明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)

 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/榮和5).4.13日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 西南の役で西郷が舞台から去り、その後を継いだ大久保も半年後暗殺される。こうして明治維新の前章は終わる。後半の舞台に登場するのは伊藤博文主役、山縣有朋、井上馨を脇役とする長州系新官僚達である。この系譜が後々の歴史を創って行ったが、明治維新が持っていた豊饒さをかなりに貧相なものにした、時代が下がるに連れますます矮小になっていった、と観るのがれんだいこ史観である。歴年とは不条理ながらそういうものかも知れない。

 権力当局側のそうした動きに対して、自由民権運動、幕末新宗教運動が併走していくことになる。この時、史上のそれまでの百姓・町人一揆、幕末回天運動がどのように矮小に変質させられていったのか、はたまた内向していったのか、窒息していったのか、この観点からの考察が為されているように思えない。プレマルクス主義期の動きであるが、ここを明らかにしないと戦前左派運動の流れが掴みきれないのではなかろうか。

 2004.7.23日再編集 れんだいこ拝


 これより以前は、「明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)
1878(明治11)年の動き

【大久保参議の概要履歴】
 明治政府が成立した1868(慶応3).12月に参与、1869(明治2).7月参議となった。新政府は、出身、利害、考えを異にする雑多な集団の脆弱な連合に過ぎなかった。薩摩藩の指導者として新政府の中枢に入った利通は、列強に対抗できる強力な集権体制の樹立に全力を傾注した。東京奠都(てんと)、版籍奉還、廃藩置県等の改革を成功させ、1871(明治4).6月大蔵卿となり内政確立をめざす。11月には岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学んだ。特にドイツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれる。

 1873年(明治6)年の外遊を終えての帰国以来、内治優先を唱え、征韓論問題に揺れる西郷と決裂した。大久保はことごとく西郷路線と対立し、あたかも最大の政敵を見るかの如くに対応する。西郷ら征韓派参議の辞職後は内務卿を兼ね政府の中心となり、新政府の官僚制度基盤造りに腐心する。自由民権運動、士族の叛乱、百姓一揆の続くなかで専制的な支配を強めながら、1874(明治7)年の佐賀の乱から同1877(明治10)年の西南戦争に至る事件処置に挺身する。西南の役を終えた今、薩摩藩時代の盟友西郷と同床異夢的行脚を続けてきた大久保は、西郷亡き後の孤高の権力者となった。

 大久保政治特質は、ひたすら産業化を推進する殖産興業政策にあった。産業化(特に後進国における)の初期段階では、政府の指導が不可欠であることを確信した利通は、その条件整備に専念し、そのためにも効率的集権体制の整備に努め、また政府の財政基盤を固めるため地租改正や秩禄処分を断行した。

 同時に利通は、民衆の自発的努力なしには産業化の成功がありえないことを理解しており、教育の普及と地方制度の整備に努めた。民主制を長期的目標とし、しかし当分は「君民共治」が現実的だというのが利通の判断であった。

 大久保は征韓論には強く反対したが、その他方で1874(明治7)年には台湾出兵を断交している。

 こうした足跡を留める大久保には冷徹なイメージが付き纏っており、情の西郷と対比的な理知の人いうイメージが強い。そうした大久保の人となりを知る上で、囲碁を趣味としていたことが興味深い。大久保は、島津久光に接近するため久光の好きな囲碁を習い始めたといわれるが、その結果大久保の囲碁の腕前が久光に認められることになり、大久保の日記にも囲碁に関する記述がよくみられる。碁の相手に伊藤博文・五代友厚・黒田清隆・松方正義等多くの名前が書かれている。こうしたことから、昭和43年日本棋院から、名誉7段の免状が与えられた。

【大久保参議時代】

【大久保参議暗殺される】
 1878(明治11).5.14日、西南の役から8ヵ月後、大久保参議も不平士族のうらみをかって暗殺された(享年49歳)。この日、宮中で催される陸海軍将校の勲章授与式に馬車で向かう途中、待ち伏せていた石川県士族の島田一郎ら6名に赤坂の紀尾伊坂で暗殺された。

 没後、大久保は、初め右大臣正二位を贈られ、のち従一位を追贈、神道碑を賜わる。墓は東京都港区青山墓地にある。後年、松平春嶽(旧福井藩主)は自著「逸事史補」にて「古今未曾有の英雄と申すべし。威望凛々霧の如く、徳望は自然に備えたり(中略)、力量に至っては世界第一と申す可し」と賞賛している。17年、嗣子利和に侯爵を授けられた。

 「大久保の暗殺後その遺産を調べたところ、生前参議、大蔵大輔などの要職を歴任していながら、その遺産はほとんどなく、代わりに借金が八千円以上もあったという。当時の政府の財政は逼迫しており、大久保は財源を補うために、自ら金を借りてつぎ込んでいたのである」とある。西郷隆盛に比べてとかく印象の悪い大久保利通ではあるが、大久保の裏面であろう。
(私論.私見) 大久保暗殺の背後事情
 太田龍・氏の「長州の天皇征伐」は、大久保暗殺の背後事情について次のように記している。
 「なお、この大久保暗殺について、異色の炯眼歴史家・鹿島昇によれば、木戸孝允の意を受けた伊藤博文が大久保暗殺計画の情報を知りながら、意図的に警察当局による大久保警護体制をゆるめ、あえて、島田一郎らに大久保を暗殺せしめた。つまり、大久保暗殺の真犯人は、木戸、伊藤博文である、とする」(「明治維新の生贄−誰が孝明天皇を殺したか<長州忍者外伝>」)。

 「木戸孝允の意を受けた伊藤博文」とするのは如何かと思うが、確かにこう読めば、その後の伊藤博文の登場過程が見えてくる。貴重な指摘だと思う。

 2007.3.22日 れんだいこ拝

【伊藤博文派の登場】
 既に木戸も西南の役の最中で病死しており、大久保の死で、西郷、木戸、大久保が指導した「巨人たちの時代」が終わった。同時に、薩摩藩は、西郷、大久保の両巨頭を失い、長州藩が新政府の実権を握ることになった。大久保の後を継いだのは、長州「諸隊」のひとつを組織した実務家、伊藤博文ラインであった。幕末史を見るのに西郷や坂本竜馬の動きから見ればよく分かるとすれば、西南の役後の維新の流れは伊藤博文ー井上馨ー山県有朋らの長州派がこの地位に立つ。

 伊藤は松下村塾に学んでおり、その意味では松陰門下と云える。だが、吉田松陰が残している人物評価は低く、伊藤自身も松陰を師として挙げない。伊藤の志からは松陰門下の気風は伺えない。しかし、実務処理の能力は高く、その後の官僚制度はよきにせよ悪しきにせよ伊藤及びその系列派の手腕によるところが大きい。

 伊藤のここまでの履歴は次の通りである。明治維新後、微士・参与として新政府に出仕し、外国事務局判事、大阪府判事を経て兵庫県知事となり、その折封建制度廃止反対派に狙われ、同2.4月、辞職して東上する。1869(明治2).7月
、大蔵少輔、翌3年、民部少輔兼任、同年10月、財政幣制調査のため渡米、帰国後租税頭兼造幣頭・工部少輔となった。1871(明治4).11月、岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を巡歴し、同6年9月帰国。帰国後大久保利通らと共に内治優先を説き、西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対。1873(明治6).10月、西郷らが政府を退いた後、参議兼工部卿となり、地方長官会議議長や法制局長官をも務め、大隈重信と共に大久保を援けた。

 山県のここまでの履歴は次の通りである。1838(天保9)年、長州藩に生まれる。少壮にして藩医の命を承け国事に奔走する。戊辰戦争に功を立て、ロシア、フランスに赴く。明治5年、陸軍大輔、中将、近衛都督となり、翌年陸軍卿となる。西南戦争では参議兼参謀本部長となり、この時西郷以下薩摩将校が粛清された結果、長州閥が陸軍の支配権を固め、その第一人者の地位に就く。以後、「長の陸軍」として山県の陸軍支配が不動のものとなる。

 山県派は、監軍中将・山県、陸軍大臣中将・大山巌、陸軍次官少将・桂太郎、近衛歩兵第二旅団長・川上操六らで、外征軍備に道を開いていった。日本軍隊の外征軍備化に反対したのは、農商務大臣・谷干城、元元老院議官中将・島尾小弥太、東京鎮台司令官中将・三浦梧楼、参謀本部次長少将・曽我祐準、近衛歩兵第一旅団長少将・堀江芳介らで、山県派と対決したが、抗争に破れ左遷されていく。

 8月、逮捕されていた陸奥宗光が、士族から除籍され、禁固5年の判決を受けた。
【竹橋事件】
 明治11.8.23日、近衛兵卒三添卯之助らを首謀者とする近衛砲兵大隊のほぼ全員にあたる215名が、竹橋兵舎を脱出し、強訴のため皇居に向おうとした。西南の役後、山県派による「長の陸軍」化の動きに反発したいわゆる兵士暴動であり、旧士族の反乱とは性質の異なる軍隊反乱となった。背景には政治に関心を持つフランス式軍隊訓練の影響が認められ、自由民権運動の影響が認められた。

 事件は、決起直前に前島密の知るところとなり、山県、伊藤らが警察隊を指揮し鎮圧した。即日、事件の首謀者・大隊長の宇都宮茂敏少佐ほか将校2名が殺害され、参加者の大半も捕縛された。同年、陸軍裁判所より判決が下り、他の隊参加者も加えた合計263名に対し死刑53名、流刑118名の厳罰となり、即日執行された。

 事件後、山県は、忠実、勇敢、服従を軍人精神の三大元行(げんこう)とする「軍人訓戒」を定め、軍人の政治論議を禁じ、軍隊の天皇直属意識の培養に務めていくことになった。軍政、軍令、軍律全てにわたる軍制「改革」が為され、陸軍兵制はフランス式からドイツ(プロシア)式に改められていくことになった。同12月、「参謀本部条例」が制定された。明治15年の「軍人勅諭」(陸海軍人に賜りたる勅諭)に向う。

【府県会の設置】
 大阪会議での木戸案に則り、府県会が設置された。これにより、地方の経費に関して府県会の決議を経なければ、知事・県令の職権のみではこれを徴収できないこととなった。府県会の設置は、自由民権運動を刺激し、はずみをつけた。

【板垣が再び野に下り、愛国公党運動に乗り出す】
 板垣は再び官を辞し、立志社を鼓舞して愛国公党再興への檄を飛ばし始めた。9月、大阪で愛国社大会を開いた。河野広中が呼応して、仙台で七州有志大会を開いた。

 「演説取締令」が発布され、演説集会の検束が始まった。
1879(明治12)年の動き

【「国会開設の請願を決議」】
 愛国社第2回大会が大阪で開催され、四国、九州、関東の各団体が参集して国会開設の請願を決議した。以降、各地で遊説活動を押し進めることになった。

 この頃、栃木新聞(第二次)の編集長になった田中正造は、「国会ヲ開設スルハ目下ノ急務」を執筆し、紙上掲載している。一行二十四字、百十四行という長文の原稿は前段でアジア情勢などに触れ、後段で「人民に国政に参加する機会を与え、身分の上下を問わず心を一つにすれば外敵もすきをうかがうことはできない」と結んでいた。 「この論説こそ、本県人が初めて県下に国会開設を呼び掛けたものだった」とある。(「田中正造物語「言論弾圧と新聞人」 経営とのはざまで格闘/初の発行停止処分下る (2008/04/17)」参照)

1880(明治13)年の動き

【「国会開設請願書を政府に提出し却下される」】
 3月、大阪の96団体の総代が、請願人約9万人の委員として国会開設の請願書を携えて上京した。却下されたが世論に与えた影響は大きかった。

【集会条例】
 1880(明治13).4月、集会条例が公布された。自由民権運動の進展に伴い、これを規制するための条例で、1990.7月に「集会および政社法」に代った。その条文は次の通り。
 第一条 政治に関する事項を講談論議する為め公衆を集むる者は、開会三日前に、講談論議の事項、講談論議する人の姓名・住所、会同の場所・年月日を詳記し、其会主又は会長・幹事等より管轄警察署に届出で其認可を受くべし。

 第二条 政治に関する事項を講談論議する為め結社する者は、結社前、其社名・社則・会場及び社員名簿を管轄警察署に届出で其認可を受くべし。其社則を改正し及び社員の出入ありたるときも同様たるべし。此届出を為すに当り警察署より尋問することあれば、社中の事は何事たりとも之に答弁すべし。

 第三条 講談論議の事項、講談論議する人員・会場及び会日の定規ある者は、其定規を初会の三日前に警察署に届出、認可を受くるときは、爾後の例会は届出に及ばずと雖も、之を変更するときは第一条の手続を為すべし。

 第四条 管轄警察署は、第一条・第二条・第三条の届出でに於て国安に妨害ありと認むるときは、之を認可せざるべし。

 第五条 警察署よりは正服を着したる警察官を会場に派遣し、其認可の証を検査し、会場を監視せしむることあるべし。

 第六条 派出の警察官は、認可の証を開示せざるとき、講談論議の届書に掲げざる事項に亘(ワタ)るとき、又は人を罪戻(ザイレイ)に教唆誘導するの意を含み又は公衆の安寧に妨害ありと認むるとき、及び集会に臨むを得ざる者に退去を命じて之に従はざるときは、全会を解散せしむべし。

 第七条 政治に関する事項を講談論議する集会に、陸海軍人常備・予備・後備の名籍に在る者、警察官、官立・公立・私立学校の教員・生徒、農業・工芸の見習生は、之に臨会し又は其社に加入することを得ず。

 第八条 政治に関する事項を講談論議する為め、其旨趣を広告し、又は委員若くは文書を発して公衆を誘導し、又は他の社と連結し及び通信往復することを得ず。

 第九条 政治に関する事項を講談論議する為め、屋外に於て公衆の集会を催すことを得ず。

 第十条 第一条の認可を受けずして集会を催すもの、会主は二円以上二十円以下の罰金若くは十一日以上三月以下の禁獄に処し、其会席を貸したる者並に会長・幹事及び其講談論議者は各二円以上二十円以下の罰金に処し、第三条の規程を犯したる者も亦本条に依る。

(付) 明治十三年集会条例改正追加  明治十三年〈四月〉第十二号布告集会条例左の通改正追加し、同年〈十二月〉第五十六号布告を廃止す。
 第二条 政治に関する事項を講談論議する為め結社<何等の名義を以てするも、其実政治に関する事項を講談論議する為め結合するものを併称す>する者は、結社前、其社名・社則・会場及び社員名簿を管轄警察署に届出で其認可を受くべし。其社則を改正し及び社員の出入ありたるときも同様たるべし。此届出を為すに当り、警察署より尋問することあれば、社中の事は何事たりとも之に答弁すべし。 前項の結社及其他の結社に於て、政治に関する事項を講談論議する為めに集会を為さんとするときは、仍ほ第一条の手続を為すべし。

 第四条 管轄警察署は、第一条・第二条・第三条の届出に於て、治安に妨害ありと認むるときは之を認可せず、又は認可するの後と雖も之を取消すことあるべし。

 第五条 二項
 警察官会場に入るときは其求むる所の席を供し、且其尋問あるときは結社集会に関する事は何事たりとも之に答弁すべし。

 第六条 二項
 前項の場合に於て解散を命じたるとき、地方長官〈東京は警視長官〉は其情状に依り演説者に対し一個年以内管轄内に於て公然政治を講談論議するを禁止し、其結社に係るものは仍ほ之を解社せしむることを得。内務卿は其情状に依り更に其演説者に対し一個年以内全国内に於て公然政治を講談論議するを禁止することを得。

 第八条 政治に関する事項を講談論議する為め、其旨趣を広告し、又は委員若くは文書を発して公衆を誘導し、又は支社を置き若くは他の社と連結通信することを得ず。

 第十一条 第二条第一項の規程に背きて届出を為さず、又は尋問する所の事項を開答せざるとき、社長は弐円以上弐拾円以下の罰金に処し、詐欺の届出を為し或は尋問を得て偽答するとき、社長は右罰金の外、尚ほ十一日以上三月以下の軽禁錮に処す。

 第十二条 第五条の規程に背き、派出警察官の臨席を肯ぜず又は其求むる所の席を供せざるとき、会主・会長及社長・幹事は各五円以上五拾円以下の罰金若くは一月以上一年以下の軽禁錮に処し、警察官の尋問に答へず又は偽答する者は同罪に処す。再犯に当る者は拾円以上百円以下の罰金若くは二月以上二年以下の軽禁錮に処す。

 第十六条 学術会其他何等の名義を以てするに拘はらず多衆集会する者、警察官に於て治安を保持するに必要なりと認むるときは、之に監臨することを得。若し其監臨を肯ぜざるときは、第十二条に依て処分す。学術会にして政治に関する事項を講談論議することあるときは、第十条に依て処分す。

 第十七条 前条の場合に於て治安を妨害すと認むるときは、第六条に依て処分す。

 第十八条 凡そ結社若くは集会する者、内務卿に於て治安に妨害ありと認むるときは、之を禁止することを得。若し禁止の命に従はず又は仍ほ秘密に結社若くは集会する者は、拾円以上百円以下の罰金若くは二月以上二年以下の軽禁錮に処す。 〈法令全書〉

 国会開設運動を弾圧。

【この頃の言論統制】
 集会条例は言論・集会の自由を奪い、当時の言論人はこれに反発した。同年秋、条例を批判した栃木新聞編集人の田代為信(たしろためのぶ)は禁獄2カ月・罰金60円、幹事の小室重弘(こむろしげひろ)は禁獄50日・罰金50円を命じられている。栃木新聞は、翌1881(明治14).2月、急進的な論説などが「風俗壊乱」に触れ13日間に及ぶ初の発行停止処分を受けた。11.9日付の論説は藩閥政治を批判して「(薩長土肥の)一、二地方人の政府と法律は守らなくてもよい」とまで言い切り、またも発行停止となる。仮編集人だった佐伯正門(さえきまさかど)は禁獄358日を言い渡された。だが12.1日付の論説はこう記す。「何ソ厳罸(ばつ)ヲ顧ミルニ遑(こう)アラン」(どうして厳罰を気にかける暇があるだろうか)。書いたのはたぶん正造だろう。不屈の記者魂というべきか、とある。(「田中正造物語「言論弾圧と新聞人」 経営とのはざまで格闘/初の発行停止処分下る (2008/04/17)」参照)

 この時代、言論への弾圧は厳しさを増した。全国の集計によると、新聞の発行禁止・停止処分は、1979年に23件、1980年に38件、1981年には98件に上った。こうした急増は自由民権の高まりと軌を一にしていた。

 星亨が帰国し、国内で司法省付属代言人(弁護士)の第1号となって活躍することになる。外国関係の訴訟だけを手掛け、数年で巨額の富を築く。これを自由党に注ぎ込んで政界に登場することになる。
1881(明治14)年の動き

【「明治十四年の政変」】
 この頃、立憲君主制の形を廻ってドイツ派と英国派が対立し始めた。大隈らは議会多数派による英国式信任統治を唱え、ドイツを範とする伊藤や山県らドイツ派は、「為政者は議会から超然とした存在であるべき」として対立した。これを「超然主義」と云う。この間、板垣は参議兼内務卿となり、明治政府の開明派として改革を進めた。漸進的な国会開設論を唱え、大隈重信の早期国会開設とイギリス型政党政治実現の意見に反対し、「明治14年政変」の原因を作った。

 伊藤博文、井上薫、大熊重信のトリオは、大熊重信が勝手に話し合いナシで提出した意見書などの、協調性無視の出しぬきが原因となり、崩壊した。民権運動がうるさくなったのは、当時、財政を担当していた大隈の責任にあるとして、大隈の追放が計画された。

 その後大隈は、政府の「北海道官有物払下げ不正」を新聞に流して、政府を追放された。「北海道官有物払下げ不正」とは、明治4年来の黒田清隆を開拓長官とする官制北海道開拓事業に総額1千4百万円以上注ぎ込んだものを約30万円しかも30ヵ年無利息年賦払いで財閥に払い下げるというものであった。この告発で、大隈色が強かった者は全て罷免され、ほぼ完璧な「薩長中心の藩閥政権」が確立された。これを「明治十四年の政変」という。これが明治政府の第二次分裂となる。

【「国会開設勅諭」】
 民間による国会開設気運の活発な動きは、明治政府にとって危機となった。国家の基本ともいうべき憲法起草の指導的立場を民権派に奪われることは、政府の瓦解を意味する。そこで、1881(明治14).10.11日、政府御前会議において、1・開拓使官有物払下げの取消を決定し、2・立憲政体に関する方針を決め、翌日、「十年後に国会開催を約束する」詔書を発表した(「国会開設勅諭」)。この民権派の目標を一挙に先取りした政府の作戦に、人々は唖然とした。

 1881(明治14)年、大久保亡きあと、伊藤博文、井上薫、大熊重信のトリオによって、国会開設を条件に、福沢諭吉に「政府」機関紙の発行を承諾させた。民間最大の言論人を取りこもうとする戦術であった。

 6月、秋田の柴田浅五郎らが、前年1880年(明治13年)の東京での国会期成同盟に出席。東日本の有志と政府転覆を計画したもの。この計画をうけた一部の急進派が、捕縛される事により発覚(「秋田事件」)。

【「自由党」、「立憲改進党」結成】
 国会期成同盟会は、「国会開設勅諭」が出されたことで目的を達成したとして解散した。10.15日、板垣は、「明治十四年の政変」の後再び立志社に戻り、自由民権運動の力を結集した全国組織として「自由党」を結成する。これが日本最初の本格的な政党となった。板垣は自由党総裁となる。板垣は、「大隈とは別な道」で「薩長独裁」を非難し、政府を追い詰め、国会開設を迫るという道を選択した。この自由党が、明治から昭和にかけて、いく度か離合集散を繰り返し、その名を替えながら、戦後の保守政党に受け継がれている。

 自由党の綱領は次の通り。
 我が党は、自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし。
 我が党は、善美なる立憲政体を確立することに尽力すべし。
 我が党は、日本国に於いて我が党と主義を共にし目的を同じくする者と一致協合して以て我が党の目的を達すべし。

 大隈も大隈で、翌1882.3月、「立憲改進党」を独自に作った。立憲改進党の綱領は次の通り。
 我が党は、実に順正の手段に依りて我が政治を改良し、着実の方便を以て之を前進するあらんことを翼望す。依って約束二章を定める。
 我が党は名付けて立憲改進党と称す。
 我が党は帝国の臣民にして左の翼望を有する者を以て之を団結す。
 
 中央干渉の政略を省き、地方自治の基礎を建つる事、社会進歩に随い、選挙権を伸闊すること。

 政府も負けてはおれずこれら野党に対抗して、自由民権運動に反対している保守派勢力の結集をはかる「立憲帝政党」を創設した。福地桜痴、丸山作楽らが中心に成り吏党(御用政党)となった。以後この三党の勢力拡大合戦が繰り広げられることになる。いずれも、来るべき議会開設に向けて国政に参入する準備の動きと云える。

1882(明治15)年の動き

【軍人勅諭】
 1.4日、明治天皇が陸海軍の軍人に下賜(かし)した「軍人勅諭」が発布された。正式名称を「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」と云い、昭和二十三年六月九日に失効するまでの66年間に亘って帝国軍人の精神的バックボーンとなり、教育勅語と並ぶ国民教育の基本書となった。精神的支柱で有り続けた。山県の発案で、西周(にしあまね)が起草し、自ら訂正し、ジャーナリストの福地源一郎により平易な文体に改めた。

 冒頭、「我が国の軍隊は世世天皇の統率したまうところにぞある」と記し、更に「兵馬の大権は朕が統(す)ぶるところなれば、その大綱は朕親(みすか)らこれをとり、あえて臣下に委ぬべきものにあらず」と述べ、天皇集中制を明らかにしている。更に、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ。汝らを股肱と頼み、汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親しみととくに深かるべき」としている。天皇の私兵観を打ち出している。これは、ドイツ帝国憲法の「ドイツ帝国の軍平は平時戦時を問わずすべて皇帝の指揮に属し純一の陸軍足るべし」条文を範例にしていた。

 「帝国軍人五箇条」は次の痛り。
 1、軍人は忠節を尽くすを本文とすべし。1、軍人は礼儀を正しくすべし。1、軍人は武勇を尚(とおと)むべし。1、軍人は信義を重んずべし。1、軍人は質素を旨とすべし。

 同年、軍制改革の一つとして軍事警察を司る憲兵制度が陸軍兵科の一つとして設置された。
 「帝国軍人の憲法『軍人勅諭』」を参照する。

 原文
 我國の軍隊は、世々天皇の統率し給うところにぞある。昔神武天皇、躬づから大伴物部の兵どもを率ゐ、中國のまつろはぬものどもを討ち平げ給ひ、高御座に即かせられて、天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ。此間、世の移り換るに随ひて、兵制の沿革も亦屡なりき。古は天皇躬づから軍隊を率ゐ給ふ御制にて、時ありては、皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれど、大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世に至りて、文武の制度、皆唐國風に倣はせ給ひ、六衛府を置き、左右馬寮を建て、防人など設けられしかば、兵制は整ひたれども、打續ける昇平に狃れて、朝廷の政務も漸く文弱に流れければ、兵農おのづから二に分れ、右の徴兵はいつとなく壮兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向に武士どもの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち、凡七百年の間、武士の政治とはなりぬ。世の様の移り換りて斯なれるは、人力もて挽回すべきにあらずとはいひながら、且は我國體に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき。降りて弘化嘉永の頃より、徳川の幕府其政衰へ、剰外國の事ども起りて、其侮をも受けぬべき勢に迫りければ、朕が皇祖仁孝天皇、皇考孝明天皇、いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ。然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初、征夷大将軍其政權を返上し、大名小名其版籍を奉還し、年を經ずして海内一統の世となり、古の制度に復しぬ。是文武の忠臣良弼ありて、朕を輔翼せる功績なり、歴世祖宗の専蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへども、併我臣民の其心に順逆の理を辨へ、大義の重きを知れるが故にこそあれ。されば此時に於て兵制を更め、我國の光を耀さんと思ひ、此十五年が程に、陸海軍の制をば今の様に建定めぬ。

 夫兵馬の大權は朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親之を攬り、肯て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤く斯旨を傳へ、天子は文武の大權を掌握するの義を存して、再中世以降の如き失體なからんことを望むなり。朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ、其親は特に深かるべき。朕が國家を保護して、上天の惠に應じ、祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を盡すと盡さざるとに由るぞかし。我國の稜威振はざることあらば、汝等能く其の憂を共にせよ。我武維揚りて其榮を耀さば、朕汝等と其譽を偕にすべし。汝等皆其職を守り、朕と一心になりて、力を國家の保護に盡さば、我國の蒼生は永く太平の福を受け、我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬべし。朕斯も深く汝等軍人に望むなれば、猶訓諭すべき事こそあれ。いでや之を左に述べむ。

一、軍人は忠節を盡すを本分とすべし。凡生を我國に稟くるもの、誰かは國に報ゆるの心なかるべき。況して軍人たらん者は、此心の固からでは物の用に立ち得べしとも思はれず。軍人にして報國の心堅固ならざるは、如何程技藝に熟し學術に長ずるも、猶偶人にひとしかるべし。其隊伍も整ひ節制も正くとも、忠節を存せざる軍隊は、事に臨みて烏合の衆に同かるべし。抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れば、兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ、世論に惑はず、政治に拘らず、只々一途に己が本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ。其操を破りて不覺を取り、汚名を受くるなかれ。

一、軍人は禮儀を正しくすべし。凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで、其間に官職の階級ありて統屬するのみならず、同列同級とても停年に新舊あれば、新任の者は舊任の者に服從すべきものぞ。下級のものは、上官の命を承ること、實は直に朕が命を承る義なりと心得よ。己が隷屬する所にあらずとも、上級の者は勿論、停年の己より舊きものに對しては、總べて敬禮を盡すべし。又上級の者は下級の者に向ひ、聊も輕侮驕傲の振舞あるべからず。公務の爲に威厳を主とする時は格別なれども、其外は務めて懇に取扱ひ、慈愛を専一と心掛け、上下一致して王事に勤勞せよ。若軍人たる者にして禮儀を紊り、上を敬まはず下を惠まずして、一致の和諧を失ひたらんには、啻に軍隊の蠧毒たるのみかは、國家の爲にもゆるし難き罪人となるべし。
一、軍人は武勇を尚ぶべし。夫武勇は我國にては古よりいとも貴べる所なれば、我國の臣民たらんもの、武勇なくては叶ふまじ。況して軍人は、戰に臨み敵に當るの職なれば、片時も武勇を忘れてよかるべきか。さはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からず。軍人たらむ者は常に能く義理を辨へ、能く胆力を練り、思慮を殫して事を謀るべし。小敵たりとも侮らず、大敵たりとも懼れず、己が武職を盡さむこそ、誠の大勇にはあれ。されば武勇を尚ぶものは、常々人に接るには温和を第一とし、諸人の愛敬を得むと心掛けよ。由なき勇を好みて猛威を振ひたらば、果は世人も忌み嫌いて、豺狼などの如く思ひなむ。心すべきことにこそ。

一、軍人は信義を重んずべし。凡信義を守ること常の道にはあれど、わきて軍人は、信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるべし。信とは己が言を践行ひ、義とは己が分を盡すをいふなり。されば信義を盡さむと思はば、始より其事の成し得べきか得べからざるかを審に思考すべし。朧氣なる事を仮初に諾ひてよしなき關係を結び、後に至りて信義を立てんとすれば、進退谷りて身の措き所に苦むことあり。悔ゆとも其詮なし。始に能々事の順逆を辨へ、理非を考へ、其言は所詮践むべからずと知り、其義はとても守るべからずと悟りなば、速に止まるこそよけれ。古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り、或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守り、あたら英雄豪傑どもが禍に遭ひ身を滅し、屍の上の汚名を後世まで遺せること、其例尠からぬものを。深く警めてやはあるべき。

一、軍人は質素を旨とすべし。凡質素を旨とせざれば、文弱に流れ輕薄に趨り、驕奢華靡の風を好み、遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり、節操も武勇も其甲斐なく、世人に爪はじきせらるる迄に至りぬべし。其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり。此風一たび軍人の間に起こりては、彼の傳染病の如く蔓延し、士風も兵気も頓に衰へぬべきこと明なり。朕深く之を懼れて、曩に免黜條例を施行し、略此事を誡め置きつれど、猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねば、故に又之を訓ふるぞかし。汝等軍人ゆめ此訓誡を等閑にな思ひそ。

 右の五ヶ條は、軍人たらむもの暫も忽にすべからず。さて之を行はんには、一の誠心こそ大切なれ。抑此五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心は又五ヶ條の精神なり。心誠ならざれば、如何なる嘉言も善行も皆うはべの装飾にて、何の用にかは立つべき。心だに誠あれば、何事も成るものぞかし。況してや此五ヶ條は天地の公道、人倫の常經なり。行ひ易く守り易し。汝等軍人、能く朕が訓に遵ひて此道を守り行ひ、國に報ゆるの務を盡さば、日本國の蒼生舉りて之を悦びなん。朕一人の懌のみならんや。

 明治十五年一月四日 御名御璽

 原文 かなつき

 我が国の軍隊は、世々(よよ)天皇の統率し給うところにぞある。昔、神武天皇、躬(み)づから大伴(おほとも)、物部(もののべ)の兵(つはもの)どもを率(ひき)ゐ、中国(なかつくに)のまつろはぬものどもを討ち平(たいら)げ給い、高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて、天下(あめのした)しろしめし給いしより二千五百有余年を経ぬ。この間、世の移り換(かは)るに随(したが)いて、兵制の沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき。古(いにしへ)は天皇躬(み)づから軍隊を率ゐ給う御制にて、時ありては、皇后皇太子の代わらせ給うこともありつれど、大凡(おほよそ)兵権を臣下に委ね給うことはなかりき。中世に至りて、文武の制度、皆な唐国(からくに)風に倣(なら)わせ給い、六衛府(りくゑふ)を置き、左右馬寮(さいうめりょう)を建て、防人(さきもり)など設けられしかば、兵制は整いたれども、打ち続ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて、朝廷の政務も漸(やうや)く文弱に流れければ、兵農おのづから二(ふた)つに分れ、右の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変わり、遂に武士となり、兵馬の権は一向に武士どもの棟梁たる者に帰し、世の乱れと共に政治の大権も亦(また)その手に落ち、凡(およ)そ七百年の間、武士の政治とはなりぬ。世の様の移り換(かは)りて斯(かく)なれるは、人力(じんりき)もて挽回すべきにあらずとはいひながら、且つは我が国体に戻り、且つは我が祖宗の御制に背(そむ)き奉(たてまつ)り、あさましき次第なりき。降(くだ)りて弘化、嘉永の頃より、徳川の幕府その政(まつりごと)衰(をとろ)へ、剰(あまつさへ)外国の事ども起りて、その侮(あなどり)をも受けぬべき勢いに迫りければ、朕(ちん)が皇祖仁孝天皇、皇考(くゎうこう)孝明天皇、いたく宸襟(しんきん)を悩まし給いしこそ忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。しかるに朕幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初め、征夷大将軍その政権を返上し、大名小名その版籍を奉還し、年を經ずして海内(くゎいだい)一統の世となり、古(いにしへ)の制度に復しぬ。これ文武の忠臣良弼(りゃうひつ)ありて、朕を輔翼せる功績なり、歴世祖宗(れきせいそそう)の専ら蒼生(さうせい)を憐(あはれ)み給いし御遺澤(ごいたく)なりと云えども、しかし我が臣民のその心に順逆の理を弁(わきま)へ、大義の重きを知れるが故にこそあれ。さればこの時に於て兵制を更(あらた)め、我が国の光を耀(かがやか)さんと思い、この十五年が程に、陸海軍の制をば今の様に建て定めぬ。

 夫(そもそも)兵馬の大権は朕が統(す)ぶるところなれば、その司々(つかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ。その大綱は朕親(みずから)これを攬(と)り、肯(あへ)て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤(あつ)くこの旨を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの義を存して、再び中世以降の如き失體なからんことを望むなり。朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝らを股肱(ここう)と頼み、汝らは朕を頭首(とうしゅ)と仰ぎてぞ。その親(しん)は特に深かるべき。朕が国が家を保護して、上天(じょうてん)の惠みに応じ、祖宗の恩に報(むく)いまゐらする事を得るも得ざるも、汝ら軍人がその職を尽すと尽さざるとに由(よ)るぞかし。我が国の稜威(みいつ)振るわざることあらば、汝ら能(よ)くその憂いを共にせよ。我が武維(ぶゐ)揚(あが)りてその榮(さか)えを耀(かがやか)さば、朕汝らとその譽(ほまれ)を偕(とも)にすべし。汝ら皆なその職を守り、朕と一心になりて、力を国家の保護に尽さば、我が国の蒼生は永(なが)く太平の福を受け、我が国の威烈(いれつ)は大(だい)に世界の光華ともなりぬべし。朕かくも深く汝ら軍人に望むなれば、猶(なほ)訓諭すべき事こそあれ。いでや之(これ)を左(さ)に述べむ。

一、軍人は忠節を盡すを本分とすべし。凡そ生を我が国に稟(う)くるもの、誰かは国に報(むく)ゆるの心なかるべき。況(しか)して軍人たらん者は、この心の固(かた)からでは物の用に立ち得(う)べしとも思はれず。軍人にして報国の心堅固ならざるは、いかほど技芸に熟し学術に長(ちょう)ずるも、猶(なほ)偶人(ぐうじん)にひとしかるべし。その隊伍も整い節制も正しくとも、忠節を存せざる軍隊は、事に臨みて烏合(うごう)の衆に同じかるべし。抑(そもそも)国家を保護し国権を維持するは兵力にあれば、兵力の消長は是(これ)国運の盛衰なることを弁(わきま)へ、世論に惑わず、政治に拘(かかは)らず、只々(ただただ)一途(いっと)に己(おの)が本分の忠節を守り、義は山嶽(さんがく)よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも輕(かろ)しと覚悟せよ。その操(みさお)を破りて不覺を取り、汚名を受くるなかれ。

一、軍人は禮儀を正しくすべし。凡そ軍人には上(かみ)元帥より下(しも)一卒に至るまで、その間に官職の階級ありて統屬(とうぞく)するのみならず、同列同級とても停年に新旧あれば、新任の者は旧任(きうにん)の者に服從すべきものぞ。下級のものは、上官の命を承(うけたまは)ること、実は直(ただち)に朕が命を承(うけたまは)る義なりと心得よ。己が隷屬する所にあらずとも、上級の者は勿論、停年の己(おのれ)より舊(ふる)きものに対しては、總(す)べて敬禮を尽すべし。又上級の者は下級の者に向い、聊(いささか)も輕侮驕傲(けいぶきょうごう)の振舞いあるべからず。公務の爲に威厳を主とする時は格別なれども、その外は務めて懇(ねんごろ)に取扱い、慈愛を専一と心掛け、上下一致して王事(わうじ)に勤労せよ。もし軍人たる者にして礼儀を紊(みだ)り、上を敬(うや)まはず下を惠まずして、一致の和諧(わぎゃく)を失いたらんには、啻(ただ)に軍隊の蠧毒(とどく)たるのみかは、国家の爲にもゆるし難き罪人となるべし。
一、軍人は武勇を尚(たつと)ぶべし。夫(そもそも)武勇は我が国にては古(いにしへ)よりいとも貴(とほと)べるところなれば、我が国の臣民たらんもの、武勇なくては叶(かな)ふまじ。況(しか)して軍人は、戦(いくさ)に臨み敵に當るの職なれば、片時も武勇を忘れてよかるべきか。さはあれ武勇には大勇(たいゆう)あり小勇(しょうゆう)ありて同じからず。軍人たらむ者は常に能く義理を弁へ、能く胆力を練り、思慮を殫(つく)して事を謀(はか)るべし。小敵たりとも侮(あなど)らず、大敵たりとも懼(おそ)れず、己が武職を尽さむこそ、誠の大勇にはあれ。されば武勇を尚(たつと)ぶものは、常々人に接(ふる)るには温和を第一とし、諸人の愛敬を得むと心掛けよ。由(よし)なき勇を好みて猛威を振いたらば、果ては世人(せじん)も忌み嫌いて、豺狼(さいろう)などの如く思ひなむ。心すべきことにこそ。

一、軍人は信義を重んずべし。凡そ信義を守ること常の道にはあれど、わきて軍人は、信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難(かた)かるべし。信とは己(おの)が言を践行(ふみおこな)ひ、義とは己が分を尽すを云うなり。されば信義を盡さむと思はば、始めよりその事の成し得(う)べきか得べからざるかを審(つまびらか)に思考すべし。朧氣(おぼろげ)なる事を仮初(かりそめ)に諾(うべな)ひてよしなき關係を結び、後に至りて信義を立てんとすれば、進退谷(きはま)りて身の措(お)き所に苦しむことあり。悔(く)ゆともその詮なし。始めに能々(よくよく)事の順逆を弁へ、理非を考へ、その言は所詮践(ふ)むべからずと知り、その義はとても守るべからずと悟りなば、速(すみやか)に止(とど)まるこそよけれ。古(いにしへ)より或るいは小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り、或るいは公道の理非に践迷(ふみまよ)ひて私情の信義を守り、あたら英雄豪傑どもが禍(わざわひ)に遭(あ)ひ身を滅ぼし、屍(しかばね)の上の汚名を後世まで遺(のこ)せること、その例少なからぬものを。深く警(いまし)めてやはあるべき。

一、軍人は質素を旨とすべし。凡そ質素を旨とせざれば、文弱(ぶんじゃく)に流れ輕薄に趨(はし)り、驕奢華靡(きょうしゃかび)の風を好み、遂には貪汚(たんお)に陷りて志(こころざし)も無下(むげ)に賤しくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世人(せじん)に爪(つま)はじきせらるる迄(まで)に至りぬべし。その身生涯の不幸なりと云うも中々愚かなり。この風(ふう)一たび軍人の間に起こりては、かの傳染病の如く蔓延し、士風も兵気も頓(とみ)に衰(おとろ)へぬべきこと明らかなり。朕深く之(これ)を懼(おそ)れて、曩(さき)に免黜(めんちゅつ)條例を施行し、略(ほぼ)この事を誡め置(お)きつれど、猶(なほ)もその悪習の出(いで)んことを憂ひて心安からねば、故に又之(これ)を訓(おし)ふるぞかし。汝ら軍人ゆめこの訓誡を等閑(とうかん)にな思ひそ。

 右の五ヶ條は、軍人たらむもの暫(いささか)も忽(おろそか)にすべからず。さて之(これ)を行なわんには、一の誠心こそ大切なれ。抑(そもそも)この五ヶ條は我軍人の精神にして、一の誠心は又五ヶ條の精神なり。心誠(こころまこと)ならざれば、如何なる嘉言(かげん)も善行も皆なうはべの装飾にて、何の用にかは立つべき。心だに誠あれば、何事も成るものぞかし。況(しか)してやこの五ヶ條は天地の公道、人倫の常經(じゃうけい)なり。行い易く守り易し。汝ら軍人、能く朕が訓(おしえ)に遵(したが)いてこの道を守り行い、国に報ゆるの務めを盡さば、日本国の蒼生(さうせい)舉(あが)りて之を悦(よろこび)びなん。朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや。

 明治十五年一月四日 御名御璽(ぎょめいぎょじ≒天皇陛下の御名前)

 現代語訳

 我が国の軍隊は代々天皇が統率している。昔、神武天皇みずから大伴氏(古代の豪族)や物部氏(古代の豪族)の兵を率い、中国(当時の大和地方)に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経った。この間、世の中の有様が移り変わるのに従い、軍隊の制度の移り変わりもまた、たびたびであった。古くは天皇みずから軍隊を率いる定めがあり、時には皇后(天皇の妻)や皇太子(次の天皇になる皇子)が代わったこともあったが、およそ兵の指揮権を臣下(天皇に仕える臣)に委ねたことはなかった。中世(鎌倉、室町時代)になり、文官と武官の制度をみな支那風に倣って六衛府(左近衛、右近衛、左衛門、右衛門、左兵衛、右兵衛という軍務をつかさどる六つの役所)を置き、左右馬寮(左馬寮、右馬寮という軍馬をつかさどる二つの役所)を建て、防人(九州の壱岐、対馬などに配置された兵。外国の侵略に備える)などを設けたので軍隊の制度は整ったが、長く平和な世の中が続いたことに慣れて朝廷の政務(政治をおこなう上での様々な仕事)も武を軽んじ文を重んじるように流れていき、兵士と農民はおのずから二つに別れ、昔の徴兵制(徴集されて兵隊になること)はいつの間にか廃れて志願制(自分の意志で兵隊になること)に変わり、遂に武士を生み出し、軍隊の指揮権はすっかりその武士の頭である将軍のものになり、世の中が乱れていくのと共に政治の権力もその手に落ち、およそ七百年の間、武家(武士)の政治がおこなわれた。世の中の有様が移り変わってこのようになったのは、人の力をもって引き返せないと言いながら、一方では我が国体(国家のあり方)に背き、一方では我が祖宗(神武天皇)の掟に背く浅ましい次第であった。

 時は流れて弘化、嘉永の頃(江戸時代末期)より、徳川幕府の政治が衰え、その上、外国の事(米国をはじめとする欧米列強が通商を求めて日本を圧迫)が起こって侮辱を受けそうな事態になり、朕(天皇の自称)の皇祖(天皇の祖父)仁孝天皇、皇孝(天皇の父)孝明天皇が非常に心配されたのは勿体なくもまた畏れ多いことである。さて、朕が幼い頃に天皇の位を継承したはじめに、征夷大将軍(幕府の長)はその政権を返上し、大名、小名が領地と人民を返し、年月が経たないうちに日本はひとつに治まる世の中になり、昔の制度に立ち返った。これは文官と武官との良い補佐をする忠義の臣下があって、朕を助けてくれた功績である。歴代の天皇がひたすら人民を愛し後世に残した恩恵といえども、しかしながら我が臣民のその心に正しいことと間違っていることの道理をわきまえ、大義(天皇の国家に対する忠義)の重さを知っているからである。だから、この時において軍隊の制度を改め、我が国の光りを輝かそうと思い、この十五年の間に、陸軍と海軍の制度を今のようにつくり定めることにした。

 そもそも軍隊を指揮する大きな権力は朕が統括するところなのだから、その様々な役目を臣下に任せはするが、そのおおもとは朕みずからこれを執り、あえて臣下に委ねるべきものではない。代々の子孫に至るまで深くこの旨を伝え、天皇は政治と軍事の大きな権力を掌握するものである道理を後の世に残して、再び中世以降のような誤りがないように望むのである。朕はお前たち軍人の総大将である。だから、朕はお前たちを手足のように信頼する臣下と頼み、お前たちは朕を頭首と仰ぎ、その親しみは特に深くなることであろう。朕が、国家を保護して、天道様(おてんとう様)の恵みに応じ、代々の天皇の恩に報いることが出来るのも出来ないのも、お前たち軍人がその職務を尽くすか尽くさないかにかかっている。

 我が国の稜威(日本国の威光)が振るわないことがあれば、お前たちはよく朕とその憂いを共にしなさい。我が国の武勇が盛んになり、その誉れが輝けば、朕はお前たちとその名誉を共にするだろう。お前たちは皆その職務を守り、朕と一心になって、力を国家の保護に尽くせば、我が国の人民は永く平和の幸福を受け、我が国の優れた威光(人を従わせる威厳)は大いに世界の輝きともなるだろう。朕はこのように深くお前たち軍人に望むのであるから、なお教えさとすべきことがある。どれ、これを左に述べよう。

 一、軍人は忠節を尽くすことを義務としなければならない。およそ生を我が国に受けた者は、誰でも国に報いる心がなければならない。まして軍人ともあろう者は、この心が固くなくては物の役に立つことが出来るとは思われない。軍人でありながら国に報いる心が堅固でないのは、どれほど技や芸がうまく、学問の技術に優れていても、やはり人形に等しいだろう。その隊列(兵隊の列)も整い、規律も正しくとも、忠節を知らない軍隊は、ことに臨んだ時、烏合の衆(烏の群れのように規律も統率もない寄せ集め)と同じになるだろう。

 そもそも、国家を保護し国家の権力を維持するのは兵力にあるのだから、兵力の勢いが弱くなったり強くなったりするのはまた国家の運命が盛んになったり衰えたりすることをわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ただただ一途に軍人として自分の義務である忠節を守り、義(天皇の国家に対して尽くす道)は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい。その節操を破って、思いもしない失敗を招き、汚名を受けることがあってはならない。

 一、軍人は礼儀を正しくしなければならない。およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職(官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲)の階級があって、統制のもとに属しているばかりでなく、同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければならない。下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。自分がつき従っている上官でなくても、上級の者は勿論、軍歴が自分より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くしなさい。

 また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはならない。おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別であるけれども、そのほかは務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければならない。

 もし軍人でありながら、礼儀を守らず、上級者を敬わず、下級者に情けをかけず、お互いに心を合わせて仲良くしなかったならば、単に軍隊の害悪になるばかりでなく、国家のためにも許すことが出来ない罪人であるに違いない。

 一、軍人は武勇を重んじなければならない。そもそも、武勇は我が国においては昔から重んじたのであるから、我が国の臣民ともあろう者は、武勇の徳を備えていなければならない。まして軍人は、戦いに臨み敵にあたることが職務であるから、片時も武勇を忘れてはならない。

 そうではあるが、武勇には大勇(真の勇気)と小勇(小事にはやる、つまらない勇気)があって、同じではない。血気にはやり、粗暴な振る舞いなどをするのは、武勇とはいえない。軍人ともあろう者は、いつもよく正しい道理をわきまえ、よく胆力(肝っ玉)を練り、思慮を尽くしてことをなさなければならない。小敵であっても侮らず、大敵であっても恐れず、軍人としての自分の職務を果たすのが、誠の大勇である。

 そうであるから、武勇を重んじる者は、いつも人と交際するには、温厚であることを第一とし、世の中の人々に愛され敬われるように心掛けなさい。理由のない勇気を好んで、威勢を振り回したならば、遂には世の中の人々が嫌がって避け、山犬や狼のように思うであろう。心すべきことである。

 一、軍人は信義を重んじなければならない。およそ信義を守ることは一般の道徳ではあるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも兵士の仲間の中に入っていることは難しいだろう。
 信とは自分が言ったことを実行し、義とは自分の務めを尽くすことをいうのである。だから、信義を尽くそうと思うならば、はじめよりそのことを出来るかどうか細かいところまで考えなければならない。出来るか出来ないかはっきりしないことをうっかり承知して、つまらない関係を結び、後になって信義を立てようとすれば、途方に暮れ、身の置きどころに苦しむことがある。悔いても手遅れである。はじめによくよく正しいか正しくないかをわきまえ、善し悪しを考え、その約束は結局無理だと分かり、その義理はとても守れないと悟ったら、速やかに約束を思いとどまるがよい。

 昔から、些細な事柄についての義理を立てようとして正しいことと正しくないことの根本を誤ったり、古今東西に通じる善し悪しの判断を間違って自分本位の感情で信義を守ったりして、惜しい英雄豪傑どもが、災難に遭い、身を滅ぼし、死んでからも汚名を後の世までのこしたことは、その例が少なくないのである。深く戒めなければならない。

 一、軍人は質素を第一としなければならない。およそ質素を第一としなければ、武を軽んじ文を重んじるように流れ、軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、遂には欲が深く意地汚くなって、こころざしもひどくいやしくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世の人々から爪弾きされるまでになるだろう。その人にとって生涯の不幸であることはいうまでもない。

 この悪い気風がひとたび軍人の間に起こったら、あの伝染病のように蔓延し、軍人らしい規律も兵士の意気も急に衰えてしまうことは明らかである。朕は深くこれを恐れて、先に免黜条例(官職を辞めさせることについての条例)を出し、ほぼこのことを戒めて置いたけれども、なおもその悪習が出ることを心配して心が休まらないから、わざわざまたこれを戒めるのである。お前たち軍人は、けっしてこの戒めをおろそかに思ってはならない。

 右の五ヶ条は、軍人ともあろう者はしばらくの間もおろそかにしてはならない。さてこれを実行するには、ひとつの偽りのない心こそ大切である。そもそも、この五ヶ条は、我が軍人の精神であって、ひとつの偽りのない心はまた五ヶ条の精神である。心に誠がなければ、どのような戒めの言葉も、よいおこないも、みな上っ面の飾りに過ぎず、何の役にも立たない。心にさえ誠があれば、何事も成るものである。まして、この五ヶ条は、天下おおやけの道理、人として守るべき変わらない道である。おこないやすく守りやすい。お前たち軍人は、よく朕の戒めに従って、この道を守りおこない、国に報いる務めを尽くせば、日本国の人民はこぞってこれを喜ぶだろう。朕ひとりの喜びにとどまらないのである。

 明治十五年一月四日 御名御璽

【伊藤の憲法調査外遊】
 3月、伊藤は、憲法制定が政治課題となったことを受けて、先進国西欧の憲法調査に出向く。ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法調査に従事した。ウィーンでシュタインから歴史法学を学び、「憲法は貴方の国の歴史や伝統の上に成立するものでなければならない」と教わる。ドイツではグナイストから学んだ。シュタインもグナイストもいずれもユダヤ系法学者であった。こうしてヨーロッパで各国の憲法(けんぽう)を調べた結果、皇帝権力が強いドイツの憲法を学んで日本の憲法の骨格を作っていくことになる。

【壬午の変】
 1882年、朝鮮国内における、開国派とそれに反抗する兵士の反乱。この反乱に対して、宗主国を主張する清帝国は強い態度に打って出る。この乱以降に政権を握った大院君を、清国は武力介入して連行し、清国内に幽閉するとともに、清国軍はそのままソウルに駐屯する。「軍」が出動する事態になった。

【板垣の日和見路線】
 1882(明治15).4.6日、板垣は、自由党総理として初遊説に出かけた。岐阜で暴漢に襲われる。この時、かの有名なコトバ「板垣死すとも、自由は死なず」を叫んだとされている。これが喧伝され自由民権運動は盛り上がる。板垣、植木枝盛らが国会開設の請願運動を全国に広める。夏頃、弁護士で高名であった星亨が自民投入党。

 ところが、全党一致して薩長独裁政府を打倒し、国会開設を促進しようと最高に盛り上がったこのムードの中で、党首(総理)である板垣が突然戦線離脱し、同郷の後藤象二郎の誘いに乗り党内の反対を押し切ってヨーロッパ旅行に行く(「板垣洋行事件」)。その旅費は後藤が伊藤博文らに三井を口説かせ、陸軍御用の利益と引き換えに出させ、さらにその情報を改進党の大隈に流して自由党を攻撃させる、という手の混んだ陰謀でもあった。こうして、板垣外遊費問題が契機となって自由、改進両党の中傷合戦が始まった。

 翌、1883年、板垣は欧州旅行からのこのこと帰国する。で、板垣の自由党は惨憺たるものになっていた。次の年、自由党は解散する。急進派の武力闘争を最早押さえきれなかった板垣の日和見であり、多数決による政党政治に飲み込まれていくことになる。

【政談演説会組織される】
 9.20日、長岡で自由大懇親会が開かれ、集会・出版・言論の自由を要求し、運動の強化を決議した。9.21日、赤井景韶は幹部会議に参加し、遊説委員の一人に選ばれた。23日に長盛座で行われた政談演説会に、景韶は「革命論(社会革命ノ欠クヘカラサルヲ論ス)」を演じた。この時、赤井の同志であった井上平三郎と風間安太郎も演説を行っていた(「赤井景韶」参照)。

【自由党に対する弾圧と抵抗】
 10.21日、早稲田大学の前身となる「東京専門学校」が創立された。創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村にあり、また校舎が同郡戸塚村にあったことから「早稲田学校」、「戸塚学校」とも呼ばれてたが、最終的には「東京専門学校」と名付けられた。1892年頃、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになった。専門学校から大学への昇格を機に、1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称した。

【自由党に対する弾圧と抵抗】
 1882(明治15).11.28日〜12.1日、三島道庸が福島県令として赴任するや、土佐に続く東北7州自由党の拠点、河野広中率いる福島自民党への弾圧に乗り出した。不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに対して、千数百名の農民が喜多方の弾正が原に終結し警官隊と衝突した。政府転覆の陰謀があったとして、河野広中らをはじめとする福島自由党員が根こそぎ捕縛され連座入獄させられた。これが「福島事件」と云われるものであり、加波山事件を誘発したと言われている。星亨が弁護を担当した。

 1883(明治16).3月、富山県で開かれた北陸自由党有志会が開催された。政府はこれに偽装党員を送り込んだが、感づかれて追放された彼が「政府転覆を計画した」と自白した事により自由党員を検挙した。これが「高田事件」と云われるものである。

 1884(明治17).5月、群馬の妙義山麓で天皇一行を乗せた列車や警察署・兵舎の襲撃計画の実行に、農民と自由党員が武装蜂起した。小林安兵衛ら自由党員と、多くの困民が手を組み決起、打ちこわしを行ったもの。指導者は あくまで政府転覆を目指したが、困民の方の打ちこわしが先行してしまい 失敗に終わった。これが「群馬事件」と云われるものである。

1883(明治16)年の動き

 3.20日、21名の頸城自由党員が逮捕される高田事件が発覚した。事件の発端は、検事補堀小太郎のスパイ長谷川三郎の密告から始まった。長谷川の密告とは、頸城自由党の政府転覆と同党による警察・裁判所の焼き討ち計画であった。赤井景韶は自宅で逮捕され、井上・風間と共に高等法院に移された。高等法院で検察官は、赤井の「諸省ノ卿以上ヲ斬殺セント」とする自供と「天誅党主意書」を証拠として採用し、内乱陰謀予備罪を要求した。裁判官玉乃世履は、検察官の主張を取り入れ、内乱陰謀予備罪で重禁獄九年の判決を下した。急進化しつつあった赤井が、官憲の犠牲になった。県下自由党員37名逮捕された中で、唯一赤井だけの罪が確定したことは高田事件そのものが謀略事件であったことを示しているといえよう。(「赤井景韶」参照)
 4月、自由党定期大会が開かれ、星が最高点で常議員に選出され、土佐派が衰退した。
 6.22日、板垣と後藤が帰国。板垣は、自由党への熱意を失っており、早々に解党論を打ち出す。
 9.1日、福島自民党の河野広中に軽禁固7年の判決が出され、東北自民党は大きな打撃を受けた。
 11.16日、自由党の綸旨党大会が開かれ、星が議長となって、10万円以上の募金が再確認された。翌年2月に大会を開き、その使途と方針を決定することにして半日で解散した。
【鹿鳴館時代】
 1883(明治16).11.28日、現在の日比谷公園の向かいに建てられた鹿鳴館の開館を祝う夜会が催された。建物は、イギリス人建築技師コンドルが設計し、赤レンガ二階建ての洋館風の威容を誇っていた。内外の顕紳淑女1200名が招待の栄誉に浴した。以降、毎週月曜に例会と連日の夜会が続くことになり、皇女、女官たちが舞った。

 明治20年がピークとなり俗に鹿鳴館時代と云われる。伊藤博文、山県有朋、井上馨が自由放縦し、「欧化政略と貴族主義」の象徴となった。不平等条約改正の為の根回し的社交場ともなっていた。

 新聞紙条例を改正、統制強化。
1884(明治17)年の動き

【甲申の変】
 朝鮮の独立党である開国派によるクーデター。しかし、たった3時間で清国軍に鎮圧されてしまう。

  福沢諭吉は、もろくも開国派が敗れ去るのを見て、朝鮮独立への協力をあきらめ、「脱亜入欧論」を強く主張するようになる。「我が日本は亜細亜の東に位置すれど、その国民の精神はすでに亜細亜の古臭い頑固な考え方を脱して、西洋の文明に移りつつある」とした(亜細亜論)。「日本はこれからの諸国の開明するのを待って共にアジアを興すという余裕はない。むしろそれを脱して西洋の文明諸国と進退を共にした方が良い」(脱亜論)と説いた。要するに、欧米列強による力のアジア進出を阻止するために、アジアの連帯をもって対抗するという考え方は捨てるということを意味していた。以降、脱亜入欧路線に傾斜する。

 3月、自由党の党大会が開かれ、板垣ら穏健派と急進派の調整が不能に成りつつあった中で、星が采配し諸議案を可決した。
 3.26日、高田事件で石川島監獄に収監された赤井景韶は、同室の石川県士族松田克之と脱獄の計画をなし、この日脱獄を決行した。逃走の途中で人力車夫を殺害した赤井は、松田逮捕後も厳重な捜査網をくぐり抜け、山梨県南都留郡宝村広教寺の僧侶になり済ました。しかし甲府警察署の捜査の手がのび、赤井は静岡に逃走した。静岡では自由党員鈴木音高や清水綱義に匿ってもらったが、静岡警察本署の捜索が進んだ。浜松に逃げようとした9.10日、赤井は大井川の橋上で捕縛された。明治18.6月、死刑の宣告を受け、7.27日、市ヶ谷監獄署内で絞首刑になった。辞世の句は、「青葉にて散るともよしや楓葉の あかき心は知る人ぞ知る」。実弟新村金十郎に対して贈った血書の辞世の句は、「さてもさて浮世の中を秋の空 なき友数に入るそうれしき」。小島周治と新村が赤井の遺骸を引き取り、谷中天王寺の墓地に葬った。(参考文献 永木千代治『新潟県政党史』、『新井市史』下巻、江村栄一『自由民権革命の研究』)(「赤井景韶」参照)

【華族令公布される】
 7.7日、華族令が公布された。爵位が公・候・伯・子・男の5等に分けられ、華族の戸籍、身分は宮内卿が管掌し、その結婚、養子は宮内卿の許可を受けさせ、爵位を継ぐのは男子に限る。継承が為されない場合、その栄典を失うというものであった。

 8.25日、自由党総理板垣退助らが青梅で多摩川の鮎漁懇親会に迎えられていたとき、その周辺では借金に追われた農民の八王子川口困民党や武相困民党が右往左往していた。
【栃木の自由党左派による県令・三島道庸暗殺未遂事件】
 9.23日、栃木県令を兼ねることになった三島道庸は、栃木県でも福島県と同様に自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに対し、富松正安・河野広躰・鯉沼九八郎ら自由党左派16名(福島県人11名、栃木県人1名、茨城県人3名、愛知県人1名、平均年齢24歳)は、宇都宮の新栃木県庁舎落成式の日に県令・三島道庸らの暗殺を企てた。河野広体(広中の甥)らは、資金調達のために質屋を襲ったが失敗し、警察から追跡されることになった。また、暗殺用の爆弾を製造中に爆発を起こして大怪我をした。警察は警戒を強め、落成式は延期となった。

【水戸の自由党左派による加波山事件】
 富松正安を指導者とする自由党左派は、筑波山と共に関東平野の中央に聳える希な霊峰にして古くから修験登山で名高い筑波山裏の加波山山頂の加波山神社を本陣としてダイナマイト数百個を抱いて蜂起し、檄を発した。筑波山は幕末に水戸天狗党が武装蜂起した場所だった。さらに茨城県真壁町の町屋分署を爆弾で襲う計画を立てたが、警察の包囲が厳しく全て捕らえられた。この事件に連座したと因縁をつけられ、田中正造が逮捕されている。これを「加波山事件」と云う。

【秩父の自由党左派が困民党を結成し武装蜂起】
 11月、青梅から山一つ向こう側で、かつて幕末に多摩に押し寄せた武州世直し一揆を出した秩父から、またしても困民党が武装蜂起した。田代栄助を首領とした自由困民党は、警官隊や憲兵隊を撃退。秩父市の郡役所を占拠して コミューンを出現させた。しかし、この戦いも十日余り後に鎮台兵の増強による軍隊と警察の共同で、又一部の指導者の逃亡によって壊滅させられた。

【自由党解党】
 このころ既に自由民権運動は分裂しはじめていた。農民と士族民権派、自由党の中の急進派と穏健派というように、目的意識が異なることがはっきりしてきた。ここに至って穏健派の板垣総裁は、青梅鮎漁から二ヶ月後に、1881(明治14)年以来の自由党の解散に追い込まれることになる。

【困民党が武装蜂起】
 自由党の抵抗は各地で続いた。
1884.12月 飯田事件  秩父事件の発生を受け、村松愛蔵ら自由党員は武装蜂起を計画。名古屋鎮台の乗っ取りと 監獄にいる兵士・囚人を見方につけようとした。しかし、秩父事件の失敗から中止。その後、村松らは逮捕されてしまう。
1884.12月 名古屋事件  飯田事件との関係が疑われ、名古屋の党員と土佐の奥宮健之ら30名余が逮捕される。

1885.11月 大阪事件  韓国において、革命を起そうとした小林楠雄、磯山清兵衛らが資金不足の為に資金強盗を行ったが、うまくいかなかった。その上 磯山が姿をくらましてしまう。この対応を協議していたが、官憲によって挫折させられてしまう。
1886.6月 静岡事件  大臣の暗殺を計ったと疑われ、百人余の民権家が捕らえられた。

【北村透谷の苦悩】
□ 北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

□ 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。翌年の冬から十八年の春まで、八王子川口村の豪農秋山国三郎家に大矢と数ヶ月寄宿した。

□ 二人は連れ立って網代鉱泉や五日市の秋川辺を歩いている。五日市では深沢権八などに逢っていたかもしれない。川口村の困民党が壊滅したのは、この直前であり、武相困民党も続いて解散させられたのを目撃している。
□ 当時、秋山は壊滅した困民党の後始末に奔走しており、透谷の思想形成に大きな影響を与えた。わずか半年間滞在した川口村(八王子市上川町)を、透谷は「幻境」といい、多摩を「希望の故郷」と呼んだ。

□ 石坂公歴とは諸国回遊を企図して、この年の六月旅に出たが、何故か小田原で別れている。その直後、透谷は大矢正夫から大阪事件の武力闘争の資金集めに強盗の同行を誘われ、思い悩んだ末、頭を剃って詫びを入れ、政治活動から脱落した。大矢は高座郡栗原村(神奈川県座間市)の出身であったが、茨城に武装蜂起した加波山事件の指導者富松正安と行動を共にすることを誓いあった民権家であった。しかし、病のため加波山事件に行き遅れ、大阪事件に加わった。強盗によって資金を集め、朝鮮へ渡航するメンバーの一人であったが、その直前に長崎で逮捕された。

□ 大阪事件が発覚して関係者と疑われて拘引された石坂昌孝を父にもつ公歴は、事件から一年後、米国へ渡った。目的は傾いてきた実家の建て直しのため、実業の勉学が目的であったが、その後、在米日本人愛国有志同盟会の主要メンバーの一人となり、機関紙を発行、日本政府を批判したり、宮内省を通して天皇に有司先制と言論抑圧の政治批判を奏上した。日米戦争がはじまると、昭和十七年(1942) に日系人強制収容所に入れられ、敗戦の丁度一年前に死んだ。

□ 政治活動から脱落した透谷は、公歴と諸国回遊を企図したころから野津田の石坂家に出入りし、そのころ公歴の姉美那と出会い、紆余曲折があって三年後の明治二十一年(1888)十一月にキリスト教式で結婚した。この間、キリスト教を受容、三月に数寄屋橋教会で洗礼も受けていた。

□ 結婚する一年前、美那・公歴姉弟の父石坂昌孝に同道して、浅草で開かれた民権家有志が大同団結を目指した連合懇親会に出席、はじめて徳富蘇峰と出会った。因みに、この会合に後に足尾銅山事件で知られる田中正造も出席していた。

□ 機を見るに敏なジャーナリストの典型徳富蘇峰の創立した民友社の山路愛山と北村透谷が論争して、儒教道徳や封建的な形式・価値に対し、内部の経験や生命を主張した。それは透谷が若い晩年に「エマソン論」を著しており、米国の南北戦争が欧州の過去の価値観を断ち切ったエマソン主義のように、徳川封建制を支えた価値観や美学は否定されるねばならなかった。政治活動からの脱落、言い換えれば現実行動の喪失は、その後の透谷の文学活動において自己の内面を発見させたのである。

□ それは直接にはキリスト教から教えられた内部の「生命」であったが、民権運動の経験が伝統的な形式や価値を否定する契機になっている。そして、キリスト教の受容は、透谷もまた士族の出自であったことからきていた。最早、士族たりえない士族、しかも敗北した旧幕臣に連なる者が武士道を棄てたとき、寄るべき道としてキリスト教が選ばれた。武士道の「主人」がキリスト教の「神」に代ったのである。

□ ここから透谷につづいた「自然主義」や「ロマン主義」は一歩の距離でしかない。有り余る難問を抱えたまま、明治二十七年(1894)五月、結婚数年の妻子を残し、後に東京タワーの建つ芝公園の自宅で縊死した。享年二十五歳。この二ヶ月半後、日清戦争がはじまった。
 2022.4.1日、「フェイスブック****」(ひょっと迷惑をかけてはいけないので氏名を****にします)の「北村透谷と時代性」文に出くわした。「幻境の碑」の「多摩川流域」の文との絡みがありそうなので転載しておく。「幻境の碑」の「多摩川流域」の文と「北村透谷と時代性」のどちらが元なのか興味が湧く。仮に「北村透谷と時代性」の方が元と云うか前だったとすると、「幻境の碑」の「多摩川流域」文はどういうことになるのか、という関心がある。
 北村透谷は明治元年(一八六八年)十二月二十九日に神奈川県小田原町、旧唐人町に生まれた。長男で名は門太郎。当時父快蔵は二十七歳、母ユキ二十歳。祖父玄快は医師大内家からの夫婦養子で五十四歳。継祖母ミチ四十三歳であった。実祖母ちかは北村家から抹消されている。この出生環境だけでも注目されるが、本来小田原藩の大久保家は小田原の陣で、その功で家康から小田原城をもらっているが、藩主不在時代に唐津の家来達が入ることで、小田原に南国の文化をもたらしている。祖母ミチの実家や母ユキの実家も唐津家の家筋という説がある。透谷の詩人気質は、この母の影響が強いというのが主要な解釈だ。 ところで幕末維新期は日本史の中でも希有な動乱期として、誰しもが取りあげるはずだ。 特に、外圧により徳川武家社会という封建制社会とその全政治機構を一気に内部改革し、近代化を推し進める必要に迫られていたのである。当然、封建的遺制と近代化の波の両極が、真っ向から激突し、その中で各個人は自らの方向性の選択を迫られ、その思想の選択は生死をかけざるを得ない重要な選択ともなった。かくして幕末維新の死闘が国内のいたるところで繰り広げられていった。

 では透谷が誕生した明治元年(慶応四年)とは、どんな年だったのか。彼が生育していく社会環境を確認しておく必要がある。大づかみな社会の動きを見てみる。すでに前年慶応三年に徳川慶喜は王政復古を迫られ、西郷隆盛、後藤象二郎、中岡慎太郎、坂本龍馬等は薩長倒幕同盟を組織し、その年六月に龍馬は「船中八策」を提唱している。 後に、明治維新政府はこの内容を具体化している。王政復古の裏側には、倒幕が理念として張り付いている。しかも、尊皇倒幕と尊皇攘夷が枝分かれする。公武合体も沸き立ち、諸外国との不平等に和親条約が次々と取り交わされていく。こうした中で、にわかに新しい動きが活発化。後藤象二郎等は「大政奉還建白書」を幕府に提出。 十月に徳川慶善は朝廷に大政奉還し、征夷大将軍の辞表を提出してた。家康以来二百七十年の徳川幕府の幕が降ろされたわけだ。しかし龍馬は十一月に近江屋の二階で殺害されている。なお、慶善の大政奉還に幕臣等は騒然とし、薩摩屋敷焼き討ちや徳川復命の挙兵が始まった。そして翌一八六六年(明治元年)に入り、当然の時代の流れで、ついに鳥羽伏見の戦いが一月三日に始まり、戊辰戦争の幕が切って落とされた。江戸幕府によるおよそ三世紀近い鎖国状態も、その摩擦の大きな原因であった。 
 鎖国の間、世界は産業革命、植民地政策、近代国民国家の樹立、資本主義制への移行を遂げ、まさに欧米諸国の目はアジアへと向けられていた。彼らの近代兵器や高い軍事力、総合的な文明力の水準の差は、単純に埋めようがなかった。 安閑と世界に閉ざされた状態で惰眠をむさぼってきていた日本は、国内の富国強兵、殖産興業を断行し、まさに瞬時にすべての面で大改革を行い、近代文明国家への脱皮が迫られていた。それが達成できなければ、欧米列強に占領され、植民地化の道を歩むしかない。
 そこで一月に明治天皇は元服し、王政復古の大号令があった。勝海舟と西郷隆盛が駿府城で会見し、明治天皇は五箇条のご誓文を下しているこの年に福沢諭吉が英学塾から慶應義塾に改称。根回しが行われ、江戸城の無血開城が行われた。しかしこの事態を受け入れられない幕府軍は各地で抵抗。勝海舟も一目置き、伊能忠敬の弟子でジョン万次郎にも学んだ榎本武揚等は、軍艦八隻(木造艦)で、かつての蝦夷地函館の五稜郭へ向かった。各地の官軍と旧幕府軍との攻防は、官軍の勝利で着々と北進し、会津城は白虎隊も含めついに陥落。戊辰戦争は終結した。

 諸外国の思惑は、日本を寄港地としようという意図があったという説もある。特にアメリカ船への食糧・燃料補給、乗組員の救助・休養などだ。大黒屋光太夫がロシア船で函館に開国の交渉に訪れて以後、何度となく諸外国の打診が繰り返され、大政奉還以後の明治政府は立て続けに通商条約を締結。鎖国から開国へと動き出した。 しかし、まだやっとよちよち歩きをし始めた政府は、実は国会も、議会も存在していない。幕藩体制を解体し廃藩置県として中央集権体制を構築していくことになる。 また、耶蘇教禁止は明治六年に解禁となり、特にプロテスタントが知識人の語学力習得や異文化の積極的な吸収と、一方ではキリスト布教拡大の政策から一気に広まっていく。透谷も石坂ミナと出会うことでキリスト教の洗礼を受けることになる。

 明治維新の変革期は没落士族が身の処し方を問われ、小田原藩は尊皇と佐幕の曖昧中間派で、祖父玄快は藩医(外科医)でもあったため、明治維新政府へは中間的立場として順応的であった。藩医として身分は上位であったが、維新変革期に没落士族階級であり、島村火事で生家が全焼し、以後小さな藁葺きの家に移り住んでいた。 祖父の進言で、透谷の父快蔵は透谷誕生後、彼を厳格な祖父母の元に預けて単身上京。快蔵は一家の将来を切り開くために、当時唯一の官立大学昌平学校に入学している。残された透谷の母ユキは、遊女屋の針仕事などで、中風で臥しがちであった祖父の療養費や一家の家計収入を賄うこととなった。快蔵は大学卒業後足柄県の庶務課員となり、やがて大蔵省記録局員となっている。 ただ、この乳幼児期の生活苦と同時に、透谷の養子祖父母夫婦の情に薄い特異な生育環境は、後に躁鬱病となって彼を生涯精神的に苦しめる原因となっている。明治六年、小田原に新制度の小学校が設立され、寺子屋規模ではあっても明治新政府の啓蒙小学校、透谷は早くから本源寺小学校、緑小学校等で学んでいる。 なお、彼が十四歳の時、両親に連れられて東京銀座の数寄屋橋に上京し、泰明小学校に入学している。この数寄屋(透き谷)からその透谷の名前を付けているといわれている。

 この年、社会に目を移せば板垣退助を総理とする自由党が結成され、翌年は自由民権運土最高潮期である。十五歳の時、泰明小学校で演説の稽古をしたり、政治グループ青年党に所属したようだ。 さらに二年後には自由党青年グループとの交友関係を築き、民権運動への疑問が生じたときに、色川大吉が「透谷空白の期間」と称した時期に、横浜、八王子や南多摩郡川口村などの自由党シンパの知友の家々を訪れていたことになる。 この頃に公家出身で神奈川県では自由党の有力者石阪昌孝、その息子公歴、そして将来の伴侶美那子(ミナ)と出会うことになる。公歴は当時アメリカに洋行し、独自の民権運動を継続。「新日本」、「革命」などを出版し、日本政府を悩ましている。
(私論.私見) 「坂東千年王国」管理人よりの抗議に対するお詫び
 2004.2.23日「れんだいこ」で検索していると次の一文に出会った。「V2掲示板□過去ログ-9」より。
203びっくり ぎょうてん ! 晒し刑に処する次第 HON- 2004/07/11 17:47
  インターネットの普及で何か調べるのにホームページを検索するのは常識になってますが、その反面、著作権等も厳しくいわれています。

 それにも関わらず、びっくり ぎょうてん ! するような事もあります。検索していたら、あるサイトに自分の書いたものと似た文章が出てきた。 どこまで読んでも同じだ。最期の行までソックリさん !

【北村透谷の苦悩】 というページで、冒頭をコピペするとこうなる。

 北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

□ 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。

 わたしの「多摩川流域」の「幻境の碑」のページはこうなっています。

 北村透谷(本名門太郎)は明治元年十一月十六日、小田原藩士族の家に生まれた。明治十四年一家の転居により有楽町の泰明小学校へ転校する。この学校は現在もあり、玄関前に多大な影響を与えた四歳下の島崎藤村の名と並べて「幼き日ここに学ぶ」と刻んだ碑がある。透谷の名も学校の隣にあった数寄屋橋の「すきや」をもじって号した。

 最初のロマン主義詩人・評論家として知られる北村透谷は、多摩に足を踏み入れることによって生まれたといえる。明治十六年神奈川県会の臨時書記となったころ、神奈川自由党の組織者石坂昌孝の子公歴や八王子の教員大矢正夫と親交を結び、自由民権運動に参加していった。

 明らかに「パクリ」である。その証拠は文章が同じであるばかりでなく、ニ段落目の「□ 最初のロマン主義詩人」の頭に「□」が入っている。コピペするとこれが尽くように埋めてあることまで気づくめー、というところです。

 何処のどいつかトップページを開いてみると

  『左往来人生学院』
   編集部・主宰れんだいこ同人
  (E-mail: rendaico@marino.ne.jp)
    http://www.marino.ne.jp/~rendaico

 とあって、ご丁寧に

   リンク、引用むしろ歓迎フリーサイト。 同志求む。れんだいこ地文につき転載歓迎むしろ頼むのこころ。

 「引用むしろ歓迎フリーサイト」をうたうの手前の勝手だが、引用どころか全文パクッた上に転載元の承諾もアドレスも入れないとは、あきれ果てた。よって、ここに晒し刑に処する次第。
(私論.私見)
 れんだいこはこれについてはまことに申し訳ないと思う。何かで検索した際に貴重と思い取り込んだものと思われる。その取り込みようはパクリというより「幻境の碑」の全文転載である。それにしても、「幻境の碑」ではなく「北村透谷の苦悩」という題名をどこから持ち込んできたのか分からない。れんだいこがその時そのように命名したのかどうかも記憶にない。が、いずれにせよ、取り込みの際に引用元明記、リンク掛けしておくべきだった。それをしないままに取り込んでいるのでパクリと云われても仕方ないかも知れない。れんだいこは、こういうパクリは望まず、だがしかしそのようになっているからして、管理人の叱責についてはお詫びする以外にない。サイト元「幻境の碑」へのリンクの上転載し直したいが、当分このままにして生き恥を晒しておくことに致します。

 管理人氏へのメールの宛先が分からないので、この場を借りてお詫び申し上げます。管理人氏の抗議の趣旨を深く受け止め、この種のお咎めを受けることのないよう以後気をつけます。自戒の意味を込めて当分晒しておき然るべき時に書き換えようと思います。更にお腹立ちのようであればその節は全文削除します。ご理解いただけるようでしたら、引用元明記の上該当箇所を掲載させてもらうつもりです。宜しくお願いいたします。なお、これについては「れんだいこの著作権考」の中に新たにサイトを設け、総合的に論及したいと思います。

 2004.7.23日 れんだいこ拝
 この件につき、その後、「引用転載に絡むれんだいこの事件史考」末尾の「晒し刑事件/考」で検証している。平家蟹氏の指摘を勘案すると、れんだいこのリンク掛け失念による全部転載を泥棒呼ばわりした挙句、「あきれ果てた。よって、ここに晒し刑に処する次第」とまでのたまう坂東千年王国氏自身が、花田清輝氏の「小説平家」の中の海野小太郎幸長記述を平然と地文取り込みしていることになる。何と本件の「北村透谷の苦悩」も「北村透谷と時代性」との相当な下敷きが窺われるものになっている。

 2022.4.1日 れんだいこ拝

 この年、アーネスト・フェノロサと岡倉天心らにより、法隆寺夢殿の秘仏救世観音の調査が行われている。


1885(明治18)年の動き

【日清天津条約締結】
 前年度の「甲申の変」による反乱の処罰として、清から「袁世凱」がお偉いさんとして朝鮮に派遣され、朝鮮の内政、外交を指導し、干渉を強化した。欧州列強による亜細亜侵略が着々と進む今日、いたずらに日本と清が争うのは、欧州列強に漁夫の利を与えるに過ぎないと判断した、1885年日本と清は、日清天津条約を締結する。

 その内容は、両国は調印の日より四ヶ月以内に朝鮮王国より撤兵し、再び出兵の必要がある場合にはお互いの了解を取ってから行動すること、とされていた。翌、86年、朝鮮が帝政ロシアに「保護」を求める事実が発覚し、袁世凱が李鴻章に朝鮮国王の廃位を求めるほどの緊迫した状況までに発展した。日清天津条約締結後も、日清両国の朝鮮に関する主張は依然として対立しており、両者の衝突は早晩、避けられない状況となっていった。

【太政官制の改革=内閣制度の導入】
 明治14年頃から伊藤博文は太政官制の改革を試みた。太政官制は天皇と参議・各省卿(閣僚)のあいだに太政大臣・左右大臣を仲介とする迂遠な体制だったためである。これに対し、保守派(太政大臣三條實美、また宮中にあって天皇を補導する元田永孚ら侍補たち)は、太政官人事の刷新をもって改革に反対する。その刷新内容とは、伊藤博文そのひとを右大臣に据えることである。 しかし伊藤はこれを断固拒否。代わって薩摩派の領袖・黒田清隆を推薦したが、酒乱のうわさのある黒田を宮中に近い大臣職に据えることにこんどは保守派がしりごみし、かくして伊藤の太政官制の改革=内閣制度の導入が成功したのである。

 これを知った駐墺大使・西園寺公望は、「実に吾邦千古未曾有の大美事大事業と存じ奉り候、此に於てか文明諸国と同等の政府たるを得べく、此に於てか他日議院を開設するも憂なかるべし」と、ともに憲法視察にあたって知遇を得ていた伊藤に対して慶賀の意を申し述べている。

【日本最初の内閣=第一次伊藤博文内閣成立】(初代:第一次伊藤博文内閣(任:1885.12-1888.4)
 1885(明治18).12.22日、伊藤らが内閣制度を創設し、伊藤は自ら第一次伊藤博文内閣(明治18.12.22日 〜明治20.4.30日)を組織する。これが日本最初の内閣成立となった。出来上がった内閣は薩長閥を中心にした典型的な藩閥政府であった。特に、伊藤博文―山縣有朋―井上馨ラインの形成が注目される。内務大臣となった山縣は軍と警察組織及び地方行政に絶大な権力を扶植していくことになる。その特質は、革新思想に対する仮借なき弾圧がポリシーとなり、今後の日本はこの山縣派閥ともいうべき人たちによって大きく運命を左右されていくこととなる。 異色なところとして、文部・森有礼(薩摩)、農商務・谷干城(土佐)、逓信・榎本武揚の登用が注目される。陸軍・大山巌(薩摩)、海軍・西郷従道(薩摩)。

 間もなく、藩閥を補う学士官僚の公募が始まった。文官高等試験が制度化され、帝国大の卒業生は無試験で官僚に登用されることになった。

【西欧列強による植民地の流れ】
 1885年、フランスは膨湖湾に進出。ドイツは南洋のマーシャル諸島に進出。1886年、大英帝国はビルマを併合。どんどん世界地図が「欧州列強色」で塗りつぶされて行った。

1886(明治19)年の動き

 第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行うが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示した。このため、小村寿太郎や鳥尾小弥太、法律顧問ボアソナードがこれに反対意見を提出した。翌1887年、農商務大臣谷干城が辞表を提出する騒ぎとなる。
【帝国大学令】
 1886(明治19)年、帝国大学令が出された。これにより民間の五大法律学校が法制上も帝国大学総長の監督下におかれることになり、政府による大学及び学問統制を促進させた。「帝大の特権、私学の帝大従属」という構図が作られ、1893(明治26)年の帝国大学令改正の前後に法文上からは姿を消したが、帝国大学の権威は生き残けていくことになった。日本の政界・官界・財界・学界から芸術界にいたるまで、あらゆる分野の支配的地位にまたがる「東大閥」の形成は、このことの集中的な表現である(井上清「東大闘争の論理」)。

 これにつき、翌年の自由民権運動が復活し最後の火花を散らしたとき、民権派を代表して板垣退助が政府を弾劾した文書は、次のように述べている。
 「我有司は、天下人民をして不覇独立の志気を長じ思想の発達するをうれい、専ら官立の学校を興隆して民間の教育を阻喪せしめ、劃一の学制をしき、人の心智を拘束し、彼の不覇の気・独立の志を消殺せんとするに至りては、其旨深くして其罪もまた大なりというべし。それ、国は各異の才能を集め各殊の知徳を合するを以て、よく文化の美を呈するを得るものとす。けだし人材の天賦は各異各殊にして、各々其長ずる所を一様にせざるものなれば、真に人材の天賦を成長せんと欲するものは、之を一器に入るべからざるや明らかなり。

 且つ政府本然の職務なるものについて之をいえば、人間教育の事の如きは固より之に干興すべきものにあらざるなり。政府にして敢て之に干渉せんとするか、これ人性の心智発達の自由を奪うにひとしければ、則ち其罪たる彰々として掩うべからざるものなり。(中略)今や我国有司は、かの本然の理をおかしてこれ(教育統制・干渉)を断行して顧みざる所以のものは、思うに十九世紀の気運に抵抗して専制の基礎を固めんと欲するには、寧ろ国家の害をのこすも眼前人智の発達を妨げんとするに外ならず、あに本然の理を思考するいとまあらんや。即ち財を散じ思を労し、自ら苦んで以て此の如きの過を故造せざるを得ざるなり。これ教育上に於て当路有司が威嚇・籠絡の手段を見る所以なり。」

【日清対立】
 日清両国が対立し始めた。この当時(1880年代半ば)における、日清両国の戦力比較は次の通り。洋務運動によって、西欧から技術者や教官を招聘し、アジア最強の軍艦「定遠」「鎮遠」を主力とし、大小50余隻(総トン数:5万トン)に及ぶ北洋艦隊を持つ清国海軍(清国海軍は、北洋艦隊の他に3つの艦隊を有していた)。さらに、陸軍も近代化を進め、清帝国の全兵力は「108万」を超えていた。

 対して、明治維新から富国強兵を実施し20年近く経った日本。陸軍は大村益次郎から山縣と受け継がれ、ドイツのモルトケの元、近代化が進められたが、海軍は西南戦争による財政難で、北洋艦隊の主力艦である二艦の半分の大きさでしかない二等巡洋艦クラスしか保有していなかった。1890年以降、海軍は北洋艦隊に対抗すべく、軍備の大拡張を計画した。さらに、日本の総兵力は「7万8千」であった(清に対して僅か7%)。が、「国民皆徴兵制」のもとでの数である。

 軍隊の装備は、ほぼ互角であり(これ、重要なことね)、片や東洋一の北洋艦隊を有する清帝国と、清の全兵力の1割にも満たない日本、これが「日清戦争」前夜の図式。

 1886年、定遠・鎮遠を含む北洋艦隊が、長崎、横浜、そして呉へと威力誇示のため日本を訪問した。呉では、修理の必要があるということでドッグ入りを希望してきた。もちろんそれは、修理のためではなく、呉軍港の地形や防備を調べ、ドッグの修理能力を試そうとの目的があってのことだった。この時、呉鎮守府で参謀長を勤めていたのが東郷平八郎であった。そして、東郷は、定遠の実態に驚愕する!。定遠を観察していた東郷は驚くべき実態を定遠に見た。定遠の四門ある主砲の砲身に洗濯物を乾かしていた。主砲といえば武士の刀に相当する神聖な武器ではないか、その軍艦の魂とも言うべき主砲に汚れた下着やシャツを干すとは。しかも、それを眺めていて、士官が咎めも注意もしないで、吸った煙草を甲板に投げ捨てているのである。このようなたるみきった精神で、戦えると思っているのだろうか。いくら大鑑巨砲を備えていようと、その最強の武器を動かして戦うのは人間であって、その人間の精神が弛緩しきっていたのでは、戦力は半減してしまうものである、北洋艦隊、恐れるに足らず、こちらが精神を集中して対処すれば、まんざら相手にならないこともないだろう、東郷はこう確信したという。

 「1−1 日清戦争」は次のように記している。

 1886(明治19)年、清国は、戦艦定遠、鎮遠(7335トン、30.5サンチ砲4門)を先頭とする艦隊で、長崎に示威行動に来た。上陸した清国水兵が暴行を働き、80余名が死傷するという事件が起きた。清国の兵隊にやられたが、相手が強すぎてケンカができない、と口惜しさが日本国内に鬱積する。1892(明治25)年になって、日本海軍は戦艦厳島、松島を購入する。4278トンと小さいが、大砲は32サンチ1門と、定遠を相手にできるだけの力はある。1894(明治27)年には、国産の戦艦橋立も完成する。

1887(明治20)年の動き

【内務省と在野民権派の抗争】
 黒田内閣成立後もあいかわらず在野の民党と山縣有朋率いる内務省の争いは熾烈であったが、しだいに民党側は小異をすてて大同をとろうとして動き始める。

 時の外相の井上薫は、西南戦争での財政難から、まず、関税自主権の回復に努めた。そして、ようやく、アメリカとの条約改正に成功した。しかし、世紀末覇者、大英帝国、他の列強は改正に応じなかった。これにより、税権だけを回収しても法権を取り戻さなければ、現在の不平等は何ら変らない、ということが判明した。よって、法権の奪回が一番の課題となったいくことになる。井上馨外相は、欧化政策を推し進め条約改正を図ったが自由民権派の反対にあう。

 10月、井上馨外相による不平等条約の改正交渉を無期延期に追い込んだ自由民権派は勢いづき、各地の活動家が次々に上京、演説会を開く。このような中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、「1・言論の自由、2・地租軽減、3・外交策の刷新(対等な立場による条約改正実現)」を求める「三大事件建白書」と云われる建白書を元老院に提出し、反政府運動を展開した。折りしも、後藤象二郎による大同団結運動が盛り上がっている最中であり、片岡の他に尾崎行雄や星亨も民権派の団結と政府批判を呼びかけた。「三大事件建白書」運動は大同団結運動と並んで自由民権運動の最後を飾る運動として知られている。

 長柄郡の長尾村(現茂原市)の自由党員・齊藤自治夫は、多数の署名(南総80余か町村の総代と伝えられている)を抱えて上京し、首都で地租軽減等の建白運動を貫徹した。武市安哉は、長岡郡3,700有余人の総代として上京。中内庄三郎は香美郡総代として上京。傍士次(ほうじやどる)は、香美郡野市村他64ヶ村人民5,294人総代として上京。楠目玄墓は、香美郡総代として上京。竹村太郎は、高岡村外8ヶ村人民721人総代として上京。坂本直寛(母は坂本龍馬の姉千鶴)は、県会議員として建白のため上京。植木枝盛と竹馬の友・横山又吉は、高知新聞の記者として建白のため上京。 

 頭山満が福陵新報を創刊、玄洋社設立。頭山は明治19年春頃修験の場である太宰府近郊の宝満山にこもり、民権派の主張を理解しつつ、何よりも国の将来を重んじる立場を選び取ることになる。九州の自由民権運動に詳しい福岡県大牟田市の歴史家、新藤東洋男(68)は「玄洋社は前身の向陽社時代から、初期自由民権運動の中核だった。だが、頭山らは朝鮮で起きた壬午軍乱や甲申政変などアジア情勢の急変の中で、国家主義への急激な傾斜をみせた」とみる。

 「官吏服務規律」が定められ、官僚は「天皇の官吏」と位置付けられた。
【保安条例】
 1887(明治20).12.25日、政府は突如、保安条例を公布した(1898年に廃止される)。「政治的な秘密結社の結成と集会の禁止」、「治安を妨害する恐れのある者を皇居から12キロより遠くに追放する」という内容であった。

 保安条例は、明治憲法制定を控えて、反政府運動の拠り所であった自由民権運動家を弾圧するために制定された法令であった。「朕惟ふに、今の時に当り大政の進路を開通し、臣民の幸福を保護する為に、妨害を除去し、安寧を維持するの必要を認め、茲に左の条例を裁可して之を公布せしむ」とある。
【保安条例】
第一条  凡そ秘密の結社又は集会は之を禁ず。犯す者は一月以上二年以下の軽禁錮に処し十円以上百円以下の罰金を附加す。其首魁及教唆者は二等を加ふ。
内務大臣は前項の秘密結社又は集会又は集会条例第八条に載する結社・集会の聯結通信を阻遏(ソアツ)する為に必要なる予防処分を施すことを得。其処分に対し其命令に違犯する者、 罰前項に同じ。
第二条  屋外の集会又は群集は、予め許可を経たると否とを問はず、警察官に於て必要と認むるときは之を禁ずることを得。其命令に違ふ者、首魁・教唆者及情を知りて参会し勢を助けたる者は、三月以上三年以下の軽禁錮に処し十円以上百円以下の罰金を附加す。其附和随行したる者は二円以上二十円以下の罰金に処す。
 集会者に兵器を携帯せしめたる者又は各自に携帯したる者は各本刑に二等を加ふ。
第三条  内乱を陰謀し又は教唆し又は治安を妨害するの目的を以て文書又は図書を印刷又は板刻したる者は、刑法又は出版条例に依り処分するの外、仍(ナオ)其犯罪の用に供したる一切の器械を没収すべし。
 印刷者は其情を知らざるの故を以て前項の処分を免るゝことを得ず。
第四条  皇居又は行在所を距る三里以内の地に住居又は寄宿する者にして内乱を陰謀し又は教唆し又は治安を妨害するの虞(オソレ)ありと認むるときは、警視総監又は地方長官は内務大臣の認可を経、期日又は時間を限り退去を命じ、三年以内同一の距離内に出入・寄宿又は住居を禁ずることを得。
 退去の命を受けて期日又は時間内に退去せざる者又は退去したるの後更に禁を犯す者は、一年以上三年以下の軽禁錮に処し、仍(ナオ)五年以下の監視に付す。
 監視は本籍の地に於て之を執行す。
第五条  人心の動乱に由り又は内乱の予備又は陰謀を為す者あるに由り治安を妨害するの虞ある地方に対し、内閣は臨時必要なりと認むる場合に於て、其一地方に限り期限を定め左の各項の全部又は一部を命令することを得。
一、凡そ公衆の集会は、屋内・屋外を問はず、及何等の名義を以てするに拘らず、予め警察官の許可を経ざるものは総て之を禁ずる事。
二、新聞紙及其他の印刷物は、予め警察官の検閲を経ずして発行するを禁ずる事。
三、特別の理由に因り官庁の許可を得たる者を除く外、銃器・短銃・火薬・刀剣・仕込杖の類、総て携帯・運搬・販売を禁ずる事。
四、旅人出入を検査し旅券の制を設くる事。
第六条  前条の命令に対する違犯者は一月以上二年以下の軽禁錮又は五円以上二百円以下の罰金に処す。其刑法又は其他特別の法律を併せ犯したるの場合に於ては、各本法に照し重きに従ひ処断す。
第七条 本条例は発布の日より施行す。

 この条例により、三大事件建白運動への弾圧が始まり多くの自由民権論者が東京から追放された。運動の指導者・片岡健吉、後藤象二郎、星亨(ほしとおる)、尾崎行雄、林有造、中江兆民らなど約570名の自由民権の闘士たちが東京(皇居)三里以遠お構い(東京追放)となる。片岡健吉ら16人が退去を拒否して獄に下った。星亨は出版条例違反で投獄される。高知新聞の記者・横山又吉は、「保安条例廃止の建白書」を起草。12月31日、内閣総理大臣伊藤博文に提出するため安芸喜代香・門田智・黒岩一二・長沢理定とともに東京へ引き返す。一行は、皇居から三里の地六郷橋を渡った所で逮捕され、軽禁固3年・監視2年のに処せられた(明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布による大赦令で出獄)。有名な「国家の将に滅亡せんとす、之を傍観座視するを忍びず、寧ろ法律の罪人たるも退て亡国の民たる能はず」という言葉は、「保安条例廃止の建白書」の一節である。

 以降、自由民権の闘士たちは地方遊説によって自由民権の灯火を消さないようにするので精一杯となった。この強権発動により運動は挫折を余儀なくされた。大同団結運動も分裂を来たし、自由民権運動は大きな曲がり角に差し掛かることになった。

 1887年、板垣に伯爵としての称号があたえられた。板垣は爵位を受けたことにより「貴族」となった。

1888(明治21)年の動き

【伊藤策定の憲法草案の審議】
 伊藤は帰国後、宮内卿を兼任し保守派の抵抗を排して宮中改革を推進、同17年7月華族令制定。1886(明治19)年憲法草案起草に着手。皇室典範・皇室財産を確立する。 

 1888(明治21).4月、枢密院設置とともに議長となって憲法草案の審議にあたる。この時伊藤は、憲法草案にドイツ流の君権主義の原理を取り入れており、立憲政治の意義が君権の制限と民権の保護にあることを強調して立憲主義的憲法理解を示している。6.18日付けの「第一審会議第一読会における伊藤博文枢密院議長の演説」(憲法草案枢密院会議筆記)に拠れば、次のように述べている。

 憲法制定の意義を次のように述べている。
 意訳概要「欧洲に於ては当世紀に及んで憲法政治を行わざるものあらずと雖(いえども)、これ即ち歴史上の沿革に成立するものにして、その萌芽遠く往昔に発せざるはなし。これに反し憲法政治を東洋諸国に於て導入するは我が日本が初めてのことである。実施の後の結果、国益に有利なるかあるいは不利になるか予断できない。しかりといえども、二十年前維新を為し遂げ、封建政治を廃し世界各国と交通を開きたる以上は、近代国家創設のために避けることができない」。

 続いて、憲法制定の要諦について次のように述べている。
 「憲法制定に当たっては、国家の命運に誤り無きよう措置を講ずる必要がある。この機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政治が統紀を失い、国家の廃亡に導かれる。国家を国家として生存せしめる為には賢く人民統治の方法を講ぜねばならない」。

 続いて、日本の国家的特質(国体維持)として、仏教、神道に拠るのではなく皇室制度を重視すべしとして次のように述べている。
 「そもそも欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり。然るに我が国に在ては宗教なるものその力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。佛教は一たび隆盛の勢いを張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖(いえども)、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室にあるのみ」。

 続いて、君主権の絶対化とその乱用の恐れに対して、運用において留意すれば良いとして次のように述べている。
 「これを以てこの憲法草案に於ては専ら意をこの点に用い、君権を尊重してなるべくこれを束縛せざらんことを勉めたり。あるいは君権甚だ強大なるときは濫用の慮れなきにあらずと云ふものあり。一応その理なきにあらずと雖も、若し果して之あるときは宰相その責に任ずべし。或はその他其濫用を防ぐの道なきにあらず。徒に濫用を恐れて君権の区域を狭縮せんとするが如きは、道理なきの説と説と云はざるべからず。乃ちこの草案に於ては君権を機軸とし、偏りに之を毀損せざらんことを期し、敢て彼の欧洲の主権分割の精神に拠らず。固より欧洲数国の制度に於て君権民権共同すると其揆を異にせり。是れ起案の大綱とす。其詳細に亘りては各案項につき就き弁明すべし」。

 以上を明治憲法の大綱とすべしと述べている。伊藤が君主権について述べた次のような一文もある。
 「現時の国法に於いては、君主は国家の上に位せず、国家の中に位し、君主は国家の統御者にあらずして国家の機関となれり。君主は国家の機関にして国家の為に活動すべしとの思想は、既にフリードリツヒ大王の有名なる『君主は人民を支配するところの専制君主に非ず、国家の最高機関なり』との語に於いて発表せられたり」。
 天皇機関説のはしりを唱えている。

【伊藤博文の憲法演説(京都府会議員に対して、明治22年3月25日)】
 憲法既に発布せられ、明二十三年を期して議会を開設せられんとするに当ては、余は先づ議会開設の効用に就き其大要を開陳せんとす。余は本論に入るに先ち、抑国家は何を以て其目的とせざるべからざるかの学理より立論せざるを得ず。

 既に諸君の熟知せらるる如く、国家の目的と云ふの解義に付ては古今欧洲学者の説区々に渉りて未だ帰一を見ざるを以て、茲に喋々するの要なきに似たりと雖も、既に国家の目的と云ふに至ては憲法政治に関要最も重きに居るを以て、少しく之を論述するも亦敢て無益の業にあらざるべきを信ず。

 抑々国家の目的と云ふの解義に付、欧洲学者の唱道する所二様あり。一は国家の目的は其国の彊域内に在る各個人の権利を保護し、以て専ら其身体財産を保全するに在りとする説なり、他の一は国家の目的は社会に存生する万般の事物を規定し、専ら社会の安寧幸福を保持するに在りとする説なり。

 如此一は各個人を以て機軸と為し、各個的を旨とする偏理の説にして、一は国家を以て標準と為し、社会的を専らとする極端の論たることを免れず。是等の説を包持する者は、古の希腦の「アリストートル」「プラトー」「ヘーゲル」「カント」及「ホンボルー」「シユルチエー」「ミル」等にして、古来未だ満足すべきの定説あらずと雖も、余は唯だ其両説の存するを述るのみ。

 而して各個人を以て機軸とするの説は、一個人の権利自由を尊重するに傾き、国家を以て標準とするの説は、国家全体の利害にのみ注目するより、両者各々極端に馳せて、其間云ふ可らざる弊害あり。故に必ずや一個人と国家との幸福を併進するを以て目的とせざる可らずとするの中庸説あり、是近世学者の専ら唱道する所たり。

 往昔専ら国家を以て目的とし、各個人の権利を度外に措きたる時代に在ては、国家の安全を保維する為には人民の利益は其犠牲となり、又何等の程度に迄之を減滅せらるるも絶て怪まざりき。当時に在ては人民の権利は安固ならず、其自由も亦甚き制限ありて完全に幸福を享受し得ざりしなり。

 為に国家の権力は最上無限の勢いを占むるに至れり。然るを近世文化の盛域に進み、富力と財力との増加するに随ひ、漸く反動の勢を生じ、立法は社会的の制度を破壊するの傾向を生じ、専ら各個人の権利と自由を以て政治の肯けいと為し、之が為に社会の道徳を破壊し、軽佻俘虜に流れて国家の元気を衰耗し、其結果の帰する所竟に各個人をして弱肉強食の惨状に陥らしめたり。

【政府の憲法論議】
 以上のような伊藤式憲法観に対し、井上毅は憲法起草にあたり国典研究を重視し、天皇親裁による徳治主義で、その制度の下での公議世論の尊重、民の福祉の増進を企図した。金子堅太郎はエドマンド・バークの思想に触れ、日本の保守主義思想に大きな影響を与えた。3人が別々の経緯から保守主義、歴史法学に目覚め、その成果として出来たのが明治憲法となった。

 当初、明治憲法は英国の政党内閣制や議院内閣制を排除する方向で起草されたが、起草後は限りなく英国の方向へ近づいていった。明治憲法は立憲君主的側面と専制君主的側面の中間的性格を採った。そのために国務大臣、枢密院、元老など何重にもつくり、天皇の意思表示、意思決定がおこなわれないようにした。しかし、決定的な際の権限を天皇に求めた。

 シュタインの伊藤への教えにあるとおり、明治憲法の起草者は、近代憲法として、西洋の最新の政治理論・憲法理論を取り入れるに当たっての基本的姿勢として日本の政治伝統を重視した。明治憲法は、伊藤と井上の構想の妥協の上に出来た観がある。結果的に、天皇と政治との関係を法律上明確にさせるのではなく、運用に任せるべきとして曖昧な点を残した。この曖昧さが後に、天皇統治権の拡大解釈へと向うことになった。

【民間の憲法論議】
 官僚国家の構築が進む一方で、人民の立場に立った理論・思想も芽生えさせ、自由民権運動、立憲制論議を活発にさせていくことになる。龍馬の「船中八策」で残した思想の左派的な継承の流れであったと思われる。例えば、不平等条約改正で活躍した陸奥宗光は海援隊で働き、3代目の神奈川県令になった「中島信行」に、「中島は早い時期から自由民権思想をもち、地方民会議員の公選を唱え、県政を去った後も自由民権と憲政の確立を唱えて国内各地を遊説した」とある。

 民権と国権の拮抗問題

 明治14年24歳の青年植木枝盛が憲法草案。「日本国の最上権は日本全民に連属す」。

【枢密院設置】
 1888(明治21).4.28日、天皇の最高顧問府として元老院の後を受け、枢密院が設置された。首相の伊藤が転じて議長に任ぜられた。5.8日、明治天皇御臨席のもと開院式が挙行され、敗戦による昭和21.10.29日の憲法改正案の審議可決を最後として新憲法の実施とともに58年間の歴史に幕を閉じた。

 枢密院の構成は、正、副議長、顧問官で、いすせれも親任官であった。任用資格は40歳以上の男子で、内閣の奉請によって親任され、成年以上の親王も会議に列することになっていた。国務大臣が議案の説明や質疑に対する答弁の為に列席し、且つ表決権を有した。国政に対する直接の発言権はなかったが、お目付け役として機能した。

【第2代、黒田内閣】(第2代:黒田清隆内閣(任:1888.4-1889.10))、内大臣・三條實美暫定内閣(任:1889.10-1889.12)
 伊藤博文は、三年間に渡った首相職のあと、憲法制定に本腰を入れることを理由に内大臣三條實美に辞表を奉呈し、明治天皇はこれを裁可し、伊藤は後継首班に薩派の黒田清隆を推薦して枢密院に議長として赴任する。かくして1888(明治21).4.30日、二代目黒田内閣(明治21.4.30〜明治22.12.23)が成立する。内閣の顔ぶれは次の通りであるが、伊藤内閣の閣員をすべて引き継ぐ形で成立した。

 第一次内閣は旧長州藩を突出させていたが、今度は旧薩摩藩色を濃くして黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道、森有礼らの面々が登用されている。異色なところとして、外務・大隈重信(佐賀)の登用が注目される。陸軍・大山巌(薩摩)、海軍・西郷従道(薩摩)。

1889(明治22)年の動き

【大日本帝国憲法発布】
 1989(明治22).2.11日、天皇の名で大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布された。「極東アジアで最初の近代憲法」という史的価値を持つ。 ちなみまに、アジアで最初の近代憲法は、1876年にオスマン・トルコ帝国で公布さ れたミドハト・パシャの準備したミドハト憲法である。これによりトルコの短命ながら第一次立憲制がひらかれた。

 「大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを統治する」。明治天皇は自らを国家統治者として元首の地位に就いた。内閣(ないかく)・議会(ぎかい)・裁判所(さいばんしょ)がおかれ天皇を助ける機関となった。

 この日保安条例が解除され、憲法発布の恩赦によって多数の民権家(政治犯)が釈放された。国会開設は1年後に迫っていた。この辺の政治的駆け引きは、伊藤博文ー山県有朋ラインの方が幕末の権力闘争をくぐり抜けて来ただけに、民権派よりもかなり上手だったのかもしれない。

 憲法発布と同時に地券は廃止され、地租の徴収を土地台帳に よって行う制度へ移行した。この土地台帳は,現在も全国の法務局で保管管理 されている。

【菊池寛の小説「大衆明治史」の憲法発布時のお祭り騒ぎ考】
 日本初の憲法である明治憲法が世界でも珍しかったのは、世界では、憲法誕生前には必ずといって良いほど大量の血が流れていた。例えばイギリスでは、絶対的な権力者だったはずの国王チャールズ1世が公開死刑されている。フランス革命でも大量の処刑者が出て、当時の国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが公開処刑されている。アメリカには国王はいなかったが、対イギリスとの独立戦争で約5万人の戦死者を出してやっと憲法制定に至る…。それと真逆だったのが日本。戦前の文豪にして文藝春秋や芥川賞・直木賞を創設し、自身も数々の名作を生み出した大文豪/菊池寛による明治を描いた小説「大衆明治史」(昭和17年刊行)では、憲法誕生の日の様子が次のように書かれている。  (「菊池寛による明治を描いた小説/大衆明治史」広告文参照)

 「東京は湧き返る様なお祭りさわぎであったが、市民の中には『今日は憲法様のお祭りだ』と言い喜んだ者もあった。思うにヨーロッパの憲法発布には、必ず流血の惨事がつきまとっている。これに対して、日本が上下和気あいあいたる中に近代国家の大黒柱ともいうべき、堂々たる憲法を作り上げたということは、この上もない誇りであると言ってよい」。

【貴族院令発布】
 2.11日、大日本帝国憲法の発布に合わせて貴族院令が公布された。貴族院は、皇族、華族並びに勅任議員、学士院会員勅任、多額納税者勅任で組織され、衆議院と共に議会の二院制を構成することになる。終戦後、日本国憲法の実施と共に廃止された。

 貴族院は、政府翼賛議員として機能した。反政府の立場に立った稀有の例として、第一次山本内閣の第31議会で、一般会計予算をも否決し、大正3年度予算が不成立となり、内閣総辞職に至らしめた事例が有る。

【森有礼(もりありのり)】
 2.11日、憲法発布の日、新政府の要人にして第1次伊藤内閣の文部大臣を努めた森有礼が、伊勢神宮に参拝したとき靴ごとあがり、ステッキで御簾をあげてのぞくなどして皇室を軽んじたなどという理由で(そのような事実があったか否かは不明であるが)、尊王志士国粋主義者の西野文太郎によって「皇室と皇道に対して不敬のかどあり」として襲われ、翌日死亡した(享年41歳)。

 大日本帝国憲法が発布された2.11日、山口県出身の国粋主義者が、東京都千代田区の文部省公邸に、「大臣を暗殺しようとする密計がある」との話を口実に入り込み、隠し持っていた出刃包丁で有礼の腹部を刺し、発布の式典用の礼装を鮮血に染めた。

 これより以降は、「明治維新の史的過程考(2―2)(伊藤が射殺されるまで)





(私論.私見)