちの七〇〇通くらいに起案者・瀬島龍三の判が押してあったそうである。だから、張作霖爆殺の報に接したとき、天皇のなすべきことは、次のとおりであったというのが、鹿島の主張である。 最初田中義一首相から報告があったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。 関東軍は海外に駐屯している部隊であるため、総理大臣はもちろん陸軍大臣にも動かす権限がない。陸軍は、陸軍省と参謀本部からなる組織であり、海外に駐屯している関東軍を動かす権限は参謀本部にあり、そのトップは参謀総長であり、その参謀総長が「天皇陛下の御裁可をいただいて」はじめて、兵を動かすことができる。 だから、張作霖爆殺事件については、田中義一総理大臣を叱責するのは筋違いであり天皇みずからが参謀総長に事件の真相解明を命じ、「河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」のが正しいと判断したならば、そのようにさせればよかったというのである。それが筋でありながら、昭和天皇は田中首相を叱責し、内閣総辞職から二ヵ月後の急死へと、追いやったのである(実は築地の割烹旅館高野屋にて頓死した)。 そればかりか、関東軍は図に乗って、三年後には、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、引き起こした。鹿島も含めて、日本ではこの事件を「柳条溝事件」と呼んできた。それは新聞の誤報に、端を発する、地名の誤りであり、柳条糊が、正しい地名であることが、1981年に、中国の研究によって、確認されている。 朝鮮軍司令官であった林銑十郎(せんじゅうろう)は、柳条湖事件直後に、独断で鴨緑江を渡って満州に出兵し、あとで昭和天皇に対して進退伺いを出したが、昭和天皇はこれを免責している。 満州はこのとき、関東軍、朝鮮軍の侵攻により、わずか半年足らずで実質的に日本のものとなった。柳条湖事件を画した板垣征四郎、石原莞爾、それに独断出兵した林銑十郎は、厚く遇され、関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉す(ほめる)」との勅語が与えられた。 張作霖爆殺からのことを、ここでまとめておくと、まず独断専行してこの大事件を起こした河本大佐(および陸軍上層部)は、おとがめなしとなった。しかし、それでは諸外国に対してマズイということで、田中内閤を総辞職させ、田中義一を死に至らしめた。同じころ、孫文は神戸で次のような演説をしている。
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【中国国内で排日から抗日運動への転換。「打倒日帝運動」開始される】 |
これに対し、中国国内では排日から抗日運動への転換が為され、「打倒日本帝国主義」の声が怒涛の如く広がっていくことになった。 |
【満州事変に対する日本労農党(日労党)の党声明】 | |
満州事変に対する日本労農党(日労党)の党声明。
党内に「対支出兵反対闘争特別委員会」を設置し、長老・堺利彦が委員長、委員として宮崎竜介、河野密、加藤勘十、室伏高信、田部井健治、岡田宗司、織本、山花秀雄、三輪寿荘、水谷長三郎、浅原健三、川上丈太郎、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎らが名を連ねている。 |
【満州事変の諸影響としての軍部の台頭考】 | ||
「あの戦争の原因」は次のように記している。
「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」は次のように記している。
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【イギリスが金本位制停止】 |
9.21日、イギリスが金本位制停止。「従来の国際金融市場において卓越する地位を占め、ポンド貨こそは世界貨幣であるとまで云われたそのイギリスが金の輸出を禁止するに至ったのであるから、この報道を受けた我が国では為替市場のみならず、金融財界全般に亘って非常な衝撃を受けた」(斎藤栄三郎「昭和経済50年史」)。以降、ポンドに変わってドルが台頭していくことになる。 |
【桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる】 |
10.21日、満州事変と呼応する形で、桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる。第一師団の10個中隊を動員して政財界の要人を殺害するという本格的暴力的手段を用いての国内クーデターを起こす計画で、橋本欣梧郎、大川周明、北一輝、西田税、井上昭、橘孝三郎らが首謀し、若槻首相、幣原外相、牧野内大臣、その他清浦、斉藤実、岡田啓介、伊沢多喜美、後藤文夫、郷誠之助、池田成彬、岩崎小弥太らを殺害対象、西園寺元老、一木喜徳宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら6名を襲撃対象にしていた。計画成就後は、東郷平八郎元帥を首班とし、田中国重、末次信正、荒木貞夫らを閣僚に予定していた。 が、計画は事前に軍首脳部に漏れ、首謀者らは憲兵隊に拘束されて未遂に終わる。例によってこの事件も軍部の方針によりもみ消され箝口令が敷かれた。桜会は解散させられたが、最も重い処分は橋本の重謹慎20日。 この事件はかなり情けない事件だったらしく、首謀者達は明治維新の志士気取りで待合いで豪遊していたうえに、クーデター後、首相に担ぐ予定の荒木貞夫にはなんの話も付けていなかった(このルートで漏れたらしい)という状態ですから、失敗するのも当然の話。桜会は所詮、陸大出の陸軍省エリート将校を中心とした集まりであるため、何か世間とずれていた様です。クーデター未遂事件に対して、処分は謹慎だけと言うのも酷い話で、軍上層部の「事なかれ主義」的処分が、軍内部に「なにをしても罰せられない」という雰囲気を作り上げることになる。 この不明朗な結果に対して、クーデターの実働部隊として参加していた、若い尉官クラスの将校たちが、あきれ果てて桜会グループから離脱。国家改造を目指して独自の活動を開始する。この活動は20代から30代前半の陸軍将校が中心だったため、後に「青年将校運動」と呼ばれる。 国内の世相としてやたらと愛国的な風潮になり、右翼が活況を呈する。彼等の主張を要約すると・陸軍の支援、・英米依存外交を排し自主外交の確立、・財閥と結んだ政党政治の打破、・強力政権の樹立。 |
財政的には、満州事変による緊急事態を名目にした軍事費膨張により、井上蔵相の緊縮財政、完全に破綻。財源不足のため、年度末には減債基金繰り入れ中止(国債償還の停止)4400万円のほか、「満州事変公債」7700万円を含めて一般・臨時軍事費特別会計における新規公債発行は1億8900万円にたっする。11月には井上蔵相も昭和7年度予算では歳入補填公債、つまり赤字公債を発行せざるを得ないことを認めた。 |
【若槻内閣→犬養毅内閣】 |
12.11日、若槻内閣は、幣原外交と軍部との対立、イギリスの金本位制問題、安達内相による連立内閣提案を廻る閣内不一致、その他軍部の独走を止められず総辞職を余儀なくされた(第二次若槻礼次郎内閣(民政党)が内閣府一致で総辞職)。 12.12日、安達内相は、同志7名を連れて民政党を脱党、国民同盟を結成した。 後継に元老・西園寺公は、政党政治の長老犬養毅を最後の切り札として、天皇に奉請した。昭和天皇は軍部の横暴と政治干渉を深慮されていた。 12.13日、犬養毅内閣(政友会)成立。(犬養首相の履歴は「5.15事件と2.26事件の相似と差異考」に記す) 犬養首相は衆院で171名の政友会少数党で内閣を発足させた。犬養首相は外相を兼任、蔵相には高橋是清が再び登板、陸相には荒木貞夫大将、海相には大角*生大将。軍部との協調路線に進む。 就任直後には、経済政策を180度転換し、前蔵相・井上のとった金の輸出を再び禁止し、金本位制を停止させた。第60議会で、金輸出問題を廻って、高橋蔵相と井上前蔵相が論争した。筋金入りの積極財政論者である高橋は赤字国債を伴う財政出動に踏み切った。かくて「デフレーションからインフレーションへ」の財政政策転換が大胆に為されていくことになった。結果的に、軍事インフレ路線に転換させた。 |
1932(昭和7)年の動き |
【高橋是清蔵相による積極財政政策】 | ||||||
高橋是清蔵相は、経済不況を脱出するため積極財政を開始した。金解禁と財政緊縮政策が今回の深刻な経済政策を招いたと指摘し、景気回復のため財政政策を積極政策に転換させた。この積極政策の財源は公債による赤字財政に拠った。高橋蔵相は、「経済が沈滞している時期だから、増税による経済への圧迫は避け、経済力の回復増進を第一に考えるべきである。そのために一時公債が増えても産業が復興すれば、国民の税負担能力も増え、税収の増加も期待できる。その時に公債も償還できる」と考えていた。 その政策の内容は、
この高橋財政で特に問題なのは、禁じ手である日本の中央銀行・日銀による公債引き受けを始めた事である。7年度から「歳入補填公債」(赤字国債)を発行し、それを高橋蔵相が深井英五・日本銀行総裁と組んで、新規公債を日銀引き受けにより発行する新方式を提案、実行した。これで政府は資金が必要な場合、公債を発行し日銀に引き受けさせることで、簡単に資金を調達できる。つまり事実上、政府が自由に日銀券を発行出来ることになった。しかも、同時に日銀券の保証準備発行限度を大幅に増やしている。これは通貨制度において、金本位制度を放棄し、現在と同じ管理通貨制度に中途半端に移行していることを意味する。沈滞した経済界に通貨を供給し、刺激を与えるための資金が、公債を発行することで容易に得られることになったということである。 この公債政策のためには、日銀の発券能力の拡大が必要となる。このため関連法を改正、日銀券の保証準備発行限度(「金」の裏付けの無い発券限度、裏付けがある発行は正貨準備発行と言う)を1億2000万円から10億円に拡張、制限外発行税を5%から3%に引き下げた。さらに、景気回復対策と国債償還を円滑に進めるため、低金利政策も必要となり、実施している。 これらの政策のため一般会計歳出は、・昭和6年度 14億8000万、・昭和7年度 19億5000万、・昭和8年度 22億5000万と次第に膨張していく。 元来、中央銀行の役目とは、政府による自由な通貨発行を許していては、通貨価値が安定せず、経済不安を招くため、通貨の番人として政府から独立して金融政策行う役割のはずである。管理通貨制度の場合、この役目はより重要になってくる。金本位制度にある「金」という通貨価値の裏付けが無くなる、代わりに、中央銀行では景気・経済対策のため、柔軟に通貨量を決める事が可能となる。ただし、通貨量・金融政策の管理をよほどしっかりやらないと、簡単に通貨はその価値を喪失する。紙幣が文字通り単なる紙切れになる可能性がある。日本はこの管理通貨制度に、なし崩し的に、中途半端に移行した。 公債を日銀が引き受けるという高橋政策は、日銀からこの通貨管理能力を、政府が奪った上で、政府の公債発行の歯止めを取り払ったことになる。もし政府が公債=通貨の発行を過剰にした場合、簡単に悪性インフレーションを引き起こし、しいては日銀券が通貨としての信用を失うことになる。つまりは日本の金融制度が破綻する。 この財政政策は、近代金融制度・市場経済原理を理解している高橋蔵相の管理下で、高橋蔵相の読み通りに経済が回復すれば何とかなるが、一端その管理を離れると暴走を始める危険性がある。管理通貨制度が管理不能の事態に陥る危険性を含んでいた。 とはいえ、取りあえずは日本は世界で一番早く世界恐慌から脱出することに成功し、ここから昭和12年度までの日本の実質GNP成長率は7%に達する好況の時代を迎えることになった。この時期が、戦前の日本を代表する時代と言われる。(「あの戦争の原因」) |
【マスコミ提灯記事で関東軍の暴走を煽る】 |
正月の朝日新聞社説は、関東軍の暴走を諌めるどころか「我が東洋民族が共存共栄のため、宿載(しゅくさい)の禍を転じて、永遠の福をもたらさんとする意図に発するもの」と論じ、自存自衛の正しき軍事行動論で提灯記事を掲載している。これが当時の進歩的文化人の思潮であった。 |
【国際連盟動く、リットン委員会が現地調査】 |
1.4日、国際連盟は、英国のリットン伯を団長とする米仏独伊各国委員計5名の調査団を編成。1.29日国際連盟派遣の現地調査段(リットン委員会)が東京に到着し、数日の滞在後上海から南京、満州へと向かった。リットン調査団は、3、4月は中国を、4、5、6月は満州を調査。 |
【桜田門外事件】 |
1.8日、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件が発生した。これを「李奉昌事件」あるいは「桜田門不敬事件」又は「李奉昌不敬事件」と云う。 時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9.30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932.10.10日、市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。(→桜田門事件) |
【上海事変前兆事件】 |
昭和七年の年が明けると、満洲情勢は一層緊迫の度を増していた。 1.18日、上海で日蓮宗僧侶殺害される。上海江湾路にある妙法寺の僧侶2名が、上海の市街をうちわ太鼓を叩きながら托鉢に歩いていた。それは排日に興奮している中国人に対する挑発のような役割を持ち、憤激した三友実業公司の労組員が取り囲み、1名を撲殺し1名が重傷を負った。 翌1.19日、日本側の自衛団体・上海青年同士会の十数名が三友実業公司に殴り込みをかけ、日華双方に多数の死傷者を出した。翌20日には日本人倶楽部で、上海居留民大会が開かれ、陸軍の即時派兵を要請することが決議された。大会の散会後、居留民はデモに移り領事館に押しかけ出兵要求を突きつけ、武器の引き渡しを迫り、70挺ばかりの拳銃を受け取った。次に海軍陸戦隊本部へ向かい、即時行動開始を要求し、共々戦うとの気勢を挙げている。 日本人居留民を保護するため陸戦隊が応戦せざるを得なくなった。 1.21日、上海危機の報に軍艦大井その他4隻の駆逐艦が呉軍港を出港し、1.23日の夕方上海に入港。直ちに特別陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたった。中国側に対して上海市内に武装警官8千、警備軍2個師団を配備し、境界線に土嚢、鉄条網などの防御工事を進め始めた。上海の形成悪化は日増しに増していった。 |
【上海事変勃発】 |
1.28日、北西川路の衝突。上海事変勃発。「果然、事件は事件を生み、中国側を一層興奮させたばかりでなく、日本側居留民も激昂した」(川合貞吉「ある革命家の回想」141P)とある。 2.1日、現地より出兵要請。2.2日、閣議で出兵決定。2.5日、ハルピン占領。2.7日、下元旅団上海に上陸。2.7日、日本政府は第12師団の前原混成旅団を派遣。2.13日、には第9師団が増援された。2.20日、第9師団攻撃開始。中国軍も兵力を増強し、双方の死力戦が繰り広げられた。2.29日、上海派遣軍司令官・白川大将は、幕僚と共に新たに増援された第11師団、第14師団の後を追って揚子江に到着、戦闘は全面的に拡大した。3.1日、上海派遣軍が上海上陸。 |
【血盟団事件】 |
2.9日、前蔵相にして民政党の領袖・井上準之介が右翼血盟団・小沼正のテロにより暗殺される。2.20日予定の第18次総選挙の選挙戦の最中であった。 3.5日、三井財閥総帥、三井合名理事長・団琢磨氏が右翼血盟団・菱沼五郎のテロにより暗殺。犯人は農村青年や東京帝大を含む各大学の学生からなるグループに属する菱沼五郎の犯行だった。(「血盟団事件」)。 「血盟団事件」とは、国家改造運動グループの一つであった血盟団(日蓮僧・井上日召とその門下生)が、政財界及び特権階級の要人に対する「一人一殺」を標榜して行ったテロ活動によって引き起こされた事件の事を云う。 井上日召はもと、大陸で活動する軍事探偵であったが、帰国後、大陸で学んだ野孤禅を更に深め、田中光顕の周旋で水戸大洗の立正護国堂の住職となり、加持祈祷のかたわら朴訥な農村青年を集めて国家改造について語り合い、題目を唱えて修行した。その思いが嵩じて、「一人一殺」テロ活動を目指すようになった。当初、日召は、西田貢などのグループとともに行動するつもりであったが、西田が荒木新陸相に期待して自重的になると西田を見捨てて、門下の青年とともに孤立してテロに走った。襲撃リストには西園寺公望、牧野伸顕らも入っていた。 井上日召は、井上、団の射殺の後、頭山満のもとへ脱出したが、ついに進退窮まって自首した。このテロの動きは護国堂に出入りしていた海軍将校たちに引き継がれ、五・一五事件へと進展してゆく。 |
【第18次総選挙】 |
2.20日、総選挙が行われ、政友会303名、民政党146名、その他17名となった。政友会は圧勝し、議会始まって以来の多数を獲得、わが世の春を迎えた。待っていたのは、軍部の反乱であった。 |
【海軍が国産軍用機の開発に着手】 |
日本海軍は、この時の戦争で航空戦の重要性を認識するようになり、国産軍用機の開発に乗り出すことになった。横須賀海軍航空隊の隣に海軍航空廠を設立し、航空本部技術部長・山本五十六海軍少将の指揮の下、日本独自のオール国産航空機の設計-製作に着手した。それまでの外国戦闘機の性能は、複葉型二枚翼が多く、時速270キロ程度であったのを、「最高時速325~370キロ、3千メートルまでの上昇時間4分以内、翼は無支柱単葉型とする」という性能を目標にした。 三菱、愛知、中島の3社に試作機開発が言い渡され、中でも三菱航空機製造所の堀越二郎技師グループが傑出し、昭和10.1月に九試単座(一枚翼)戦闘機を完成していくことになる。テスト飛行で時速450キロを実証し驚かせた。その後、エンジンの変更、機体の一部改良を経て、昭和11年(紀元2596)に「96式艦上戦闘機」として実践配備されていくことになる。「96式艦上戦闘機」は、三菱名古屋製作所で782機、佐世保海軍工廠ともう一社で200機、合計で約1千機が生産された。又、航続距離の長い96式陸上攻撃機も三菱で636機が生産された。(吉村昭「零式戦闘機」その他参照) |
【新官僚の登場】 |
この頃、官僚内部にも新官僚と呼ばれる革新派が登場してきた。彼等の集まりであった国維会は、後藤文夫・近衛文麿などを理事として昭和7年1月に結成された。一、広く人材を結成し、国維の更張を期す。一、大いに国家の政教を興し、産業経済の発展を期す。一、軽佻詭激なる思想を匡正し、日本精神の世界的光被を期す、を綱領として掲げた。 同会は、満州事変を契機とする日本内外の事態を国家滅亡の危機と捉え、これに対処して維新を遂行する志士を結集するものとしてスタート。一方でこの危機を招いてかつ、これを克服できない既成政党を批判し、他方でこの危機を利用して革命を成し遂げようとする共産主義者を排して、日本精神による維新を成し遂げようとした。 国維会は昭和9年には解散しているので考えが同じであった訳ではないが、共通していたのは腐敗した既成政党の官僚支配に対する反発であった。実際、彼等の行った選挙粛正運動(選挙に金が掛かりすぎるため政党が腐敗する。政治の腐敗を無くすには正しい選挙を行う必要がある。という運動)は既成政党に打撃を与えている。(「あの戦争の原因」) |
【満州国建国】 |
3.1日、中国東北部に満洲国の独立が宣言された。3.9日、清朝最後の皇帝・溥儀(宣統帝)を執政に就任した。溥儀政権を傀儡政権と見るかどうかという問題がある。 満州国では、「王道楽土」の建設、「五族協和」(日本人・満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人)の実現を掲げ、国造りが進められた。これを理想と見るか、実質と見るかという問題がある。後年、陸軍の指導者が「八紘一宇」を喧伝することになったが、この思想の実体的根拠として満州国が利用されることになった。 この頃、これには日本からきた、岸信介などの官僚グループが積極的に取り組んでいる。彼らは満州組と呼ばれ、官僚指導による統制政策を実施した。以後、満州国は日本の統制政策の巨大実験場となってゆく。彼ら満州組もまた新官僚と呼ばれる。 |
【5.15事件】 | |
5.15日、午後5時過ぎ、海軍将校と陸軍士官候補生9名による首相官邸襲撃事件が発生。白昼堂々、犬養毅首相が射殺(享年77歳)された。これを5.15事件と云う。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。
この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい) 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。 |
【「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)とは、西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924-1932)に積み重ねた政権交代方程式「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例を云う。しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのはその内閣が失政によって倒れたときだけである。
犬養首相がテロで倒れたとき、西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図した。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。結局、戦前期において再び政党内閣が復活することはなかった。 |
【犬養毅内閣→斎藤内閣】 | |
犬養首相の兇変直後、高橋是清蔵相が首相を臨時に兼任し内閣総辞職を行う。 5.26日、次の首相に斉藤実海軍大将が就任し斎藤内閣が成立した。「自立更生」をスローガンに発足した。政友会から3人、民政党から2人を閣僚に入れ「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。 この人事に反対だった近衛は次のように評している。
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【リットン委員会が再度現地調査】 |
7.4日、リットン委員会は再度来京して、北京に向かった。 |
7月、合法的社会主義政党である社会大衆党結党。
【政府が満州国を承認】 |
9.15日、斎藤実内閣は、日満議定書に調印して満州国を承認している。日本軍が満州国内に駐留するようになる。 |
【リットン委員会が、現地調査報告書を日本政府と国際連盟に提出】 |
9.1日、リットン報告書が日本政府に手渡される。 10.1日、リットン委員会が現地調査報告書を国際連盟に提出、10.2日、発表される。満州事変の契機となった日本軍の行動を正当な自衛権と認めないことを中心とする報告書を提出。国際連盟は19カ国委員会を設け、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況となった。 リットン報告書には、「満州は他に類例の無い地域であり、満州事変は一つの国が他の国を侵略したとか、そういう簡単な問題ではない」とも書かれており、報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化した。 |
【松岡首席全権の国連総会演説】 |
10月、松岡洋右が首席全権として国連総会に向け派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選であった。12.8日、到着早々の松岡は、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行った。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、概要「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨のものだった。この演説は逆効果であったともいわれるが、松岡演説が史実に刻んだ意味は大きい。 |
【皇道派と統制派の対立】 | |||
この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月、真崎甚三郎が参謀次長、柳川平助が陸軍次官、林銑十郎が教育総監に就任している。そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。これが皇道派となる。 他方、皇道派に対抗する格好で統制派が生まれた。統制派とは、1931(昭和6)年10月に橋本欽五郎ら桜会の中堅将校が計画して未遂に終わった「10月事件」以降、そのグループの流れを引いており、新官僚と結び、政財界に接近して作り上げた派閥である。彼らは、皇道派幹部の派閥人事や青年将校によるクーデター計画は軍の秩序を乱すと攻撃し、軍の統制を主張したことから統制派と呼ばれた。 皇道派の社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する」と言うものであった。その具体的手法として、私有財産の制限、土地の国有化等々の一見社会主義的政策を掲げていた。なお、一旦天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうと構想していた。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、共産主義と国粋主義を結合させた独特の理論を展開していたことになる。 北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である」としていたようである。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちであり、その部隊の兵士も徴兵された貧しい一般市民・農民出身者がほとんどであった。現実の国民の窮乏を肌身で感じ取っており、北一輝に共鳴する土壌があったということになる。とはいえ、20代,30代の青年の集まりで、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動に過ぎなかったという恨みがある。 荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍を支持していた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれた。このほかのメンバーには小畑敏四郎・山下泰文などがいた。 これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派であった。彼らは、次のように主張していた。
皇道派の運動に憂慮を募らせていた。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章などで、陸軍省エリート幕僚を中心としていた。 永田は皇道派を次のように批判している。
陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた。 陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことはできず議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失った。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買った。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。 新官僚と言われたの者達の中には、国維会グループ、岸信介などの満州組グループ、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ていた。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と結びついてゆくことになった。(「あの戦争の原因」) |
1933(昭和8)年の動き |
2月、近衛は、「世界の現状を改造せよ」と題する論文を発表し、文中次のように述べている。
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【国際連盟が、リットン報告書を採択】 |
3.24日、国際連盟が、42対1(反対は日本のみ)でリットン報告書を採択。 |
【日本が国際連盟を脱退】 |
3.8日、日本政府は、国際連盟脱退を決定。 3.27日、日本は国際連盟を脱退。ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれた。日本代表の松岡洋右は、満州事変は日本の自衛権の発動であり、非は中国側にある、リツトン調査団の報告は一方的なものであり、それに基づく連盟の勧告案は不当であると熱弁をふるっている。遂に席を蹴って退出した。連盟脱退の瞬間であった。 翌日の新聞には、「連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す」の文字が一面に大きく掲載された。英雄として迎えられた帰国後のインタビューでは、「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。 |
【関東軍が華北に侵入】 |
5月、関東軍は華北に軍を進めた。「時あたかも、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツの目覚しい躍進があり、それに比べて、あまりにも情けない日本の現状-深刻な農業恐慌と政治の腐敗-にうんざりしていた国民は、勇敢で、且つ歯切れのよい軍部の行動に、大きな拍手を送った」。華北に攻め込んだ日本軍は、続いて北京・天津の近くまで兵を進めた。この頃から、世界が日本軍の侵略行為を非難するようになる。 |
【「京大(滝川)事件」】 | |
「京大(滝川)事件」を参照(転載)する。
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1934(昭和9)年の動き |
【溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられる】 |
3月、溥儀が初代の満州国皇帝に即位。「五族(日・満・漢・蒙・朝)協和」が奏でられた。この満州国創設が「八紘一宇」の足がかりとなった。 |
【「帝人事件」発生で斉藤内閣総辞職】 | ||
昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。 時事新報の記事で帝国人造絹糸会社(帝人)株をめぐる贈収賄疑惑が浮上し、4月、検察が、台湾銀行所有の帝国人絹株の売買に背任、贈収賄の疑惑があるとして、台湾銀行幹部や帝人重役河合良成(かわいよしなり)、永野護(ながのまもる)らを逮捕起訴した。5月、大蔵省幹部も収賄の疑いで相次いで逮捕され、政治家や官僚16人を起訴し政財界に大きな衝撃を与えた。 7月、斎藤実内閣は総辞職に追い込まれた。内閣総辞職後、斎藤内閣の中島久万吉(くまきち)商工相、三土忠造(みつちちゅうぞう)鉄道相らも検挙された。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする大疑獄事件となった。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げであった。検挙当局の被検挙者に対する取調べ状況が明らかになるにつれ、その不当性を非難する声が高まり、司法ファッショのことばが生まれた。事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。1935年に公判が開始され265回にわたる公判のすえ、1937(昭和12)年、全員に無罪判決が下っている。 この事件の背後には、前年末以来中島商工相、河合良成ら財界グループ「番町会」のメンバーが推進していた政民連携運動を挫折(ざせつ)させ、斎藤内閣を倒壊させることをねらった政友会久原房之助(くはらふさのすけ)派、司法界の長老平沼騏一郎(きいちろう)枢密院副議長、軍部、右翼の策謀があったとされている。右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があった。 事件の黒幕とされている平沼騏一郎は、明治43年の大逆事件で、検事として社会主義者、幸徳秋水らに死刑を求刑。大本教弾圧にも指揮をとっている。 しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめもなく、後には司法次官に栄転する。「これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも身内優先、事なかれ主義という腐敗が蔓延していた様です」とコメントされている。 |
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「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79」の新世紀人 氏の2010.2.3日付け投稿「帝人事件、1934年(昭和9年)」を転載しておく。
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【斎藤内閣→岡田啓介内閣】 |
7.8日、海軍大将岡田啓介が内閣を組織、岡田啓介内閣が成立。蔵相には高橋是清が再び留任。 |
【中国共産党紅軍が長征開始】 |
中国共産党紅軍は、8月より36年(昭和11)の10月にかけて約1万キロの長征に成功している。毛沢東と朱徳、周恩来らに率いられた紅軍は、西に向かって大きく迂回した後、チベットの高山地帯を通過して北へと転じ、一年後の35.10月には甘粛省と*西町の境界に位置する新たな根拠地・呉起鎮へと辿りついた。後に「長征」と呼ばれることになるこの脱出行は、全行程約1万2500キロに及ぶ苛酷極まりない徒歩行軍であり、紅軍はその道程で兵力の約9割を失ったと云われている。だが、これによって生き延びた共産党勢力は、新天地の呉起鎮を拠点として、勢力を扶植拡大させていくことになった。 |
【「11月事件」(「士官学校事件、士官学校生クーデター未遂事件」とも云う)発生】 |
11月、陸軍の皇道派と統制派の厳しい派閥対立下、「11月事件」(「士官学校事件」、「士官学校生クーデター未遂事件」とも云う)が起こる。後の2.26事件の首謀者村中孝次・磯部浅一ら陸軍皇道派青年将校が、クーデターを企図した容疑で、士官学校生徒とともに逮捕された事件で、証拠不十分で不起訴になった。これが2・26事件の出発点となった。 |
【日本政府がワシントン海軍軍縮条約の破棄通告】 |
12.29日、日本政府は、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を閣議決定し、通告。 |
1934年:南北朝正閏論で足利尊氏を過去に評価した商工大臣中島久万吉が菊池武夫や右翼から攻撃を受け、辞任に追い込まれる。
1935(昭和10)年の動き |
【東大教授・美濃部達吉氏の「天皇機関説」が非難される】 | |||
2.28日、帝国議会の貴族院で、東大教授・美濃部達吉(1873-1948)の「天皇機関説」が非難され、右傾軍国主義のスピードを増した。この問題では、政党が進んで軍部のお先棒を担ぎ、学問と言論の自由圧殺に加担した。
天皇機関説は美濃部達吉が東大教授時代に主張した学説で、明治の終わり以降、通説となっていたが、1935年頃、陸軍皇道派や民間右翼はこれを批判し始めた。美濃部は貴族院議員として弁明したが批判はやまず、不敬罪で起訴され貴族院議員を辞職、二・二六の数日前に暴漢に襲われている。美濃部は当時次のように述べて天皇大権としての統帥権を批判している。
1935〔昭和10〕年2月25日、第67回帝国議会貴族院で、美濃部議員(63歳)は、近衛文麿議長の指名で天皇機関説に関するいわゆる「一身上の弁明なる弁明演説をした。次のように述べている。貴族院議員菊地武夫、美濃部達吉の議員辞職を要求。4月9日:主著の発禁。9月18日:美濃部の議員辞職。
昭和天皇「独白録」は次のように記している。
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5月、岡田内閣の後藤文夫[新官僚の元締め的存在]内務大臣の提唱により内閣調査局設置。これによって「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインが完成した。これに対して、議会軽視に憤懣を募らせていた政友会政友会は陸軍皇道派とが結びつき対立した。更に、陸軍皇道派に右翼結社である国本社を率いる平沼騏一郎・枢密院副議長が結びつき、「陸軍皇道派・平沼系右翼・政友会」のラインが完成した。帝国議会で第二党となっていた民政党は、「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインに近い存在でした。更には重臣たちもこちらのラインでした。政友会は議会第一党でありながら、政権を担当できず(政党内閣ではなかったこと)、これに不満を募らせていました。
6月、選挙粛正中央連盟成立。「新官僚」が中心となった「選挙粛正」運動を社会大衆党・民政党が支持。
【統制派による皇道派排斥の動き】 |
統制派の巨頭である軍務局長・永田鉄山の勢力は、皇道派の柳川兵助陸軍次官を超えて全陸軍に号令するまで強力になった。永田は、皇道派の一掃に乗り出した。 7月、統制派にかつがれていた参謀総長閑院官が、林銑十郎陸軍大臣、統制派の永田鉄山軍務局長とつるんで、皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭問題が起こる。教育総監・真崎甚三郎は軍事参議官に転出させられ、統制派の渡辺錠太郎が教育総監になった。 7.19日、相沢中佐がこの人事に強い異議を持ち永田少将を訪問する。この時、相沢中佐は、林陸相の処置に誤りが多いのは軍務局長の責任であるとして永田少将に辞職を勧告したといわれる。この後、相沢中佐の上司であった連隊長・樋口大佐がこの相沢の行動を警戒して、相沢の台湾赴任を申請したといわれる。8.11日、相沢中佐は、伊勢神宮に参拝し、当夜、東京に着いた。東京に着くとまっすぐ明治神宮に向かい参拝している。その夜、相沢中佐は親交のある西田税の家に泊まり、そこで大蔵大尉と歓談した。西田、大蔵共にその後の2.26事件の中心人物である。この時、相沢中佐は、大蔵大尉に、「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴は誰ですか?」と聞き、大蔵が「永田鉄山ですよ」と答え、「やっぱりそうでしょうなあ」と相沢はうなずいたという(児島襄「天皇」?、244頁)。皇道派の相沢三郎中佐は、永田軍務局長が「重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化」している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意する。 |
7月、渡辺錠太郎(61歳)が陸軍教育総監に就任する。陸軍では陸軍省の大臣、参謀本部の参謀総長、教育総監部の教育総監を「三長官」と呼び、行政上の重要問題や主要な人事につき、この三者の合議で決めていた。陸軍省は軍政(軍隊の維持管理)、参謀本部は軍令(軍隊行動に関する命令)、教育総監部は軍隊教育を担っていた。
【相沢事件発生】 | |||
8.10日、陸軍内部では皇道派と統制派の対立が頂点に達し、この日陸軍省内部で白昼堂々、統制派リーダ―にして東条英機の兄貴分だった永田鉄山(軍務局長・少将)が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起きた(「相沢事件」)。相沢は翌1936年7月死刑になったが、この事件が2・26事件へと発展する。 後に2.26事件に連座して4年の禁錮刑になった大蔵栄一大尉は次のように述べている。
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【昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問】 |
11月、昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問。11.16日、後の地方巡視で、鹿児島の霧島神宮を参拝。鈴木貫太郎侍従長、本庄繁侍従武官長が随行した新聞聯合写真部の内山林之助氏撮影の写真が遺されている。約100日後、2.26事件に巻き込まれ、鈴木貫太郎侍従長は銃撃され瀕死の重傷を負った。妻たかの「とどめはやめてください」との懇願で、軍刀を持っていた安藤輝三大尉が引き下がり、一命をとりとめた。本庄繁侍従武官長は反乱軍の鎮圧に動いた。天皇は連日十数回も本庄を呼び状況を尋ねている。本庄は、青年将校らの思いを分かって欲しいと訴えたが、天皇は聞く耳をもたず「自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当らん」(「本庄日記」)と断固鎮圧の意志を示した。事件は2.29日、将校らの投降で幕を閉じた。鈴木は退任し、本庄は引責辞任した。その後、鈴木は1945.4月、天皇の懇請に応じ首相に就任。難しい国政の舵取りをして戦争終結を実現した。本庄は、満州事変の際に関東軍司令官だっことで同年11月、連合国軍総司令部から戦犯として逮捕命令が出たため、自決した。 |
【積極財政行き詰まる】 |
積極財政以降この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げていた。昭和6~11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。 ①・景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。 ②・このため低金利の公債に資金が向かなってくる。 ③・さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。 ④・これにより一般貸し出し金利が上昇する。 ⑤・このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。 ⑥・低金利の国債は、価格維持も難しくなる。 この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。 この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円) 昭和10年下半期には深井日銀総裁が、「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。(「あの戦争の原因」) |
1936(昭和11)年の動き |
【日本政府がロンドン軍縮会議から脱退】 |
1.15日、日本政府は、ロンドン軍縮会議から脱退通告。 |