昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ(昭和改元から満州事変まで) |
1926(昭和1)年、昭和天皇即位後の動き |
【大正改元】 |
12.25日、大正天皇崩御、大正天皇を追号。摂政宮裕仁親王が践祚(即位)し、「昭和」と改元。元号の「昭和」は、中国の「書経」にある「百姓昭明 万邦協和」から取ったもので,国民のしあわせと平和を願う意味があるという。昭和元年は7日間しかなかった。 |
1927(昭和2)年の動き |
【片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と失言、大騒動となる】 |
1927(昭和2)年、首相の若槻礼次郎(憲政会)は震災手形処理の重要性から政友会および政友本党と政治休戦を結び、法案支持の約束を結んでいたが、政友本党が憲政会と連合したために政友会が反発。憲政会内閣への攻撃を始めた。3月14日の事件はこの時の出来事。 3.14日、衆議院予算委員会で先の「震災手形」の満期引き延ばし法案を討議中、吉植政友会代議士の質問に答えて、片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と失言。これを機に京浜地区の中小銀行に取り付け騒ぎが発生した。 大蔵省の命令で台湾銀行が鈴木商店への新規融資を打ち切り、同社は万策尽きて倒産、鈴木商店が大株主になっていた神戸の65銀行が休業に追い込まれ、取り付け騒ぎは全国に飛び火し、金融恐慌へと発展。全国の銀行で預金が引き出し(取り付け)が殺到し、休業に追い込まれた中小銀行は37行、大手銀行にも取り付けが殺到した。株式市場も恐慌状態に入った(4月上旬)。 「震災手形」の大口所持銀行の筆頭は台湾銀行、大口債務者の筆頭はその取引先の鈴木商店。なぜ神戸の鈴木商店が「震災手形」を多く抱えていたかというと、鈴木は第一次世界大戦好況期に借入金により巨額の投資をしたが、その後の戦後恐慌により苦況に陥る。そこに起きたのが関東大震災。鈴木商店と台湾銀行はこのどさくさに紛れて、関係手形を「震災手形」とし、決済を先延ばしにしていた。同じ様な理由で、大戦ブーム期に過剰投資を行い、戦後恐慌でつまずいた企業・銀行が多くの「震災手形」を抱えていた。(渡辺銀行もその一つ。)手形は当然、満期がくれば決済の必要が有るため、満期引き延ばしが行われないとこれらの銀行・企業は資金売りが困難になる。 |
【第一次若槻礼次郎内閣総辞職】 |
4.17日、若槻政府は、台湾銀行救済の為の緊急勅令案を枢密院の議事にかけたところ、顧問官の伊東巳代治が強く反対し、且つ政府の外交政策を非難攻撃し始めた。結果的に、同案は審査委員会で否決され、枢密院本会議での採決の結果否決された。台湾銀行救済のための緊急勅令が否決され、政府特殊銀行である台湾銀行でさえ救済されなかったことで、預金者たちはパニックに陥る。これにより若槻内閣は事ここに到って万策尽き即日総辞職となった。結局、倒閣を目的とする政党同士の抗争が事態に火に油を注ぐ形となった。 |
【田中義一内閣(政友会)】 |
4.17日、第一次若槻礼次郎内閣が倒れ、立憲政友会総裁の田中義一が第26代首相となり政友会内閣を組閣した。田中首相は、元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが抜擢し大物揃いの内閣を組閣した。内閣の主な顔ぶれは次の通り。 首相・田中義一、外務大臣・田中義一(兼任)、外務政務次官・森恪、外務事務次官・吉田茂(後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、内閣総理大臣)、内務大臣・鈴木喜三郎( 後に政友会総裁)、大蔵大臣・高橋是清(元政友会総裁・内閣総理大臣)、陸軍大臣・白川義則、海軍大臣・岡田啓介(後に内閣総理大臣)、司法大臣・原嘉道(後に枢密院議長)、部大臣・三土忠造、商工大臣・中橋徳五郎、逓信大臣・久原房之助(後に政友会正統派総裁)、鉄道大臣・小川平吉、法制局長官・前田米蔵、内閣書記官長・鳩山一郎(後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、民主党総裁、内閣総理大臣)。 蔵相には元首相で既に政界引退していた高橋是清が「ぜひ、この難局打開のために」と懇請され再登板した。事態沈静化のため三週間の支払猶予(モラトリアム)に関する緊急勅令公布。これにより金融恐慌を沈静化させた。この間に日銀券を大量に印刷し政府補償下の日銀特融(特別融資)。この時には表のみ印刷した日銀券までもが発行される。 田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。 |
【立憲民政党(総裁・浜口雄幸)結党】 |
6.1日、憲政会は政友本党と合流して立憲民政党(総裁・浜口雄幸)を組織し衆院で222名を数え、政友会に対抗した。政友会には三井財閥がつき、民政党には三菱資本がつき、「財閥資本と密着した形での政友会、民政党の二大政党時代が訪れた。かくて、二大財閥が政治を動かしていく時代となった」。 |
【通州事件(つうしゅうじけん)発生】 |
7.29日、通州事件(つうしゅうじけん)発生。冀東防共自治政府(中国)の首都通州など華北各地の都市で約3000人の冀東政府保安隊(中国人部隊)が日本軍留守部隊約110名と蘆溝橋事件の余波で避難していた婦女子を含む日本人・朝鮮人居留民約420名を襲撃し、通州特務機関は全滅、約230名が虐殺された。事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎などにも誤って爆弾を投下したことの報復であるが、この時に日本軍は公式に謝罪をし、保安隊側も了承していた事実などから中国共産党が日本と中国国民党との和平を妨害する目的で行ったという共産党陰謀説も唱えられている。日本の軍部、特務機関の「やらせ」と睨む説もある。 「通州虐殺事件」、「第二の尼港事件」とも言われる。その後日本に対し賠償が行われたが、殺され方が極めて残虐であったとされ、日本は対中感情を大きく悪化させた。日本政府は日中戦争(支那事変)を遂行するにあたり、この事件を心理的に利用した。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』、 参考文献 中村粲 『大東亜戦争への道』 ISBN 4886560628) |
【五大財閥(三井、三菱、住友、安田、第一)体制確立】 |
この間の金融恐慌は、十五、近江、加島台湾、第百銀行を没落せしめ、鴻池を地盤沈下させた。銀行法施行と政府の合同促進政策もあり、銀行の合併・買収による整理統合が進むことになった。代表的なものは12行が合併した安田銀行、5行を買収した住友銀行。これ以後、金融業界は寡占の時代に入り次第に五大財閥(三井、三菱、住友、安田、第一)に資産集中することになる。これは政治にも影響を与え財閥と政党の癒着が酷くなる。特に三菱財閥と憲政会、三井財閥と政友会の癒着は明治期からのものであり、政党に対する財閥の力が強くなり、金権政治が横行する。 |
【田中上奏文】 |
「別章【田中上奏文考】」に記す。 |
1928(昭和3)年の動き |
【初の国政選挙】 |
2.10日、第一回普選実施。男子普通選挙で、従来の議会政党に加えて、社会民衆党や労働農民党など無産政党が初めて国政選挙に参加した。有権者数1240万人余り、選挙区122、議員定数466名、候補者965名、有効投票総数996万票(投票率約80%)であった。 結果は、政友会217、426万票。民政党216、426万票余り。無産諸党8、47万票余り。その他86万票余り(25名)。政府与党は僅か1議席差で第一党となった。与党の政友会は過半数を得ることができず、政局は不安が続いた。 |
【治安維持法の罰則が強化され、最高死刑になる】 |
6.29日、治安維持法の罰則が強化され、最高刑を死刑、目的遂行罪を新設する法改悪が行われた。この時も、天皇による緊急勅令が出され、1929.3.5日、衆議院で事後承諾案可決。帝国議会が追認した。7.3日、全国の警察署に特別高等課設置。7.24日、各地裁に思想係検事(思想検事)を設置。 |
【パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が締結される】 |
8.27日、「戦争行為の凍結」をうたったパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が締結される。米・仏など15カ国の調印を得、1929(昭和4)年7.24日に発効した。更に、1929年末までに全世界の国々の8割に当たる57カ国、1938年末までには同じく9割以上の64カ国の署名又は批准を受けることになった。この条約の第一条、第二条が戦後の日本国憲法の第9条の伏線となったという経過がある点で重要である。 第一条「締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴うることを非とし、且つその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」 第二条「締約国は相互間に起きることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質、起因のいかんを問わず、平和的手段によるほか、これの処理又は解決を求めざることを約す」 日本国憲法第九条「①・日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 |
1929(昭和4)年の動き |
【済南事件発生】 |
5.3日、済南事件(第2次山東出兵断行中の日本軍が、中国山東郡の済南(ちー なん、さいなん)を占領し、北伐途上の中国国民革命軍と衝突した事件)発生。金融恐慌の中で 成立した時の政友会内閣の首班陸軍大将田中義一が、日本軍を山東省済南に出兵させ占領した。そこに北伐途上の国民革命軍が入城してきたため衝突、市街戦となり、多くの国民革命軍兵士を殺戮した。中国は、国辱記念日「5.3惨案」として「恨みは深し」と民族の怒りを伝えていった。 |
【張作霖爆死事件】 | |
6.4日、東北軍閥の張作霖の乗車した列車が遼寧省の省都・奉天(現在の藩陽)駅を目前にした1キロ地点で列車ごと爆破され、死亡した。この事件に対し、満州駐屯の関東軍は、いち早く国民革命軍によるテロを匂わせるような発表を行った。が、通説は、「関東軍高級参謀大佐・河本大作の謀略による、現場指揮官の軍令を無視した勝手な行動による中国北方軍閥の長、張作霖の爆殺事件」としている。が、今なお真相不明である。
2005(平成17)年末に刊行された「マオ」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ)は、次のように謀略実態を記している。
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【田中内閣総辞職を余儀なくされる】 |
関東軍は事件の犯行を中国軍のせいにしたが、政治問題化していった。帝国議会で、中野正剛が質疑し、時の首相・田中首相は「知らぬ存ぜぬ」、「目下調査中」を連発した。 政府は調査に乗り出し、「陸軍犯行の容疑が強いため目下調査中であります」と上奏している。裕仁天皇は、「国軍の軍規は厳格に維持するように」との言葉を発し、田中首相は白川陸相に対して軍法会議に掛け処断する事を求めた。が、陸相は職を賭してこれを拒否した。結局、犯人容疑の強い河本を軍法会議にかけることもなく、軽い処分の停職処分でお茶を濁した。 田中首相は、この顛末を上奏した際「さいわい陸軍には犯人がいないことが分かりました。しかし、事件の責任者については、行政処分をもって始末します」と曖昧報告をしたところ、裕仁天皇は、「最初に云った事と違うではないか」といたく怒り、そのまま奥へ入ってしまった。鈴木貫太郎侍従長に対し、「田中の話は二度と聞きたくない」と述べるに及び、田中首相は天皇の信任を失ったことを恐懼し、1929(昭和4)年7.2日、即座に内閣総辞職となった。(満州事変の引責で田中政友会内閣が総辞職) |
【浜口雄幸内閣(憲政会の後身の立憲民政党総裁)成立】 |
7.2日、浜口雄幸内閣(憲政会の後身の立憲民政党総裁)成立。旧憲政会161名、政友本党63名、その他2名を加えた226名の政友会より67名多い多数派与党となった。公約は軍縮促進、財政の緊縮、金解禁などであった。 外相・幣原、蔵相・井上準之助、内相・安達謙蔵、陸相・宇垣一成、海相・財務彪(たからべたけし)を配して軍縮・国際協調外交と金解禁・財政緊縮を二本柱とする十大政策を打ち出した。幣原外交は、田中内閣の侵略的な中国政策から、井上財政は政友会のインフレ路線からの180度の転換を図った。 |
このままでは公債の発行しすぎで国家財政が破綻するため井上蔵相による公債発行をゼロを掲げての緊縮財政が開始される。井上蔵相の財政政策の基本方針は、次のような内容であった。
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【田中前首相急逝】 |
9.28日、。内閣総辞職から3ヵ月後、田中が貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席する。翌29日午前6時、急性の狭心症で帰らぬ人となった。 田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えるた。昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意した。「昭和天皇独白録」(文藝春秋、1995年(平成7年))は次のように記している。「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」、「田中に対しては,辞表を出さぬかといったのは、ベトー(=天皇の拒否権)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれども、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、ベトーは云わぬ事にした」。但し、2・26事件と終戦の聖断は明らかにこれに反している。 |
【世界恐慌始まる】 | ||||||||||
10.24日、ニューヨークのウォール街で株式の大暴落(暗黒の木曜日)。 10.29日、世界恐慌始まる。緊縮財政の最中の昭和4年10月24日、ニューヨーク株式市場での大暴落、後にいう「暗黒の木曜日」が起きる。第一次世界大戦後、世界経済の中心であったアメリカが恐慌に陥ることにより、世界恐慌に発展した。 折しも金解禁をした日本は、この恐慌にもろに巻き込まれて昭和恐慌となる。この恐慌の深化過程で、資本の集中・集積が促進され、三井・三菱・住友などの大独占財閥コンツェルン支配が進行していくことになる。GNP(国民総生産)18%、輸出47%、個人消費17%、設備投資31%、それぞれ減少。 「この時代のキーワード」として、「あの戦争の原因」では次のように記している。
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1930(昭和5)年の動き |
【ロンドン軍縮会議】 |
1.21日、ロンドン軍縮会議。先のワシントン軍縮会議での主力艦の制限に続いて、補助艦の削減交渉が行われた。会議の結果、日本はアメリカに対し、大型巡洋艦6割2分、軽巡洋艦7割、潜水艦10割の平均6割9分7厘の取り決めが為され、4.22日調印。幣原外相は、「7割主張の我が要求は、これをもって一応成功したと考える」とコメントした。しかし、軍部は不満で、浜口首相を追い詰めていった。 この時、野党政友会も、政府の態度は、統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)である、政府(民政党)が軍令部の意向を押し切ってロンドン軍縮条約に調印するのはけしからんとして政府を猛攻撃している。犬養毅総裁は、その陣頭指揮に立った。 |
【当時の満州情勢】(河上文久「日本近代史」参照) |
日本は、対ソ軍事作戦の上からも地政学的に満州を重視していた。その満州には張学良軍が23万人居た。これに対して、日本軍は、鉄道守備隊(6個大隊)や派遣1個師団、関東憲兵隊合わせて総兵力1万500人に過ぎなかった。 張学良は、父親を殺した日本軍への反感が強く、満州各地で排日運動を起こしていた。蒋介石率いる国民政府と提携し、中国清朝の「五色旗」を止め、国民政府の「青天白日旗」を掲げ始めていた。 1930(昭和5)・5月、張学良は、日本人の満蒙における土地取得と鉱業権の取得を厳しく取り締まる為の「新鉱業法」を制定した。張学良の日本敵視政策であった。 6月、30歳を迎えた張の誕生祝が奉天で盛大に開催された。国民政府は、蒋介石「中国陸海空軍副指令」の肩書きと親書を贈った。同時に「関内(万里の長城の西方面)に出兵して、自分を助けてほしい」と要請している。これにより張学良軍と国民政府の提携が強まった。この流れは更に加速して、張学良が蒋介石軍の援助を決意して10月、奉天で援助式典を挙行している。 11月、張学良は、首都南京の蒋介石を訪問し、中国陸海空軍副指令官としての就任挨拶を行った。この時、張は、「内戦を引き起こした閻錫山、*玉祥、李宗仁ら満州財閥に寛大な態度をとっていただきたい。中国共産党にも同じく寛大な態度でお願いしたいと」と注文付けている。これに対して、蒋は、中国共産党はソビエトの走狗であり、中国には害になる奸賊の集まりだ」として強く拒否している。 両人の話し合いの結果、張学良軍は関内に出兵して北京、天津、河北省の防備を担当する。閻錫山軍は山西省を専守防衛、*玉祥軍は河南省を守備すると区割りした。蒋は、張副司令官に「中共軍との決戦に備え、日本軍と戦うな」と厳命した。 |
【統制派の前身「桜会」が結成される】 |
9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐、重藤千秋大佐らが超国家主義的な秘密政治結社「桜会」を結成した。「本会は国家改造を以って終局の目的となし、之がため要すれば武力を行使するを得ず」、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部主導による翼賛議会体制への国家改造を目指して国家転覆を画策し始めた。これに杉山元陸軍次官、小磯國昭軍務局長、永田鉄山軍事課長、根本博新聞班長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長、山脇正隆作戦課長、岡村寧次補任課長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、無産大衆党の亀井貫一郎、右翼の思想家大川周明や右翼活動家・清水行之助らも参画した。永田鉄山軍事課長が計画書(建設)を作成した。一切の計画資金は軍の機密費から出されていた。また、活動資金として徳川義親が50万円を出資している。会員は翌1931.5月頃には100余名まで増加したが、内部は破壊派・建設派・中間派の三派があり、絶えず論争があったという。このグループが1931(昭和6).3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画する(いずれも未遂)。組織は十月事件後に解散させられたが、同会に所属していた会員の中から多くの将校が統制派として台頭。対立する皇道派が二・二六事件を契機に一掃されるに及んで、軍部の中枢を掌握することになる。 |
【浜口首相テロ事件発生】 | ||
11.14日、浜口首相が東京駅のホームで右翼の志士により刺される。前年のロンドン海軍軍縮条約を巡っての統帥権干犯問題が原因。一命をとりとめ、入院治療中の浜口首相は無理を押して登院し野党の質問戦に応じる。病状を悪化させ再入院することになる。
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1931(昭和6)年の動き |
【「三月事件」発生】 | |
1月初旬、桜会の二宮次長は橋本中佐に対して、宇垣大将の乗り出しにつき、建設すべき未来社会政綱政策は上級者が作成するので政権奪取の方法を立案するように指示した。 1.13日、宇垣一成陸軍大臣は陸相官邸で、杉山元中将(陸軍次官)、二宮治重中将(参謀次長)、小磯国昭中将(軍務局長)、建川美次少将(参謀本部第二部長)、山脇作戦課長、永田軍事課長(但し当日は代理の鈴木貞一中佐)、橋本中佐、根本中佐と国内改造のための方法手段を協議した。 2.7日、重藤千秋大佐(参謀本部支那課長)で、坂田中佐、根本中佐、田中清大尉の四名が行動計画案を協議した。小磯軍務局長は永田軍事課長に軍隊の出動計画をつくらせた。計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、第1師団の軍隊を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであった。 3.11日、事件を計画していた永田鉄山一派は中央部の中堅将校の同意と協力を必要としたので、飛行会館に、中央部の課長級の将校を集めて、計画を打ち明けて参加を求めた。教育総監部の課長山岡重厚は、「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない。いくら予算がとれぬとしても、また満洲の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を私して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。小畑敏四郎大佐も賛同し、直ちにやめろといったので、永田も岡村もそれではやめようと、土肥原賢二と岡村は直ちに参謀本部および陸軍省の方へ中止の手続きをとった。 3.15日、第1師団長の真崎は、永田と士官学校同期である師団参謀長磯谷廉介から、クーデターの計画を聞き、磯谷をして永田に警告させた。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告した。 3.17日、議会(第59帝国議会開会中)を包囲し、内閣を総辞職させ、宇垣陸相を首班とする軍部独裁政権を誕生させようとする陸軍桜会のクーデター計画に対して、。永田鉄山大佐・軍務課長が、小磯中将から勧められて「3月事件クーデター計画書」を作成した。が、結局、宇垣、二宮、小磯らの首脳が突然の変心で中止した。中央部における中堅将校中に強い反対が起こったこと、実際に兵力を握っていた第1師団長の真崎甚三郎が反対の態度を表明したことが影響していた。小磯や徳川も計画を中止するよう動いたという。宇垣自身は事件への関与を全面否定しているが、彼が計画にどの程度関わったのかは今もって不明である。 その趣意書より抜粋するがこの時代の雰囲気を良く表している。
本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件であるところ、事件発覚後も陸軍省首脳が絡んでいたため、誰も責任を問われず処罰もなし。事件は箝口令がしかれ闇に葬られた。なお、宇垣は事件後陸相を辞して、朝鮮総督に就任。1937年(昭和12年)には組閣の大命を受けるに至るが、本事件や「宇垣軍縮」が災いし、軍部大臣現役武官制を盾にとった陸軍の強硬な反対に遭い頓挫。その後たびたび首相候補として名を連ねるが、ついに首相の椅子に座ることはなかった。 この辺りから、政治的中立が基本であるべき軍隊の政治化が始まった。原因は当時の政治的行き詰まり、経済的大不況にあった。これに対し、何ら有効な対策をとれない政府と既成政党(政友会、民政党)など政界の腐敗と堕落、一部の特権階級や財閥のわが世の春の謳歌への不信といらだちがあった。この状況に対して軍人達が国内革新断行に向い始めたことになる。 |
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真崎は、軍事参議官会議で3月事件における永田直筆のクーデター文書を持ち出して永田に「おまえがクーデターを画策したのだろう」と迫っている。これに対し、渡辺大将が、「なぜ真崎はそのような文書を持っているのか。陸軍の機密資料を勝手に持ち出したとしたら貴官は国賊ではないか」と問い詰め、形成逆転している。この時の遺恨が、「永田軍務局長惨殺事件」、「2・26事件の渡辺邸襲撃」に繫がるとする説がある。 |
【この頃の中国国民党政府の動向】 |
蒋介石は、排日運動の見通しについて次のように語っている。「強大な日本軍に抵抗するのは自殺行為であるが、日本は米英ソに対して、いずれは負けることが確実な大戦争を引き起こすと予想され、その時こそ民族復興のチャンスである」。史実は、この大局的見通しはその通りとなった。但し、その国民党政府も、中国共産党の国共合作により排日運動の成就後、国民党政府を打倒すると言う戦略に敗れ去ることになった。 |