2.26事件史その8、鎮圧考3、29日


 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日

 この前は【2.26事件史その5、決起その後考】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その8、鎮圧考3、29日」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



2.29日(1936年は閏年だったため29日まであった)

【司令部の鎮圧作戦始動】
 2.29日、事件発生4日目。払暁、反乱軍鎮圧ラッパを吹き、示威行動、包囲網圧縮。午前中  戦車接近、中隊長激発、帰順説得続くも、中隊長拒否。飛行機ビラを撒く。

 午前5時10分、討伐命令が発せられた。午前5時30分、永田町近辺の住人の立ち退きが始まった。東京市内の電車もすべて運行が停止した。

【最後の賭けに出る決起部隊】
 決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が前夜から飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥っていた。鎮圧部隊は、皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置。戦車も配備して警備を強化した。

 午前6.10分。決起部隊が、天皇を直接補佐する陸軍参謀総長、皇族・閑院宮の邸宅前に現れた。「閑院宮西正門前に決起部隊十七名、軽機関銃二挺を、西方に向けおれり」。氷点下まで冷え込む中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていた。閑院宮を通じ、天皇に決起の思いを伝えることにいちるの望みを託していたのだ。しかし、閑院宮は現れなかった。二・二六事件研究者・神戸大学研究員 林美和氏は次のように解析している。
 「(閑院宮は)へたに出ると、宮様なんとかしてくださいとなってくるので、そうならないように、(決起部隊を)避けたということはあると思います。(決起部隊は)昭和天皇に決起した本当の意図を理解してもらいたいと、それを伝えるために、天皇に近い皇族に接触しようとしたと。直接伝えなきゃという意識は、追い込まれていったときにあったのではないか」。

【戒厳司令部が周辺住民に避難指示】
 早朝。陸軍上層部は、ついに鎮圧の動きを本格化させる。戒厳司令部は周辺住民に避難を指示。住民1万5000人は着の身着のまま、避難所に急いだ。一触即発となった鎮圧部隊と決起部隊。東京が戦場になろうとしていた。

 決起部隊の兵士だった志水慶朗(当時19歳)氏は、兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま、上官の命令に従っていたという。国会議事堂に迫りくる戦車の音を聞いた志水氏は自分たちが鎮圧の対象になっていることを知った。当時の心境を次のように述べている。
 「どうして撃ち合わなければいけないんだろうって、同じ兵隊同士、日本の兵隊同士がね。そういう疑心暗鬼と言いますかね。そういうような気持ちは感じましたね」。

 陸軍・鎮圧部隊の兵士だった矢田保久(当時20歳)氏は最前線での任務を命じられていた。当時の心境を次のように述べている。
 「緊張しちゃっているから何が起きてくるか分かんない。一発撃ったら絶対止まらないよ。海軍や何もかも全部来ているんだし、想像がつかないでしょう」。

【海軍・陸戦隊は攻撃準備を完了】
 海軍・陸戦隊は攻撃準備を完了し、第一艦隊は、東京・芝浦沖に集結していた。もし決起部隊との戦闘が始まれば、海軍・軍令部は状況次第で、「艦隊から国会議事堂を砲撃」するつもりだったと云う。 当時、対処にあたっていた軍令部員の名前が極秘文書に残っている。矢牧章中佐が、艦隊が攻撃することになった場合の重大さを、戦後、次のように証言している。
 「あそこ(芝浦沖)からね、国会議事堂まで、要するに4万メートルくらい飛ぶんだから、大砲の大きい奴が。陸軍(決起部隊)がもし考え違いして、やろうじゃないかと。一発やろうじゃないかと、海軍と。どんどん撃ったら、あそこの千代田区がなくなってしまいます」。

 これによると、海軍は艦隊を東京湾に呼び寄せ国会議事堂に向けて大砲発射準備までしていたことになる。
 2.29午前8時5分の海軍記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載されている。青年将校らの投降がなければ市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられている。

【昭和天皇の采配】
 天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていた。事件発生から4日間、鎮圧方針を示してきた天皇。最終盤、陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていた。

【戒厳司令部告諭第二号、戒厳令第14条】
 午前8時10分、陸軍・鎮圧部隊による攻撃開始時刻が8時30分と決定された。
 「2/29戒厳司令部告諭第二号」は次の通り。
 本職は更に戒厳令第14条全部を適用し断固麹町区付近において騒動を起こしたる叛徒の鎮圧を期す。しかれどもその地域は狭小にして波及大ならざるべきを予想するをもって官民一般は前告諭に示す兵力出動の目的をよく理解し特に平静なるを要す。戒厳司令官 香椎浩平
 「2/29戒厳司令部発表 戒厳令第14条」は次の通り。
 戒厳地境内においては司令官左に列記の諸件を執行するの権を有す、但し其の執行より生ずる損害は要償することを得ず。
第一 集会若しくは新聞雑誌広告等の時勢に妨害ありと認むる者を停止すること
第二 軍需に供す可き民有の諸物品を調査し、又は時機によりその輸出を禁止すること
第三 銃砲弾薬兵器火具その他危険に渉る諸物品を所有する者ある時はこれを検査し時機により押収すること
第四 郵信電報を開緘し出入の船舶及び諸物品を検査し並びに陸海通路を停止すること
第五 戦状により止むを得ざる場合においては人民の動産不動産を破壊毀焼すること
第六 合囲地境内においては昼夜の別なく人民の家屋建造物船舶中に立入検査すること
第七 合囲地境内に寄宿する者あるときは時機によりその地を退去せしむること

 万一流弾あるやも知れず戦闘区域付近の市民は次のように御注意下さい
(一) 掩護物を利用し難を避けること
(二) 低いところを利用して避けること 
(三) 屋内では銃声のする反対側にいること 
(四) 立退き区域 市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎ノ門、桜田門、警視庁前、三宅坂の結び線は戦闘区域になるから立退きのこと  
(五) 立退き随意区域 半蔵門前警視総監官舎から弁慶橋をつなぐ外廊をゆき黒田侯邸から大倉商業、霊南坂上、虎ノ門をめぐる地域 
(六) その外廊は交通停止区域

【帰順か徹底抗戦か】
 決起将校の側は帰順か徹底抗戦かで揉めていた。安藤らの所属師団である堀師団長の尽力によって討伐は何とか引き延ばされたが、すでに奉勅命令の内容は決起将校に伝わっている。討伐の実行は翌29日の午前9時の決定がされている。抗戦か、和平か―。決起将校等の決心は、徹底抗戦だった。彼等を包囲する軍もまた、決起部隊が撤退しないのを見て、いよいよ戦いの覚悟を固めた。だが事態は意外な方向に急転する。二十九日に飛行機からビラが撒かれたのだが、これが非常な効果を発揮する。

【「下士官兵ニ告グ」】
 早朝、戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとった。突如包囲部隊側から突撃ラッパが鳴り響き、バリケード近辺の叛乱軍側は緊張状態になった。戦車数両が轟音を響かせながらバリケードに接近し、横を通り過ぎるさまビラを配る。また戦車には降伏勧告のビラが貼りつけてあった。戦車には「謹んで勅令に従ひ」、「武器を捨て、我方に来れ」などと書かれたビラが貼りつけてあった。ビラが配布されたが横を走りながらであったため叛乱軍側の陣地には飛んでいかなかった。西新橋の飛行館屋上には、「勅命下る軍旗に手向ふな」と書かれたアドバルーンが掲げられました。続いて、飛行機が叛乱軍側の占拠している陣地上空を飛び、下士官兵あてのビラをバラまいた。このときのビラで有名なのが、「下士官兵ニ告グ」で初まるビラである。
 下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ヘ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前逹ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒嚴司令部

 午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣の麹町、赤坂住民に避難勧告を出し、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会を憲兵隊で固めた。鎮圧軍は決起部隊を取り囲み、最後の説得が試みた。投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。「勅命下ル軍旗に手向フナ」の文字がアドバルーンが上げられ、「勅命(天皇の命令)下る、軍旗に手向かうな」の文字が掲げられた。

 午前8時55分、中村茂NHKアナウンサーが「兵に告ぐ」を読み上げラジオ放送された。師団長を始めとする上官が涙を流して説得に当たった。特設されたスピーカーから叛乱軍側の下士官・兵に語りかけた。
 兵に告ぐ

 勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前達は皆復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫(それ)は勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じていたのに、それが間違って居たと知ったならば、徒(いたづ)らに今迄の行懸(いきがか)りや義理上から、何時までも反抗的態度をとって、天皇陛下に叛(そむ)き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと国民全体も、それを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い。戒厳司令官 香椎中将

 ラジオでは「今までの罪も許される」と放送されていた。後に、「人も泣かせ、自分も泣いた」と語っている。繰り返し放送された。

 兵の動揺は最大に達した。磯部は、「これは卑劣なる敵の分断工作だ」、「参謀本部の幕僚どもの陰謀だ」と叫んだが、叛乱軍将校の間に「部下の兵隊を犬死にさせたくない」、「兵に罪はない」という意識が膨らんでいった。

【首相官邸・栗原部隊の最期】
 二十九日鎮圧軍の総攻撃があるというので、官邸内の椅子や机を窓や出入り口に積み上げ、バリケードを築き、カーテンを引きさいて全員白ダスキ、白鉢巻きで身をかため戦闘準備についた。

 栗原中尉と林少尉が山王ホテルの方から帰ってきた。中尉は紅白のタスキをかけ決意の様子をみせたが、顔面に悲壮感をみなぎらせ、無言のまま入ってくるとすぐ門扉を閉じさせた。すると それを待っていたかのように鎮圧軍が戦車を先頭にして ナダレの如く門の外側まで包囲網を圧縮してきた。正に袋の鼠である。

 何時頃だったか議事堂の方から将校がやってきた。歩哨が 「トマレ!!」 と どなった。将校はその場に足をひろげ仁王立ちになるや大声で「俺は陸軍少佐戒厳参謀の桜井だ。天皇陛下の命により武装解除を命ずる」と二回くりかえいていった。ここにおいて 栗原中尉は最早これまでと観念した。

 9時頃、全員集合がかかり中隊は玄関付近に各教練班別に整列した。栗原中尉は正門近くの庭にリンゴ箱を置きその上に立った。栗原中尉がガックリした表情で訣別の訓示をのべた。内容は大体次の通り。
  「全員撤収せよ」、「戦いは終わった。残念ながら昭和維新の達成はできなかった。お前たちは四日間よく奮闘してくれて感謝にたえない。唯今から下士官兵は聯隊に帰れ。第一師団は近々渡満の大命が降下する予定だが、むこうへ行ったら皇国のために大いに働いてもらいたい。俺はここで皆と別れるがお前たちのことは決して忘れることはない。呉々もお前たちの武運長久を祈る」、「 永い間上官の命を守ってくれてありがとう。今度の事はお前たちの知らないことで責任はこの栗原がとる。この世では再び会うことはあるまい。満洲に云ったら国のためしっかり御奉公してくれ 」。

 切々として述べる中尉の訓示は 痛恨悲壮の極みで、これを承る中隊の兵力二八〇余、寂として声がなかった。やがて列兵の中から嗚咽が洩れはじめた。涙が止めどなく流れ出し、いつしか全員の号泣となった。兵隊は手ばなしで泣いた。この時隊員一同は死ぬ覚悟を決めていた。訓示が終わると、同席していた桜井参謀の発意によって栗原中尉の万歳が唱えられ、終了と同時に下士官以上が桜井参謀に誘導されて余韻のただよう中を迎えの参謀に伴われて正門を出て行った。これが栗原中尉との永久の別れになった。中尉が去ったあと、入れかわりに鎮圧軍がきて武装解除を命じた。兵士はいわれるままに小銃と帯剣を所定の場所に置き丸腰にされ、一コ分隊ずつトラックに乗り一路帰隊の途に就いた。

【安藤部隊の帰趨】
 午前10時頃、安藤、香田の両大尉及び下士官七、八名が緊張して居る中で、安藤と香田の次のようなやりとりがされている。
安藤大尉  「自決するなら、今少し早くなすべきであった。全部包囲されてから、オメ オメと自決する事は昔の武士として恥ずべき事だ 」、「自分は是だから最初蹶起に反対したのだ。然し 君達が飽迄、昭和維新の聖戦とすると云ふたから、立ったのである」、「今になって自分丈ケ自決すれば、それで国民が救はれると思ふか。吾々が死したら兵士は如何にするか」、「叛徒の名を蒙って自決すると云ふ事は絶対反対だ。自分は最後迄殺されても自決しない」、「今一度思ひ直して呉れ」。
香田大尉  「俺が悪かった、叛徒の名を受けた儘自決したり、兵士を帰す事は誤りであった。最後迄一緒にやらう、良く自分の不明を覚まさせて呉れた」。
安藤大尉  「僭越な事を云って済まなかった。許してくれ」、「叛徒の名を蒙った儘、兵を帰しては助からないから、 遂に大声で云ったのだ。然し判ってくれてよかった。最後迄一緒にやってくれ」、「 至急兵士を呼び帰してくれ」。

【決起部隊のさみだれ式帰順】
 朝、九時頃、山王ホテルで丹生部隊百五十名、赤坂見附附近で約二十名がが帰順する。九時半頃、赤坂、溜池方面で約二十名ばかりが帰順する。戒厳司令部は、ひっきりなしにラジオを通じてその状況を発表した。
 海軍は、いつ攻撃がはじまるとも分からない中、最前線で様子を探り続けていた。その時、追い詰められた決起部隊の次の変化に気づいている。

 10時5分頃、「陸軍省入口において決起部隊の約一ヶ小隊、重機関銃二門、弾丸を抜き整列せり。三十名、降伏せり。11時45分、首相官邸の“尊皇義軍”の旗を降ろせり。12時20分、首相官邸内に万歳の声聞こゆ。兵士の意気阻喪は明らかだった。
 まず首相官邸の中橋基明中尉が帰順し、陸相官邸の清原少尉も続いた。あとは、雪崩を打ったように続々と帰順する。磯部の説得も結局は通じなかった。帰順した将校等も、兵士のことを思えばこそ、これ以上彼らに迷惑はかけられなかった。
 同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終り、陸相官邸に集合した。磯部、村中、田中が共に官邸に向った。陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来していた。磯部らは広間に入り、ここでピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許された。山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。彼我共に黙して語らず。磯部ら三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室に監禁された。同志との打合せ、連絡等すべて不可能だった。磯部はまさかこんな事にされるとは予想していなかった。少なくも軍首脳部の士が、一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさしてくれると考へてゐた。然るに、自決せよの雰囲気が待ち受けていた。山下少将が入り来て 「覚悟は」と問ふ。村中「天裁を受けます」と簡単に答へた。連日連夜の疲労がどっと押し寄せ眠った。夕景迫る頃、憲兵大尉岡村通弘(同期生)の指揮で数名の下士官が歩縄をかける。刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れていた。

【清原少尉率いる三中隊の投降】
 野中大尉は村中とともに新議事堂前に部隊の集結を待っていた。そこへ、栗原中尉が急ぎ足でやって来た。遅れて坂井中尉も来た。栗原は決然と、兵をかえしましょう。これ以上の抵抗は無駄です。兵を殺してはなりません。そうです、兵を返しましょう。坂井も同調した。栗原も坂井も急いで部隊の位置にかえって行った。首相官邸に一人とり残された磯部はなお考えこんでいた。この転機を策する工夫はないものかと考え込んでいた。空には飛行機がブンブン飛んでビラをまいている。下士官はそれを拾って、手から手に、口から耳へと伝えて行く。この兵隊たちの様子をじっと見ていた磯部はもう一度、部隊の勇気を鼓舞してみようと首相官邸を出て行った。磯部が官邸を出た、ちょうどそのあとに攻囲部隊が戦車を先頭に押しよせてきた。首相官邸には栗原もほかの将校もいなかった。下士官が指揮をとって応戦準備をととのえ、門内一歩も討伐隊を入れまいと邸内要所に機関銃を据え、まさに撃ち合いをはじめようとしていた。このとき、新議事堂から帰ってきた栗原は、「射ってはならんぞ!」とはげしく叱りつけて事なきを得た。まさに流血の危機であった。

 磯部は同志将校の一戦を念じながら 重い足を運んで文相官邸まで引き返してきた。だが、そこで彼の見たものは、官邸前にはすでに戦車が進入して攻撃部隊の兵隊で一杯だった光景だった。常盤、鈴木の部隊は全く戦意を失って、ただ呆然としている。彼が首相官邸に行っている間に、歩三の大隊長が戦車の進出とともに説得に来た。常盤も鈴木も上官の前には言葉はなかった。磯部はこの時の状況を、こう遺書している。
 「 余が栗原と連絡中に歩三の大隊長が常盤、鈴木少尉および下士官兵を説得にきた。この説得使と前後して戦車が進出する。だから、まるで戦争にならない。
なんといっても自己の聯隊の大隊長だ。その大隊長が常盤、鈴木少尉、下士官兵に十二分の同情を表わしつつ説得するのだ、斬り合い射ち合いが始まる道理がない 」(「行動記」)。

 その頃、ラジオは「兵に告ぐ」を放送し続けていた。このアナウンサーの声涙ともに下る切々たる言葉は、さすがに若い兵隊たちの肺腑をつくものがあった。磯部は「 これではもう駄目かな 」と 観念しながら、道をかえてドイツ大使館前に出た。そこでは坂井中尉が憤然とした面持ちで、「 なにも言ってくださるな、わたしは下士官兵をかえします」と 吐き出すようにいった。そして迎えにきている大隊長や新井中尉と感激的な握手をかわしている。磯部はよろめく足どりで溜池の方へ向かった。

【清原少尉率いる三中隊の投降】
 まんじりともせず警戒しているうちにようやく夜が白みはじめた。ホッと一息ついた時、再び陣地変換の命令が下り中隊は三宅坂に移動した。もう その頃になると飢と寒さで誰も口をきかなくなった。しかしお互いに我慢しているのか一人として弱音をはく者はなかった。三宅坂にきた頃はまだ暗く、そんな中で清原少尉は全員を集め本人を中心に円陣を組ませた。少尉は軍刀をつき胸を張ってはいるが何か沈痛の色が見える。頭の中でいろいろまとめていたがやがて話をはじめた。「我々は国家をよくするため昭和維新の断行に踏切ったが、昨日来一部同志の脱落により遂行は今や崩れかけている。現在頑張っているのは我が三中隊と六中隊だけとなった。そこでお前たちの決意を聞きたい。最期の一人に成っても やり抜く覚悟のある者は手をあげてもらいたい」。この言葉に全員は期せずして「ハイ」 といって手をあげた。「有難う、よく決意してくれた。教官は心から嬉しく思う」。兵隊たちはお互いに顔を見あわせて最後の天皇陛下万歳を唱えた。

 やがて明るくなってきた頃、小銃やLGに実包を込め、陣地について戦闘準備に入った。と、その時半蔵門の坂道を私達の方に向かって戦車の列が登ってきた。戦車が去ったあと清原少尉は再び皆を前にして話をはじめた。「昨日原隊復帰の勅命が下ったそうである。我々は今まで尊皇義軍を誇りにしていたがいつの間にか反乱軍の汚名を着せられてしまった。ここに至っては如何ともすることができない・・・・・」。そこで言葉がとぎれた。そしてまた思いなおしたように、「そこでもう一度お前たちに聞く。最後の一人になろうとも頑張る気概のある者!」。その問に全員は前回と同様に「ハイ」 と答えて手をあげた。しかし心なしか元気がなかった。「有りがとう、教官は心から感謝する。しかし反乱軍の汚名を着せられたままお前たちを殺すことは忍びない、よって残念だがこれから原隊に復帰することにする」。少尉は目に涙を浮かべ万感胸迫り、声もつまってよく聞きとれなかった。その後全員は陣地を撤収、 あと片付けを行い、改めて服装を正し整列の上、清原少尉の音頭で天皇陛下万歳を三唱、武装、タスキがけ姿で帰隊の途についた。

 沿道は至るところ鎮圧軍の陣地やバリケードが築かれ、私たちは彼等の大規模な攻撃準備に今更に目を見張るばかりだった。しかしそれにも増して驚いたのは私達の進む沿道が黒山の市民で埋めつくされていたことである。しばらく行進すると鎮圧軍によって行進が停められた。 清原少尉が相手の将校と何やら問答を始めた。その結果、直進を避けて十字路を右折することになった。道路沿いの市民たちが「御苦労さま! 万歳!」と 連呼しつつ盛んに私たちに歓声を送ってくれた。市民は私たち蹶起部隊に対し心から声援しているのである。反乱軍の汚名を着せられていても市民感情は私たちに味方しているのだ。私たちは嬉しかった。国政の退廃に愛想をつかした市民が私たちの蹶起に心から感謝していることが判る。

 そしてまた数分後 行進が阻止された。今度は大分強硬で清原少尉も相手将校も興奮した態度でわたり合っていた。それに呼応して油を注ぐかのように小銃やMGの発砲が断続して響き渡った。相手側は私たちに武装解除を要求しているらしい。これに対して清原少尉は、「我々は勅命によって原隊に復帰するのだ、この勅命を阻むものは国賊である。どうしても武装解除を要求するなら我々は一戦を交えても勅命を遵奉するがそれでもよいか」と切込んでいった。

 するとこの成り行きを見ていた群衆が私たちと鎮圧軍 (近歩三)の間になだれの如く割って入り「万歳! 蹶起部隊万歳!」と叫び出し鎮圧軍を引きはなした。この劇的なシーンはどう表現したらよいか筆絶し得ない情景で、今も脳裡に焼きついている。

 鎮圧軍は遂に群衆の威圧に負け武装解除をあきらめ、そのかわり 「取れ剣」と「弾抜け」を命じた後、私達の行進を許可した。道路の人垣はなお続いていた。やがて正午近い頃原隊に着く。営門の前には憲兵が右往左往し報道関係の記者もカメラを携えて飛廻っている。隊列が停止すると清原少尉が中央に立って徐ろに訓示をした。「出動以来お前たちには非常に苦労をかけた。この清原を中心に一人の落伍者もなく一糸乱れず指揮に従ってくれたことに対し教官は心から感謝する。今回の事件は自分一人の責任であってお前達には何の罪もない。この責任は自分がとるからお前たちは新しい統率の下で、君のため、国のため忠勤をはげんでくれ」。いいおわった清原少尉は頭をたれ男泣きに泣いた。訓示が済むと急に隊列が乱れ「教官殿!」 「教官殿!」と 叫びながら全員は一斉に少尉にすがりついた。そして子供のようになきじゃくった。

【野中中隊長の隊列との別れ】
 二・二六事件と郷土兵堀宗一・歩兵第三聯隊第七中隊曹長「永遠の袂別『頭ッ右』」。
 一三・〇〇 少し前、果然 全員集合がかかった。急いで前庭に整列すると、野中大尉が苦悩の色を浮かべながら別れの訓示を述べた。 「残念ながら昭和維新は挫折した。俺は中隊長として全責任をとるからお前たちは心配せずに聯隊へ帰れ。出動以来の労苦には心から感謝している。満州に行ったら国の為に充分奉公するように。ではこれで皆とお別れする。堀曹長に中隊の指揮を命ずる」。

 野中中隊長はいいおわると静かに台をおりた。代って 常盤少尉も同じように別れの辞をのべると兵隊の中から感きわまってススリ泣く声がおこった。訓示が終わった直後兵隊たちは少尉の周囲に集り「教官殿、別れないで下さい。自分達はどこでも一緒に行きます」と 口々に叫び帰隊を拒んだ。これに対し少尉は情況と立場を説明して諄々と納得を求めたが、兵隊たちは一向に聞き入れようとしないので、少尉は遂に嗚咽し握りしめた拳を目にあて天を仰いだ。我々も泣いた。ここで野中大尉や常盤少尉と離別するのは忍びがたく、すべてが終わった今、落城の心境は只々涙にとざされるばかりであった。やがて兵隊たちは思いなおし、列を整え私の号令でお別れの部隊の敬礼を行った。「中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ」。

 私はその時万感胸に迫り、刀を握る手が小刻みに震えていた。野中大尉は感慨深そうに一同を見渡しながら長い時間をかけて答礼した。大尉の手が静かにおろされ答礼が終わっても私はなかなか「直れ」の号令が出なかった。「もうこれで野中中隊長等とは永別するかも知れぬ」。そういった悲しみが切々と胸を打ち、日頃機械的に行っていた敬礼の動作とは異なり、心から慕う者だけがなり得る精神的衝動にかられたからである。別れの儀式がおわると野中大尉、常盤少尉、桑原特務曹長の三名は陸軍大臣官邸に向かって出て行った。一三・三〇、服装を整え、清掃をすませた我々は帰隊の途についた。

 途中坂を下ったあたりで戒厳参謀と思われる少佐から停止を命ぜられ実包を没収された。次いでそこにいた中隊のある将校がいきなり「只今から俺が指揮して帰隊する」と いい出した。そこで私は「中隊長殿から命令されているので自分がつれて帰ります」というと、彼は強引に私の言葉を打消してやおら号令をかけた。「気オツケーッ、唯今より本官が指揮をとる、右向けーッ右!」、「・・・・・・」。だが兵隊は一人として動かなかった。「出動もせず、今頃ノコノコやってきて指揮をとるとはもっての他だ、出動した者が帰隊の指揮をとるのが当然てはないか、堀曹長の指揮でどこが悪いのか」。兵士全員の心にそのような反発があった。この間私は蹶起がこのような結果に終わったので、兵隊の中に途中で自決する者が出てはならないと営門につくまで心配しつづけたが、無事に帰隊したとき 肩の荷がおりた気持ちがした。

【常盤少尉の隊列との別れ】
 二・二六事件と郷土兵 歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵・金子平蔵「隊長護衛兵として」。
 二九日
 事態が重苦しくしている中で、十一時頃、常盤少尉が急に全員集合を命じ、おもむろに訓示をした。その内容は出動以来の成り行きと、今日までの苦労を感謝する意味のものであったが、最後に、「 愈々お前たちと分かれることになった。俺は別の所に行って残された仕事をやらねばならんから堀曹長は全員を指揮して聯隊に帰るように」と いった。

 日頃 父と仰ぎ絶対信頼をもって服従してきた常盤少尉と今更どうして別れることができよう、絶対にできるものではない。「教官殿、自分たちは別れません。教官殿が行かれる所ならどこでもお供いたします」、「自分たちは教官殿と一心同体であります。絶対に別れません」、「今まで一切を投げ出して教官殿と行動を共にしてきました。今別れたら自分たちはどうなるのですか、どうか最後まで行動させてください」、「教官殿とは生死を誓いあった我々であります。今更別れるとは一体どういうことでありますか」、隊員たちは悲痛な声をあげて常盤少尉の翻意を促した。教官の為なら死んでもよい、今日まで面倒を見てくれた間柄は、親子以上の強い絆で結ばれているので絶対に断ち切ることはできないのだ。兵は皆泣いた。泣き叫び、号泣し常盤少尉との別れに反発しながら自らの胸中を赤裸にブチまけた。常盤少尉はしばし感慨にふけっていたが、思い出したように状況説明や自分の立場などを述べて隊員に納得を求めたが、やがて万感胸を打ち絶句した。「 どうか 俺のいったとおりにしてくれ 」。常盤少尉もやはり人の子であった。握りこぶしを 目にあて溢れる涙をおさえながら天を仰いで号泣した。まことに悲愴の極みである。

【安藤部隊の抵抗】
 海軍は、最後まで抵抗を続けていた安藤輝三の部隊に注目していた。極秘文書には、追い詰められた指揮官・安藤の一挙手一投足が記録されている。
 「安藤大尉は部下に対し、『君たちはどうか部隊に復帰してほしい。最後に懐かしいわが六中隊の歌を合唱しよう』と、自らピストルでコンダクトしつつ中隊歌を合唱。雪降る中に、第一節を歌い終わり、第二節に移ろうとする刹那、大尉は指揮棒がわりのピストルを首に。合唱隊の円陣の中に倒れた」。

 安藤部隊は、「山下奉文に唆され、一同が自決を考えた際も徹底抗戦を訴えてそれを退け、敗色が濃厚となる中」(「ウィキペディア(Wikipedia)安藤輝三」記述)、料亭幸楽を離れて山王ホテルに移った。安藤隊は山王ホテルに陣取り最後まで徹底抗戦を主張した。同じ場所に居た丹生隊が引き揚げても、兵は軍歌を歌い、尊皇討奸の旗の下、抗戦の意志を堅持していた。一人の脱走者もなかった。叛乱に加わるまでは非常に慎重であった安藤大尉とその隊が徹底した抗戦派になった。「勇将の下に弱卒なし」との言葉が示す通りとなった。次のように評されている。
 「決起には消極的だったものの、ひとたび起った後には誰よりも強い意志を貫いた。山下奉文に唆され、一同が自決を考えた際も徹底抗戦を訴えてそれを退け、敗色が濃厚となる中、山王ホテルを拠点に最後まで頑強な抵抗を続けた」。

 
安藤はここで香田清貞大尉と共同してホテルで戦う予定だった。そこに磯部があらわれた。投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じなかった。大勢が決したことを悟ると、一同の前でピストル自殺を試みる。磯部は慌てて羽交い絞めにして押し止めたが、彼の決意は翻らなかった。

 説得に訪れた伊集院大隊長は「安藤が死ぬなら俺も自決する」と号泣し、部下たちもこぞって「中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お供を致しましょう」と涙ながらに訴えた。安藤は宿願だった農村の救済ができないことを悔やみつつ、部下たちには自分の死後も、その目標を果たすよう遺言した。

 磯部はこの光景に感涙した。磯部は一兵たりとも欠けることなく中隊長のもとに死ぬ覚悟を固めた安藤中隊を目の当たりにし、何とかこれを助けたいと説得に当たった。「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と必死に説いた。その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうと計るが、第6中隊の結束は固く、全員が靖国神社で死ぬ覚悟を見せた。
 「オイ安藤、兵士を帰さう。貴様はコレ程の立派な部下をもつているのだ。騎虎の勢いで一戦せずば止まる事ができまいけれども、兵を帰してやらふ」。

 安藤はコウ然として次のように述べている。
 「諸君、僕は今回の蹶起には最後迄不サンセイだった。然るに遂に蹶起したのは、どこま迄もやり通すと云ふ決心が出来たからだ。僕は今、何人をも信ずる事が出来ぬ、僕は僕自身の決心を貫徹する」。

 
しかしながせ、とうとう永田、堂込曹長指揮の下、原隊へ兵を帰すことを決意した。


 午後1時頃、兵をホテルの庭に集合、整列させ、「最後の訓示」をした。
 「俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。お前たちが連隊に帰るとういろいろなことをいわれるだろうが、皆の行動は正しかったのだから心配するな。連隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう」。

 最後に、「原隊に帰るまで昭和維新の歌を歌いながら行進していってくれ」と部下に訓辞した。兵士等が中隊歌を歌い始め去っていく中、一歩二歩と下がり、静かに隊列の後方に歩いていった。やにわに拳銃を取り出し、自決を図った。「ダーン!」。拳銃を引き抜いた安藤が、銃口をあご下に当てて引き金を引いた。かくて、決起将校最後の一人、安藤輝三は自ら「反乱」の幕を引いた。そのあまりにも劇的な幕引きを見た磯部は、安藤に対して賛嘆の言葉を惜しまない。昭和天皇に対してすら「何と云ふ御失政でありませう」と呪詛の言葉を投げかけるほどの磯部が、安藤とその部隊の「鉄の団結」にはただ賛嘆の言葉しか出なかった。


 しかし、安藤大尉は死しておらず、陸軍病院における手術の末一命を取り留めた。結局、他の将校と共に裁判にかけられ、軍法会議で処刑されることになった。銃殺刑。死刑執行の間際に発せられた言葉が実に安藤らしい。「秩父宮殿下万歳!」。彼が最後に絶叫したのは、兄のように慕った、あの懐かしい中隊長の名だった。
 前島清上等兵の手記より。
 「最後まで敢然と帰還命令を拒否した安藤大尉も万策尽き下士官はじめ兵を帰還させることとなった。そして、やおら拳銃を取り出し自決しようとした安藤大尉に、前島上等兵は咄嗟に安藤大尉の腕に飛びついた。『離してくれ・・・』、『いや離しません』。・・・・・・・・『なんという日本の現状だ・・・・前島、離してくれ、中隊長は何もしないよ、するだけの力がなくなってしまった。随分お世話になったなあ。いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、と叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。しかし、お前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった』。中隊長の目からこぼれ落ちる涙が私の腕を濡らした。それから、帰還する部下の隊列を見送ったあと安藤大尉は拳銃で自決を図った」。

 安藤大尉は逮捕される前日、交渉にきた軍の高官に次のようなことを叫んだと伝聞されている(須崎2003、314頁)。
 「私たちは今まで、君側の奸、即ち政府の重臣どもを倒せば少しでもマシな日本になると思っていました。しかし、それは間違いだったことがよくわかりました。私たちは、重臣どもよりも前に、まず真っ先に軍幕僚・軍閥を倒さねばならなかったのだ!」。
 なお、二・二六事件の際、彼と北一輝の会話とされる音声が戒厳司令部により録音盤として残されていた。その記録では、北のほうから電話をかけて「マル(金)はいらんかね」と言われたのに対して安藤は「まだ大丈夫です」と発言している。しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなくカマをかけようとした憲兵ではないか、と云われている。

【兵士の原隊復帰相次ぐ】
 首相官邸に布陣していた中橋基明隊が解散した。同官邸に布陣していた栗原も戦意喪失していた。同じく清原少尉、ドイツ大使館前の坂井隊も解散、中島隊が続いて解散した。

 多くの兵士が脱落し始め、これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰った。「1558名の参加兵員のうち、初年兵が3分の2の1027名を占めていた。初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1.10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇」した。訳のわからぬままに駆り出され、原隊復帰したことになる。その後、「反乱兵士の汚名」をきせられ、厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、その多くは戦死している。
 午後1時、事件が平定された。

【安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校が最後の決断】
 午後2時、安藤隊を除く下士官と兵を全員原隊に戻した上で、安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々が陸相官邸に集まり、その後の方針を話し合った。その結果、陸軍上層部が自分たちを自決させようとしているのを察し、法廷の場で、思うところを訴えようと考える方針を立て、重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となる。
 時を同じくして、討伐部隊は歩兵第1連隊旗を奉じて陸相官邸、その他の叛乱軍陣地に侵入し、各要所を奪回した。

【武装解除】
 午後2時25分、戒厳司令官から軍令部総長に「午後1時より反乱部隊の下士官兵の原隊帰りが始まり午後2時までに事態は収束した。事件は平定した」とする連絡が入った。

【安藤大尉自決未遂】
 午後3時、ホテル内には安藤中隊だけが残っていた。安藤大尉も胆を決め、全中隊をホテル広場に集合させた。玄関前の広場に整列した兵士の前に出てきた安藤大尉は 四日間の労苦でやつれ果てていた。参謀副官が兵士に向って「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ」といった。安藤大尉が兵士に対し最後の「原隊復帰訓示」を与えた。
  「 俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。お前たちが聯隊に帰るといろいろなことをいわれるだろうが、皆の行動は正しかったのだから心配するな。聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう 」。

 やがて中隊歌合唱がはじまった。そこへ歩三の大隊長伊集院謙信少佐が来た。「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう」、「はい、一緒に死にます」。安藤は無造作にピストルを取り出した。歌が二番に入った時、「 最早これまで 」と覚悟しピストル自決を図った。銃弾は顎から右頬右眼の下を通り右額の所で止ったがその部分が丸く盛り上っていた。二発目は突込みとなり薬室に斜めに引っかかったため不発におわった。とっさに当番兵だった前島清上等兵が、腕にぶら下った。磯部浅一も後ろから抱き止めた。「俺を死なせてくれ。俺は負けは厭だ。裁かれるのは厭だ。自らで裁くのだ」。安藤は怒号した。

 磯部はこのときの情景を、獄中書簡「行動記」 に次のように記している。
 「大隊長も亦、『俺も自決する安藤のような立派な奴を死なせねばならんのが残念だ』といいつつ号泣する。『おい、前島上等兵、お前がかつて中隊長を叱ってくれた事がある。中隊長殿、いつ蹶起するのです。此の侭でおいたら農村はいつ迄たっても救えませんと言ったねぇ。農村は救えないなあ。俺が死んだらお前達は堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげよ、二人の曹長は立派な人間だ、いいか、いいか』、『曹長、君達は僕に最後迄ついて来て呉れた。有難う、後を頼む』と言えば、群がる兵士等が 『中隊長殿、死なないで下さい』と泣き叫ぶ」。

 磯部は将兵一体の団結に感動して、あれ丈部下から慕われるという事は、安藤の偉大な人格が然らしめたのだ、と記している。

 「二等兵大谷武雄」は次の通り。
 「永田曹長の指示でホテルから寝具が運ばれ、大尉を仰向けに寝かせた。大尉は手真似で筆記具をよこせといい、永田曹長が通信紙と赤鉛筆を渡すと眼を閉じたまま複数に走り書きした。やがて衛戍病院から車がきたので大尉は病院に向った。その直後 永田曹長は全員を集め中隊長の書き残した通信文を読上げた。その内容は、1、爾後の指揮は永田曹長がとり、無事原隊に帰れ。2、未だ 『 弾抜ケ』 を していないので 弾を抜け。3、お前達は渡満したなら 御国のためにしっかりやれ、などであった。一同は泣きながらそれを聞いていた」。
 兵隊の一人が安藤自決の様子を近くで見ていた師団参謀に向って「 お前たちが中隊長を殺したのだ」と泣き叫びながら突っ込んだ。参謀は逃げ去った。安藤大尉の傷は左の顎からこめかみに至る盲管銃創で、命に別状なかった。救急車が来て、奥山軍曹、門脇軍曹、当番兵の前島上等兵が付添い、第一陸軍病院に向った。これが六中隊の兵士が見た中隊長の最後の姿となった。

【野中歩兵大尉が拳銃で自決】
 将校が武装解除されている間、別室にいた首謀格である野中歩兵大尉(歩兵第3連隊第7中隊長、32歳)が拳銃で自決した。

【反乱のあっけない終末】
 午後5時、岡部適三憲兵大尉指揮の憲兵が香田大尉以下全将校を武装解除させた。反乱はあっけない終末を迎えた。階級章を剥ぎ取られ、拳銃その他の装具も没収され軍刀のみ携帯を許された。

【安藤隊の帰隊】
 六中隊主力は出発にあたり武装解除を要求されたがこれを拒否した。永田曹長、堂込の小隊長に引率され、銃を肩に 軍歌を歌いながら凱旋気分で行進し原隊に戻った。彼らは中隊長がいなくなっても、その統率力は変りなかった。なぜ彼らの武装を解かせられなかったのか?板垣氏はいった。「恐かったのですよ」。安藤輝三という一人の中隊長の熱情と覇気が六中隊の下士官兵の一人一人に浸透しており、拒否を通させたことになる。

 午後6時頃、帰営。歩三の聯隊に帰ると、夕食後、下士官以外はすぐに近歩三の兵舎に移された。翌日取調べを受けた後、原隊に帰された。帰隊後も不参加者との隔離がつづき、行動範囲も制限され、参加者は軍帽を被り、不参加者は略帽という既定まで設けられた。毎日精神訓話で感想文を書かさせられた。

【自決強要拒否】
 田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。 
 叛乱軍将校は第二応接室に収容され、自決用のピストルが渡され自決が強要された。陸軍首脳部は自殺を予定して、30あまりの棺桶も準備していた。青年将校のうち安藤大尉と野中大尉が自決し、残りの者23名はこのまま自決しては、逆賊にされた上、事件の真相が葬り去られてしまう、生きて、なぜクーデターを起こさねばならなかったか日本中に訴えるとして軍法会議を受けて立つ腹を固めた。村中・磯部らはすでに免官となっており、軍服を着ているとはいえ民間人なので捕縛された。27日に西田税宅から叛乱軍に加わった渋川善助は上半身にぐるぐると縄をかけられた。

【事件終結】
 自決を拒否し営倉に入れられていた蹶起将校下士官は次の通り。( 野中四郎大尉、河野寿大尉を除き )、村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄、栗原安秀、中橋基明、竹嶌継夫、丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎、田中勝、安田優、外将校五名 ( 池田俊彦、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎、麦屋清済 )、民間人 渋川善助 。

 午後6時頃、鉄格子のある囚人護送車に乗せられて、代々木の陸軍東京衛戍刑務所に収容された。狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆 軍服を脱いで浅黄色の囚人服を着せられた。ここに2・26事件は終結した。結果、両軍ともに一発の発砲もなかった。
 2.29日、結局「叛乱軍」と認定されたクーデタ軍は鎮圧された。下士官兵は帰順し、首謀者の青年将校たちは逮捕された。昭和天皇は、「昭和天皇独白録」のなかで、「積極的に自分の考を実行させたのは、終戦のとき(いわゆる「御聖断」)とこの二・二六事件のときだけだった」と振り返っている。東京裁判対策でまとめられたこともあり、今日、「独白録」の内容は鵜呑みできないことなっている。ただ、二・二六事件が印象的なできごとだったのは事実だろう。だからこそ昭和天皇は、広島と長崎に原爆が投下された8月6日、8月9日とともに、2月26日を「御慎みの日」としたのである。(辻田真佐憲(文筆家)の2020.2.26日付けブログ「ヒロヒト、ヒロヒト……。昭和天皇は二・二六事件で何を語ったか」) 

【「兵に告ぐ」余話】
 中村アナウンサーのラジオ説得の際に、「今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである」という一節が問題となった。放送は戒厳司令部にいた大久保少佐、根本大佐、山下少将の独断で文案を決めたものであり、事態解決に貢献したのは否定できないが、「今までの罪も許される」の部分は大問題となった。これは軍の統帥の問題で、「一体誰が許したか」ということになった。参謀本部内には作戦行動に必然的に伴う謀略として許せるという意見もあったが、結局、部内では『この言葉は大久保少佐の書いた原稿にはなかったが、中村アナウンサーが感極まって付言したものである』として処理された。

【事件後の動き】
 同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。  

 3.1日、殺害された高橋是清、斉藤実、渡辺錠太郎は、天皇陛下から「優渥なる御沙汰」をもって「位一級」追陞、さらに高橋是清、斉藤実には大勲位菊花大綬章、渡辺錠太郎には旭日大綬章が追陞された。同日、陸普第980号が出された。

 3.4日午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第1衛戍病院に収容されていた河野寿・航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生、28歳)大尉は3.5日、自殺を図り、6日午前6時40分、死亡した。自殺将校2名が記録された。

 3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。以降、首謀の皇道派を大量処分制裁した軍統制派が実権を掌握し、内閣に対する軍の政治的発言権が強化されることになった。


【事件による警察官の殉職】
 事件にあたって5名の警察官が殉職し、1人が重傷を負った。これらの警察官は、勲八等白色桐葉章を授けられ、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。
村上嘉茂衛門 巡査部長 警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
土井清松 巡査 警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。(赤坂表町署から本庁へと異動した巡査で、のちに空襲カメラマンと言われた石川光陽とは赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった)
清水与四郎 巡査 警視庁杉並署兼麹町署勤務(総理官邸配置)。死亡。
小館喜代松 巡査 警視庁警務部警衛課勤務(総理官邸配置)。死亡。
皆川義孝 巡査 警視庁警務部警衛課勤務(牧野礼遇随衛)。死亡。
玉置英夫 巡査 麻布鳥居坂警察署兼麹町警察署勤務(蔵相官邸配置)。重傷。

 また、警備出動していた歩兵第57連隊の兵士6人が、暖房用の炭火による一酸化炭素中毒で死亡した。

【事件に対する海軍の動き】 
 襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斉藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。 26日午前10時、伏見宮海軍ゝ令部総長は海軍省一階正面玄関の階段の上に立ち、集まった判任官以上の軍人に対して天皇の決意を述べ、海軍の断固鎮圧方針を主張した。

 26日午後、横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍横須賀第一水雷戦隊の陸戦隊を芝浦に上陸させ、陸軍叛乱部隊との交戦を予想して重要書類は全て雑のうに入れ地下に移送。土嚢を積み上げた。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦長門以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。

 12時頃、伏見宮から高橋三吉連合艦隊司令長官に緊急暗号無線が打たれた。 「今朝、東京市内に重大事件発生せり。連合艦隊は直ちに東京湾および大阪湾の警備につくべし。第一艦隊は東京湾、第二艦隊は大阪湾」。当日土佐沖で演習中であった連合艦隊第一艦隊は連合艦隊旗艦長門を先頭に約40隻、東京湾御台場沖に急行。到着したのは27日午後4時である。そして艦隊は東京市内にむかって一列に並び砲門を向けた。さらに陸戦隊を編成し上陸させた。この部隊は機関砲に加え野砲も擁する重装備の部隊で、この部隊でも鎮圧できない場合は国会議事堂を艦砲射撃するという案が近藤信竹第一艦隊司令長官と高橋連合艦隊司令長官との間に決まった。陸軍が鎮圧できないのであれば海軍がこれを行う決意を示していた。26日、午後8時頃、豊田副武海軍軍務局長は陸軍に対し、大臣告示に強硬な抗議をした。陸軍にやる気(鎮圧する)があるのかないのか、血の気の多い豊田は噛み付かんばかりの勢いだったと伝えられている。

 この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2.29日に任務を解かれ、翌3.1日午後1時に出航して作業地に復帰した。

 この後は【】に続く。






(私論.私見)