明治維新史(2―4)(日ロ戦争から伊藤が射殺されるまで) |
更新日/2025(平成31.5.1日より栄和改元/栄和7)年2.20日
これより以前は、「明治維新史(2―3)(日清戦争から日ロ戦争まで)」の項に記す。
1904(明治37)年の動き |
【対露主戦論の浸透】 | ||
原は、表面的には開戦論が世論を指導していたようにみえて実態とは異なっていたことを次のように記している。
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【日露戦争】 |
「補足、日露戦争考」に記す。 |
【第二インターナショナル】」 |
8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インターナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロシア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争に反対する非戦の握手をかわした。大会では、つづいてフランス代表から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決している。 こうした世界各国の社会主義者との交流については、平民新聞に「日露社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告された。 日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のための連帯の声が交わされた。本格化しはじめた日本の社会主義運動が、戦争に反対する非戦・反戦運動を展開したのは、戦争の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であった事情から必然的なことだった。 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181) |
【与(與)謝野 晶子の「君死にたまふことなかれ」】 | ||||
9月、与(與)謝野 晶子(よさの あきこ)(1878.12.7 - 1942.5.29)が、明星に「君死にたまふことなかれ」を発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した。
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【金子堅太郎】 |
1904年、日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎は、ハーバード大学出身で後輩にあたるルーズベルト大統領と親しく、ハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っている。日露戦争の後にルーズベルトが書き残した文書には、日本が自分たちのために戦ったと書かれている。こうした関係が韓国併合に結びついた。(James
Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015) アラスカ、ハワイ、フィリピンを手に入れ、東アジア侵略を視野に入れていたアメリカにとって日本の韓国併合は願ってもないことだった。アメリカが最も欲しがっていた場所はカリフォルニアのはるか西にある「新たな西部」、つまり中国東北部だった。その場所に日本は「満州国」を建国している。ちなみに、関東大震災以降、日本に大きな影響力を及ぼすことになった金融機関は親ファシズムのJPモルガン。 |
ラフカディオ・ハーン『神国日本』。 岡倉天心『日本の覚醒』。 |
1905(明治38)年の動き |
【】 |
4月下旬、ベトナム独立の父、潘佩珠(ファンボイチャウ)が日本に上陸した。そして浅羽佐喜太郎と運命的な出会いをして(大隈重信侯爵)との会見を実現する。第一次大隈内閣(明治31年6月~明治31年11月)と第二次大隈内閣(大正3年4月~大正5年10月)の合間の、まさに政治家として脂の乗った時期、そして日露戦争の真っ最中の時期だった。日本初の政党内閣を組閣した大隈重信は、腹心の幹部の当時野党である憲政本党の党首、犬養毅と共に面会した。ファンボイチャウは日本政府による革命への援助を求めた。仏印の名もなき青年と面会した大隈重信の歴史的邂逅力が評価されるべきだろう。犬養毅が、潘佩珠(ファンボイチャウ)に対して、「日本政府が武力をもって他国の革命運動に参加することは、国際法上不可能である。また、それが日仏戦争や、もっと大きな国際的動乱にまで発展する可能性がある。ただし、日本政府ではなく、政党としてなら我々は貴下の計画を支援する用意がある」と隠忍自重を説いた!。「隠忍するくらいなら、何で苦しんで日本まで来るでしょう」。なおも食下がる潘佩珠(ファンボイチャウ)に大隈重信は「・・・・思い切ってこの際、同志来日を勧誘したらどうであろうか。愛国心に富む我々日本人は、貴下およびその同志達を礼をもって迎える。住居提供の上、生活に不便させない。日本政府は貴下留学生達に門戸を開けて滅私奉公の道を教育する」。潘佩珠(ファンボイチャウ)は感激した。こうしてドンズー(東遊)運動が始まった。犬養毅は、ベトナム人留学生の受け入れの為、潘佩珠(ファンボイチャウ)を連れて振武学校(陸軍士官学校の外国人用予備校のようなもの)の福島安正校長(シベリア横断を成し遂げた陸軍の英雄)を訪ねた。陸軍振武学校(外国人用予備校)福島安正校長は、「私は現在、参謀本部という役職にあり責務を遂行しています。ですから今は、私の個人的見解を申しあげる訳にはいかないことを、先ずはご了承下さい。私情によって公事を曲げる訳にはいかないからであります。万一、これを曲げるとあれば、ある特定の一国の反政府活動に加担したことになってしまい、これを強めれば、戦争になってしまう危険性を持っております。したがってベトナム人留学生は振武学校への入学ではなく東京同文書院に収容してもらうしかありません」と、陸軍関係ではなく、民間学校への受け入れを斡旋した。 |
【梅毒の病原体が発見される】 |
5.24日、(シャウデン、ホフマン、シュルツェ)により、数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ--->トレポネーマ・パリドゥム)が発見された。 |
【ポーツマス講和条約調印】 | |
9.5日、ルーズベルト大統領の最後通牒恫喝により、ポーツマス講和条約が調印、10.16日公布された。小村寿太郎全権の主張空しく戦勝で得たものは、南樺太の割譲(北緯50度以南の南サハリン)、ロシア沿岸での漁業利権と朝鮮、満州、旅順と大連のある遼東半島の権益(租借権取得)、南満州鉄道の入手を得たが、賠償金は一銭も取れなかった。 | |
ポーツマス条約の講和条件がはっきりし始めるや、日本の有力新聞「東京朝日」、「東京毎日」、「大阪朝日」、「大阪毎日」、「報知」、「都」、「日本」、「万朝報」はこぞって、平和の値段が安すぎるとして条約に厳しい批判を浴びせ、「恥ずべき」、「屈辱的」、「死体的講和」等々非難した。「国民新聞」(社長/徳富蘇峰)を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。 | |
この頃、戦争中外債募集に参加したアメリカの鉄道王のハリマン(ユダヤ金融グループ)が来日、満州鉄道の買収を日本政府と交渉し、桂首相は、1億円の資金提供と引き換えに「満州鉄道及びその関連の財産に対し共同且つ均等の所有権」を確認する覚書を同意する。これを積極的に賛成したのが政界で井上馨、財界で渋沢栄一で共に欧米派(フリーメーソン)。 小村外相は、帰途横浜郊外でこの話しを聞くや激怒し、覚書粉砕に立ち回る。小村は桂の軽率を責め、他の元老たちを説き伏せて遂に覚書取り消しに漕ぎ着ける。帰国したハリマンを待っていたのは、日本政府からの覚書破棄の電報であった。以降、米国の対日政策は反日強硬路線に転換する。 ポーツマス条約締結の取材に赴いたジャーナリスト・石川半山は、日本に対する米国の感情の変化について次のように記している。
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【日比谷暴動】 |
9.5日、東京日比谷公園で、「講話問題国民大会」が開かれ次の決議が為されている。憲政本党の河野広中、黒龍会の頭山満らは対ロ強硬を叫び、屈辱条約破棄を決議した。「我々は挙国一致必ず屈辱的条約を破棄せんことを期す。我々は我が出征軍が驀(ばく)然奮進もって敵国を粉砕せんことを熱望する」(山陽新報・明治38.9.6日付け)。 日比谷公園で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらはこの講和条件に憤激し、戦争継続を叫び、暴徒化した。内相官邸、徳富蘇峰の国民新聞社、警察署二、交番二一九(7割以上)、教会一三、民家五三を焼き、 一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。この事件で死者17名、負傷者500名、検挙者2千名。 |
【「桂・ハリマン仮条約」】 | ||||
10.12日、桂首相は、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンと会談し、満州国に於ける鉄道事業を両国が共同経営することに合意し、「桂・ハリマン仮条約」に調印した。元老・伊藤博文、井上馨、財界の渋沢英一らもこの案に賛成した。 10.16日、仮調印から4ヵ月後、ハリマンが離日した直後、小村外相がアメリカから帰国した。小村は、「桂・ハリマン仮条約」を知り激怒した。「この条約は尊い血を流して手に入れた満州の権益をハリマンに売り渡すものだ」と述べ、元老達を説き伏せ、「桂・ハリマン仮条約」を破棄させた。 これに対し、外務官僚卒の歴史家・岡崎久彦は、著書「小村寿太郎とその時代」の中で次のように評している。
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【小村外相がフリーメーソンを監視団体に措置する】 |
小村外相は更に、フリーメーソンの日本での活動に厳重な制限を加え、日本人がこの結社に参加することを禁止する措置をとった。これにより、日本人が国内に於いてフリーメーソンに入会すれば、警察によって逮捕されることになった。 |
【加藤安世&田中正造「非常嘆願書」】 | |
1905(明治38).5月から、栃木県は谷中村の田畑や家屋の価格調査を始め、10月には栃木県は谷中内土地物件補償に関する告示を、11月16日には所有物件買収について告示した。また同月堤防は復旧しない旨の通知が出された。この非常なる状況を受けて、田中正造の意を受けて加藤安世が起草し、正造が加除訂正を加えた「非常歎願書」が方面に発せられた。これを確認しておく。
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【日韓、日清外交の流れ】 |
11.17日、第2次日韓協約を結び、韓国保護条約調印。韓国では乙巳(ウルサ)条約といい、これに賛成した大臣たち5名は乙巳五賊(ウルサオジョク)と言われて今でも非難されている。(この項、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.132より) 11.23日、京城に韓国統監府を置く。 |
12.2日、駐英公使館を大使館に格上げ。 12.22日、満州に関する日清条約調印。 |
【内村鑑三「日露戦争より余が受けし利益」】 | ||
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12.21日、桂内閣総辞職。
【日露戦争戦費の重み】 |
1904-05年の日露戦争時の戦費は17億円(日清戦争時2億円)、当時の経常収入の7年分に相当(日清戦争時2.5年分)であった。臨時軍事費特別会計が創設され、その財源の82%を軍事国債に頼った。そのうち54%は外債で、アメリカのクーンロエブ商会のヤコブ・シフの資金援助に頼った。 その後2年続きの大増税で、合わせて1億4千万円を調達したが、戦後経営は苦しく、平時に戻っても財政規模は縮小せず、むしろ膨張が加速された。得た権益を守るための「守勢ではなく攻勢作戦を本領とする軍備」(帝国国防方針)の拡充が戦後経営の中心に据えられた。陸海軍の兵力をほぼ十年で倍増させようというもので、所要経費は6億円、1908(明治41)年度から予算に計上された。軍事輸送を強化するための鉄道国有化も大蔵省の強い反対を押しきって強行され、財政負担を重くした。 |
【日露戦争後の人種問題】 | |
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【千人針】 | |
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夏目漱石『吾輩は猫である』。 |
1906(明治39)年の動き |
【西園寺の履歴概要】 | |
京都の公卿・徳大寺家の次男として生まれ、西園寺家を継いだ。明治3年より10年間に亘ってフランスに留学。留学中にフリーメーソンに入会したと言われている。帰国後、東洋自由新聞を創刊して自由民権運動を鼓吹した。その後、憲法制度調査を命じられ、伊藤博文の渡欧に随行。オーストリア大使、ドイツ公使、賞勲局総裁、貴族院副議長、文部大臣、枢密院議長、首相代理。明治39.1月、第一次桂内閣の後を受けて首相。以降、日本政界の最高峰として又元老として大正、昭和史に関与した。昭和15.11月、92歳で逝去。 | |
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「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、西園寺公望について次のように述べている。
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【第12代、第一次西園寺内閣】 (第12代:第一次西園寺公望内閣(任:1906.1-1908.7)) |
日露の満洲における戦況は、早期講和を欲するものであった。しかし講和にとって最大の障碍は、日本の戦争による政財界の疲弊が一般に知られていなかったため、国民と政党の一部が強硬に反対するのではないかと見越されたことである。そこで桂首相は熱烈に、議会最大政党の政友会の支持を欲していた。 当時の政友会は、ジャーナリスト前田蓮山によれば次の三柱によって成り立っていた。すなわち、総裁西園寺公望の門地。自由民権の長老松田正久の徳望。そして原敬の辣腕である。西園寺は政権にも栄誉にも興味恬淡であり、松田正久はその「天下第一の不得要領」で多くの党員の信望を集めていて、原敬などはむしろ人望薄く党員に敬遠されていたが、同時に彼がいなければ政友会は消滅してしまっただろう事は想像に難くない。 桂はその原に提携を申し入れる。原はその提携の条件として、政友会が日露戦役の戦後経営に参画できる立場を望んだ。桂はこれに対し、次期首相として西園寺を推挽するが、この新内閣は政党内閣の体をとらぬこと、また桂内閣の基本方針を大きく逸脱せざることを望んで原にそういった。 原と政友会は、これを呑んだ。 これがいわゆる「桂園時代」のはじまりであったが、もちろんこの提携は永遠のものではあり得ない。桂はこの盟約を「貴族院は我がものなり、衆議院は西園寺のものなり」と簡潔に表現したが、原はその桂の牙城貴族院を陥落させるために暗躍するのである。 1906(明治39).1.7日、第12代目となる第一次西園寺内閣が組閣された(1906.1.7~1908.7.14)。首相・西園寺―内相・原―加藤高明。陸軍大臣・寺内正毅、海軍大臣・斎藤実。 第一次西園寺内閣は、内部に長閥山縣系(逓相山縣伊一郎)、薩閥(文相牧野伸顕)、また貴族院の最大派閥・研究会(法相千家尊福)をふくむ弱体内閣であったが、これを補ってあまりあったのが内相・原敬の辣腕であった。彼の下で「新進有為」の若手官僚の政党編入と、地方行政機構の政党化が進んでいくのである。 原内相はまず、内務省に巣喰う山縣系の大浦兼武の派閥を全排除して省内統制を確立する一方、非藩閥の帝大官僚たちを起用していった。当時の官僚たちのなかで著名なのが、若槻礼次郎、濱口雄幸などであり、そのうちでも原に注目され、彼と共に権力の階梯を上っていったのが床次竹二郎、また水野錬太郎などにあたる。かれらは官僚機構の中で栄進したのち、揃って政友会に入党している。 また、原は各府県知事の任命権を持つ内相の地位を活用して「老朽淘汰、新進登用」を行っていった。しかしその人事刷新が党派的な意味合いを持たないはずがない。彼が「新進」と認めたのは「親政友新進官僚」に限られた。反政友知事はこの美名の下に排除され、川島純幹など親政友知事が次々と誕生してきた。このようにして原は政友会の党勢を一挙に拡大していった。 しかし、反政友知事とは取りも直さず山縣系知事のことにほかならない。原は山縣系知事を放逐することによって、山縣閥に対して未曾有の挑戦を行ったのである。山縣有朋はこれに強い不快感を示した。彼は官僚(なかでも内務省)、枢密院、軍部など多岐に渡り複雑をきわめる派閥網を駆使して、公然と西園寺内閣倒閣のために動き出し、また西園寺と桂の間の締盟も破れざるをえなかった。 こうして第一次西園寺内閣は倒壊するに至ったのだが、内閣は倒れたが、この政権において政友会が得たものはまことに大きかった。まず、地方の政党化の端緒を掴んだこと。中央の新進官僚たちに、これからの立身のためには長閥よりむしろ政党と結んだ方が得策だということを示し得たこと。最後に、山縣閥の現在の勢力についての認識を深め得たこと、である。これをきっかけとしていよいよ政友会は勢力を展開していったのである。 |
2月、片山潜らにより日本社会党結成される。
2月、伊藤博文が、日露戦争後大使として韓国に赴き、韓国統監府が開庁して初代韓国統監に就任。伊藤は、韓国の保護国化を推進した。
3月、島崎藤村が、代表作となった破戒を自費出版した。被差別部落出身の小学校教員、瀬川丑松が父の戒めを破り、自らの出自を告白する苦悩を描いた小説である。藤村はこの作品で作家としての地位を確立した。但し、小説に於ける丑松の態度が卑屈として批判を受け、藤村は自ら絶版にして後に改訂版を出した経緯がある。初版に戻ったのは藤村没後の戦後からである。
11.26日、日露戦争でロシアから獲得した南満州鉄道の経営に当たる会社として南満州鉄道が国策会社として設立された。初代総裁に後藤新平が就任した。翌1907年、調査部を設置し、政局に大きな影響を与えていくことになった。 |
同日、児玉源太郎に強く推挙され、後藤新平が台湾民政長官に就任。
11月、陸軍大臣・寺内正毅が陸軍大将。1907年、子爵。
1906年(明治39年)、「医師法」制定。第8条:「医師は医師会を設立することを得、医師会に関する規程は内務大臣之を定む」。各府県に医師会が相次いで誕生。
大杉栄ら、日本エスペラント協会設立。 岡倉天心『茶の本』。 |
1907(明治40)年の動き |
ハーグ密使事件を利用して韓国皇帝を譲位させ、第3次日韓協約を結んだ。これにより韓国の内政権を掌握した。
1907(明治40)年、日本政府は日仏協約(にちふつきょうやく)をパリにおいて締結した。これによってフランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを約束した。国際協調の為にベトナム人留学生弾圧に転じた。 |
1907年(明治40年)、「帝国国防方針」策定。同時に精神主義・精神教育の徹底に向かう。 陸軍は日露講和を「やや長期なる休戦」と考えて再度の日露戦争を想定し、海軍は満洲をめぐる対立からアメリカを仮想敵国とした大建艦計画 をたてていた。これに基づいて1907年、初めて策定されたのが「帝国国防方針」です。そこでは「一旦有事の日に当たりては、島帝国内において作戦するがごとき国防を取るを許さず、必ずや海外において攻勢を取るに在らざれば我が国防を全うする能わず」として、それまでの防衛型の守備方針から外征型の前方進出方針へと転換した。そして、「将来の敵と想定すべ きものは露国を第一とし、米、独、仏の諸国これに次ぐ」と仮想敵国を明示した。つまり、日露戦勝によって「第一等国」となったということは、世界最強の国家にも匹敵できる軍備を備えることと考えられた。 軍備の拡張とともに政府が留意したのは、次なる戦争を遂行していくための国民をいかに形成していくかという問題でした。その国民形成のためには現行の教育体制では「道徳および国民教育の基礎 を作り、国民の生活に必要なる普通教育の知識・技能を得せしめんこと頗る困難」として、1908年から義務教育年限を4年から6年に延長したが、この体制は1947年に義務教育9年制になるまで続く。 また、日露戦争中の 1904年4月から小学校教科書は、文部省が著作権をもつ国定教科書になり、忠君愛国や滅私奉公を軸とした臣民の育成が図られました。さらに、日露戦争から得た戦訓として、いかに軍備の拡張を図るにしても日本の国力では消耗戦に耐えられない以上、これを精神力で補うしかないという方針が採られる。 1908年の『軍隊内務書改正理由書』には、「未来の戦闘においても吾人は、とうてい敵に対して優勢の兵力を向くること能わざるべし。兵器、器具、材料また常に敵に比して精鋭を期すること能わず。吾 人はいずれの戦場においても寡少の兵力と劣等の兵器とをもって無理押しに戦捷の光栄を獲得せざるべからず。これを吾人平素の覚悟とするにおいて、精神教育の必要なること一層の深大を加えたること明らかなり」とあるように、精神教育によって「物質的威力を凌駕する」という日本軍隊の特徴がうまれてきた。この精袖教育が、1882年の『軍人勅論』で強調された「死は鴻毛(鴻の羽毛、きわめて軽いことのたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」という天皇の命令と接合して、兵士は「一銭五厘」の郵便料金の召集令状( 赤紙)でいくらでも召集できるという使い捨ての思想となるとともに、軍隊内での私的制裁が日常化し、さらには捕虜などに対するビンタ(平手打ち)などの虐待をうむ土壌となった。こうして、日露戦争で砲弾の補給不足に悩んだ陸軍は、火力が補充できない場合においても刀、銃剣などによって敵を斬り、突き刺して戦う白兵戦を重視する方針をとるようになった。 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.212-213) |
【軍事費比率が国家予算の31%に達す】 |
明治40年(1907年)の国家予算は6億3500万円で、そのうち陸軍関係は1億1100万円、海軍関係は8200万円で、軍事費比率は31%に達していた。明治40年代からは、日本の軍事費比率はつねに30%以上になった。 (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用) |
・ワッセルマンが梅毒の血清反応による診断法(ワッセルマン反応)を確立。
1908(明治41)年の動き |
【第13代、第二次桂内閣】 ( 第13代:第二次桂太郎内閣(任:1908.7-1911.8)) |
桂と西園寺の提携時代、つまり桂園時代において元老会議は開催されない。すでに元老たちは老齢で自ら内閣を主催するの意志無く、衆目は一致して元山縣子飼いの政治達者と政友会総裁の公卿政治家を推していた。 7.4日、西園寺は辞表を捧呈して後継内閣首班に桂を奏薦し、明治天皇は朝鮮駐在の伊藤博文に下問した他は意見をとくに求めなかった。7.12日、桂に大命が降下した。7.14日、組閣完了。 7.14日、13代目となる第二次桂内閣が組閣され、親任式が執り行われた。(1908.7.14~1911.8.30)。桂―寺内。陸軍大臣・寺内正毅、海軍大臣・斎藤実。 この内閣成立後の議会において問題となったのは地租軽減、管理増俸問題である。ここで議会操縦に難航を感じた桂首相は、第一次内閣の時と同様な政友会の友好を求めようとした。そこで桂が出した提案が、情意投合といわれる妥協締盟策である。 原によれば、この情意投合は、「桂は今回限りにて再び内閣には立たざる事、彼の退任は条約改正結了後なる事、其の退任に際しては政友会に譲ること」であった。原は、最後まで桂が「政友会に譲る」と言い続け、「総裁西園寺に譲る」と言わなかったことに疑惑を感じているが、ここではそれほど注目しなくていいだろう。政友会、政府の間では調整が済んだ。ここに政友会と政府は一体化し、桂園時代はその極みを迎えた。 |
【韓国併合の動き】 |
一方で明治政府の宿願であった韓国併合が進みつつある。伊藤博文が韓国統監を辞し、後任となったのは曾禰荒助であったが、曾禰は韓国首相李完用と結んで専横暴慢ははなはだしかった。 |
赤旗事件。
この年、イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう発言した。「石油を制する者、世界を制す」。 (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69) |
1909(明治42)年の動き |
【伊藤博文射殺される】 |
6月、伊藤は、韓国統監を辞し、四度目の枢密院議長となった。 |
10.26日、韓国民族運動の矢面に立たされた伊藤は、満州視察と日露関係調整のため渡満した折、ハルピン駅頭で韓国の反日主義者にして民族運動家/安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。 暗殺の報道は暗号電報を受けた五十嵐秀助電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼は直ちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれといっていた」と云う。 11.4日、日比谷公園で国葬が営まれた。埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、1959(昭和34)年、近隣の束荷神社境内に遷座した。 |
【朝鮮王高宗の当時のコメント】 | |
朝鮮王高宗の当時のコメントは次の通り。
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【伊藤博文暗殺事件の闇考】 | |
「ウィキペディア伊藤博文」の「暗殺」の項を参照する。
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安重根は暗殺後直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安重根らを旅順の関東都督府地方法院に移し日本式裁判に付している。次の十五ヶ条を伊藤博文暗殺の理由としてあげている。
1、朝鮮王妃の殺害。2、韓国保護条約五ヶ条。3、日韓新協約七ヶ条。4、韓国皇帝の廃立。5、陸軍の解散。6、良民殺戮。7、利権剥奪。8、教科書廃棄。9、新聞購読禁止。10、銀行券の発行。11、三百万円国債の募集。12、東洋平和の攪乱。13、保護政策の名実伴わざること。14、日本先帝孝明天皇を殺害したること。15、日本及び世界を瞞着したること。1910(明治43).2.14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。 19世紀末、日本帝国主義は「援助」の名の元に朝鮮に軍隊を派遣し、半ば脅迫的な手段で政府から主権を奪った。閣僚内部にいた売国奴たちの後ろ盾もあって朝鮮は屈辱的な「日韓合弁」と「乙巳保護条約」を締結。条約締結後、失望の余り人々の間には自らの命を絶ったり、国を捨てたりする者も現れるが、一方では義勇団を結成して抗日戦に身を投じる者も多かった。しかしそんなゲリラ戦は日本軍の一層の弾圧を引き起こすことになり、徐々に亡国の運命を決定づけられていく。様々な戦いを経て安重根はやがて「朝鮮侵略の元凶」伊藤を暗殺することが民族を救う唯一の手段であると考えるようになり、実行に移すべく家を後にした。ロシア財務部長ココフツィェフと会談するため伊藤がハルピンを訪れるという知らせを聞き付けた安重根は、ハルピン駅で伊藤を暗殺し「独立万歳」を叫ぶ。安重根は、日本の新聞では「不逞鮮人」として極悪非道がなじられたが、朝鮮では南北を問わず愛国青年として最大級のヒーローとなった。 鬼塚英昭氏の「20世紀のファウスト」は次のように記している。
2009.10.26日、韓国が、「10.26日」を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。 |
新聞紙法を制定し、1897年の新聞紙条例改正で廃止になった制限規定が事実上の復活。
これより以降は、「明治維新史(2―5)(その後の政局、明治天皇崩御まで)」の項に記す。
(私論.私見)