昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ(昭和改元から満州事変まで)



 更新日/2019(平成31).2.25日

 これより以前は、大正ルネサンスの光と影
1926(昭和1)年、昭和天皇即位後の動き

【大正改元】
 12.25日、大正天皇崩御、大正天皇を追号。摂政宮裕仁親王が践祚(即位)し、「昭和」と改元。元号の「昭和」は、中国の「書経」にある「百姓昭明 万邦協和」から取ったもので,国民のしあわせと平和を願う意味があるという。昭和元年は7日間しかなかった。

 大正15年度末の国債残高はほぼ50億円、歳入総額の2.5倍。諸々の矛盾が昭和に先送りされた。
 7月、蒋介石を指導者とする中国国民党軍が第一次北伐開始。
1927(昭和2)年の動き

【片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と失言、大騒動となる】
 1927(昭和2)年、首相の若槻礼次郎(憲政会)は震災手形処理の重要性から政友会および政友本党と政治休戦を結び、法案支持の約束を結んでいたが、政友本党が憲政会と連合したために政友会が反発。憲政会内閣への攻撃を始めた。3月14日の事件はこの時の出来事。 

 3.14日、衆議院予算委員会で先の「震災手形」の満期引き延ばし法案を討議中、吉植政友会代議士の質問に答えて、片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と失言。これを機に京浜地区の中小銀行に取り付け騒ぎが発生した。

 大蔵省の命令で台湾銀行が鈴木商店への新規融資を打ち切り、同社は万策尽きて倒産、鈴木商店が大株主になっていた神戸の65銀行が休業に追い込まれ、取り付け騒ぎは全国に飛び火し、金融恐慌へと発展。全国の銀行で預金が引き出し(取り付け)が殺到し、休業に追い込まれた中小銀行は37行、大手銀行にも取り付けが殺到した。株式市場も恐慌状態に入った(4月上旬)。

 「震災手形」の大口所持銀行の筆頭は台湾銀行、大口債務者の筆頭はその取引先の鈴木商店。なぜ神戸の鈴木商店が「震災手形」を多く抱えていたかというと、鈴木は第一次世界大戦好況期に借入金により巨額の投資をしたが、その後の戦後恐慌により苦況に陥る。そこに起きたのが関東大震災。鈴木商店と台湾銀行はこのどさくさに紛れて、関係手形を「震災手形」とし、決済を先延ばしにしていた。同じ様な理由で、大戦ブーム期に過剰投資を行い、戦後恐慌でつまずいた企業・銀行が多くの「震災手形」を抱えていた。(渡辺銀行もその一つ。)手形は当然、満期がくれば決済の必要が有るため、満期引き延ばしが行われないとこれらの銀行・企業は資金売りが困難になる。 

 3.21日、昭和天皇が大元帥としての最初の裁可で、中国への軍隊派遣を指令した。中国の内戦に絡み、上海在住居留民の生命財産を守るため、イギリス・アメリカと共同出兵する体裁となった。時の外相・幣原喜重郎(第一次若槻内閣)に、内政不干渉と国際協調の立場で派兵することを確かめ、軍令部長の鈴木貫太郎海軍大将に、自衛の域を逸脱しないよう念を押して上奏書類に署名され、日本の海軍陸戦隊が上海に上陸した。
 3月、中国で、国民党大会で蒋介石の国民革命軍総指令のポストを廃止し、国民党左派勢力が武漢の国民党政府を掌握。蒋介石派が放逐された。
【第一次若槻礼次郎内閣総辞職】
 4.17日、若槻政府は、台湾銀行救済の為の緊急勅令案を枢密院の議事にかけたところ、顧問官の伊東巳代治が強く反対し、且つ政府の外交政策を非難攻撃し始めた。結果的に、同案は審査委員会で否決され、枢密院本会議での採決の結果否決された。台湾銀行救済のための緊急勅令が否決され、政府特殊銀行である台湾銀行でさえ救済されなかったことで、預金者たちはパニックに陥る。これにより若槻内閣は事ここに到って万策尽き即日総辞職となった。結局、倒閣を目的とする政党同士の抗争が事態に火に油を注ぐ形となった。

【田中義一内閣(政友会)】
 4.17日、第一次若槻礼次郎内閣が倒れ、立憲政友会総裁の田中義一が第26代首相となり政友会内閣を組閣した。田中首相は、元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが抜擢し大物揃いの内閣を組閣した。内閣の主な顔ぶれは次の通り。

 首相・田中義一、外務大臣・田中義一(兼任)、外務政務次官・森恪、外務事務次官・吉田茂(後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、内閣総理大臣)、内務大臣・鈴木喜三郎( 後に政友会総裁)、大蔵大臣・高橋是清(元政友会総裁・内閣総理大臣)、陸軍大臣・白川義則、海軍大臣・岡田啓介(後に内閣総理大臣)、司法大臣・原嘉道(後に枢密院議長)、部大臣・三土忠造、商工大臣・中橋徳五郎、逓信大臣・久原房之助(後に政友会正統派総裁)、鉄道大臣・小川平吉、法制局長官・前田米蔵、内閣書記官長・鳩山一郎(後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、民主党総裁、内閣総理大臣)。

 蔵相には元首相で既に政界引退していた高橋是清が「ぜひ、この難局打開のために」と懇請され再登板した。事態沈静化のため三週間の支払猶予(モラトリアム)に関する緊急勅令公布。これにより金融恐慌を沈静化させた。この間に日銀券を大量に印刷し政府補償下の日銀特融(特別融資)。この時には表のみ印刷した日銀券までもが発行される。

 田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。

 5月には金融恐慌は何とか収束。高橋是清蔵相危機を脱出後在職42日で辞任。この金融恐慌は全国で44行を破綻させ(台湾銀行を含まず)それと結びついていた多くの企業グループを破綻させた。破綻したのは鈴木商店を代表とする大戦ブーム期に急成長した新しい企業。この後も中小銀行破綻は続き、預金は大手銀行に集中することになる。
 5月、2千名の軍隊を山東省に派遣した(第1次山東出兵)。目的は、蒋介石率いる国民革命軍の北上を阻止し、中国統一を阻む為であった。いわば、中国への内政干渉的派兵であり、侵略の開始となった。
【立憲民政党(総裁・浜口雄幸)結党】
 6.1日、憲政会は政友本党と合流して立憲民政党(総裁・浜口雄幸)を組織し衆院で222名を数え、政友会に対抗した。政友会には三井財閥がつき、民政党には三菱資本がつき、「財閥資本と密着した形での政友会、民政党の二大政党時代が訪れた。かくて、二大財閥が政治を動かしていく時代となった」。

 6月、蒋介石が国民革命軍総指令という軍の最高ポストに就任し、独裁体制を完成させた。
 7月、中国で、国民党は南京の統一政権へと統合された。
 7.13日、中国で、中国共産党が国民党との対立の激化により武漢を去る。張国*や周恩来らを代表とする新たな指導部を設立。活動路線が、労働運動の煽動から武力による革命運動路線へと転換した。こうして誕生した武装組織「中国工農紅軍」は、8.1日の南昌での暴動を皮切りに、9月には秋州で、11月には広州で暴動を勃発させた。結果的には、いずれの暴動も長続きしなかったものの、「工農紅軍」の存在を人民大衆に広く知らしめることに成功した。この過程で頭角を現わしたのが朱徳と毛沢東の二人であった。毛沢東は、中国共産党の創立以来の党員だったが、紅軍の創設までの間はどちらかと言えば脇役的な立場に立つことが多かった。この頃から毛沢東の軍備強化路線が支持されていくことになったということでもある。この頃の会議での毛沢東の発言として次のように云い為されている。「我々が農民運動ばかりやっている間に、蒋介石らは軍事に専念して鉄砲で権力を奪った。政権は鉄砲から生まれることを、我々は知るべきだ。今後は精力の6割を軍事に傾注して、政権を鉄砲の上に築かねばならない!」。
【通州事件(つうしゅうじけん)発生】
 7.29日、通州事件(つうしゅうじけん)発生。冀東防共自治政府(中国)の首都通州など華北各地の都市で約3000人の冀東政府保安隊(中国人部隊)が日本軍留守部隊約110名と蘆溝橋事件の余波で避難していた婦女子を含む日本人・朝鮮人居留民約420名を襲撃し、通州特務機関は全滅、約230名が虐殺された。事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎などにも誤って爆弾を投下したことの報復であるが、この時に日本軍は公式に謝罪をし、保安隊側も了承していた事実などから中国共産党が日本と中国国民党との和平を妨害する目的で行ったという共産党陰謀説も唱えられている。日本の軍部、特務機関の「やらせ」と睨む説もある。

 「通州虐殺事件」、「第二の尼港事件」とも言われる。その後日本に対し賠償が行われたが、殺され方が極めて残虐であったとされ、日本は対中感情を大きく悪化させた。日本政府は日中戦争(支那事変)を遂行するにあたり、この事件を心理的に利用した。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』、 参考文献 中村粲 『大東亜戦争への道』 ISBN 4886560628)

 7月、山東省に派遣された第1次山東出兵の軍隊が4千2百名に膨れ上がった。
【五大財閥(三井、三菱、住友、安田、第一)体制確立】
 この間の金融恐慌は、十五、近江、加島台湾、第百銀行を没落せしめ、鴻池を地盤沈下させた。銀行法施行と政府の合同促進政策もあり、銀行の合併・買収による整理統合が進むことになった。代表的なものは12行が合併した安田銀行、5行を買収した住友銀行。これ以後、金融業界は寡占の時代に入り次第に五大財閥(三井、三菱、住友、安田、第一)に資産集中することになる。これは政治にも影響を与え財閥と政党の癒着が酷くなる。特に三菱財閥と憲政会、三井財閥と政友会の癒着は明治期からのものであり、政党に対する財閥の力が強くなり、金権政治が横行する。

【田中上奏文】
 「別章【田中上奏文考】」に記す。

1928(昭和3)年の動き

 1月中国で、建国の父孫文の後継者を自負する蒋介石が、国民革命軍の総司令官に復職し、北伐を宣言して南京から革命軍を北上させた。北京に軍政府を置く張作霖の軍閥連合軍は、敗走に敗走を重ね、6.3日未明捲土重来を期して北京を後にして本拠地の満州に向かった。
 1.21日、第54議会が解散。
【初の国政選挙】
 2.10日、第一回普選実施。男子普通選挙で、従来の議会政党に加えて、社会民衆党や労働農民党など無産政党が初めて国政選挙に参加した。有権者数1240万人余り、選挙区122、議員定数466名、候補者965名、有効投票総数996万票(投票率約80%)であった。

 結果は、政友会217、426万票。民政党216、426万票余り。無産諸党8、47万票余り。その他86万票余り(25名)。政府与党は僅か1議席差で第一党となった。与党の政友会は過半数を得ることができず、政局は不安が続いた。

 3.15日、共産党弾圧の3.15事件。全国で検挙1568名、起訴483名(初めて治安維持法を適用)。4月10日に報道解禁。
 3月、中国で、おう精衛と並ぶ国民党右派の指導的幹部の一人蒋介石が、共産党幹部の一斉弾圧。これに反対したおう精衛が放逐され、国民党は蒋介石が仕切ることになった。
 4.3日、ほんみち教祖ら不敬事件で起訴。
 4.9日、中国国民党軍が第二次北伐開始。
 4.10日、労働農民党日本労働組合評議会全日本無産青年同盟に解散命令。
 4.12日、蒋介石の上海クーデター。
 政府は、台湾銀行に無担保の日銀特融(2億円を限度に政府が補償する)を行うよう、緊急勅令を交付する方針を決めたところ、枢密院の平沼騏一郎や伊藤巳代治の強い反対でこれを否決した。枢密院が台湾銀行救済案を握りつぶしたのは、外相・幣原喜重郎の対中協調外交を軟弱と非難し、これに野党の政友会が気脈を通じての倒閣運動という政争が原因であった。
 4.18日、中国で蒋介石南京政府を樹立。蒋介石率いる国民党右派軍が南京に国民党政府を樹立。国民党政府が武漢と南京に分裂した。
 4.18日、京都帝大経済学部教授河上肇追放される。4.23、東京帝大経済学部教授大森義太郎、4.24日、九州帝大経済学部教授向坂逸郎追放される。
 4月、中国で、毛沢東率いる約1000名の兵力が朱徳の約2000名の兵士と合流して、紅軍第4軍を編成した。軍長に朱徳、毛沢東が党代表(後の政治委員)に就任した。湖南省と江西省の省境にある井岡山に本拠地を置き、後に「朱毛紅軍」の異名をとるほどの有力部隊へと成長していくことになった。
【治安維持法の罰則が強化され、最高死刑になる】
 6.29日、治安維持法の罰則が強化され、最高刑を死刑、目的遂行罪を新設する法改悪が行われた。この時も、天皇による緊急勅令が出され、1929.3.5日、衆議院で事後承諾案可決。帝国議会が追認した。7.3日、全国の警察署に特別高等課設置。7.24日、各地裁に思想係検事(思想検事)を設置。

 8月、中国で、蒋介石が中華民国の政府主席に就任し、統一中国の新たな最高指導者という地位を獲得した。
【パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が締結される】
 8.27日、「戦争行為の凍結」をうたったパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が締結される。米・仏など15カ国の調印を得、1929(昭和4)年7.24日に発効した。更に、1929年末までに全世界の国々の8割に当たる57カ国、1938年末までには同じく9割以上の64カ国の署名又は批准を受けることになった。この条約の第一条、第二条が戦後の日本国憲法の第9条の伏線となったという経過がある点で重要である。

 第一条「締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴うることを非とし、且つその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」
 第二条「締約国は相互間に起きることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質、起因のいかんを問わず、平和的手段によるほか、これの処理又は解決を求めざることを約す」
 日本国憲法第九条「①・日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 10.1日、石原中佐関東軍参謀就任。
 10.1日、ソ連が第一次5ヶ年計画発表。
 10.6日、共産党書記長・渡辺政之輔が台湾・基隆にて警官に追いつめられ自殺。
 高橋の後を加藤友三郎が担当し、直ちにシベリア撤兵、海軍休日などを実施に移す。蔵相市来乙彦(1872-1954)。軍縮政策を実施し、この期間一般会計に占める軍事費の比重は42%から33%に下がり(それまでの最高は10年度の49%)、翌13年度(1924)には30%を割り、以後昭和5年度(1930)までの7年間、30%を超えることは無かった。日清戦争の開戦(1984)から太平洋戦争の終結(1945)までの半世紀の間で、軍事費の支出が30%を割ったのは、この7年間だけである。その他行財政改革に取り組んだ。
1929(昭和4)年の動き

 世界大恐慌。緊縮財政 (昭和4~6年 1929~31年)
 初頭、昭和天皇が、国内の反戦運動、労働運動の高揚に対し、「クートベ(東洋勤労者共産主義大学)留学帰りの日本青年について詳しく知りたい」と司法大臣に勅命があり、戸沢重雄思想検事が40数名の「日本人留学生リスト」を作成し、奏上された。
 1月、中国で、朱徳と毛沢東が、中国南部の各地を廻り、共産党の武装勢力を次々と「軍」に編成していった。
 3.5日、治安維持法改正事後承諾案に反対した山本宣治代議士刺殺される。

 4.16日、四・一六事件[全国で共産党関係者起訴339名]。
 前年の三・一五事件を機に警保局図書課の予算を倍増し、言論弾圧を拡大。
【済南事件発生】
 5.3日、済南事件(第2次山東出兵断行中の日本軍が、中国山東郡の済南(ちー なん、さいなん)を占領し、北伐途上の中国国民革命軍と衝突した事件)発生。金融恐慌の中で 成立した時の政友会内閣の首班陸軍大将田中義一が、日本軍を山東省済南に出兵させ占領した。そこに北伐途上の国民革命軍が入城してきたため衝突、市街戦となり、多くの国民革命軍兵士を殺戮した。中国は、国辱記念日「5.3惨案」として「恨みは深し」と民族の怒りを伝えていった。

 5.8日、第*次山東出兵。 
 5.18日、田中内閣、張作霖へ警告文を発す。
 5.22日、関東軍司令部、奉天に前進。
 6.3日、日本政府が国民政府を承認。
【張作霖爆死事件】
 6.4日、東北軍閥の張作霖の乗車した列車が遼寧省の省都・奉天(現在の藩陽)駅を目前にした1キロ地点で列車ごと爆破され、死亡した。この事件に対し、満州駐屯の関東軍は、いち早く国民革命軍によるテロを匂わせるような発表を行った。が、通説は、「関東軍高級参謀大佐・河本大作の謀略による、現場指揮官の軍令を無視した勝手な行動による中国北方軍閥の長、張作霖の爆殺事件」としている。が、今なお真相不明である。

 2005(平成17)年末に刊行された「マオ」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ)は、次のように謀略実態を記している。

 「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」。

【田中内閣総辞職を余儀なくされる】
 関東軍は事件の犯行を中国軍のせいにしたが、政治問題化していった。帝国議会で、中野正剛が質疑し、時の首相・田中首相は「知らぬ存ぜぬ」、「目下調査中」を連発した。

 政府は調査に乗り出し、「陸軍犯行の容疑が強いため目下調査中であります」と上奏している。裕仁天皇は、「国軍の軍規は厳格に維持するように」との言葉を発し、田中首相は白川陸相に対して軍法会議に掛け処断する事を求めた。が、陸相は職を賭してこれを拒否した。結局、犯人容疑の強い河本を軍法会議にかけることもなく、軽い処分の停職処分でお茶を濁した。

 田中首相は、この顛末を上奏した際「さいわい陸軍には犯人がいないことが分かりました。しかし、事件の責任者については、行政処分をもって始末します」と曖昧報告をしたところ、裕仁天皇は、「最初に云った事と違うではないか」といたく怒り、そのまま奥へ入ってしまった。鈴木貫太郎侍従長に対し、「田中の話は二度と聞きたくない」と述べるに及び、田中首相は天皇の信任を失ったことを恐懼し、1929(昭和4)年7.2日、即座に内閣総辞職となった。(満州事変の引責で田中政友会内閣が総辞職)

【浜口雄幸内閣(憲政会の後身の立憲民政党総裁)成立】
 7.2日、浜口雄幸内閣(憲政会の後身の立憲民政党総裁)成立。旧憲政会161名、政友本党63名、その他2名を加えた226名の政友会より67名多い多数派与党となった。公約は軍縮促進、財政の緊縮、金解禁などであった。

 外相・幣原、蔵相・井上準之助、内相・安達謙蔵、陸相・宇垣一成、海相・財務彪(たからべたけし)を配して軍縮・国際協調外交と金解禁・財政緊縮を二本柱とする十大政策を打ち出した。幣原外交は、田中内閣の侵略的な中国政策から、井上財政は政友会のインフレ路線からの180度の転換を図った。

 このままでは公債の発行しすぎで国家財政が破綻するため井上蔵相による公債発行をゼロを掲げての緊縮財政が開始される。井上蔵相の財政政策の基本方針は、次のような内容であった。

「緊縮財政」  各省には経費の1割以上削減を要求。さらに公共事業を殆どストップ。昭和6年には官吏の減俸案まで出て大騒ぎとなるが何とか実行。
「非募債主義」  歳入で公債非募集の方針を掲げ、昭和5年度予算では一般会計において20数年ぶりに公債金をゼロにする。 (ちなみに公債とは国の債券のことで、現在は赤字国債・建設国債・地方債ぐらいしかないが、この時代は「震災善後公債」とか「報国国債」とか色々な種類が有るため、ここでは全てまとめてを「公債」と呼んでおきます)

 政府声明で、「我が国債の総額は世界大戦開始以来非常の勢いを以って増加し、今は殆ど止まる所を知らず。為に財政の基礎を薄弱ならしめ、財界の安定を脅威し、公債の信用を毀損すること実に甚だしきものあり。依って政府は昭和5年度以降一般会計においては新規募債を打ち切るべく特別会計においてもその年額を既定募債計画の半額以内に止めんことを期す。又国債償還の歩合は之を増加するの方針を執り、ドイツより受領する賠償金はこれを国債償還に充当するの方針を樹つべし。かくのごとくにして国債の総額は昭和4年度末現在額より増加せざることを期し、更に進んでその総額を減ずることに努むべし」云々。
「金解禁」  金解禁とは「金」の輸出を自由化することで、当時国際経済の主流であった金本位制度に復帰する事を意味する。金本位制度とは各国の通貨量を中央銀行が保有する「金」に応じて決める制度。(当時の日本では純金750ミリグラムにつき1円)これで単なる紙切れである紙幣の価値が安定する。これに基づき国際貿易をすれば、通貨の交換レートが安定し非常に市場経済原理が働きやすい。第一次世界大戦でいったん行われた各国の「金」の輸出規制は、その後、経済状態の回復した国から順に、自由化され金本位制度に復帰していた。つまり井上蔵相としては、金融恐慌によって露呈した日本経済の欠陥を、国際経済の常道(グローバルスタンダード)である金本位制度に戻す事で、日本経済を強化し、経済・財政を正常に戻そうという考え。つまり正統的な財政・経済の再生を目指していた。金解禁は昭和5年1月11日に実施される。

 国内の金準備高と通貨発行は密接につながっており、金本位制の長所は次のところに有る。国際収支の赤字が続けば、金準備は減り、通貨の発行高も減る。所得も減るから物価が下落する。物価が下落すれば輸出が増加し、輸入の減少となり、国際収支が改善される。かくして、金準備が増え、通貨供給量も増え景気がよくなり、所得も増える。そうなると今度は物価が上がり、輸出は伸びなくなり、輸入が増え、国際収支が赤字となる。この一連の動きを金本位制の自動調節作用という。 
「対中国外交改善」
「軍縮促進」 昭和5年1月にはロンドン軍縮会議が開かれる。政府はこの海軍軍縮条約に調印。軍縮が進む。またこの条約を巡り統帥権干犯問題が起きる。

 当然デフレーションになり不況が進む。当然デフレーションになり不況が進む。昭和5年度一般会計歳出は16億円で前年度約10%減だったが、不況による税収の歳入欠陥となり、さらに予算を4%削減。それでも歳入減に追いつかず、結局「震災善後公債」を発行。「非募債主義」は初年度からつまずいた。翌、昭和6年度一般会計歳出は14億8000万円で前年度8%弱減だったが、失業救済事業費は公債発行で捻出せざるを得なかった。
 この頃の軍上層部に蔓延していたのは「事なかれ主義」、「出世第一主義」、さらに長閥(明治維新に功労のあった山口県出身者による派閥。宇垣陸相は岡山出身だがこの長閥について出世した口)による「身内優先主義」がはびこっていた。

 この閉塞感に対して軍の内部改革を志す陸軍大学出身の若手将校達が集まり、「一夕会」が結成される。メンバーは永田鉄山、小畑敏四郎、東条英機、鈴木貞一、石原莞爾、板垣征四郎、山下泰文、武藤章、牟田口廉也など40名ほど。同会では「軍政改革」「国防方針」「満蒙問題」などが活発に論議された。さらに荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛り立てて、陸軍を改革することを目指す。この三将軍は長閥に対抗した薩閥につながる人脈で、部下の人望の厚かった将軍たちが多かった。
 7.8日、第3次山東出兵。中国北部一帯を占領、武力を背 景とした交渉を行った。1929年妥協に達したが、中国民衆のナショナリズムに火を付け、反日・反帝運動を燃え上らせることとなった。
 7.26日、都内で凶悪事件が多発し、国会に「帝都治安維持に関する決議案」が上程されたのを受けて警視庁に捜査一課が新設される。
【田中前首相急逝】
 9.28日、。内閣総辞職から3ヵ月後、田中が貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席する。翌29日午前6時、急性の狭心症で帰らぬ人となった。 田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えるた。昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意した。「昭和天皇独白録」(文藝春秋、1995年(平成7年))は次のように記している。「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」、「田中に対しては,辞表を出さぬかといったのは、ベトー(=天皇の拒否権)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれども、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、ベトーは云わぬ事にした」。但し、2・26事件と終戦の聖断は明らかにこれに反している。

【世界恐慌始まる
 10.24日、ニューヨークのウォール街で株式の大暴落(暗黒の木曜日)。

 10.29日、世界恐慌始まる。緊縮財政の最中の昭和4年10月24日、ニューヨーク株式市場での大暴落、後にいう「暗黒の木曜日」が起きる。第一次世界大戦後、世界経済の中心であったアメリカが恐慌に陥ることにより、世界恐慌に発展した。

 折しも金解禁をした日本は、この恐慌にもろに巻き込まれて昭和恐慌となる。この恐慌の深化過程で、資本の集中・集積が促進され、三井・三菱・住友などの大独占財閥コンツェルン支配が進行していくことになる。GNP(国民総生産)18%、輸出47%、個人消費17%、設備投資31%、それぞれ減少。  

 「この時代のキーワード」として、「あの戦争の原因」では次のように記している。

「中小企業の苦境」 金融恐慌から脱して、一旦は収まっていた中小銀行の破綻が、この恐慌により続出し始める。それらの銀行と取引のあった中小企業では、金融資金の調達難に陥り倒産が相次ぐ。各地の商工会議所をはじめ民間団体の陳情の波が政府に押し寄せ、中小企業問題が社会問題化する。
「産業合理化」 この恐慌を乗り切り、さらに国内産業の国際競争力を高めるために、政府は産業合理化を推進する。能率の増進、コストの切り下げにより企業の国際競争力を高め、一方、企業合同、カルテル(価格協定等の市場における競争を制限する企業の協調行動)化により無秩序な競争を廃し、日本資本主義の再建を図る。いわば日本経済の再建を図る井上蔵相の総仕上げ。その推進母体として昭和5年6月に「臨時産業合理局」が発足。産業合理化は国民運動として推し進められる。この運動の成果により工業の一人あたりの生産指数は増加。しかし賃金は低下、さらに企業内で余った労働者のリストラ(解雇)が進む。
「労働争議頻発」 この雇用・労働条件の悪化にともない金融恐慌の頃から続いていた労働争議増加の傾向がこの頃ピークに達する。企業側はこれに対して労働組合を排除し争議の指導者を解雇することで対抗。争議が長期化する。しかし組合運動側も方針を巡って内部で、強行派の共産党系左派と、穏健派の右派が対立。左派の一部が破壊活動・テロなどの過激行動に走り、社会不安をかき立てる。結局、この労働運動は、内部分裂・一部の過激運動により大衆から見放され、大きな勢力になるには至らなかった。
「失業時代」 企業の倒産・合理化により失業率が増大する。内務省社会局の統計では、昭和5年5月で、失業者数37万8515人、失業率5.3%となっている。しかしこれはかなり怪しい数字で、当時の「エコノミスト」誌の推定では、昭和5年上半期で失業者数120万-130万と推計。別の社会学者の推計では200万-300万。同時期のアメリカの失業率は28%であるから、実質は日本もこれ位か?。都市には失業者があふれ、すむ場所を失い浮浪者になる者も多く、「ルンペン」(浮浪者、物乞い)という言葉が登場する。また同じく内務省社会局調査の、昭和5年度卒業生就職率は、大学卒39.1%、専門学校卒43.8%。まさに「大学は出たけれど」(昭和4年4月封切りの映画、小津安二郎監督作品)状態。
「農村不況」 恐慌による農産物価格の大暴落で農村も不況になる。当時の代表的農産物である米と繭(繭=生糸=絹製品は当時の日本の主力輸出品)の価格を見ると、昭和5年には米価はその半分まで、繭価に至っては3分の一に墜ちている。しかも政府主導で企業がカルテルを結んでいるお陰で、肥料・農機具等の価格はそれほど下がらない。さらに都会で失業して実家に帰る人も多く、農家の貧困に追い打ちをかける。当時の農民は、地主より土地を借りて耕作する小作農と、多少の土地は持っているが小作もする自小作農が全体の7割に及んでいる。特にこの小作・自小作農の農家経済が非常に困窮。小作料引き上げ反対、小作地取り上げ反対の小作争議が全国的に広がる。農村地帯では「白いご飯は夢の夢」と言われ、欠食児童(自宅に食べ物が無く、学校に弁当を持って来られなくなった児童)、娘の身売りなどが世間の目を引く。

 11.21日、金輸出を昭和5年1.11日から解禁するとの大蔵省令が交付された。
1930(昭和5)年の動き

 昭和5年度一般会計歳出は16億円で前年度約10%減だったが、不況による税収の歳入欠陥となり、さらに予算を4%削減。それでも歳入減に追いつかず、結局「震災善後公債」を発行。「非募債主義」は初年度からつまずいた。翌、昭和6年度一般会計歳出は14億8000万円で前年度8%弱減だったが、失業救済事業費は公債発行で捻出せざるを得なかった。
 1.11日、金解禁実施。
【ロンドン軍縮会議
 1.21日、ロンドン軍縮会議。先のワシントン軍縮会議での主力艦の制限に続いて、補助艦の削減交渉が行われた。会議の結果、日本はアメリカに対し、大型巡洋艦6割2分、軽巡洋艦7割、潜水艦10割の平均6割9分7厘の取り決めが為され、4.22日調印。幣原外相は、「7割主張の我が要求は、これをもって一応成功したと考える」とコメントした。しかし、軍部は不満で、浜口首相を追い詰めていった。

 この時、野党政友会も、政府の態度は、統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)である、政府(民政党)が軍令部の意向を押し切ってロンドン軍縮条約に調印するのはけしからんとして政府を猛攻撃している。犬養毅総裁は、その陣頭指揮に立った。

 2.20日、浜口内閣は衆院解散を断行した。結果は、民政党が273名の圧勝で過半数を得た。この時期が明治憲法下で政党政治が花咲いた最初で最後であった。
 この年中国国民党政府がその外交方針を発表した。重光葵代理大使がその真意を問うたのに対し、遼東半島と満鉄の回収も含まれると明言している。重光は帰朝して幣原喜重郎外相に報告している。「日中は避けがたい衝突路線にあるが、その際、国際社会の非難を受けないよう公正に対処しようと合意している」。

 中国国民党政府が採用した「排日侮日政策」は現地日本人との軋轢を生み、現地軍がこれに感応し、「もはや満州事変は不可避の情勢」となっていった。
 5.1日、武装メーデー事件[川崎で竹槍武装デモ行進]。
 5月初頭、党中央の指示により、紅軍の代表者会議が上海で開かれ、20個団ほどに編成されるほどの成長振りを見せていた軍の再編成。鄧小平が政治委員を勤める広西の第7軍も含まれている。
 5.20日、共産党シンパ事件[中野重治三木清ら検挙]。
【当時の満州情勢】(河上文久「日本近代史」参照)
 日本は、対ソ軍事作戦の上からも地政学的に満州を重視していた。その満州には張学良軍が23万人居た。これに対して、日本軍は、鉄道守備隊(6個大隊)や派遣1個師団、関東憲兵隊合わせて総兵力1万500人に過ぎなかった。

 張学良は、父親を殺した日本軍への反感が強く、満州各地で排日運動を起こしていた。蒋介石率いる国民政府と提携し、中国清朝の「五色旗」を止め、国民政府の「青天白日旗」を掲げ始めていた。

 1930(昭和5)・5月、張学良は、日本人の満蒙における土地取得と鉱業権の取得を厳しく取り締まる為の「新鉱業法」を制定した。張学良の日本敵視政策であった。

 6月、30歳を迎えた張の誕生祝が奉天で盛大に開催された。国民政府は、蒋介石「中国陸海空軍副指令」の肩書きと親書を贈った。同時に「関内(万里の長城の西方面)に出兵して、自分を助けてほしい」と要請している。これにより張学良軍と国民政府の提携が強まった。この流れは更に加速して、張学良が蒋介石軍の援助を決意して10月、奉天で援助式典を挙行している。

 11月、張学良は、首都南京の蒋介石を訪問し、中国陸海空軍副指令官としての就任挨拶を行った。この時、張は、「内戦を引き起こした閻錫山、*玉祥、李宗仁ら満州財閥に寛大な態度をとっていただきたい。中国共産党にも同じく寛大な態度でお願いしたいと」と注文付けている。これに対して、蒋は、中国共産党はソビエトの走狗であり、中国には害になる奸賊の集まりだ」として強く拒否している。

 両人の話し合いの結果、張学良軍は関内に出兵して北京、天津、河北省の防備を担当する。閻錫山軍は山西省を専守防衛、*玉祥軍は河南省を守備すると区割りした。蒋は、張副司令官に「中共軍との決戦に備え、日本軍と戦うな」と厳命した。

【統制派の前身「桜会」が結成される】
 9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐、重藤千秋大佐らが超国家主義的な秘密政治結社「桜会」を結成した。「本会は国家改造を以って終局の目的となし、之がため要すれば武力を行使するを得ず」、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部主導による翼賛議会体制への国家改造を目指して国家転覆を画策し始めた。これに杉山元陸軍次官、小磯國昭軍務局長、永田鉄山軍事課長、根本博新聞班長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長、山脇正隆作戦課長、岡村寧次補任課長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、無産大衆党の亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画した。永田鉄山軍事課長が計画書(建設)を作成した。一切の計画資金は軍の機密費から出されていた。また、活動資金として徳川義親が50万円を出資している。会員は翌1931.5月頃には100余名まで増加したが、内部は破壊派・建設派・中間派の三派があり、絶えず論争があったという。このグループが1931(昭和6).3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画する(いずれも未遂)。組織は十月事件後に解散させられたが、同会に所属していた会員の中から多くの将校が統制派として台頭。対立する皇道派が二・二六事件を契機に一掃されるに及んで、軍部の中枢を掌握することになる。

【浜口首相テロ事件発生】
 11.14日、浜口首相が東京駅のホームで右翼の志士により刺される。前年のロンドン海軍軍縮条約を巡っての統帥権干犯問題が原因。一命をとりとめ、入院治療中の浜口首相は無理を押して登院し野党の質問戦に応じる。病状を悪化させ再入院することになる。
 
2001.8.1日日経新聞『春秋』より
 「浜口首相は昭和前期の政治家の中では評価が高い。人柄は重厚で清廉。海軍軍令部の強い反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約調印を実現し気骨を見せた。だが、経済面では井上準之助蔵相の旧平価による金解禁がたたる。『八方塞がり』の日本経済を『一時の苦悩』を伴う緊縮策を経て『真の好景気に』、というシナリオが崩れたのだ。政府はバラマキ財政を改め、円切り上げで民間企業のリストラを促す、とうう筋書きだったが時節が悪かった。ウォール街の大暴落世界恐慌が進行する中でのショック療法は不況を深化させた。昭和経済史を紐解き今日に重ねると、ネット株暴落から陰りが広がる米国経済の行方が気がかりだ」。



 内務省社会局が昭和5年の学卒者就業状況を報告しており、大企業325社のうち新卒者を全く採用しないところが52.8%に上った。卒業後2ヶ月たった5月末現在でも、大学卒の41.9%、専門学校卒の40.6%が未就職のまま、あぶれていた。「大学は出たけれど」という無力感が広がり、それが映画の題名にまでなった。こういった「インテリ・ルンペン」激増の状態が昭和7年頃まで続く。(斎藤栄三郎「昭和経済五十年史」)

 この年発生した労働争議は2289件、争議に参加した労働者は19万1805名に上っている。参加人員は昭和初期では最高で、首切りと賃金の切り下げに抵抗する闘争が各地で繰り広げられた。(斎藤栄三郎「昭和経済五十年史」)

 東北地方の農村部で若い娘の身売りが為されたのもこの頃より目立つことになる。収穫前の青田売買もはやった。いずれもそうせざるを得ない苦境が生んだ事象であった。
 1930年、関東大震災(1923年)以後、およそ毎年1000件であった発売頒布禁止処分の件数が1897件(前年は1095件)へと急増。
1931(昭和6)年の動き

 蒋介石は、ソ連の援助指導(ガロン、ポロージンら)を受けて、北伐を開始している。ところが、北上の途中の南京に到達するや突如共産党弾圧に出た。逃げ送れたソ連人、共産党員、それとおぼしき市民の多数が虐殺された。こうして、ソ連の支那大陸赤化政策は頓挫させられた。

 この時日本軍は居留民保護のため一個師団を済南に出兵させている。日本国民の目が大陸に注がれるようになったのは、この時からとされている。間もなくこの事件も治まったので、日本軍は引き揚げた。ところが、こんどは済南事件が起った(期日不明)。 
 2.6日、第59議会開催中、幣原首相代理の統帥権問題に端を発した議会は、全く混乱状態に陥り乱闘、負傷者まで出るに及んだ。大川周明ら一部の軍部の動きに宇垣一成陸軍大将擁立の動きが強まった。
【「三月事件」発生】
 1月初旬、桜会の二宮次長は橋本中佐に対して、宇垣大将の乗り出しにつき、建設すべき未来社会政綱政策は上級者が作成するので政権奪取の方法を立案するように指示した。

 1.13日、宇垣一成陸軍大臣は陸相官邸で、杉山元中将(陸軍次官)、二宮治重中将(参謀次長)、小磯国昭中将(軍務局長)、建川美次少将(参謀本部第二部長)、山脇作戦課長、永田軍事課長(但し当日は代理の鈴木貞一中佐)、橋本中佐、根本中佐と国内改造のための方法手段を協議した。

 2.7日、重藤千秋大佐(参謀本部支那課長)で、坂田中佐、根本中佐、田中清大尉の四名が行動計画案を協議した。小磯軍務局長は永田軍事課長に軍隊の出動計画をつくらせた。計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、第1師団の軍隊を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであった。

 3.11日、事件を計画していた永田鉄山一派は中央部の中堅将校の同意と協力を必要としたので、飛行会館に、中央部の課長級の将校を集めて、計画を打ち明けて参加を求めた。教育総監部の課長山岡重厚は、「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない。いくら予算がとれぬとしても、また満洲の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を私して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。小畑敏四郎大佐も賛同し、直ちにやめろといったので、永田も岡村もそれではやめようと、土肥原賢二と岡村は直ちに参謀本部および陸軍省の方へ中止の手続きをとった。

 3.15日、第1師団長の真崎は、永田と士官学校同期である師団参謀長磯谷廉介から、クーデターの計画を聞き、磯谷をして永田に警告させた。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告した。

 3.17日、議会(第59帝国議会開会中)を包囲し、内閣を総辞職させ、宇垣陸相を首班とする軍部独裁政権を誕生させようとする陸軍桜会のクーデター計画に対して、。永田鉄山大佐・軍務課長が、小磯中将から勧められて「3月事件クーデター計画書」を作成した。が、結局、宇垣、二宮、小磯らの首脳が突然の変心で中止した。中央部における中堅将校中に強い反対が起こったこと、実際に兵力を握っていた第1師団長の真崎甚三郎が反対の態度を表明したことが影響していた。小磯や徳川も計画を中止するよう動いたという。宇垣自身は事件への関与を全面否定しているが、彼が計画にどの程度関わったのかは今もって不明である。

 その趣意書より抜粋するがこの時代の雰囲気を良く表している。
 「今の社会を見ると、為政者や政党の腐敗、資本家の大衆無視、言論機関の誘導による国民思想の退廃、農村の荒廃、失業、不景気、文化のび爛、学生の愛国心の欠如、官吏の保身等々、国家のため寒心に堪えない事象が堆積している。ところが政府には、何らこれらを解決すべき政策がなく、また一片の誠意も認められない。したがって政府の威信はますます地に墜ち、国民は実に不安な状態におかれ、国民の精神は次第に弛緩し、国勢は日々降下しつつある。さらに外交面では、為政者は国家百年の体計を忘れ、列国の鼻息を窺うことにのみ汲々として、何ら対外発展の熱意を有せず、そのため人口・食糧問題解決の見通しは暗く、時々刻々国民を脅威しつつある。我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよと絶叫する我々の主張は、為政者によって笑殺されるばかりである」。

 本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件であるところ、事件発覚後も陸軍省首脳が絡んでいたため、誰も責任を問われず処罰もなし。事件は箝口令がしかれ闇に葬られた。なお、宇垣は事件後陸相を辞して、朝鮮総督に就任。1937年(昭和12年)には組閣の大命を受けるに至るが、本事件や「宇垣軍縮」が災いし、軍部大臣現役武官制を盾にとった陸軍の強硬な反対に遭い頓挫。その後たびたび首相候補として名を連ねるが、ついに首相の椅子に座ることはなかった。

 この辺りから、政治的中立が基本であるべき軍隊の政治化が始まった。原因は当時の政治的行き詰まり、経済的大不況にあった。これに対し、何ら有効な対策をとれない政府と既成政党(政友会、民政党)など政界の腐敗と堕落、一部の特権階級や財閥のわが世の春の謳歌への不信といらだちがあった。この状況に対して軍人達が国内革新断行に向い始めたことになる。
 真崎は、軍事参議官会議で3月事件における永田直筆のクーデター文書を持ち出して永田に「おまえがクーデターを画策したのだろう」と迫っている。これに対し、渡辺大将が、「なぜ真崎はそのような文書を持っているのか。陸軍の機密資料を勝手に持ち出したとしたら貴官は国賊ではないか」と問い詰め、形成逆転している。この時の遺恨が、「永田軍務局長惨殺事件」、「2・26事件の渡辺邸襲撃」に繫がるとする説がある。

 4.14日、浜口内閣総辞職。浜口前首相は8月26日死去する。
 4.14日、第二次若槻内閣成立、リリーフ再登板。浜口内閣の外相・幣原、内相・安達、蔵相・井上の布陣がそのまま採用された。陸相は宇垣から宇垣の腹心で満蒙積極政策信奉者の南次郎に代わり、海相は安保清種が引き続き就任した。
 5.25日、三・一五と四・一六両事件の統一公判開始。1932年10月29日:一審判決。
 6.20日、米大統領フーバーが国際債務モラトリアム(支払い猶予)に関する声明書を発表。株式市場は熱狂して受け入れ、いわゆるフーバー契機が実現した。
 7.2日、万宝山事件。 7.4日、朝鮮で万宝山事件報復運動。
 8月、南大臣は定期異動において、満蒙積極政策遂行のための人事を行い、序列上当然関東軍司令官とすべき真崎甚三郎大将を台湾軍司令官にし、台湾軍司令官の順序であった本庄繁大将を関東軍司令官に任じた。
【この頃の中国国民党政府の動向】
 蒋介石は、排日運動の見通しについて次のように語っている。「強大な日本軍に抵抗するのは自殺行為であるが、日本は米英ソに対して、いずれは負けることが確実な大戦争を引き起こすと予想され、その時こそ民族復興のチャンスである」。史実は、この大局的見通しはその通りとなった。但し、その国民党政府も、中国共産党の国共合作により排日運動の成就後、国民党政府を打倒すると言う戦略に敗れ去ることになった。

 麻生の指導する全国労農大衆党の運動方針。概要「階級対立における政治的危機は存在していない。政治的危機の熟しない唯一の条件は、敵側にあるのではなくて、無産階級陣営における、主体的勢力の未成熟なるところに存する。これは我が陣営の決定的弱点である」として無産階級運動の劣勢、無能力性を指摘している。これは、主観的危機意識を煽る当時の日共運動に対するアンチであった。これが麻生の現実感覚であった。1927年の現状分析でも、革命前夜説を否定している。
 【これより以降は、「第二次世界大戦前の動き」の項に記す】






(私論.私見)