明治維新史(1-3)(士族の反乱から伊藤体制確立まで)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).7.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この間、士族は解体され、その階級移動は必ずしもうまくは行かなかった。百姓・町民側から見ても、当初は新政府に期待したが、税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は依然として重く、これでは葵の紋が菊の紋になっただけだと不平不満が噴出した。こうした不満が各地に一揆を頻出させた。が、明治10年に西南の役が鎮圧された頃より、武力闘争に代わり立憲政治、議会政治闘争へと方向転換していくことになる。この流れを見ていくことにする。

 2007.3.22日 れんだいこ拝


 【これより以前は、「明治維新史(1-2)、西郷首班内閣期」に記す】


【征韓論を廻り政府が分裂、西郷らが下野する】
 王政復古で開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との歩調を合わさなかった。

 8.17日、武力征韓論が強まりつつある中、 閣議で西郷の朝鮮使節派遣決定した。西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣桐野利秋大隈重信大木喬任らであり、反対したのが大久保利通岩倉具視木戸孝允伊藤博文黒田清隆らである。岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、国内が急激な改革で混乱していたことは大久保らの態度を硬化させた。

 8.17日、西郷の朝鮮使節派遣案を上奏された明治天皇は、「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと述べ、西郷派遣案を却下した。

 9.13日、岩倉帰国。

 10.14日、太政大臣三条実美右大臣・岩倉具視、以下参議の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が出席して閣議が開かれた。この際、大隈・大木が反対派に回り、採決は同数になる。西郷は、この意見が通らないなら辞任すると表明した。西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがあった。

 10.15日、閣議で朝鮮への使節派遣再決定。り、西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、岩倉も辞意を伝えた。

 10.17日、後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が過度のストレスで倒れ、意識不明に陥った。

 10.20日、岩倉が太政官職制に基づき太政大臣代理に就任した。

 10.22日、西郷、板垣、副島、江藤が岩倉私邸を訪れ派遣決定の上奏を要求するが、岩倉は「三条太政大臣による派遣決定は上奏するが、太政大臣代理である私の意見も上奏する」と主張した。

 10.23日、「西郷の朝鮮派遣」を廻って閣議が開かれ、席上、岩倉は派遣決定と派遣延期の両論を上奏した。岩倉具視と大久保利通が強硬に反対意見を述べ始めた。概要次のような論拠であった。  

 「西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い」。

 明治天皇は岩倉の意見を採用し、西郷派遣は無期延期の幻となった。大久保は事前に宮内卿徳大寺実則に対し、西郷らが明治天皇に直訴しに来ても会わせないようにと根回しを行っていた。

 通説は、「日本は朝鮮問題に関わるよりも内政の充実が先決である」として「内治優先論」を唱えたと評価している。これもオカシイ。大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを前提として論を展開しているが、この時の西郷の真意は、平和的使節として派遣されることを所望しており、「江戸城無血開城」の先例に継ぐ大交渉の任に当たろうとしていたのが史実であろう。そういう意味で、通説は、後の政権に都合の良い事大主義的粉飾による歴史偽造していることになる。

 こうして、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられることになった。大久保は、西郷の意見が取り入れるならば辞任するとまで言い出し、国論は揉(も)めに揉めた。結局、西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定された。三条実美と岩倉具視が天皇に上奏することになった。が、岩倉の策略で西郷の朝鮮派遣は潰されてしまう。

 三条が心労の余り昏倒し、上奏できなくなった(急死したともあり、毒殺の可能性が疑われている)。かくて岩倉具視が三条に代わり太政大臣に就任し、上奏した。が、閣議決定と異なる「征韓は時期尚早」を奏上し、天皇の裁可が下った。こうして、一大ドンデン返しが起こり西郷の遣韓論は潰された。つまり、岩倉は、いったん決定が下っていた西郷の朝鮮派遣をひっくり返すのに成功した。  

 10.23日、岩倉太政大臣代行の上奏で使節派遣を中止させた。西郷は当日、陸軍大将・参議・近衛都督を辞し、位記返上を申し出る(参議・近衛都督の辞表は受理)。

 10.24日、「西郷を朝鮮使節として派遣する派」の板垣、後藤、江藤、副島が辞表を提出した。

 10.25日、辞表が受理され、江藤新平(佐賀藩士)、副島、後藤(土佐藩士)、板垣(土佐藩士)の4参議が、桐野利秋、篠原ら西郷派の官僚・軍人面々も仕官辞職した。こうして当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す明治初期の一大政変となった。この政変が士族反乱や自由民権運動の発端となった。西郷派は鹿児島に帰郷した。その西郷の下へ不平士族、民権論者が合従連衡し始め不穏な醸成を生んでいくことになる。(通説は、「征韓論派の下野」と看做している) 

 この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。これにつき次のような論がある。

 「伊藤博文の非人仲間である山県有朋が、官吏と政商が癒着した官製談合汚職をはたらき、それを西郷隆盛の和韓論に賛成した佐賀藩士江藤新平が司法卿の立場で糾弾しようとしていたから、伊藤が陰謀で西郷隆盛もろとも江藤新平を政府から下野させて山県有朋の政商癒着汚職が発覚して処刑される危機から救ってやった事件を云う。だから真っ先に佐賀の乱で江藤新平を殺した」。

 こうして、岩倉大政大臣、大久保利通、大熊重信などを参議とする内閣が成立した。これを「明治6年の政変」と云う。これが「明治政府の第一次分裂」となる。韓国政府と友好関係を結び、和平を唱えた西郷らは、事実とは全く別の強硬な征韓論者に仕立て上げられて、歴史に汚名を残すことになる。

 この結果、西郷と大久保の仲は決定的に分裂した。大久保は、内務卿を兼ねて政府の中枢、中心的存在となった。殖産興業をすすめるとともに、自由民権運動、士族叛乱、百姓一揆等のうち続く混乱の中で専制的な支配を一層強めた。特に士族叛乱においてはこれに対抗すべく諸外国から最新鋭の武器の大量買い付けを命じ、更に7年の佐賀の乱では、鎮台兵の士気高揚も兼ねて前線視察に赴くなど、事件処置に挺身した。
(私論.私見) 「西郷の征韓論」について
 以上の検証から云えることは、世間に流布されている「西郷の征韓論」話が史実と違うことである。「明治六年の政変」は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であったとみなされているが、史実に反することになる。西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していない。当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしている。

 内政を優先させるのが先決であると主張したとされている大久保がその後に為した事は、明治7年の台湾武力征伐であり、翌8年には朝鮮との江華島交戦である。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせてもいる。

 つまり、通説に従うと整合しなくなる。つまり、「外征派の西郷対内治派の大久保」という構図はまやかしであることになる。西郷を征韓論の首魁と決め付ける歴史観は早急に訂正される必要があろう。

 2005.7.21日 れんだいこ拝

【西郷、桐野とともに鹿児島へ帰郷する】
 11.10日、西郷、桐野とともに鹿児島へ。西郷の辞職・帰国は国内に衝撃を走らせ、西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋(きりのとしあき・前名中村半次郎)や篠原国幹(しのはらくにもと)ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官らは、続々と西郷に続いて鹿児島に帰郷する。鹿児島に帰郷した西郷は、一切の俗事を離れ、畑を耕したり、川に魚を釣りに行ったり、狩猟に出たりと、まさに農夫のような生活を始める。

1874(明治7)年の動き

【岩倉具視暗殺未遂事件発生】
 西郷派が一斉に帰郷した後、次第に不穏な空気が醸成されていった。

 1.14日、右大臣・岩倉具視が、赤坂の喰違坂(くいちがいざか)辺りで襲撃され、士族に襲われ、負傷する事件が起こる。事件重視した司法省は、旧土佐藩士にして元陸軍大尉、板垣退助の腹心の武市熊吉ら8名を逮捕し、全員死刑による斬罪処分された。

【台湾出兵】
 これより先の1871年、台湾に漂流した琉球宮古島の漁民66名のうち54名が台湾原住民に殺害されるという事件が発生していた。1873年には備中国小田県(現在の岡山県)民4名が同様の被害をうけた。日本政府は台湾を領有する清国政府に善処をもとめたが、清国側は原住民が「(中華文明に浴さない)化外の民、化外の地」であるとして応じなかった。

 2月、日本政府は、台湾への派兵を決め、4月、陸軍中将・西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命した。5.22、西郷以下3千名の日本軍が台湾に上陸し、6.3日までに原住民地区をほぼ制圧した。しかし、風土病に悩まされ、戦死者12名に対して病死者561名に及んだ。

 全権弁理大臣・大久保利通が北京にわたって交渉し、清国政府に琉球が日本であることを認めさせ、遭難漁民への見舞金など50万両(テール)を得て撤兵した。この結果、それまで日清間の紛議となっていた琉球の日本帰属が国際的に確定した。

【佐賀の乱】
 維新政府を初期の頃サポートしていたのは、薩摩・長州 ・土佐・佐賀の4藩の士族たちであったが、新政府の中で薩摩出身の大久保利通の力が強くなると、佐賀出身の士族たちの中には政府の方針に反発する者が多くなっていった。 佐賀が不穏な空気に包まれていることを憂慮した佐賀出身の参議・江藤新平は大久保利通と韓国出兵を巡って対立したのを期に参議を辞して、佐賀の士族たちをおとなしくさせるため帰郷する。

 その江藤が長崎に行っている間に2.1日、過激派の一部が政商の小野組の支店を襲撃、乱が勃発する。この時、佐賀の乱のもう一人の指導者ということにされている島義勇も東京にいた。江藤も島も急遽佐賀に入るが、結果的には抑えるどころか首領に祭り上げられてしまう。そして他の藩の士族達が呼応して蜂起してくれることを期待するが、誰も動かなかった。

 1874(明治7).2.4日、江藤新平らが佐賀の乱を起こす。反乱軍は、佐賀県庁を襲撃し、佐賀城を占領した。反乱軍と政府軍との間に激しい攻防戦が繰り広げられたが、結局、反乱軍は近代兵器を装備した熊本鎮台の政府軍に簡単に平定されてしまう。江藤は鹿児島に落ち延び、鰻温泉で西郷と会い決起を促す。しかし西郷は動かなかった。江藤は厳重な警戒線を潜り抜け土佐に向かい、林有造と会い決起を催促する。しかし林も頷かなかった。江藤、島義勇は県境の甲浦漁港で細くされ、斬首された。そのほか反乱軍の幹部11名が斬罪になった。

 佐賀の乱を鎮圧した内務卿大久保(1830~1878)の政府内での専制はますますひどくなり、木戸も批判する。

【政治結社の創設相継ぐ】
 この頃、土佐の立志社、阿波の自助会、松江の尚志会、熊本の相愛社、名古屋の羈立社、伊予の公共社、久留米の共勉社、福岡の共愛会、三河の交親社、常陸の潮来社等々全国各地に地方的な政治団体が結成されていった。

 パリ・コミューン直後、小室信夫と古沢滋(うるふ)がイギリスから帰朝し、下野していた板垣、後藤を口説き、土佐立志社を中心に日本で最初の政治結社とされる愛国公党が創設されている。板垣は、地方的な政治団体を連合させる全国的政党の結成を目指していくことになる。

 当時の日本の政治結社には、立志社・愛国社・国会期成同盟会など「社」や「会」が多い。加藤哲郎(一橋大学・政治学)教授は、「『共産党宣言』の現代的意味――資本主義分析と政治綱領のはざまで」の中で次のように述べている。
 最近みつかった故丸山真男の講演記録のなかに、こんな一節がある。「『愛国』というのは明治の維新以後、発明された言葉です。西村茂樹という明治の初期の思想家が居ます。『日本道徳論』なんかを書いて、どっちかというと保守的な思想家でありますが、この人がハッキリ『愛国とはパトリオティスムの訳なり』と言ってるんですね。つまり、愛国という言葉は――パトリオティスムもそうですけども――、これはフランス革命以後できた考え方。……したがって、自由民権運動のごく初期の政党は『愛国公党』と言ったんです。なぜ『公』と言うかというと『党』というのは悪い意味だったんですよ。『ともがら』と言って、余り良い意味がなかった。そこで『党を結んで悪いことをする』と派閥の意味で使われた。そこで『そうじゃないんだ、公の党なんだ』というんで『公党』と言った。その上に『愛国』とくっつけた」(丸山真男講演記録「日本の思想と文化の諸問題」(上)、1981年秋田県本荘市、『丸山真男手帖』2、1997・7、pp.11-12)。

【「民選議院設立建白書」が政府に提出される】
 征韓論で下野した板垣退助・後藤象二郎らの愛国公党に江藤新平・ L副島種臣(そえじまたねおみ)らを加えて、「民選議院設立建白書」を世に提起しつつ政府に提出して活動を始めた。これが、自由民権運動の走りとなる。「民選議員構想」というのは、憲法を制定し、議会を開き、国民に政治参加の場を与えるといったものであった。次のように記されている。
 「臣ら伏して方今政権の帰するところを察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而して独り有司に帰す。それ有司、上帝室を尊ぶと云わざるにあらず。而して帝室漸くその尊栄を失う。下人民を保つと云わざるにあらず。而して政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎にでづ云々」。
 「すなわち、これを振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るにあり。天下の公議を張る葉、民撰議院を建てつるにあるのみ」。
(私論.私見)
 痛烈な「有司専制」批判による我が国最初の「民選議院設立建白」であった。もっとも、この時の民選議院は選挙洗礼を受けた議員による国会開設の要望であったが、今日的な普通選挙を求めていた訳ではない。選ばれる議員は「維新に手柄のあった士族豪商に限り、天皇政治をたすける者」という「士族民権論」であった。これを評するに、「征韓論に敗れていっしょに参議を辞めた西郷もまた、士族独裁論者であったことと同様だったのである」とする論があるが、時代的制約という枠内での政治的意義を見て取ることが正解であろう。
 
 この構想自体は政府内でも必要が自覚されていた。先の海外視察を通じて、憲法と議会は文明国としての必要条件として捉えていたからである。しかし、政府内には問題が山積みだった。版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、そして征韓論などなど。これらの対応に追われ、国会開設の構想を具体化する余裕が無かった。 大久保は、将来はともかく、今は、官制改革(まぁ、官僚による政治改革ですな)によっての内政整備が急務と考えた。板垣は、将来の日本の姿であるべき「立憲国家」のイメージを先手をうって天下に示した。問題解決の促進と、政治的主導権の奪回をめざす戦略でもあった。

 政府は、この板垣の「自由民権運動」に対し、民間による政治議論の弾圧姿勢を打ち出す。が、このような弾圧は、よりいっそう板垣の自由民権運動を促進することとなった。1874年、板垣は土佐に戻って、言論による反政府活動の拠点としての「土佐立志社」を創設する。

 1873年、米国から帰国した森有礼が中心となって設立した明六社は、機関誌の明六雑誌を発行して、民撰議院設立建白運動を積極的に支持した。

【各地で民権派の演説会が開かれる】
 自由民権運動は単なる政治運動としてばかりでなく、、農民の地租反対や借金返済延期を要請する各地の借金党・困民党などと一部は結び着き、広範な支持を得た。また、都市部の民権派ジャーナリストなども各地の演説会に招かれ、民権の啓蒙につとめている。その結果、各地に勉強会や懇談会が結成され、ついで民間による憲法想起が試みられ、全国で三十数件確認されるという。「広ク会議ヲオコシ、万機公論ニ決スベシ」という「五箇条ノ御誓文」を地でいったことになる。それは国会開設ばかりでなく、民衆による憲法構想、つまりは国家構想であった。

 横浜の税関長になっていた星亨は、英語のクィーンを女王と訳し、イギリス総領事パークスが女皇にせよとの要請を拒否した。これが為、引責辞任させられ罰金2万円に処せられている。これをいわゆる「女王事件」と云う。陸奥が取り計らい、大蔵省の役人としてイギリスの法学院に留学させることになる。日本人初の法廷弁護士資格を取得する。


1875(明治8)年の動き

【「民選議院設立建白書」を廻る綱引き始まる】
 1月、井上馨の周旋で、政府首脳(大久保、井上馨、伊藤ら)と各結社の代表委員が大阪に集まり議論した(「大阪会議」)。西郷は招かれたが欠席した。席上、政府側は時期尚早論を唱え、板垣は、直ちに国会を開くよう主張した。木戸は、基本的に賛成するが、順序として地方官会議を開き、漸次国会を開くべしという漸進論を説いた。木戸案が一種の妥協案として採用されていく。板垣は、この会議で参議に戻る(10月に辞職する)。

 4月、「立憲政体の詔」が出される。「朕今誓文の意を拡充し、ここにら元老院を設け、以て立法の源を広め、大審院置き、以て審判の政体を立て、汝衆庶と共にその慶に頼らんと欲す云々」。

 6月、地方官会議開かれる。

【日朝間に江華島事件が発生する】
 9.20日、韓国京畿道、漢江の河口にある小島付近で示威演習を行なった日本軍艦「雲揚」が砲撃された。日朝鮮近海で日本艦が攻撃されるという江華島事件が発生した。政府内では島津久光がこの機をとらえ、板垣退助とともに政権中枢への割り込みを図るが、結局辞職へと追い込まれる。

 翌1876(明治9).2.26日、朝修好条規(江華条約)を締結。その手法は、アメリカのペリー提督が日本に開国を迫ったやり方そのものを踏襲していた。西郷らを一掃した明治新政府は、朝鮮政府に対し、高圧的な交渉を展開した。これにより明治新政府は朝鮮半島支配の足掛りをつくった。

れんだいこのカンテラ時評181 れんだいこ 2006/06/20
 【この頃の「世相いろは歌」】

 山本七平氏の「派閥」を読んでいたら、次のような「世相いろは歌」に出くわした。面白いのでここに転載しておく。東京日々新聞に掲載されたとのことである。時代はいつの頃のことであろうか。
 この頃、次のような「世相いろは歌」が東京日々新聞に掲載されている(山本七平「派閥」136P)。
 今も昔も神国なるに
 ロシアアメリカヨーロッパ
 馬鹿な夷風に目はくらみ
 日本の乱れは顧みず
 歩(法、帆?)を異国に立かえて
 下手の将戯(将棋)手前見ず
 取られそうだと金銀を
 智恵あり顔に無分別
 利欲我が儘し放題
 盗みは官員、咎(とが)は民
 流浪の士族夥(おびただ)し
 多くの租税罰金を
 私勝ちの政事故(ゆえ)
 替わる布告は朝夕に
 世の行く末はいかならん
 高き卑しき分かちなく
 礼も作法も無くなりて
 そんな我国益は彼れ
 つまり夷国の計略に
 佞奸(ねいかん)者は打ち合うて
 何はともあれ角もあれ
 らい名潰したその時に
 昔に復るというたのも
 ウソと今こそ知られけり
 命を捨て国のため
 逃さず討てよ佞奸を
 大久保三条契り合い
 暮らすこの世は面白や
 止められようかや花の夢
 迷う心の末いかに
 唐人らに国を売り
 武具も刀も捨てよとは
 古今聞かざる布告なり
 蝦夷地も最早追い取られ
 天下の治乱は只今よ
 明日はかからん暗殺に
 さらば逢わんと思えども
 清き心は神人は勤王家
 憂士はあまた隠れ居て
 命を奉ずる者も無く
 みすみす二人が居るゆえに
 職の人は勤王家
 英名敢えて好まねど
 非道を責めるは天の道
 最早この上忍ばれず
 せめて尽くすは武士(もののふ)の
 すまんの民を救わんと
 京(今日)を限りの死に出の旅

 明治維新過程の明治7年頃の士族の反乱、その最後の大舞台となった西南の役に向う過程での、討幕派幕末志士の「裏切られた革命」に対する悲憤慷慨の歌である。れんだいこが思うに、士族の反乱の不平を武士の地位失職に対するものとして受け取るのは一知半解なのではなかろうか。

 実際には、命を賭した幕末維新革命が捻じ曲げられ、ネオ・シオニズムに取り込まれた薩長藩閥専制と化したことに対する抗議として、続々と士族の反乱が起ったのではなかろうか。それはいわば第二の維新であったがいずれも破れた。「不平士族の反乱」はかく受け取るべきではなかろうか。歴史家はそう伝えるべきであるのに、真相を意図的に隠蔽しているのではなかろうか。

 それにしても、このいろは歌が今にも通じているように聞こえるところが面白い。「官の腐敗、政治の私物化、夷国の計略、佞奸(ねいかん)者、唐人らに国を売り」云々とある。これに立腹し、「非道を責めるは天の道、最早この上忍ばれず、せめて尽くすは武士(もののふ)の、すまんの民を救わんと、京を限りの死に出の旅」と決意表明している。その志操や深いと味わうべきではなかろうか。

 明治維新の史的過程考(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_2_history.htm)

 2006.6.20日 れんだいこ拝

 讒謗律制定、新聞紙条例制定、出版条例改正。自由民権運動を弾圧。
1876(明治9)年の動き

廃刀令、徴兵令
 新政府は、華士族に残されていた特権の廃止にも遠慮なく着手していった。

 3月、政府は廃刀令を出して士族の帯刀を禁じた。1870(明治3)年、一般人の帯刀を禁じ、翌年には士族も帯刀しなくてよいことにしたが、このたびは太政官布告で、以後、大礼服着用者や軍人・警察官など以外の刀を禁止し、違反者はその刀を取り上げるとした。これにより、武士の身分が廃止され、軍人・警察・官吏がそれまでの武士に変わる存在として位置づけることになった。

 この時、満25歳以上の男子への徴兵令が同時に実施された。つまり、廃刀令と徴兵制はワンセットで打ち出されたことになる。明治維新の初期段階では、倒幕運動を進めた薩摩・長州・土佐・佐賀などの藩の武士が「官軍」を形成し、国内の治安の維持に当たっていた。し かし、政府は今後日本が国内の治安を維持し、また外国とも肩を並べていく ためには、こういった武士たちによる軍隊では力不足であると考え、徴兵制 の導入を決定した。 それまで藩に所属していた武士たちの特権を取り上げて(廃刀令・全国民への苗字許可など)、代わりに全ての国民層から均質に抽出した新しい軍隊を作ろうと考えた。

 この徴兵制によって突然兵役を課せられた農民や商工業従事者も若い働き手 を兵隊に取られて困惑するが、それよりも困惑したのは旧武士たちであった。 一応身分の上では「士族」と呼ばれ平民(農工商)より上の階級ということにはなるものの、実際には社会的に何か現実的特権があるわけでもなく、それまで藩からもらっていた給料ももらえなくなり、廃刀令で武士の魂としていた刀も召し上げられてしまうと不要の階層へ一挙に転落させられることになった。

 これは士族の解体政策であり、その処遇が問題となる。政府はどのように対応したか。廃刀令が布告された翌日、大蔵卿大隈重信は、「家禄賞典禄処分の儀に付伺い」を政府に提出し、禄制の最終処分に着手することを求めた。家禄にのみ頼って生きる華士族は、大蔵省により「無用の人」と位置づけられることになった。井上毅は、秩禄処分の実施を20年は見合わせるべきだとしたが、政府の最高首脳で秩禄処分に異論を唱えたのは木戸孝允一人であった。

 7.22日、東北巡幸に随行した大久保利通らが帰京し、7.25日、金禄公債証書発行条例が公布された。政府は、金禄公債証書発行条例に付随し、いくつかの追加措置を施行した。8月、それまで一応旧藩に代わって士族たちに支払っていた俸禄(家禄・賞典禄)を停止し、全面的に現米から金禄に切り替え、全国一斉の処分が可能な条件を作り上げた。大蔵省としては満を持して、禄制廃止の具体案として「華士族家禄処分方之儀に付正院上申案」を提議した。

 代わりに 5~14年分の俸禄の額面の公債証書(金禄公債証書)を発行して、その利子だけを支給すると いう方策を取った。希望者に発行して士族の禄制を全廃した秩禄処分で、士族一人あたりの平均公債額は500円であった。これは士族への俸禄が政府予算の3割程度を占めて いて財政的に行き詰まったことが原因であった。

 木戸孝允が参議辞職。


【継続革命論士族の反乱】
 6月、西郷は旧薩摩藩の居城・鶴丸城の厩跡(うまやあと)に、私学校を設立した。この私学校は、砲隊学校と銃隊学校及び賞典学校からなっていた。西郷の後を追い帰郷した青年らの教育機関を作ろうということが、私学校の主な創立理由だった。その真意は、前途有為なる青年を育て、新政府の最良の働き手を養成することに有った。私学校において強力な兵隊を養い、いつか来るであろう再維新のために使おうと思っていた節がある。

 しかしこの政策により士族たちの積もり積もった不満が爆発する。伊勢暴動や真壁騒動などの不平士族の反乱が起こり、やがて爆発する。1874~1877年にかけて発生するが、1876(明治9)年がピークに達した。

 1876(明治9).10.24日、熊本において熊本県士族の太田黒伴雄(おおたぐろともお)を中心とする200名ほどの不平士族が「神風連」を組織し「神風連の乱」神を起こす。県庁などを襲撃、知事と鎮台司令長官に重傷(後、死亡)を負わせた。 この反乱は直ちに鎮台軍により鎮圧された。

 三日後の10.27日、福岡県で秋月の乱。旧秋月藩士宮崎車之助ら400名が神風連に続けといって蜂起した。しかし鎮台が出動するとかなわないとみて大分方面に逃走、現地の士族たちに呼応を呼びかけますが応じる者なく、結局小倉鎮台に鎮圧された。

 10.28日、山口県の萩で、前参議の前原一誠(まえばらいっせい)をリーダーとする旧士族500名が「萩の乱」を起した。県庁を襲って山陰道から中央に出ようとし政府軍と交戦、11.4日まで抵抗するが結局一週間で鎮圧された。前原は逃走したが松江で捕われ萩で処刑され、萩の乱は幕を閉じた。政府の要人の一人であった前原一誠は、「士族をもっと政権範囲に入れ、それと共に優れている国民を引き上げ政府を固めよう」と唱えていた。

 前原は、吉田松陰の松下村塾出身。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並び称された逸材。幕末から戊辰戦争の過程で、維新後、参議と成り、兵部大輔となっている。

【江華島事件、日朝修好条約の締結】
 1875年、江華島事件。日本の軍艦が突如朝鮮を砲撃、砲台を一時占拠するという事件がおきた。翌1876年、日朝修好条約が締結される。日朝両国の明治維新以来の懸念を解決するための(上記の江華島事件などを含めた)条約で、「朝鮮王国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有する」ことが確認されている。ところが、これに対して、清帝国が「朝鮮王国は大清国の属邦である」と主張し、この条約を破棄するように要求してくる。

 ここに、朝鮮半島を巡る情勢として、朝鮮の独立を認める日本と、宗主権を主張する清国とが、朝鮮国内における自派勢力と呼応して抗争し、さらには、この間にあって朝鮮半島に沿岸に不凍港を求めて新たな侵略を狙う帝政ロシアと、これを警戒する大英帝国とが入り交ざり、複雑多岐な様相を、極東では展開していくことになる。清国は、日本と帝政ロシアの勢力が朝鮮に及ぶのを警戒し、直隷総督の「李鴻章」を朝鮮に派遣する。

 このように、反政府運動が頻発して起こる中、鹿児島にいた西郷はその動きに呼応することもなく、微動だにしなかった。が、政府の大久保利通らは、明治維新最大の戦力となった旧薩摩藩士族の動きを最も気にした。そのため、大久保内務卿は、大警視・川路利良(かわじとしよし)、警視庁警部・中原尚雄、園田長照、川上親ら22名を墓参名目で鹿児島入りさせた。密偵の目的は私学校生徒らと西郷の離間を図れということであったが、今日でもこの密偵団には西郷暗殺の密名が厳命されていたと言われている。現に西郷が、この後挙兵の理由として、この密偵について政府に尋問があるということを掲げていることからしても、当時そう信じられていたことは間違いない。

1877(明治10)年の動き

 正月、鹿児島第一分署の一等巡査・有馬静蔵の元へ「差出人・評論新聞の田中直哉、宛名・中原尚雄警部」の怪文書が届けられた。手紙の内容は、火薬庫に火を放って騒乱を生み出し、その大騒ぎに乗じて西郷、桐野、篠原以下40余名を刺殺するというものであった。私学校党は、逆スパイを送り込み内偵を開始した。


 1.4日、地租改正詔書が発布され、税率を3%から2.5%に減免する。


 1.11日、教部省と東京警視庁を廃止する。  


 1.24日、天皇、関西巡幸に出発。   


 1.30日、政府、朝鮮と釜山港居留地借入約書の調印をする。


【西南の役】
 2.5日、私学校で挙兵を決定。2.17日、「今般政府に尋問の筋これあり」、西郷隆盛はこのような挙兵の理由を掲げ、兵を出発させた。2.25日、西郷が陸軍大将解任、位記剥奪される。但し、西郷軍は形勢悪しからず、同9.24日、西郷隆盛を筆頭とした西郷軍幹部らは討ち死にした。これにつき、別稿の「西南の役考」で概述する。

【板垣の日和見主義的対応】
  西郷の死により「征韓論」も消滅した。西南戦争勃発に、板垣の土佐立志社のメンバーも動揺する。西郷軍に同調して決起しようとする武闘派も出てきた。これに対し、板垣も当初は賛成したが、結局、最後の最後で腰がくだけ、中止を説いた。理由としては、国会開設について全国的な盛り上がりを見せている運動をより重視したことにあった。西南の役後、長州閥の伊藤博文や井上薫らは勢力均衡のため、板垣の政府復帰を打診する。板垣は、土佐立志社のメンバーの反対を無視して参議として復帰する。自由民権運動の盛り上がりは、この板垣の政府復帰でかき消されることとなった。

【西南の役に対する裏読み史観】
 西南戦争の裏読みとして、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。
 「西南戦争に至る諸説はいろいろある。しかしその真相は、単に大久保利通の挑発に乗せられたと言う事だけではない。西郷が願って止まなかった事は、表面上の明治政府に対する不平士族の反乱といった目先の事ではなかった。最大の課題は、自分もろとも、「ユッタ衆」を根こそぎ、道ずれにして、彼等を滅ぼす事であった。かくして西南戦争の火蓋は切られ、そして無残に敗北したのであった」。
 「明治維新は、日本以外の外圧によって、煽動され、蜂起した革命の様相が濃厚である。そして明治維新が完了し、その今迄を振り返ってみて、そこに暗躍した穏微な集団が居た事を感じ取った人物が少なからず居たのである。一人は明治維新に参画した西郷隆盛であり、もう一人は明治維新の流れを側面から見続けた西郷頼母であった。

 明治維新の蓋を開けてみれば、以後の国家政策上、二つの二大勢力が浮上していた。それは西郷隆盛をはじめとする板垣退助、江藤新平、後藤象次郎、副島種臣らの反ユダヤグループと、もう一つは岩倉具視をはじめとする大久保利通、伊藤博文、木戸孝允らの親ユダヤグループであった。そして明治維新完了後、欧米ユダヤの最終段階は、不平士族の集団を西郷隆盛に預けて、これを一気に叩く事であった。これが西南戦争の実態である。

 西南戦争は西郷隆盛の悲願であった「ユッタ衆殲滅作戦」の思惑は、成就されなかった。また薩摩西郷家と遠縁にある、会津西郷家の末裔、西郷頼母の悲願も、西南戦争の敗北で成就できなかった。しかし西郷頼母は、菊池一族の「正義武断」と「大いなる東」を掲げて、欧米ユダヤの血のネットワークに対抗して、『大東流蜘蛛之巣伝』を鮮やかに蘇らせたのである」。
 太田龍氏の「時事寸評」に興味深い観点が記されている。2004(平成16).5.9日付けの「外国スパイ網に浸透されて居た旧日本陸海軍」(樋口恒晴論文)で、次のように寸評している。
 「幕末、薩長首脳と岩倉などは、ロスチャイルド(イルミナティ中枢)に、そっくり丸ごと、日本民族と日本国家、 日本人を売り渡した、のである。これは、単なる(スパイ)の域を超えて居る。こんなことは、世界史上、他に例を見ない驚くべき祖国に対する裏切りである。しかもその裏切りの事実と真相は、そのあとの百三十余年、完璧に、日本人 日本民族に対して隠蔽されて来た。西郷隆盛は、この事実を知り尽くして居た。かくして、明治十年西南の役、と成るのである」。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「西郷隆盛は征韓論政変で失脚したというのが、西南の役以後に大久保利通政権によって流布され、日本国民の中に定着した歴史である。つまり西郷は、征韓=韓国の征討を主張し、大久保は内治重視、征韓反対を唱えたとするのである。しかし、この説は歴史の歪曲、偽造もいいところだ。

 大久保と西郷の対立は全く別の次元のものである。この幼馴染であり、幕末・維新を共に戦い抜いてきた二人の指導者は、この時、日本民族の進路をどこに向けるか、についての、抜き差しなら無い相克関係に入り込んだ。大久保には、ユダヤ・フリーメーソンのヒモがついており、日本は欧米の番犬となってアジアを叩くしか道が無い。さもなければインドのように日本も欧米に食われてしまう、と腹を決めていた。 これ以外に日本の進む道はない、と彼は確信していた。攘夷の旗印は、破れ草履(ぞうり)のように捨てるのだ。

 しかし西郷は、死んでもそんな道はとることができなかった。彼は東アジアの三国(日中韓)は、欧米列強の侵略に対して死ぬも一緒、死なばもろともの運命共同体でありたい、と固く念じていたのではないか。だから、韓国(李氏朝鮮)が欧米に対する開国を忌避し、日本の新政府との通交をも拒否した時、決死の覚悟でこの道理をもって、韓国を説こうと欲したのである。

 つまり、ことは対韓外交問題ではない。ユダヤ(欧米)の奴隷になるか、死を賭してこれと戦い続けるか、という根幹に触れる問題が、大久保と西郷の二人に表現されていたのだ」。
 「明治新政権は薩長閥と総称されるが、これは著しく不正確だ。にぜなら、倒幕維新の主力・長州閥も薩摩閥も、攘夷を貫くん欧米の番犬となるかの岐路に立って真っ二つに分裂し、流血の内乱を経ているからである。維新主体の下級武士団自体も分裂し、ユダヤに魂を売った勢力が権力を握った、とみなければならない」。
(私論.私見) 「太田龍氏の裏史観」について
 「明治維新に忍び寄るロスチャイルド(イルミナティ中枢)の影」説に対するれんだいこ見解はここでは保留するとして、西郷派の「西南の役」に対する史的意義に対する「もう一つの側面」を観ようとするこの態度には共感する。れんだいこは、西郷派こそ明治維新の永続革命派であり、それが潰えていった過程の検証をせねばならない、と考えている。

 2004.5.12日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「俗流マルクス主義の西南戦争史観」について
 俗流マルクス主義は、「西南戦争を不平氏族の最後の反乱であり、特権を奪われた従来の士族の最後の反革命の企て」と捉えることで犯罪的な役割を果たしている。これは、単なるネオ・シオニスト史観の請け売りであり、こうした史観は学べば学ぶほど有害で却ってバカになる。まさに俗流マルクス主義の馬脚を表わしていると見立てるべきであろう。俗流マルクス主義が如何に危険な真の左派運動に対する敵対理論であるかに早く気づくべきだ。

 西南戦争にいたる相次ぐ士族の反乱を実証的に検証すれば、幕末維新に命を賭した連中による「裏切られつつある革命」に対する抗議以外の何物でもなかろう。かく捉えるべきであろう。では、どう歪められたのか。れんだいこは、伊藤ー井上ラインによりネオ・シオニスト意向反映政治へと歪められた、と見る。それは、アジアの盟主化政策であり、日本帝国主義化の道であった。他方、不平氏族達は、アジアの植民地化からの解放を射程に入れていたのではなかろうか。この対立が、大東亜戦争にも反映しており、戦後の再建にも関与しており、今も続いていると観る。

 2006.10.3日 れんだいこ拝

【西郷暗殺計画裁判】
 西南の役後、参加者は国事犯として裁判にかけられた。これは日本初の戦争裁判となった。裁判所長は、河野敏鎌(こうのとがま)、検事長は大検事・岸良兼養(きしらかねやす)。この裁判で、「西郷暗殺計画」も審査され、中原たちも供述させられた。しかし、戦争前の鹿児島警察での供述書の供述を否定して概要「鹿児島警察での供述は拷問によるもので、西郷暗殺計画なるものはそもそも存在しない」と居直った。21名の警視庁関係者の鹿児島帰郷についても、「誰の命令によるものでなく、国許の不穏を憂いて、自主的に願い出て許されたもの」と主張した。これに対し、裁判長は、全員に無罪を言い渡した。(小林久三「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」参照)

 これより以降は、「明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)







(私論.私見)