昭和時代史3、2.26事件



 (最新見直し2011.06.04日)

【以前の流れは、「昭和時代史2、2.26事件までの流れ(1931年から1935年)」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、2.26事件を考察する。「あの戦争の原因」、「ウィキペディア2..26事件」、「2.26事件を巡る(上)」、「ニ.ニ六事件を思う」、「皇道派と統制派の対立、二・二六事件」その他を参照する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



1936(昭和11)年の動き

【2.26事件の伏線】
 2.26事件に至る伏線を確認しておく。陸軍内で皇道派と統制派が対立していた。皇道派という名前の由来は、荒木貞夫大将が「国軍」を「皇軍」と命名し、日本軍を天皇親率軍と位置づけたことによる。中心人物が荒木貞夫、真崎甚三郎、山下奉文で、天皇機関説批判の中心的存在でもあった。その皇道派に対抗して組織化されたのが統制派で、クーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近し、合法的に権力を樹立しようとする陸軍省・参謀本部などの中堅幕僚将校のグループであった。中心人物が永田鉄山、林銑十郎、東条英機、石原莞爾らであった。

 1934(昭和9).1.23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任した。後任に同じ皇道派の真崎甚三郎が就任することになっていたところ、反荒木派の中堅幕僚が、参謀総長の閑院宮載仁親王を動かして巻き返しを図り、荒木陸相の後任に統制派の林銑十郎を就任させた。

 3月、統制派の林銑十郎陸相は、軍政方面におけるエリートで、大臣や次官への登竜門にして大臣・次官に次ぐ軍政方面のナンバー3の軍務局長に統制派の永田鉄山を起用した。この結果、統制派が陸軍省の実権を握った。永田鉄山は陸士を優等で卒業し、陸大も優等で卒業して、恩賜の軍刀を賜ったエリート中のエリートであった。

 7月、岡田啓介(海軍大将)内閣が誕生し、陸相に統制派の林銑十郎が留任した。8.19日、ドイツで、ヒトラーが国民投票で総統に就任した。ドイツ第3帝国が成立した。9.18日、ソ連が国際連盟に加入した。

 11.20日、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一大尉らの青年将校がクーデタを計画したという容疑で検挙された。これを士官学校事件又は十一月事件と云う。理由は、第六十六臨時議会(昭和9年11月28日~12月9日)の開会中に村中・磯部らが首謀者となり、西田税ら民間右翼も加え、元老・重臣及び警視庁を襲いクーデターを決行しようとした容疑である。検挙に当たったのが統制派の主要メンバーであったため、争議となった。事件の経緯は次の通り。統制派の辻政信大尉が士官学校教官として赴任し、生徒である佐藤勝郎士官候補生から「別の中隊の同級生である武藤与一が皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一主計・西田税予備少尉らの国家改造理論グループに参加を進められている」という話を聞かされた。その結果、「11月21日に、クーデタを決行して首相の岡田啓介・前首相の斎藤実・公爵の西園寺公望らを殺害し、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎らを中心とする軍部内閣を樹立しようとしている」ということが判明した。辻は「村中らのクーデター計画情報」を片倉衷少佐・塚本誠憲兵大尉と相談して、橋本虎之助陸軍次官に報告した。皇道派の一部は、「これは統制派が仕組んだ皇道派追い落としの策略だ」と証言している。 この事件により、統制派と皇道派の対立が激化し、青年将校の間で逆に上官に対する不信感が増幅した。

 1935(昭和10).2.7日、村中が片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが軍当局は黙殺した。3.16日、ヒトラーが、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し、徴兵制による再軍備を宣言した。3.20日、証拠不十分で不起訴になった。4.1日、停職。4.2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4.6日、教育総監の真崎甚三郎は国体明徴の訓示を陸軍に通達した。4.24日、村中は告訴の追加を提出したが黙殺された。5.11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに上申書を提出し、磯部は5.8日と13日、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。

 7.11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。

 7.15日、統制派は、昭和十年八月の定期人事異動を機に、皇道派を陸軍首脳部から追い払おうと図った。統制派の林銑十郎陸相は、皇道派の真崎甚三郎教育総監に対して、統制派の永田鉄山軍務局長・杉山元参謀次長も参加し、今井清人事局長・柳川平助陸軍次官の作成した人事案を示した。皇道派の真崎甚三郎や山岡重厚・小畑敏四郎・山下奉文・鈴木率道らを排除する意図が明瞭にされていた。真崎は、「軍の最高人事は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で決定するという内規を無視するのか」と抗議した。

 7.16日、統制派の林銑十郎陸相は、皇道派の真崎甚三郎教育総監を罷免し、後任に統制派の渡辺錠太郎を任命した。真崎甚三郎は、「この人事の背景には永田鉄山がいる」と皇道派将校に吹聴した。統制派と皇道派の対立が深刻化した。
 
 8.2日、士官学校事件で休職中の皇道派の村中孝次、磯部浅一が、「粛軍に関する意見書」を頒布した件で免官された。皇道派には理不尽な処分であった。 

 8.3日、岡田啓介内閣は、国体明徴を声明した。

 8.12日白昼、統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。概要は次の通り。陸軍省軍務局長の永田鉄山少将(51歳)は、陸軍省軍務局長室で、東京憲兵隊長の新見英夫大佐から報告を聞いてたところへ、皇道派の相沢三郎陸軍中佐(46歳)がドアを蹴破り、「天誅!」と叫んで斬りかかり、右の方へ避逃げた永田鉄山の背後から一太刀浴びせた。永田は自分の机の前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとしたが、鍵がかかっていた。相沢三郎は、永田鉄山の左背部から突き刺し刺殺した。武士の作法として永田の首筋にとどめを刺した。永田少将は陸士16期生、相沢中佐は陸士22期生で先輩・後輩の間柄であった。新聞は、「現役将校が白昼公務執行中の上官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、我が陸軍未曾有の重大事」と報じた。

 9.5日、林銑十郎陸相が辞職し、後任に中立派の川島義之陸軍大将が就任した。皇道派の陸軍青年将校は再び、形勢を挽回するためにクーデタを計画した。 この頃、第1師団の満州への派遣が内定している。青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊に属していた。青年将校らは危機感を抱き、逆に「昭和維新断行」の決意を固めた。慎重論もあったが、「第1師団が渡満する前の蹶起」を確認した。山口一太郎大尉や民間人である北、西田は時期尚早であると主張したが、置き去りにするかたちで事態が進行し始める。

 安藤輝三大尉は、第1師団の満洲行き内定に対して、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べている。1935.1月の中隊長昇進の際には、連隊長・井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束している。

 この頃、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と事件後憲兵の尋問に答えている。

 9.15日、ヒトラーは、「ドイツ人の血と尊厳の保護」として、ニュルンベルク法を制定した。10.3日、イタリアがエチオピアに侵入を開始した。これをエチオピア戦争と云う。

 9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語っている。

 12.14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語っている。

 1936(昭和11).1.5日、磯部は川島陸相を官邸に訪問し約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。

 1.23日、磯部が浪人森伝とともに川島義之陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。

 1.28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。

 2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。


 2.20日、安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。

 2.22日、安藤大尉は、野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と云われ、決起参加を決断した。


 東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。

【当時の農村の疲弊と惨状考】
 1929(昭和4)年、アメリカはニューヨークのウォール街では株の大暴落でパニックにつつまれた。アメリカの恐慌は日本をも直撃し、日本のアメリカへの主力輸出品である生糸の暴落へと導いた。生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落へと連動し、農家の生計は崩壊した。それに、さらに追い打ちをかけたのが東北地方の凶作飢饉だった。農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年と昭和9年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。

 1934(昭和9)年、岩手県では農家7万7000戸の内40%は生活保護が必要とされていた。当時の新聞は「稗・粟さえも尽きようとし、楢の実が常食となり、農民が鶏のエサであるふすまや稗糠を買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は2万4000名を数え、12月には5万名を超えるものと予想された」と報じている。

 1934(昭和9)年、山形県警察本部保安課の調査資料によると、、昭和9年1月から11月までの間に山形県内の娘身売りの数は3298人で、その内訳は芸妓249人、公娼1420人、私娼1629人と記録している。「娘身売りの場合は、当相談所に御出下さい」と張り紙をした村役場も、東北地方では珍しくなかった。1934(昭和9)年、青森県の資料によると、青森県内の身売り数は2279人で、その内訳は芸妓405人+公娼850人+私娼1024人と記録している。

【「蹶起趣意書」考】
 2.13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せている。蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、一言も発しなかったと云われている。蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。



 磯部は、獄中手記で次のように決起の心情を吐露している。

 「……ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。……藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」。

 村中の憲兵調書には次のように記されている。

 「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。……本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」。

 『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。

 菅波三郎は次のように述べている。

 「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」。


 青年将校らが折に触れて歌ったのが「昭和維新の歌」、正式には「青年日本の歌」であった。作詞作曲は、首相官邸で犬養毅首相を襲った「五.一五事件」の実行犯である三上卓(みかみたく/たかし1905-1971)海軍中尉。

 一、泪羅(べきら=シナ湖南省の河の名で自殺の名所)の淵に波騒ぎ、巫山(ふざん=長江の名所三峡の一角の山塊)の雲は乱れ飛ぶ 

   混濁の世に我立てば、義憤に燃えて血潮湧く

 二、権門上(けんもんかみ)に傲(おご)れども、国を憂うる誠なし
   財閥富を誇れども 社稷(しゃしょく=国家や朝廷)を思う心なし

 三、ああ人栄え国亡(ほろ)ぶ 盲(めしい)たる民世(たみよ)に躍(おど)る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり

 四、昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫(ますらお)が 胸裡(きょうり)百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花(さくらばな)

 五、古(ふる)びし死骸(むくろ)乗り越(こ)えて 雲漂揺(くもひょうよう)の身は一つ 国を憂いて立つからは 丈夫(ますらお)の歌なからめや

 六、天の怒りか地の声か そもただならぬ響きあり 民永劫(えいごう)の眠りより 醒(さ)めよ日本の朝ぼらけ

 七、見よ九(きゅう)天の雲は垂れ 四海の水は雄叫(おたけ)びて 革新の機(き)到(いた)りぬと 吹くや日本の夕嵐(ゆうあらし)

 八、あゝうらぶれし天地(あめつち)の 迷の道を人はゆく 栄華を誇る塵(ちり)の世に 誰(た)が高楼(こうろう)の眺(なが)めぞや

 九、功名(こうみょう)何(なん)ぞ夢の跡(あと) 消えざるものはただ誠(まこと) 人生意気に感じては 成否(せいひ)を誰かあげつらう

 十、やめよ離騒(りそう)の一悲曲(いちひきょく) 悲歌(ひか)慷慨(こうがい)の日は去りぬ 
   われらが剣(つるぎ)今こそは 廓清(かくせい)の血に躍るかな

【蹶起直前の申し合わせ】
 2.18日夜、栗原安秀中尉宅での会合で西園寺襲撃が決定された。翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し同意を得る。対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。

 2.21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。第一次目標は、岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、牧野伸顕(前内大臣)、西園寺公望(元老)。第二次目標は、後藤文夫(内務大臣)、一木喜徳郎(枢密院議長)、伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)、三井高公(三井財閥当主)、池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)、岩崎小弥太(三菱財閥当主)だった。磯部は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。

 2.21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。

 2.22日、暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。

 2.23日、栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。

 2.24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃、夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。西園寺はなぜか事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察部長官舎に避難した。

【2.26未明蹶起の様子】
 2.25日夜半から26日未明、東京は記録的な大雪であった。前夜からの雪の中、安藤輝三大尉、野中四郎大尉、香田清貞、栗原安秀中尉、中橋基明、丹生誠忠中尉、磯部浅一、村中孝次ら尉官クラスの陸軍皇道派青年将校22名に率いられた反乱軍(近衛師団の近衛歩兵第三連隊、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊の1483名。そのうち歩兵第3連隊は937名)がク-デタ-に決起する。政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破せんとして「昭和維新断行、尊皇討奸」、「君側の奸を除き、天皇親政を実現するため」を名目に決起した。首相官邸や侍従長邸ほか重臣私邸を襲撃、首都中枢部(首相官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁など永田町一帯)を占拠するというクーデター事件が発生した。世に「二・二六事件」と云う。事件後しばらくは「不祥事件」、「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。

 反乱軍は、襲撃先の抵抗を抑えるため連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。事件当日は雪であった。反乱軍は圧倒的な兵力や機関銃を保有しており、概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、総理官邸、渡辺大将私邸、高橋蔵相私邸及び牧野伯爵逗留地では、警備の警察官・憲兵の激しい抵抗を受け、これら警察官・憲兵を殺害又は重傷を負わせている。また、渡辺大将自身も拳銃で応戦したとされている。

 決起部隊の行動が始まった時間について、松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。

 「歩兵第一連隊の栗原安秀中尉が機関銃隊の兵約三百名に非常呼集を行ったのは、二十六日午前三時三十分ごろであった。…丹生誠忠中尉は栗原の機関銃隊より三十分早く第十一中隊の兵全員に非常呼集をかけた。丹生は中隊長代理である。 ・・・歩兵第三連隊では安藤輝三大尉が、『私ノ中隊及機関銃隊四ケ分隊、機関銃四門、計二百四名ヲ指揮シ午前三時三十分二連隊ヲ出発した』(安藤調書)。安藤の第六中隊の非常呼集は午前零時、舎前整列は三時ごろである。…近衛歩兵第三連隊の中橋基明中尉は、『二十六日午前四時二十分非常呼集ヲ以テ近歩三ノ七中隊全員二集合ヲ命ジ』(中橋調書)ている」。

 2.26日午前3時30分、歩兵第三連隊の安藤輝三大尉は、第六中隊の兵・機関銃隊四箇分隊・機関銃四挺など204人を率いて連隊を出発した。午前4時20分、丹生誠忠中尉が率いる歩一部隊は、香田清貞大尉・磯部浅一・村中孝次・竹嶋継夫中尉・山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵170人で営門を出発し、霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠した。「陸軍大臣に会見がしたい」と言つて、憲兵と押問答している。

 午前5時、クーデターが一斉に開始される。野中四郎大尉指揮の約500名からなる警視庁襲撃部隊が警視庁全体を制圧、「警察権の発動の停止」を宣言した。当時、警視庁は特別警備隊(現在の機動隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとって脅威とされた。警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣・警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。

 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
 「警視庁占拠を担当する歩三野中四郎(第七中隊長)の部隊は二十六日午前零時に非常呼集を行った。野中部隊は途中まで栗原部隊(首相官邸襲撃部隊)の後尾につくので、合流時刻の打合せに安藤が常盤を栗原のもとに遣ったのである。こうして野中部隊は歩一の裏門に午前四時半に到着するように歩三を出発した。歩一と歩三の間は歩いて五分くらいである。溜弛までは歩一の栗原部隊(首相官邸襲撃部隊)、丹生部隊(陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸襲撃部隊)、歩三の野中部隊の順で縦列行進だったが、そこから栗原部隊は永田町の首相官邸へ、丹生部隊は陸相官邸へ、野中部隊は外桜田町の警視庁へと分れた。野中部隊の下士官兵は約五百名。警視庁を占拠し、かつ、警視庁特別警備隊を撃退するのが目的だ」。
 「陸軍大臣官邸を占拠する目的の丹生誠忠中尉の歩一部隊は、香田清貞大尉(第一旅団副官)、磯部浅一、村中孝次、竹嶋継夫中尉(豊橋教導学校)、山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵約百七十名…午前四時二十分営門を出発して、栗原部隊の後尾から赤坂溜池を経て首相官邸の坂を上ったのだが、途上、首相官邸内から栗原隊の放つ銃声を聞いた。陸相官邸に着いてからのことは磯部の「行動記」に出ている。「香田、村中、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余(磯部)は遅れて到着す。…香田、村中は国家の大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと言つて、憲兵と押問答してゐる。…憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと言ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に言つて来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気味だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物を着て是非出て釆て会つて戴きたいと懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。…主力部隊は官邸表門に位置している。裏門も、道路も一切塞いでいる。陸軍省、参謀本部(この二つは一つの建物で隣合っている)の各門には機関銃分隊、軽機関銃分隊を配置して歩哨線をかためている」。

【反乱軍の首相官邸襲撃の様子】
 午前5時、総理官邸襲撃の全体の指揮を栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第一連隊機関銃隊)が執り、約300名の部隊を率いた。第1小隊を栗原中尉、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長、他に封馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)を指揮者とした。栗原隊が首相官邸前に到着したのは午前五時少し前。総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた村上嘉茂衛門巡査部長を官邸内で殺害した。土井清松巡査は林八郎を取り押さえようとして殺害された。清水与四郎巡査が庭で、小館喜代松巡査が官邸玄関で拳銃で応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害された。その間、岡田の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた松尾伝蔵・予備役陸軍大佐が反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。松尾はもともと岡田と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認。目的を果たしたと思いこんだ。岡田首相は、女中部屋の押入れに隠れ難を逃れた。新聞は、岡田首相殺害と報道した。

 一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助・憲兵曹長、青柳利之・憲兵軍曹及び小倉倉一・憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日、事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れた。

【反乱軍のその他の襲撃の様子】
 2月26日午前5時、中橋基明歩兵中尉の部隊130人は、赤坂表町3丁目の高橋是清蔵相私邸に到着しました。中橋は表門から、中島莞爾歩兵少尉は東門の塀を乗り越えて邸内に入りました。就寝中の高橋是清を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙ト叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」、中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺しました。

 別部隊が首相官邸の岡田啓介、赤坂の高橋是清・蔵相私邸、四谷の斎藤実・内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎・教育総監私邸(陸軍大将、彼は真崎の後任だったと言うだけで襲撃対象になった)、麹町の天皇側近の鈴木貫太郎・侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃し、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠した。政治―軍の中枢である霞が関から三宅坂周辺を完全に制圧し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して「昭和維新」の断行を迫った。斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監、高橋是清・蔵相の重臣が殺害された。鈴木貫太郎・侍従長は重傷を負い、岡田啓介・首相は襲撃を受けるも、義弟の私設秘書松尾伝蔵大佐と間違えられ、からくも脱出した。

 高橋蔵相私邸襲撃の様子につき、松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。

 「近歩三の中橋基明の部隊が 赤坂表町三丁目(当時赤坂区)の高橋蔵相私邸の前に着いたのは午前五時ごろであった。…中橋が部下の第七中隊の下士官兵約百三十名を宮城の守衛隊控兵と、高橋邸襲撃を任務とする突入隊とに分け、控兵隊は中橋が今泉義道少尉に率いさせた。…中橋は表門から、中島は東門の塀を乗り越えて邸内に入った。判決文によれば、両名は邸内に侵入して内玄関の扉を被壊し、兵若干名を指揮して屋内に乱入し、高橋蔵相の所在を捜索し、奥二階十畳の間に臥床中の同人を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙一叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺したとある」。

 鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃の様子は次の通りである。鈴木貫太郎侍従長を襲撃したのは歩兵第三連隊の安藤輝三大尉で、その第六中隊の兵と、機関銃隊四箇分隊、機関銃四挺、計二百四名をもって午前3時半に連隊を出発。4時50分頃、麹町区三番町の鈴木賞太郎侍従長官邸に到着、午前5時、襲撃を開始した。夫人の鈴木たかが懇願したので、安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その為、一命をとりとめた。「鈴木貫太郎自伝」によると「二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的にいよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になる ものはないかと、床の間にあった自鞘の剣をとろうとした」とある。このあと下士官にピストルで撃たれますが奥様がとどめを防いだため一命をとりとめる。

 斎藤實内大臣私邸襲撃の様子は次の通りである。坂井直中尉・高橋太郎少尉・麦屋清済少尉・安田優少尉らが率いる部隊210名は、営門を出て青山一丁目、信濃町、四谷仲町のコースで午前5時少し前に四谷区仲町3丁目の斎藤実内大臣私邸に到着、襲撃した。夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と夫をかばい重傷を負い、斉藤実は殺害された。内大臣斎藤實の養子である斉藤斉の妻の弟、有馬頼義(直木賞作家)が、向かいの屋敷の窓から襲撃の様子を目撃して次のように記している。
 「自分で目が覚めたのか、誰かに起こされたのだか、今になっては、記憶は定かではない。私が寝ていた部屋は、道路に面していたが、どういうわけか、私は、斉夫婦の一人娘、即ち私の姪の部屋へ行って、カーテンの隙間から、すぐ下の道路をみた。雪は、しんしんと、つもつていた。多分、降ってはいなかっただろうと思う。雪の夜は、静寂であった。しかし私は、道路を見て愕然とした。ちょうど、目の下に、内大臣斎藤實の鉄の門があり、それはひらかれていた。その門外の正面に、軽機関銃が据えられ、一人の将校が、そのうしろに立っていた。それだけではない。そこから、大通りへ通じる四メートル幅の狭い道には、四列縦隊の兵隊が、雪の上に折敷をして、その長さは、三百メートルに及んだ。…どの位待っただろうか。一人の将校と、一コ分隊位の兵隊が、斎藤内大臣邸の正面玄関を出、雪をけたてて、門の方へ近付いてきた。将校は、大きな声で云った。「目的は、成功した。われわれは、これから大内山へ向う」分隊毎か、小隊毎に、小さい声で号令が起り、折敷をしていた兵隊は立って、整列し、それから、門から遠い方から順に、粛々として引き上げていった」。

 渡辺教育総監私邸襲撃の様子は次の通りである。教育総監渡辺錠太郎大将郎を襲撃したのは、内大臣斎藤實私邸を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋太郎少尉・安田優少尉と、下士官以下兵30名。高橋少尉以下は、斎藤邸から赤坂離宮正門まで出て、そこで、田中部隊のトラックに乗り、荻窪に向っている。記録では、渡辺邸に着いたのは六時過頃となっているが、家族の証言によると正六時頃と記憶されている。松本清張の「昭和史発掘」では7時頃。渡辺教育総監宅と二軒隣の並びに住んでいた渡辺教育総監の長女政子が次のように証言している。
 「朝方、六時ごろでございましたでしょうか。私はもう起きておりましたが、突然、けたたましい銃声がきこえたのでございますよ。一体、なんだろうと私の家でも大さわぎになったのですが、私の夫は??兵隊が演習でもはじめたのだろう″といっておりました。そのうち、父の家の女中から電話があり、おびえた声で??奥さま、たいへんでございます″といってきたのです。電話室にも銃砲のタマがうちこまれているようで、受話器をとおして、その音がきこえてくるのでございます。…??ご主人さまがお亡くなりになりました″といつてまいりました。電話を受けたのは私でございますが、父の死を知った私の夫は、やにわにピストルを持って、外へとび出そうとするのでございます。…そして、兵隊たちが引きあげて行くのを見きわめてから、父の家にかけつけたのでございます。その間、ものの五分、長くて十分〔註・記録では三十分となっている〕ぐらいのものでございました。父の家にかけつけてみると、タマの跡と煙りがもうもうと狭い家の中に立ちこめておりました」。
んの談話
 牧野元内府(湯河原伊藤旅館別館)襲撃の様子は次の通りである。河野寿航空兵大尉らが前内府の牧野伸顕が宿泊する湯河原の旅館を襲撃した。牧野伸顕は、岩本屋旅館の岩本亀三らにおぶさって難を逃れた。松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
 「前内府(前官礼遇)牧野伸顕を湯河原の旅館に襲う河野寿航空兵大尉を長とするいわゆる湯河原組も、午前五時を期して決行に移った。…四時半頃、再び車を走らせ湯河原を徐行、伊東(藤)屋旅館の前の橋で自動車の向きを変え、同旅館の前に横付けにした。夜は白々明けはなれた。二、三人が行き交う。私はピストル、刀をさして同志と共に隊長(河野大尉)に従った。旅館前の幅七、八間の小川の橋を渡り、坂道を二十間程上る。玉突場のある家の前に止った。大尉は此処だと玉突場の前の家を指した。平屋建、地形は崖の上で、片方は山になっている。石垣でたたんだ一隅にこの家はあるのだ…予備曹長宮田晃は、早くも奥から射ってくる拳銃で負傷した。「私は奥に駆けこむ。弾がビューンとかすめる。私は座敷に向けて五、六発達射する。薄暗い、何人いるか分らぬが、守衛のいることは分る」守衛ではなく、牧野の護衛警官だった」。

 この時、護衛の皆川巡査に河野大尉も撃たれ、最後に伊藤旅館別館に火を放ちますが、牧野元内府は岩本屋旅館の岩本亀三氏他の地元の人々に助けられ難を逃れた。河野大尉はこの後3.5日、入院中の病院で自殺を図る。  

【反乱軍の各方面への根回し】
 栗原中尉、中橋中尉、田中中尉(野戦重砲第七連隊)、池田少尉らは、それぞれの最初の襲撃を終えた後、軍用トラック3台に兵60人と機銃3と共に分乗し、各新聞社を襲撃した。中でも、東京朝日新聞社には午前8時55分ごろ到着し活字ケース等を破壊し、引き上げの際、栗原中尉は「国賊朝日新聞は多年自由主義を標榜し重臣ブロックを擁護し来れり。今回の行動は天誅と思え」と叫んだ。他にも日本電報通信社、国民新聞社、報知新聞、東京日日新聞、時事新報社に現れ、蹶起趣意書を新聞等に掲載するよう強要した。

【反乱軍の各方面への根回し】
 反乱軍は政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求し、軍首脳を経由して昭和天皇に対し天皇の一元指導下での天皇親政による昭和維新を訴えた。反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待した。かねてよりの打ち合わせであったか、侍従武官長・本庄繁や陸軍大臣・川島義之、真崎甚三郎・大将らは「彼等の精神は、君国を思う心より出たもので、必ずしも咎むべきものではない」としてこの決起に連動したが、軍の上層部はこの反乱に対し、穏便に対処するべきか、軍隊を用いて鎮圧すべきか、判断がぐらつき右往左往するばかりで、説得に駆けつけた真崎大将は、「お前たちの気持ちは、ようくわかっとる。ようっわかとる」と、繰り返すばかりであった。

 事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。

 午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。

 中島侍従武官が甘露寺受長侍従に連絡して、昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え、執務室に向かった。甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた。

 襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。

 午前5時頃、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半頃、ようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。

【反乱軍の要望事項朗読、「蹶起趣意書(二・二六事件)」】
 2.26日午前6時40分頃、香田大尉らが陸相官邸で川島義之陸相と会見し、決起趣意書と7項目からなる要望書(「真崎甚三郎を首相にし、処理を一任する」)を提出して昭和維新の断行を迫った。香田大尉が要望事項を朗読し村中が補足説明した。

  • 現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
  • 皇軍相撃つことは避けなければならない
  • 全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
  • 警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
  • 南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
  • 速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
  • 軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
  • 林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
  • 荒木大将を関東軍司令官に任命すること
  • 同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
  • 同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
  • 報道を統制するため山下少将を招致すること
  • 次の者を陸相官邸に招致すること
  • 26日午前7時までに招致する者 
  • 古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
  • 午前7時以降に招致する者
  • 本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐

 「蹶起趣意書(二・二六事件)」の文面は次の通り。

 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。

 中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむる、火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。

 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。

 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。

 昭和十一年二月二十六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎外 同志一同
 謹(つつし)んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥(ごとうすい)の下に、挙国一体生々化育を遂げ、終(つい)には八紘一宇を完(まっと)うするの国体に存す。この国体の尊嚴秀絶(しゅうぜつ)は天祖肇国(ちょうこく)神武建国より明治維新を経て益々(ますます)体制を整へ、今や方(まさ)に万邦(ばんほう)に向って開顯(かいけん)進展を遂ぐべきの秋(とき)なり。

 しかるに頃來(けいらい)遂(つい)に不逞兇惡(ふていきょうあく)の徒簇出(そうしゅつ)して私心私欲を恣(ほしいまま)にし、至尊絶体の尊嚴を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働らき、万民の生々化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦に呻吟(しんぎん)せしめ、随(したが)って外侮(がいぶ)外患(がいかん)日を逐(お)うて激化す。いわゆる元老、重臣、軍閥、官僚、政党等(とう)はこの国体破壞の元兇(げんきょう)なり。倫敦海軍条約(ろんどんかいぐんじょうやく)並びにに教育総監更迭(こうてつ)に於(お)ける統帥權干犯(かんぱん)、至尊兵馬大權(へいばたいけん)の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいはは學匪(がくひ)、共匪(きょうひ)、大逆教團等(とう)の利害相結んで陰謀至らざるなき等(とう)は最も著(いちじる)しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪惡は流血憤怒眞(まこと)に譬(たと)ヘ難(がた)きところなり。 

 中岡(艮一、こんいち、大正10年原敬首相刺殺者)、佐郷屋(さごや、留雄とめお、昭和5年浜口雄幸首相狙撃者)、血盟団の先駆捨身(せんくしゃしん)、五・一五事件の噴騰(ふんとう)、相沢中佐の閃發(せんはつ)となる実に故(ゆえ)なきに非(あら)ず。而(しか)も幾度(いくど)か頸血(けいけつ)を濺(そそ)ぎ來(きた)って今尚(いまなお)些(いささか)も懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲にニ居(お)って苟且偸安(こうしょとうあん、なすべきことをなおざりにして目前の安楽をむさぼること)を事(こと)とせり。露、支、英、米との間(あいだ)一触即發して祖宗遺垂(いすい)のこの神洲を一擲(いってき)破滅に墮(だ)らしむるは火を見るよりも明(あきら)かなり。内外(ないがい)眞(まこと)に重大危急、今にして国体破壞の不義不臣をヲ誅戮(りゅうりく)し稜威(りょうい)を遮(さえぎ)り御維新を沮止し來(きた)れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非(あら)ずして皇謨(こうぼ=天皇が国家を統治する計画)を一空(いっくう)せん。

 あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊(よくさん)を誓い殉国捨身(じゅんこくしゃしん)の奉公を期(き)し來(きた)りし帝都(ていと)衞戍(えいじゅ)の我等同志は、將(まさ)に万里征途(そうと)に上(のぼ)らんとして而(しか)も顧(かえり)みて内(うち)の世状(せじょう)に憂心(ゆうしん)轉々(うたた)禁ずる能(あた)わず。君側(くんそく)の奸臣(かんしん)軍賊(ぐんぞく)を斬所(ざんしょ)して彼(か)の中枢を粉碎するは我等の任として能(あたは)く爲すべし。

 臣子(しんし)たり股肱(ここう)たるの絶対道を今にして尽くさざれば、破滅沈淪(ちんりん)を飜(ひるが)へすに由(よし)なし。ここニ同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正(ただ)し、国体(こくたい)の擁護開顯(いけん)に肝腦(かんのう)を竭(つく)し、もって神洲赤子(せきし)の微衷(びちゅう)を獻ぜんとす。皇祖皇宗の神靈冀(こいねがわ)くば、照覽冥助(めいじょ)を垂(た)れ給はんことを。

 昭和十一年二月二十六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同

 上記の「決起趣意書」は、野中四郎大尉が起草したものに文才に長けた村中孝次が筆を加えたものと云われている。格調ある漢文調で書かれて、当時の30歳前後の将校たちの頭脳明晰さと教養の高さが窺い知ることができる内容の文章となっている。

【2.26事件の展開】
 午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。この時、真崎大将が、「たうとうやったかお前たちの心はヨオックわかつとる、ヨオックわかつとる」と述べたと云われる。

 真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。参内後、伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」、「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。

 午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」、「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。

 杉山元陸軍参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。

 午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。

【昭和天皇の対応】
 事件の報に接した天皇は次のように述べたとされる。
 「朕が股肱の老臣を殺戮す。この如き凶暴の将校等、その精神に於ても何の恕(ゆる)すべきものなりや。朕が最も信頼せる老臣を悉く(ことごとく)倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」、「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷くるものと認む」、「速やかに暴徒を鎮定すべき」、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当らん」。

 「自分の股肱の老臣たちが殺戮されたのだ。このような凶暴な将校たちであれば、その精神においても絶対に許すことができない」として「暴徒を速やかに鎮圧せしめ鎮定せよ」との指示を為し、彼らの主張も分かると言った侍従武官長の本庄繁・中将に対しては、「それは私利私欲のためにやったのではないと言うにすぎない。自分が信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことはできない。もし陸軍ができないと言うのなら、自分がみずから近衛師団を率いて鎮定に当たろう」と厳しく叱責した。天皇陛下万歳を叫ぶ軍人と、実際の天皇の意識の溝の深さが刻印された。

 もう一人、石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)も強硬に対処した。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上し、終始「討伐」の主張を貫いた。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。

 軍上層部は、事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍として認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変し、国賊とされ討伐の対象となった。

 正午半過ぎ、荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んだ。昭和天皇の鎮圧命令が出たにも拘わらず、陸軍首脳部は武力鎮圧を躊躇した。

 正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。

 午後3時、東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7.18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。

 午後3時30分、 東京警備司令部より陸軍大臣告示が印刷・下達された。

一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と「行動」に差し替えられた。反乱部隊への参加者を多く出した第一師団司令部では現状が追認されたものと考え告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする向きもあった

 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。

 一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト。二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル。

 前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。

【昭和天皇の鎮圧決断】
 午後になるとようやく閣僚が集まりはじめ、午後9時、後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれて午後8時40分に戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。行政戒厳であった。

 午後9時、主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。

 夜、臨時の陸軍省・参謀本部がおかれた憲兵本部で、橋本欣五郎大佐が「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた。

 なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。

 2.27日午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。

 午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の鎮圧の意志は固く、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。

 本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。

 早朝、岡田啓介首相の生存を知った首相秘書官らは、首相を弔問客に変装させて官邸から救出に向かった。午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。

 午後0時45分、天皇は、拝謁に訪れた川島陸相に対して、『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』、『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン』と強い意志を表明し、暴徒鎮圧の指示を繰り返した。 

 御意を受け、戒厳令が公布されることになった。皇道派の香椎浩平陸軍中将が戒厳司令官に任命された。決起部隊に原隊復帰が命ぜられ、2万4千名の兵力で反乱軍を包囲する事態となった。奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。

 午後2時、陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。

 午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。

 午後5時、秩父宮が弘前より上京、上野着。

 午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。

 夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」と言った。

【反乱部隊に「蹶起部隊を所属原隊に撤退させよ」の奉勅命令】
 2.28日午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。

 午前5時、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」との奉勅命令が戒厳司令官に下達された。

 午前5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令された。

 6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。

 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した。

 正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』と激怒し拒絶した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。

 自決と帰営の決定事項が料亭行楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤、安藤隊は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。

 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。

 また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。

 29日午前5時10分、討伐命令が発せられた。

下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ヘ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前逹ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒嚴司令部

 午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラ]を飛行機で散布した。

 午前8時55分、ラジオ(中村茂アナウンサー)で「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る 軍旗に手向かふな」(原文は全て繋がっている)と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。

 兵に告ぐ、

 勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前達は皆復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じていたのに、それが間違って居たと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から、何時までも反抗的態度をとって、天皇陛下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと国民全体も、それを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い。 戒厳司令官 香椎中将

 ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されていた。

 これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰った。「1558名の参加兵員のうち、初年兵が3分の2の1027名を占めていた。初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1.10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇」した。訳のわからぬままに駆り出され、原隊復帰したことになる。その後、「反乱兵士の汚名」をきせられ、厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、そ多くは戦死している。安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際、野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。

 永井荷風の断腸亭日乗の昭和11年2月26日に次のように書かれている。

 「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔この間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁を襲び同時に朝日新聞社日~新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ」。
 文の途中「〔この間約四字抹消。以下行間補〕」と書かれているが、これは元々は具体的に「麻布連隊」と書かれていたのではないかと思われる。憲兵に踏み込まれた時に問題になるのではないかと思い削除したと思われる。

【戒厳令下の動き】
 2.28日午前5時、クーデター開始から2日後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれた。

 2.29日(この年は閏年)、鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みられる。ビラとラジオ放送で帰順が呼びかけられ、さらにアドバルーンを空に上げ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。これは効果を発揮し、決起隊の兵士たちは次々帰順し陸軍省に集まってきた。多くの兵士が脱落し始め、午後2時頃までには大部分が帰隊した。反乱将校たちには自決用のピストルが渡された。が、この時、自決したのは2名のみ、青年将校のうち安藤輝三・大尉と野中四郎・大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴えるとして軍法会議に掛けられる道を選び、憲兵隊に逮捕された。将校15名、右翼思想家・北一輝、元陸軍大尉・村中孝次(5.15事件の関与が疑われ、免職されていた)ら民間人4名の計19名が陸軍軍法会議で裁かれ、銃殺された。

 3.4日午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3.5日、自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。

 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。

【事件による警察官の殉職】
 事件にあたって5名の警察官が殉職し、1人が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。

 村上嘉茂衛門 巡査部長。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
 土井清松 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。(赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われた石川光陽とは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった。)
 清水与四郎 巡査。警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。死亡。
 小館喜代松 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
 皆川義孝 巡査。警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。
 玉置英夫 巡査。麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。


 また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。

【事件に対する海軍の動き】 
 襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦長門以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。

 この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。

【2.26事件その後】
 「2.26事件」の背景考察として、「当時は為政者も軍人も思想家も民衆も強力な閉塞感に支配されており支配者も被支配者もその所属階級を問わず『今までどおりの方法では体制が立ち行かない』状況にあった」ことが知られねばならない。

 この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。以降、陸軍では皇道派が姿を消し統制派が主流となった。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。 

 ※(大日本帝国憲法での内閣制度について)

 首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。

 ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままに出来る立場になる。(「あの戦争の原因」)

反乱軍将校の公判と処刑】
 事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。

 2.28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3.4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。。軍法会議主席検察官には匂坂春平陸軍法務官、軍法会議裁判官には陸軍法務官小川関治郎ら任命された。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は、「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。

 当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。

第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 首魁ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス


 事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。

 3月、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、7.5日、「第1次処断」として栗原安秀、安藤輝三、安田優たち青年将校17名の死刑、無期禁錮4名、禁錮4年1名の判決が宣告された。 死刑は、「首魁」で、村中孝次・元歩兵大尉(37期)、磯部浅一・元一等主計(38期)。「叛乱罪(首魁)」で、香田清貞・歩兵大尉(第1旅団副官、37期)、安藤輝三・歩兵大尉(歩兵第3連隊第6中隊長、38期)、栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)。「叛乱罪(群衆指揮等)」で、竹嶌継夫・歩兵中尉(40期)、対馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校、41期)、中橋基明・歩兵中尉(近衛歩兵第3連隊、41期)、丹生誠忠・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)、坂井直・歩兵中尉(歩兵第3連隊、44期)、田中勝・砲兵中尉(野戦重砲第7連隊、45期)、中島莞爾・工兵少尉(46期)、安田優・砲兵少尉(陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附)、46期)、高橋太郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、46期)、林八郎・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)、渋川善助・。

 「無期禁錮」は「叛乱罪(群衆指揮等)」で、 麦屋清済・歩兵少尉、常盤稔・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、鈴木金次郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、清原康平・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、池田俊彦・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)。「禁錮4年」 は今泉義道・歩兵少尉(近衛歩兵第3連隊、47期)。

 7.12日、宣告1週間後、陸軍刑務所内の処刑場で15名の死刑が執行された。

 7.29日、「第2次処断」として禁錮刑が宣告された。無期禁錮は、「叛乱者を利す」で 、山口一太郎・歩兵大尉(歩兵第1連隊中隊長)。「禁錮6年」は、「司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る」で、新井勲・歩兵中尉(歩兵第3連隊)。「叛乱予備」で、鈴木五郎・一等主計(歩兵第6連隊)、「禁錮4年」は、「叛乱者を利す」で、柳下良二・歩兵中尉(歩兵第3連隊)。「叛乱予備」で、井上辰雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)、塩田淑夫・歩兵中尉(歩兵第8連隊)。

 翌年の1937.8.19日、磯部浅一、村中孝次と彼ら青年将校の思想的指導者と目された北一輝や西田税を含む4名が処刑された。いずれも処刑は銃殺刑であった。

 1937(昭和12).1.18日、「第一次背後関係処断」の判決が宣告された。禁錮5年は、菅波三郎・歩兵大尉(37期)、斎藤瀏・予備役少将(12期)。禁錮4年は、大蔵栄一歩兵大尉(羅南歩兵第73連隊、37期)、末松太平・歩兵大尉(39期)。禁錮3年は、満井佐吉・歩兵中佐(26期)、志村睦城・歩兵中尉、志岐孝人・歩兵中尉、福井幸、町田専蔵。禁錮2年は越村捨次郎。禁錮2年(執行猶予4年)は加藤春海。禁錮1年6月は宮本正之。禁錮1年6月(執行猶予4年)は、佐藤正三、宮本誠三、杉田省吾。

 8.14日、「第二次背後関係処断」の判決が宣告された。死刑は、「叛乱罪(首魁)」で、北輝次郎(一輝)(52歳)、西田税・元騎兵少尉(34歳)。無期禁錮は、「叛乱罪(謀議参与)」で、亀川哲也。禁錮3年は、「叛乱罪(諸般の職務に従事)」で、中橋照夫。8.19日、北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次が処刑された。

 その他判決 は次の通り。死刑は、水上源一(27歳)。禁錮15年は、中島清治・予備役歩兵曹長(28歳)、宮田晃・予備役歩兵曹長(27歳)、宇治野時参・軍曹(歩兵第1連隊、24歳)、黒田昶・予備役歩兵上等兵(25歳)、黒沢鶴一・一等兵(歩兵第1連隊、21歳)、綿引正三(22歳)。禁錮10年は、山本又・予備役歩兵少尉(42歳)。

 判決は、「謀者17名死刑、69名有罪」となった。そのうち自決は、野中四郎・歩兵大尉(歩兵第3連隊第7中隊長、32歳)、河野寿・航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生、28歳)の2名。田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。


 叛乱軍の首謀者の一人・磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。銃殺に処される前に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」。

 井伏鱒二の「荻窪風土記」は、2・26事件について次のように記している。

 「二・二六事件の記録を見ると、 -叛乱軍の一部の将校たちは七月十二日に処刑された。場所は、渋谷区宇田川町の陸軍衛戍刑務所の隣にある代々木練兵場。死刑執行の銃声をかくすため、早朝から演習部隊の軽機関銃で空砲を打ちつづけ、やがて飛行機二機が低空を旋回した。有罪七十六名のうち、死刑十七名、罪名は叛乱罪。被告磯部浅一の獄中手記も発表してあった。「……真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので……云々」暗黒裁判で書いたという怖るべき手記である」。

皇道派将校の免官処罰
 2.29日、反乱軍の20名の将校が免官となった。3.2日、山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。3.10日、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち荒木、真崎、阿部、林の4名が予備役に編入された。3.30日、陸軍大臣であった川島が予備役となった。4月、侍従武官長の本庄繁が、女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、予備役となった。7月、戒厳司令官であった香椎浩平中将が予備役となった。皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後昭和15年に航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。

 また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。

下士官兵の悲劇
 以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事・社会党衆議院議員)がいる。

公判記録隠匿の怪
 民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。

 軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。1988年、匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が、遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされた。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は次のように反論している。

 「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」。

 田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。

 匂坂春平はのちに次のように語っている。

 「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」。

 匂坂はひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる。

 公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988.9月になって判明した。1993年、研究目的で一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し(撮影・複写が禁止されているため)、1998年に出版した。

【7.12日処刑の様子証言考】
 「2・26事件介錯人の告白」が処刑の様子を次のように証言している。証言者は、15名の死刑の一人であった林八郎少尉の士官学校の同級生の進藤義彦(陸軍騎兵学校の戦車第三中隊長で少佐)で「運命の介錯人」を務めた。平成3年になって初めて銃殺刑の実態の告白記事を発表した。

 概要「7月12日、処刑当日。代々木錬兵場の南端に接する衛戍刑務所の北隅が処刑場となった。刑場には、刑務所の外柵のコンクリート塀を背に、白布を巻いた五基の十字架の磔台(はりつけ)台が立てられていた。十字架と射撃位置との距離は約10m。十字架一基に対し三八式歩兵銃一挺が架台に置かれていた。処刑の始まる少し前から、直ぐ隣の代々木錬兵場南端の俗称「なまこ山」辺りで小銃、軽機関銃の空砲射撃が始まった。演習部隊の射撃は一回の処刑が完全に終了するまで続けられ、処刑時の実包の発射音と判別できない仕組みになっていた。控え所で、辞世ともいうべき雄叫びが聞こえていた。「・・・・・・・・守れ我等が連隊旗・・・」などと叫ぶ声が聞こえた。第一群の5名の受刑者が刑場に連行される頃には静かになった。受刑者は軍の車両部隊などに支給されていた濃いカーキー色の繋ぎの作業服の新着ており靴ははいていなかった。白布で目隠しされた受刑者が両脇を二人の看守に支えられて刑場に現れ、所定の十字架の前に正座した。看守が白布で受刑者の頭、両腕を十字架に縛りつけ、次いで両膝を縛り合わせた。最後に幅20センチ程の長い白布を頭部から膝に達するまで垂らし、その上から更に直径2センチの黒点を描いた鉢巻を、黒点が前頭部の中心に位置するように縛った。射手は黒点の下際を照準せよと命ぜられていた。正副の射手が指揮官に片手を挙げて無言で準備完了を報告した。各グループの最古参者が、「準備が終わりましたら大元帥陛下の万歳を三唱させて戴きます」と前置きして異口同音に「天皇陛下万歳」を絶唱した。指揮官の手が挙がるや、五人の正射手が受刑者に対し低頭黙礼して引鉄を引いた。。射弾の命中した前頭部からは僅かに白布の鉢巻に鮮血がにじみ出る程度であるが、両の鼻孔からサーツと垂れ布を染めて流れ落ちた。次いで軍医が検診を行った。絶命が確認されなければ、副射手が替わって再度射撃した。なかにはうめき声を出してなかなか絶命せず、ある人は副射手の撃つ二発目で、ある人はさらに正射手の三発目で事切れた。刑の執行は15名を5名ずつ3回に別けて為された。1回ごとに執行が終わると直ぐ様遺体を近くの幕舎に運んで創の処置をして納棺し、急ごしらえの祭壇に安置した」。

【二・二六事件死没者慰霊碑考】
 二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。代々木練兵場の跡地で、死刑執行が行われた所で北一輝や栗原安秀中尉ら「二十二士の墓」がある。昭和11年2月26日、同所にあった皇道派将校により起こった二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。 なお、昭和11年7月12日の刑の執行では15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から小部隊による演習が行われ、軽機関銃で空砲を打ち続けたと云われている。これは処刑時の発砲音が外部に聞こえないようにする為だったという。

  慰霊像の横にある碑文には次のように書かれている。碑文は、客観的な記述を心がけ、重臣や殉職警察官に対しても、慰霊が込められている。

 「昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた。野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。当時東京は暖冬にしては異例の大雪であった。蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。齊藤内大臣 高橋大蔵大臣 渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田総理大臣 牧野前内大臣は危く難を免れた。此の間、重臣警護の任に当たっていた警察官のうち五名が殉職した。世に是れをニ.ニ六事件という。

 昭和維新の企図壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。此の地は其の陸軍刑務所後の一隅にあり、刑死した十九名と是れに先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した処刑場跡の一角である。此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく広く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに其の竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。

 昭和四十年二月二十六日   佛心會代表 河野 司 誌」

 毎年2月26日と7月12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われている。年二回の法要のうち、2月26日は襲撃の被害に遭った方々も含めて法要されています(「仏心会」主催)。死刑執行の際、同期の林八郎少尉を撃った真藤少尉(当時)の尺八献奏もある。現在の世話役代表は3人(対馬中尉、田中中尉、安田少尉の親族の方)。また、「二・二六事件慰霊像」の世話は「慰霊像護持の会」が行っている。池田少尉(求刑は死刑)、北島伍長、今泉少尉の親族の方が中心。

 佛心會とは、二.二六事件で刑死した青年将校の遺族会であり、代表の河野司氏は、自決した河野大尉の実兄。戦後、二.二六事件関係の資料を精力的に集め、公刊している。毎年、賢崇寺(けんそうじ、東京都元麻布1-2-12、佐賀鍋島家の菩提寺)で合同慰霊式を行っている。神奈川では、牧野前内務大臣を襲撃した湯河原町宮上の旅館・伊藤屋の別館「光風荘」が、現在地元有志によって資料館となって公開されている。襲撃を指揮し病院で自決する河野大尉の遺言、殉職した巡査の焼けただれた万年筆、当時の新聞のコピーなど多数を展示されている。山口では、下関市出身で渡辺教育総監を襲撃した田中勝陸軍中尉の長男への遺言(複写)、写真など十数点を、山口県下関市にある忌宮神社が展示した。青森では、栗原隊として首相官邸を襲撃した対馬中尉の96歳となった実妹のインタビューが新聞に掲載された。「波多江さんは、今も事件に参加した兄の「純真な気持ち」を信じている。「父親は青森へ転居する前は農家だったし、貧乏な農家のことは身に染みていたのではないか」。部下には農家の出身が多く、娘が売られるなどの農家の厳しい実態を知って、「このままではいけない」と思い立ったのではと心情をくむ。「非常に正義感が強く、とにかく曲がったことが嫌いで真っすぐな性格の人でしたから」」と述べている。


反乱軍部隊の改編
 反乱軍を出した各部隊等では、指揮官の交代等が行われた。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
東京警備司令部  司令官は、1936年(昭和11年)4月2日に、香椎浩平中将から岩越恒一中将へ交代。香椎浩平中将は、待命となり、同年7月10日に予備役に編入される。
近衛師団  師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、橋本虎之助中将から香月清司中将へ交代。橋本中将は同年、予備役編入。
近衛歩兵第3連隊  連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、円山光蔵大佐から井上政吉大佐へ交代。
第1師団  師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、堀丈夫中将から河村恭輔中将へ交代。堀中将は、同日3月23日、同年7月6日に予備役編入。
歩兵第1連隊  連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、小藤恵大佐から牛島満大佐へ交代。
歩兵第3連隊  連隊長は、1936年(昭和11年)3月28日に、渋谷三郎大佐から湯浅政雄大佐へ交代。













(私論.私見)