明治維新史(2―4)(日ロ戦争から伊藤が射殺されるまで)

 更新日/2025(平成31.5.1日より栄和改元/栄和7)年2.20日

 これより以前は、「明治維新史(2―3)(日清戦争から日ロ戦争まで)」の項に記す。


1904(明治37)年の動き

【対露主戦論の浸透】
 原は、表面的には開戦論が世論を指導していたようにみえて実態とは異なっていたことを次のように記している。
 我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。政府が最初七博士をして露国討伐論を唱えしめ、また対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱えしめたるは、かくしてもって露国を威圧し、因てもって日露協商を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるをえざる行掛を生じたるもののごとし。...しかして一般国民、なかんづく実業者は最も戦争を厭うも、表面これを唱 うる勇気なし。かくのごとき次第にて国民心ならずも戦争に馴致せしものなり。
 (『原敬日記』1904年2月1言日)
 原は、主戦論の浸透が政府に与えた影響について次のように記している。
 主戦論の浸透は、事実以上にロシアに対する脅威感をあおり、同時に政府を「恐露病」と罵倒することになった。原敬によれば、こうした批判にさらされた政府もまた「少数の論者を除くのほかは、内心戦争を好まずして、しかして実際には戦争の日々近寄るもののごとし」(『原敬日記』1904年2月5日)という自制のきかない状況に自らも落ち込んでいく様子を率直に告白しています。
 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.108-109)

【日露戦争】
 「補足、日露戦争考」に記す。

【第二インターナショナル】」
 8月、オランダのアムステルダムで開催された第二インターナショナル(国際社会主義者大会)第6回大会に出席した片山潜は、ロシア代表プレハーノフとともに副議長に選出され、ともに自国政府の戦争に反対する非戦の握手をかわした。大会では、つづいてフランス代表から提出された「日露戦争反対決議案」を満場一致で可決している。

 こうした世界各国の社会主義者との交流については、平民新聞に「日露社会党の握手」、「万国社会党大会」などの記事によって詳細に報告された。

 日露戦争の時代、日露両国の社会主義者によって、反戦・非戦活動のための連帯の声が交わされた。本格化しはじめた日本の社会主義運動が、戦争に反対する非戦・反戦運動を展開したのは、戦争の災厄を最も過酷な形で押し付けられるのが労働者と農民であった事情から必然的なことだった。

 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.180-181)

【与(與)謝野 晶子の「君死にたまふことなかれ」】
 9月、与(與)謝野 晶子(よさの あきこ)(1878.12.7 - 1942.5.29)が、明星に「君死にたまふことなかれ」を発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した。
 「君死にたもうことなかれ」  旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて
 与謝野晶子作詩・吉田隆子作曲
 ああ 弟よ 君を泣く
 君死にたもうことなかれ
 末に生まれし君なれば
 親のなさけは勝(まさ)りしも
 親は刃(やいば)をにぎらせて
 人を殺せと敎へしや
 人を殺して死ねよとて
 廿四(にじふし)までを育てしや

 堺(さかい)の街のあきびとの
 老舗(しにせ)を誇るあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたもうことなかれ
 旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
 ほろびずとても 何事ぞ
 君は知らじな あきびとの
 家のおきてに無かりけり
 (家の習ひに無きことを)

 君死にたもうことなかれ
 すめらみことは 戦いに
 おおみずからは出でまさね
 互(かたみ)に人の血を流し
 獣(けもの)の道に死ねよとは
 死ぬるを人の譽(ほま)れとは
 大みこころの深ければ
 もとよりいかで思(おぼ)されん

 ああ おとうとよ 戦いに
 君死にたもうことなかれ
 過ぎにし秋を父君(ぎみ)に
 おくれたまえる母ぎみは
 歎(なげ)きの中に いたましく
 我が子を召され 家を守(も)り
 安しと聞ける大御代(おおみよ)も
 母の白髪(しらが)は増さりぬる

 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
 あえかに若き新妻(にいづま)を
 君わするるや 思えるや
 十月(とつき)も添(そ)わで別れたる
 少女(おとめ)ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 ああまた誰を頼むべき
 君死にたもうことなかれ
 
  
  
 
 

【金子堅太郎】
 1904年、日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎は、ハーバード大学出身で後輩にあたるルーズベルト大統領と親しく、ハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っている。日露戦争の後にルーズベルトが書き残した文書には、日本が自分たちのために戦ったと書かれている。こうした関係が韓国併合に結びついた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 アラスカ、ハワイ、フィリピンを手に入れ、東アジア侵略を視野に入れていたアメリカにとって日本の韓国併合は願ってもないことだった。アメリカが最も欲しがっていた場所はカリフォルニアのはるか西にある「新たな西部」、つまり中国東北部だった。その場所に日本は「満州国」を建国している。ちなみに、関東大震災以降、日本に大きな影響力を及ぼすことになった金融機関は親ファシズムのJPモルガン。

 ラフカディオ・ハーン『神国日本』。
 岡倉天心『日本の覚醒』。

1905(明治38)年の動き

【】
 4月下旬、ベトナム独立の父、潘佩珠(ファンボイチャウ)が日本に上陸した。そして浅羽佐喜太郎と運命的な出会いをして(大隈重信侯爵)との会見を実現する。第一次大隈内閣(明治31年6月~明治31年11月)と第二次大隈内閣(大正3年4月~大正5年10月)の合間の、まさに政治家として脂の乗った時期、そして日露戦争の真っ最中の時期だった。日本初の政党内閣を組閣した大隈重信は、腹心の幹部の当時野党である憲政本党の党首、犬養毅と共に面会した。ファンボイチャウは日本政府による革命への援助を求めた。仏印の名もなき青年と面会した大隈重信の歴史的邂逅力が評価されるべきだろう。犬養毅が、潘佩珠(ファンボイチャウ)に対して、「日本政府が武力をもって他国の革命運動に参加することは、国際法上不可能である。また、それが日仏戦争や、もっと大きな国際的動乱にまで発展する可能性がある。ただし、日本政府ではなく、政党としてなら我々は貴下の計画を支援する用意がある」と隠忍自重を説いた!。「隠忍するくらいなら、何で苦しんで日本まで来るでしょう」。なおも食下がる潘佩珠(ファンボイチャウ)に大隈重信は「・・・・思い切ってこの際、同志来日を勧誘したらどうであろうか。愛国心に富む我々日本人は、貴下およびその同志達を礼をもって迎える。住居提供の上、生活に不便させない。日本政府は貴下留学生達に門戸を開けて滅私奉公の道を教育する」。潘佩珠(ファンボイチャウ)は感激した。こうしてドンズー(東遊)運動が始まった。犬養毅は、ベトナム人留学生の受け入れの為、潘佩珠(ファンボイチャウ)を連れて振武学校(陸軍士官学校の外国人用予備校のようなもの)の福島安正校長(シベリア横断を成し遂げた陸軍の英雄)を訪ねた。陸軍振武学校(外国人用予備校)福島安正校長は、「私は現在、参謀本部という役職にあり責務を遂行しています。ですから今は、私の個人的見解を申しあげる訳にはいかないことを、先ずはご了承下さい。私情によって公事を曲げる訳にはいかないからであります。万一、これを曲げるとあれば、ある特定の一国の反政府活動に加担したことになってしまい、これを強めれば、戦争になってしまう危険性を持っております。したがってベトナム人留学生は振武学校への入学ではなく東京同文書院に収容してもらうしかありません」と、陸軍関係ではなく、民間学校への受け入れを斡旋した。

梅毒の病原体が発見される
 5.24日、(シャウデン、ホフマン、シュルツェ)により、数々の王族や文豪を苦しめた梅毒の病原体(スピロヘータ・パリダ--->トレポネーマ・パリドゥム)が発見された。

【ポーツマス講和条約調印】
 9.5日、ルーズベルト大統領の最後通牒恫喝により、ポーツマス講和条約が調印、10.16日公布された。小村寿太郎全権の主張空しく戦勝で得たものは、南樺太の割譲(北緯50度以南の南サハリン)、ロシア沿岸での漁業利権と朝鮮、満州、旅順と大連のある遼東半島の権益(租借権取得)、南満州鉄道の入手を得たが、賠償金は一銭も取れなかった。
 ポーツマス条約の講和条件がはっきりし始めるや、日本の有力新聞「東京朝日」、「東京毎日」、「大阪朝日」、「大阪毎日」、「報知」、「都」、「日本」、「万朝報」はこぞって、平和の値段が安すぎるとして条約に厳しい批判を浴びせ、「恥ずべき」、「屈辱的」、「死体的講和」等々非難した。「国民新聞」(社長/徳富蘇峰)を除く各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。
 この頃、戦争中外債募集に参加したアメリカの鉄道王のハリマン(ユダヤ金融グループ)が来日、満州鉄道の買収を日本政府と交渉し、桂首相は、1億円の資金提供と引き換えに「満州鉄道及びその関連の財産に対し共同且つ均等の所有権」を確認する覚書を同意する。これを積極的に賛成したのが政界で井上馨、財界で渋沢栄一で共に欧米派(フリーメーソン)。

 小村外相は、帰途横浜郊外でこの話しを聞くや激怒し、覚書粉砕に立ち回る。小村は桂の軽率を責め、他の元老たちを説き伏せて遂に覚書取り消しに漕ぎ着ける。帰国したハリマンを待っていたのは、日本政府からの覚書破棄の電報であった。以降、米国の対日政策は反日強硬路線に転換する。

 ポーツマス条約締結の取材に赴いたジャーナリスト・石川半山は、日本に対する米国の感情の変化について次のように記している。

 概要「これまで米国の同情は、弱小なる日本が強大なる露国と戦へるに依って起こったもので、日本が勝った後は、生意気なる日本、猪口才なる日本より一進して、恐るべき日本、はたまた憎むべき二歩という心情に傾いた」(2004.11.30日付日経新聞文化欄、望月雅士「大隈重信支えた民の手紙」)。

【日比谷暴動】
 9.5日、東京日比谷公園で、「講話問題国民大会」が開かれ次の決議が為されている。憲政本党の河野広中、黒龍会の頭山満らは対ロ強硬を叫び、屈辱条約破棄を決議した。「我々は挙国一致必ず屈辱的条約を破棄せんことを期す。我々は我が出征軍が驀(ばく)然奮進もって敵国を粉砕せんことを熱望する」(山陽新報・明治38.9.6日付け)。

 日比谷公園で開かれた全国大会は、参集するもの三万といわれた。かれらはこの講和条件に憤激し、戦争継続を叫び、暴徒化した。内相官邸、徳富蘇峰の国民新聞社、警察署二、交番二一九(7割以上)、教会一三、民家五三を焼き、 一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。この事件で死者17名、負傷者500名、検挙者2千名。

【「桂・ハリマン仮条約」】
 10.12日、桂首相は、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンと会談し、満州国に於ける鉄道事業を両国が共同経営することに合意し、「桂・ハリマン仮条約」に調印した。元老・伊藤博文、井上馨、財界の渋沢英一らもこの案に賛成した。 

 10.16日、仮調印から4ヵ月後、ハリマンが離日した直後、小村外相がアメリカから帰国した。小村は、「桂・ハリマン仮条約」を知り激怒した。「この条約は尊い血を流して手に入れた満州の権益をハリマンに売り渡すものだ」と述べ、元老達を説き伏せ、「桂・ハリマン仮条約」を破棄させた。

 これに対し、外務官僚卒の歴史家・岡崎久彦は、著書「小村寿太郎とその時代」の中で次のように評している。

 「今となってみれば、日本としては、ハリマン提案を受諾しておくことが正解であり、小村の術策は、国の大きな運命を誤ったというべきであろう」。
(私論.私見)
 鬼塚英昭氏は、著書「20世紀のファウスト」5Pの中で、次のように述べている。
 「日露戦争そのものが間違いだった。あの戦争の勝者は日本ではなく、本当の勝利者はユダヤ王のロスチャイルドであった。エドワード・ハリマンの正体を見ずに、単純に物を見んとする学者たちは、時流に乗ることのみを大事と考える人々に違いない」。

【小村外相がフリーメーソンを監視団体に措置する】
 小村外相は更に、フリーメーソンの日本での活動に厳重な制限を加え、日本人がこの結社に参加することを禁止する措置をとった。これにより、日本人が国内に於いてフリーメーソンに入会すれば、警察によって逮捕されることになった。

【加藤安世&田中正造「非常嘆願書」】
 1905(明治38).5月から、栃木県は谷中村の田畑や家屋の価格調査を始め、10月には栃木県は谷中内土地物件補償に関する告示を、11月16日には所有物件買収について告示した。また同月堤防は復旧しない旨の通知が出された。この非常なる状況を受けて、田中正造の意を受けて加藤安世が起草し、正造が加除訂正を加えた「非常歎願書」が方面に発せられた。これを確認しておく。
 非常歎願書 田中正造 栃木県下都賀郡谷中村民吾らの現住せる谷中村は今や奸悪なる買収の毒手に罹りて瀕死の境に彷徨しつゝあり。吾らここに聊か従来の実情及び現在の状態を開陳して非常歎願を敢てするの理由を言明せんと欲す。希くは微衷を諒せられんことを。

 一、抑谷中村は古来天産に富み関東中その比を見ざる豊饒の沃土なり。二十年来鉱毒のために戸口漸々減少せしと雖も、現在尚ほ三百九十六の戸数と二千五百の人口とを有し全村の総価格一千五百万円以上に達せり。もし唯一の堤防修築を怠らざれバ前途洋々として頗る多望なるものあり。然るにこの豊饒なる一美村は之を羨望するものゝ私慾を恣にせんがために当路の有司をして陰険なる策略を弄せしむるに至り、名を修築工事に借りて却て堤防を毀損崩壊して脆弱ならしめ、波除けの柳樹を濫伐して破堤を赤麻沼の水波に打たしめ、故らに堤防をして風浪に堪えざるものゝ如くし遷延徒に日月を費して其完成を計らず、年々全村をして水害を被らしめ以て村民の窮苦を来たせり。是れ実に明治三十五年以来の事に属す。退て想ふに谷中村買収の動機ハ公共の利益を計るがために非ずして実に鄙人の私慾を全ふせんがために外ならざるなり。是れ公然の事実と裏面の消息と相待ちて炳然又疑ひを容るゝの余地なし。更に次項他村との関係の下に之を弁明せん。

 二、谷中村の地たる三面繞らすに河流を以てし、水利の益交通の便実に新来の客を驚かしむるものあり。東南水を隔てゝ茨城埼玉二県と境し西方渡良瀬川を挾みて群馬県に隣す。而して群馬県北海老瀬村ハ谷中村の堤内に在り田園連続して人家近接し地勢上全く同一村落の如くまた他県の観を存せず、両村の人民ハ日常往来して互に葬祭の事に参馳し金融其他土地の貸借労働人夫の交換等をなし其交情掬すべきものあり。是れ両村ハ北に赤麻沼の水地あり西に渡良瀬川の奔下するあり、若し河流一たび氾濫して堤防を破らば洪水ハ両村を襲ふて浮沈を共せざるべからず。されバ両村の人民ハ起臥共に苦楽を同じふするの運命を有するなり。何為ぞ親和交際せざるを得んや。故に従来海老瀬村の谷中村に対する同情ハ真に骨肉の如きものあり。左に少しく之を摘挙せん。

 (イ)明治三十二年二月渡良瀬川沿岸の人民鉱毒のために害せられて毎戸に許多の病者を生ぜり。然れども比年水害を被りて収獲を失ひ既に生計の料に乏しき者何ぞ病を養ふの余資あらんや。是に於て栃木群馬埼玉三県各村の人民二千六百人、当局に対して人命救護の請願を為さんと欲し相携へて上京せんとするの途次、群馬県川俣村に於て警官憲兵数百人其通路を扼して之を抑制するに逢ふや、端なくも官民の争闘を生じ人民七十余名警官数名の負傷あり。而して可憐の冤民ハ兇徒嘯集罪に擬せられ前橋の獄に繋がるゝもの六十余名、谷中川辺二村の人民亦縲紲の辱を受けたれども審理の末放免せられ犯罪の汚名を雪ぐを得たり。越へて明治三十四年十二月に至り各地の有志約二千名親しく来りて沿岸被害民を慰問し、谷中川辺二村の人民亦許多の金品寄贈の義挙に接せり。此時に当り海老瀬村松本英一氏ハ自宅を以て仮設臨時病室となし、東京の仏教徒ハ医師及薬価を寄贈し、谷中、利島、川辺、三村を始め其他村々の人民多数此救護の恩に浴せり。而して又東京の基督教徒ハ芝区芝口に病室を設けて多数の患者を収容し、牛込大久保の慈愛館を開きて沿岸数十名の児童を養育し、各貲財を投じて救護の事に尽くせり。蓋し艱難相扶け窮厄相救ふは愛情の発露にして実に人道の至極とする処なり。殊に茨城の古河町新合村、埼玉の川辺利島の二村、及群馬の海老瀬村、我谷中村等ハ互に河流を抱きて隣接するが故に、地勢治水の関係上苦楽を共にするを以て常に相思相愛の情味を脱する能はざるもの存すればなり。夫れ一村を失ふハ一村の災厄に止まらず、小にしてハ比隣の数百村大にしてハ一国の災厄と為るなり。故に若し一朝谷中村を失はゞ海老瀬村亦其存在を危うせざるを得ず。両村相互の関係斯の如く深し。海老瀬村の谷中村に対する同情決して偶然にあらず。

 ロ)本年八月十日小洪水なりしも海老瀬村有志は谷中村堤防字移堤の危険を慮り自ら人夫を出して之を防がんとし同所に至るや、栃木県庁よりの間牒数名、堤上ニ在りて海老瀬村の人夫に対し「此小洪水に水防に来るハ痴愚なり」と放言し大に嘲罵を加へたり。而して同月十七日大雨あり、翌十八日に至り海老瀬村人夫は前日の暴言を受けたるにも拘らず多数相携へて再び同所に至り、終日終夜一睡だも為さずして水防に努力せり。然るに前日の間牒等ハ水防に来らざるのみならず、却て種々の流言を散じて人夫を出さしめざることを勉め翌十九日終に堤防の破壊するに至るまで何の為す処なく、奸悪にも故らに人民の水防を妨害して堤防の破るゝに任したり。噫、為政の局に当れる有司ハ間牒を放ちて無辜の人民を塗炭の苦に陥れ、隣村の人民ハ自ら起て暴言の汚辱に甘んじ風雨の苦難を凌ぎ以て隣人相愛の事に努力せり。豈是れ好個の対照にあらずや。吾等ハ海老瀬村民の友誼に対して厚く感謝せざる可からず。

 前述の如く海老瀬村ハ吾谷中村と同一堤内に在るが故に、若し堤防にして破れんか、水害の来るハ村の異るを以て免るゝを得ず。自村の利害ハ全く谷中村の利害と其揆を一にするが故に、之を谷中村に属する堤防として対岸の火災視する能ハざる所以なり。両村治水上の関係斯の如く深し。何為ぞ行政区劃の異るを以て危急の災害を顧みざるを得んや。

 三、谷中村と海老瀬村との地勢及治水上の関係密接なるは其間髪を容れず、故に海老瀬村民の谷中村に対する情誼の厚きハ、移して以て谷中村民の海老瀬村を思ふの深きに比すべきなり。若し谷中村にして一朝買収せらるゝ事とならんか、谷中村と同一堤内に在る海老瀬村の一部は其運命を共にせざる可らず。是を以て谷中村民ハ従来の情誼を有する海老瀬村と共に滅亡せざる可からざる悲境を齎らす可き買収に対してハ、自村を愛するの情を以て他村を遇せざる可からず。是れ奸悪なる買収政略に極力反対する所以なり。

 抑谷中村買収の事たる既に八九年以前よりの予謀に出でたるものにして、其間に於ける奸計猾策ハ実に人をして慄然たらしむるものあり。初め鉱山師の徒、地方官と結托して堤防を脆弱ならしめたるを第一着とし、明治三十二年間牒を村※(二の字点、1-2-22)に派出し良民を勧めて巨額の村債を負ハしめ土地田畑の価を下落せしむる事を謀りて漸※(二の字点、1-2-22)村民を貧弱ならしめ以て全村を奪掠せんことを企てたるを第二着とし、明治三十六年一月十六日臨時県会を召集して買収案を議せしめ否決せられて事の破れたるを第三着とせり。而して昨三十七年十二月廿〔十〕日栃木県会ハ夜半密かに秘密会議を開き、陽に土木治水費中堤防修築費と称し陰に谷中村買収の意味を含まして曖昧なる土木費を議決したり。是れ実に醜奴が第四着の醜行にして、谷中村買収事件の歴史ハ全く権力と金力と結托して無辜の良民を迫害したるに在り。

 今仮に谷中村堤内を買収したりとして事後の状態に就て少しく考究すれば真に恐るべき結果を発見すべし。何となれバ谷中村ハ一面に平地なるが故に、仮りに買収派の言ふ如く之を潴水池と為すも、大水氾濫するときハ瞬時にして堤内に充満し水流溢れて風波起り、余勢奔瀉して群馬、埼玉、茨城、千葉、東京等一円の隣地を襲ふに至り、浸水の地域拡張して損害の多大なる真に計る可からざるものあらん。果して然らバ谷中堤内の二村(栃木県谷中村/群馬県北海老瀬村)を滅亡して更に隣村数百を害するの結果を生ず可し。嗚呼是れ一県の失政は一県の厄に止まらずして更に一府四県ニ其害を及ぼすものに非ずや。夫れ潴水池ハ水害予防に供するにあり。水害予防ハ河川に連接せる各県の利害上互に連帯の関係を有せり。是れ実に公益上栃木県内の一事件として閑却すべきものに非ざるなり。

 四、然るに栃木県会ハ此重大事件を軽々に議決して他県の利害を顧みず又自県の興廃を慮らず、而して栃木県庁ハ強て非を是として買収の奸策を遂行せんと欲し、村民に対して農事の妨害を加へ村民の安寧を害し猾策陰謀至らざるなし。今其事実の二三を左に列挙すべし。

 (イ)栃木県庁ハ谷中村買収を行ふに当り、村役場を占領して村民誘拐の事務所とし黄白を散じて良民を惑乱し或ハ威嚇し、而して誘拐したる人民を冷遇しつゝあり。然かも父祖の遺業に安居して天産に衣食せる人民は悠々として世故に迂なるを以て四年の水害に苦しみ四年の凶斂に悩み、更に居村滅亡の猾策に遭ふも詭弁甘言の惑ハす処となりて自ら陥穽に墜落するを知らざるなり。其愚直なる寧ろ憫れむべきに非ずや。

 (ロ)村民中買収の手先きとなりて官より報酬を受け居る悪徒ハ一人にても多く誘拐して移住せしむれバ自己の利益となるが故に、阿諛佞弁を以て良民を欺罔し之を誘拐して窮地に陥ることを勉めつゝあり。之に依りて生ずる弊害は実に少からずして犯罪的行為も亦公行されつゝあり。彼等悪徒ハ区々たる銅臭のために其良心を汚涜せられ同郷の友を殺して私利を貪るに汲々たり。嗚呼されば彼等を馳て悪徒たらしめたる者ハ果して誰ぞや。

 (ハ)村中ノ健康者数百人ハ出て他郷に出稼し、壮丁ハ去テ兵役ニ就キ老弱者ノミ止リテ村ヲ守レルニ乗ジテ之ヲ侮リ、本年夏田植仕付を妨げて農繁時の人心を動乱せしめんとし、多数の官吏村中に横行して耕作を妨害したるにより、偶之を押へて警官に引渡すこと数回に及べども其効なく終に農事を妨げられ目下亦秋季麦作仕付を妨ぐるため、種々苦肉の奸策を廻らして人民を誘惑し以て農事を妨害したり。何故かゝる悪事を為すかと云ふに、若し麦蒔を為したる地なれバ其種物及肥料代価、手間代の払渡をせざる可らざるが故に、極力農事を妨げて買収価格の低減を計らんとする猾策に外ならず。

 而して此猾策ハ又村役場に出張せる吏員によりて用ひられたり。即ち村役場ハ本月七日付を以て谷中村堤防復旧工事ハ絶対に之を為さずとの引札を村内に配付し、暗に麦を蒔くは無益なり速に買収に応ずべしとの意味を示したり。村民之を見て大に驚き、堤防出来ざれバ麦を蒔くも収獲の見込なしとて麦を蒔かず、有志ハ其季節を失はんことを恐れ日夜奔走して麦蒔を勧誘せり。偶麦蒔を為すものある時は間牒の徒之を嘲笑して暗に妨害を試み、可憐なる良民を惑乱して明年の食料たるべき麦の蒔付を為さゞらしめ為めに豊沃の畑地ニ多くの空地を生ぜり。故に有志の勧誘によりて麦蒔を為すものも仕方なくして蒔付をすることなれバ、肥料を用ひざるものあり耕さずして蒔くものあり。其実状真に憐れむべし。
 噫、豊饒なる一美村ハ今や奸悪なる買収政略の犠牲となれり。愚直なる村民ハ今や正に其住家を売られ其土地を売られ其身を売られつゝあり。彼等村民ハ自ら売らんと欲して買はるゝに非ず。実に買ハんとする者のために売られたるなり。豈是れ憫れむべきの極に非ずや。是を以て吾等之を中央当局ニ訴へんとせバ非道其通路を扼して妨害を加へ其意を果さしめず、偶進んで東京に至るものありとするも居住の自由をも侵害せられて請願の目的を達するまで滞在する能ハざらしむ。吾等窮余の村民今や進んで之を訴へんとすれども其処なく、退て之を防がんとすれども其力なし。

 謹で 至尊の詔勅を拝読するに「地方官ハ地方の重任に居り親しく民情を知る専ら衆庶の為に公益を図れ(明治八年五月二十日)」「百般の施設一に皆祖宗の遠猷に率由し以て臣民の康福を増し国家の隆昌を図らんとするに外ならず(明治二十六年十二月十日)」と在り、綸言炳乎として衆庶の公益、臣民の康福を擁護せらるゝに存す。然るに畏くも 至尊統治の下に在りて施政の職に当れる栃木県地方官及下僚官吏ハ 聖旨を遵奉して吾等村民の生命財産を保護するに力を竭くさず、却て至尊の赤子たる吾等村民を駆て死地に擠さんことに努めつゝあり。豈是れ不忠の臣に非ずや。曠職の吏に非ずや。夫れ人生の尊貴なる所以ハ至誠を尽くして其宜しきを行ふに在り。孔子ハ之を仁と名け基督ハ之を愛と称せり。二者名称の差ありと雖も其隣人を愛するの極致に至りてハ未だ曾て反するものに非ず。伏して惟るに至尊施政の大道亦実に仁愛に淵源するあるハ明々白々の事に属す。

 吾等村民ハ日に同胞の毒手に誘惑せられて困頓窮厄に艱み、郷閭の地より誘拐せられて異村の山河に悲み、家庭ハ冷かに墳墓ハ乱るゝの惨状に沈淪して哭天慟地の血涙に咽ぶの時に当り、人道上残虐の不幸に遭逢せる者を救ハれ豊饒なる吾等の居村を保持して財産を奪掠せらるゝの災厄を免るゝを得バ、衷心の歓喜何物か之ニ如かん。

 想ふに群馬は吾隣県にして地勢治水の利害を同ふし、谷中一村の興廃ハ直に海老瀬村の消長に関し近くハ更に群馬、埼玉、茨城三県の利害に影響すべし。夫れ境土隣接して河川其間に横はるの地にありてハ、沿岸の人民其利害を一にするものなれバ治水の責任ハ連帯の行為と相待ちて行政区劃の上に異別の関係を存すべきに非ず。果して然らば買収の毒手、谷中村に侵入して全村を攪乱し村民を誘惑し村落を滅亡せしめんとするに当りてハ、吾谷中村と利害興廃を一にせる群馬県ハ須らく自県の安寧を計り自治団体の保全を勉め、更に進んで地勢治水の関係を有せる谷中村を拯ふに吝なる可きにあらず。抑為政の対象ハ人民にあり。人民ハ是れ四海同胞なり。国家機関の分配上府県道庁の区別ありと雖も直に之を以て甲乙二県ハ独立して関せざるものと云ふを得ず。甲乙二県とハ単に名義上の区別にして人類同胞の区別にあらざるなり。若し甲県に於て人民を酷遇せバ乙県之を救ふに於て何の不可か之あらん。是れ正義人道より生ずる当然の義務なり。況や国法と牴触せざる範囲に於てをや。殊に況や二県利害を一にし興廃を共にすべき運命を有するに於てをや。是れ自村の危急日に加はり悪鬼白昼に横行して良民其業に安んぜず村中擾々として如何ともする能ハざるの時ニ当り、村民の生命財産を保全し得んことを期して非常歎願を敢てし、正義人道の上に於て仁愛なる御救護を哀求する所以なり。泣血拝具 明治三十八年十一月十七日稿

 前記歎願に就てハ同志多数、今や村中混乱せるの時ニ当り多数の村民出でゝ歎願するの余裕なく僅に一名辛ふじて急馳此事に及べり。希くハ諒恕せられん事を。〔他筆 加除訂正田中 和紙一二枚綴〕

【日韓、日清外交の流れ】
 11.17日、第2次日韓協約を結び、韓国保護条約調印。韓国では乙巳(ウルサ)条約といい、これに賛成した大臣たち5名は乙巳五賊(ウルサオジョク)と言われて今でも非難されている。(この項、山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、p.132より)

 11.23日、京城に韓国統監府を置く。
 12.2日、駐英公使館を大使館に格上げ。

 12.22日、満州に関する日清条約調印。

【内村鑑三「日露戦争より余が受けし利益」】
 日露戦争直後の1905年11月、内村は「日露戦争より余が受けし利益」という演説において次のように述べている。
 「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」。

 「東洋平和のため」という名目による主戦論のさらなる肥大化を懸念している。この予言は的確な洞察となった。

 12.21日、桂内閣総辞職。


【日露戦争戦費の重み】
 1904-05年の日露戦争時の戦費は17億円(日清戦争時2億円)、当時の経常収入の7年分に相当(日清戦争時2.5年分)であった。臨時軍事費特別会計が創設され、その財源の82%を軍事国債に頼った。そのうち54%は外債で、アメリカのクーンロエブ商会のヤコブ・シフの資金援助に頼った。

 その後2年続きの大増税で、合わせて1億4千万円を調達したが、戦後経営は苦しく、平時に戻っても財政規模は縮小せず、むしろ膨張が加速された。得た権益を守るための「守勢ではなく攻勢作戦を本領とする軍備」(帝国国防方針)の拡充が戦後経営の中心に据えられた。陸海軍の兵力をほぼ十年で倍増させようというもので、所要経費は6億円、1908(明治41)年度から予算に計上された。軍事輸送を強化するための鉄道国有化も大蔵省の強い反対を押しきって強行され、財政負担を重くした。

【日露戦争後の人種問題】
 日露戦争後において人種問題が現実的な意味をもったのは、ドイツよりもアメリカやオーストラリアなどでした。日露戦後の対日感情の悪化と日本の興隆に対する恐怖心が、アメリカの日本人移民への攻撃に利用されます。早くも1906年にはカリフォルニアでの日本人学童の入学拒否や州議会での日本移民制限決議などの動きが出、1924年の日本人労働者の低賃金とストを理由とする日本人排斥移民法の成立へと至ります。また、地理的に近接しているために日本からの脅威を強く感じていたオーストラリアでは、日露戦後に首相ディーキンによって「北太平洋の黄色人種」への不信が表明され、白豪主義による黄色人種の締め出し政策が採られました。さらに、ニュージーランド、南アフリカでも日本人移民が禁止され、カナダでも入国が制限されることになっていきました。こうして黄禍論という明確な表明はされなくとも、人種的な偏見が政策に反映されたのも20世紀の特徴のひとつでした。太平洋戦争は、「鬼畜」や「黄色で野蛮な小牧い猿」と相互が痛罵しあうことで戦意を高めながら戦われた人種戦争となりましたが、その戦争に至るまでにも、人種的偏見による紛議が陰に陽に積み重なってきていたわけです。しかし、そうであったからこそ、日本は同じ黄色人種のアジア諸民族とも距離をとるような外交政策を採らざるをえなくなります。なぜなら、日露戦争での勝利は、日本が必死で否定していた欧米とアジアとの対立という構図をさらに浮きあがらせる結果となったため、日本は黄禍論を否定するためにも外交的にはアジアと意識的に距離をとり、欧米との協調路線をとらざるをえないというディレンマに陥ったからです。そして、欧米との同盟や協定などに従ってアジア諸民族の独立運動を抑圧し、「アジアの公敵」とみなされていきました。しかしながら、1930年代以降の中国への進攻によって、欧米との敵対が避けられなくなったとき、日本は再び「黄色人種の指導者」「アジアの盟主」として自らを位置づけ、植民地からの欧米追放を訴えて、「大東亜戦争」を戦うための名目とせざるをえなかったのです。
 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.153-154)

【千人針】
 愛国婦人会(奥村五百子、1901年2月)などの活動として知られる千人針の風習が本格化したのは、日靂戦争の時からでした。千人針は千人結びともいい、出征兵士の武運長久を祈るために、白木綿の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作って贈るものでした。これは「虎は千里往って、千里還る」との故事からうまれ、寅年生まれの女性に年齢の数を縫ってもらえばさらに効果があるといわれました。赤い糸そのものにも災厄をよける意味がこめられていたと思われます。昭和になると五銭と十銭の穴あき硬貨をかがりつけて「死線(四銭)を越えて、苦戦(九銭)を免れる」という語呂合わせで無事を祈りました。危難にむかう人のために、多くの人が力を合わせて無事や幸運の祈願をこめるものとして、千という字は象徴的意味をもちました。古来長寿の動物とされた鶴が千羽そろったものがことさら吉兆とされたことに由来する千羽鶴もそのひとつであり、第二次世界大戦後には病気平癒や平和を祈って折られるようになりました。

 (山室信一氏著「日露戦争の世紀」岩波新書p.73-74)

 夏目漱石『吾輩は猫である』。

1906(明治39)年の動き

 1906(明治39)年1.7日、寺内正毅が第1次西園寺公望内閣の陸軍大臣。11月陸軍大将。1907年、子爵。
【西園寺の履歴概要】
 京都の公卿・徳大寺家の次男として生まれ、西園寺家を継いだ。明治3年より10年間に亘ってフランスに留学。留学中にフリーメーソンに入会したと言われている。帰国後、東洋自由新聞を創刊して自由民権運動を鼓吹した。その後、憲法制度調査を命じられ、伊藤博文の渡欧に随行。オーストリア大使、ドイツ公使、賞勲局総裁、貴族院副議長、文部大臣、枢密院議長、首相代理。明治39.1月、第一次桂内閣の後を受けて首相。以降、日本政界の最高峰として又元老として大正、昭和史に関与した。昭和15.11月、92歳で逝去。
(私論.私見)
 「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、西園寺公望について次のように述べている。
 「西園寺公望(1849~1940)はフランス留学帰りの政治家として知られ、フランス大東社(グランドトリアン)のメーソンであった。西園寺は徳大寺公純(きんい)の次男として生まれ、明治維新の際、軍功を立て、にとフランスに留学した。この時にフランスで洗脳を受け、グランドトリアンのメンバーになっている。帰国後、東洋自由新聞社長となるが辞任して、政界に入り、第二次政友会総裁となった。そして二度首相をつとめた。

 1919年(大正8)パリ講和会議首席全権委員として出席した。昭和期には最後の元老として内閣首班の総帥に当ったり、日本のフリーメーソン革命に奔走(ほんそう)した人物である」。

【第12代、第一次西園寺内閣】
第12代:第一次西園寺公望内閣(任:1906.1-1908.7)
 日露の満洲における戦況は、早期講和を欲するものであった。しかし講和にとって最大の障碍は、日本の戦争による政財界の疲弊が一般に知られていなかったため、国民と政党の一部が強硬に反対するのではないかと見越されたことである。そこで桂首相は熱烈に、議会最大政党の政友会の支持を欲していた。

 当時の政友会は、ジャーナリスト前田蓮山によれば次の三柱によって成り立っていた。すなわち、総裁西園寺公望の門地。自由民権の長老松田正久の徳望。そして原敬の辣腕である。西園寺は政権にも栄誉にも興味恬淡であり、松田正久はその「天下第一の不得要領」で多くの党員の信望を集めていて、原敬などはむしろ人望薄く党員に敬遠されていたが、同時に彼がいなければ政友会は消滅してしまっただろう事は想像に難くない。

 桂はその原に提携を申し入れる。原はその提携の条件として、政友会が日露戦役の戦後経営に参画できる立場を望んだ。桂はこれに対し、次期首相として西園寺を推挽するが、この新内閣は政党内閣の体をとらぬこと、また桂内閣の基本方針を大きく逸脱せざることを望んで原にそういった。
 原と政友会は、これを呑んだ。

 これがいわゆる「桂園時代」のはじまりであったが、もちろんこの提携は永遠のものではあり得ない。桂はこの盟約を「貴族院は我がものなり、衆議院は西園寺のものなり」と簡潔に表現したが、原はその桂の牙城貴族院を陥落させるために暗躍するのである。

 1906(明治39).1.7日、第12代目となる第一次西園寺内閣が組閣された(1906.1.7~1908.7.14)。首相・西園寺―内相・原―加藤高明。陸軍大臣・寺内正毅、海軍大臣・斎藤実。

 第一次西園寺内閣は、内部に長閥山縣系(逓相山縣伊一郎)、薩閥(文相牧野伸顕)、また貴族院の最大派閥・研究会(法相千家尊福)をふくむ弱体内閣であったが、これを補ってあまりあったのが内相・原敬の辣腕であった。彼の下で「新進有為」の若手官僚の政党編入と、地方行政機構の政党化が進んでいくのである。

 原内相はまず、内務省に巣喰う山縣系の大浦兼武の派閥を全排除して省内統制を確立する一方、非藩閥の帝大官僚たちを起用していった。当時の官僚たちのなかで著名なのが、若槻礼次郎濱口雄幸などであり、そのうちでも原に注目され、彼と共に権力の階梯を上っていったのが床次竹二郎、また水野錬太郎などにあたる。かれらは官僚機構の中で栄進したのち、揃って政友会に入党している。

 また、原は各府県知事の任命権を持つ内相の地位を活用して「老朽淘汰、新進登用」を行っていった。しかしその人事刷新が党派的な意味合いを持たないはずがない。彼が「新進」と認めたのは「親政友新進官僚」に限られた。反政友知事はこの美名の下に排除され、川島純幹など親政友知事が次々と誕生してきた。このようにして原は政友会の党勢を一挙に拡大していった。

 しかし、反政友知事とは取りも直さず山縣系知事のことにほかならない。原は山縣系知事を放逐することによって、山縣閥に対して未曾有の挑戦を行ったのである。山縣有朋はこれに強い不快感を示した。彼は官僚(なかでも内務省)、枢密院、軍部など多岐に渡り複雑をきわめる派閥網を駆使して、公然と西園寺内閣倒閣のために動き出し、また西園寺と桂の間の締盟も破れざるをえなかった。

 こうして第一次西園寺内閣は倒壊するに至ったのだが、内閣は倒れたが、この政権において政友会が得たものはまことに大きかった。まず、地方の政党化の端緒を掴んだこと。中央の新進官僚たちに、これからの立身のためには長閥よりむしろ政党と結んだ方が得策だということを示し得たこと。最後に、山縣閥の現在の勢力についての認識を深め得たこと、である。これをきっかけとしていよいよ政友会は勢力を展開していったのである。

 2月、片山潜らにより日本社会党結成される。


 2月、伊藤博文が、日露戦争後大使として韓国に赴き、韓国統監府が開庁して初代韓国統監に就任。伊藤は、韓国の保護国化を推進した。


 3月、島崎藤村が、代表作となった破戒を自費出版した。被差別部落出身の小学校教員、瀬川丑松が父の戒めを破り、自らの出自を告白する苦悩を描いた小説である。藤村はこの作品で作家としての地位を確立した。但し、小説に於ける丑松の態度が卑屈として批判を受け、藤村は自ら絶版にして後に改訂版を出した経緯がある。初版に戻ったのは藤村没後の戦後からである。


 11.26日、日露戦争でロシアから獲得した南満州鉄道の経営に当たる会社として南満州鉄道が国策会社として設立された。初代総裁に後藤新平が就任した。翌1907年、調査部を設置し、政局に大きな影響を与えていくことになった。

 同日、児玉源太郎に強く推挙され、後藤新平が台湾民政長官に就任。


 11月、陸軍大臣・寺内正毅が陸軍大将。1907年、子爵。


 1906年(明治39年)、「医師法」制定。第8条:「医師は医師会を設立することを得、医師会に関する規程は内務大臣之を定む」。各府県に医師会が相次いで誕生。


 大杉栄ら、日本エスペラント協会設立。
 岡倉天心『茶の本』。

1907(明治40)年の動き

 ハーグ密使事件を利用して韓国皇帝を譲位させ、第3次日韓協約を結んだ。これにより韓国の内政権を掌握した。


 1907(明治40)年、日本政府は日仏協約(にちふつきょうやく)をパリにおいて締結した。これによってフランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを約束した。国際協調の為にベトナム人留学生弾圧に転じた。

 1907年(明治40年)、「帝国国防方針」策定。同時に精神主義・精神教育の徹底に向かう

 陸軍は日露講和を「やや長期なる休戦」と考えて再度の日露戦争を
想定し、海軍は満洲をめぐる対立からアメリカを仮想敵国とした大建艦計画 をたてていた。これに基づいて1907年、初めて策定されたのが「帝国国防方針」です。そこでは「一旦有事の日に当たりては、島帝国内において作戦するがごとき国防を取るを許さず、必ずや海外において攻勢を取るに在らざれば我が国防を全うする能わず」として、それまでの防衛型の守備方針から外征型の前方進出方針へと転換した。そして、「将来の敵と想定すべ きものは露国を第一とし、米、独、仏の諸国これに次ぐ」と仮想敵国を明示した。つまり、日露戦勝によって「第一等国」となったということは、世界最強の国家にも匹敵できる軍備を備えることと考えられた。

 
軍備の拡張とともに政府が留意したのは、次なる戦争を遂行していくための国民をいかに形成していくかという問題でした。その国民形成のためには現行の教育体制では「道徳および国民教育の基礎 を作り、国民の生活に必要なる普通教育の知識・技能を得せしめんこと頗る困難」として、1908年から義務教育年限を4年から6年に延長したが、この体制は1947年に義務教育9年制になるまで続く。

 また、日露戦争中の 1904年4月から小学校教科書は、文部省が著作権をもつ国定教科書になり、忠君愛国や滅私奉公を軸とした臣民の育成が図られました。さらに、日露戦争から得た戦訓として、いかに軍備の拡張を図るにしても日本の国力では消耗戦に耐えられない以上、これを精神力で補うしかないという方針が採られる。

 1908年の『軍隊内務書改正理由書』には、「未来の戦闘においても吾人は、とうてい敵に対して優勢の兵力を向くること能わざるべし。兵器、器具、材料また常に敵に比して精鋭を期すること能わず。吾 人はいずれの戦場においても寡少の兵力と劣等の兵器とをもって無理押しに戦捷の光栄を獲得せざるべからず。これを吾人平素の覚悟とするにおいて、精神教育の必要なること一層の深大を加えたること明らかなり」とあるように、精神教育によって「物質的威力を凌駕する」という日本軍隊の特徴がうまれてきた。この精袖教育が、1882年の『軍人勅論』で強調された「死は鴻毛(鴻の羽毛、きわめて軽いことのたとえ)よりも軽しと覚悟せよ」という天皇の命令と接合して、兵士は「一銭五厘」の郵便料金の召集令状( 赤紙)でいくらでも召集できるという使い捨ての思想となるとともに、軍隊
内での私的制裁が日常化し、さらには捕虜などに対するビンタ(平手打ち)などの虐待をうむ土壌となった。こうして、日露戦争で砲弾の補給不足に悩んだ陸軍は、火力が補充できない場合においても刀、銃剣などによって敵を斬り、突き刺して戦う白兵戦を重視する方針をとるようになった。
 (山室信一氏著『日露戦争の世紀』岩波新書、pp.212-213)

【軍事費比率が国家予算の31%に達す】
 明治40年(1907年)の国家予算は6億3500万円で、そのうち陸軍関係は1億1100万円、海軍関係は8200万円で、軍事費比率は31%に達していた。明治40年代からは、日本の軍事費比率はつねに30%以上になった。
 (保阪正康氏著『昭和陸軍の研究<上>』より引用)

・ワッセルマンが梅毒の血清反応による診断法(ワッセルマン反応)を確立。


1908(明治41)年の動き

【第13代、第二次桂内閣】
第13代:第二次桂太郎内閣(任:1908.7-1911.8)
 西園寺の提携時代、つまり桂園時代において元老会議は開催されない。すでに元老たちは老齢で自ら内閣を主催するの意志無く、衆目は一致して元山縣子飼いの政治達者と政友会総裁の公卿政治家を推していた。

 7.4日、西園寺は辞表を捧呈して後継内閣首班に桂を奏薦し、明治天皇は朝鮮駐在の伊藤博文に下問した他は意見をとくに求めなかった。7.12日、桂に大命が降下した。7.14日、組閣完了。

 7.14日、13代目となる第二次桂内閣が組閣され、親任式が執り行われた。(1908.7.14~1911.8.30)。桂―寺内。陸軍大臣・寺内正毅、海軍大臣・斎藤実。

 この内閣成立後の議会において問題となったのは地租軽減、管理増俸問題である。ここで議会操縦に難航を感じた桂首相は、第一次内閣の時と同様な政友会の友好を求めようとした。そこで桂が出した提案が、情意投合といわれる妥協締盟策である。

 原によれば、この情意投合は、「桂は今回限りにて再び内閣には立たざる事、彼の退任は条約改正結了後なる事、其の退任に際しては政友会に譲ること」であった。原は、最後まで桂が「政友会に譲る」と言い続け、「総裁西園寺に譲る」と言わなかったことに疑惑を感じているが、ここではそれほど注目しなくていいだろう。政友会、政府の間では調整が済んだ。ここに政友会と政府は一体化し、桂園時代はその極みを迎えた。

【韓国併合の動き】
 一方で明治政府の宿願であった韓国併合が進みつつある。伊藤博文が韓国統監を辞し、後任となったのは曾禰荒助であったが、曾禰は韓国首相李完用と結んで専横暴慢ははなはだしかった。

 赤旗事件


 この年、イギリスが海軍全艦の動力源を石炭から石油に切り替えた。ドイツに対抗するためで、原油資源のないイギリスにとっては大きな賭けだった。これ以来イギリスは中東からの石油の安定供給のため、地中海に海軍を配備した。・・・中東ではヨーロッパやアメリカの外交官が、石油をもっと入手しやすくするため一部の国境を変更した。こうした国境改定がとくに盛んだった時期に、フランスのある外交官は、いみじくもこう発言した。「石油を制する者、世界を制す」。
 (ポール・ロバーツ『石油の終焉』久保恵美子訳、光文社、pp.68-69)

1909(明治42)年の動き

【伊藤博文射殺される】
 6月、伊藤は、韓国統監を辞し、四度目の枢密院議長となった。
 10.26日、韓国民族運動の矢面に立たされた伊藤は、満州視察と日露関係調整のため渡満した折、ハルピン駅頭で韓国の反日主義者にして民族運動家/安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。

 暗殺の報道は暗号電報を受けた五十嵐秀助電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼は直ちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれといっていた」と云う。


 11.4日、日比谷公園で国葬が営まれた。埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、1959(昭和34)年、近隣の束荷神社境内に遷座した。

【朝鮮王高宗の当時のコメント】
 朝鮮王高宗の当時のコメントは次の通り。
 伊藤を失ったことで、東洋の偉人がいなくなった。伊藤は我が国に忠実と正義の精神で尽してくれた。自分の骨を長臼山に埋める覚悟で、韓国の文明発達に尽すと言っていた。日本に政治家はたくさんいるだろう。しかし、伊藤のように国際政治を理解し、東洋の平和を祈った者はいない。本当に伊藤は韓国の慈父だった。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事を理解できない流浪人だろう。伊藤を失ったことは、我が国だけの不幸ではない。日本だけの不幸ではない。東洋の不幸である。その暴徒が韓国人であることは、『恥ずかしさの極限』である。

【伊藤博文暗殺事件の闇考】
 「ウィキペディア伊藤博文」の「暗殺」の項を参照する。
 伊藤は、亡くなる1か月前に高杉晋作の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる碑文を寄せている。また、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている。

 明治42年(1909年)10月26日、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根によって射殺された。この時伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉だったという。

 暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。具体的に挙げると、当時伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなくフランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、初めて狙撃者あることを知り(中略)、狙撃当時の模様は是以外に知らず」、このように証言した。

 また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日直ちに駐日大使に宛てて電報を次のように打っている。「... 陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという ...」(В.Н. Коковцов - Н.А.Малевский-Малевичу 13 октября 1909 г. // АВПРИ, Ф. 150, Оп. 493, Д. 171, Л. 175)。

(私論.私見) 【安重根考】
 安重根は暗殺後直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安重根らを旅順の関東都督府地方法院に移し日本式裁判に付している。次の十五ヶ条を伊藤博文暗殺の理由としてあげている。 1、朝鮮王妃の殺害。2、韓国保護条約五ヶ条。3、日韓新協約七ヶ条。4、韓国皇帝の廃立。5、陸軍の解散。6、良民殺戮。7、利権剥奪。8、教科書廃棄。9、新聞購読禁止。10、銀行券の発行。11、三百万円国債の募集。12、東洋平和の攪乱。13、保護政策の名実伴わざること。14、日本先帝孝明天皇を殺害したること。15、日本及び世界を瞞着したること。1910(明治43).2.14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。

 19世紀末、日本帝国主義は「援助」の名の元に朝鮮に軍隊を派遣し、半ば脅迫的な手段で政府から主権を奪った。閣僚内部にいた売国奴たちの後ろ盾もあって朝鮮は屈辱的な「日韓合弁」と「乙巳保護条約」を締結。条約締結後、失望の余り人々の間には自らの命を絶ったり、国を捨てたりする者も現れるが、一方では義勇団を結成して抗日戦に身を投じる者も多かった。しかしそんなゲリラ戦は日本軍の一層の弾圧を引き起こすことになり、徐々に亡国の運命を決定づけられていく。様々な戦いを経て安重根はやがて「朝鮮侵略の元凶」伊藤を暗殺することが民族を救う唯一の手段であると考えるようになり、実行に移すべく家を後にした。ロシア財務部長ココフツィェフと会談するため伊藤がハルピンを訪れるという知らせを聞き付けた安重根は、ハルピン駅で伊藤を暗殺し「独立万歳」を叫ぶ。安重根は、日本の新聞では「不逞鮮人」として極悪非道がなじられたが、朝鮮では南北を問わず愛国青年として最大級のヒーローとなった。

 鬼塚英昭氏の「20世紀のファウスト」は次のように記している。
 安にはユダヤ勢力の影がちらつく。安に最後まで付き添っていたのはフランス人の神父のヴィへレムであった。一説に、アメリカの奉天総領事のストレートが暗殺を指示した、との説がある。どうして伊藤は殺されたのか? 彼はロシア帝国大蔵大臣のココフツェーフとハルピンで会談する予定になっていた。以東は日露同盟を結ぶ事を考えていた。アメリカとユダヤ資本は、この同盟を抹殺しようとしたのである。

 2009.10.26日、韓国が、「10.26日」を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。 

 新聞紙法を制定し、1897年の新聞紙条例改正で廃止になった制限規定が事実上の復活。


 これより以降は、「明治維新史(2―5)(その後の政局、明治天皇崩御まで)」の項に記す。






(私論.私見)