昭和時代史2、満州事変騒動(1931年から1936年) |
更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).12.16日
【以前の流れは、「昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ(1927年から1931年)」の項に記す】
(「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。
(れんだいこのショートメッセージ) |
この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部-南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。 |
1931(昭和6)年、満州事変発生後の動き |
(この時代の総評)
【柳条湖事件勃発→満州事変発生】 | |
9.18日、柳条溝事件が発生した。ここから満州事変と云われる一連の経過が始まる。柳条湖事件とは、9.18日夜、奉天に近い(奉天駅から8キロ北東に位置している)柳条溝付近で、南満州鉄道の線路が何者かの手によって爆破され、関東軍がこれを張学良系中国軍の仕業だとして一挙に軍事行動を満展開していくことになったその引き金になった事件のことを云う。関東軍は、これを中国軍の仕業として守備隊が付近の張学良指揮下の中国軍北大営を奇襲攻撃した。睡眠中の中国兵は算を乱して逃亡し、19日午前2時、日本軍弟29連隊は奉天城に無血入城した。 翌9.19日の朝日新聞報道は次の通り。
ちなみに関東軍とは、日露戦争後の1906(明治39)年に遼東半島南端の関東州租借地と満鉄付属地の守備のために組織された関東都督府陸軍部が前身。簡単に言えば、日露戦争で得た、満鉄・租借地などの中国での日本の利権を守るための植民地駐留軍ということになる。 今日では時の関東軍参謀・大佐板垣征四郎、関東軍参謀(作戦主任参謀・中佐)石原莞爾、奉天特務機関員・花谷正、張学良顧問補佐・今田新太郎などが参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らと連絡を取り合いながら仕掛けた謀略であり、火付け実行役は無政府主義者大杉栄を殺害した甘粕大尉グループが請け負ったとされている。ちなみに、甘粕大尉は大杉栄夫妻と橘宗一殺人の咎で10年の刑期を受け服役していたが、三年で千葉刑務所から出所していた。 石原たちは満州の関東軍(約1万)を勝手に動かし、中国北方軍閥の張学良軍(約22万)に戦いを挑み、見事にこの事変を成功させる。この満州事変は国家の閉塞状況を打破してくれる物として不況のさなか国民の拍手喝采を浴びる。この事変を成功させた石原は国民的英雄となった。 |
【政府「事件の不拡大方針、現地解決」方針を決定】 |
事件の翌日9.19日早朝ラジオの臨時ニュースは、興奮におののくアナウンサーの声で柳条湖事件の勃発を伝えた。第二次若槻内閣は緊急閣議を招集し、「事件の不拡大、現地解決方針」を決定し、陸軍三長官(南陸相・金谷参謀総長・武藤教育総監)に杉山次官、小磯軍務局長を交えた陸軍三長官会議が開かれここでも不拡大方針を決定している。とはいえ、「軍の安全を保障する上において占拠せる諸地確保のため必要ならば障害除去のため積極的行動を採るもやむを得ぬ」としていた。但し、関東軍を抑え、軍事行動を抑止する具体的な措置は何も採られなかった。 |
【松岡洋右日誌】 | ||
「上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン」より。
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【抑制派(石原完爾)とヨウ懲派(東条英機)が対立。勢いとまらず関東軍の暴走始まる】 |
この時石原完爾は、ソ連南下防止のため日支が提携する必要を力説し、「平和的な解決を目指せ、戦争は阻止しなければならない」と説得に努めている。 しかし、「暴れる支那は懲らしめるぺ゛し(暴支ヨウ懲)」と主張する関東軍参謀の東条英機、参謀副長の今村均らの勢いが勝り、政府や軍中央が事件の処理方針を廻って議を練っている間にも現地では新たな軍事行動を発生させていた。9.19日本庄繁関東軍司令官に圧力をかけ関東軍を出撃させ満鉄沿線を制圧。 9.21日、関東軍司令官・本庄繁と朝鮮軍司令官・林銑十郎は、柳条溝事件勃発直後打ち合わせ、在満居留民への驚異をあおり、それを理由に独断で部隊を越境派兵。海外に派兵する為には天皇の奉勅が必要で、これ無しのままの派兵は重大な軍規違反であったが、軍中央に事後承認を迫った。 この時陸軍参謀総長は内閣の閣議決定を待たずに直接、天皇に上奏しようとするが、これに猛反発したのが永田鉄山(陸軍省軍事課長・大佐)。「閣議の承認を得ずに上奏するのは、天皇に対する道でない」と主張し強硬に反対。直接上奏は取りやめられ、閣議決定を待つことになる。つまりたかが軍事課長の意見が陸軍トップの三長官の考えをひっくり返している。 9.22日、閣議で朝鮮軍の越境が承認される。軍中央は、この林の天皇の統帥権干犯罪に値する独断の報に接しても問題とせず、翌日の閣議において朝鮮軍出兵を認めさせ、天皇の事後承諾を仰いでいる。天皇のしぶしぶながらも裁可が為され、こうして既成事実の追認化への道が開かれていくことになった。現地関東軍はこれに味を占め、その後更に軍事行動を拡大していくことになった。こうして、柳条溝事件に端を発して満州事変が勃発していくことになり、日本帝国主義はこれを契機に暴力的な局面へと傾斜していくこととなった。 9.24日、政府は日本軍の行動を自衛のためとし、事態不拡大をうたった声名を発表。 張学良指揮下の中国軍隊は寝込みを襲われ敗走させられている。続いて早くも二日後吉林に進撃、10.8日には退却を続ける中国軍を追って張学良政権の移転先であった錦州を爆撃、調子づいた関東軍は北部満州にも軍を進めハルピンを陥落させ、11.9日にはチチハルを占領した。こうして、日本軍はまたたくまの短期間で全満州を手中にした。 翌昭和7年2月5、ハルビン占領。これで満州の主な都市を全て占領。以後、満州国樹立に向かう。同年3月1日、満州国設立宣言。清朝最後の皇帝溥儀を皇帝として担いだが、完全に関東軍の傀儡政権。政府の実体を見ても、名目上は大臣に満人を据えたものの、実権は日系官僚が握っていた。 |
【昭和天皇は「東洋王道」を捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 】 | ||||||||||||||||||||||||
(出典元失念) 張作霖爆殺の収拾策について、昭和天皇が田中義一首相に「食言」であると叱責したことについては、昭和天皇自身、『昭和天皇独白録』のなかで、次のように記している。
鹿島は、この天皇の物の言い方はおかしいと考えた。なぜならば、陸軍の規定によると、国外に駐屯する軍隊を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長であるからである。では、その参謀総長は、自分の裁量でいかようにも軍隊を動かせるのかというと、それはできない。大日本帝国憲法の第一一条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇なのである。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。 このあたりのことを、もう少し詳しく説明すると、まず陸軍のなかには、陸軍省と参謀本部の二つがあり、陸軍省のトップは陸軍大臣で、参謀本部のトップは参謀総長であった。海軍のなかにも、海軍省と軍令部の二つがあり、海軍省のトップは海軍大臣、軍令部のトップは軍令部総長であった。東條英機が出てきてややこしくなったのは、陸軍大臣であった彼が、総理にもなり、陸軍参謀総長までをも兼任したからである。 天皇の国家統治の大権(明治憲法による)は、国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった。次のように機能を分けていた。
参謀本部と大本営の関係、陸海軍省と参謀本部・軍令部の関係は、次のようになっている。
これらの軍の組織と天皇との関係については、憲法で輔弼(ほひつ)と輔翼(ほよく)という言葉を使って規定されていた。当時の日本の国家の形は、明治憲法に基づく立憲君主国であり、天皇が国家の統治権を総撹(そうらん)(政事・人心などを一手に掌握すること)するとされていた。その天皇の大権は、一般行政と統帥の二つに分かれていて、国務上の輔弼は政府が、統帥権のほうは参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が輔翼(ほよく)(補佐したすけること)するということになっていた。 「輔弼」というのは、天皇の行為としてなされ、あるいはなされざるべきことについて進言し、採納(採用)を奏請(そうせい)(天皇の決定を求めること)し、その全責任を負うことであり、「輔翼」とは補佐というような意味である。 ` 昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する 陸軍参謀総長であっても、海外に、駐屯している軍隊を自由に動かせないことについては、陸軍参謀であった瀬島龍三が、さまざまな著書のなかで「一兵卒足りとも(天皇の裁可がなければ)動かせない」と述べている。瀬島参謀は、そのために鳥の子紙(雁皮を主原料として漉いた(すいた)和紙。平滑・綿密で光沢がある)に攻撃命令を書き、それとは別に、「別紙の件につき、允裁(いんさい)(御裁可のこと)を仰ぎ奉り候なり」というのを書き、それらを持って参謀総長が宮中に赴き、そこに天皇が墨で裕仁とサインをし、侍従が「天皇御璽(ぎょじ)」の四字を刻んだ金印を捺(お)して(御璽御名が揃って)、はじめて軍隊が動いたのである。 ちなみに、戦後に防衛庁の戦史室の人が調べたところ、大東亜戦争中の陸軍に関する陸軍部命令は二二〇〇通ほどもあり、そのうちの七〇〇通くらいに起案者・瀬島龍三の判が押してあったそうである。だから、張作霖爆殺の報に接したとき、天皇のなすべきことは、次のとおりであったというのが、鹿島の主張である。 最初田中義一首相から報告があったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。 関東軍は海外に駐屯している部隊であるため、総理大臣はもちろん陸軍大臣にも動かす権限がない。陸軍は、陸軍省と参謀本部からなる組織であり、海外に駐屯している関東軍を動かす権限は参謀本部にあり、そのトップは参謀総長であり、その参謀総長が「天皇陛下の御裁可をいただいて」はじめて、兵を動かすことができる。 だから、張作霖爆殺事件については、田中義一総理大臣を叱責するのは筋違いであり天皇みずからが参謀総長に事件の真相解明を命じ、「河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」のが正しいと判断したならば、そのようにさせればよかったというのである。それが筋でありながら、昭和天皇は田中首相を叱責し、内閣総辞職から二ヵ月後の急死へと、追いやったのである(実は築地の割烹旅館高野屋にて頓死した)。 そればかりか、関東軍は図に乗って、三年後には、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、引き起こした。鹿島も含めて、日本ではこの事件を「柳条溝事件」と呼んできた。それは新聞の誤報に、端を発する、地名の誤りであり、柳条糊が、正しい地名であることが、1981年に、中国の研究によって、確認されている。 朝鮮軍司令官であった林銑十郎(せんじゅうろう)は、柳条湖事件直後に、独断で鴨緑江を渡って満州に出兵し、あとで昭和天皇に対して進退伺いを出したが、昭和天皇はこれを免責している。 満州はこのとき、関東軍、朝鮮軍の侵攻により、わずか半年足らずで実質的に日本のものとなった。柳条湖事件を画した板垣征四郎、石原莞爾、それに独断出兵した林銑十郎は、厚く遇され、関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉す(ほめる)」との勅語が与えられた。 張作霖爆殺からのことを、ここでまとめておくと、まず独断専行してこの大事件を起こした河本大佐(および陸軍上層部)は、おとがめなしとなった。しかし、それでは諸外国に対してマズイということで、田中内閤を総辞職させ、田中義一を死に至らしめた。同じころ、孫文は神戸で次のような演説をしている。
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【中国国内で排日から抗日運動への転換。「打倒日帝運動」開始される】 |
これに対し、中国国内では排日から抗日運動への転換が為され、「打倒日本帝国主義」の声が怒涛の如く広がっていくことになった。 |
【満州事変に対する日本労農党(日労党)の党声明】 | |
満州事変に対する日本労農党(日労党)の党声明。
党内に「対支出兵反対闘争特別委員会」を設置し、長老・堺利彦が委員長、委員として宮崎竜介、河野密、加藤勘十、室伏高信、田部井健治、岡田宗司、織本、山花秀雄、三輪寿荘、水谷長三郎、浅原健三、川上丈太郎、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎らが名を連ねている。 |
【満州事変の諸影響としての軍部の台頭考】 | ||
「あの戦争の原因」は次のように記している。
「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」は次のように記している。
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【イギリスが金本位制停止】 |
9.21日、イギリスが金本位制停止。「従来の国際金融市場において卓越する地位を占め、ポンド貨こそは世界貨幣であるとまで云われたそのイギリスが金の輸出を禁止するに至ったのであるから、この報道を受けた我が国では為替市場のみならず、金融財界全般に亘って非常な衝撃を受けた」(斎藤栄三郎「昭和経済50年史」)。以降、ポンドに変わってドルが台頭していくことになる。 |
【桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる】 | |||
10.21日、満州事変と呼応する形で、桜会による2回目のクーデター未遂事件「十月事件」が起こる。第一師団の10個中隊を動員して政財界の要人を殺害するという本格的暴力的手段を用いての国内クーデターを起こす計画で、橋本欣梧郎、大川周明、北一輝、西田税、井上昭、橘孝三郎らが首謀し、若槻首相、幣原外相、牧野内大臣、その他清浦、斉藤実、岡田啓介、伊沢多喜美、後藤文夫、郷誠之助、池田成彬、岩崎小弥太らを殺害対象、西園寺元老、一木喜徳宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら6名を襲撃対象にしていた。計画成就後は、東郷平八郎元帥を首班とし、田中国重、末次信正、荒木貞夫らを閣僚に予定していた。 が、計画は事前に軍首脳部に漏れ、首謀者らは憲兵隊に拘束されて未遂に終わる。例によってこの事件も軍部の方針によりもみ消され箝口令が敷かれた。桜会は解散させられたが、最も重い処分は橋本の重謹慎20日。 この事件はかなり情けない事件だったらしく、首謀者達は明治維新の志士気取りで待合いで豪遊していたうえに、クーデター後、首相に担ぐ予定の荒木貞夫にはなんの話も付けていなかった(このルートで漏れたらしい)という状態ですから、失敗するのも当然の話。桜会は所詮、陸大出の陸軍省エリート将校を中心とした集まりであるため、何か世間とずれていた様です。クーデター未遂事件に対して、処分は謹慎だけと言うのも酷い話で、軍上層部の「事なかれ主義」的処分が、軍内部に「なにをしても罰せられない」という雰囲気を作り上げることになる。 この不明朗な結果に対して、クーデターの実働部隊として参加していた、若い尉官クラスの将校たちが、あきれ果てて桜会グループから離脱。国家改造を目指して独自の活動を開始する。この活動は20代から30代前半の陸軍将校が中心だったため、後に「青年将校運動」と呼ばれる。 国内の世相としてやたらと愛国的な風潮になり、右翼が活況を呈する。彼等の主張を要約すると・陸軍の支援、・英米依存外交を排し自主外交の確立、・財閥と結んだ政党政治の打破、・強力政権の樹立。 |
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以下の一文は十月事件を企てた一派の国家改造計画案(昭和六年(十月事件の年) 九月一日の日附がある)といわれるものである。 橋本徹馬著「 天皇と叛乱将校」。
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財政的には、満州事変による緊急事態を名目にした軍事費膨張により、井上蔵相の緊縮財政、完全に破綻。財源不足のため、年度末には減債基金繰り入れ中止(国債償還の停止)4400万円のほか、「満州事変公債」7700万円を含めて一般・臨時軍事費特別会計における新規公債発行は1億8900万円にたっする。11月には井上蔵相も昭和7年度予算では歳入補填公債、つまり赤字公債を発行せざるを得ないことを認めた。 |
11月、清朝最後の皇帝溥儀が、天津の自宅から旅順の関東軍の本拠地へ脱出した。
【若槻内閣→犬養毅内閣】 |
12.11日、若槻内閣は、幣原外交と軍部との対立、イギリスの金本位制問題、安達内相による連立内閣提案を廻る閣内不一致、その他軍部の独走を止められず総辞職を余儀なくされた(第二次若槻礼次郎内閣(民政党)が内閣府一致で総辞職)。 12.12日、安達内相は、同志7名を連れて民政党を脱党、国民同盟を結成した。 後継に元老・西園寺公は、政党政治の長老犬養毅を最後の切り札として、天皇に奉請した。昭和天皇は軍部の横暴と政治干渉を深慮されていた。 12.13日、犬養毅内閣(政友会)成立。(犬養首相の履歴は「5.15事件と2.26事件の相似と差異考」に記す) 犬養首相は衆院で171名の政友会少数党で内閣を発足させた。犬養首相は外相を兼任、蔵相には高橋是清が再び登板、陸相には荒木貞夫大将、海相には大角*生大将。軍部との協調路線に進む。 就任直後には、経済政策を180度転換し、前蔵相・井上のとった金の輸出を再び禁止し、金本位制を停止させた。第60議会で、金輸出問題を廻って、高橋蔵相と井上前蔵相が論争した。筋金入りの積極財政論者である高橋は赤字国債を伴う財政出動に踏み切った。かくて「デフレーションからインフレーションへ」の財政政策転換が大胆に為されていくことになった。結果的に、軍事インフレ路線に転換させた。 |
12月、全国労農大衆党の運動方針で、麻生久が「帝国主義ブルジョアジーとの徹底的な闘争を回避して実現せんとする社会主義は、究極においては社会ファシズムに転落せざるを得ない」と主張している。この後、近衛内閣擁立運動に乗り出すことになる。
1932(昭和7)年の動き |
(この時代の総評)
昭和恐慌の頂点の頃であり、恐慌のさなか、資産が五大財閥特に三井、三菱に集中するようになりその経済的支配力を高めていた。さらに政党と結びついた金権政治への世間の反発も激しく、この為財閥は左右両翼の非難の的になっていた。
【高橋是清蔵相による積極財政政策】 | ||||||
高橋是清蔵相は、経済不況を脱出するため積極財政を開始した。金解禁と財政緊縮政策が今回の深刻な経済政策を招いたと指摘し、景気回復のため財政政策を積極政策に転換させた。この積極政策の財源は公債による赤字財政に拠った。高橋蔵相は、「経済が沈滞している時期だから、増税による経済への圧迫は避け、経済力の回復増進を第一に考えるべきである。そのために一時公債が増えても産業が復興すれば、国民の税負担能力も増え、税収の増加も期待できる。その時に公債も償還できる」と考えていた。 その政策の内容は、
この高橋財政で特に問題なのは、禁じ手である日本の中央銀行・日銀による公債引き受けを始めた事である。7年度から「歳入補填公債」(赤字国債)を発行し、それを高橋蔵相が深井英五・日本銀行総裁と組んで、新規公債を日銀引き受けにより発行する新方式を提案、実行した。これで政府は資金が必要な場合、公債を発行し日銀に引き受けさせることで、簡単に資金を調達できる。つまり事実上、政府が自由に日銀券を発行出来ることになった。しかも、同時に日銀券の保証準備発行限度を大幅に増やしている。これは通貨制度において、金本位制度を放棄し、現在と同じ管理通貨制度に中途半端に移行していることを意味する。沈滞した経済界に通貨を供給し、刺激を与えるための資金が、公債を発行することで容易に得られることになったということである。 この公債政策のためには、日銀の発券能力の拡大が必要となる。このため関連法を改正、日銀券の保証準備発行限度(「金」の裏付けの無い発券限度、裏付けがある発行は正貨準備発行と言う)を1億2000万円から10億円に拡張、制限外発行税を5%から3%に引き下げた。さらに、景気回復対策と国債償還を円滑に進めるため、低金利政策も必要となり、実施している。 これらの政策のため一般会計歳出は、・昭和6年度 14億8000万、・昭和7年度 19億5000万、・昭和8年度 22億5000万と次第に膨張していく。 元来、中央銀行の役目とは、政府による自由な通貨発行を許していては、通貨価値が安定せず、経済不安を招くため、通貨の番人として政府から独立して金融政策行う役割のはずである。管理通貨制度の場合、この役目はより重要になってくる。金本位制度にある「金」という通貨価値の裏付けが無くなる、代わりに、中央銀行では景気・経済対策のため、柔軟に通貨量を決める事が可能となる。ただし、通貨量・金融政策の管理をよほどしっかりやらないと、簡単に通貨はその価値を喪失する。紙幣が文字通り単なる紙切れになる可能性がある。日本はこの管理通貨制度に、なし崩し的に、中途半端に移行した。 公債を日銀が引き受けるという高橋政策は、日銀からこの通貨管理能力を、政府が奪った上で、政府の公債発行の歯止めを取り払ったことになる。もし政府が公債=通貨の発行を過剰にした場合、簡単に悪性インフレーションを引き起こし、しいては日銀券が通貨としての信用を失うことになる。つまりは日本の金融制度が破綻する。 この財政政策は、近代金融制度・市場経済原理を理解している高橋蔵相の管理下で、高橋蔵相の読み通りに経済が回復すれば何とかなるが、一端その管理を離れると暴走を始める危険性がある。管理通貨制度が管理不能の事態に陥る危険性を含んでいた。 とはいえ、取りあえずは日本は世界で一番早く世界恐慌から脱出することに成功し、ここから昭和12年度までの日本の実質GNP成長率は7%に達する好況の時代を迎えることになった。この時期が、戦前の日本を代表する時代と言われる。(「あの戦争の原因」) |
【マスコミ提灯記事で関東軍の暴走を煽る】 |
正月の朝日新聞社説は、関東軍の暴走を諌めるどころか「我が東洋民族が共存共栄のため、宿載(しゅくさい)の禍を転じて、永遠の福をもたらさんとする意図に発するもの」と論じ、自存自衛の正しき軍事行動論で提灯記事を掲載している。これが当時の進歩的文化人の思潮であった。 |
【国際連盟動く、リットン委員会が現地調査】 |
1.4日、国際連盟は、英国のリットン伯を団長とする米仏独伊各国委員計5名の調査団を編成。1.29日国際連盟派遣の現地調査段(リットン委員会)が東京に到着し、数日の滞在後上海から南京、満州へと向かった。リットン調査団は、3、4月は中国を、4、5、6月は満州を調査。 |
【桜田門外事件】 |
1.8日、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件が発生した。これを「李奉昌事件」あるいは「桜田門不敬事件」又は「李奉昌不敬事件」と云う。 時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9.30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932.10.10日、市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。(→桜田門事件) |
【上海事変前兆事件】 |
昭和七年の年が明けると、満洲情勢は一層緊迫の度を増していた。 1.18日、上海で日蓮宗僧侶殺害される。上海江湾路にある妙法寺の僧侶2名が、上海の市街をうちわ太鼓を叩きながら托鉢に歩いていた。それは排日に興奮している中国人に対する挑発のような役割を持ち、憤激した三友実業公司の労組員が取り囲み、1名を撲殺し1名が重傷を負った。 翌1.19日、日本側の自衛団体・上海青年同士会の十数名が三友実業公司に殴り込みをかけ、日華双方に多数の死傷者を出した。翌20日には日本人倶楽部で、上海居留民大会が開かれ、陸軍の即時派兵を要請することが決議された。大会の散会後、居留民はデモに移り領事館に押しかけ出兵要求を突きつけ、武器の引き渡しを迫り、70挺ばかりの拳銃を受け取った。次に海軍陸戦隊本部へ向かい、即時行動開始を要求し、共々戦うとの気勢を挙げている。 日本人居留民を保護するため陸戦隊が応戦せざるを得なくなった。 1.21日、上海危機の報に軍艦大井その他4隻の駆逐艦が呉軍港を出港し、1.23日の夕方上海に入港。直ちに特別陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたった。中国側に対して上海市内に武装警官8千、警備軍2個師団を配備し、境界線に土嚢、鉄条網などの防御工事を進め始めた。上海の形成悪化は日増しに増していった。 |
1.21日、衆院解散。
【上海事変勃発】 |
1.28日、北西川路の衝突。上海事変勃発。「果然、事件は事件を生み、中国側を一層興奮させたばかりでなく、日本側居留民も激昂した」(川合貞吉「ある革命家の回想」141P)とある。 2.1日、現地より出兵要請。2.2日、閣議で出兵決定。2.5日、ハルピン占領。2.7日、下元旅団上海に上陸。2.7日、日本政府は第12師団の前原混成旅団を派遣。2.13日、には第9師団が増援された。2.20日、第9師団攻撃開始。中国軍も兵力を増強し、双方の死力戦が繰り広げられた。2.29日、上海派遣軍司令官・白川大将は、幕僚と共に新たに増援された第11師団、第14師団の後を追って揚子江に到着、戦闘は全面的に拡大した。3.1日、上海派遣軍が上海上陸。 |
【血盟団事件】 |
2.9日、前蔵相にして民政党の領袖・井上準之介が右翼血盟団・小沼正のテロにより暗殺される。2.20日予定の第18次総選挙の選挙戦の最中であった。 3.5日、三井財閥総帥、三井合名理事長・団琢磨氏が右翼血盟団・菱沼五郎のテロにより暗殺。犯人は農村青年や東京帝大を含む各大学の学生からなるグループに属する菱沼五郎の犯行だった。(「血盟団事件」)。 「血盟団事件」とは、国家改造運動グループの一つであった血盟団(日蓮僧・井上日召とその門下生)が、政財界及び特権階級の要人に対する「一人一殺」を標榜して行ったテロ活動によって引き起こされた事件の事を云う。 |
【井上日召考】 | ||||
井上日召はもと、大陸で活動する軍事探偵であったが、帰国後、大陸で学んだ野孤禅を更に深め、田中光顕の周旋で水戸大洗の立正護国堂に住持した。正式な僧籍こそ持っていなかったものの、20代の頃から坐禅に勤しみ、38歳の時に悟りを得た仏教者であった。加持祈祷のかたわら朴訥な農村青年を集めて国家改造について語り合い、題目を唱えて修行した。その思いが嵩じて、「一人一殺」テロ活動を目指すようになった。当初、日召は、西田貢などのグループとともに行動するつもりであったが、西田が荒木新陸相に期待して自重的になると西田を見捨てて、門下の青年とともに孤立してテロに走った。襲撃リストには西園寺公望、牧野伸顕らも入っていた。
井上日召は、井上、団の射殺の後、頭山満のもとへ脱出したが、ついに進退窮まって自首した。このテロの動きは護国堂に出入りしていた海軍将校たちに引き継がれ、五・一五事件へと進展してゆく。 井上日召は、血盟団事件の首謀者として逮捕されたのち、昭和15年の皇紀二千六百年の祝典に際し、大赦令によって出獄した。戦後は右翼団体「護国団」の指導者を務め、1967(昭和42)年に80歳で亡くなっている。 日召は、かなり詳細な悟り体験記を残している。以下のことばは昭和28年に刊行された本人の自伝『一人一殺(いちにんいっさつ)』による。 まず日召は、悟りを開く前に、坐禅中に不思議な幻像を見ている。
日召は修行が深まるにつれ発狂の危険性を感じ、懊悩していた。しかし、たとえ発狂しても真理を求めようと決心し、修行へと没入した時、さまざまな不思議が起こるようになった。これもその一つである。そうして修行に励む日召に、ついに悟りの瞬間が訪れる。
ここで「ニツシヨウ!!」と叫んだことが、のちに彼が「日召」と名のったことのきっかけとなる(本名「井上昭」の「昭」を「日召」と分解)。しかし、日召の悟りは無師独悟であって、いかなる師からも悟り体験と認められたわけではなかった。こののち、日召は臨済宗の高僧・山本玄峰に参禅したが、玄峰は日召の悟境を認めようとしなかった。 日召の悟境が深まったのは、血盟団事件で有罪となり市ヶ谷刑務所に収監されてからである。日召はそこで『歎異抄』を読み、大きな感動に打たれ、我執に対する慙愧のあまり声を放って泣いたことをきっかけに、ふたたび悟り体験を得た。日召はこの時はじめて玄峰から悟境を認められ、「玄徹」という道号を授けられた。 |
【第18次総選挙】 |
2.20日、総選挙が行われ、政友会303名、民政党146名、その他17名となった。政友会は圧勝し、議会始まって以来の多数を獲得、わが世の春を迎えた。待っていたのは、軍部の反乱であった。 |
2月、昭和天皇が、「安岡正篤、近衛文麿らと当局懇談、革命の危険性について語り合う」(木戸幸一日記)。
【海軍が国産軍用機の開発に着手】 |
日本海軍は、この時の戦争で航空戦の重要性を認識するようになり、国産軍用機の開発に乗り出すことになった。横須賀海軍航空隊の隣に海軍航空廠を設立し、航空本部技術部長・山本五十六海軍少将の指揮の下、日本独自のオール国産航空機の設計-製作に着手した。それまでの外国戦闘機の性能は、複葉型二枚翼が多く、時速270キロ程度であったのを、「最高時速325~370キロ、3千メートルまでの上昇時間4分以内、翼は無支柱単葉型とする」という性能を目標にした。 三菱、愛知、中島の3社に試作機開発が言い渡され、中でも三菱航空機製造所の堀越二郎技師グループが傑出し、昭和10.1月に九試単座(一枚翼)戦闘機を完成していくことになる。テスト飛行で時速450キロを実証し驚かせた。その後、エンジンの変更、機体の一部改良を経て、昭和11年(紀元2596)に「96式艦上戦闘機」として実践配備されていくことになる。「96式艦上戦闘機」は、三菱名古屋製作所で782機、佐世保海軍工廠ともう一社で200機、合計で約1千機が生産された。又、航続距離の長い96式陸上攻撃機も三菱で636機が生産された。(吉村昭「零式戦闘機」その他参照) |
【新官僚の登場】 |
この頃、官僚内部にも新官僚と呼ばれる革新派が登場してきた。彼等の集まりであった国維会は、後藤文夫・近衛文麿などを理事として昭和7年1月に結成された。一、広く人材を結成し、国維の更張を期す。一、大いに国家の政教を興し、産業経済の発展を期す。一、軽佻詭激なる思想を匡正し、日本精神の世界的光被を期す、を綱領として掲げた。 同会は、満州事変を契機とする日本内外の事態を国家滅亡の危機と捉え、これに対処して維新を遂行する志士を結集するものとしてスタート。一方でこの危機を招いてかつ、これを克服できない既成政党を批判し、他方でこの危機を利用して革命を成し遂げようとする共産主義者を排して、日本精神による維新を成し遂げようとした。 国維会は昭和9年には解散しているので考えが同じであった訳ではないが、共通していたのは腐敗した既成政党の官僚支配に対する反発であった。実際、彼等の行った選挙粛正運動(選挙に金が掛かりすぎるため政党が腐敗する。政治の腐敗を無くすには正しい選挙を行う必要がある。という運動)は既成政党に打撃を与えている。(「あの戦争の原因」) |
【満州国建国】 |
3.1日、中国東北部に満洲国の独立が宣言された。3.9日、清朝最後の皇帝・溥儀(宣統帝)を執政に就任した。溥儀政権を傀儡政権と見るかどうかという問題がある。 満州国では、「王道楽土」の建設、「五族協和」(日本人・満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人)の実現を掲げ、国造りが進められた。これを理想と見るか、実質と見るかという問題がある。後年、陸軍の指導者が「八紘一宇」を喧伝することになったが、この思想の実体的根拠として満州国が利用されることになった。 この頃、これには日本からきた、岸信介などの官僚グループが積極的に取り組んでいる。彼らは満州組と呼ばれ、官僚指導による統制政策を実施した。以後、満州国は日本の統制政策の巨大実験場となってゆく。彼ら満州組もまた新官僚と呼ばれる。 |
3.3日、上海派遣軍に停戦命令。
4月、プロレタリア文化団体への弾圧。、4日蔵原惟人、7日宮本百合子検挙。
4.15日、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が日本に対する宣戦布告。
5.5日、日華上海停戦協定成立。
【チャップリン来日】 |
3.6日15:00、チャップリンが「諏訪丸」でナポリを出港した。5.14日7:45、チャップリンを乗せた「照国丸」は和田岬沖で検疫のために投錨。そこへ新聞記者らを乗せた船が横付けし、新聞記者らがチャップリンに相次ぐ質問をしている。「ジャック・マリツァの話は?」、「私が彼女と結婚するなんてそれは噂ですよ」。そして夏川静江から花束を受け取る。10:00、神戸港着。チャップリンは山の手の料亭「菊水」に入り、桃山の間で茶の湯の体験をする。正座は苦手なのであぐら。仲居10人が余興に「酋長の娘」などを三味線伴奏で和風ジャズ舞踊として踊ったところ、チャップリンはいたく喜んでアンコールを所望。昼の12:25、チャップリンが神戸発の「燕号」に乗り込む。当初の三ノ宮駅からの出発を変更したのだが、なぜか神戸駅には数千人のファンが押しかけ、チャップリンは駅長室に一時避難するほどだった。12:56、「燕号」は大阪駅到着。駅のホームには800人の群衆。13:00の発車のベルに群衆は警官も含めて「ビーケヤフル、グッバイ、ビーケヤフル」と叫ぶ。ここで車中のチャップリンは自分の来日を大きく報じている日本の新聞を渡されて同伴の兄と一緒に喜ぶさまを見せている。京都駅ホームでは舞妓の一団が押し寄せ、一番ファンの多かった名古屋駅ホームには偽チャップリンが2人登場。21:20、「燕号」は東京駅に滑り込んだ。 チャップリンが目にしたのは、深刻な不況に喘ぎ、社会の混乱が続く日本の姿だった。時あたかも満州事変が起こり、日本は国際的にも孤立への道を歩もうとしていた。チャップリンは、「日本とアメリカとの国際親善の役に立ちたい」という目的のもと犬養との面談を申し入れる。犬養もまた国際協調路線のもとにアメリカそして中国との友好を保っていかなければならないと考えていた。新聞には二人の会見が行われると大々的に発表された。 犬養首相を暗殺を企む青年将校たちもこの記事を目にしていた。彼らはチャップリンまでをも暗殺しようと考えた。5月15日に首相官邸で行われるチャップリン歓迎会に乗じ、集まる支配階級に対し直接行動を行使しようと考えた。陸軍青年将校の不穏な動きを知らされたチャップリンの秘書・高野虎市は東京駅から帝国ホテルに向かう途中、チャップリンに宮城に遥拝してくれと頼む。この頃暗殺グループの計画が一部変更し、チャップリン襲撃を取り止めていた。チャップリンの犬養との面会が17日となったため、チャップリンを標的から外した。 5月15日、チャップリンは相撲見物の帰りに、17日に会う予定であった犬養毅首相が暗殺された事を知る。チャップリンは「ぼくの到着と同時にこんな不祥事件の起こったことはお国のためにご同情にたえません。犬養首相にはお気の毒でお言葉の申し上げようがありません」と語った。事件は政府中枢を襲ったもので、大半の東京市民の日常はそのまま継続していた。人々は夜に撒かれた新聞の号外で初めて事件を知ったのである。チャップリンもそのままホテルに戻らずに銀座へと向かっている。五・一五事件の翌日の夕方には新聞報道が禁止され、それが1年間続いた。 事件後半月滞在し、6月2日に犬養の後、首相に就任した斎藤実と面会する。そして、犬養が殺害された現場を見たいと申し出、斎藤に案内される。犬養が倒れた応接間を見たチャップリンは「恐ろしい…恐ろしい…」と繰り返したという。犬養首相の息子・健とも面会し、「お力を落とさず、どうぞお元気で」と述べた。 チャップリンは1936(昭和11)年3月6日に再来日するが、その数日前には二・二六事件が起き、チャップリンを首相官邸に案内した斎藤実が凶弾に倒れていた。この来日は予定を切り上げ、わずか1日半で帰途についている。 |
【以降の流れは、「昭和時代史3、5.15事件(1932年から1936年)」の項に記す】
(私論.私見)