明治維新の史的過程考(2―2)(伊藤体制その一、第一回議員選挙から伊藤が射殺されるまで)
  更新日/2017.2.28日

 これより以前は、「明治維新史(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)」の項に記す。
1889(明治22)年の動き

【自由党の指導者たちが陸続と政界に戻る】
 憲法発布に伴う大赦によって、東京を追われていた、また獄中にあった領袖たちが復帰してきた。河野広中、大井憲太郎、星亨など自由党の指導者たちが陸続と政界に戻り、きたるべき第一回総選挙のための準備を整え始めた。

【超然内閣】
 黒田首相は、自由党など民党との妥協など毫も考えなかった。憲法発布の翌日、鹿鳴館で開かれた午餐会の席上、「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざるべからず」と述べ、昂然たる超然主義の宣言をしていた。これにより超然内閣と云われることになる。

 黒田首相は、政敵に対する買収、抱き込みを図った。大同団結運動の主唱者であった後藤象二郎に逓信大臣の椅子を与えて運動自体を揺るがせる一方、もう一方の民党即ち改進党の大隈重信を外務大臣に迎えて条約改正作業にあたらせた。案の定、民党特に自由党は四分五裂し、再び内訌に陥った。

【大隈外交の成果】
 6月、大隈外相は、明治政府始まって以来の平等条約をメキシコとの間に締結することに成功した。大隈外交の成果であった。大隈外相はこの余勢を駆ってアメリカ、イギリスなど欧米列強との条約改正、新条約締結作業にのりだした。しかし、その内容に「外国人裁判官の任用」の条項が入っていたことが、朝野の憤激の的となった。当初、民党の中から巻き起こった反対論は、国民や更に天皇と宮中に飛び火することになった。閣内でも山縣、後藤がこれに反対した。やむなく発効を目前にして新条約は破棄せざるを得ないことになった。

 10.18日、大隈外相は、帰途を狙っての青年による要撃により片足を失った。

【黒田内閣瓦解】
 黒田首相は、政局混乱の責任をとって全閣僚の辞表を三條内大臣に奉呈するが、天皇は黒田の辞表をのみ採納してあとはすべて却下し、三條をして臨時の総理大臣たらしめた(いわゆる三條暫定内閣)。

 12.24日、内務大臣山縣有朋に大命降下した。三條内閣は中継ぎの役目を終わり、退陣した。

【第3代、山縣内閣】第3代:第一次山縣有朋内閣(任:1889.12-1891.5)
 12.24日、三代目となる山縣内閣が組閣された(1889.12.24〜1891.5.5)。山縣は、「一介の武弁」と自己を評価しつつも、その実は牢固な権力主義者、官僚主義者であった。内閣の主要ポストは、相変わらず薩摩・長州の出身者によって固められていた。伊藤博文が貴族院議長、松方正正義が大蔵大臣。陸軍大臣・大山 巌、海軍大臣・西郷従道。

 憲法発布の大赦で、西郷に正三位を追贈される。
【吉野神宮創建】
 明治22年(1889)、明治天皇が奈良県吉野町に後醍醐天皇を祀る「吉野神宮」(よしのじんぐう)を創建。社殿は昭和7年(1932)の改築で本殿や拝殿など全て檜造り、境内には建武中興の巧臣7人を祀る摂社3社があり、吉水神社から移された天皇像は後村上天皇が彫ったものと伝えられている。皇のお宮☆へ 夏越の大祓参詣 〜
 鎮座するです。

1890(明治23)年の動き

【第一回陸海軍合同大演習】
 3月、第1回陸海軍合同大演習が、知多半島一帯で行われた。侵入する敵軍を陸海両面で迎え撃つという設定の下、明治天皇が半田に大本営を構えた。

【第一回総選挙】
 7月、大日本帝国憲法の公布の際、1年後に総選挙を実施し、議会を開設することが宣明された。選挙権は、衆議院では直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限定されていた。このため、地価600円以上の土地を持っている地主(田畑約2町3反7畝以上)か年収1000円以上を取る高級官吏或いは富裕層が対象となった。(立候補の資格も、国に納める税金が15円以上の30歳以上の男子)。当時の日本の全人口は凡そ4000万人、そのうち有権者は45万人(45万3474人)、人口の僅か1.132%に過ぎなかった。

 第一回総選挙の投票率は92%。選挙資格のない者まで関心が高く、各地の演説会に聴衆が詰め掛けたと云われている。

 総選挙の結果は、自由民権運動を支えてきた板垣自由党と大隈改進党の圧勝。衆議院300議席のうち、士族は109名、平民191名。党派別の内訳は、民党の立憲自由党が135議席、立憲改進党が43議席、合わせて178議席と3分の2近くを反政府勢力が占めることになった。陸軍の山県有朋をボスとする藩閥政府系の大成会が79、中立系の国民自由党が5、その他無所属45。

 改進党では、尾崎行雄(32歳・三重選出)、犬養毅(35歳・岡山選出)、田中正造(49歳・栃木選出)、自由党では、中江兆民(42歳・大坂選出)、植木枝盛(33歳・高知選出)。高知県では、1区が吉田茂の実父・竹内綱、2区が林有造と片岡健吉、3区が植木枝盛と4議席全てを自由党が独占するという圧倒的強さを見せていた。

【第一回帝国議会】
 11月、山縣首相が、天皇の名のもとに第1回帝国議会を召集した。議会の開会と共に明治憲法が実施に移され、以降日本は憲政期に入る。帝国議会衆議院に集まった代議士は300名。開院式の日の日比谷の議事堂周辺では数万の群集が沿道に溢れ、「祝国会」と書いた熱気球も打ち上げられ、議会を祝う国民の熱気が取り囲んだ。このニュースは世界に打電され、例えば「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」では、「大君(将軍)の国がミカド(天皇)の国に代わって開かれた議会」と報じられている。明治維新以来20年余り、近代化を急ピッチで進めてきた日本は、遂に欧米の議会制度を取り入れ、アジアで最初の議会開催に漕ぎ着けることに成功した。

 第一帝国議会に議席を占めたのは、自由党系130名、改進党系41名、政府系が41名、中立5名、無所属45名である。政府の劣勢はあきらかであったが、山縣は政府権力でこの劣勢を押し戻そうとする。

 国会開設時の自由民権のリーダーは板垣退助と大隈重信であった。板垣は衆議院ではなく、貴族院として参加していた。衆議院に議席を持たない、いや、持てない板垣、さらには、同じく独自の「改進党」を作って野党として運動していた「大隈重信」も伯爵位を貰い、議会に参加した。この、二人の「政党」政治家が、彼等自身、国民による審判を受けないで議会に参加していた。

【山縣首相の富国強兵策予算案を廻って紛糾】
 山縣首相の初の施政方針演説か為され、この時概要「日本の国土と独立を守るためには、日本だけではなく、アジア周辺地域での軍事的影響力の行使も必要であるとして、陸海軍に巨大な予算を割かなければならない」と強調し、政府は8800万円の膨張予算案を出してきた。この富国強兵策に、議会が真っ向から反対し対立することになる。植木枝盛らは、議会独自の予算案を作り、政府案に800万円の削減と、重税に苦しむ農民の20%減税案を打ち出した。更に、中江兆民が、政府と議会は対等であるべきだと主張し、憲法67条の法文上の不備を突いて徹底的に抗戦しようとした。

 こうして予算案が争点となり、議会はのっけから荒れた。山縣有朋第一次内閣と議会の民党側は激しく対決した。政府は幕末以来の脅威であったロシアの南下を防ぐべく海軍増強を推進する意志を示す一方、民党側は「民力の休養」を標榜した。両者は拮抗し、議会はほとんど膠着した。政府としては解散という奥の手もあったが、東洋初の議会を解散という結果で終わらせることは外面的によろしからずという判断もあって奥の手は威嚇として以外結局使われないまま、議事は一時中断となった。結局、 山縣首相が予算削減と行政改革を約束して折り合い収拾した。

 しかしその裏で、政府と民党の間で妥協工作がすすんでいた。山縣は土佐派の閣員を使って、立憲自由党の土佐派に交渉を仕掛けた。また、海援隊に所属していた前歴を持つ陸奥宗光も、大いに力を発揮した。自由党では竹内綱(後の外交官首相・吉田茂の実父)などがこれに対応、第一回予算案は大幅に修正した恰好で衆議院を通過した。ちなみに戦後の自由党総裁吉田茂は板垣の側近・竹内綱の実子で、板垣と同じ高知県の出身であり、板垣らの自由党の血脈は、吉田茂を経て現在の自民党にも続いている。
(私論.私見) 第1回帝国議会に於ける抗争考
 この時の明治の藩閥VS民党の対立は、大正・昭和の官僚派VS党人派の対立へと引き継がれていく。この時の自由党と改進党の対立は急進派対穏健派の対立として宿アの如くこれまた引き継がれていく。つまりは、この時刻印された原型が日本政治史の血脈となっていく。

【「教育ニ関スル勅語」発布】
 1890(明治23).10.30日、山縣有朋内閣は、「教育ニ関スル勅語」(通称「教育勅語」、英: Imperial Rescript on Education)を天皇の勅語形式で発布した。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。発布の後には、日本のすべての学校に下賜(配布)され、その後の教育制度の根幹をなすことになった。

 明治15年の軍人勅諭、明治22年の大日本国憲法、明治23年の教育勅語の三典が明治政府のイデオロギーとなり、大きなえいきょうを耐えていくことになる。

 原案は、伊藤博文の下で大日本帝国憲法・皇室典範の起草にあたった内閣法制局長官の井上毅(こわし)と枢密顧問官にして侍講(じこう、天皇・東宮に書を講じた官職)の元田永孚(ながざね)によって起草された。天皇親政論者として知られていた元田永孚は、明治維新後の西欧化の流れに危機感を抱き、日本古来よりの伝統的精神の確立の必要を覚えた。明治天皇に進言したところ、井上毅と元田が任に就くことになった。

 「教育勅語」の原文が作成されたが、井上毅は教育勅語が思想や宗教の自由を侵さないようにすることを重視し、対して元田永孚は国家神道的な教典とすることを重視し、調整したとされている。最終的に、父母への孝行や夫婦の和合、遵法精神、忠孝、節義、誠実、義勇心など12の徳目を臣民の情操教育とし、天皇が徳治政治を旨とすることを詠い、臣民がこれに倣う形式でまとめられることになった。

 文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本臣民(国民)の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ第二教育勅語を起草した。但し、西園寺の大臣退任により実現しなかったとされている。

 発布翌年の1891(明治24)年、内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)をきっかけに、大切に取り扱う旨の訓令が発せられた。同年、小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900(明治33)年に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、学校などで式典がある場合には奉読(朗読)されることとなった。1907(明治40)年には、行政が英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳された。

 昭和時代に入ると国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語額が、天皇皇后の真影(写真)とともに各学校の奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。生徒には、教育勅語の文章を暗誦することが強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938(昭和13)年に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、教育勅語は「軍人勅諭」、靖国思想とともに天皇制国家イデオロギーの支柱として利用された。

 大東亜戦争後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP)が教育勅語を問題視しした為、1946(昭和21)年、文部省は奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないこととした。1947(昭和22).3.31日の教育基本法の制定によって教育勅語の内容が否定された。

 その後1948(昭和23).6.19日に、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」により、「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、基本的人権を損ない、国際信義に対して疑点を残すものとなる」として、「軍人勅諭」、「戊申詔書」、「青年学徒に賜わりたる勅語」とともに排除・失効が確認された。

 教育勅語の原文は次の通り。(中段はれんだい式現代文、下段はれんだいこ現代文訳)
 教育勅語

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此 レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開 キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々 服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日   御名御璽
 朕惟(おも)うに、我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹(た)つること深厚なり。我が臣民、克(よ)く忠に、克く孝に、億兆心を一(いつ)にして、世世厥(よよそ)の美を済(な)せるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源(えんげん)又実にここに存す。爾(なんじ)臣民、父母に孝に、兄弟(けいてい)に友(ゆう)に、夫婦相和シ、朋友相信じ、恭倹(きょうけん)己れを持(じ)し、博愛衆に及ぼし、學を修め、業を習い、以って智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務(せいむ)を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵(したが)い、 一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、以って天壤無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし。かくの如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以って爾(なんじ)祖先の遺風を顕彰するに足らん。 この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶(とも)に遵守すべきところ、これを古今に通じて謬(あやま)らず。これを中外に施して悖(もと)らず。朕、爾臣民と倶に、拳々服膺(けんけんふくよう)して、咸(みな)そのコを一にせんことを庶幾(こいねが)う。

 明治二十三年十月三十日   御名御璽(ぎょめいぎょじ)
 朕思うに、我が皇祖皇宗がその昔に国を始めるに当って、徳治を広く及ぼしていく政治姿勢を打ち樹てたことには実に味わい深い意味が有る。これによって、我が臣民は心を一つにして忠と孝の道を代々能く受け継いできた。このことは、日本歴史の精華であり誉れである。教育の眼目根本はここにこそ在ると云うべきである。臣民は引き続き、父母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦相和し、朋友には信を立て自身は慎み深く、博愛の心で世間に役立ち、学問を学び、業を習い、これらの精神に支えられて知能を啓発し、徳と才覚を磨き上げ、世間に役立つような人となり、各自仕事を通じて社会に貢献し、常に憲法を重んじ、その他法律を遵守せよ。もし、国家に緊急事態とならば、義勇を奮い立たせて公に奉じよ。このようにして世界に冠たる皇国の存亡と繁栄に役立つべきである。この伝統を臣民に教え、合わせて祖先の遺風を称えよう。この伝統こそが我が皇祖皇宗の遺訓であり、子孫臣民は相共に遵守すべきこととして尊び、事実道から外れることがなかった。この伝統は、国内だけでなく外国においても通用する立派なご政道である。朕は、臣民と共に心に銘記して政道を行う事を約束しよう。皆もこの伝統的な美徳に心を一つに合わせて奉らんことをこい願う。

 明治二十三年十月三十日 御名御璽(ぎょめいぎょじ)
 教育勅語の十二徳。
 一、孝行。二、友愛。三、夫婦の和。四、朋友の信。五、謙遜。六、博愛。七、修学習業。八、知能啓発。九、徳器成就。十、公益世務。十一、遵法。十二、義勇。
(私論.私見) 「教育勅語考」
Re:れんだいこのカンテラ時評246 れんだいこ 2006/12/26
 (私論.私見) 「教育勅語考」

 さて、教育勅語をどう受け止めるべきだろうか。サヨ風の条件反射的毛嫌いの精神から離れて、これを左派風に検証してみたい。教育勅語が、記紀の日本神話に基づく祭政一致的天皇制精神を称揚し、一億一心精神を涵養しようとしていることは明らかである。幕末期の水戸学の精神を継承しているように思える。これを一概に否定すべきだろうか。

 れんだいこは、教育勅語イデオロギーの背後には徳治政治の前提があり、仮にお上が徳治政治の遺風から外れたときには、臣民にはどういう権限が与えられるのかの下りを欠如させたところに欠陥が認められるべきで、このことを除けばそれなりに名文ではないかと思う。

 国際化の流れが押し寄せる明治の時点で、日本史の伝統的徳治政治を称揚することにどれだけ意義があったのかの判断は難しいが、21世紀の今日の時点で「非武装国際協調」を説く戦後憲法の精神を称揚することにどれだけ意義があるのかを問うことと通じている気がする。

 述べたように、教育勅語は人民大衆を臣民と規定し、臣民には無条件的恭順のみが説法されている訳であるが、その欠陥を除けば、「母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦相和し云々」はこれを暗誦したとして有益無害ではなかろうか。戦後教育基本法はこの面を削除したが、それが正しいというものではなく功罪両面と云うべきではなかろうか。

 今、教育基本法が改定され、戦前の教育勅語的観点が移入された。れんだいこは新教育基本法を検証していないので論評を差し控えるが、次のことだけは云える。教育勅語は露骨に国体を称揚し、偏狭ながらも民族的独立精神を涵養した。今、教育基本法改正に従事している小泉ー安倍政権は名うての売国奴である。その連中が教育基本法を改正して何らかの有益なことをしでかすだろうか。れんだいこはここに不信がある。

 思うに、来るべき軍事事態に於ける国家的要請での臣民教育、戦争動員教育、愚民教育、恭順教育に向けての改正であり、教育勅語をより悪しくしたものにして、戦後教育基本法をより悪しくしたものにしかならないのではなかろうか。そういうことを確認するためにも、戦前の教育勅語そのものに精通しておくべき必要を感じ、ここに解析した。日本神話同様に知らないよりは知ってよかった気がする。

 2006.12.26日 れんだいこ

【山縣内閣総辞職】
 この内閣の存続しているあいだ、伊藤博文は閣外から山縣に対して議会対策法としてきわめて強い内面指導をしたが、結局山縣はこれを用いることないまま、総辞職した。但し、山縣はその後も影響力を行使し続けることになる。

 集会及政社法制定(集会条例を発展強化)。

【橿原神宮創建】
 奈良県橿原市、橿原神宮。明治23年創建。
 明治22年、神武天皇を慕い、地元民間有志より橿原宮址に神社創建の請願が起こり、明治天皇はこれを大変お慶びになられ、京都御所の内侍所を本殿、神嘉殿を拝殿として下賜された。敷地(宮域)は甲子園球場の約13個分の大きさ(約53万平方u)。宮域は信仰の森として守られている。昭和15年に宮域拡張整備が行われた際に、約7万6千本の樹木が植樹された。

1891(明治24)年の動き

【自由党の分裂】
 自由党は、議会対策で三路線に分かれた。@・硬派(中江兆民ら)、A・実務取引派(板垣退助、植木枝盛ら土佐派の路線)、B・帝国ホテル派(中間軟派)。議会始まって間もないこの時期、自由党内は「四分五裂」の分裂の危機に陥った。

 1.19日、自由党の生みの親板垣退助が、突然、党を離れると党機関紙の「自由新聞」に発表。

 同2.20日、自由党土佐派が政府側に寝返り、その結果、政府案賛成135名、反対108名となり、妥協的な予算案が成立した。それは当初の政府予算案より650万円を削減し、17%の減税策という折衷となっていた。

 中江兆民等の自由党硬派が敗北した。翌2.21日、中江は議員を辞職した。以降二度と政治の舞台に戻ろうとはしなかった。
 中江兆民
 1847・弘化4−1901・明治34。土佐藩出身。フランス留学後、東京外語学校長に就任するが、著書「三酔人経綸問答」により明治政府の保安追放処分を受けた。その後、東雲新聞や東京自由新聞で藩閥政府への抗議活動を展開。第一回総選挙に立憲民主党から出馬し当選。民党内の脆弱(ぜいじゃく)堕落を憤り議員を辞任。後に新聞の発刊、国民党の結成などを通じて、自由民権運動の啓蒙に努め、東洋のルソーと称された。
 植木枝盛
 1857・安政4−1892・明治25。土佐藩出身。福沢諭吉らの啓蒙思想の影響を受けて板垣退助の立志社に入り、自由民権思想・理論の指導者の一人として活躍した。第一回総選挙に当選。明治政府の専制に人民主義の立場から反対活動を行い、「民権自由論」など多くの著書も著している。1892(明治25).1.23日、植木枝盛は35歳の若さで逝去。

【鉱毒問題についての田中正造の内閣に対する質問書、質問演説】
 田中正造は、1891(明治24)年以来5回目の1897(明治30)年2月の鉱毒問題についての与党内閣に対する質問である。この質問に次いで、3月に2回答弁を促す演説の後、政府の答弁書が出されるが、これに納得せず、同月再度質問に立つ。この後、政府は足尾銅山鉱毒調査会の新設を発表するに至る(林幸雄)。田中正造「公益に有害の鑛業を停止せざる儀に付質問書」を転載しておく。補足、別章【田中正造の足尾鉱毒事件告発闘争考】の「田中正造の足尾高山鉱毒問題についての質疑) 

【第4代、松方内閣】第4代:第一次松方正義内閣(任:1891.5-1892.8)
 5.6日、四代目となる第一次松方内閣が組閣された(1891.5.6〜1892.8.8)。第一次山縣有朋内閣の倒壊後、組閣の大命が降下したのは薩派の領袖で財政家の松方正義であった。本来松方は首相の座に着くことを欲さなかったが、伊藤博文と山縣有朋の強い勧めにあって拒否が出来なかった。したがってこの内閣には「黒幕」として伊藤、山縣の姿がかいま見えることになる。

 注目される人事として、薩派の松方正義、西郷従道。農商務大臣に陸奥宗光、逓信大臣・後藤象二郎。陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・樺山資紀。

 松方の内閣改造は、薩長色を緩和するために伊藤がひねり出した方策である。文相に佐賀の大木喬任を、法相に尾張の田中不二麿を、そして外相に元幕臣の榎本武揚を据えて中立色を濃くしようとしたが、これは却って閣内の藩閥勢力(すなわち、海相・樺山、陸相・高島、内相・品川)の反感を買うことになる。政府はここに二分され、伊藤もこれに呆れて第二議会のはじまるまえ、故郷山口に帰国してしまっている。

 11.26日、衆議院がガ開会される。松方政府は、富国強兵政策に基づく予算案を提出した。ご意見番の伊藤が去ったあとの政府は、議会に対して激しい買収工作をもってする。政府党(吏党)は賛成したが、民党(自由党、改進党)が優勢を占めており、「民力休養」を旗印に歳出予算額の1割強(約892万円)の歳出削減を可決した。

 衆議院予算委員会において海軍費が削減されたのに憤った樺山海相は、「諸君は薩長政府などと罵るも、我が国今日の隆運を来したるは薩長政府のお陰にあらざるか」と怒号した(「蛮勇演説」)。議会の沸騰は頂点に達し、松方政府は天皇に上奏して裁可を得、12.25日、内閣は議会解散に踏み切った。

 政府はこの来るべき総選挙に対し、大干渉をおこなった。明治天皇の「沙汰」を引き出しつつ品川弥二郎内相ー小松原英太郎警保局長を責任者として、府県知事を総動員して民党候補者の落選運動を展開した。但し、選挙結果は、民党が健闘し、松方政府の目論みは潰えた。伊藤はこの結果に絶望し、枢密院議長を辞職し、品川内相も辞職した。

 伊藤はこの状況を打開するためには自ら政党組織を行うしかないと確信した。しかし、これは天皇に慰留され、一頓挫に帰することになる。閣内の陸奥農商務相などが黙っては居らず、議会は政府を追及し、5.11日、貴族院は政府弾劾建議案を88対68で可決し、5.15日、衆議院は緊急動議で政府弾劾案を提出し、154対111の大差で可決した。

 ついに松方内閣は品川内相を辞職させ副島種臣が後継する。それでも折り合いはつかず、結局総辞職を強いられることになる。肝心の25年度予算案は、衆議院と貴族院が対立したものの明治天皇の勅裁によって成立した。

【帝政ロシア極東覇権へ始動開始、大津事件】
 1891年、帝政ロシア、シベリア鉄道計画の着工を開始した。ロシア皇太子・ニコライ2世は、シベリア鉄道の起工式の途中に極東視察を兼ねて来日、大津で警備に当っていた津田三蔵巡査に斬り付けられるという傷害事件が発生している。

 松方首相、山田顕義(あきよし)司法大臣ら政府首脳は、国家責任として犯人を死刑にすべしとして裁判所に圧力をかけた。ところが、刑法上負傷程度では死刑にできなかったことと、外国の皇族に対する危害責任の規定が欠けていた為苦慮することとなった。児島惟謙大審院長(現在の最高裁長官)は、法律の拡大解釈を拒み、政府の要求を受け付けなかった。

【足尾鉱毒事件の始まり】
 1924年、関東北部地方で1921年に続いてこの年も大洪水が見舞われ、渡瀬川、利根川一帯が足尾鉱山から輩出する鉱毒によって田畑に被害が発生した。1877年、古河鉱業が足尾銅山で本格操業を始めて以来、渡瀬川沿岸では農作物の立ち枯れなどが相次いでいた。地域の被害民一同が、連署を添えて政府に嘆願書を提出した。曰く、「速やかに鉱毒除害の道を講ぜよ。しからずんば寧ろ直ちに鉱業を停止せしめよ」と要望していた。

 田中正造は、「足尾銅山鉱毒加害の儀に付き質問書」を国会に提出し、政府の答弁を求めた。これにより事件が公になった。国会は時をおかず解散した為、政府答弁が出されたのは後になるが、概要「被害の原因確実ならず。試験調査中なり。一層鉱物の流出防止の準備をなせり」との典型的な官僚答弁が為された。(「谷中村滅亡史」参照)

【内村鑑三不敬事件】
 「内村鑑三不敬事件」。
 「民族のルーツをさがす旅」の「部族完成節理期間」が次のように記している。
 「1891年、教育勅語が施行されると、天皇の御真影に礼拝することが強制されるようになった。当時、
第一高等学校の講師をしていた内村鑑三は、天皇を神とするこの偶像崇拝に対し、簡単に頭を下げただ
けで降壇した。これが生徒と教師に避難され、各新聞は『キリスト教は国体に相容れない』と書き立てた。
世間は、内村を、『不敬漢』、『国賊』とののしり、内村の家には瓦石が投げ込まれた。さらに内村はインフ
ルエンザに倒れ、免職され、同じ病に妻を失った。妻を失い、職を失った内村はその後数年間極貧の生活
を強いられ死線をさまよった。内村の不敬事件に触発され、各地でキリスト教信徒は天皇への偶像崇拝を
拒絶し、それが神道信者に非難されると云う不敬事件が相次いだのである」。 
 「各新聞が、『キリスト教は国体に相容れず』、『内村は非国民である』とセンセーショナルに書き立てた。仏
教徒の論壇でも、『キリスト教は国体に相容れず』と攻撃し、また東京帝国大学教授の井上哲次郎が激しく内
村を攻撃したことで有名である。これを受けて、植村正久(キリスト教側・『福音新報』)も論壇を張って応戦し
た。しかし内村を非難し批判する世俗権力の方が圧倒的に多かった。『福音新報』は発売禁止となった」。
 「元々国体と妥協する性質を持つ日本組合基督協会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝は許されると
主張したが、日本基督教会の指導者、植村通久はこれを認めなかった。宣教師グリーンに始まる組合教会
は、当時の聖書高等批判を受け入れ、金森通倫は聖書の啓示性を否定し、『モーゼ五書はユダヤ人の伝説
や神話の寄せ集めである』と主張した。この派は、1920年から『天皇崇拝』を大々的に認めたのであった。
明治時代においては、唯物論と科学主義の傾向が強い組合教会(カイン)と福音主義に立つ一致教会(アベ
ル)が対立しながら発展したのであった。しかし40年期間が終わると、次の時代を乗り切るには、教会の連
携が必要であった。故に1912年、突然教会合同の話が持ち上がったのだが、この時代には成就しなかっ
た。後の賀川豊彦の神の国運動には多様な意味があったが、全国のキリスト教会に相互協力関係を打ち立
てるのが、その主たる摂理目的であった」。
 「内村鑑三の府警事件も又同様に『偶像崇拝の心性を脱ぐ為の蕩減条件』であった。他のプロテスタント
達が彼に見習うようにして同様の府警事件を起し、各地で迫害を受けながらも、後の21年間をキリスト教
徒は伝道に励み、明治天皇が死去する1912年の直前に『天皇改宗のチャンス』が訪れたのであった。カソ
リックが天皇家に入りかけ、内村は『天皇が改宗するならカソリックでも良い』と漏らし、祈りによる協助をした
のである。しかしこの時、『天文法乱』同様に『大逆事件』、『フレズノ府警事件』などが起り、キリスト教は天皇
に対して不穏な態度をとるものと白眼視され、この『天皇改宗摂理』も又成就しなかったのである。直後、明治
天皇は死去する」。

1892(明治25)年の動き

【第5代、第二次伊藤内閣】第5代:第二次伊藤博文内閣(任:1892.8-1896.8))、枢府議長・黒田清隆暫定内閣(任:1896.8-1896.9)
 1892(明治25).2.15日、第2回衆議院選挙。保安条例で東京を追われ、出版条例違反で投獄されていた星亨は釈放され後直ちに自らの衆議院議長就任を公約として栃木選挙区から出馬、当選。伊藤内閣の外相・陸奥宗光の工作により公約どおり2代目議長に選ばれる。

 1892(明治25).8.8日、5代目となる第2次伊藤内閣が組閣された(1891.8.8〜1896.8.31)。伊藤―井上馨―山縣有朋。外務大臣に陸奥宗光、農商務大臣・後藤象二郎、逓信大臣・黒田清隆。陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・仁礼景範。

 伊藤博文は、山縣、松方の二内閣における側面指導に失敗し、自ら模範的な「議会制御術」を披瀝する必要に迫られた。伊藤は既に超然主義を標榜する元老の一員であり、元老からの支持をも取り付ける必要があった。そこで、山縣の入閣を懇請し、渋々了承させた。こうして、第二次伊藤内閣は、元老と議会の両方を操るという曲芸政治を敷いていくことになった。

 しかし、議会操縦は困難をきわめた。第4議会において、伊藤は、民党の支持を取り付けるべく努力したが、。山縣内閣以来辛酸を舐めている議会は政府の言うことなど聞く耳持たぬ、とばかりに改進党を中心として内閣不信任を提出するに至った。山縣を筆頭とする超然主義者たちはこれを喝采し、議会との抗争を深めようとした。伊藤はこの板挟みを回避するために詔勅に頼らざるを得なかったが(詔勅政策)、いかに天皇の信任を得ている伊藤といえども、たびたびその威力を行使することは出来ない。

 かくして、続く第5議会(1893.11.28ー12.30)、第六議会(1894.5.15ー6.2)は解散に次ぐ解散で対応した。伊藤は、子飼いの伊東巳代治内閣書記官長を使って自由党との融和に努め、自由党約120議席に無所属30議席を併せて議会過半数を制しようとした。第二党で、反政府の急先鋒である改進党より自由党に接近のチャンスがあると踏んだ。政府と自由党接近の素地が着々と築き上げられていった。行政整理、条約改正、増税、海軍拡張を行う。

外相・陸奥宗光
 陸奥宗光(1844〜1897)は和歌山藩士伊達藤二郎宗広の6男。坂本竜馬の日本変革に魅せられ亀山社中、海援隊に参加する。龍馬にその才能、特に商才を高く評価され、「二本差しでなくても食って行けるのは俺と陸奥のみ」と評されている。龍馬暗殺のしらせを受けたとき、暗殺を指示したとみられる人たちの宿に斬り込んでいるとのエピソードを持つ。

 26歳のときに兵庫県知事となるも、戊辰戦争に幻滅、退職し、出身地である和歌山藩に戻り、軍政改革に努めた。もし、廃藩置県がなかったら、陸奥の作った和歌山藩兵が、日本一の近代化された軍隊になっていただろうといわれている。

 陸奥は、薩長派閥の専制政治に批判的でした。彼は土佐閥に友達が多かったため、西南戦争の際、板垣退助ら立志社のメンバーの挙兵計画に参加したとして投獄5年の刑を受けている。

 1883(明治16)年赦免により出獄し、約二年間ヨーロッパを回り、一心不乱に憲法を学ぶ。帰国後は外務省に入る。その後駐米公使、山県内閣農商務大臣、衆議院議員、伊藤内閣外務大臣などを歴任し、日清戦争前後の困難な外交にあたる。他方、条約改正に取り組み、井上薫や大隈重信が挫折していった過程を分析し的確に国際情勢を読み取る。19世紀後半から始まった大英帝国と帝政ロシアのグレート・レースは、極東において新たな展開を見せ始めたことから、大英帝国は自国の東洋の権益を守るために、日本の戦略的価値を利用するに違いないと見抜く。その手腕によって、イギリスとの不平等条約改訂・治外法権撤廃を成功させ、独立国日本としての立場を獲得し、その協調をもとに日清戦争を外交面から支援する。これが、いわゆる陸奥外交であり、彼は明治時代の代表的な外交官と言われている。

 もう一つの国内世論の分裂に悩まされた。陸奥は、国民からの選挙の洗礼を受けて当選した、ただ一人の議員閣僚だった。陸奥は政治における論争に、外交問題は持ち込まないという大英帝国議会の良識を、日本の国会には期待できないということを知っていた。政府案については、なんでも反対という野党の立場が、結果的には国益を損なうという例を、条約改正のこれまでの過程で彼は見てきていた。「より良い」という積み重ねではなく、非現実的な完全主義でもって外交当事者の活動を妨げるだけでなく、可能性の芽さえ摘んでしまう野党や、それをけしかけるジャーナリズムに対して陸奥は嫌悪感(というよりも侮蔑感)を持っていた。陸奥にしても、薩長派閥の政権のタライ回しと、その政策の偏りから、野党やジャーナリズムが反政府的に、異常に働くということも分からないではなかった。陸奥自身も閣内にあって、薩長閥の影響を受けていたので、そこでも苦悩していた。

 11.29日、当時衆議院議長であった星亨が相馬事件の収賄疑惑や条約改正反対の大日本協会、改進党からの攻撃により議長不信任案が付され、166対119で可決された。だが、星はこれを「条約改正を支持する自分に対する硬六派(国民協会・立憲改進党ら)による嫌がらせでやましい所はない」として、これを拒否した。大日本帝国憲法下の議院法では衆議院議長は勅任官の扱いを受けて天皇に任免権があった。そこで明治天皇に対して星の解任を求める上奏案を152対126で可決した。だが、天皇からは「議院自ら不明なりしとの過失」として衆議院の怠慢を責める勅答が下された。これは、星への不信任を当時外務大臣であった陸奥宗光への間接的攻撃とみた伊藤博文が土方久元宮内大臣に要請して出させたものとされている。そのため、星は尚も議長席に着席して議長の職務を続けようとした。このため、12.5日、星の登院停止1週間処分の決議が出された。だが、登院停止が切れた12.12日、星はまたも議長席に座ろうとした。そこで12.13日、懲罰にかけられて185対92で除名要件である三分の二を超える67%の賛成を得たため、除名処分となり、衆議院議員の資格を失った星は自動的に議長を解任された。



1893(明治26)年の動き

 2代目衆議院議長に就任していた議長不信任案が可決される。しかし、議長を不信任となったにも関わらず議長席への着席に固執したため、衆議院から除名された。次回選挙で当選し、政界に復帰する。

1894(明治27)年の動き

【東学党の乱】
 この頃、朝鮮国内の対立が激化し、列強のアジア侵略に対抗して朝鮮への進出をはかる日本と,朝鮮を属国とみなす清との対立が決定的局面に陥った。朝鮮国内では、清にたよる勢力(事大党)と日本とむすんで近代化をはかろうとする勢力(独立党)とが対立した。

 1894.2月、朝鮮で農民の反乱である東学党の乱(甲午農民戦争)がおこる。この東学党というのは、儒教・仏教・道教の三つの宗教を混ぜ合わせたもので、東学という宗教のもと島民一揆を煽動していきました。

 朝鮮政府は、800名の兵でもって鎮圧しようとしたのだが、東学党員に返り討ちにされる。東学党は朝鮮政府軍をたびたび破り、6.2日、ついに朝鮮政府は国内で起こった東学党の乱を鎮めるために、宗主国清国へ軍の派遣を要請した。清国は、我々なら僅か10日で鎮圧して見せる、と豪語し、朝鮮政府に出兵を要請させた。清国は先に決めた「日清天津条約」を無視して、独断で朝鮮に派兵する。条約では、出兵の際には、前もって相手国に文書で通達するへしとあったのに、無断で朝鮮へと出兵した。

 「陸奥」と川上操六は居留民の保護を名目に出兵し派兵に踏み切る。清軍に先立つ6.12日、日本軍一個旅団は仁川に上陸、この兵力を楯に駐韓公使・大鳥圭介は、清への宗主関係を廃棄し、清朝軍を日本によって駆逐することを日本政府に要請するよう、申し入れを開始。

 すでに朝鮮における権益を得ていた日本は、清朝が兵力を動員するとともに兵力を動かした。その根拠となったのが日本公使館警備のため「兵若干を置く」と定められた済物浦条約であった。日本は朝鮮内政共同改革を清国に提議して拒否される。
 日清戦争
 内村鑑三『日本及日本人』(代表的日本人)
 志賀重昂『日本風景論』

【日英通商航海条約調印】
 1894.7.18日、イギリスとの条約改正に成功して日英通商航海条約調印、領事裁判権撤廃に漕ぎつける。大英帝国は、朝鮮半島における日本の軍事介入に当初は警戒的だったものの、それ以上に帝政ロシアの朝鮮半島進出に対して警戒的であった。大英帝国は、清国の軍事力のモロさを知っており、むしろ、清よりも次に来る帝政ロシアの朝鮮半島への野心がより驚異的と見ていた。よって、大英帝国は、朝鮮半島における日本の立場を擁護する方針を打ち出し、日英通商航海条約を結んだ。 こうして英国の援助を期待し得る状態となる。

 勝海舟は日清戦争に反対し、日清は協力して西洋に当るべしと述べていた。
【日清戦争】(「日清戦争考」)
 7.25日、朝鮮政府は大鳥に押し切られ、この二項を呑んだ。

 7.29日、大島義昌の率いる日本軍一個旅団(戦時編制のため七千)は、牙山・成歓の清軍を破る一方、同月25日には海軍の第一遊撃隊が豊島沖で清国海軍に遭遇し豊島沖の海戦が発生。先制攻撃されたため応戦して清国艦艇を追い払った(このあと、「高陞号事件」が起こる)。これらの一連の戦いは、「朝鮮政府の依頼による」というスタイルがとられていた。

 1894.8.1日、朝鮮(李氏朝鮮)をめぐって日本と清(中国)の対立が非和解的になり、清国に正式に宣戦布告された。こうして、日清戦争が勃発した。火力に勝る日本軍は9月に平壌、11月に遼東半島の旅順を占領し、北京・天津を脅かした。海軍も日本海軍連合艦隊を組織して、9月、黄海海戦に勝利して制海権を握る。9.17日、黄海海戦で、旗艦松島の三等水兵三浦虎次郎は瀕死の重傷の中で、そばを通った向山副長に「定遠はまだ沈みませんか」と声を振り絞った。このことは、「煙も見えず雲もなく」で始まる「勇敢なる水兵」(佐々木信綱作詞、奥好義作曲)に歌われ、「未だ沈まずや定遠は」の言葉は、深く日本人の心に刻み込まれた。

 翌1895(明治28).1月の威海衛攻撃で清国の誇る北洋艦隊を全滅させた。近代的な軍備をもつ日本軍は、朝鮮から満州(今の中国東北区)に進出し各地で勝利をおさめた。(1894-95、明治27〜明治28年)

 戦費2億円、当時の経常収入の2.5年分に相当。臨時軍事費特別会計が創設されたが、その財源は52%が軍事国債、24%が日銀借り入れ、10%が国庫剰余金で賄われた。戦勝で植民地台湾と賠償金3億6千万円を得て金本位制を確立した。しかし、一度膨張した財政規模が元に戻ることはなかった。これにより以降、「帝政ロシアの脅威」に備えて富国強兵路線を更に一歩進めることになる。

 この間、明治天皇は、自ら御駕を広島に進めて大本営をおき、第6議会も戦時議会として挙国一致色が強くなった。自由党と政府の提携が公然たるものになりつつあったのはこのころからである。政府の伊東巳代治は、自由党土佐派の林有造と接触、11月には公然と提携の趣意書を発表した。

1895(明治28)年の動き

【下関条約調印】
 1895(明治28)年、清は降伏し、下関・春帆楼で講和会議を開く。伊藤首相と陸奥宗光外相が全権として4.17日、講和条約を締結した(下関条約調印)。その内容の主なものは次の通り。
 清国は、朝鮮の自主権を認める。
 清国は、日本に遼東半島、台湾、澎湖島を割譲する。
 清は、日本に、賠償金2億両(当時の約36億円)を支払う。
 沙市、重慶、蘇州、杭州を開市、開港する。

 これにより、清国は、朝鮮の独立を認め宗主権を放棄し、多額の賠償金を支払わされることになり、日本との間に欧米並みの通商条約つまり不平等条約を結ばされることになった。これが、日本の帝国主義的海外侵略の足がかりとなった。

 日清戦争の結果、「眠れる獅子」とおそれられた清帝国の弱体ぶりを世界中に示す結果となった 。以降、西欧列強の清国割譲(租借)の動きが強まることになる。逆に日本は、遂に帝国主義国家として世界史に登場していくことになった。大陸進出の足場をきずき、西欧列強と伍す道へ足を踏み入れていくことになる。

 ラフカディオ・ハーンは、次のように評した。
 概要「一隻の船舶も失わず、一度も敗れることなく、日本は中国の大きな力を打ち破り、新しい朝鮮を創設し、自分自身の領土を拡大し、東アジアの政治的様相を変えた。これら全てのことが、かくも政治面において脅威であり、心理面では更に驚くべきものである。日本の力は古代の信仰の力に似ている。偉大な各民族の真の力が根付いている同じその中に根付いている-つまり人種の魂の中に」。

 これより以降は、「明治維新史(2―3)(伊藤が射殺されるまで)」の項に記す。




(私論.私見)