昭和時代史3、2.26事件 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、2.26事件を考察する。「あの戦争の原因」、「ウィキペディア2..26事件」、「2.26事件を巡る(上)」、「ニ.ニ六事件を思う」、「皇道派と統制派の対立、二・二六事件」その他を参照する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
1936(昭和11)年の動き |
【2.26事件の伏線】 |
2.26事件に至る伏線を確認しておく。陸軍内で皇道派と統制派が対立していた。皇道派という名前の由来は、荒木貞夫大将が「国軍」を「皇軍」と命名し、日本軍を天皇親率軍と位置づけたことによる。中心人物が荒木貞夫、真崎甚三郎、山下奉文で、天皇機関説批判の中心的存在でもあった。その皇道派に対抗して組織化されたのが統制派で、クーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近し、合法的に権力を樹立しようとする陸軍省・参謀本部などの中堅幕僚将校のグループであった。中心人物が永田鉄山、林銑十郎、東条英機、石原莞爾らであった。 1934(昭和9).1.23日、荒木貞夫陸相が病気で辞任した。後任に同じ皇道派の真崎甚三郎が就任することになっていたところ、反荒木派の中堅幕僚が、参謀総長の閑院宮載仁親王を動かして巻き返しを図り、荒木陸相の後任に統制派の林銑十郎を就任させた。 3月、統制派の林銑十郎陸相は、軍政方面におけるエリートで、大臣や次官への登竜門にして大臣・次官に次ぐ軍政方面のナンバー3の軍務局長に統制派の永田鉄山を起用した。この結果、統制派が陸軍省の実権を握った。永田鉄山は陸士を優等で卒業し、陸大も優等で卒業して、恩賜の軍刀を賜ったエリート中のエリートであった。 7月、岡田啓介(海軍大将)内閣が誕生し、陸相に統制派の林銑十郎が留任した。8.19日、ドイツで、ヒトラーが国民投票で総統に就任した。ドイツ第3帝国が成立した。9.18日、ソ連が国際連盟に加入した。 11.20日、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一大尉らの青年将校がクーデタを計画したという容疑で検挙された。これを士官学校事件又は十一月事件と云う。理由は、第六十六臨時議会(昭和9年11月28日~12月9日)の開会中に村中・磯部らが首謀者となり、西田税ら民間右翼も加え、元老・重臣及び警視庁を襲いクーデターを決行しようとした容疑である。検挙に当たったのが統制派の主要メンバーであったため、争議となった。事件の経緯は次の通り。統制派の辻政信大尉が士官学校教官として赴任し、生徒である佐藤勝郎士官候補生から「別の中隊の同級生である武藤与一が皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一主計・西田税予備少尉らの国家改造理論グループに参加を進められている」という話を聞かされた。その結果、「11月21日に、クーデタを決行して首相の岡田啓介・前首相の斎藤実・公爵の西園寺公望らを殺害し、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎らを中心とする軍部内閣を樹立しようとしている」ということが判明した。辻は「村中らのクーデター計画情報」を片倉衷少佐・塚本誠憲兵大尉と相談して、橋本虎之助陸軍次官に報告した。皇道派の一部は、「これは統制派が仕組んだ皇道派追い落としの策略だ」と証言している。 この事件により、統制派と皇道派の対立が激化し、青年将校の間で逆に上官に対する不信感が増幅した。 1935(昭和10).2.7日、村中が片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが軍当局は黙殺した。3.16日、ヒトラーが、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し、徴兵制による再軍備を宣言した。3.20日、証拠不十分で不起訴になった。4.1日、停職。4.2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4.6日、教育総監の真崎甚三郎は国体明徴の訓示を陸軍に通達した。4.24日、村中は告訴の追加を提出したが黙殺された。5.11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに上申書を提出し、磯部は5.8日と13日、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。 7.11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。 7.15日、統制派は、昭和十年八月の定期人事異動を機に、皇道派を陸軍首脳部から追い払おうと図った。統制派の林銑十郎陸相は、皇道派の真崎甚三郎教育総監に対して、統制派の永田鉄山軍務局長・杉山元参謀次長も参加し、今井清人事局長・柳川平助陸軍次官の作成した人事案を示した。皇道派の真崎甚三郎や山岡重厚・小畑敏四郎・山下奉文・鈴木率道らを排除する意図が明瞭にされていた。真崎は、「軍の最高人事は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で決定するという内規を無視するのか」と抗議した。 7.16日、統制派の林銑十郎陸相は、皇道派の真崎甚三郎教育総監を罷免し、後任に統制派の渡辺錠太郎を任命した。真崎甚三郎は、「この人事の背景には永田鉄山がいる」と皇道派将校に吹聴した。統制派と皇道派の対立が深刻化した。 8.2日、士官学校事件で休職中の皇道派の村中孝次、磯部浅一が、「粛軍に関する意見書」を頒布した件で免官された。皇道派には理不尽な処分であった。 8.3日、岡田啓介内閣は、国体明徴を声明した。 8.12日白昼、統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。概要は次の通り。陸軍省軍務局長の永田鉄山少将(51歳)は、陸軍省軍務局長室で、東京憲兵隊長の新見英夫大佐から報告を聞いてたところへ、皇道派の相沢三郎陸軍中佐(46歳)がドアを蹴破り、「天誅!」と叫んで斬りかかり、右の方へ避逃げた永田鉄山の背後から一太刀浴びせた。永田は自分の机の前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとしたが、鍵がかかっていた。相沢三郎は、永田鉄山の左背部から突き刺し刺殺した。武士の作法として永田の首筋にとどめを刺した。永田少将は陸士16期生、相沢中佐は陸士22期生で先輩・後輩の間柄であった。新聞は、「現役将校が白昼公務執行中の上官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、我が陸軍未曾有の重大事」と報じた。 9.5日、林銑十郎陸相が辞職し、後任に中立派の川島義之陸軍大将が就任した。皇道派の陸軍青年将校は再び、形勢を挽回するためにクーデタを計画した。 この頃、第1師団の満州への派遣が内定している。青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊に属していた。青年将校らは危機感を抱き、逆に「昭和維新断行」の決意を固めた。慎重論もあったが、「第1師団が渡満する前の蹶起」を確認した。山口一太郎大尉や民間人である北、西田は時期尚早であると主張したが、置き去りにするかたちで事態が進行し始める。 安藤輝三大尉は、第1師団の満洲行き内定に対して、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べている。1935.1月の中隊長昇進の際には、連隊長・井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束している。 この頃、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と事件後憲兵の尋問に答えている。 9.15日、ヒトラーは、「ドイツ人の血と尊厳の保護」として、ニュルンベルク法を制定した。10.3日、イタリアがエチオピアに侵入を開始した。これをエチオピア戦争と云う。 9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語っている。 12.14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語っている。 1936(昭和11).1.5日、磯部は川島陸相を官邸に訪問し約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。 1.23日、磯部が浪人森伝とともに川島義之陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。 1.28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。 2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。 2.20日、安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。 2.22日、安藤大尉は、野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と云われ、決起参加を決断した。 東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。 |
【当時の農村の疲弊と惨状考】 |
1929(昭和4)年、アメリカはニューヨークのウォール街では株の大暴落でパニックにつつまれた。アメリカの恐慌は日本をも直撃し、日本のアメリカへの主力輸出品である生糸の暴落へと導いた。生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落へと連動し、農家の生計は崩壊した。それに、さらに追い打ちをかけたのが東北地方の凶作飢饉だった。農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年と昭和9年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。 1934(昭和9)年、岩手県では農家7万7000戸の内40%は生活保護が必要とされていた。当時の新聞は「稗・粟さえも尽きようとし、楢の実が常食となり、農民が鶏のエサであるふすまや稗糠を買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は2万4000名を数え、12月には5万名を超えるものと予想された」と報じている。 1934(昭和9)年、山形県警察本部保安課の調査資料によると、、昭和9年1月から11月までの間に山形県内の娘身売りの数は3298人で、その内訳は芸妓249人、公娼1420人、私娼1629人と記録している。「娘身売りの場合は、当相談所に御出下さい」と張り紙をした村役場も、東北地方では珍しくなかった。1934(昭和9)年、青森県の資料によると、青森県内の身売り数は2279人で、その内訳は芸妓405人+公娼850人+私娼1024人と記録している。 |
【「蹶起趣意書」考】 | ||||
2.13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せている。蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、一言も発しなかったと云われている。蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。 磯部は、獄中手記で次のように決起の心情を吐露している。
村中の憲兵調書には次のように記されている。
『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。 菅波三郎は次のように述べている。
青年将校らが折に触れて歌ったのが「昭和維新の歌」、正式には「青年日本の歌」であった。作詞作曲は、首相官邸で犬養毅首相を襲った「五.一五事件」の実行犯である三上卓(みかみたく/たかし1905-1971)海軍中尉。
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【蹶起直前の申し合わせ】 |
2.18日夜、栗原安秀中尉宅での会合で西園寺襲撃が決定された。翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し同意を得る。対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。 2.21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。第一次目標は、岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、牧野伸顕(前内大臣)、西園寺公望(元老)。第二次目標は、後藤文夫(内務大臣)、一木喜徳郎(枢密院議長)、伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)、三井高公(三井財閥当主)、池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)、岩崎小弥太(三菱財閥当主)だった。磯部は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。 2.21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。 2.22日、暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。 2.23日、栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。 2.24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃、夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。西園寺はなぜか事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察部長官舎に避難した。 |
【2.26未明蹶起の様子】 | |||
2.25日夜半から26日未明、東京は記録的な大雪であった。前夜からの雪の中、安藤輝三大尉、野中四郎大尉、香田清貞、栗原安秀中尉、中橋基明、丹生誠忠中尉、磯部浅一、村中孝次ら尉官クラスの陸軍皇道派青年将校22名に率いられた反乱軍(近衛師団の近衛歩兵第三連隊、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊の1483名。そのうち歩兵第3連隊は937名)がク-デタ-に決起する。政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破せんとして「昭和維新断行、尊皇討奸」、「君側の奸を除き、天皇親政を実現するため」を名目に決起した。首相官邸や侍従長邸ほか重臣私邸を襲撃、首都中枢部(首相官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁など永田町一帯)を占拠するというクーデター事件が発生した。世に「二・二六事件」と云う。事件後しばらくは「不祥事件」、「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。 反乱軍は、襲撃先の抵抗を抑えるため連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。事件当日は雪であった。反乱軍は圧倒的な兵力や機関銃を保有しており、概ね抵抗を受けることなく襲撃に成功した。但し、総理官邸、渡辺大将私邸、高橋蔵相私邸及び牧野伯爵逗留地では、警備の警察官・憲兵の激しい抵抗を受け、これら警察官・憲兵を殺害又は重傷を負わせている。また、渡辺大将自身も拳銃で応戦したとされている。 決起部隊の行動が始まった時間について、松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
2.26日午前3時30分、歩兵第三連隊の安藤輝三大尉は、第六中隊の兵・機関銃隊四箇分隊・機関銃四挺など204人を率いて連隊を出発した。午前4時20分、丹生誠忠中尉が率いる歩一部隊は、香田清貞大尉・磯部浅一・村中孝次・竹嶋継夫中尉・山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵170人で営門を出発し、霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠した。「陸軍大臣に会見がしたい」と言つて、憲兵と押問答している。 午前5時、クーデターが一斉に開始される。野中四郎大尉指揮の約500名からなる警視庁襲撃部隊が警視庁全体を制圧、「警察権の発動の停止」を宣言した。当時、警視庁は特別警備隊(現在の機動隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとって脅威とされた。警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣・警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。 松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
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【反乱軍の首相官邸襲撃の様子】 |
午前5時、総理官邸襲撃の全体の指揮を栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第一連隊機関銃隊)が執り、約300名の部隊を率いた。第1小隊を栗原中尉、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次曹長、他に封馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)を指揮者とした。栗原隊が首相官邸前に到着したのは午前五時少し前。総理大臣官邸に乱入する際、官邸警備に当たっていた村上嘉茂衛門巡査部長を官邸内で殺害した。土井清松巡査は林八郎を取り押さえようとして殺害された。清水与四郎巡査が庭で、小館喜代松巡査が官邸玄関で拳銃で応戦するが、襲撃部隊の圧倒的な兵力により殺害された。その間、岡田の義弟で総理秘書官兼身辺警護役をつとめていた松尾伝蔵・予備役陸軍大佐が反乱将校らの前に自ら走り出て銃殺された。松尾はもともと岡田と容姿が似ていた上、銃撃によって前額部が大きく打ち砕かれ容貌の判別が困難になったため将校らは岡田総理と誤認。目的を果たしたと思いこんだ。岡田首相は、女中部屋の押入れに隠れ難を逃れた。新聞は、岡田首相殺害と報道した。 一方、総理生存を知った総理秘書官福田耕と総理秘書官迫水久常らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助・憲兵曹長、青柳利之・憲兵軍曹及び小倉倉一・憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日、事件中の警戒厳重な兵士の監視の下で首相官邸への弔問客が許可されると岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、変装させた岡田を退出者に交えて官邸から脱出させて難を逃れた。 |
【反乱軍のその他の襲撃の様子】 2月26日午前5時、中橋基明歩兵中尉の部隊130人は、赤坂表町3丁目の高橋是清蔵相私邸に到着しました。中橋は表門から、中島莞爾歩兵少尉は東門の塀を乗り越えて邸内に入りました。就寝中の高橋是清を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙ト叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」、中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺しました。 |
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別部隊が首相官邸の岡田啓介、赤坂の高橋是清・蔵相私邸、四谷の斎藤実・内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎・教育総監私邸(陸軍大将、彼は真崎の後任だったと言うだけで襲撃対象になった)、麹町の天皇側近の鈴木貫太郎・侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃し、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠した。政治―軍の中枢である霞が関から三宅坂周辺を完全に制圧し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して「昭和維新」の断行を迫った。斎藤実・内大臣、渡辺錠太郎・教育総監、高橋是清・蔵相の重臣が殺害された。鈴木貫太郎・侍従長は重傷を負い、岡田啓介・首相は襲撃を受けるも、義弟の私設秘書松尾伝蔵大佐と間違えられ、からくも脱出した。 高橋蔵相私邸襲撃の様子につき、松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃の様子は次の通りである。鈴木貫太郎侍従長を襲撃したのは歩兵第三連隊の安藤輝三大尉で、その第六中隊の兵と、機関銃隊四箇分隊、機関銃四挺、計二百四名をもって午前3時半に連隊を出発。4時50分頃、麹町区三番町の鈴木賞太郎侍従長官邸に到着、午前5時、襲撃を開始した。夫人の鈴木たかが懇願したので、安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。その為、一命をとりとめた。「鈴木貫太郎自伝」によると「二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが来ました、後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的にいよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になる ものはないかと、床の間にあった自鞘の剣をとろうとした」とある。このあと下士官にピストルで撃たれますが奥様がとどめを防いだため一命をとりとめる。 斎藤實内大臣私邸襲撃の様子は次の通りである。坂井直中尉・高橋太郎少尉・麦屋清済少尉・安田優少尉らが率いる部隊210名は、営門を出て青山一丁目、信濃町、四谷仲町のコースで午前5時少し前に四谷区仲町3丁目の斎藤実内大臣私邸に到着、襲撃した。夫人は「撃つなら私を撃ちなさい」と夫をかばい重傷を負い、斉藤実は殺害された。内大臣斎藤實の養子である斉藤斉の妻の弟、有馬頼義(直木賞作家)が、向かいの屋敷の窓から襲撃の様子を目撃して次のように記している。
渡辺教育総監私邸襲撃の様子は次の通りである。教育総監渡辺錠太郎大将郎を襲撃したのは、内大臣斎藤實私邸を襲撃して別れた一隊で、指揮者は、高橋太郎少尉・安田優少尉と、下士官以下兵30名。高橋少尉以下は、斎藤邸から赤坂離宮正門まで出て、そこで、田中部隊のトラックに乗り、荻窪に向っている。記録では、渡辺邸に着いたのは六時過頃となっているが、家族の証言によると正六時頃と記憶されている。松本清張の「昭和史発掘」では7時頃。渡辺教育総監宅と二軒隣の並びに住んでいた渡辺教育総監の長女政子が次のように証言している。
牧野元内府(湯河原伊藤旅館別館)襲撃の様子は次の通りである。河野寿航空兵大尉らが前内府の牧野伸顕が宿泊する湯河原の旅館を襲撃した。牧野伸顕は、岩本屋旅館の岩本亀三らにおぶさって難を逃れた。松本清張の「昭和史発掘」は次のように記している。
この時、護衛の皆川巡査に河野大尉も撃たれ、最後に伊藤旅館別館に火を放ちますが、牧野元内府は岩本屋旅館の岩本亀三氏他の地元の人々に助けられ難を逃れた。河野大尉はこの後3.5日、入院中の病院で自殺を図る。 |
【反乱軍の各方面への根回し】 |
栗原中尉、中橋中尉、田中中尉(野戦重砲第七連隊)、池田少尉らは、それぞれの最初の襲撃を終えた後、軍用トラック3台に兵60人と機銃3と共に分乗し、各新聞社を襲撃した。中でも、東京朝日新聞社には午前8時55分ごろ到着し活字ケース等を破壊し、引き上げの際、栗原中尉は「国賊朝日新聞は多年自由主義を標榜し重臣ブロックを擁護し来れり。今回の行動は天誅と思え」と叫んだ。他にも日本電報通信社、国民新聞社、報知新聞、東京日日新聞、時事新報社に現れ、蹶起趣意書を新聞等に掲載するよう強要した。 |
【反乱軍の各方面への根回し】 |
反乱軍は政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求し、軍首脳を経由して昭和天皇に対し天皇の一元指導下での天皇親政による昭和維新を訴えた。反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待した。かねてよりの打ち合わせであったか、侍従武官長・本庄繁や陸軍大臣・川島義之、真崎甚三郎・大将らは「彼等の精神は、君国を思う心より出たもので、必ずしも咎むべきものではない」としてこの決起に連動したが、軍の上層部はこの反乱に対し、穏便に対処するべきか、軍隊を用いて鎮圧すべきか、判断がぐらつき右往左往するばかりで、説得に駆けつけた真崎大将は、「お前たちの気持ちは、ようくわかっとる。ようっわかとる」と、繰り返すばかりであった。 事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。 午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。 中島侍従武官が甘露寺受長侍従に連絡して、昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え、執務室に向かった。甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた。 襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、5時20分頃事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。 午前5時頃、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半頃、ようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。 |
【反乱軍の要望事項朗読、「蹶起趣意書(二・二六事件)」】 | |||
2.26日午前6時40分頃、香田大尉らが陸相官邸で川島義之陸相と会見し、決起趣意書と7項目からなる要望書(「真崎甚三郎を首相にし、処理を一任する」)を提出して昭和維新の断行を迫った。香田大尉が要望事項を朗読し村中が補足説明した。
「蹶起趣意書(二・二六事件)」の文面は次の通り。
上記の「決起趣意書」は、野中四郎大尉が起草したものに文才に長けた村中孝次が筆を加えたものと云われている。格調ある漢文調で書かれて、当時の30歳前後の将校たちの頭脳明晰さと教養の高さが窺い知ることができる内容の文章となっている。 |
【2.26事件の展開】 |
午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。この時、真崎大将が、「たうとうやったかお前たちの心はヨオックわかつとる、ヨオックわかつとる」と述べたと云われる。 真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。参内後、伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」、「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。 午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」、「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。また正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。 杉山元陸軍参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。 午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。 |
【昭和天皇の対応】 | |||
事件の報に接した天皇は次のように述べたとされる。
「自分の股肱の老臣たちが殺戮されたのだ。このような凶暴な将校たちであれば、その精神においても絶対に許すことができない」として「暴徒を速やかに鎮圧せしめ鎮定せよ」との指示を為し、彼らの主張も分かると言った侍従武官長の本庄繁・中将に対しては、「それは私利私欲のためにやったのではないと言うにすぎない。自分が信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことはできない。もし陸軍ができないと言うのなら、自分がみずから近衛師団を率いて鎮定に当たろう」と厳しく叱責した。天皇陛下万歳を叫ぶ軍人と、実際の天皇の意識の溝の深さが刻印された。 もう一人、石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)も強硬に対処した。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上し、終始「討伐」の主張を貫いた。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。 軍上層部は、事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍として認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変し、国賊とされ討伐の対象となった。 正午半過ぎ、荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んだ。昭和天皇の鎮圧命令が出たにも拘わらず、陸軍首脳部は武力鎮圧を躊躇した。 正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。午後三時ごろ村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。 午後3時、東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7.18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。 午後3時30分、 東京警備司令部より陸軍大臣告示が印刷・下達された。
この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と「行動」に差し替えられた。反乱部隊への参加者を多く出した第一師団司令部では現状が追認されたものと考え告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする向きもあった 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。 |
【反乱部隊に「蹶起部隊を所属原隊に撤退させよ」の奉勅命令】 | ||||
2.28日午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。 午前5時、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」との奉勅命令が戒厳司令官に下達された。 午前5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令された。 6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した。 正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』と激怒し拒絶した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。 自決と帰営の決定事項が料亭行楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤、安藤隊は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。 また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。 29日午前5時10分、討伐命令が発せられた。
午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラ]を飛行機で散布した。 午前8時55分、ラジオ(中村茂アナウンサー)で「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る 軍旗に手向かふな」(原文は全て繋がっている)と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。
ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されていた。 これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰った。「1558名の参加兵員のうち、初年兵が3分の2の1027名を占めていた。初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1.10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇」した。訳のわからぬままに駆り出され、原隊復帰したことになる。その後、「反乱兵士の汚名」をきせられ、厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、そ多くは戦死している。安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際、野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。 永井荷風の断腸亭日乗の昭和11年2月26日に次のように書かれている。
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【戒厳令下の動き】 |
2.28日午前5時、クーデター開始から2日後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれた。 2.29日(この年は閏年)、鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みられる。ビラとラジオ放送で帰順が呼びかけられ、さらにアドバルーンを空に上げ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。これは効果を発揮し、決起隊の兵士たちは次々帰順し陸軍省に集まってきた。多くの兵士が脱落し始め、午後2時頃までには大部分が帰隊した。反乱将校たちには自決用のピストルが渡された。が、この時、自決したのは2名のみ、青年将校のうち安藤輝三・大尉と野中四郎・大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴えるとして軍法会議に掛けられる道を選び、憲兵隊に逮捕された。将校15名、右翼思想家・北一輝、元陸軍大尉・村中孝次(5.15事件の関与が疑われ、免職されていた)ら民間人4名の計19名が陸軍軍法会議で裁かれ、銃殺された。 3.4日午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3.5日、自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。 |
【事件による警察官の殉職】 |
事件にあたって5名の警察官が殉職し、1人が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。
また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。 |
【事件に対する海軍の動き】 |
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦長門以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。 この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。 |
【2.26事件その後】 |
「2.26事件」の背景考察として、「当時は為政者も軍人も思想家も民衆も強力な閉塞感に支配されており支配者も被支配者もその所属階級を問わず『今までどおりの方法では体制が立ち行かない』状況にあった」ことが知られねばならない。 この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。以降、陸軍では皇道派が姿を消し統制派が主流となった。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。 ※(大日本帝国憲法での内閣制度について) 首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。 ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままに出来る立場になる。(「あの戦争の原因」) |
【反乱軍将校の公判と処刑】 | |
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 2.28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3.4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。。軍法会議主席検察官には匂坂春平陸軍法務官、軍法会議裁判官には陸軍法務官小川関治郎ら任命された。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は、「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。 当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。 第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス 事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。 3月、小川関治郎陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、7.5日、「第1次処断」として栗原安秀、安藤輝三、安田優たち青年将校17名の死刑、無期禁錮4名、禁錮4年1名の判決が宣告された。 死刑は、「首魁」で、村中孝次・元歩兵大尉(37期)、磯部浅一・元一等主計(38期)。「叛乱罪(首魁)」で、香田清貞・歩兵大尉(第1旅団副官、37期)、安藤輝三・歩兵大尉(歩兵第3連隊第6中隊長、38期)、栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)。「叛乱罪(群衆指揮等)」で、竹嶌継夫・歩兵中尉(40期)、対馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校、41期)、中橋基明・歩兵中尉(近衛歩兵第3連隊、41期)、丹生誠忠・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)、坂井直・歩兵中尉(歩兵第3連隊、44期)、田中勝・砲兵中尉(野戦重砲第7連隊、45期)、中島莞爾・工兵少尉(46期)、安田優・砲兵少尉(陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附)、46期)、高橋太郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、46期)、林八郎・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)、渋川善助・。 「無期禁錮」は「叛乱罪(群衆指揮等)」で、 麦屋清済・歩兵少尉、常盤稔・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、鈴木金次郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、清原康平・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、池田俊彦・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)。「禁錮4年」 は今泉義道・歩兵少尉(近衛歩兵第3連隊、47期)。 7.12日、宣告1週間後、陸軍刑務所内の処刑場で15名の死刑が執行された。 7.29日、「第2次処断」として禁錮刑が宣告された。無期禁錮は、「叛乱者を利す」で 、山口一太郎・歩兵大尉(歩兵第1連隊中隊長)。「禁錮6年」は、「司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る」で、新井勲・歩兵中尉(歩兵第3連隊)。「叛乱予備」で、鈴木五郎・一等主計(歩兵第6連隊)、「禁錮4年」は、「叛乱者を利す」で、柳下良二・歩兵中尉(歩兵第3連隊)。「叛乱予備」で、井上辰雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)、塩田淑夫・歩兵中尉(歩兵第8連隊)。 翌年の1937.8.19日、磯部浅一、村中孝次と彼ら青年将校の思想的指導者と目された北一輝や西田税を含む4名が処刑された。いずれも処刑は銃殺刑であった。 1937(昭和12).1.18日、「第一次背後関係処断」の判決が宣告された。禁錮5年は、菅波三郎・歩兵大尉(37期)、斎藤瀏・予備役少将(12期)。禁錮4年は、大蔵栄一歩兵大尉(羅南歩兵第73連隊、37期)、末松太平・歩兵大尉(39期)。禁錮3年は、満井佐吉・歩兵中佐(26期)、志村睦城・歩兵中尉、志岐孝人・歩兵中尉、福井幸、町田専蔵。禁錮2年は越村捨次郎。禁錮2年(執行猶予4年)は加藤春海。禁錮1年6月は宮本正之。禁錮1年6月(執行猶予4年)は、佐藤正三、宮本誠三、杉田省吾。 8.14日、「第二次背後関係処断」の判決が宣告された。死刑は、「叛乱罪(首魁)」で、北輝次郎(一輝)(52歳)、西田税・元騎兵少尉(34歳)。無期禁錮は、「叛乱罪(謀議参与)」で、亀川哲也。禁錮3年は、「叛乱罪(諸般の職務に従事)」で、中橋照夫。8.19日、北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次が処刑された。 その他判決 は次の通り。死刑は、水上源一(27歳)。禁錮15年は、中島清治・予備役歩兵曹長(28歳)、宮田晃・予備役歩兵曹長(27歳)、宇治野時参・軍曹(歩兵第1連隊、24歳)、黒田昶・予備役歩兵上等兵(25歳)、黒沢鶴一・一等兵(歩兵第1連隊、21歳)、綿引正三(22歳)。禁錮10年は、山本又・予備役歩兵少尉(42歳)。 判決は、「謀者17名死刑、69名有罪」となった。そのうち自決は、野中四郎・歩兵大尉(歩兵第3連隊第7中隊長、32歳)、河野寿・航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生、28歳)の2名。田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。 叛乱軍の首謀者の一人・磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。銃殺に処される前に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」。 井伏鱒二の「荻窪風土記」は、2・26事件について次のように記している。
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【皇道派将校の免官処罰】 |
2.29日、反乱軍の20名の将校が免官となった。3.2日、山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。3.10日、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち荒木、真崎、阿部、林の4名が予備役に編入された。3.30日、陸軍大臣であった川島が予備役となった。4月、侍従武官長の本庄繁が、女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、予備役となった。7月、戒厳司令官であった香椎浩平中将が予備役となった。皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後昭和15年に航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。 |
【下士官兵の悲劇】 |
以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事・社会党衆議院議員)がいる。 |
【公判記録隠匿の怪】 | ||
民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。 軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。1988年、匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が、遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされた。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は次のように反論している。
田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。 匂坂春平はのちに次のように語っている。
匂坂はひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる。 公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988.9月になって判明した。1993年、研究目的で一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し(撮影・複写が禁止されているため)、1998年に出版した。 |
【7.12日処刑の様子証言考】 | |
「2・26事件介錯人の告白」が処刑の様子を次のように証言している。証言者は、15名の死刑の一人であった林八郎少尉の士官学校の同級生の進藤義彦(陸軍騎兵学校の戦車第三中隊長で少佐)で「運命の介錯人」を務めた。平成3年になって初めて銃殺刑の実態の告白記事を発表した。
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【二・二六事件死没者慰霊碑考】 | |
二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。代々木練兵場の跡地で、死刑執行が行われた所で北一輝や栗原安秀中尉ら「二十二士の墓」がある。昭和11年2月26日、同所にあった皇道派将校により起こった二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立
東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。
なお、昭和11年7月12日の刑の執行では15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から小部隊による演習が行われ、軽機関銃で空砲を打ち続けたと云われている。これは処刑時の発砲音が外部に聞こえないようにする為だったという。 慰霊像の横にある碑文には次のように書かれている。碑文は、客観的な記述を心がけ、重臣や殉職警察官に対しても、慰霊が込められている。
毎年2月26日と7月12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われている。年二回の法要のうち、2月26日は襲撃の被害に遭った方々も含めて法要されています(「仏心会」主催)。死刑執行の際、同期の林八郎少尉を撃った真藤少尉(当時)の尺八献奏もある。現在の世話役代表は3人(対馬中尉、田中中尉、安田少尉の親族の方)。また、「二・二六事件慰霊像」の世話は「慰霊像護持の会」が行っている。池田少尉(求刑は死刑)、北島伍長、今泉少尉の親族の方が中心。 佛心會とは、二.二六事件で刑死した青年将校の遺族会であり、代表の河野司氏は、自決した河野大尉の実兄。戦後、二.二六事件関係の資料を精力的に集め、公刊している。毎年、賢崇寺(けんそうじ、東京都元麻布1-2-12、佐賀鍋島家の菩提寺)で合同慰霊式を行っている。神奈川では、牧野前内務大臣を襲撃した湯河原町宮上の旅館・伊藤屋の別館「光風荘」が、現在地元有志によって資料館となって公開されている。襲撃を指揮し病院で自決する河野大尉の遺言、殉職した巡査の焼けただれた万年筆、当時の新聞のコピーなど多数を展示されている。山口では、下関市出身で渡辺教育総監を襲撃した田中勝陸軍中尉の長男への遺言(複写)、写真など十数点を、山口県下関市にある忌宮神社が展示した。青森では、栗原隊として首相官邸を襲撃した対馬中尉の96歳となった実妹のインタビューが新聞に掲載された。「波多江さんは、今も事件に参加した兄の「純真な気持ち」を信じている。「父親は青森へ転居する前は農家だったし、貧乏な農家のことは身に染みていたのではないか」。部下には農家の出身が多く、娘が売られるなどの農家の厳しい実態を知って、「このままではいけない」と思い立ったのではと心情をくむ。「非常に正義感が強く、とにかく曲がったことが嫌いで真っすぐな性格の人でしたから」」と述べている。 |
【反乱軍部隊の改編】 | ||||||||||||
反乱軍を出した各部隊等では、指揮官の交代等が行われた。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
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