明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).7.19日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 まず、明治維新が極めて短期間に進行したことを確認したい。太平の眠りを覚ましたペリー来航は1853年、王政復古を宣言した1868年まで15年である。この幕末維新により、徳川270年の幕藩体制が崩れ、明治の世になった。明治政府の前に立ちはだかった課題は、1・国の独立を全うする、2・急速な近代化による文明開化、3・富国強兵、4・殖産興業等々の政策であった。これを如何に能く為しえたのか逆なのか、この辺りを考察せねばならない。

 2007.3.22日 れんだいこ拝


 【これより以前は、「幕末通史4(大政奉還から江戸城無血開城まで)」に記す】
1868(慶応4、明治元)年の動き

【「王政復古」の大号令と「五箇条の御誓文」発布】
 3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文((ごかじょうのごせいもん)」を公布した。明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。実際の朗読は三條実美が行い、神前に奉読し、天皇みずからが国難の先頭に立ち伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国の隆昌を願った。これにより、天皇を最高権威とする太政官制が敷かれることになった。

 「五箇条の御誓文」の内容は次の通り。
 「我が国未曾有の変革を為さんとし、朕身を以って衆に先んじ、天地神明に誓う」。
一ッ  広く会議を興し、万機公論に決すべし
一ッ  上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一ッ  官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一ッ  旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一ッ  知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし

 御誓文は、坂本竜馬の「船中八策」を基にしていることが分かる。以後明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれていくことになる。

 1946.1.1日、昭和天皇は敗戦の翌年の元日、「新日本建設ニ関スル詔書」において、五箇條の御誓文を引用され次のように述べている。
 「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス」、「国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」。
 御誓文の精神に立ち返り国づくりに努めるご決意されている。
(私論.私見) 「五箇条の御誓文」考
 爾来、「五箇条の御誓文」は、右翼イデオロギーの精華と看做され続けている。れんだいこはそうは思わない。「五箇条の御誓文」が示した5道は、左派右派イデオロギーに馴染まない政道の在り方として至極真っ当なものである。れんだいこから見て、在地型社会主義運動が規範にすべき政道である。5つ目の末尾「大いに皇紀を振起すべし」が若干問題となるが、戦後の象徴天皇制的秩序で捉えるならば、目くじらするほどのものではない。ネオ・シオニズム派のワンワールド的世界支配政策が貫徹されようとしていた当時にあっては、在地主義的橋頭堡ともなるべき意義を持っており、批判されるべきではないと考える。この辺りも、れんだいこ史観と俗流マルクス主義派のそれとは大いに齟齬する。

 2006.10.3日 れんだいこ拝

 3.15日、幕末の幕府方の傑物、川路聖(とし)あきらが自邸で自刃する。
 3.15日、新政府、旧幕府高札の撤去、五榜の掲示を示す。但し、この時点では徳川幕府と維新政府との二重権力状態であった。且つ、この状態が約二年ほど続くことになる。
 3.19日、京都-大阪間の鉄道が全通。
【朝廷の動き】
 3.20日、朝廷、慶喜謹慎、江戸城明け渡しを受ける。3.21日、天皇、大阪へ行幸。閏4.1日、イギリス公使パークスが天皇に信任状を提出し、イギリス政府は新政府を承認。4.4日、東海道先鋒軍、江戸城に入る。閏4.8日、天皇、京へ還幸。4.11日、新政府軍に江戸城を引き渡して、徳川慶喜は水戸へ移る。4.15日、徳川慶喜、水戸に到着し謹慎生活に入る。4.21日、東征大総督府、江戸入城。閏4・27日、新政府が政体書を発表。3職7科8局制を改め、太政官制度三権分立を定める。5.15日、太政官札5種が発行される。7.28日、天皇・皇后、京都を出発。7.30日、天皇・皇后、東京に到着。 

 3.22日、第10国立銀行開業。5.21日、第十五銀行開業。   
【水戸学派の蠢動】
 3.28日、新政府、神仏分離令を決定。以後、全国で仏教施設・仏具の破壊運動が起こる。4.1日、日吉天王社に武装神官が進入し、仏具や教典などを焼き捨てる。

 4.12日、東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が設立される。東京英語学校は、東京大学予備門として東京大学に付属させる。
【福沢諭吉が慶應義塾を創立】
 4月、福沢諭吉、英学塾を移転して慶應義塾と改称。

【東北諸藩が「奥羽列藩同盟」を結成】
 4.22日、「会津藩征討」を要求する維新政府を承認しない東北諸藩が「奥羽列藩同盟」を結成、ここに中央政府から独立する。更に、翌5.3日には長岡藩を主力とする北越6藩をも加え、北陸以北の諸藩による「奥羽越列藩同盟」を締結した。この間、白河城攻防戦が展開されている。「奥羽列藩同盟」は頑強に抵抗し続けている。 

【官軍の掃討戦、上野彰義隊戦争】
 西郷と勝の会談により江戸城の無血開城は達成されたが、その後旧幕臣側の抵抗は続いた。勘定奉行の小栗上野介ら抗戦派は、フランスの援助に期待しつつ強硬に主戦論を唱え、勝派の和睦派を批判した。小栗は勘定奉行を罷免され、陸軍総裁に任命された。盟友の大久保一翁は会計総裁に任ぜられ、抗戦派を指揮した。

 西郷の幕府に対する寛容さが批判され、以後、戊辰戦争の指揮は長州藩が握ることになり、軍事官僚の大村益次郎が任に当たることになった。彰義隊の戦い(上野戦争)、奥羽北越戦争(合津若松城、飯盛山の白虎隊)を経て、翌1869(明治2).5.18日の函館五稜郭の陥落(函館戦争、榎本タケアキ武揚)により戊辰戦争は終結した。 

 彰義隊の戦い(上野戦争)の経過は次の通り。旧幕臣の一部の者は彰義隊を結成し、上野の寛永寺に立てこもった。上野東照宮を本営を置いた。寛永寺は現在の上野公園のほぼ全域が境内で、谷中墓地の半分までが寺域であった。彰義隊は江戸の各地において新政府軍と衝突を繰り返した。

 西郷はその事態を憂慮し、勝や山岡と相談し、彰義隊に軽挙行動は慎むようにとの諭告や説得を続けたが、彰義隊の人々は一向耳を傾けようとしなかった。西郷は諦めずに平和的解決を目指し日夜努力をしていたが、そんな西郷のやり方を非難する人々が出てきた。「西郷は勝に騙されている」、「西郷のやり方は生ぬるい」といった具合であった。その結果、京都から軍務局判事として江戸に来ていた長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)を中心とした武力討伐派が力を持つようになり、彰義隊討伐が決定された。

 5.15日午前7時頃、上野寛永寺に結集した彰義隊約三千人に対して新政府軍の総攻撃が開始された。総攻撃を全面的に指揮したのは大村益次郎であった。西郷はこの上野攻撃に際して、最も激戦区となった黒門口攻撃を一薩摩隊の隊長として指揮を取った。肥前藩の新鋭のアームストロング機関砲二門の砲撃が功を奏し、午後5時過ぎには彰義隊は完全に鎮圧された。

 以降、大村の率いる長州藩が官軍の主導権を握り、武力討伐の方針を進めていくことになった。

【官軍の掃討戦、奥羽戦争】
 江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された北部政府(奥羽越列藩同盟)との「東北戦争」に臨んだ。“南部政権”たる新政府と“北部政権”たる北部政府との、事実上の“南北戦争”である。「東北戦争」が長引けば、日本は再び“南北朝時代”に突入する可能性があった。

 5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の奥羽白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。

 5.15日、上野戦争が始まり彰義隊が討伐された。西郷は、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。

 いよいよ「奥羽越列藩同盟」の討伐戦に向うことになった。5.19日、新政府軍と長岡藩の間で戦端が開かれる(長岡戦争の始まり)。越後長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぐのすけ)の巧妙な指揮により長岡藩を中心とした兵の抵抗は強く、新政府軍を悩まし続けた。西郷の弟の西郷吉二郎(きちじろう)が長岡戦線で重傷を負い死亡している。 

 5.24日、徳川家達、駿河府中70万石に封じられる。

 5.28日、旧幕軍方の輪王寺宮、幕軍艦長鯨丸で常陸平潟に上陸。会津へ向かう。6.2日、列藩同盟軍、長岡近郊の今町で政府軍を撃破。6.6日、輪王寺宮、会津に入る。6.12日、奥羽越列藩同盟、新潟で新政権構想会議。輪王寺宮を即位させる計画。6.15日、列藩同盟、盟主に輪王寺宮を推戴。この北陸以北の諸藩による軍事同盟は、軍事同盟の域を越え、「国家元首」を擁しての新国家創出の動きを見せていた。

 孝明天皇の御舎弟・輪王寺宮法親王(りんおうじのみや-ほっしんのう)を「東武皇帝」として擁立、「公儀所」(政府)を白石に、「軍事局」(大本営)を福島に設置し、列強諸外国に対して「独立宣言」をした。これは、「明治天皇」を擁す薩長の維新政府に対する、北陸以北諸藩による事実上の「北日本連邦」の成立を意味していた。

 この間、彰義隊討伐後の西郷は後事を大村に任せ、新政府への出仕を辞退し、京都に向かった。明治維新最大の功臣である西郷の帰国は、内外を問わず波紋を広げた。この西郷の帰国を廻って評価が分かれている。5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6.9日、藩主・島津忠義と共に鹿児島へ向けて出立した。6.14日、鹿児島に帰着した。島津藩主忠義に代わり島津広兼が総督として西郷が新兵を率い薩摩から出兵した。西郷は、この頃日当山(ひなたやま)温泉に隠棲し湯治した。藩主・忠義の要請で藩政顧問、藩大参事となり藩の参政に関与することになったが、中央政府とは完全に手を切った。

 6.25日、守山藩降伏。6.28日、相馬藩が同盟を脱退。

 7.6日、新政府軍の庄内藩攻略戦が始まる。7.13日、平城陥落。7.14日、庄内藩軍、新庄を占領。西郷はその後、米沢、会津を経て、出羽・庄内藩の城下・鶴岡に到着した。庄内藩といえば、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった江戸薩摩藩邸焼き討ちを行った主力藩であり、江戸開城後も今の秋田地方において執拗果敢に新政府軍に戦いを挑んでいた。庄内藩兵は強く、勇敢でもあったので、戦局は一進一退となり、新政府軍はややもすれば押し返されるような状態となった。しかし、いかに庄内藩が頑張ろうとも、周りの諸藩が次々に新政府軍に降伏していき、庄内藩は一藩孤立した。そのため、庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、重臣と協議した結果、新政府軍に対し、降伏恭順することに決定した。庄内藩としてはもはや援軍を望めない現状、こうするより手立てはなかった。庄内藩の人々は、降伏した際、新政府軍に過酷な降伏条件を突き付けられることを覚悟していた。今までの経緯を考えると、薩摩藩や長州藩の恨みを多く買っていると考えられたからである。

 庄内藩の降伏の申し出を受け取ったのは、新政府軍の庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(くろだりょうすけ・後の清隆)であった。その黒田は、意外にも庄内藩に対し非常に寛大な降伏処置を取った。黒田の寛大な処置は、全て西郷の指示によるものであった。黒田は西郷の一番弟子を名乗っていた人物であり、西郷の指示に従った。庄内藩主・酒井忠篤以下庄内藩の人々は、黒田と西郷の寛大な態度に感激し、その後も西郷に教えを請いに鹿児島に出向くなど、この庄内処置をきっかけに、庄内藩士と西郷の交流はその後も長く続いていくことになる。
 
 7.16日、三春藩、同盟を脱退。

 7.23日、北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられた。

 7.24日、河井継之助率いる長岡藩兵が長岡城を奪還する。7.27日、三春藩降伏。7.29日、新潟港が新政府軍の手に落ち、続いて長岡城も再度陥落する(長岡戦争の終結)。7.29日、二本松城攻防戦。二本松城は陥落し藩軍は壊滅。城主丹羽長国は、米沢へ。

 8.2日、西郷が鹿児島を出帆した。

 8.6日、相馬中村藩降伏。

 8.10日、西郷率いる薩摩藩兵が新潟の柏崎港に到着した。しかし、この頃には新政府軍が既に長岡を占領していた。新政府軍増援部隊は平に集結し、「奥羽越列藩同盟」と一進一退の攻防を続ける。

 8.11日、庄内藩軍、横手を占領。秋田へ向けて進軍を開始する。

 8.14日、西郷は、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の死亡を聞いた。藩の差引の立場から北陸道本営(新発田)には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。

 8.15日、新政府軍、会津攻略のため、軍を二本松に集結。8.16日、長岡藩軍を率いた河井継之助、戦傷が元で死亡。

 会津藩はなおも抵抗し、奥羽越列藩同盟を形成して会津に新政府軍を迎え撃つ体制をととのえた。範顕は上野寛永寺の覚王院義観に書簡をおくって、輪王寺門主の公現法親王に帝位を名乗らせて奥羽越列藩同盟に参加するように要請、そして京都では中川宮朝彦親王の再度の皇位擁立を計画していた。

 範顕は新政府の親玉となった岩倉の横暴に嫌悪する近衛忠房の内許を得て、葉室長順・広橋胤保ら下級公家と語らって反乱をおこそうとした。中川宮も独自に反乱を計画、しかし密偵が江戸にいく途中で逮捕されて露見、範顕の方も葉室・広橋の密告降伏によって大原重徳・大木喬任・徳大寺実則らに計画が露見する。8月には中川宮が逮捕され、親王の身分位記は剥奪され、庶民に落とされ広島にあずけらけた。範顕は逮捕直前に京都を脱出、家族・家人とともに会津へむかった。(「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」)

 8.21日、新政府軍、母成峠で、同盟軍を撃破、若松城下へ進軍。「新政府軍が会津藩に対して総攻撃開始 (会津戦争の始まり」。8.23日、新政府軍、会津城を包囲。城下に火を放ち、それを見た白虎隊士が自刃。8.25日、会津若松の鶴ヶ城攻防戦始まる。8.26日、大川大蔵ら、敵前を通って鶴ヶ城へ入り、城内軍事総督となる。9月、初旬、新政府軍の攻勢が始まる。9.2日、列藩同盟、仙台青葉城で会議。榎本武揚は主戦論を展開。9.4日、米沢藩降伏。9.8日、二本松藩正式降伏。9.13日、仙台藩降伏を決定。9.16日、新政府軍、鶴ヶ城を総攻撃。降伏勧告を行う。9.17日、上ノ山藩降伏。9.18日、仙台藩、棚倉藩、天童藩、松村藩が降伏。9.19日、乾退助ら、22日を期限として鶴ヶ城側に開城を要求。

【東京遷都】
 この間、朝廷軍は着々と新政府の機構を整備していった。7.17日、江戸を東京と改称した。

【維新政府の天皇制政策】
 8.26日、新政府、天皇の誕生日を天長節と定める。8.27日、明治天皇即位の令が行われる。9.8日、年号が明治と改元され、以降一世一元の制となる。9.20日、天皇、東京行幸へ出発。

【会津藩降伏(会津戦争の終結)】
 旧暦9.22日、会津藩降伏(会津戦争の終結)。会津藩が新政府軍に降伏した。若き家老・山川大蔵指揮による彼岸獅子による入城作戦が執り行われた。
 9.23日、庄内藩が降伏を示唆。9.24日、庄内藩、盛岡藩、泉藩、平藩が降伏。9.25日、南部藩降伏を決定。9.26日、新政府軍、鶴岡城に入る。

 9.27日、新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏するのを見て降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。この時、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治する。

【維新政府の外交政策】
 9.27日、新政府、スウェーデン=ノルウェー王国と修好通商航海条約に調印。11.19日、東京開市し築地に外国人居留地がつくられる。新潟開港。

【幕臣の榎本武揚らが五稜郭に立て篭もる】
 10.2日、榎本武揚(えのもとたけあき)艦隊、石巻湾を出港。蝦夷地へ向かう。10.20日、榎本武揚ら旧幕臣を中心とした集団が蝦夷地に到着。10.25日、榎本武揚ら、松前・弘前藩兵を破って五稜郭に入り立てこもった(箱館戦争の始まり)。11.5日、榎本軍により、松前藩の福山城陥落。12.5日、蝦夷政府、武士階級による選挙を実施し、榎本武揚を総裁に選出。榎本武揚も又新政府とは別の新しい共和国の建設を意図していた。松前城をおとし北海道を掌握し共和国建設に着手した。

【南部藩が降伏し東北戦争は終結】
 10.11日、南部藩が降伏し東北戦争は終結。同盟と維新政府の戦いは、三春藩・河野広中らの裏切りや、同盟諸藩の脱退により、10月、同盟の敗北により終結した。ここに、東北以南の日本は維新政府に平定された。

 12.28日、各国政府、日本内戦終結と判断し、局外中立を終える。

 有馬範顕卿は、会津では手代木直右衛門の領地である喜多方方面にかくまわれ、覚王院義観に「東武皇帝」として擁立された公現法親王をもって明治新政府ととってかわろうとしたが、仙台・米沢・会津が8~9月中に次々降伏、降伏直前に手代木・山川大蔵ら会津幹部と会い、京都における政変や池田屋などの騒動事件についてこれを内密にするように命じ、のちに山川は著書の「会津守護職始末」から一件を削除したということである。手代木も沈黙を守ったまま死去した。その後範顕は降伏直前に会津を脱出し、逃亡先を知られないように家紋を変更して範顕の領地である津軽浪岡に隠遁することとなった。このとき有馬家家令の城島則頼は会津市中の戦闘で新政府軍の攻撃で戦死、その他家人も次々戦死して津軽浪岡についたときは家人は数名もいなかったという。津軽藩主津軽承昭は新政府軍についていたものの有馬家に好意的に接し、新政府軍の探索からかくまった。旧幕府の榎本武揚らがは箱館で蝦夷共和国を樹立したときに範顕も共和国に加わろうとするが、津軽藩が箱館攻撃のための新政府軍拠点だったために渡道をあきらめた。箱館五稜郭が陥落して共和国が滅びると、旧会津藩は下北で斗南藩として復活、浪岡で細々とくらしている範顕に斗南藩重臣となった山川大蔵は密かに援助物資をおくっていたという。(「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」)

【文明開化政策】
 明治維新は、どの段階に於いても中下級武士層、民衆の反封建闘争の高まりと欧米列強による日本半植民地化の危機に対抗する民族的自覚の成長とによって推進され、維新後の社会を欧米列強をモデルとする資本主義的体制の構築へと舵を切った。行政、軍事、社会、経済、教育、文化に至るまであらゆる方面にわたって大改革と構築を行い、維新勢力の新官僚形成のもとに西洋の近代文明の物質的成果を急速に学びとっていった。

 この時の新政府の課題は次のようなところにあった。1・列強による不平等条約の見直し、2・旧体制的身分制度見直し、3・地租改正などの税制変更、4・工業の発展による資本主義化、5・徴兵令による軍隊の編成。一言で云えば、「富国強兵」政策の道を歩み始めた。

 西洋文明の摂取、いわゆる「文明開化」は民族の風俗にも及び、「丁髷(ざんぎり)をたたいてみれば、因循姑息の音がする。惣髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」などともてはやされた。こうして「上からの近代化」が急ピッチで進められていった。

1869(明治2)年の動き

【横井小楠暗殺される】
 「合気揚げの基礎知識7の横井小楠暗殺さる」参照。

 1.5日、明治新政府の参与だった横井小楠(よこうしょうなん/平四郎)が暗殺された。小楠はこの日、宮中に参内(さんだい)し、烏帽子直垂の正装のままで、寺町通り丸太町までさしかかった時、頭巾を被った刺客の一団に襲われた。

 刺客の一団は短銃を所持し、一発ずつ小楠の乗った駕籠(かご)に打ち込み、その直後に抜刀して斬り込んでいる。この時、小楠の警護役として隨(したが)っていたのは、門人の横山助之亟(すけのじょう)と下津鹿之助(しかのすけ)と若党(わかとう)の二人であった。小楠の警護役らの四人は必死に防戦するが多勢に無勢であり、防ぎようがなかった。そして四人とも深手を負い、三人は斬り倒された。小楠は直ぐさま駕籠から出たが、この時に横合いから襲った刺客(しかく)に斬り倒された。

 この事件は正月早々の事であり、横井小楠暗殺さるの悲報は、当時の人心を驚愕させ、また明治天皇も酷く驚いて、御心痛に至ったということが、明治二年正月五日の太政官(だじょうかん)日誌には記されている。この暗殺の手腕は計画的かつ巧妙で、桜田門外の「井伊大老襲撃事件」を模倣したものであり、刺客は随所に分散し、短銃を用いて同時に斬り込むということまで酷似していた。

 小楠が駕籠の中にいては危険と感じて、戸を押し開き、外に出ようとした時に、刺客はここを狙い、首を斬りつけている。そして首を斬り落とした後、それを小脇に抱え逃走している。しかし刺客と斬り合いを行っていた、もう一人の若党の吉野七五三之助(しめのすけ)が抜刀のまま、刺客を追いかけ、宮小路夷川下ル所まで追い詰めた。刺客はここで小楠の首を捨てて逃げ去った。そして首だけはようやく取り替えしたということで引き返してきた。

 刺客の襲撃は実に巧妙で、咄嗟(とっさ)のことであり、駕籠の脇に駆けつける隙間すらなかったという。明治新政府は威信に賭けても、下手人を逮捕しなければならなかった。正月七日には下手人詮議に関する厳重な布告が太政官から出された。そして必死の捜査の結果、刺客の一人であった益田二郎を逮捕した。益田を責めて自白させたところ、刺客の一団は十津川郷士の前岡力雄らと判明し、また、他の五名も逮捕された。下手人として逮捕されたのは、石見郷士・上田立夫、備前の土屋信男、中井刀弥尾、尾州藩陪臣・鹿島又之允、そして十津川郷士・前岡力雄であった。 

 1.14日、薩摩・長州・土佐の代表が、版籍奉還で一致。
 1.20日、薩長土肥の連署で4藩の版籍奉還の上表を行う。
【封建的制限の撤廃】
 1.20日、諸道の関所廃止。

【新制度の導入】
 2.5日、新政府、小学校の設置を奨励。新政府、造幣司を廃止して、造幣局を設置する。

 2.8日、新聞紙印行条例(出版条例)が制定される。

 2.19日、東京府が市中風俗矯正の布告を出す。

 2.25日、西郷は、薩摩藩主忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したことにより、2.26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった(藩の参政に任じられる)。以来、藩政の改革(藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした)や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。1862(文久2年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。
【五稜郭戦争】
 4月、官軍が上陸、戦闘を開始した。榎本海軍は制圧され五稜郭に篭城、抗戦を続けた。このとき土方歳三らは、敵陣に斬り込んで壮絶な最後をとげる。弁天崎砲台が陥落すると徹底抗戦は不可能になった。

 5.18日、黒田清隆が榎本武揚を説得し、五稜郭開城。戊辰戦争終結。戊辰戦争(ぼしんせんそう)といわれる一連の新政府軍に反抗する動きは、この五稜郭の戦い(「箱館戦争」とも云う)をもって全て幕を閉じることになった。

 5.1日、西郷が、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5.25日、箱館に着いたが、既に5.18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。
 6.2日、戊辰戦争の軍功賞金・章典禄が下賜された。西郷は、函館からの帰路、東京に寄った際、王政復古の功により、賞典禄永世2000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。
 7月、西郷は、鹿児島郡武村に屋敷地を購入した。
【地租改正】
 明治初年、農地法改革が行われ、農民に土地所有権が認められることになった。その証として地租改正の際に地券と呼ばれる土地権利証が発行された。地券には、所有者・所在・地目・段別・地価・地祖が書かれている。

 地租改正は農民に対して一層の重税方針を打ち出していた。その為全国各地で農民らが蜂起し、それが飛び火して一揆が続発していくことになる。また、腐敗した政府を憤る人物が政府転覆を企てるなど、反政府行動を取る人物も現れてきた。当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の4人であった。彼らは、これら続発する農民一揆や民の不満等を押さえるために、日夜努力を続けたが、なかなかうまい対策が打てなかった。

 8.3日、高崎藩で重税に抵抗する農民が一揆を起こす(高崎五万石一揆)。10.12日、新川県で年貢減免の20000人の一揆が起こる。10.17日、高崎の一揆農民4300人が城下に強訴。10.20日、高崎の一揆農民、岩鼻県へ出訴。岩鼻県知事小室信夫が政府に事の次第を連絡したため、高崎藩は首謀者を逮捕処刑する。

【新政府内の対立】
 5月、官吏公選の詔勅が出され、三条実実が輔相、岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正が議定、東久世通禧、木戸孝允、大久保利通、副島種臣らが参与、その他神祇官知事、民部官知事、会計官知事、軍務官知事、刑法官知事などが公選された。

 明治新政府の最初期は、「維新の三傑」と呼ばれる薩摩の西郷隆盛、大久保利通、それに長州の木戸孝允、それに江藤、岩倉らが加わって合議的に進められた。しかし、西郷は鹿児島に戻り悠々の生活を送ることになるので、大久保、木戸、江藤が切り盛りすることになった。西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には次々と困難な問題が生じてきた。

 6月、明治維新に功績のあった者達に、賞典禄(しょうてんろく)や位階といった形で論功行賞が行われたが、それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身の人物に重く、他藩の者が軽く扱われた形になった。倒幕を成し遂げた原動力となったのは長州藩と薩摩藩だったので、その結果は当然とも言えるが、他藩出身者には納得いかない。そのため、薩摩や長州藩出身者に対して、各方面からの非難や羨望が起こる。

 また、薩摩藩と長州藩の間でも、新政府のポストについての派閥争いが起こり、双方が反目しあうという事態にもなった。このように新政府内が混乱した状態になれば、当然、新政府内の風紀も乱れる。新政府の役人らは、昔を忘れ、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、まるで旧大名を真似たような驕奢な生活をするものが増えた。また、権力をかさに着て、民に対し横暴な振る舞いをするものも多く出た。こんな乱れた新政府に、一般の人々は大いに失望しました。「新しい世の中になったと言うが、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどましだ」このような声があちらこちらから聞こえてくるような状態になった。

【版籍奉還】
 戊辰戦争で徳川家が恭順したあと、旧幕府直轄領は新政府に接収された。そして、江戸府などの「府」と、旧幕府代官が治めていた地域には「県」が設置された。それと全国の各藩とをあわせて「府藩県三治制」が暫定的に施行されている。全国の各藩は、江戸幕府に地域支配の権限を認められることで成り立っていた。
 6.17日、大久保利通、板垣退助を主唱者とする政府は、大名(だいみょう)が支配していた土地と人民を朝廷に返還させた。これを版籍奉還と云う。これによって、全ての土地は形式的には政府の支配下に入り、藩主は改めて政府の地方長官たる藩知事に任命され、従来の藩主・藩士の身分関係も解消された。薩長土肥四藩主らの上奏文を政府が「聴許」するという形式をとった。

 版籍奉還は、木戸が維新前から持っていた構想で、薩長土肥4藩主から建白する形で版籍奉還を実現させ、中央集権国家の体を整えていった。この時天皇に差し出された上表文の文句の一節は次の通り。
 「そもそも臣ら居る所は、すなわち天子の土。臣ら収する所は、すわなち天子の民なり。いずくんぞ私に有すべけんや。いまつつしみてその版籍を収めてこれをたてまつる」。

 「版籍奉還」は、戦国この方営々と領国化してきた各藩の領土と人民と収入を全部差し出し朝廷に返上するということであった。これは大変な革命であった。これを大藩が率先して行ったことにより、中・小藩の異論が封殺されることになった。4月、5月の間に274藩が順次に版籍を奉還した。終了は6.17日。それまでの藩主はとりあえず藩知事に任命されたが、基盤の弱いものであり、事実史実はまもなくのうちに権力を根こそぎ奪い取っていった。
 いったん各藩から朝廷に返還された支配権は、とりあえずは各藩に戻された。各藩の藩主は「知藩事」となり、引き続き各藩を統治した。ただし、建前上、全国の領地の支配権は朝廷に移っており、各藩は地域支配の権限を一時的に預けられたというカタチであったから地位が不安定になっていた。実質面でも各藩の財政や統計の報告が命じられた。これは旧来の幕藩体制と異なっている。

 各藩が領土から得る税収も建前上は朝廷のものとなった。その税収から支払われる全国の士族への俸禄も、朝廷から支払われる建前になった。俸禄を支払う者こそが主君とすれば、それまでの武士は大名の家来であったが、版籍奉還のあとは朝廷の臣下になったことになる。

【華族制度】
 公卿・諸侯を廃止して華族とする。6.25日、藩知事274人が定まる。つまり、実際には各藩はそのままの形で残り、藩主も知藩事(ちはんじ)という名前に変えられただけで、領内の運営は全て従来通りの藩が行った。

 「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「7」は次のように記している。
 明治2年、華族制度ができると政界復帰を試みて浪岡より範顕は旧公卿ということで華族に列するように中央政府に要請、しかしこれがあだとなり、中央政府を牛耳っている岩倉・三条・長州・薩摩らは新政府高官の身分をたてに範顕の今までの官位をすべて停止し、記録から抹消し「公卿補任」などの人事名簿やその他の公文書から有馬家のところをすべて抹消、適当に人を補い矛盾を正して存在もろとも消してしまったのである。

 天皇を暗殺するほどの権力を持つ岩倉らに公文書偽造やすげ替えなど簡単なことであったろう。ごたごたしていて朝令暮改のこの時代、さらに事はやりやすかったであろう。そしてダメ押しに北畠家の末裔であることも消してしまった。江戸時代初期に北畠親顕が無嗣で死去したことに目をつけ、そこで北畠は断絶したとして明治4年7月に内大臣久我建通の4男通城に北畠家を継がせて矛盾をただしたのである。この久我建通は範顕の冠親である久我通明の養子である。

 範顕とは内面上相当仲が悪かったので岩倉のこの陰謀に賛同したのであろう。そして浪岡の領地についても津軽藩に圧力をかけてこれを消去させ、完全に有馬家を存在もろとも消してしまった。これこそ勝者が歴史をつくる典型であり、有馬家は歴史の敗者として一切の歴史文献その他からその姿を消されてしまった。

 その後、有馬範顕は再三にわたって中央政府に政治への参加・復権・赦免を打診するが、ことごとく拒否された。明治4年3月の愛宕通旭事件では明治天皇の京都還幸の政変を画策した愛宕通旭の同志外山光輔の家令高田修から政変成功後に復権を約束されて明治3年に久邇宮として復活した中川宮と連絡とろうとしたところ、計画が発覚して愛宕通旭や外山光輔らが逮捕・自刃して復活の機会を失った。ところがこの時は範顕はまだ動いていなかったために捕吏はこず、罪にはとわれなかった。

 というより政府も範顕が外山と連絡していたとは知ってはいなかった。明治3年に久邇宮として復活した中川宮朝彦親王はその後伊勢神宮祭主に任ぜられ、現皇太后陛下の父上である久邇宮邦彦王元帥陸軍大将や梨本宮守正王元帥陸軍大将、朝香宮鳩彦王陸軍大将、戦後内閣総理大臣をつとめた東久邇宮稔彦王陸軍大将などの有名皇族軍人の父上となった。

 そして幕末期に色々な計略を考えた手代木直右衛門は会津戦争のあと鳥取・高須・名古屋に幽閉されたが、明治5年に赦免され、左院少議生として復帰した。手代木は範顕復帰のために中央政府に赦免を働きかけ、範顕の新政府復帰工作に尽力する。しかし、かなうことはなかった。

 その有馬範顕も明治6年3月21日、津軽浪岡の隠遁先で死去したのである。享年58歳であった。その死去のらせは手代木・中川宮・徳川慶喜・松平容保などに報告された。手代木は当時香川県権参事で範顕の死去を聞いたときに、「幕末・維新期の一傑を亡くす」と悲涙したといわれている。中川宮らも哀悼の意を表したという。有馬範顕は一生を佐幕・公武合体に力を注いだのである。

 範顕の死去後、長男の有馬丑之助(麿)・次男の有馬酉松(麿)は新政府からの暗殺をおそれ、諱をつけず、丑之助・酉松として苗字を許された庶民風に幼名のまま一生をすごすことにした。そして苗字の許可が出たときには周辺の庶民たちに「有馬」という苗字を普及させ、特定されないようにもした。だから浪岡周辺は旧北畠氏ゆかりの者以外にも「有馬」という家が多い。さらに有馬家浪岡代官職で旧浪岡北畠一族である有馬金次郎の養子にはいり金次郎の一族の津軽藩士と謀って津軽藩士籍や戸籍工作もした。そして父・範顕の業績をかくすために慶応年間に死去したというニセ過去帳まで作成して隠匿に力をいれた。このようにして完全に有馬家は庶民となった。

 兄にかわって7代目有馬家当主となった有馬酉松は新政府復帰をやめて豪農としての生活をはじめたのである。範顕の生きていた廃藩置県ごろまでは斗南藩の山川らからの密援助でなんとか食いつないでいたが、その後は自作農にはいった。酉松の代になると完全に帰農した。このようにして公卿としての有馬家はおわりをつげた。これら有馬家の事績を酉松は兄と協議して家の秘匿とし、子供には口伝制をとって伝承させ、他言では津軽藩士とすることとした。このようにして有馬家はいままで事実は口伝制をとってきた。有馬家8代有馬範治先生は口伝制の脱却のために有馬範顕卿御一代記の製作を開始、ここに有馬範顕卿御一代記ができたのである。

 6.29日、招魂社が創建され、戊辰戦争の戦死者を祀る。
 6月、西郷が国元の鹿児島に引きこもる。
 7月、大久保利通は参議となる。4.6月、大蔵卿となり内政確立をめざした。
 7.8日、政府、官制を改革し、2官6省とする。同日、昌平校・開成工・医学校をして大学校を設置。また職員令を公布する。7月、政府、神祇官を設置。9.14日、オーストリア=ハンガリー帝国と修好通商航海条約に調印。10月、英国人フェントン、薩摩藩の依頼で軍楽隊の天皇礼式曲として「君が代」を作曲。12.25日、東京と横浜の間に電信が開通し、事業が始まる。
 9.26日、西郷は、正三位に叙せられた。
【大村益次郎が暗殺される】
 11.5日、大村益次郎が京都で暗殺される(享年46才)。大村の概要履歴は次の通り。(略)

 12.3日、木戸孝允は毛利敬親を、大久保利通は島津久光と西郷隆盛を上京させるために帰藩する。
 12月、西郷は、藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた。
1870(明治3)年の動き

 1.18日、西郷は、参政を辞め、相談役になった。
 2.13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。
【「ザンギリ節」の流行】
 明治3年頃、「ザンギリ節」が流行した。これを記しておく。
 半髪頭を叩いて見れば、因循姑息の音がする。
 総髪頭を叩いて見れば、王政復古の音がする。
 ザンギリ頭を叩いて見れば、文明開化の音がする。

【西郷上京工作】
 明治新政府はこの頃、版籍奉還に止まらず、藩自体を廃止し郡県制への改革を試みようとしていた。藩制の存続は旧幕藩体制の温床であり、明治政府との二重権力を生む出す恐れがあった。大村益次郎の後継者となっていた山縣有朋は、国民軍を創設せんとして兵制改革に取り組んでいた。国民軍の創設は、藩主権力に統制されたままの旧士族勢力の解体を意味していた。山県は、代わりに彼らを威圧するのに充分な「政府直属の兵力」を持とうとして、薩摩の西郷、木戸の長州、板垣の土佐の三藩から、計一万人の「御親兵」を提供させることを企図していた。親分筋に当たる木戸のところに行き、廃藩置県の断行を迫った。井上薫は大蔵省を牛耳っていたが、彼も国家財政の危機を打破するには、単なる名前だけの版籍奉還だけでは意味がないとし、廃藩置県の必要を認めていた、やはり親分筋に当たる木戸の説得に乗り出した。

 しかし、廃藩置県という一大政治改革を為すには、大久保や木戸ではリーダー的資質が欠けていた。彼らは智謀や知略には長けていたが、抵抗を退けつつ改革を成し遂げる力量に欠けていた。廃藩置県の必要を感じていたものの、版籍奉還までが精一杯であり、藩の実力すべてを中央(政府)に吸収するのは困難だと考えていた。

 この点で、西郷の器量が期待され、西郷その人が必要になった。西郷は、1869(明治2).6月以来、国元の鹿児島に引きこもっていた。西郷をいかにして説得し、鹿児島から東京へ連れて戻るかが問題となった。山縣は井上の助言をもらい、鹿児島の西郷隆盛の家を訪ねることになった。山縣は、大村が徹底した薩摩嫌いだったのに対して薩長調和論者であった。鹿児島に引っ込んでいた西郷を口説き落とし、上京させることを期待する。西郷は山縣の話しを聞いたあと、一言こう言った。「それ(廃藩置県)は正しい」。しかし、西郷は立たなかった。

 7.3日、西郷は、相談役を辞め執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。

 7.27日、鹿児島藩士・集議院徴士・横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。

 9月、横山安武の諫死に衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して、薩摩出身の心ある軍人・役人を鹿児島に帰らせようとして、池上を東京へ派遣した。

 10月、西郷の盟友・大久保は、西郷の弟でヨーロッパ視察から帰ってきたばかりの西郷信吾(後の従道)に、兄の隆盛を東京に呼び戻してくれるよう説得を頼んだ。その依頼を受けた信吾が一路鹿児島に向かった。突然の弟・信吾の訪問により新政府の腐敗堕落した実態を聞かされ、これでは維新を迎えることなく倒れていった数多くの同志達に面目が立たないと義憤を覚え怒った。大久保の上京要請の話を聞いた西郷は応諾した。

 12月、西郷を正式に東京に呼び戻すために勅使・岩倉具視と副使・大久保が西郷の出仕を促すために鹿児島に来訪した。大久保と西郷は新政府の一大改革懸案となっていた廃藩置県を廻って話し合った。日本の政治形態を従来の統治機構を踏襲した上に創出するのか、それらを解体した上で新制度をもって行うのかの判断が問われていた。つまり、封建的な藩制度を継承するのか、藩というものを廃止して県を置き新たに郡県制度を設置するのかの議論であった。

 西郷と大久保は、版籍奉還後も実質的には藩体制が機能している現実を革め、これを廃止して新政府が最終的に諸大名から土地つまり領土や人民を取り上げることを構想した。代わりに郡県制度をを導入しようとした。これを廃藩置県と云う。廃藩置県こそ明治維新の総仕上げであり、これを成し遂げないことには明治維新が完結しないとの考えで一致した。

 しかし、この廃藩置県には大きな危険が伴っていた。依然として主従関係による絆を維持していた藩体制を破壊するとなると、当然旧勢力側からの抵抗が予想される。迂闊に廃藩置県の情報が他に漏れれば、各地の諸大名が蜂起し、日本中に内乱が勃発してしまうという危険性が待ち受けていた。

 12月、西郷隆盛が勅使岩倉具視・大久保利通に親兵設置を提案。
1871(明治4)年の動き

【西郷の上京前の根回し】
 西郷と大久保は慎重に事を運ぶ。1.3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を以て上京するため鹿児島を出帆した。まず薩摩、長州、土佐の三大藩の力を利用して廃藩置県を行うことに決定し、両名はその事前交渉で一路山口へ向かった。1.8日、岩倉と別行動を取って山口に帰郷していた木戸孝允に会い説得した。1.16日、、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。1.17日、土佐に到着し、藩知事山内豊範、板垣退助と会談した。三藩の力無くしては、廃藩置県が断行出来ないと考えたからである。1.22日、薩摩、長州、土佐を代表とする西郷・大久保・木戸・板垣・池上が揃って上京することになった。神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。

【広沢真臣暗殺される】
 1.9日(2.27日)、維新の十傑の一人の広沢真臣(ひろさわさねおみ)が、東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺された(享年39歳)。横井小楠、大村益次郎に続く維新政府要人の暗殺となった。傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった。同室にいた妾は捕縛されていたものの軽傷を負っただけで助かった。広沢を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅を発した。広沢家の家令と妾に対する苛烈な捜査の結果、両者の密通や広沢家の私金流用の事実も判明した。1875年、陪審員列席による裁判が行われたものの、両者は無罪となり釈放された。これにより事件は迷宮入りした。暗殺の下手人・黒幕に関しては諸説ある。維新政府を快く思わない旧幕府側の不平士族や旧幕府軍の残党によるものする説が一般的であるが、坂本竜馬暗殺同様の奥行きの深さが垣間見える。

 当時、政府の枢要士族(木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛・板垣退助・山縣有朋たち)は、廃藩置県の準備として御親兵を東京に集めるため、また自藩の藩政改革を更に推し進めるため、参議広沢真臣らに留守の東京を託して自藩や京、大坂などにしばしば赴くという状態であったので維新政府の側に暗殺の動機はない。

【西郷再々度歴史の表舞台に登場する】
 2.8日、西郷ら一行が東京に着いた。ここに、西郷・木戸・大久保という維新の三傑が揃い踏みした。直ちに御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎青年に会い、勉強するように励ました。

 新政府に復帰した西郷は、廃藩置県に向けて着々と準備を始める。廃藩置県に関して三傑の意志は統一され、天皇の側近の岩倉のもとを訪ねる。しかし、岩倉は慎重論だった。一方、三傑は強硬に主張する。これを首尾よく遂行するために薩長のみでは覚束なかったため薩長土肥戦線を構築し、その為に、土佐の板垣退助、佐賀の大隈重信を参議に昇格させることも決めた。

 2.13日、西郷を中心とした新政府は、廃藩置県断行の際の各地の反乱に備えるためまず鹿児島(薩摩)藩・山口(長州)藩・高知(土佐)藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出された。西郷は早速鹿児島に帰国し、4.21日、藩主忠義と共に常備隊四大隊と砲兵四隊(約五千名)を率いて東京に戻って来た。東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。叉、西郷らは御親兵以外に日本の東西に鎮台(軍の機関)を置くことを決定し、東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置した。もし、廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際、迅速に鎮圧行動が取れるようにするためであった。

【省制が整備される】
 6月、この頃、西郷は、木戸と共に参議に就任し実質的な新政府の首班となり、その後制度取調会の議長となって、内政面での改革に取りかかった。それまでの太政官制に代わり、大蔵省、工部省、外務省などが整備され、「省制」による近代的中央集権制が敷かれることになった。

 6.25日、内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は参議に任じられ再び正三位に叙せられた。次のような顔ぶれとなった。
  • 太政大臣(三条実美
  • 右大臣兼外務卿(岩倉具視)
  • 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信
  • 大蔵卿(大久保利通)
  • 文部卿(大木喬任
  • 兵部大輔(山縣有朋)

 この「省制」に薩長土肥の維新功労者が登用され、やがて藩閥化して行くことになる。

 これより以降は、「明治維新史(1-2)、西郷首班内閣期






(私論.私見)