明治維新史(2―3)(伊藤が射殺されるまで)

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).9.6日

 これより以前は、「明治維新史(2―2)(日清戦争まで)」の項に記す。


1895(明治28)年の動き

【板垣の入閣】
 4月、板垣退助が内相として入閣し、伊藤と自由党の提携はここに成った。このように成立した提携は、第9議会においてさまざまな影響を発揮した。だがそれがすべてがすべて、伊藤内閣にプラスに作用したわけではない。伊藤が議会過半数に基盤をおくことに成功したのはたしかに憲政の前進と言うべきだが、そのかわりに彼は、山縣を筆頭として政党と議会に対峙する官僚機構の支持をうしなった。また、ようやく制した議会過半数も、自由党首脳部がさしたる党内統制力をもたないために、しばしば混乱や意見の不一致をみることになった。

 それでも自由党は伊藤に板垣の入閣を要請した。伊藤は板垣に内務大臣のポストをあたえる(そのために板垣は党籍を離脱せざるをえなかったが)一方、挙国内閣を結成するために大隈重信(改進党)を外相に起用しようとした。自由党はこれに激しく反撥、そして官僚機構の反撥はさらに大きかった。

【三国干渉】
 下関条約締結後、日本の遼東半島領有が朝鮮半島における自国の権益確保に不都合と考えたロシア、フランス、ドイツによる三国干渉が為される。三国はそれぞれ勧告書を日本政府に突きつけ、「朝鮮国の独立性と極東アジアの平和の妨げとなる故に」遼東半島を清国へ返還するよう求めた。武力のおとる日本はこれに応じ、5月、日本と清の間で遼東半島還付条約が締結され、日本は半島返還の代償として庫平銀3000両(約4500万円)を取得する。

 この外交折衝の経過は、陸奥の「蹇蹇録(けんけんろく)」に記されている。戦争中、国民の間では、平壌の戦い、黄海海戦での大勝利のニュースに接して以来、「北京へいつ日本軍が進撃するか」が関心事になっていた。陸奥によれば、「妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、毫も愛国心無き徒と目せられ」るありさまだった。国民の喜びに水を差す、理不尽な三国干渉に直面した政府当局者は頭を悩ませたが、病身をおして善後策を検討した陸奥は、国民におもねることなく、国力を冷静に鑑み、まさしく「妥当中庸」を貫き、不当な三国干渉という「友誼に基づく忠告」に応え、他日を期した。

 三国干渉は、ロシアがドイツ・フランスをさそっておこしたため、以後、日本のロシアに対する敵意が強くなり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国を挙げて対露戦の準備を進めることになった。これが日露戦争の伏線となる。

【欧米列強の清国分捕り競争】
 日清戦争ー三国干渉を契機にヨーロッパ列強の本格的な中国分割が開始される。「西欧列国はあたかも飢えた野獣の如く腐肉に襲い掛かった。日本の勝利は戦術的であり、欧米列強のそれは戦略的であった。日清戦争はこれに利用された観がある。

 ロシアは南下政策を取り、華北地方などを狙っていた。ロシアの南下政策の背景には、「満州進出」更にウラジオストックが冬季使用不能のため遼東半島の旅順・大連などの不凍港を欲していたという事情があった、と推測されている。その具体化として、ロシアは1896年、露清密約で東清鉄道敷設権を獲得し、1898年には旅順・大連租借条約でハルビン・旅順間に南部支線を建設することが認められる。

 フランスとドイツも中国分割戦に食指を伸ばしていた。ドイツはドイツ人宣教師が山東省で殺されたのを口実に膠州湾を占領し租借する。フランスは広州湾を、イギリスは威海衛をそれぞれ租借条約で手に入れた。遅れをとったアメリカも仲間に入れろと「門戸開放宣言」をする。

 昭和八年に刊行された『機密日清戦争』によれば、開戦早々のものと思われる内閣総理大臣奏議で伊藤は次のように述べている。

 概要「英露などの開戦前の干渉は一応去ったが、決していつまでも黙ってみていることはなく必ずまた干渉してくるだろう。しかも、今度は実力を行使してその目的を達しようとするかもしれないし、仏独なども嘴(くちばし)を入れてくるかもしれない。目下の急務は、干渉がくる前に一大勝利を収め、日本側の要求をすぐにでも持ち出せる立場を確保することである。そうしておけば、たとえそれを全部達成できなくても、国威を損せず、日本の利益となる結果を得、しかも将来の計画も立てられる」。

 この伊藤の見通しに軍が見事に応える。干渉がくる前に勝利を収め、要求を出せるようにするという戦略に則り素早く動いた。清国の停戦要望に対して李鴻章のようなしかるべき人物がくるまではダメだと言ってやり直させたほどの余裕があった。 外交の方が、開戦時手際良くいったのは、一つに陸奥宗光の功績と言える。日本の出兵をみて「しまった」と思った清国側は、ロシアや英国に事態収拾のための干渉を頼む。これを的確に処理していったのは陸奥の優れた判断力に負うところが大きい。何より陸奥の事務処理が機動的にして的確であった。朝鮮内政改革案に清国が拒否の回答をしてきた6.21日の翌日には理路整然たる長文のいわゆる「第一次絶交書」を手渡している。6.30日にロシアの干渉がくると、直ちに伊藤と相談して、言辞は丁重で事理を尽くした回答案を作成して、7.1日に閣僚と協議して天皇の裁可を得て、7.2日にはロシアに回答している。そして7.21日の英国の干渉に対する回答書は22日に出している。これだけの内容の仕事をこの早さで仕上げるのは至難のわざであるが、しかもそれが不平等条約改訂交渉の終盤と重なったことを思えば、なおさら。この陸奥の迅速さは、清国の対応、そしておそらくはロシアの対応を後手後手に回らせる効果があった。

 ロシアが反対したのは、この中の遼東半島の領有です。ロシア皇帝ニコライ二世は、皇太子時代に訪日したこともあり、珍しく極東に関心を持っていた。ウィッテの回想記は、「皇帝はこの方面に進出し領土を拡張したいという希望があり、そういう希望があると知った以上、日本に遼東半島を領有させることはとうてい容認できないと考え、日本が言うことを聞かない場合は、日本砲撃ぐらいはやむを得ないと考えた」と記している。そして独仏を誘って、日清講和条約批准の4.20日に三国干渉を始める。

 日本としては、米英の助けを借りようと思っても、米国はパワーポリティックスに参入する気は全くなく、英国も、陸奥の表現では「英国は他人(ひと)の憂(うれ)いを我が憂いとするドン・キホーテではなく、日本が同盟国として英帝国の防衛に寄与できる国とは思っていない。もし英国が一言(ひとこと)同盟と言ってくれれば、それに賭けたかもしれないが、そうでないので三国干渉を受諾」したとある。

【三浦梧楼公使派がロシアとの関係を強めていた閔妃を暗殺】
 1895.10月、三浦梧楼公使は、ロシアとの関係を強めていた閔妃を、日本の官憲と「大陸浪人」を使って暗殺。その際、閔妃を含む女性3名を陵辱している。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

  内村鑑三『余は如何にして基督教徒となりしか』。

【台湾併合後の台湾総督史】
初代 樺山資紀 明治28年5月10日
二代 桂太郎 明治29年6月2日
三代 乃木希典 明治29年10月14日
四代 児玉源太郎 明治31年2月26日
五代 佐久間佐馬太 明治39年4月11日
六代 安藤貞美 大正4年5月1日
七代 明石元二郎 大正7年6月6日
八代 田健治郎 大正8年10月29日
九代 内田嘉吉 大正12年9月6日
十代 伊沢多喜男 大正13年9月1日
十一代 上山満之進 大正15年7月16日
十二代 川村竹治 昭和3年6月19日
十三代 石塚英蔵 昭和4年7月30日
十四代 太田政弘 昭和6年1月16日
十五代 南弘 昭和7年3月2日
十六代 中川健蔵 昭和7年5月27日
十七代 小林躋造 昭和11年9月2日
十八代 長谷川清 昭和15年11月27日
十九代 安藤利吉 昭和19年12月30日
(終戦と共に廃止)

1896(明治29)年の動き

【進歩党結成】
 1896(明治29)年3月、日清戦争後、第2次伊藤博文内閣と提携した自由党に対抗し、立憲改進党を中心に諸党が合同して進歩党が結成された。大隈重信が事実上の党首となり、第2次松方正義内閣では政府与党となった。1898年に解党し憲政党を結成する。

 3月、台湾総督府条例公布。


 4月、民法公布。


 7月、日清通商航海条約。


 伊藤が平和回復後の議会に軍備大拡張計画を提出する。


【第二次伊藤内閣総辞職】
 8月末、伊藤内閣は総辞職した。伊藤がつぎの内閣首班として奏薦したのは、またしても薩派の松方正義である。

 第二次伊藤内閣の際には、板垣も大隈も与党に入閣した。これには、野党内部から反対の声もあったが、板垣も大隈もシカトした。この与党志向の、野党幹部というパターン、これが、自由民権を挫折させた大きな原因となった。

【第6代、第二次松方内閣】(第6代:第二次松方正義内閣(任:1896.9-1898.1)
 1896(明治29).9.18日六代目となる第二次松方内閣が組閣された(1896.9.18~1898.1.12)。松方―板垣―西園寺。外務大臣に西園寺公望、農商務大臣・榎本武揚、逓信大臣・黒田清隆。陸軍大臣・大山 巌、海軍大臣・西郷従道。

 さきの第三次伊藤内閣は自由党と締盟したが、松方は三菱の岩崎弥之助の仲介を受けて、今度は進歩党(旧立憲改進党)と同盟して藩閥・改進党連立内閣を発足させた。いわゆる「松隈内閣」である。松方と岩崎はもとより姻戚関係にあり、まもなく岩崎は日銀総裁に就任する。大隈自身は外相の席を占め、内閣書記官長に高橋健三、法制局長官に神鞭知常を就任させて進歩党の確乎たる地盤を築いた。 

 この提携にたいして激しい不満を抱いていたのは、対外硬の超然主義の闘士である、薩派の樺山内相、高島拓殖務相であり、清浦法相の背後には長派の大親分である山縣有朋の意向が見え隠れしていた。閣内は紛糾し、ただ松方首相の右往左往する姿のみが印象づけられる。

 その松方首相の醜態を尻目に、閣内では、進歩党派と超然派が真っ向から対立する事態となり、明治30年10月末、あいついで改進党派閣僚は連袂辞職し、一挙に政府の敵側に廻った。進歩党は自由党と提携して政府に吶喊攻撃を開始する。超然政府はこの攻撃に対して有効な手だてを見いだし得ず、ふたたび伊藤が超然主義復活の期待と組閣大命を受けることになる。しかし、伊藤はとうに超然主義の前途に対して見切りをつけていたのである。

 二十六世紀事件。現職の内閣書記官長高橋健三の論文を載せた雑誌が発売禁止処分を受けたために内閣と内務省が対立、翌年新聞紙条例が改正されて統制緩和。


1897(明治30)年の動き

 1897(明治30).2.26日、衆議院に於て「鉱毒問題についての田中正造の質問演説」。(補足、別章【田中正造の足尾鉱毒事件告発闘争考】) 


 3月、貨幣法公布。金本位制確立。日本が金本位制を導入(松方正義)したとき金0.75gを1円とした。(2009.3.31日、金1g=3100円、円/ドル=97円。1円は2009年の2325円に相当)


 10月、台湾総督府官制公布。


 「ジャパンタイムズ」創刊。

【日本攻略戦争計画書「オレンジ計画」が極秘に作成される】
 この年、日露戦争が始まる7年前、当時のアメリカの大統領セオドア・ルーズベルトの指令によるアメリカが日本を侵略するために作った戦争計画書「オレンジ計画」が極秘に作成されている。「オレンジ計画」は40年の時を経て、大統領から大統領へ密かに受け継がれていく。驚くべきことに、そこに書かれた内容は、実際に太平洋戦争で起こされた数々の作戦にピッタリ一致している。太平洋戦争の始まりと言われる日本が仕掛けた「真珠湾攻撃」、この真珠湾攻撃から始まる一連の大戦(ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなど)は、1907年にはルーズベルト派が構想していたものだった。セオドア・ルーズベルト大統領は当時、米軍の艦隊に世界1周航海という名の予定戦場調査を指示しており、その行く先々や海路が実際の戦場と一致している。つまり、30年以上も前に、ルーズベルト大統領によって密かに対日戦争の戦場は決められていたことになる。1942年、東京の都市部を狙ったアメリカによる無差別爆撃の大空襲で約8万人以上の国民が犠牲になった。この大空襲も、アメリカがいきなり計画したものではない。空襲を計画したウィリアム・ミッチェル准将が、1923年の段階で構想に織り交ぜていた。その証拠に、同年、日本で起きた関東大震災の際、アメリカは救助隊という名目で調査団を派遣し、彼らが調査した被害レポートから東京大空襲が提案されたという記録が残っている。アメリカは、震災から着想を得た作戦も計画していた。

 1945年8.6日と8.9日に日本に原爆が投下されたが、これは「日本に徹底的なダメージを与えて屈服させる」というオレンジ計画の大方針に則り実行されたものである。実際に、ハリー・トルーマン大統領の大統領記録には、「原爆が使用されていなかったとしても、8月に終戦予定だった」と記されている。オレンジ計画研究家の鈴木荘一氏は、「原爆は1906年版オレンジ計画を実行に移したものである」とオレンジ計画の記録からその犯行を読み解いている。他にも、対日経済制裁である「ABCD包囲網」や、日本とイギリスを分断することになってしまった「日英同盟破棄」などもオレンジ計画の一部だった。軍事関係者の間では、「オレンジ計画は、あらゆる軍事計画の中で最も秀抜である」と高く評価されている。

 40年以上、アメリカの大統領から大統領へ受け継がれてきたこの計画は、その間に研究を重ね、何度か改訂も挟んでいる。オレンジ計画について、近代史研究家の鈴木荘一氏が、平成7年(1995)にいち早く「オレンジ計画」の存在に気づき、30年以上研究を続け、多くの日本人にアメリカが隠した歴史の真実を知っていただきたいという想いから、「日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇」を復刻した。
目次
第一章  太平洋の遠雷 15
第二章 オレンジ計画 73
第三章 帝国国防方針 207
第四章 政党政治の開幕 235
第五章 伊藤博文遭難と韓国併合 319
第六章 老害としての山県有朋 359
第七章 大正天皇と山県有朋の暗闘 439
補論 大正陸海軍の軍縮 477

 著者プロフィール
 昭和23年生まれ。昭和46年、東京大学経済学部を卒業。同年、日本興業銀行へ入行。特に企業審査、経済・産業調査に詳しく、的確な分析力に定評がある。平成13年、日本興業銀行を退職。計30年間勤務する。現在は、近代史研究家・作家としての活動に力を入れている。計24冊以上の著書を執筆。

 「月刊歴史塾」その他参照。

 山本五十六「アメリカと戦争することになれば、この日本は二度三度も焦土と化すだろう」。日本が日独伊三国同盟に調印した際、山本は友人にこう語っています。「実に言語道断。自分は戦艦で命を落とすだろう。そして東京や大阪あたりは三度ぐらい丸焼けにされてしまうだろう」(参照:半藤一利「真珠湾の日)。真珠湾攻撃で有名な山本五十六ですが実は彼はもともとアメリカと戦うことには大反対していて、右翼は山本を「国賊」と呼び、暗さつ計画が噂されたほどだったようです。ですが、山本の思いも虚しく、もはや戦争への流れは止められませんでした。戦争が決まった以上、全力を尽くす。そう思った山本が立てたのが真珠湾作戦でした。山本は開戦と同時に先制攻撃で大打撃を与え、相手の戦意をくじいて一気に戦争終結へと導こうとしたようです。1941年12月8日、350機の航空機で真珠湾の米艦隊を奇襲し、「アリゾナ」など戦艦五隻を沈没、9隻を大破させ、188機の飛行機を破壊しました。日本国民は山本を英雄視しましたが、結果として、敵空母を取り逃がしており、これが翌年のミッドウェー海戦における大敗に繋がってしまいました。

 ですが、あなたは知っていましたか?実は山本五十六が指揮した真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も全てアメリカにとっては想定内だったのではないか、ということを。というのも、近年になって日米開戦の理由を明かす史料が発見されたからです。その史料とは、1897年…日露戦争の7年前に作られた秘密の対日戦争計画書です。実は、日本が仕掛けたとされる真珠湾攻撃すらも、アメリカが作り上げた罠だったのでした…ではいったい、そのオレンジ計画にはどんなことが書かれているのか?この対日戦争計画書を知れば、真珠湾攻撃でも経済封鎖でもない、日米が戦争をした本当の理由が見えてきます…その中身を公開した書籍がこちらです…
『日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇』。

1898(明治31)年の動き

【第7代、第三次伊藤内閣】(第7代:第三次伊藤博文内閣(任:1898.1-1989.6)
 1.12日、七代目となる第三次伊藤内閣が組閣された(1898.1.12~1898.6.30)。伊藤―井上馨。自由党と提携し連立内閣を組織。陸軍大臣・桂太郎、、海軍大臣・西郷従道。

 その第二次内閣において見事政党を駕御し得た伊藤に組閣の白羽の矢が立ったのは、ある意味当然であったかもしれない。しかし、すでに事態は第二次内閣の頃と余程変わっている。自由党、進歩党が吶喊攻撃を繰り返し、明治政府はまさに動揺した。伊藤は両党に閣内協力を要請したが、その見返りとして要求された代償は、とても払いきれないほど過大なものであった。

 伊藤はここで一転して超然内閣を結成する。外相には薩摩派の西徳二郎、内相には山縣系の芳川顕正、外相に朋友の井上馨を任命し、第三次内閣は民党と対決の布陣を取って成立した。

 そして、伊藤は内閣劈頭地租増徴等増税案を議会に提出したが、激しい反対が巻き起こり、地租増徴策を否決した自由・進歩両党に対して、乾坤一擲に解散を喰らわせた。これに憤った両党は合同して憲政党を組織して民党はここに一元化された。政府は最大の危地に見舞われたのである。

 ここで伊藤は、三度持論を持ち出した。いうまでもなく「元老による模範的な政府党の結成」という持論である。伊藤はこれを成立させるために井上蔵相を説いて財界の協力を取りつけることに成功する。だが、この伊藤の動きにもっとも警戒心をあらわにしたのが山縣有朋である。第三次伊藤内閣辞表捧呈後の元老会議は紛糾をきたした。

 4月、福建省不割譲に関し日清交換公文。


 4.20日、米西戦争(同時多発戦争)勃発。12月、パリで講和。スペインは、フィリピン、プエルトリコ、グアムを割譲。 


【第7代、第三次伊藤内閣総辞職】
 この間、政党が次第に藩閥との対抗力をつけていった。自由党と進歩党の二大政党が解党し、憲政党を結成した。第三次伊藤内閣を率いていた伊藤は元老と相談の上、総辞職による政権明け渡しを決断した。これを受けて開催された元老会議は紛糾した。その争点となったのは後継首班の奏薦と共に、伊藤主導の新政党結成についてであった。特に山縣は政府不偏不党原則からこれに強硬に反対し、ついに伊藤も、「内閣総理大臣としても、将た現職を辞するも、絶対に予の政党組織を否認するに於ては、予は已むを得ず官職・勳爵の一切を拝辞し、一介の野人として結党のことに当たらんのみ」と啖呵を切ったうえ、後継首班については、「議会に大多数の議員を有する政党の領袖大隈重信、板垣退助に組閣の御沙汰があらんことを奏請するを以て憲政の本義に適えりと信ず」と言って諸元老を唖然とさせた。

 しかし彼らも誰一人後継首班を買って出ようとはしない。ついに伊藤は呵々大笑して、「諸君皆な重責を負うを辞するならば、国家経綸の抱負を有する大政党の領袖を煩わすの外なきにあらずや」と言って参内し、官職爵位の一切を拝辞したうえで大隈・板垣を奏薦した。伊藤私邸に呼ばれた二人のうち、板垣はやや躊躇したが、大隈はこれを快諾するに至る。こうして、「憲政党の反対にあい辞職。元老たちの反対を押し切って大隈、板垣を後継に押し、日本最初の政党内閣(第1次大隈憲政党内閣)を実現させた」。

【第8代、第一次大隈内閣】(第8代:第一次大隈重信内閣(任:1898.6-1898.11)
 1898(明治31).6.31日、議会の多数派である憲政党の大隈重信に組閣の大命が下り、8代目となる第一次大隈内閣が組閣された(1898.6.31~1898.11.8)。憲政党による政党内閣の登場であり、史上初の政党内閣が成立した。「明治政府の落城」と云われる。進歩派と自由派の合体で大隈首相、板垣内相となった為、大隈―板垣の「隈板内閣」と云われる。文部大臣・尾崎行雄、陸軍大臣・桂太郎、海軍大臣・西郷従道。

 藩閥政治に対する批判者にして非藩閥の陸奥宗光に庇護され、朝鮮政府の法律顧問や駐米公使を務めていた星亨が、第1次大隈内閣で外務大臣として入閣する予定であったが、首相の大隈重信がこれを拒否した。これが後に憲政党分裂の原因を作る。

 「隈板内閣」は、政府の要職を藩閥官僚から奪う政治主導により改革を手掛けた。これにより各省の次官、局長、警視総監などの勅任官が入れ替わった。これに、山県系が抵抗し、各種工作により政権の内部分裂を余儀なくされることになった。

 しかし初の政党内閣となったこの「隈板内閣」も、はじめから火種を含んでいたと言っていい。憲政党は言うまでもなく自由党と進歩党の合同によって成立した政党であるから、内部において自由派と進歩派の反目嫉視が絶えなかった。その摩擦ははやくも閣員選考にあたって現れた。主要閣僚である外務・内務・大蔵三大臣について、大隈が総理・外務を兼摂して離さなかった。はじめ、この外務の席は「自由派に相応の人材があれば譲り渡す」という約束であったが、ワシントン駐剳公使として帰日した星亨が現れても大隈は外務大臣職を兼摂したままであったから、両者の軋轢はいよいよ音を出してきしみ始めた。

 これに拍車を掛けたのが、8月22日、尾崎行雄文相が帝国教育会の席上、行った演説が歪曲されて大波乱を引き起こした「共和演説事件」である。歪曲したのは東京日々新聞、社主は伊藤博文の股肱伊東巳代治であった。ついに尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち進歩派の犬養毅を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。

 ここで動いたのがかつての自由党の剛腕、外相の席を逃した星亨である。星は隠遁先の別荘から駆け戻るや、まず山縣、また閣内における超然派である桂陸相などと渡りを付け、続いて忽然、自由党領袖会議に現れて憲政党解党を示唆し、進歩派があわてふためくうちに両派協議会においてクーデタ―同然に解党を決議してしまった。こうして憲政党は分裂した。

 自由派はここで改めて、自由派のみの憲政党を結成。勿論、すでに自由派閣員は内閣を引き上げて新憲政党に合流した。大隈はそれでも政権に執着して宮中に出向き、徳大寺侍従長を介して「今次は一旦総辞職するが、大命最降下があれば進歩党単独内閣を組閣する自信がある」 と奏上した。しかし翌日、それに対する返答はなく、元老会議が招集された。外遊中の伊藤をのぞいた元老会議において奏薦されたのは山縣有朋であった。これにより、「隈板内閣」は僅か4ヶ月で瓦解した。

【第9代、第二次山縣内閣】(第9代:第二次山縣有朋内閣(任:1898.11-1900.10)
 隈板内閣を倒壊に導いたのは自由派切っての辣腕家・星亨と、その同盟者となった山縣有朋、桂太郎、西郷従道らの藩閥官僚たちであった。さしもの超然主義の巨頭・山縣も、もはや政党と相携えずには議会を乗り切ることは困難だと考えた。そこで自由派=憲政党と結びつこうとした。しかし、著書の中で升味準之輔はこういう。
「それは閣内に政党人がいないという意味で超然内閣であったが、自由党と密接に提携しているという意味ではきわめて党派的な内閣であった。・・・・つまり、山縣の超然内閣は、その実質において虚偽であるばかりではなく、持続しうる虚偽でもなかった」。(升味準之輔「日本政党史論」二巻、297ページ)

 そしてその争点となった提携条件も、当初憲政党が自党から四名の閣員を希望したのに対し、山縣はこれを三名に限定、一旦交渉は決裂。11月8日、組閣はされたが、その後も交渉は継続し、11月28日にいたって山縣側が、1)現内閣は超然主義を執るものにあらずとの宣言を発すること、2)憲政党の綱領を採用すること、3)憲政党と利害休戚を同じうすることの以上三点が提示された。星、河野などはこれを呑み、閣内協力なしで山縣政権は議会与党を成立させることに成功した。

 1898(明治31).11.8日9代目となる第二次山縣内閣が組閣された(1898.11.8~1900.10.19)。山縣―西郷―松方。陸軍大臣・桂太郎、海軍大臣・山本権兵衛。

 11月30日、山縣首相は憲政党議員を招いて茶話会を開いて「肝胆相照」を宣言してここに超然の巨頭山縣と憲政党の蜜月が始まった。星はこの提携を、もっぱら憲政党のイメージ好転のために用いようとし、支持層の拡大、なかんずく実業家からの支援を期待した。
 しかし、政治上の締盟は長続きするものではない。特に超然主義と民主主義の蜜月が永続性のあるものであろうはずがなかった。星らの尽力によって地租増徴策が議会を通過した後、山縣が打った手は彼らに報酬として官職を分配することではなく、むしろ文官任用令を改訂して自由任用の利く範囲をきわめて限定した。猟官の防止である。

 憲政党議員たちは激昂し、山縣首相に詰め寄った。山縣はここで譲歩して、多少自由任用の利く範囲を旧に復したが、そのあとで文官任用令の改正については枢密院の諮詢を経ること、として今回の改訂をそのまま存置してしまった。憲政党議員たちは締盟分裂を察知した。星は山縣の本音を打診するために、地租増徴案可決の代償として閣僚の椅子を求めたところ、山縣はこれを拒否。星は提携破綻を宣言した。憲政党は次の同盟者を大至急捜さねばならない。

 そこで星が目を付けたのがいまひとりの長州の元老・伊藤博文である。星は伊藤の隠棲する大磯の別邸に急行し、伊藤に憲政会を率いてくれるよう要請した。伊藤はそこで、自分の本意は既成政党を矯正するために新政党を設立することだ、と述べると、星は憲政党を解党して伊藤の新政党に合流すること誓約した。元老・伊藤を元首としてここに日本政党史上初の縦断政党、政友会が誕生することになる。バックには、三井財閥の番頭とも云われた元老・井上馨が控えていた。山縣のもっとも恐れていた事態が現前したのである。

 岡倉天心・横山大観ら、日本美術院を創立。

1899(明治32)年の動き

 7月、日英通商条約ほかの改正条約発効。


 アーネスト・フェノロサ『世界史上日本の位置』。

1900(明治33)年の動き

【田中正造の亡国質問】
 2.17日、田中正造が「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」をしている。これを転載しておく。(底本「田中正造之生涯」國民圖書、1928(昭和3)年8月20日発行)(インターネットの図書館、青空文庫)
 亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問(明治三十三年二月十七日、衆議院提出)

民を殺すは國家を殺すなり。法を蔑にするは國家を蔑にするなり。皆自ら国を毀つなり。財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる国なし。之を奈何。右質問に及び候也。

演 説 (明治三十三年二月十七日、衆議院に於て)

 今日の質問は、亡国に至って居る、我日本が亡国に至って居る、政府があると思うと違ふのである、国があると思うと違うのである、国家があると思うと違うのである、これが政府にわからなければ則ち亡国に至った。之を知らずに居る人、己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ、これが眞の愚である。民を殺すは国家を殺すなり、法を蔑にするは国家を蔑にするなり、人が自ら国を殺すのである。

 財用を紊って、民を殺して、法を乱して亡びないと云うものは、私未だかって聞かないのでございます。自分で知って居って爲されるのではなかろうと思う。知って居ってすれば、これは惡人と云う暴虐無道である。その本人その人間が暴虐無道である。政府と云うものは集まった集合体の上で知らず/\惡い事に陷って行く。これは政府が惡い。この政府と云う集合体の上で惡いのである乎。之を知って居るのである乎。本人が承知して居るのである乎。承知して居て直すことができないのである乎。これが質問の要点であります。国家が乱るからと申して、俄に乱るものではない、段々歴史のあるものである。

 精が尽きて御話しのできない時に惡うございますから、一つ簡単に当局大臣に忘れないやうに話しておきたい事がございます。大臣は那須郡の原を開墾することを知って居る。この地面の惡いのを開墾することを知って居るならば、今この鑛毒地の渡良瀬川、関東一の地面の良いのが惡くなる――この関東一の地面を開墾すると云うことはドンなものであったか、頭に浮かばなければならぬと云うことをこの間話しましたが、今日はなお一歩進んで御話ししなければならぬ。

 己の持って居る公園とか別莊とか持地とか云うものは、どんな惡い地面でも、これは大切にすることを知って居る。大切にすることを知って居れば、則ち慾がないと云う訳ではない。国家を粗末にすると云う頭でないものは、大切にすると云う頭を持って居るものである。馬鹿ぢやない。その頭を持って居りながら、那須郡と云えば則ち栃木県の中である。それから僅か数里隔ったる所の、しかも所有者のある所の田畑が、肥沃な天産に富んで居る熟田が、数年の間に惡くなって行くが、目に入らぬと云うはどうしたのである。甚しきはその被害地を歩くのである。被害地を見ないのではない、その被害地の上を通行するのである。那須へは栃木茨城埼玉地方を廻って行くのである。自分の持物は那須野ヶ原のような、黒土の僅か一寸位しか地層のない所も開墾して、丹青を加えて拓くと云うことを知って居るではないか。それだけに善い、それだけに力を用ゆる頭を、国家の爲に何故公けに用いない。

――他人のだから――他人の災難と云えばドウなっても構わぬと云う頭が、国務大臣と云う者にあって堪まるものでないのである。他の者でも然う云う頭はいけない。特に国務大臣にソンなことがあって堪まるものじやない。彼の那須野の地面と云うものは、大抵国務大臣が持って居る。内務大臣の西郷君を始めとして、政府に在る所の者、元の大臣で持たない者と云えば伊藤侯と大隈伯、その他は大抵持たない者はない、皆な持って居るではないか。そうすれば覚えて居りそうなものだ。自分の子供を持って見れば、人の子の可愛いと云うことが判らなければならぬ。六ヶしい話でも何でもない。

 又簡単に歴史を申上げますると、この鑛毒の流れ始まつたのは明治十二年からです。足尾銅山に製銅の機械を据えつけたのが十二年。十三年から毒が流れたのを栃木県知事が見付けて、十三年十四年十五年とこの鑛毒の事を八釜しく言うと、この藤川爲親と云う知事が忽ち島根県へ放逐されたのが、政府が鑛毒に干渉した手始めである。古い事でございます。この藤川爲親と云う者が放り出されると、その後の知事は、最早鑛毒と云うことは願書に書いてはならない、官吏は口に言ってはならない、鑛毒と云う事は言ってはならないと云うことにしてしまった。それが爲に無心な人民は十年鑛毒を知らずに居たが、二十三年に至て不毛の地ができたについて、非常に驚いて始めて騷ぎ出した。それは明治二十三年からでございます。これから先は段々諸君の御承知の通りでございますから、敢て申上ぐる必要はない。かような歴史になって居るので、各所の鑛毒の関係及び追々惡くなった所を一と通り御話し申さぬと、唯だ苦情を申すように御聞き取りになると惡うございます。
         ×   ×   ×   ×   ×
 関東の中央に於て能登国の二倍程の鑛毒地――この點について諸君に関東の事情を御訴へ申す悲しい事がある。この関八州は人間が卑屈でございまする。今日は誠に殘念だが據ない。何故ならば、徳川の三百年穩和なる所の膝下で育ちましたので、家庭教育と云うものが極く惡くなって居りまする爲にか樣な次第である。

 鑛毒事件で関東の眞中へ大きな沙漠地を拵えるのは誰である。これは即ち京都で生れた上方の人である、古河市兵衞である。この仕事を大きくさせたのは誰である。即ち薩長土肥である。又今日、この鑛毒地を可哀そうだと言うて、来て見てくれる人も矢張り上方の人で、関東の人間は、自分の膝下をやられるのを平気の平左衞門で居る、殆ど無能力――腦味噌がない。関東の眞中へ一大沙漠地を造られて平気で居る病気の人間が、殺されないようにしてくれいと言う請願人を、政府が打ち殺すと云う挙動に出でたる以上は、最早自ら守るの外はない。一本の兵器も持って居ない人民に、サーベルを持つて切って掛り、逃げる者を追うと云うに至っては如何である。これを亡国でない、日本は天下泰平だと思って居るのであるか。

 古い頭はこれはもういけない。古い頭はいけない、去りながら今日の若い方の側に、未だ取って代って国を背負つて立つ所の元気の人も現われて来ず、若い方も年寄もどっちも役に立たぬから、恰も二つの国が寄合ったようなものである、日本人として互に通弁がなければ判らぬと云ふ位不便である。年寄は訳がわからぬ。若い方は腰拔けだ。それでも、腰拔けでも訳がわからぬでも、日本が御互いに眞面目であると言うならば、眞面目であると云うならば、ひよっとしたならばこの国を持ち堪えることができるかも知れぬが、馬鹿なくせに生意気で、惡い方へばかり上手になったと云うに至りましては、何處までも見所はなくなったのである。

 政府ばかりを言うわけにはいかぬ。吾々は固より教育は惡いし、年は取る。惡い教育でも、あれば宜しいが、それもなし。固より国家を背負つて立つ器量はない。幸に若い諸君は学問を有って居るからして、若い諸君が御眞面目におやりになりますならば、ひよツとしたらば、万が一に僥倖したらば、この国を亡ぼさずして済むが――今日の有樣でございますれば、亡ぼすじやない、亡びた、亡びてしまったんである。この通りにいけば、国が亡びると言うじやない、亡びた。亡びても未だ亡びないやうに思って居るのは、これはどうしたのであるか。

 今日の質問は、左樣な国情中の一つである所の鑛毒事件である。如何せん、この問題が諸君の御聽に達することを得ない、世の中に訴えても感じないと云うのは、一つはこの問題が無経験問題であり又目に見えないからと云う不幸もございませうが、一つは世の中全体が段々鑛毒類似の有樣になって来た爲に、鑛毒問題に驚かない。――三百人の警察官がサーベルを揃へて、鐺を以て鎗の如くにして吶喊した。又撲ぐる時には声を掛けた、土百姓土百姓と各々口を揃へて言うたのである。巡査が人民を捕まえて「土百姓」と云う掛け声で撲った。この「土百姓」と云う掛け声は何處から出るのであるか。これ即ち古河市兵衞に頼まれて居るからして、鑛業主にあらざれば人間にあらず、土百姓は人間に非ざる樣に常に聞いて居るからして、ツイそれが出る。三百人の巡査が悉く土百姓と云う掛け声を以て酷どい目に逢わせた、鬨の声を揚げた、大勝利を揚げた、大勝利万才の勝鬨を揚げたのでございます。何たる事である。被害民の方は、これまでも棒もステツキも持って居なかった。特に今度は能く世話人が指揮して、品行を方正にし靜肅を旨とせよと云う申し渡しまでした位でございますから、煙管一本持つた者がない位靜肅である。これに対して何である。勝鬨を揚げるとは何だ。

 今日政府は安閑として、太平楽を唱えて、日本は何時までも太平無事で居るやうな心持をして居る。これが心得が違うというのだ。一体如何いう量見で居るのであるか、これが私の質問の要点でございます。

 大抵な国家が、亡びるまで自分は知らないもの。自分に知れないのは何だと云うと、右左に付いて君主を補佐する所の人間が、ずツと下まで腐敗して居って、これが爲に貫徹しなくなるのである。即ち人民を殺す――人民を殺すは己の身体に刄を当てると同じであると云うことを知らない。自分の大切なる處の人民を、自分の手に掛けて殺すと云うに至ては最早極度で、これで国が亡びたと言わないで如何するものでございます。陛下の臣民を警察官が殺すと云うことは、陛下の御身に傷つけ奉る事、且つ又己の身体に傷つけるのであると云うこの道理が、この大なる天則が分からなくなって、なお且つ之を蔽う爲に、兇徒嘯集と云う名で召し捕って裁判所へ送る。可し。兇徒嘯集と云うようなものであれば、私もその中の一人でありますから、この議場の開会と閉会とに拘らず、何故先きに私を捕まえて行かないのであるか。普通の事件なら別の話し、兇徒嘯集と云うやうな大きな事なれば、議員でも何でも容赦はない筈だ。

 私はこれまで隨分人民の權利を主張すること衞生に関する事など演説して歩いた。世の中の馬鹿には教唆のように見えるであろうから、引っ張って行くことがあるなら、この私を一番に引っ張って行くが宜い。兇徒嘯集などゝ大層な事を言うなら、何故田中正造に沙汰をしなかった。人民を撲ち殺す程の事をするならば、何故田中正造を拘引して調べないか。大ベラ棒と言おうか、大間拔けと言おうか、もしこの議會の速記録と云うものが皇帝陛下の御覽にならないものならば、思ふさまきたない言葉を以て罵倒し、存分ひどい罵りようもあるのであるが、勘弁に勘弁を加へて置くのである。苟も立憲政体の大臣たるものが、卑劣と云う方から見ようが、慾張りと云う方から見ようが、腰拔けと云う方から見ようが、何を以てこの国を背負って立てるか。今日国家の運命は、そんな楽々とした気楽な次第ではございませぬぞ。

 今日の政府――伊藤さんが出ても、大隈さんが出ても、山縣さんが出ても、まア似たり格恰の者と私は思う。何となれば、この人々を助ける所の人が、皆な創業の人に非ずして皆な守成の人になってしまい、己の財産を拵えようと云う時代になって来て居りますから、親分の技両を伸ばすよりは己の財産を伸べようと云う考になって、親分が年を取れば子分も年を取る、どなたが出てもいかない。この先きどうするかと云えば、私にも分らない。只だ馬鹿でもいゝから眞面目になってやったら、この国を保つことができるか知らぬが、馬鹿のくせに生意気をこいて、この国を如何するか。私の質問はこれに止まるのでございます。

 誰の国でもない、兎に角今日の役人となり、今日の国会議員となつた者の責任は重い。既往のことは姑く措いて、これよりは何卒国家の爲に誠実眞面目になって、この国の倒れることを一日も晩からしめんことを、御願い申すのでございます。政府におきましては、これだけ亡びて居るものを、亡びないと思って居るのであるか。如何にも田中正造の言う如く亡びたと思うて居るのであるか。

 この質問に対して政府は以下のように答えただけであった。「政府の答辯書/(明治三十二年二月廿一日、衆議院提出)/質問の旨趣其要領を得ず、依て答辯せず。/右及答辯候也。/明治三十三年二月廿一日/内閣總理大臣 侯爵 山縣有朋」。

 1900(明治33).3月、治安警察法制定公布。


【「義和団の乱」】(「義和団事件考」)
 6月、北清事変起こる。義和団の乱鎮圧のため陸軍派遣。

 義和拳と白蓮教の流れをくむ義和団が「扶清滅洋」をスローガンに清国を侵略・分割した各帝国に半旗を翻し、1900年6月には日本とドイツの外交官を殺害した。大軍を送ることができたのはロシアと日本(イギリスはボーア戦争で、アメリカはフィリピンで紛争をかかえて忙しかった)のみで、結局義和団は鎮圧され、西太后と光諸帝は都落ちして逃げた。この戦争で日本は連合軍の2/3にあたる22000人の兵士を派遣し、初めてアジアに関する国際問題で欧米列強と共同歩調を取った。
 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.65-68)
●従軍記者光永星郎が”電報通信社”(現『電通』)を設立。

【立憲政友会結成される】
 9月、星亨をリーダーとする旧自由党系の政治勢力が伊藤に接近し、伊藤は、政党に軸足を置く必要性を感じていたところから合意し、立憲政友会を結成、伊藤が総裁となった。星亨が伊藤博文からの信頼を受けるようになり、その逞しい政治手腕から「おしとおる」とあだ名された。

【第10代、第四次伊藤内閣】(第10代:第四次伊藤博文内閣(任:1900.10-1901.5))、枢府議長・西園寺公望暫定内閣(任:1901.5-1901.6)
 自他ともに「第一の元老」を認める伊藤博文による政友会結党を受けた山縣は、北清事変の突発によって留任を余儀なくされていたが、ついに政権を投げ出して後継首班に伊藤を奏薦した。これは成立間もない政友会の前に政権という餌を放り出すことによって政友会内の内訌を発生させ、これを煽ってかつての隈板内閣の二の舞を演じさせようともくろんだのである。一方、伊藤は早期の組閣を望まなかったが、政権掌握こそが党勢拡張の最有効手段だと主張する原敬などの意見によって組閣に着手した。19日、組閣完了、親任式挙行。

 1900(明治33).10.19日、10代目となる第四次伊藤内閣が組閣された(1900.10.19~1901.6.2)。首相・伊藤、外務大臣・加藤高明(初入閣)、逓信大臣・星亭、陸軍大臣・桂太郎、海軍大臣・山本権兵衛。明治立憲制のもとで政党政治への道を開いた。この頃から山県有朋系の官僚派と対立。

 第四次伊藤内閣は短命内閣であった。まず第十五帝国議会において伊藤は、北清事変など国外脅威に対抗するための財源をひねり出すことに失敗し、結局増税に依存しようとしたことがつまずきの第一であった。衆議院は政友会が過半数を握っていたから問題はなかったとしても、強硬に反対したのは貴族院である。伊藤はこの反対を、詔勅を示すことによって切り抜けた。

 ほぼ同時に問題となったのは、逓信大臣星亨の東京市会汚職疑惑である。星は追及され、結局逓相辞任。代わって原敬が就任したが、内閣のマイナスイメージを拭うことは難しかった。

 災難は重なる。蔵相渡邊国武が公債依存事業の中止、又は遷延を主張して折れなかったため、閣議は紛糾した。かくて5月2日伊藤は単独で辞表捧呈、枢府議長西園寺公望が首相代理に任命された。天皇の諮問によって元老会議が開催され、山縣、松方、井上、西郷の四元老は荏苒評議を重ねた。    

 新渡戸稲造『武士道』
 内村鑑三「聖書之研究」創刊
 吉田東伍『大日本地名辞書』刊行開始。

1901(明治34)年の動き

 1.10日、石油時代の幕開け。アメリカ、テキサス州ボーモント郊外のスピンドルトップという小さな丘から原油の大量の噴出(ハミル兄弟の快挙)
 (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、p.58)


 1月、ロックフェラー医学研究所設立。


 1月、八幡製鉄所の操業開始。


 2月、奥村五百子が近衛篤麿の後援を得て”愛国婦人会”を結成。愛国婦人会は1937年には会員数338万6000人と公称されたが、1942年には大政翼賛会の下部組織の”大日本婦人会”に統合された。
 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.71-73)


【第11代、第一次桂内閣】
 元老会議もまた混乱した。長派の山縣有朋井上馨、薩派の松方正義西郷従道の四元老は結局井上を推挙したが、閣僚候補者を得ることができず井上内閣は流産に終わった。再び元老会議がひらかれる。元老たちはここで心機一転か、自分たち第一世代ではなく、第二世代の物色をはじめる。そこで該当したのが桂太郎である。

 桂はこれを辞退。これは真意恐懼したのかポーズだったのか。ともあれ、桂はむしろ伊藤に大命再降下されんことを乞い、みずから大磯に赴いて伊藤を説得したが、伊藤は却って参内して桂を再三奏薦した。以上の経過を経て、桂は大命を拝受した。

 6.2日、11代目となる第一次桂内閣が組閣された(1901.6.2~1906.1.7)。陸軍大臣・児玉源太郎、海軍大臣・山本権兵衛。

 こうして誕生した桂内閣は、しかし四年以上にわたる長期内閣となった。この間、彼は日露戦争を乗り切るのである。

 すでに日露を巡る環境は刻々と悪化しつつあった。当時外交において二つの論があった。一つは、日本は幕末以来の脅威であるロシアと結んでこの脅威を緩和し、もって東洋の経略にあたるべきであるという説。もうひとつは、むしろ英米と握手してロシアに対抗しようとする説である。首相を辞した伊藤は前者の説を強く支持し、ために世人から「恐露家」という渾名を頂戴するほどであったが、かれは米国エール大学の博士号授与の外遊にかこつけて欧州をめぐり、ロシアの首都ペテルブルグに行って日露協商の可能性を打診しようとしていた。

 一方で桂は、外相小村寿太郎と日英同盟の瀬踏みをはじめていた。イギリスは日露協商の成立を脅威と感じていたから、いわゆる「光栄ある孤立」というイギリス百年来の伝統外交を捨てるのにも躊躇はなかった。桂内閣はこのイギリスの対応に驚喜した。しかも伊藤訪ロを知ったイギリスは同盟促進の思わぬ働きをおこなった。1902年1月30日、日英同盟協約調印。これは攻守同盟であった。仮想敵は、もちろん極東、世界において最大の陸軍を擁するロシアである。

 この間に、国内では政友会内で内紛が起こっている。総裁伊藤の外遊中、伊藤の意志は桂に対して協調だったにもかかわらず、尾崎行雄などが吶喊したのである。しかし、政党は本来政権掌握のために動くものであって、その役目を積極的に果たそうとしない伊藤に対しては党内から激しい不満があがっていた。そもそも、伊藤の地位、「政局調整をはかる元老」にして「政権奪取をはかる政党総裁」という地位が矛盾したものであったのである。こうした突き上げにあって、伊藤は政友会総裁を西園寺公望に譲り、自らは枢密院に逃げ込まざるをえなかった。

 さて、対露関係は日英同盟の圧力によって調印された露清満洲還付条約によって好転したかにみられたが、ロシアは依然として満洲にいすわったままであった。日本政軍首脳の焦燥はつのった。もはや事ここに至っては開戦は避け得ないであろう。いうまでもなくロシアの本拠地はヨーロッパ・ロシア(ウラル以西)であって本来満洲と欧露は断絶しているが、近年この断絶を緊密に換えるべく、シベリア鉄道が建設されていた。近々これを複線にする工事にも着工するという。そうなれば大量の兵力が満洲に送り込まれ、もはや極東におけるロシアの優位は揺るぎがたいものになるであろう。軍部は「速やかに帝国軍備の充実整頓を図るべし」と意見書を提出、一方で御前会議は交渉継続を決定した、しかしその交渉も1904年2月決裂。対露開戦の詔勅が渙発せられた。

 戦局は朝鮮半島仁川港においてロシア艦艇ワリャーグ、コレーツの二隻を日本海軍が撃沈したところからはじまり、徐々に満洲に移っていった。国内の参謀本部からではすでに軍令に時差が生じるため、満洲軍総司令部が新設され、その総司令官には大山巌元帥が参謀総長から横滑りし、また児玉源太郎大将が閣内の席を辞して参謀長となった。(以下工事中)

【星亨惨殺される】
 6.21日、東京市議会議長職にあった星亨が汚職の風評を立てられ、伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)により市庁参事会室内で刺殺された(享年51歳)。外務大臣OBで大阪毎日新聞の社長を務めた原敬が、遺志を継ぐことになる。数々の汚職疑惑で今も昔も金権政治の権化と評されているが、私生活では慎ましく実直であったと云われる。自らの資産形成に対してもあまり意を用いなかったと見られ、暗殺後に明らかになった彼の遺産は1万円余りの借財だけだったとも云う。星の墓所は東京大田区の池上本門寺に所在。かっては本門寺境内に星の銅像も置かれていたが、第二次世界大戦中の金属供出のため、台座を残して撤去された。戦後、遺族により台座は本門寺に寄進され、現在は日蓮上人像が置かれている。

 9月、辛丑条約(北京議定書)。


【田中正造直訴事件】
 12.10日、国会議事堂の前にたたずんでいた田中正造がこの日開催された第15議会開会式に出席の帰路にある明治天皇の列に大声でわめきながら突撃し直訴した。その背景には足尾鉱毒事件があった。こうして、田中正造は、当時、最高刑は死刑という重罪の天皇直訴を行い、たちまち天皇警備の騎馬警官に取り押さえられ逮捕された。男の名は。その手には「謹奏」としたためた一通の書状が握られていた。決死の天皇直訴であった。

 「田中正造直訴状」は次の通り。
 謹奏 田中正造

 草莽の微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹て奏す。伏して惟るに臣田間の匹夫敢て規を踰え法を犯して鳳駕に近前するその罪実に万死に当れり。而も甘じて之を為す所以のものは洵に国家生民の為に図りて、一片の耿耿竟に忍ぶ能わざるもの有ればなり。伏して望むらくは陛下深仁深慈臣が[狂→至]愚を憐れみて少しく乙夜の覧を垂れ給わんことを。

 伏して惟るに東京の北四十里にして足尾銅山あり。[+近年鉱業上の器械洋式の発達するに従いてその流す毒益々多く、そま採鉱製銅の際に生ずるところの毒水と毒屑と[久しく→之を]澗谷を埋め渓流に注ぎ、渡良瀬河に奔下して沿岸その害を被らざるなし。而して鉱業の益々発達するに従いてその流す毒益々多ク加ふるに、この年山林を濫伐し、煙毒水源を赤土と為せるが故に河身激変して洪水頻に臻り、又水量の高まること数尺、毒流四方に氾濫し毒[屑→渣]の浸潤するのところ、茨城栃木群馬埼玉四県及びその下流の地数万町歩に及び達し、魚族絶滅、斃死し、田園荒廃し数十万の人民の産を失いるあり。営養を失いるあり。或いは業に離れ飢て泣き寒に叫び、食なく病して薬なきあり。老幼は溝壑に転じ壮者は去りて他国に流離せり。この如くにして二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野と為れり。

 臣夙に鉱毒の禍害の滔滔底止する所なきと民人の痛苦その極に達せるとを見て憂悶手足を措くに処なし。嚮に選れて衆議院議員と為るや第二期議会の時、初めて状を具して政府に質すところあり。爾後、-毎期に議会に於て大声疾呼、その拯救の策を求むる。ここニ十年、而も政府の当局は常に言を左右に托して之が適当の措置を施すことなし。而して地方牧民の職に在るものの亦恬として省みるなし。甚しきは即ち人民の窮苦に堪えずして群起してその保護を請願するや、有司は警吏を派して之を圧抑し誣て兇徒と称して獄に投ずるに至る。而してその極や既に国庫の歳入数十万円を減じ又将に幾億千万円に達せんとす。現に人民公民の権を失うもの算なくして町村の自治全く破壊、頽廃せられ飢餓、貧苦疾病及ひせ毒に中りて死する者亦年々多きを加う。

 伏して惟みるに、陛下不世出の資を以て列聖の余烈を紹ぎ、徳四海に溢れ威八紘に展ぶ。億兆昇平を謳歌せざるなし。而も輦轂の下を距る甚だ遠からずして数十万無告の窮民空しく雨露の恩を希うて昊天に号泣するを見る。嗚呼是れ聖代の汚点に非ずと謂わんや。而してその責や実に政府当局の怠慢曠職にして、上は陛下の聡明を壅蔽し奉り、下は国民生を以て念と為さざるに[因→在]らずんばあらず。嗚呼四県の地亦陛下の一家にあらずや。四県の民亦陛下の赤子にあらずや。政府当局が陛下の地と人とを把てこの如きの悲境に陥らしめて省みるなきもの是れ臣の黙止すること能わざるところなり。

 伏して惟るに政府当局をして能くその責を竭さしめ以て陛下の赤子をして日月の恩に光被せしむるのほか途なし。渡良瀬河の水源を清むるその一なり。河身を修築してその天然の旧に復するその二なり。激甚の毒土を除去するその三なり。沿岸無量の天産を復活するその四なり。多数町村の[破壊→頽廃]せるものを恢復するその五なり。加毒の鉱業を止め毒水毒屑の流出を根絶するその六なり。かくの如しにして数十万生霊を塗炭に→その死命を救い、居住相続の基いを回復し、その人口の減耗を防遏し、且つ我が日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各その権利を保持せしめ、更に将来国家富強の基礎たる無量の勢力及び富財の損失を予防→断絶]スルヲ得ベケンナリ。もし然らずして長く毒水の横流に任せば臣は恐るその禍の及ぶところ将に測るべからざるものあらんことを。

 臣年六十一而して老病日に迫る。念うに余命幾ばくもなし。唯万一の報効を期して敢て一身を以て利害を計らず。故に斧鉞の誅を冒して以て聞す情切に事急にして涕泣言うところを知らず。伏して望むらくは聖明矜察を垂れ給わんことを。。臣痛絶呼号の至りに任ふるなし。明治三十四年十二月 草莽の微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首

 
 上海に東亜同文書院。
 英国グラモフォン、雅楽・邦楽・落語を録音。

【ノーベル賞創設】

 1901年、スウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとする様々な爆薬の開発、生産によって巨万の富を築いたアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日、享年63歳)の遺言に従って世界的な賞としてのノーベル賞授与が始まった。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の5分野で顕著な功績を残した人物に贈られる。1968年、経済学賞が加えられて今日に至っている。

 遺言は次のように記している。

 「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」。

 この遺言のために残した金額は彼の総資産の94%に当る3100万スウェーデン・クローナである。選考は物理学賞、化学賞、経済学賞の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、生理学・医学賞はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、平和賞はノルウェー・ノーベル委員会が、文学賞はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、平和賞を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、平和賞はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)で晩餐会が行われる。平和賞の晩餐会はグランドホテルで行われる。受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行う。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、さらなる躍進を願っていっせいに「蛙跳び」をするのが慣例となっている。


1902(明治35)年の動き

 1月、八甲田山事件。


【日英同盟】
 1902(明治35).1.30日、ロンドンで日英同盟締結。日本が世界に冠たる帝国として認められたことを意味する。

 調印時点での仮想敵国はロシアであり、清韓両国を対象範囲とし期間5年の国際条約であった。この条約により、イギリスは清国に、日本は満州を含む清国と韓国に対して特殊権益をもつことを相互に承認し、両国のいずれかが戦う時は他方は中立を保って他国の参戦防止に努め、またもし第三国が参戦した場合には締約国は参戦して同盟国を援助するという内容であった。この条約は、日露が交戦した場合に、露仏同盟を結んでいるフランスの参戦を抑える効果をもち、またイギリスでの戦費調達のための外債募集が可能となったことを意味している。
 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.98)

 日露戦争末期の1905(明治38)年と1910(明治43)年の2回に亘って改訂され、朝鮮に対する日本の保護権の承認、ロシアに代わるドイツへの備え、イギリスのインドの領土保全条項が書き加えられ、期間も10年となった。

【社会民主党の結成】
 1902(明治35)年、社会民主党の結成→即日禁止。

【軍事費の増大傾向資料】
 この間の軍事費は次のように増大している。(単位万円)
西暦年 和暦年 歳出 陸軍 海軍 比率
1896 明治27年 7812 1040 1024 26%
1897 明治29年 16855  5323  2000  43
1899 明治31年 21975 5389 5832 51
1901 明治33年 29275 6483 5727 42
1902 明治35年 28175 4669 2841 27

 1902(明治35).3.27日第1次桂太郎内閣の時、兒玉源太郎と交代し陸軍大臣として初入閣。その後の第1次西園寺内閣、第2次桂内閣でも陸相に留任し、およそ9年半にわたって陸軍大臣を務めた。その間、日露戦争を指導する立場に立つ。

 この過程で、寺内は、政治結社や集会を禁止し、言論を抑圧するなど、人権や自由を厳しく制限する政策を推進している。このタカ派的な強硬な政治姿勢が評価され、1916.10月、総理大臣に任命される下地となる。
 寺内正毅は長州閥で、1852.2.24日(嘉永5年2月5日)生まれ、1919(大正8).11.3日没の61年の生涯を経ている。長州藩士宇多正輔の3男で、母方の寺内家を継いだ。16才の時、戊辰戦争が勃発。長州藩御楯隊に所属して第二次幕長戦争に参加。さらに整武隊に所属して函館戦争に参加する。明治維新後、陸軍兵学寮に入り日本陸軍軍人となる。陸軍における山県閥の一人として出世していく。

 大阪兵学寮で学ぶ。1871年少尉任官。21才の時、1873年に起きた西南戦争で、負傷。右手の自由を失う。このため、現場で軍を直接指揮することは出来なくなり、寺内の活躍の場は、戦場から軍の政策、戦略を練る軍政の場へと移っていく。

 西南戦争の後、寺内は兵学を学ぶためにフランスに留学。1882年仏国公使館付武官・フランスに留学して軍事を学ぶ。3年の留学を終えて帰国後、陸軍大臣の秘書官(陸軍大臣官房副長)を経て陸軍士官学校の校長に就任した。陸軍教育のトップとして後輩の指導にあたる。

 1894年の日清戦争の際には運輸通信長官として情報管理を中心に国内体制の強化にあたっている。4年後、陸軍の教育を統括する教育総監に就任。その後、参謀本部次長・参謀本部第一局長などを歴任し、参謀本部時代には鉄道・運輸等の動員体制の整備にたずさわる。

●現代サウジアラビアの成立(1902年)

 クウェートに亡命していたサウード家のアブドゥルアジーズによるリャード奪還。この第三次サウード王朝がアラビア半島の大半を平定し1932年9月にサウジアラビア王国と名前を変えた。
 (保阪修司氏著『サウジアラビア』岩波新書、p.10)


1903(明治36)年の動き

 1903(明治36)年、当時、陸軍大臣にして陸軍中将の寺内正毅が、ロシア陸軍大臣アレクセイ・クロパトキン大将来日時の接待主任。


 6.23日、御前会議を開いて、日露談判開始の勅許が下された。小村外相が交渉に当たったが進捗しなかった。

 7月、伊藤が三度枢密院議長となり、対露開戦決定に参画。政友会総裁を辞任。


 8月、対日露の主戦論者が対露同志会結成。政府に対し、即時開戦を迫った。


 10月、小村・ローゼン間で日露交渉開始。


 岡倉天心『東洋の理想』。

 12.17日、ライト兄弟が飛行機で世界初飛行。


【専門学校令公布とともに済生学舎医学校の突然閉校】

 明治36年までは医師になるには、大学の医学部を卒業するほかに、医術開業試験を直接受験するという制度があった。済生学舎はその受験のための医学校だった。しかしこの学校は専門学校令公布とともに明治36年突然閉校になった。(帝大閥の牛耳る医学界において済生学舎出は徹底的に差別されていた。野口英世はその顕著な一例)
 (浅田次郎氏著『壬生義士伝』、文藝春秋、pp.112-115) 


 「
」。
 1903(明治36)年の日本といえば、ちょうど日露戦争を目前にして殺伐としていたときですが、そのような時期に日本に滞在していたジョージ・モルガンという人物が、祇園の名妓「お雪(芸妓名・雪香)」を10万円という、当時としては破格の金額で落籍し、人々の話題を集めました。ジョージ・モルガンは、アメリカのモルガン財閥創始者の甥で、当時は恋人と別れた傷心旅行中だったとか。一方の雪香の本名は、加藤雪。幼い頃より胡弓の演奏に才能があったそうです。当時、お雪には婚約までし、学資を貢いでいた京都帝大の学生がいましたが、そのことが新聞紙上に取り上げられて破局。一方、4年間に3度来日して熱烈なアタックをするモルガンに対して、とうとう結婚する決心をしたそうです。こうして1904(明治37)年1月、2人は横浜で盛大な結婚式をあげました。その後お雪は夫とともに渡米し、パリに移住。長年パリ社交界の花形として活躍したそうですが、1925(大正14)年、突然夫のモルガンが心臓麻痺で急に亡くなってしまいました。お雪はモルガンの死後、その遺言によりアメリカに帰化しようとしますが、前年に成立した排日移民法のためにアメリカに帰化することが許されませんでした。お雪はその後、モルガンの遺族との裁判でかちとった遺産60万ドルの利子を携えて、フランスで悠々自適に生活。のちに、当地で出会った言語学者のフランス軍士官とマルセイユに移り、彼の学費などを援助しながら同棲生活を送ります。ところが、その彼も1916(大正5)年に心臓麻痺で死亡。以後、ニースの別荘で一人暮らしをします。1938(昭和13)年、姉の病気の看病のために帰国したお雪は、京都の紫野で晩年を過ごしました。第2次世界大戦中は、無国籍だったために、特高にスパイの嫌疑をかけられるなどして苦労もしたそうですが、1963(昭和38)年に亡くなるまで、モルガン・ユキと名乗っていたそうです。お雪の遺骨は現在、京都府京都市東山区にある同聚院と鹿苑寺(金閣寺)の裏にあるカトリックの墓地に分骨されています。その生涯は、まさに波乱万丈といっても良いかもしれません。
参考
上山光雲『モルガンお雪 : 祗園情史』(1916 玄誠堂書店)
小坂井澄『モルガンお雪』(1984 集英社)

 ●1903年ヘンリー・フォードがガソリン・エンジンを搭載したモデルAを導入。エネルギーの主役は徐々に石炭から石油に変わりつつあった。(スタンダード・オイル(ロック・フェラー所有)、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティシュ・ペトロリアムなどが有名)
               <世界の石油需要>
             ・1900年   50万バレル/年
             ・1915年  125万バレル/年
             ・1929年  400万バレル/年 


 これより以降は、「明治維新史(2―4)(日ロ戦争から伊藤が射殺されるまで)」の項に記す。






(私論.私見)