2.26事件史その8、鎮圧考3、29日 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日
この前は【2.26事件史その5、決起その後考】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「2.26事件史その8、鎮圧考3、29日」をものしておく。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
2.29日(1936年は閏年だったため29日まであった) |
【司令部の鎮圧作戦始動】 |
2.29日、事件発生4日目。払暁、反乱軍鎮圧ラッパを吹き、示威行動、包囲網圧縮。午前中 戦車接近、中隊長激発、帰順説得続くも、中隊長拒否。飛行機ビラを撒く。 |
午前5時10分、討伐命令が発せられた。午前5時30分、永田町近辺の住人の立ち退きが始まった。東京市内の電車もすべて運行が停止した。 |
【最後の賭けに出る決起部隊】 | |
決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が前夜から飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥っていた。鎮圧部隊は、皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置。戦車も配備して警備を強化した。 午前6.10分。決起部隊が、天皇を直接補佐する陸軍参謀総長、皇族・閑院宮の邸宅前に現れた。「閑院宮西正門前に決起部隊十七名、軽機関銃二挺を、西方に向けおれり」。氷点下まで冷え込む中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていた。閑院宮を通じ、天皇に決起の思いを伝えることにいちるの望みを託していたのだ。しかし、閑院宮は現れなかった。二・二六事件研究者・神戸大学研究員 林美和氏は次のように解析している。
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【戒厳司令部が周辺住民に避難指示】 | ||
早朝。陸軍上層部は、ついに鎮圧の動きを本格化させる。戒厳司令部は周辺住民に避難を指示。住民1万5000人は着の身着のまま、避難所に急いだ。一触即発となった鎮圧部隊と決起部隊。東京が戦場になろうとしていた。 決起部隊の兵士だった志水慶朗(当時19歳)氏は、兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま、上官の命令に従っていたという。国会議事堂に迫りくる戦車の音を聞いた志水氏は自分たちが鎮圧の対象になっていることを知った。当時の心境を次のように述べている。
陸軍・鎮圧部隊の兵士だった矢田保久(当時20歳)氏は最前線での任務を命じられていた。当時の心境を次のように述べている。
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【海軍・陸戦隊は攻撃準備を完了】 | |
海軍・陸戦隊は攻撃準備を完了し、第一艦隊は、東京・芝浦沖に集結していた。もし決起部隊との戦闘が始まれば、海軍・軍令部は状況次第で、「艦隊から国会議事堂を砲撃」するつもりだったと云う。
当時、対処にあたっていた軍令部員の名前が極秘文書に残っている。矢牧章中佐が、艦隊が攻撃することになった場合の重大さを、戦後、次のように証言している。
これによると、海軍は艦隊を東京湾に呼び寄せ国会議事堂に向けて大砲発射準備までしていたことになる。 |
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2.29午前8時5分の海軍記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載されている。青年将校らの投降がなければ市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられている。 |
【昭和天皇の采配】 |
天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていた。事件発生から4日間、鎮圧方針を示してきた天皇。最終盤、陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていた。 |
【戒厳司令部告諭第二号、戒厳令第14条】 | |||||||||||||||||||||||||||
午前8時10分、陸軍・鎮圧部隊による攻撃開始時刻が8時30分と決定された。 | |||||||||||||||||||||||||||
「2/29戒厳司令部告諭第二号」は次の通り。
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「2/29戒厳司令部発表 戒厳令第14条」は次の通り。
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【帰順か徹底抗戦か】 |
決起将校の側は帰順か徹底抗戦かで揉めていた。安藤らの所属師団である堀師団長の尽力によって討伐は何とか引き延ばされたが、すでに奉勅命令の内容は決起将校に伝わっている。討伐の実行は翌29日の午前9時の決定がされている。抗戦か、和平か―。決起将校等の決心は、徹底抗戦だった。彼等を包囲する軍もまた、決起部隊が撤退しないのを見て、いよいよ戦いの覚悟を固めた。だが事態は意外な方向に急転する。二十九日に飛行機からビラが撒かれたのだが、これが非常な効果を発揮する。 |
【「下士官兵ニ告グ」】 | ||
早朝、戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとった。突如包囲部隊側から突撃ラッパが鳴り響き、バリケード近辺の叛乱軍側は緊張状態になった。戦車数両が轟音を響かせながらバリケードに接近し、横を通り過ぎるさまビラを配る。また戦車には降伏勧告のビラが貼りつけてあった。戦車には「謹んで勅令に従ひ」、「武器を捨て、我方に来れ」などと書かれたビラが貼りつけてあった。ビラが配布されたが横を走りながらであったため叛乱軍側の陣地には飛んでいかなかった。西新橋の飛行館屋上には、「勅命下る軍旗に手向ふな」と書かれたアドバルーンが掲げられました。続いて、飛行機が叛乱軍側の占拠している陣地上空を飛び、下士官兵あてのビラをバラまいた。このときのビラで有名なのが、「下士官兵ニ告グ」で初まるビラである。
午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣の麹町、赤坂住民に避難勧告を出し、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みた。投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。「勅命下ル軍旗に手向フナ」の文字がアドバルーンが上げられ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。 午前8時55分、中村茂NHKアナウンサーが「兵に告ぐ」を読み上げラジオ放送された。師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。特設されたスピーカーから叛乱軍側の下士官・兵に語りかけた。
ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されていた。後に、「人も泣かせ、自分も泣いた」と語っている。繰り返し放送された。 兵の動揺は最大に達した。磯部は、「これは卑劣なる敵の分断工作だ」、「参謀本部の幕僚どもの陰謀だ」と叫んだが、叛乱軍将校の間に「部下の兵隊を犬死にさせたくない」、「兵に罪はない」という意識が膨らんでいった。 |
【首相官邸・栗原部隊の最期】 | |
二十九日鎮圧軍の総攻撃があるというので、官邸内の椅子や机を窓や出入り口に積み上げ、バリケードを築き、カーテンを引きさいて全員白ダスキ、白鉢巻きで身をかため戦闘準備についた。 栗原中尉と林少尉が山王ホテルの方から帰ってきた。中尉は紅白のタスキをかけ決意の様子をみせたが、顔面に悲壮感をみなぎらせ、無言のまま入ってくるとすぐ門扉を閉じさせた。すると それを待っていたかのように鎮圧軍が戦車を先頭にして ナダレの如く門の外側まで包囲網を圧縮してきた。正に袋の鼠である。 何時頃だったか議事堂の方から将校がやってきた。歩哨が 「トマレ!!」 と どなった。将校はその場に足をひろげ仁王立ちになるや大声で「俺は陸軍少佐戒厳参謀の桜井だ。天皇陛下の命により武装解除を命ずる」と二回くりかえいていった。ここにおいて 栗原中尉は最早これまでと観念した。 9時頃、全員集合がかかり中隊は玄関付近に各教練班別に整列した。栗原中尉は正門近くの庭にリンゴ箱を置きその上に立った。栗原中尉がガックリした表情で訣別の訓示をのべた。内容は大体次の通り。
切々として述べる中尉の訓示は 痛恨悲壮の極みで、これを承る中隊の兵力二八〇余、寂として声がなかった。やがて列兵の中から嗚咽が洩れはじめた。涙が止めどなく流れ出し、いつしか全員の号泣となった。兵隊は手ばなしで泣いた。この時隊員一同は死ぬ覚悟を決めていた。訓示が終わると、同席していた桜井参謀の発意によって栗原中尉の万歳が唱えられ、終了と同時に下士官以上が桜井参謀に誘導されて余韻のただよう中を迎えの参謀に伴われて正門を出て行った。これが栗原中尉との永久の別れになった。中尉が去ったあと、入れかわりに鎮圧軍がきて武装解除を命じた。兵士はいわれるままに小銃と帯剣を所定の場所に置き丸腰にされ、一コ分隊ずつトラックに乗り一路帰隊の途に就いた。 |
【安藤部隊の帰趨】 | ||||||
午前10時頃、安藤、香田の両大尉及び下士官七、八名が緊張して居る中で、安藤と香田の次のようなやりとりがされている。
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【決起部隊のさみだれ式帰順】 |
朝、九時頃、山王ホテルで丹生部隊百五十名、赤坂見附附近で約二十名がが帰順する。九時半頃、赤坂、溜池方面で約二十名ばかりが帰順する。戒厳司令部は、ひっきりなしにラジオを通じてその状況を発表した。 |
海軍は、いつ攻撃がはじまるとも分からない中、最前線で様子を探り続けていた。その時、追い詰められた決起部隊の次の変化に気づいている。 10時5分頃、「陸軍省入口において決起部隊の約一ヶ小隊、重機関銃二門、弾丸を抜き整列せり。三十名、降伏せり。11時45分、首相官邸の“尊皇義軍”の旗を降ろせり。12時20分、首相官邸内に万歳の声聞こゆ。兵士の意気阻喪は明らかだった。 |
まず首相官邸の中橋基明中尉が帰順し、陸相官邸の清原少尉も続いた。あとは、雪崩を打ったように続々と帰順する。磯部の説得も結局は通じなかった。帰順した将校等も、兵士のことを思えばこそ、これ以上彼らに迷惑はかけられなかった。 |
同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終り、陸相官邸に集合した。磯部、村中、田中が共に官邸に向った。陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来していた。磯部らは広間に入り、ここでピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許された。山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。彼我共に黙して語らず。磯部ら三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室に監禁された。同志との打合せ、連絡等すべて不可能だった。磯部はまさかこんな事にされるとは予想していなかった。少なくも軍首脳部の士が、一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさしてくれると考へてゐた。然るに、自決せよの雰囲気が待ち受けていた。山下少将が入り来て 「覚悟は」と問ふ。村中「天裁を受けます」と簡単に答へた。連日連夜の疲労がどっと押し寄せ眠った。夕景迫る頃、憲兵大尉岡村通弘(同期生)の指揮で数名の下士官が歩縄をかける。刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れていた。 |
【清原少尉率いる三中隊の投降】 | ||
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【清原少尉率いる三中隊の投降】 | |
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【野中中隊長の隊列との別れ】 | |
二・二六事件と郷土兵堀宗一・歩兵第三聯隊第七中隊曹長「永遠の袂別『頭ッ右』」。
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【常盤少尉の隊列との別れ】 | |
二・二六事件と郷土兵 歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵・金子平蔵「隊長護衛兵として」。
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【安藤部隊の抵抗】 | |||||
海軍は、最後まで抵抗を続けていた安藤輝三の部隊に注目していた。極秘文書には、追い詰められた指揮官・安藤の一挙手一投足が記録されている。
安藤部隊は、「山下奉文に唆され、一同が自決を考えた際も徹底抗戦を訴えてそれを退け、敗色が濃厚となる中」(「ウィキペディア(Wikipedia)安藤輝三」記述)、料亭幸楽を離れて山王ホテルに移った。安藤隊は山王ホテルに陣取り最後まで徹底抗戦を主張した。同じ場所に居た丹生隊が引き揚げても、兵は軍歌を歌い、尊皇討奸の旗の下、抗戦の意志を堅持していた。一人の脱走者もなかった。叛乱に加わるまでは非常に慎重であった安藤大尉とその隊が徹底した抗戦派になった。「勇将の下に弱卒なし」との言葉が示す通りとなった。次のように評されている。
安藤はここで香田清貞大尉と共同してホテルで戦う予定だった。そこに磯部があらわれた。投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じなかった。大勢が決したことを悟ると、一同の前でピストル自殺を試みる。磯部は慌てて羽交い絞めにして押し止めたが、彼の決意は翻らなかった。 説得に訪れた伊集院大隊長は「安藤が死ぬなら俺も自決する」と号泣し、部下たちもこぞって「中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お供を致しましょう」と涙ながらに訴えた。安藤は宿願だった農村の救済ができないことを悔やみつつ、部下たちには自分の死後も、その目標を果たすよう遺言した。 磯部はこの光景に感涙した。磯部は一兵たりとも欠けることなく中隊長のもとに死ぬ覚悟を固めた安藤中隊を目の当たりにし、何とかこれを助けたいと説得に当たった。「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と必死に説いた。その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうと計るが、第6中隊の結束は固く、全員が靖国神社で死ぬ覚悟を見せた。
安藤はコウ然として次のように述べている。
しかしながせ、とうとう永田、堂込曹長指揮の下、原隊へ兵を帰すことを決意した。 午後1時頃、兵をホテルの庭に集合、整列させ、「最後の訓示」をした。
最後に、「原隊に帰るまで昭和維新の歌を歌いながら行進していってくれ」と部下に訓辞した。兵士等が中隊歌を歌い始め去っていく中、一歩二歩と下がり、静かに隊列の後方に歩いていった。やにわに拳銃を取り出し、自決を図った。「ダーン!」。拳銃を引き抜いた安藤が、銃口をあご下に当てて引き金を引いた。かくて、決起将校最後の一人、安藤輝三は自ら「反乱」の幕を引いた。そのあまりにも劇的な幕引きを見た磯部は、安藤に対して賛嘆の言葉を惜しまない。昭和天皇に対してすら「何と云ふ御失政でありませう」と呪詛の言葉を投げかけるほどの磯部が、安藤とその部隊の「鉄の団結」にはただ賛嘆の言葉しか出なかった。 しかし、安藤大尉は死しておらず、陸軍病院における手術の末一命を取り留めた。結局、他の将校と共に裁判にかけられ、軍法会議で処刑されることになった。銃殺刑。死刑執行の間際に発せられた言葉が実に安藤らしい。「秩父宮殿下万歳!」。彼が最後に絶叫したのは、兄のように慕った、あの懐かしい中隊長の名だった。 |
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前島清上等兵の手記より。
安藤大尉は逮捕される前日、交渉にきた軍の高官に次のようなことを叫んだと伝聞されている(須崎2003、314頁)。
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なお、二・二六事件の際、彼と北一輝の会話とされる音声が戒厳司令部により録音盤として残されていた。その記録では、北のほうから電話をかけて「マル(金)はいらんかね」と言われたのに対して安藤は「まだ大丈夫です」と発言している。しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなくカマをかけようとした憲兵ではないか、と云われている。 |
【兵士の原隊復帰相次ぐ】 |
首相官邸に布陣していた中橋基明隊が解散した。同官邸に布陣していた栗原も戦意喪失していた。同じく清原少尉、ドイツ大使館前の坂井隊も解散、中島隊が続いて解散した。 多くの兵士が脱落し始め、これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰った。「1558名の参加兵員のうち、初年兵が3分の2の1027名を占めていた。初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1.10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇」した。訳のわからぬままに駆り出され、原隊復帰したことになる。その後、「反乱兵士の汚名」をきせられ、厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、その多くは戦死している。 |
午後1時、事件が平定された。 |
【安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校が最後の決断】 |
午後2時、安藤隊を除く下士官と兵を全員原隊に戻した上で、安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々が陸相官邸に集まり、その後の方針を話し合った。その結果、陸軍上層部が自分たちを自決させようとしているのを察し、法廷の場で、思うところを訴えようと考える方針を立て、重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となる。 |
時を同じくして、討伐部隊は歩兵第1連隊旗を奉じて陸相官邸、その他の叛乱軍陣地に侵入し、各要所を奪回した。 |
【武装解除】 |
午後2時25分、戒厳司令官から軍令部総長に「午後1時より反乱部隊の下士官兵の原隊帰りが始まり午後2時までに事態は収束した。事件は平定した」とする連絡が入った。 |
【安藤大尉自決未遂】 | |||
午後3時、ホテル内には安藤中隊だけが残っていた。安藤大尉も胆を決め、全中隊をホテル広場に集合させた。玄関前の広場に整列した兵士の前に出てきた安藤大尉は
四日間の労苦でやつれ果てていた。参謀副官が兵士に向って「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ」といった。安藤大尉が兵士に対し最後の「原隊復帰訓示」を与えた。
やがて中隊歌合唱がはじまった。そこへ歩三の大隊長伊集院謙信少佐が来た。「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう」、「はい、一緒に死にます」。安藤は無造作にピストルを取り出した。歌が二番に入った時、「 最早これまで 」と覚悟しピストル自決を図った。銃弾は顎から右頬右眼の下を通り右額の所で止ったがその部分が丸く盛り上っていた。二発目は突込みとなり薬室に斜めに引っかかったため不発におわった。とっさに当番兵だった前島清上等兵が、腕にぶら下った。磯部浅一も後ろから抱き止めた。「俺を死なせてくれ。俺は負けは厭だ。裁かれるのは厭だ。自らで裁くのだ」。安藤は怒号した。 磯部はこのときの情景を、獄中書簡「行動記」 に次のように記している。
磯部は将兵一体の団結に感動して、あれ丈部下から慕われるという事は、安藤の偉大な人格が然らしめたのだ、と記している。 「二等兵大谷武雄」は次の通り。
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兵隊の一人が安藤自決の様子を近くで見ていた師団参謀に向って「 お前たちが中隊長を殺したのだ」と泣き叫びながら突っ込んだ。参謀は逃げ去った。安藤大尉の傷は左の顎からこめかみに至る盲管銃創で、命に別状なかった。救急車が来て、奥山軍曹、門脇軍曹、当番兵の前島上等兵が付添い、第一陸軍病院に向った。これが六中隊の兵士が見た中隊長の最後の姿となった。 |
【野中歩兵大尉が拳銃で自決】 |
将校が武装解除されている間、別室にいた首謀格である野中歩兵大尉(歩兵第3連隊第7中隊長、32歳)が拳銃で自決した。 |
【反乱のあっけない終末】 |
午後5時、岡部適三憲兵大尉指揮の憲兵が香田大尉以下全将校を武装解除させた。反乱はあっけない終末を迎えた。階級章を剥ぎ取られ、拳銃その他の装具も没収され軍刀のみ携帯を許された。 |
【安藤隊の帰隊】 |
六中隊主力は出発にあたり武装解除を要求されたがこれを拒否した。永田曹長、堂込の小隊長に引率され、銃を肩に 軍歌を歌いながら凱旋気分で行進し原隊に戻った。彼らは中隊長がいなくなっても、その統率力は変りなかった。なぜ彼らの武装を解かせられなかったのか?板垣氏はいった。「恐かったのですよ」。安藤輝三という一人の中隊長の熱情と覇気が六中隊の下士官兵の一人一人に浸透しており、拒否を通させたことになる。 午後6時頃、帰営。歩三の聯隊に帰ると、夕食後、下士官以外はすぐに近歩三の兵舎に移された。翌日取調べを受けた後、原隊に帰された。帰隊後も不参加者との隔離がつづき、行動範囲も制限され、参加者は軍帽を被り、不参加者は略帽という既定まで設けられた。毎日精神訓話で感想文を書かさせられた。 |
【自決強要拒否】 |
田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。 |
叛乱軍将校は第二応接室に収容され、自決用のピストルが渡され自決が強要された。陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備していた。青年将校のうち安藤大尉と野中大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴えるとして軍法会議を受けて立つ腹を固めた。村中・磯部らはすでに免官となっており、軍服を着ているとはいえ民間人なので捕縛された。27日に西田税宅から叛乱軍に加わった渋川善助は上半身にぐるぐると縄をかけられた。 |
【事件終結】 |
自決を拒否し営倉に入れられていた蹶起将校下士官は次の通り。( 野中四郎大尉、河野寿大尉を除き )、村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄、栗原安秀、中橋基明、竹嶌継夫、丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎、田中勝、安田優、外将校五名 (
池田俊彦、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎、麦屋清済 )、民間人 渋川善助 。 午後6時頃、鉄格子のある囚人護送車に乗せられて、代々木の陸軍東京衛戍刑務所に収容された。狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆 軍服を脱いで浅黄色の囚人服を着せられた。ここに2・26事件は終結した。結果、両軍ともに一発の発砲もなかった。 |
2.29日、結局「叛乱軍」と認定されたクーデタ軍は鎮圧された。下士官兵は帰順し、首謀者の青年将校たちは逮捕された。昭和天皇は、「昭和天皇独白録」のなかで、「積極的に自分の考を実行させたのは、終戦のとき(いわゆる「御聖断」)とこの二・二六事件のときだけだった」と振り返っている。東京裁判対策でまとめられたこともあり、今日、「独白録」の内容は鵜呑みできないことなっている。ただ、二・二六事件が印象的なできごとだったのは事実だろう。だからこそ昭和天皇は、広島と長崎に原爆が投下された8月6日、8月9日とともに、2月26日を「御慎みの日」としたのである。(辻田真佐憲(文筆家)の2020.2.26日付けブログ「ヒロヒト、ヒロヒト……。昭和天皇は二・二六事件で何を語ったか」) |
【「兵に告ぐ」余話】 |
中村アナウンサーのラジオ説得の際に、「今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである」という一節が問題となった。放送は戒厳司令部にいた大久保少佐、根本大佐、山下少将の独断で文案を決めたものであり、事態解決に貢献したのは否定できないが、「今までの罪も許される」の部分は大問題となった。これは軍の統帥の問題で、「一体誰が許したか」ということになった。参謀本部内には作戦行動に必然的に伴う謀略として許せるという意見もあったが、結局、部内では『この言葉は大久保少佐の書いた原稿にはなかったが、中村アナウンサーが感極まって付言したものである』として処理された。 |
【事件後の動き】 |
同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。
3.1日、殺害された高橋是清、斉藤実、渡辺錠太郎は、天皇陛下から「優渥なる御沙汰」をもって「位一級」追陞、さらに高橋是清、斉藤実には大勲位菊花大綬章、渡辺錠太郎には旭日大綬章が追陞された。同日、陸普第980号が出された。 3.4日午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第1衛戍病院に収容されていた河野寿・航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生、28歳)大尉は3.5日、自殺を図り、6日午前6時40分、死亡した。自殺将校2名が記録された。 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。 |
【事件による警察官の殉職】 | ||||||||||||||||||
事件にあたって5名の警察官が殉職し、1人が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。
また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。 |
【事件に対する海軍の動き】 |
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。
26日午前10時、伏見宮海軍ゝ令部総長は海軍省一階正面玄関の階段の上に立ち、集まった判任官以上の軍人に対して天皇の決意を述べ、海軍の断固鎮圧方針を主張した。 26日午後、横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍横須賀第一水雷戦隊の陸戦隊を芝浦に上陸させ、陸軍叛乱部隊との交戦を予想して重要書類は全て雑のうに入れ地下に移送。土嚢を積み上げた。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦長門以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。 12時頃、伏見宮から高橋三吉連合艦隊司令長官に緊急暗号無線が打たれた。 「今朝、東京市内に重大事件発生せり。連合艦隊は直ちに東京湾および大阪湾の警備につくべし。第一艦隊は東京湾、第二艦隊は大阪湾」。当日土佐沖で演習中であった連合艦隊第一艦隊は連合艦隊旗艦長門を先頭に約40隻、東京湾御台場沖に急行。到着したのは27日午後4時である。そして艦隊は東京市内にむかって一列に並び砲門を向けた。さらに陸戦隊を編成し上陸させた。この部隊は機関砲に加え野砲も擁する重装備の部隊で、この部隊でも鎮圧できない場合は国会議事堂を艦砲射撃するという案が近藤信竹第一艦隊司令長官と高橋連合艦隊司令長官との間に決まった。陸軍が鎮圧できないのであれば海軍がこれを行う決意を示していた。26日、午後8時頃、豊田副武海軍軍務局長は陸軍に対し、大臣告示に強硬な抗議をした。陸軍にやる気(鎮圧する)があるのかないのか、血の気の多い豊田は噛み付かんばかりの勢いだったと伝えられている。 この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2.29日に任務を解かれ、翌3.1日午後1時に出航して作業地に復帰した。 |
この後は【】に続く。
(私論.私見)