2.26事件史その5、決起その後考



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日

 この前は【2.26事件史その4、決起考】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その5、決起その後考」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



2.26日

【決起将校が陸軍省へ集結】
 6時30分、安藤部隊は鈴木貫太郎侍従長官邸前出発後、占領した陸軍省近傍に到着した。
 「安藤は部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る。ヤッタカ ! !  と 問へば、ヤッタ、ヤッタ と 答へる 」。

 ここで安藤は集まってきた同志等から岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、渡辺教育総監らへの襲撃成功を聞かされた。第七中隊常盤少尉がきて安藤大尉に状況報告。
 「警視庁を完全占領し目下警戒中の由、坂井中尉は斉藤内府、渡辺教育総監を倒し我が方負傷二名。高橋蔵相が近歩三の襲撃で死亡。岡田総理が歩一の手によって斃された。」。

 報告を受けた安藤大尉は感無量といった姿で天を仰ぎながら「愈々昭和維新が達成するか」といったいかにも感無量といった風だった。その後間もなく全員は陸相官邸前に整列し、安藤大尉が蹶起趣意書を読み上げ、今回の行動の目的を全兵士に宣明した。

【「陸軍大臣要望事項」】
 同趣意書はすでに先に陸相官邸に来ていた香田大尉、村中、磯部らが「陸軍大臣要望事項」と共に陸軍大臣川島義之に手渡し、自分たちの決起の目的と要望を伝えていた。「要望事項」は決起将校らが今度の一挙において何を目指したか、つまり具体的な「昭和維新」実現のための要求であった。

【各方面への根回し】
 反乱軍は政治の中枢、永田町周辺を占拠して国家改造の即時断行を要求し、軍首脳を経由して昭和天皇に対し天皇の一元指導下での天皇親政による昭和維新を訴えた。反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。決起した青年将校たちは、天皇の周りから奸臣どもを排除すれば、天皇の真の意思が表れ、その天皇の真意に基づいて国家改造がなされるはずだと期待していた。

 事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。

【山下泰文へ電話報告】
 二・二六事件の一報の電話を受け取った山下の義妹・永山勝子は、次のように証言している。
 「山下は隣の部屋から飛んでくると電話を引き継ぎ「何!……やったかッ」と大声で叫び、そのあとは沈黙した」。

 彼女によると山下は「陛下の軍隊を使うなんて、自分たちの目的のために使うなんてもってのほかだ」といかにも悔しそうであったともいう。山下は同調者ではないかと周囲からは見られており、山下宅の電話は事件前から逓信省と陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受盗聴を受けていた。

 山下は安藤輝三らのちの決起部隊の一部将校が所属していた歩兵第3連隊長を以前務めていて彼らと面識があり、当時彼らの動向を探っていた片倉衷によれば、打診に来た安藤に「岡田はぶった斬らんといかんな」「もっと垢の取れた案を持ってこい」と無責任かつ味のある言い回しで皇道派の幹部として理解を示すような発言をしていたという。


【山口一太郎大尉が電話で本庄繁大将に事件報告】
 午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。

 午前5時、本庄日記によると、本庄繁侍従武官長のもとに反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。

 本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。中島侍従武官が甘露寺受長侍従に連絡して、昭和天皇も事件を知ることになる。天皇は直ちに軍装に着替え執務室に向かった。甘露寺侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」、「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていた、と云う。

【木戸幸一内大臣秘書長の反乱軍鎮定の動き】
 午前5時20分頃、襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で事件を知った木戸幸一内大臣府秘書官長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、6時頃、参内した。すぐに常侍官室に行き、既に到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことを意思統一させて、宮内大臣より天皇に上奏した。木戸ハ裕仁(昭和天皇)の摂政時代から「十一会」という私的な結社を主宰してオリ昭和天皇の顧問団ノリーダーヤクヲシテイタ。内大臣の斉藤実が殺されテイコウハそのあとヲ(1940年から)木戸幸一が内大臣になっテイル。

【陸軍中枢の呼応派と鎮圧派のそれぞれの対応】
 反乱軍は、日本の政治の心臓部をこの日から4日間占拠することになる。夜が明けるにつれ襲撃された人々の殺害方法が判明してきて、各方面に与えた衝撃は凄まじかった。建軍以来最大の叛乱事件だったからである。陸軍内部の考えは3派に分かれた。叛乱軍に同調派は皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎両大将、さらに東京警備司令官である香椎浩平中将。断固鎮圧派は統制派の参謀本部の作戦課長石原莞爾大佐、陸軍省内の武藤章中佐らであった。26日午前には省内で岡村寧次第二部長を中心とする部長会議が開かれ断固鎮圧方針を決定し杉山次長に進言している。第12師団長の香月中将のように最初から断固鎮圧を示しいち早く関門海峡を封鎖した者もいる。中間で叛乱軍に同情的な派に川島義之陸相、第一師団長の堀丈夫中将。

【警察がすべての警察署に電信で非常招集命令を出すことに成功】
 午前5時50分、警察は、事件発生を受け、電話で各警察署に非常招集命令を出そうとしたが既に電話交換室が反乱軍に包囲されていた。そこで、8名の電信係は、電信室を物置のようにカモフラージュし、86すべての警察署に電信で非常招集命令を出すことに成功した。一方、電話交換室の中には12名の交換嬢がいたが、電話交換機も反乱軍の手に落ちることなく死守できていた。警察電話が輻輳するなか、通常の半分の人員で普段の倍の電話を32時間にわたって交換した。その後、うまく18人の交換嬢が入れ替わった。

【反乱軍が川島陸相面前で「蹶起趣意書」と要望書朗読】
 午前6時40分頃、香田大尉らが陸相官邸で川島義之陸相と会見し、決起趣意書と「八ケ条の要求」(「真崎甚三郎を首相にし、処理を一任する」等の7項目からなる要望書)を突きつけ昭和維新の断行を迫った。香田大尉が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。村中が補足説明した。陸軍中央部に対し「断乎たる決意」で「速やかに本事態の収拾」に向かうことを求めた。
 川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じ、「陸軍大臣に事後処理を委任し、文字通り『上長を推進し維新へ』という姿勢を示した」。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。
 事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの陸軍大臣の回答。 「陸相の態度、軟弱を詰問したるに」、「陸相は威儀を正し、決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す」。川島は、決起部隊から「軟弱だ」と詰め寄られ、彼らの目的を支持すると約束した。「政府の改革」を約束し、混乱を一旦収拾しようと考えたものと思われる。
 「これは随分重要な発言だと思います。決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、“昭和維新の断行を約す”と、約束しているんですね。言葉として。これを聞いたら、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然ですよね。それ以降の決起部隊の本当の力になってしまった」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)。

 この直後、川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部・真崎甚三郎大将に接触。「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」。極秘文書には、陸軍上層部の中に、クーデターに乗じて軍事政権樹立を画策する動きが記されている。


【真崎大将登庁】
 しばらくすると自動車に乗った真崎が登庁した。磯部は近づいて真崎に話しかける。「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました。状況を御存知でありますか」と問えば、「とう〱やつたか。御前達の心はヨヲッーわかつとる」と答える。磯部は続けて「どうぞ善處していただゞたい」と頼めば、真崎はこれにうなずいてきながら官邸内に入って行った。真崎の態度は明らかに決起した将校らに好意的且つ協力的であると見ていいだろう。

 青年将校は岡田内閣に代わる暫定内閣を主張し「真崎政権」を求めていた。しかしクーデター当日の朝4時半頃、事件を知った真崎大将は「死人のような顔になり『万事休すだ』とつぶやいた」という。

【昭和天皇&伏見宮会談】
 一方、別の場所で、もう一つの密約が交わされている。極秘文書に「上」(かみ)と書かれた人物の発言が記されている。「上」とは、軍を統帥する大元帥、昭和天皇。事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきたが、極秘文書には事件に直面し揺れ動く天皇の発言が記されている。

 事件発生直後、天皇は、海軍トップの軍令部総長である伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう)を呼び、宮中で会見している。伏見宮は、天皇より26歳年上、長年海軍の中枢に位置し、影響力のある皇族だった。この伏見宮と木戸が黒子になり2.26事件を裏で操る動きを見せている。

 昭和天皇は、伏見宮に決起軍と行動をともしないことを確約させ、「反乱軍を鎮圧せよ」の勅を出している。さらに次のように問いかけている。「艦隊の青年士官の合流することなきや」、「海軍の青年将校たちは、陸軍の決起部隊に加わることはないのか?」。伏見宮はこう記している。「殿下より、無き様 言上」。伏見宮は天皇の問いにこう答えたと記されている。「海軍が決起部隊に加わる心配はありません」。

 なぜ天皇はこのとき、海軍の行動を格別に心配するような言葉を口にしたのか。当時、軍部の中には、昭和天皇に批判的な声もあり、陸軍少佐だった弟の秩父宮などが代わりに天皇に担がれるという情報まで流れていた。これにつき、天皇制を研究・名古屋大学大学院 准教授 河西秀哉氏が次のように記している。
 「軍隊に人気があるような秩父宮とか、高松宮の方を軍隊が天皇にしてしまう可能性があるんじゃないかという危機感は常にあったんじゃないかと。(軍部からは)夜にマージャンをしているとか、日常でもゴルフをしていて、いわゆる大元帥としての仕事をちゃんとしていないんだという形で、非常に権威が軽んじられていたと。軍隊の中で(天皇の)威信が確立していない状況が昭和初期と考えていいと思います」。

 事件の対処次第では、天皇としての立場が揺らぎかねない危機的な局面だった。決起部隊に加わることはないと明言した海軍に対し、天皇はたたみかけるように注文をつけていく。

 「陸戦隊につき、指揮官は、部下を十分握り得る人物を選任せよ」。

 陸戦隊とは、艦艇の乗組員を中心に編制される海軍の陸上戦闘部隊。決起部隊に同調する動きが出てこないか、疑心暗鬼になっていた天皇は、陸戦隊の指揮官の人選にまで注文をつけるほど、細かく気をまわしている。昭和天皇を研究・明治大学 教授 山田朗・氏が次のように解説している。

 「陸軍がどうなるか分からないし、実際、模様眺めの人たちがいっぱいいるわけです。こういう状況の中で事態を打開しようとしたとき、もう一つの武力の柱である海軍に期待するのは、当然、天皇としてはあったと。特に伏見宮は、まさに軍人皇族の代表という位置づけですから、自分のコントロール下に置きたいということはあったと思います。次にどういう手を打つかという点では、昭和天皇は大きな勇気を得たと思います」。

 決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部。天皇に「決起部隊に加わらない」と約束した海軍。事件の裏で相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出し、海軍に鎮圧を準備するよう命じる3本の「大海令」を発令している。天皇が立て続けに大海令を出すのは極めて異例の事態である。極秘文書には、戦艦を主力とする第一艦隊、そして第二艦隊の動きが詳細に記録されていた。長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機・爆撃機などの飛行機隊。大分の沖合で演習中だった第一艦隊全体が、東京を直ちにめざした。さらに、全国で決起部隊に続く動きが広がることを警戒した海軍は、鹿児島沖で訓練していた第二艦隊を大阪に急行させた。26日午前、海軍は横須賀港の軍艦から陸上に派遣する軍隊・陸戦隊を東京に送り込んだ。これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件であるが、実は、海軍が陸軍の対抗勢力として用意周到に配備され、全面的に関わる市街戦まで想定されていたことになる。

 海軍・陸戦隊、第三大隊に所属していた中林秀一郎氏(当時16歳)は海軍に入ったばかりだったが、出動したときのことを鮮明に覚えているとして次のように証言している。

 「初めて実弾を300発渡されて。一番海軍に入って嫌な気持ちがしましたね。まかり間違えば陸軍と、東京で市街戦になる。そんなばかなことはねえと」。

【陸軍の第一師団の動向】
 一方、この時、陸軍の不穏な動きはさらに広がりを見せていた。海軍が注目したのは、東京を拠点とする陸軍の第一師団。決起部隊の大半が、この師団の所属だった。第一師団の参謀長がもらした言葉を、海軍は記録していた。「決起部隊もまた日本人、天皇陛下の赤子なり」、「彼らの言い分にも理あり」、「決起部隊を暴徒としては、取り扱いおらず」。

【海軍の事件動向監視】
 海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していた。クーデターに理解を示すかのような陸軍幹部の発言に、海軍は強い危機感を抱く。もし陸軍・第一師団が決起部隊に合流したら、陸軍と海軍の全面対決になる恐れがあった。

【2.26事件のその後の展開】
 午前8時過ぎ、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。 磯部は車を降りた真崎大将に対し、「閣下、統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況をご存じでありますか」と訪ね、真崎は「とうとうやったか、お前達の心はよーくわかっとる、よーくわかっとる」と答え、磯部の「どうか善処していただきたい」の言葉に頷きながら邸内に入っていった。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。

 蹶起の際の暗殺リストにあった石原莞爾大佐が広間の椅子に座して栗原と問答した。石原は、「言うことを聞かねば軍旗をもってきて討つ」と断言し、険悪な空気が流れた。問答の末に栗原は拳銃を石原に突きつけ、「どうしましょうか」と磯部らを振り返ったが磯部が何も言わなかった為、何事も起こらなかった。一方、同じく暗殺リストに名があった片倉衷少佐は叛乱軍の制止を振り切り邸内に入ろうとしたところ、磯部に拳銃で撃たれ頭をかすめ負傷した。

 午前9時頃、川島陸相が軍事参議官会議出席の為、官邸を出た。一方、省部の高級将校はこの時点では事件を知らないものが普段通り登庁しようとして、または事変を聞いて駆けつけた将校らは叛乱軍に阻止された。蹶起部隊将校に、「階級章にモノを言わせてどうしても入るというなら銃弾に代えても阻止する他はありませんな」と言われ、高級将校らは憤激しながら、臨時に参謀本部・陸軍省の置かれた憲兵隊司令部(3階)にぞろぞろと集まってきた。事件を予見していた統制派幕僚でさえも体勢を整えるのには時間を必要とした。

 真崎は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、加藤とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎は移動する車中で平沼内閣案などを加藤に話したという。

 参内後、伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」、「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。

【昭和天皇が川島陸相に「速ニ事件ヲ鎮圧せよ」指令】
 宮城の天皇の下へも変事の報告が入ってきた。変事に対処すべき最高責任者の岡田首相は死亡したと見なされ、側近として天皇を補佐すべき内大臣は死亡、鈴木侍従長の安否も不明という、心細い状況だった。
 午前9時30分、決起将校らとの三時間もの会見を終えた川島陸相が参内する。侍従武官長本庄大将に取り次ぎを頼み、すぐに拝謁となった。

 「川島陸相の上奏要領」は次の通り。
叛乱軍の希望事項は概略のみを上聞する。
午前五時頃、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監、牧野伯を襲撃したこと。
蹶起趣意書は御前で朗読上聞する。
不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招来せず、出来るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。

 川島陸相は、事件勃発当初、蹶起部隊を叛乱軍とは考えていなかった。その理由は下士官以下は演習と称して連出されたのものにして、叛乱の意思に出でたるものにあらずしてただ将校が下士官以下を騙して連出し人殺しをなしたるものと考えいたことによる。従って、蹶起部隊全体をもって叛乱軍とは考えず、これを討伐するは同胞相撃となり、兵役関係は勿論、対地方関係等今後に非常なる悪影響をもたらすものと考えていた。蹶起部隊は命令に服従せざるに至りたるときは叛徒なるも、蹶起当時においてはいまだ叛乱軍と目すべきものにあらずと認識していた。

 川島陸相は、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」、「叛徒の処置はどうするつもりか」と先に尋ねられた。川島は次のように奏上した。
 「こういう大事件が起こったのも、現内閣の施政が民意にそわないものが多いからと思います。国体を明徴にし、国民生活を安定させ、国防の充実を図るような施策を強く実施する内閣を作らねばと存じます」。

 天皇陛下は 「宜よし」と仰せ給う。「陸軍大臣はそういうことまで言わないでもよかろう。それより叛乱軍を速かに鎮圧する方法を講ずるのが先決要件ではないか」と、たしなめた 。軍の上層部が右往左往する中で、天皇は最も早い段階でその姿勢を明らかにし「速ニ事件ヲ鎮圧せよ」と命じた。川島陸相は、ただ恐懼して退下するしかなかった。

【昭和天皇が本庄繁大将・侍従武官長に「暴徒鎮定」指令】
 時刻は分からないが、陸軍出身の本庄繁大将・侍従武官長が拝謁している。本庄大将は決起将校らにとって重要な人物の一人であった。彼の女婿、山口一太郎大尉は決起将校らにとっては準・同志とでも言うべき存在で、本庄武官長も彼らに同情的だった。決起将校にしてみれば、山口大尉―本庄武官長のラインが天皇に意志を伝えることができる頼りの綱だった。

 本庄武官長が「決起した将校の精神だけでも認めてほしい」と次のように奏上している。
 「彼ら行動部隊ノ将校ノ行為ハ、陛下ノ軍隊ヲ、勝手ニ動カセシモノニシテ、統帥権ヲ犯スノ甚ダシキモノニシテ、固ヨリ、許ベカラザルモノナルトモ、其精神ニ至リテハ、君国ヲ思フニ出デタルモノニシテ、必ズシモ咎ムベキニアラズ」。

 ところが、昭和天皇は、終始すばやい鎮圧を求め次のように述べたとされる。
 「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮す。この如き凶暴の将校等、その精神に於ても何の恕(ゆる)すべきものなりや。朕が最も信頼せる老臣を悉く(ことごとく)倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」(本庄繁「本庄日記」)。
 「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷くるものと認む」、「速やかに暴徒を鎮定すべき」、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当らん」。

 天皇は、「暴徒を速やかに鎮圧せしめ鎮定せよ」との指示を為し、彼らの主張も分かると言った侍従武官長の本庄繁・中将に対して次のように厳しく叱責している。
 「それは私利私欲のためにやったのではないと言うにすぎない。自分が信頼している重臣たちを殺すような凶暴な者を許すことはできない。もし陸軍ができないと言うのなら、自分がみずから近衛師団を率いて鎮定に当たろう」。

 昭和天皇(当時34歳)は、青年将校への同情論を本庄より聞かされてもまったく意に介さず、逆に「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き兇暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや」、「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と鋭く批判し、ついには「朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らん」とまで述べた。早い段階で「現内閣の辞職を認めず、つまりクーデタに妥協せず、鎮圧に集中する」という木戸幸一内大臣秘書官長の意見を受け入れた。
(私論.私見)
 この時の昭和天皇の「断固たる態度」の背景が詮索されねばならぬと思われるが、納得できる論を知らない。いずれにせよ、 天皇陛下万歳を叫ぶ反乱兵と、実際の天皇の意識の溝の深さが刻印されている。

【木戸の暗躍】
 昭和天皇の背後で、明治の元勲、木戸孝允の孫であり、木戸が暗躍していた。近代政治史の筒井清忠・帝京大学教授は「見事な対処策を起案した」、「木戸氏こそ二.二六事件を失敗に終わらせたキーパーソンだった」と評している。木戸は天皇の方針を暫定内閣を許さないことと、反乱の断固鎮圧の2点に絞った。当時、岡田首相の安否は定かでなく、残った閣僚らは昭和天皇に辞表をまとめて提出したものの受理されなかった。暫定内閣を許せば取引の材料を与えることになり、実質的なクーデター成功につながると木戸が判断したからだった。その後皇族、大臣らが繰り返し天皇に暫定内閣を進言しても認められなかった。中には天皇に会うこと自体を阻止された重臣もいたという。事実、ここから青年将校の動きは頓挫してしまう。筒井教授は、「親英米派の湯浅倉平・宮内大臣が早くから皇居にこもって天皇に助言しているなど、見過ごされがちだった点も明らかになっている」とも指摘している。(「クーデター阻止した意外な人物 二.二六事件研究」その他参照)

【宮中会議】
 午前10時前後、決起将校らの期待を背にして川島陸相や真崎大将らが宮中に入る。前後して宮中には軍事参議官の全員が集まってきていた。軍事参議院(官)とは、天皇の諮問機関である軍事参議院(会議)を構成する要員であり、現役の大将・中将が任命され、毎年改変される軍の動員計画によって軍務が定められている。平時はそれぞれの役職(師団長等)に就き、天皇の諮問があれば軍事参議官会議を開き天皇に奉答する。会議の幹事は軍務局長が務める。軍事参議官の本来の権限は天皇の諮問に答えるのみであり、事態収拾権限までは付与されていない。

 杉山元(はじめ)参謀次長は宮中で川島陸相に対し、「軍事参議官は陛下の御諮問ありてはじめて御奉答申し上ぐべき性質のものなるに、いろいろ干渉せられては困る。事態の収拾は責任者たる三長官において処断すべきものなり」と述べ、川島の了解を得ている。三長官とは「陸軍大臣」、「参謀総長」、「教育総監」を指す。参謀総長の閑院宮載仁元帥は病気で小田原の別荘にあり、渡辺教育総監は殺害された。川島陸相が一人残されたが任が重過ぎた。川島陸相は、石原、武藤らの省部は統制派、これに対する荒木、真崎らの参議官の皇道派と云う図式の渦中で翻弄されることになる。軍事参議官会議では叛乱軍に同調とまでは行かないまでもそれに近い態度を示していた。それに引き替え参謀本部は最初から断固鎮圧の方針を堅持していた。統制派の杉山参謀次長が「事態の収拾」に乗り出し、事件解決を次長を頭とする参謀本部によって行うと主張した。軍事参議官に対抗した形になる。

 かねてよりの打ち合わせであったか、侍従武官長・本庄繁、陸軍大臣・川島義之、真崎甚三郎・大将らは「彼らの精神は、君国を思う心より出たもので、必ずしも咎むべきものではない」としてこの決起に連動した。が、結論は、穏便に対処するべきか軍隊を用いて鎮圧すべきかを廻って判断を持ちこした。
 「杉山手記」によれば、宮中で の説得案審議のおり、香椎警備司令官が次のように発言している。
  「 香椎警備司令官は起って、『自分は相沢公判を傍聴せるが その際感じたる所によれば、相沢は決行の後 ゆうゆう台湾に赴任を考えありしが、これは恐らく 一念昭和維新のみを考え、他を顧みざりし結果ならん。相沢の一刀両断は鳥羽伏見の戦いなり。鳥羽伏見の戦に勝ったが実は蛤御門の戰なりしを知らざりしが如し。今回の反乱将校のいい分もかくの如き観念に発せるものならん』と 述べ、大いに反軍に同情的態度を有することを示す。後日討伐の実行を躊躇せる宜なる哉と思わしむ。自分は討伐鞭撻べんたつの必要を確信せしは実にこれに起因す」。

【安藤隊が三宅坂三叉路附近に移動】
 午前10時、安藤隊が三宅坂三叉路附近に移動、警戒配備。聯隊より朝、昼、夕食運搬、住民湯茶サービスを受ける。夜、雪堤を造り、露営する。

【陸軍首脳が皇居に集まり善後策協議】
 正午12時半、事件を知った陸軍首脳が皇居に集まり善後策を協議した。「憲兵将校・磯高麿の戒厳令日誌より阿部信行陸軍大将の発言」が次のように記している。
 「まず(川島義之)陸軍大臣が『早くこの事態を収拾して鎮圧し原状を回復しなければならないので、ご意見をいただきたい。漏れ承るところによれば天皇陛下におかせられては“早く鎮定して遅くならないように”と仰せられた由と述べた。一堂恐縮した」。

 反乱軍を刺激しないよう、「気持ちはわかるが後は上司に任せよ」の主旨の告示が書かれることになった。

【当初の陸軍首脳部の対応】
 石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)も強硬に対処した。事件直後には、反乱軍占領下の陸軍省に強引に乗り込み、戒厳令を引き討伐命令を出すように上官を通じて天皇に奏上し、終始「討伐」の主張を貫いた。石原は昭和維新の必然性は認めながらも、軍部は革命行動に参加せず、本来の任務に邁進すべきと主張した。この事により事件後、陸軍内部での石原の発言力は強まることになる。

 陸軍首脳部は、昭和天皇の鎮圧命令が出たにも拘わらず武力鎮圧を躊躇した。事件当初、何とか同じ日本軍同士の衝突は避けたいと考え、青年将校達の説得に当たる。彼らを義軍として認め、決起に対する共感の声も多かった。決起部隊には東京守備の辞令が出され、食料まで支給された。決起部隊は反乱軍とは見なされていなかった。しかし昭和天皇の意志を知り、軍上層部の考えが急変し、国賊とされ討伐の対象となった。

 会見の間に、山下奉文少将、真崎甚三郎大将、古荘陸軍次官らが呼び出され、また、青年将校運動で「別格」と呼ばれた山口一太郎大尉を先導役として、決起部隊の歩哨線を通過してきた小藤恵第一連隊長や石原莞爾参謀本部作戦課長などいろいろな人物が登場する。山口大尉が決起将校の間を動き回り、彼等と軍事参議官らとの会見に立ち合っている。

 正午頃、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。軍事課長・村上大佐が部下2名に命じて草案を起草させた。

【迫水秘書官が大角海軍大臣に岡田首相救出相談】
 正午頃、迫水秘書官が、大角岑生(おおすみみねお)海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えている。26日午前、海軍は横須賀港の軍艦から陸上に派遣する軍隊・陸戦隊を東京に送り込んでおり、迫水秘書官は、その陸戦隊に対して首相官邸に身を潜めている岡田首相の救出を頼めないかと考え、「海軍がなんとかできませんか。いま松尾の遺骸があそこにありますから松尾の遺骸を収容するために海軍の陸戦隊をあげる。それで当分、総理大臣官邸日本間のほうに占拠部隊に退去を頼んで海軍の陸戦隊であそこへ行って警備することにして、それで遺骸を引き取ってもらって、そしてそのあいだに岡田啓介を救い出す方法はありませんか」と大角大将に相談した。大角海相はびっくりしつつ、「その話は俺は聞かんことにしておく。なにも聞かなかったよ。 もしそういうことをしたら陸海軍の戦争になるだけだからな聞かなかったことにする」と答えた。「大角大将は非常に頼りがいがないなあ、と思ってがっかりしたことは印象深いところです」と証言している。この迫水秘書官の証言を信じるとすれば、26日昼の時点で、海軍大臣は陸軍との決定的な対決を避けようとしていたことになる。岡田首相の救出もならず、決起部隊の占拠がつづくまま、2月26日の夜が訪れた。

【「維新大詔」】
 磯部、安藤、林、香田、中橋、対馬、村中等はその遺書の中で、それぞれ 「 維新大詔 」 という言葉を残している。実際、事件を起した青年将校らの目的は、君側の奸をたおして大義を正し、国体を擁護開顕し、もって昭和維新を断行し、日本を革新しようとするところにあった。それゆえ、蹶起将校らは一日も早い大詔の渙発を期待し、また陸軍当局(一部を除いて)も 一時はそれに傾き、「 維新大詔降下運動 」すら行われたのであった。この状況が、青年将校たちを大いに力づけた。

 「維新大詔」は実際に起草されていた。岩畔豪雄氏 ( 元陸軍少将、事件当時少佐、陸軍省軍務局課員で対満事務局に勤務していた)の談は、この間の事情を次のように明かにしている。
 「2.26事件の蹶起当初は、陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し青年将校らの 「 昭和維新 」 を 助けようとする動きもあった。「今にして思へば大臣告示の如きものは師団長の処に置きし方 良かりし様に思ふ。然し 当時の偽らざる師団長の感じとしては、頻々として入来する情報に依り、軍事参議官の軍上層部の人々が非常に努力し居らるる事を聞きたれば或は、彼等の希望し居るが如き事が出来するにあらざるかと云ふ雰囲気を感じ居たり 」(「堀丈夫 第一師団長中将 憲兵聴取書」)。

 又 陸軍省・参謀本部では、クーデターが万一成就した時の仮政府について、下記のように予想していた。
・内閣総理大臣 真崎甚三郎
・内大臣あるいは参謀総長 荒木貞夫
・陸軍大臣 小畑敏四郎 あるいは 柳川平助
・大蔵大臣 勝田主計 あるいは 結城豊太郎
・司法大臣 光行次郎
・(不詳) 北一輝
・内閣書記官長 西田税」。

 「村上啓作大佐談話」は次の通り。(池田俊彦  リンク→対談・我々はなぜ蹶起したのか 2
 「二・二六事件のとき武藤は軍事課の高級参謀ですね。そして我々を真っ向からつぶした。当時の軍事課長は村上啓作さんで、村上さんは何とか蹶起将校のメンツがたつようにしてやろうと思っていた。しかし、かれの部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝った訳けですね」。

 「岩畔豪雄の談話」は次の通り。
 「事件の勃発で、陸軍全体が混乱の真最中の二月二十六日正午頃、所は陸軍省の移転先だった九段会館の憲兵司令部であった。村上啓作軍事課長が、河村参郎少佐と私に、「 維新大詔 」 の草案の起草を命ぜられた。陸軍に関する勅語は、軍事課で作ることになっていた。しかしこれは容易ならぬ文章であるので、河村少佐と協力して、苦心しながら起案にかかった。ところが、午後三時頃だったと思う、再び村上課長がアタフタと入って来て、至急に草案が欲しいという。だが、まだその時には半分くらいしか書けていない。半分くらいしかできておりませんと言うと、それでもよいからと、書きかけの草案をもって、急いで蹶起部隊の青年将校首脳が集まっている陸相官邸へ車を飛ばしていった。仄聞すると、すでに 「 陸軍大臣告示 」 が 山下奉文少将から伝達されて欣喜している青年将校達に、村上大佐はこの草案を示して、いよいよ維新大詔の渙発も間近い情勢にあることを伝えたという。ところが、この草案は再び私の所に帰って来なかった。その後の事態の変化をみれば、死産に終わった 「 維新大詔 」 の 運命は自明のことであろう。今では草案原稿の控えもないし、その内容は忘れたが、青年将校らの蹶起趣意書を認めた意味のものだったように憶えている。もちろん天皇の御意思ではなく、村上課長が一人できめたものではないかと思う。後で裁判の時、問題化して村上課長が 若い者たちをなだめるためだった と弁明していた。その後の推移からそう思われるのである。

 こうして、村上啓作大佐に持ち去られた未完の 「 維新大詔案 」 は、同じ二十六日に「 大詔渙発に至らんとしているが、内閣が辞表を出しているため復署ができないから、それにいたらぬ 」と 伝えられ、さらに 二十八日には、蹶起将校の一人安藤輝三大尉が村上大佐から「 ここまで来ているのだから 」と 直接、原文を示されている。とにかく、一部幕僚等によって進められていた維新大詔降下運動は事情の急変によって二十八日、奉勅命令による叛乱軍討伐に変ったことは、その後の事情がよく説明している。結局、この大詔案は、村上大佐が二十六日午後から二十八日まで持ち廻ったあげく、そのまま握りつぶしたものではないかと推測される。なお、叛乱軍討伐と変った事情の急変がどのような理由によるものか、この点はいろいろ言われているが、いずれも臆測の域を出ていない」。
 彼は二十六日正午頃、宮中より陸軍省の移転先だった憲兵司令部に戻り、軍事課員河村参郎少佐と岩畔豪雄少佐に、維新大詔の原案の起草を命じている。正午頃といえば、まだ参議官たちの説得案もできていない時であるから、おそらく幕僚として大臣に献策するつもりの一案であったであろう。ところが、午後三時頃、村上大佐は再び軍事課に現われ、未完成のその草案をひったくるようにして持ち去った。もはや宮中の情勢はそうしたものの不必要を知ったのであろう。そして彼はその秘案を懐中にしまい込んでいた。これを安藤の説得に、「もう、こんなものができかけているのだから、君等もすぐいうことを聞いて引きあげよ」とこの草稿の一部をのぞかせたのであろう。罪なことである。これがのちに問題になり裁判では彼らはこれを持ち出して争った。だが村上はこれを全く否認して、「維新大詔案は自分は知らない。自分の知っているのは、軍人が政治運動に関係するのがよくないから、大詔を仰ぎたいと思っていたので、それらのことを間違えたのだろう」と証言したという。(「大谷敬二郎「二・二六事件」 )

【杉山元陸軍参謀次長の上奏】
 杉山元陸軍参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。

【清浦奎吾元総理大臣が参内】
 午後、清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。

【軍事参議官会議】
 午後2時頃、川島陸相が召集した非公式の軍事参議官会議が宮中の東溜の間で開かれた。この会議は、本来天皇の求めに応じて重要な軍務について意見を上奏する機関であるが、この時は昭和天皇の臨席のないまま非公式に開催され、事態の収拾策が議論された。

 この日、参内した軍の首脳は次の通り。軍事参議官全員/荒木貞夫、真崎勘三郎、林銑十郎、阿部信行、西義一、植田謙吉、寺内寿一、皇族の朝香宮鳩彦王、梨本宮守正王、東久邇宮稔彦王。川島陸相、杉山元中将参謀次長、本庄侍従武官長、香椎浩平中将・東京警備司令官兼東部防衛司令官、山下軍事調査部長、村上啓作大佐・軍事課長らが集った。

 その場で軍事参議官会議が開かれた。
会議冒頭、杉山次長が「軍事参議官の干渉は避け、三長官による処断」云々を申し入れた。荒木大将らは「もとより軍事参議官において三長官の職務遂行を妨害する意志はない。ただ軍の長老として道徳上、この重大時を座視するに忍びず奉公するものだ」という趣旨を答えた。会議の席上、問題となったのは叛乱軍に対する対策をどうするかであった。川島陸相が案を出した。1・勅命を仰いで屯営に帰還すべく諭す。2・聴かざれば戒厳令を布く。3・次いで内閣を組織する。これに対して荒木は、川島案の前に我々はなすべきことがあるとし、「軍事参議官一同が死をもって事態を収拾するから、お前達は原隊に帰れ。後国運の進展に努力するを得ん」との主旨で説得し、これに応じないときは川島案のような勅命を拝し、これでも応じないときは討伐する。なによりこの際最も注意すべきは左翼団体の暴動であると述べた。真崎も荒木に同調し、「左翼団体の警戒に全力を注ぐを要す。これがため維新部隊(叛乱軍)をその警備に充つるごとくを取扱うを可とす」と意見した。つまり左翼警戒を名目に叛乱軍の占拠行動を正当化しようとした。

 こうして、参議官の鎮撫、原隊復帰を第一とする立場から「陸軍大臣告示」の原文となった「申合書」が作成された。山下少将が一筆書き、それに植田大将がところどころに修正・挿入をした。山下少将が原文の作成をしており、会議の前に既に原案があった可能性が認められる。これに関しては、軍法会議でも問題究明が行われなかった。荒木大将が、「軍事参議官は全部こういうことだから兵隊をすぐ帰すように。お前、青年将校の方へ持っていってくれ」と言った。が、「これは筋が違う。権限がない軍事参議官がやってはおかしいではないか」という意見が出た。そこで、「陸軍大臣も同席していることだし、『陸軍大臣告示』という形でやってはどうか」という意見が出て川島が「それでは陸軍大臣告示ということでよろしいのですね」と問うと全員うなずき、文章ができた。

 川島陸相は軍事参議官たちに主導権を渡してしまい、決起側に渡すために作られた文書に「陸軍大臣ヨリ」とか「陸軍大臣告示」という題名をつけることを了承しただけで、以後表面から姿を消している。また「強力内閣」や「大詔煥発」を構想していたという真崎大将にしても、午前中の宮中での行動は明らかでなく、午後には軍事参議官の一員としての立場に終始するようになった。 事件処理の中心に軍事参議官や陸軍大臣告示が浮かび上がった時点で、決起側が何らかの成果を得る見込みがなくなっていたことが理解できる。
 会議では、青年将校たちを擁護するかのような発言が相次ぎ、川島陸軍大臣は収拾に苦慮した。その様子を目撃していた迫水秘書官の証言は次の通り。
 「まったくかわいそうに思えたのは川島義之という陸軍大臣。これはみんなから銘々勝手なことを大勢の人から言われてですね、処置判断まったくつかずに呆然としておられた姿というのは、いまでも目の前に出てくるような感じがします。荒木大将、真崎大将、林大将、みんなだんだんに集まってこられましたけれども、いずれも態度がきわめて不鮮明だったと私は思います。きわめて反乱軍に同情的だと印象深く覚えているのは山下奉文(ともゆき)少将。要するにもう方針が決まらないで右往左往してまったく頼りない人たちばかりだなっていう印象で、軍事参議官というようなところの人はまったく呆然(ぼうぜん)なすところを知らずという状態だったと思います」。
 「会議の結果、とにかく青年将校たちを懐柔しようという方針が決まった。そして紆余曲析(うよきょくせつ)ののち、いわゆる『陸軍大臣告示』と呼ばれる文書が配布された。そのなかには次のような一節があった。『決起の趣旨については、天聴(てんちょう)に達せられあり、諸子(しょし)の行動は国体顕現(けんげん)の至情(しじょう)に基づくものと認む』。青年将校たちの行動は日本の国の体制をより天皇を中心とした強固なものにしたいという真心にもとづくものであると認める、というものである」。

【叛乱軍側の大詔渙発期待】
 午後3時頃、「維新大詔」の草案作成が半分ほど書き上げられた頃、村上大佐が現れ、「半分でもいい」と言って持ち出し、首相官邸に車をとばし、さらに叛乱軍将校にもこの草案を見せ、大詔渙発も近いと伝えた。青年将校は、戒厳令施行と大詔の話は維新断行の段取り通りなので事態の前進とうけとめた。しかし、この大詔渙発の話は草案と共に忽然と消えることになる。

 叛乱軍側はこの時点でも真崎内閣のもと維新断行という路線を堅持していた。が、中間派の鈴木貞一大佐や満井中佐などから「戒厳令下の軍隊に入ったということだけは明らか」とだけ云われ、今は戦時と同じで命令、刑罰の重さを暗に諭され、不安を覚えた。統制派の重要人物である武藤章中佐中心の軍務課の態度が強硬だった。

【東京警備司令官・香椎中将が「陸軍大臣告示」を下令】
 午後3時、皇道派に属し、決起部隊に同情的であったといわれる東京警備司令官・香椎浩平中将が、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を命ずる戦時警備令に基づく軍隊に対する「陸軍大臣告示」を下令した(7.18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にあり、「決起部隊を正規の部隊の一部として認め、ともに、占拠地帯の警備にあたらせる」としていた。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の指揮下となり、正規の統帥系統にはいったことになる。青年将校、兵士たちは歓喜した。自分たちの行動が認められ、決起は成功したと思われたからである。事件勃発から11時間後、青年将校たちの計画どおり、決起は成功したかにみえていた。昭和天皇が皇道派に好意的だという誤情報が伝わっていたことが、事態の推移を楽観的に見させていた

【東京警備司令部より「陸軍大臣告示」】
 午後3時30分、 東京警備司令部より「陸軍大臣告示」(2.26日午後3時30分、東京警備司令部)が印刷・下達され、直ちに警備司令部から第一師団長、近衛師団長に印刷され送られた。堀第一師団長はすぐ部下一同に示したが、橋本近衛師団長は「なんだ、こんな怪文書」と握りつぶし下達されなかった。
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 荒木大将の戦後の談話で重要なことが述べられているので記しておく。
  「軍事参議官一同の意向を文章にしてこれを叛乱軍に示して鎮撫せんとしたのである。ところが朝香宮、東久邇宮の両大将もまた軍事参議官であってこの会議にも列席しておられたから軍事参議官一同の意向として発表することは皇室に累を及ぼす虞があるという意見も出たので同席の陸軍大臣川島義之大将の承諾を得て・・・」。

 これによれば、端から「天皇の意志に反しているばかりか、天皇に累が及ぼすおそれさえある」ことが認識されていたことになる。第一項の「天聴に達せられあり」は、 最初の申合書には「天聴に達し」となっていた。それに植田大将が「あり」という文字を追加した。これにより、まったく意味が違ってくることになった。「達し」では、「天皇に完全に申し上げてある」の意味になるが、「達しあり」となると、「ともかく申し上げてはあるが、その後のことはわからない」の意味になる。この違いは大きい、次に「諸子ノ行動」という文字が「諸子ノ真意」へと書き換えられていた。それが正文とされている。「行動」とあれば「統帥を乱し、重臣を襲撃した事柄までも認めることになる」が、「真意」では「行動の是非は別として気持ちは認めるいう、漠然とした抽象的なものになり、あとでなんとでもその解釈は変更できる」。但し、最初は「至誠」だったのが「真意」に改められたものであり、「行動」とは記されていなかったという話もある。

 叛乱軍にとって告示は陸軍の首脳に皇族も加わって宮中で作製されたということは下士官・兵はもちろん、将校に天皇の親裁を予想させるのに十分であった。この「告示」をめぐって軍首脳と叛乱軍との溝が広がり、叛乱軍に不信感を抱かせ、後の奉勅命令を懐疑する原因となったのは否定できない。この一件は事件の収拾をより困難にしてしまった。

  山下少将は、叛乱軍将校に「告示」をするため宮中を出て、それとともに警備司令官を通じ近衛、第一師団長にも示し、こういう趣旨で説得するということを部下に伝達することとなった。そこで香椎東京警備司令官は宮中から電話で警備司令部(近衛第一師団、第一師団を統率している機関)の安井籐治参謀長に「告示」を伝えた。電話を受けた安井参謀長は復誦を二度も行い、香椎中将に確認した。そして、安井参謀長は電話を聞きながら部下の福島参謀に口述筆記させた。

 告示が、山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田、野中、津島、村中の将校と磯部浅一らに伝えられた。が、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と「行動」に差し替えられた。反乱部隊への参加者を多く出した第一師団司令部では現状が追認されたものと考え告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする向きもあった

 参謀本部は、叛乱軍の行動を容認するとは何事だ、「だいいち荒木がいかん、真崎がいかん」と騒ぎ出した。 翌日27日、村上軍事課長が安井参謀長の下に訪れ警備司令部発表した告示に誤りがあり、その責任は参謀長にあると言い出した。安井参謀長は憤然とし、「参謀長が司令官の命令を誤ってうけるとは何事だ、自分は言われたとおりにしたのだ」と反論。険悪な空気が漂った。 結局、村上大佐に「ともかく戦術上ああなったのだ、参謀長一人悪者になってくれ」と言われようやくおさまった。
 午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
 一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト。
 二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル。

 告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となる。

【林八郎少尉が「尊皇維新軍」と大書した幟を掲げる】
 午後、林八郎少尉は、倉友音吉上等兵を供に、銀座の松坂屋に買物に出かけた。蹶起将校たる白襷をかけ、人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた。晒布、墨汁、筆 を購入し、首相官邸に帰ると「尊皇維新軍」と大書した幟を作って高々と掲げた。

【「師戦警第二号」】
 「告示」を聞いた決起部隊が、自分たちの行動が認められたと思った。安藤も遺書の中で「軍長老ガ軍ノ総意トシテ是認セルコトハ明ラカナリ」と述べている 。その思いを一層深くさせたのが東京警備司令部より発せられた「師戦警第二号」であった。
 「歩兵第一連隊長は朝来行動しある部下部隊及歩兵第三連隊、野重砲七の部隊を指揮し、概ね桜田門、〔日比谷〕公園西北側角、〔旧〕議事堂、虎ノ門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ぬる線内の警備に任じ、歩兵第三連隊長は其他の担任警備地区の警備に任ずべし」。

 これは歩兵第一連隊長への命令であるが、要するに決起部隊を反乱軍とするのではなく、そのまま部下部隊として指揮せよ、との命令である。さらに、翌日には所属部隊から食糧の提供まであった。これらの措置について香椎司令官は手記の中で次のように記している。
 「途中予は、蹶起部隊を予の統帥系統内に入れ、一は以て、彼等の血を見て狂へる興奮を鎮め、又以て、命令に由り穏かに原隊に復帰せしむるに便せんとする考を、胸中に決したり。蓋し之れ最も妙たる謀略なりと信せし処である」。

 これによれば、決起部隊を押さえるための謀略であると述べている。しかし正式な命令として反乱を起こした部隊を自らの指揮下に編入した香椎の措置は決起部隊に自信を与え、事態を長引かせる結果になった。さらに、香椎自身も事件終結後に「辱職罪」を疑われるはめになってしまう。

【安藤部隊が三宅坂の三叉路に移動し夜営】
 安藤部隊はその後三宅坂の三叉路に移動し、ここで天幕を張って夜営することになった。大まかに言って決起将校は陸軍上層部と折衝する組と部隊を率いて襲撃・占領を行う組に分かれたが、安藤は最初から最後まで部隊指揮に従事する。堂込曹長が、厳しい寒気の中で警戒に立つ歩哨 中隊の兵の士気、健康を案じて精力的に警戒線を視察して廻った。

【反乱軍が永田町の料亭「幸楽」に休息】
 この日の晩、永田町の料亭「幸楽」に数百人の兵士が上がり込み、厳重な警戒をしいて、残りの兵士は休息した。26日午前10時頃、深刻な顔をした将校がやってきて、大量の弁当と酒の注文をしている。幸楽は午後2時と4時の2回、トラックで弁当を運ぶ。ずっと演習だと思っていた幸楽のスタッフは、27日朝になって初めてラジオで事件を知ったと云う。

【反乱部隊支援の動き】
 決起部隊が、決起当初には陸軍上層部より物資や食糧の補給を受けていたことは余り知られていない。当初において決起部隊は「反乱軍」とされていなかった証左であろう。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。この動きについて史実から消されている。これにつき判明次第書きつけることにする。

【憲兵隊の動き】
 皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神は憲兵将校以下の頭にも深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている憲兵が大勢いた。中には、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する者までいたという。しかしながら、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた小坂慶助曹長などは憲兵としての職務に忠実であり、岡田総理の救出を成功させるなどの活躍をしている。しかしながら、憲兵隊内部に皇道派の勢力が事件後も浸透しており、憲兵隊内部では小坂らは評価されず、正面切って罵倒する将校までいたという

 この後は【2.26事件史その5、鎮圧考】に続く






(私論.私見)