明治維新史(1-2)、西郷首班内閣期 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).7.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
まず、明治維新が極めて短期間に進行したことを確認したい。太平の眠りを覚ましたペリー来航は1853年、王政復古を宣言した1868年まで15年である。この幕末維新により、徳川270年の幕藩体制が崩れ、明治の世になった。明治政府の前に立ちはだかった課題は、1・国の独立を全うする、2・急速な近代化による文明開化、3・富国強兵、4・殖産興業等々の政策であった。これを如何に能く為しえたのか逆なのか、この辺りを考察せねばならない。 2007.3.22日 れんだいこ拝 |
【これより以前は、明治維新史(1-1)、明治維新から士族の反乱に至るまで」に記す】
【「廃藩置県」断行】 | ||
7.5日、西郷は、制度取調会の議長となり、7.6日、委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論が続けられる事になった。 7.9日、木戸邸において、新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が催された。しかし、会議は紛糾する。この後に及んで時期が尚早であるとか、廃藩を発表すればどんな騒ぎになるか分からないなどという論が起こり、木戸や大久保の間で大激論になった。その激論を黙ってじっと聞いていた西郷が口を開く。
重いそして力強い西郷の一言であった。木戸と大久保は、その西郷の一言で議論を止めた。この西郷の一言と大きな決断力で、廃藩置県が最終的に決定された。廃藩置県の朝議が下された。 7.14日、天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を発布した。右大臣三条実美が勅語を読み上げた。
廃藩置県の直前には、3府40県と諸大名が支配する261の藩があった。新政府の直轄領である府県の石高は860万石、それは全国の石高(3000万石)の約3分の1にしかすぎなかった。中央集権的な統一国家をつくるためには、藩を廃して年貢などの税もすべて新政府に集める必要があった。そのために廃藩置県が断行され、藩に代わり3府3百2県が置かれることとなった(やがて三府72県に統合され、明治21年には三府43県となり昭和に及ぶ)。 各藩の藩主や藩士は一夜のうちに一遍の詔勅によって地位と財産を奪い去られた。旧藩主の藩知事は罷免されて東京在住を命ぜられ、代わりに政府任命の地方長官が府知事・県知事(のちの県令)として派遣された。諸藩の年貢は政府の収入となり、藩兵も解散を命ぜられた。この廃藩置県で藩政解体改革が完結する。人事面でも改革に直接携わった人を行政の長に据えるなど、行政面でも新体制の出発点となる。 当然の如く諸大名の抵抗が発生した。例えば、薩摩にいた島津久光は、この廃藩置県を聞いて烈火の如く怒った。久光は保守的な性格のままに、西郷や大久保らによって廃藩が行われたと知るや怒り心頭に達し、鹿児島の磯の別邸(現在の鹿児島市の磯庭園)の前の海にいく艘もの船を出させ、終夜花火を打ち上げさせ鬱憤を晴らしたという話が残っている。だが、西郷らが作り上げた御親兵や東西の鎮台が反乱に備えてにらみをきかせていた。そのため、この廃藩置県と言う一大改革はごくごく平和的に達成された。 政府が恐れていたような混乱は起らなかった。旧藩士の家禄支給や負債も免除され政府が肩代わりすることとなった為、旧藩主にとっても助け舟の面があった。 諸外国から来ていた外国の使臣や公使は、この廃藩置県が平和的に行われたことに驚愕した。ヨーロッパにおいてはこんな平和的な解決は考えられなかったからであった。このように、廃藩置県が断交されたが、これを成功せしめた背景西郷の尽力があり、その徳望と勇断力をもってして廃藩置県という一大革命が成し遂げられたと云える。 新政府は、当初、旧藩の名前や領地をそのまま残す形で3府302県を設置した。この時、さほどの混乱もなかったので、4ヶ月後には3府72県に、そして、1876年には3府35県に統廃合された。 そして、この過程で、新政府に抵抗した藩は、県名から消されてしまった。当時、大蔵卿であった大久保利通と大蔵省の役人たちが考えたことと云われている。 |
【封建的諸制限撤廃される】 |
廃藩置県前後、新官制の決定や内閣人事が順次行なわれた。以降、様々な封建的制限が撤廃されていった。 戸籍法制定。これにより人々の移動の自由が保証された。封建的土地緊縛から解放、田畑勝手作を許可、農民へ土地利用の自由を与えた。 |
【岩倉洋行団の出発】 | ||||
明治4年から6年にかけて、版籍奉還、廃藩置県を終えた明治政府は、廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況で「自ら国家を保持するに足る制度を確立するに非ざれば不可なり」(岩倉具見)として、「江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国の近代国家制度の視察」を表向きの理由として岩倉を団長とする使節団(「岩倉洋行団」)が組織されることになった。 11.12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允参議、大久保利通大蔵卿、伊藤博文工部大輔、山口尚芳が任命され、以下同行の官員、留学生(後に津田英学塾→津田塾大学を創設する津田梅子ら)を合わせて百名を超える大洋行団が、アメリカへ向けて横浜を出港した。 明治新政府の第1回海外留学生として、長井長義(1845ー1929、藩医家系)がプロイセン(現在のドイツ)のベルリン大学に派遣された。長井は化学を学び、帰国後の1884年、半官半民の大日本製薬会社設立に際し、39歳で同社の技術部門のトップと東京大学教授を兼任する。粗悪な輸入薬品が氾濫する明治初期にあって、エフェドリンの製品化など国産薬品の開発を牽引する。今で言う「産学官連携」を実践した(2005.6.1日付け日経新聞文化欄の渋谷雅之氏の「薬学の父、長井長義一代記」より)。 実に米欧12カ国を1年10ヶ月もかけて回覧した。この時、岩倉、木戸孝允、大久保利通の参議実力者、工部大輔の伊藤博文らの次期のホープも加わっていた。この岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていた。 この時、大久保は、特にドイツ宰相ビスマルクの専制政治に影響を受けた。 |
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「」は次のように述べている。
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、泉 三郎 「岩倉使節団:日本近代化の行方を探る世界一周の旅」。
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【留守居役西郷内閣】 |
岩倉らが出発すると、この間の留守居役を西郷が任された。明治天皇は、西郷を近衛都督として御親兵のトップに据えた。他に、太政大臣・三条実美、参議・大隈重信、板垣退助、司法卿・江藤新平が留守政府を預かった。留守政府と使節団との間には、重要政策や重要人事をみだりに行わないなどの12か条の約定書が取り交わされていたが、西郷を中心とした内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していった。 特筆ものをあげていくと、1・警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、2・府県の統廃合(3府72県)、3・各県に司法省所属の府県裁判所の設置、4・陸軍省・海軍省の設置、御親兵を廃止して近衛兵の設置、 5・田畑永代売買解禁、6・東京女学校、東京師範学校の設立、7・学制の発布、8・人身売買禁止令の発布、9・散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止、10・キリスト教解禁、11・国立銀行条例の制定、12・太陽暦の採用、13・徴兵令の布告、14・華士族と平民の結婚許可、15・地租改正の布告などの斬新な改革を次々と打ち出していった。 これら全ての改革が西郷の発案によるものではないが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革であることは史実である。明治新政府に於ける善政的諸改革のほとんどが、西郷系譜の手により為されていることが分かる。これが史実の真相であるが、凡庸な通説の手に掛かると、西郷の政治家としての能力を貶め、明治政府においてはただの飾り物に過ぎなかったと論じているものが多い。まさに己の器量に応じて解する典型であろう。西郷が政府の首班として在職していたこの期間、明治政府の悩みであった農民一揆や反政府運動というものがほとんど起こらなかったことも示唆深い。 5月から7月にかけて、天皇が関西、中国、・西国巡幸し、西郷が随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかった。 7.26日、西郷が、陸軍元帥兼参議に任命された。この時、山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。 |
1872(明治5)年の動き |
【「三条の教憲」を定める】 |
1872(明治5)年、明治政府は、「三条の教憲」を定めた。「三条の教憲」とは、第一条、敬神愛国の旨を体すべきこと。第二条、天理人道を明らかにすべきこと。第三条、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと。これを教育の指導方針とし国家形成していくことにした。古事記、日本書紀が教えられるようになった。 |
【地方制度改革】 |
1872(明治5)年、大小区制が定められ、地方制度の大改革が為された。具体的には,それまでの庄屋,名主などによる村自治,およびそれを統轄管理する
領主(その地の管理を承けた家を含む)、代官による旧来の制度にかわり、数ヶ村で小区を構成、さらに数小区で大区を設定して、県の長から直接に最小組織が見えるようにした。管理統轄のために、大区に区長、小区に戸長、町村に副戸長・用掛を置き、県令から任命した。 地方制度は、その後、郡区町村制(明治11年)、明治22年の市制町村制と整備され、現代同様の制度が誕生する。明治22年というとちょうど明治憲法施行の年であり、 この市制町村制も明治憲法体制の一環だったといえる。 明治22年の市制町村制の施行により、近畿で市となったのは、大阪・京都・神戸・姫路・堺と和歌山だけである。たとえば和歌山市は、今は一地方都市過ぎないが、 当時は紀州徳川家のお膝元で人口約五万人を擁する全国13番目の大都市であった。 奈良の市制施行はこれに遅れること数年、1998年年が市制施行100周年に当たる。 |
【壬生地券発行による土地所有権及び売買の解禁】 |
大久保利通、井上馨、の連名の下、神田構想に沿って建議が正院に提出。これにより土地永代売買が解禁され、地券が発行された(壬申地券)。これにより、農民の土地に対する権利保障を与えた。しかし、この地券は地価は記載し、地租は記載されずであった。地域差の大きい旧来の貢租をそのままにして売買地価を記載していた。同じ収穫のある土地でも貢租の高低により売買地価に差が生じた。 明治5年より壬生地券が発行されたが、地租の負担はけっして軽くなく、このため、各地で地租改正反対運動が起こった。このたびに、地租改正の進行に応じて改正地券が発行され順次切替えられていった。 西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府が当初悩んだ農民一揆や反政府運動というものは、ほとんど起こっていない。明治の知識人である福沢諭吉も、西郷が政治の中心となった2年間は、民に不平がましいことも起こらず、自由平等の気風に満ちた時期であった、というようなことを著作の中で書いているとあるが、不分明。 |
5月、徴兵制の施行で、西郷が初の陸軍大将に任ぜられた。
5月、天皇は、中国、四国、九州方面の西国巡幸に赴いた。西郷が随伴した。この巡幸をきっかけにその後明治9年、東北地方、函館。明治11年、新潟、富山など北陸。明治13年、中部。明治14年、北海道。明治18年、広島、岡山を巡幸した。
8.17日、西郷が陸軍大将兼参議に任ぜられる。
7月、西郷は陸軍元帥、近衛都督に就任。
【東京―横浜間に鉄道開業】 |
1872(明治5).9.12日、東京の新橋駅―横浜間に鉄道が開業した。9両編成。開業式が挙行され、これが明治政府が企画した最初の祭り行事となった。当時「陸(おか)蒸気」と云われた。 その意義は、政府の推し進める文明開化と殖産興業政策の象徴であったことにある。駐日イギリス公使パークスの支援を受けながら、民部・大蔵省付き次官クラスであった大隈重信と局長クラスの伊藤博文がこれを推進役を勤め、右大臣・三条実美、大納言・岩倉具視を押し立てて計画を纏めた。1869.12.11日鉄道建設を決定し、1870.4月着工に漕ぎ着けている。 |
1873(明治6)年の動き |
【太政官布告で梓、市子等の禁止を発令】 |
明治政府は、前年の「三条の教憲」を引き継ぎ、「梓、市子等の禁止」を発令した。古事記、日本書紀的神道教育を押し進める立場から、それに基づかない諸宗、俗信を規制した。 |
【キリスト教解禁】 |
「岩倉洋行団」の安政不平等条約の改正交渉は一蹴され、逆に、キリシタン解禁を強硬に要求された。新政府はこれを容れて、キリスト教を解禁した。 これにより諸藩に預けられていた長崎の大浦の天主教徒は4月から8月にかけて帰村した。村を出たときは3380名であったが、死んだ者562名、落伍者1022名。逃げた者、監禁の地にとどまった者を除く帰村者は1930名であった。 |
将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された! 1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1894年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。これは、北京の満州王朝が1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたことに対する報復であった。 |
5月、徴兵令が実施されたのに伴い元帥が廃止され、西郷が陸軍大将兼参議となった。
【地租改正令が布告される】 |
7月、陸奥宗光の提唱から始まる地租改正令が太政官布告された。その骨子は、1・土地調査に基づき地券を交付。2・新地租として土地の価格に応じた金納とする。3・税率は算定地価の3分(%)とする。なお、地租の3分の1以内を村入費として付加する。4・村単位の納入を止め、個人毎の支払いとする。5・地価の改訂は5年ごとに行う、というところにあった。政府はこの改革により税収の安定的調達を図ったが、取りも直さず「歴史上画期的な近代的税収化であり土地制度改革」となった。
既に明治初年の地租改正により農民の土地所有権が認められていた。 その証として地租改正の際に地券と呼ばれる所有者・所在・地目・段別・地価・地祖が書かれた土地権利証が発行された。 先ず明治5年より壬生地券が発行されたが、地租の負担はけっして軽くなく、 このため各地で地租改正反対運動が起こった。 このたび、地租改正の進行に応じて改正地券が発行され順次切替えられていった。 この地価を定めるために土地所有権、土地の境界や面積の確認が急がれることになった。私有地と公有地の別も為されることになった。この改革は6年末から明治13年までかかってようやく完了する。 問題は、これまで曖昧にされてきた土地の国有化にあった。これにより農民の隠し田が摘発されたり入会権的既得権益が失われることになった。もう一つ、土地の売買自由、土地利用の自由という資本主義的近代化に道を開いたことにあった。それは進歩的な意義も持っていたが、同時に貧窮自作農民層の土地放しを促進させていくことになった。地主階級はこれにより土地取得を活発化させていくことになった。 租税はそれまで米の物納で為されてきていたが、これを金納にするため、まず1筆毎に地価をきめ、所有者は地価の100分の3(3%)を税として金納させることとし、実施にとりかかった。これを地租改正という。 地租改正は、村ごとに「地引帳」を作る仕事からはじまった。従来、土地は誰が所有者かはっきりしない部分が多く、年貢は村の連帯責任で納めていたのを、新しく個人責任とするために、まず耕地や宅地については百姓に所有権を認め、不明確な所は百姓内部の協議で決めさせ、土地の所有を明らかにする「地券」が所有者に対し交付されることになった。 従来租税負担は各藩まちまちで(例えば尾張は軽く、三河は重い)同じ藩内でも不公平があった程だが、政府としてはこれまでの収入を減らしてはならない。まさに地租改正は有史以来の大事業だったが、長い年月かけて実施に移すような余裕もない。そこで政府は、明治9年末完了を目標に、地祖改正事務局をおき、権力を以て強引に推進をはかった。 政府は最初実際の売買地価を基礎に地価算定を行おうとし、次いで検査例第2則の適用も試みられたが、いずれも地域差が大きいことなどの理由で退けられた。→結局、第1則による土地収益の資本還元の方式によることになった。しかし、これには控除される必要経費に賃銀・農具代などが含まれず、資本還元する際の利子率が当時の実情と隔絶した6%とされ、算定地価を大幅に引き上げている点があった。→農民側から激しい批判→結局、単位面積当たりの収穫領の評価において考慮された。 地位等級制度を採用…現実の調査を下に、1筆→村→郡(区)→府県という順で府県の平均反収を算出する代わりに、まず府県の平均反収が決定され、府県→郡(区)→村→1筆へと割り当てられる方式…押し付け反米。 新地租は収益税という外見的な装いにもかかわらず、現実の地価算定は農民側の実態に基づいて行われず、専制政府による押付そのもの→近代的租税の基本前提たる私有財産権の確立と保障(国家と市民社会の分離)が認められず、各農民の収益の実情と乖離した著しい不公平を生んだ。 租税負担者たる農民が議会における税制審議権を一切持たない状態下では、農民に認められた土地所有権も限定的なものでしかなく、商品化される土地の上には土地所有者の手に届かないところに課せられた高率地租が定着した。 山林原野のうち、個人の持山や屋敷に付属した山林は、耕地や宅地と同様、地券が交付された。尾張徇行記によれば「藤塚御林御鳥林」のように、「御」のついた山が、周辺の村々にもたくさんある。尾張藩が上水野村に、お林方(おはやしかた)奉行所を置いて、営林・盗伐の取締り等をしてきた山はすべて、異議なく官林(後に国有林・御料林)になった。 さて、地価の査定は形式的には村や郡で地価銓評議員を選出して、各村の順位をきめ収穫を査定し、金納化していった。が、土地の評価方法をめぐって担当した係官と農民代表議員との間で激しく対立した。新租が旧租の5割以上高くなる村が続出し、そのため承諾書提出を拒否して改正反対運動が巻き起こることになった。 |
地租改正の本質 地租の性質を近代的租税と見る見解と半封建的貢租ないし封建地代の一種としての貨幣地代として見る見解が対立している。小作料の性格についても、近代的借地料と見る見解と半封建的地代と見る見解とが対立している。 地租改正を契機に寄生地主が全国的に成立することになった。寄生地主的土地所有を広汎に創出し、日本型原始的蓄積を推進した。地租改正により地主層が広汎に形成され、その地主層と資本関係が結合することにより、政府による殖産興業政策の基盤をつくっていくことになった。貿易を通じて打撃を蒙りつつあった農民の小ブルジョア的発展に対して、高率地租の重圧を改めて課すことを通じて、下からの資本主義化コースの可能性を奪い去り、権力と地主が収奪した農民的余剰を小作農民経営から析出される賃労働者と結合せしめる形での資本関係創出の前提条件を作り出した。 地租改正後の土地所有は土地緊縛規定撤廃を前提とする土地商品化という土地所有の必要条件を満たしているとはいえ、土地用益権(耕作権)が制限されており、なお近代的土地所有たるに十分な条件を備えていない。小作料の本質を半封建的地代とみなせば、日本の寄生地主的土地所有の歴史的本質は、西ヨーロッパ諸国が絶対王政期にその階級的基礎とした寄生地主的土地所有と同様半封建的土地所有であったということになる。 |
【地租改正反対運動】 |
この金納制は、「旧来の歳入を減ぜざること」を主眼としており、加えて前年の米価を基準にした割当制にしていたため、米価が下がることにより農民の負担が増すことになった。そういう事情が重なり、地租改正の反対運動が全国的に巻き起こることになる。 これによって土地の所有権は明らかになったものの、却って重税化することになり、百姓衆の不満も強まった。地租改正反対闘争…村役人・地主・豪農の指導の下での村単位の惣百姓一揆型が基本。例、愛知県春日井郡43カ村の増租押付反対闘争、1876年の茨城県の真壁闘争や三重県から愛知・岐阜・堺各県に至る伊勢暴動。これを士族の反乱との合流を恐れて、政府は77年1月に地租率を2.5%に引き下げた。こうして、反対運動は単なる高額地租への反対から、一方的な押付自体への反対(国会開設要求)へと質的な高まりを見せつつ自由民権運動へと合流していく。地租改正反対のため明治9年の小瀬一揆や真壁一揆が起きた。地租改正の反対運動は、やがて国会開設を求めた自由民権運動へと発展していく。 地租改正反対運動の中心人物として林金兵衛が知られている。林は国に何度も働き掛け嘆願したがが聞き入れられなかった。裁判による打開の道を求めたが、旧尾張藩主徳川慶勝らの説得を受けて収拾することになる。 明治9年の茨城県那珂郡の場合、本橋次郎左衛門は「憤発して党を結び類を集め、時を窺い各村を煽動し、途中障りある者あらば飽くまで抵抗し」(「日本民衆の歴史5」)、白布に「万民教」と大書し「今般万民救のため県庁へ逼進するにつき、道筋かがり火を焚き置くべし」との檄を飛ばしつつ総勢800余名で一揆を起している。結局鎮圧され、死刑3名、1千名を越える処罰者を出している(「真壁・那珂暴動」)。このような一揆は、三重の松阪(「伊勢暴動」)、愛知県春日井郡、阿蘇でも発生している。木戸孝允は「実に竹槍連ほど恐ろしきものは御座なく候」と記している。 結局、3分税率を2.5分に引き下げることに成功した。「竹槍で、どんと突き出す二分五厘」。地租改正の反対運動は、全国的な政治闘争を目覚めさせ、やがて国会開設を求めた自由民権運動へと発展していく。そして明治22年に明治憲法が発布され、国会も開設され、日本の「近代化」の方向が確定する。1889(明治22)年、憲法発布と同時に地券は廃止され、地租の徴収を土地台帳によって行う制度へ移行した。この土地台帳は,現在も全国の法務局で保管管理されており、取り寄せ、閲覧が可能である。 |
【明六社運動】 |
7月、アメリカから帰国した森有礼を中心として「明六社」という西欧文化を研究する団体が創られている。富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考え、欧米流の「学会」を真似た団体を創立した。「帝都下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、同士への呼びかけを始めた。当時、27歳であった福沢諭吉を会長に推すも固辞し、森が初代社長に就任した。名称の由来は明治六年結成からきている。会合は毎月1日と16日に開かれた。最初の定員は10名で、森有礼、福沢諭吉、西村茂樹、西周、津田真道、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、杉亨二、箕作麟祥、津田仙で創立された。会員は、定員、通信員、名誉員、格外員に分けられていた。旧幕府官僚で、蕃書調所、開成学校、大学南校、東京医学校など後に東京帝国大学の前身となる教育機関、開成所の関係者と慶應義塾門下生の「官民調和」で構成された。次第に学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派や日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が参加し、その後の日本に重要な影響を与えた。 |
確認できるメンバーは次の通り。 杉田玄端(慶應義塾医学所附属診療所主任)。 杉浦弘蔵(開成学校長)。 秋山恒太郎(慶應義塾塾長)。 前島密(報知新聞社長)。 長与専斎(東京医学校校長)。 早矢仕有的(慶應義塾、丸屋商社設立)。 エドワード・ハリス(大学南校教授)。 奥平昌邁(旧中津藩主)。 荘田平五郎(慶應義塾)。 沼間守一(嚶鳴社設立者)。 古沢迂郎(大阪日報社長)。 福地源一郎(東京日日新聞主筆)。 島地黙雷(浄土真宗本願寺派)。 吉原重俊(日本銀行総裁)。 四屋純三郎(慶應義塾)。 藤野善蔵(慶應義塾塾長)。 松田道之(東京府知事)。 亀井茲監(旧津和野藩主)。 伊達宗城(旧宇和島藩主)。 高橋是清(日本銀行総裁、大蔵大臣)。 石川舜台(浄土真宗本願寺派)。 久保田譲(慶應義塾)。 サミュエル・ロビンス・ブラウン(宣教師、神学塾設立)。 植木枝盛(立志社設立者の一人)。 勝安芳(外務大丞、海軍大輔)。 南条文雄(梵語学者)。 菊池大麓(東京帝国大学総長、第18代文部大臣)。 外山正一(東京帝国大学総長)。 箕作佳吉(東京帝国大学理科大学学長)。 渡部温(東京外国語学校校長)。 浅井晴文(左院五等議官)。 ウィリアム・グリフィス(大学南校・開成学校教授)。 大槻文彦(国語学者)。 柏原孝章(旧適塾塾頭、駿府病院二等御医師)。 加藤弘之(蕃書調所教授)。 神田孝平(文部少輔)。 九鬼隆一(帝室博物館総長)。 阪谷朗廬(岡山興譲館初代館長)。 清水卯三郎(洋書医療器械販売業「瑞穂屋商店」店主)。 杉亨二(蕃書調所教授)。 世良太一(統計学社副社長)。 高木三郎(駐米弁務使館書記官)。 田中不二麿(文部大輔)。 辻新次(大学南校長、初代文部次官、大日本教育会長)。 津田仙(学農社農学校開設)。 津田真道(蕃書調所所属)。 富田鐵之助(日本銀行総裁)。 中村正直(昌平坂学問所教授)。 西周(沼津兵学校初代会長)。 西村茂樹(文部大書記官)。 畠山義成(鹿児島開成学校校長)。 肥田昭作(慶應義塾)。 福澤諭吉(慶應義塾創立者)。 古川正雄(慶應義塾)。 箕作秋坪(蕃書調所教授手伝)。 箕作麟祥(和仏法律学校初代校長)。 森有礼(初代文部大臣)。 |
1874(明治7).3月、「明六社」は機関誌「明六雑誌」を創刊し、開化期の啓蒙に指導的役割を果たした。1875(明治8)年、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の発行は43号で中絶・廃刊に追い込まれ事実上解散となった。その後、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院へと至る流れの始原でもあった。 |
【「征韓論騒動」の発生】 | |
この時、 「征韓論」騒動が発生する。これを検証する(別稿「征韓論の真実考」で概述する)。 1867(明治元)年、新政府は、徳川時代より行き来のあった一衣帯水の隣国李氏(りし)朝鮮に対して、王政復古を通告し、江戸幕府下同様に国同士の交際を復活させようとした。当時、李氏朝鮮は、明治新政府の欧化政策を認めず、欧米の侵略行為に対し警戒の心を抱き、排外攘夷政策を押し進め、鎖国主義を貫いていた。 新政府は、江戸時代を通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて朝鮮に交際を求めたが、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否した。朝鮮政府としては、「皇上」とか「奉勅」という言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからであった。このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否した。これが世に言う「征韓論」の火付けとなる。 明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送りつづけたが、朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあかなかった。そのため、明治政府は様々に外交交渉を続けるがらちが開かなかった。次第に征韓論が高まり、日本と朝鮮とが一触即発の危機となった。 1873(明治6).6.12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなった。外務少輔の上野景範が強硬論を主張し、参議の板垣退助が同調した。「居留民保護」を名目に軍隊を派遣し交渉すべしと議論が沸騰した。 この間、陸軍大将であり、参議である西郷隆盛は閣議で沈黙を保っていた。板垣の好戦的発言に同調の気分が高まり始めたのを見て、西郷は口を開いた。板垣提案に次のように述べている。
西郷はかく板垣の朝鮮即時出兵策に反対した。西郷は、礼を尽くした外交交渉で解決すべし、自らがその任務に赴くと主張した。これは、西郷の「日・朝・清」の三国連合でもって欧米列強の力に対抗せんとしていたアジア主義の賜物であった。 西郷のアジア主義に、板垣以下他の参議らも賛成したが、肥前佐賀藩出身の大隈重信が異議を唱え、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い」と主張した。西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い」と大隈を批判した。こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来なかった。しかし、この日の閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となった。 |
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この一連経過から伺うのに、西郷は元々「征韓論」を主張していない。むしろ逆に、征韓論に対して反対意見すら述べていることが分かる。西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命される。西郷はその準備を始めた。通説は、「1873(明治6)年、大久保、木戸らが遣欧使節に出た留守に征韓論が起こり、朝鮮出兵が閣議決定される」としているが、大いに問題ありであろう。 |
【岩倉全権団が帰国】 | |
5月、歴史は摩訶不思議で、李氏朝鮮との対応を巡って閣議が喧々諤々の最中に岩倉洋行団が帰国した。岩倉全権団の帰国は、それまで留守を預かってきた西郷内閣との確執を生んだ。遣外使節団の条約改正は不成功に終わったが、彼らは、外遊によって得た欧米諸国の国情を基に、その後の国政に関する指導権を奪おうとし始めた。 「西郷南洲遺訓」は次のように記している。
西郷は上述の目線を有していた。「白人たちが鉄砲と十字架を担いで世界中を侵略し、荒らし廻っている野蛮な行為を知っていた。日本もウカウカすると彼らの餌食になる危険を直感していたのである」(清水*八郎「破約の世界史」)。西欧崇拝一辺倒の欧化主義者として帰国した、西郷の目線を持たない岩倉洋行団との対立は必至であろう。 |
これより以降は、「明治維新史(1-3)、士族の反乱から伊藤体制確立まで」
(私論.私見)