2.26事件史その7、鎮圧考2、28日


 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日

 この前は【2.26事件史その5、決起その後考】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その7、鎮圧考2、28日」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


2.28日
全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【後編】」その他参照

【叛乱軍が決戦覚悟】
 早朝、情勢一変。反乱軍として鎮圧軍の包囲を受け、緊張の日中を過ごす。
 2.28日午前0時、反乱部隊に「所属原隊への撤退」を命ずる奉勅命令情報が伝わった。晩には戦車が降伏勧告のビラを貼り付けてバリケード前を通り過ぎていった。叛乱軍も決戦の覚悟を決めて、閑院宮館、陸軍省、首相官邸、山王ホテルなどに布陣し、兵の士気高揚の為の軍歌や万歳の声が周囲に響いていた。また、叛乱軍は戦線を縮小して山王ホテル、幸楽、三宅坂での決戦を考えた。磯部は「全部隊を山王ホテルに移動しよう。あそこは背中に宮城を背負ってるから向こうは撃ってこられないはずだ、絶対勝てる」と檄を飛ばしている。鎮圧に踏み切った戒厳司令部・軍本部もこうした叛乱軍側の覚悟を感じて緊張が高まった。

【反乱部隊に「蹶起部隊を所属原隊に撤退させよ」の奉勅命令下る】
 午前5時8分、事件発生から48時間後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との絶対神聖なる奉勅(ほうちょく)命令が戒厳司令官に下達された。これにより2万人を超す鎮圧部隊が決起部隊を包囲する事態となった。
 臨時変更参謀本部命令第三号
 戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以て速に現姿勢を徹し各所属部隊の隷下に復帰せしむべし

 奉勅 参謀総長 載仁親王

 命令書を見ると参謀総長が命令してるように受け止められるが、参謀総長は天皇の命令の伝達者として記名されている。これがいわゆる奉勅伝宣である。この命令により、叛乱軍は原隊にもどらねば「天皇の意思に背いている」ことになり、また事態をそのままにしておくだけで勅命に抗した逆賊になった。この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれた。事態が大きく動き始めた。天皇が奉勅命令を出し、自分たちを反乱軍と位置づけたことを知った決起部隊は、天皇が自分たちの行動を認めていないこと、そして、陸軍上層部はもはや味方ではないことを確信した。

【決起部隊と海軍の交渉決裂】
 同じ頃、決起部隊と面会を続けていた海軍・軍令部の岡田為次中佐は、交渉が決裂したと報告する。
 「交渉の結果は、決起部隊の主旨と合致することを得ず 決起部隊首脳部より『海軍をわれらの敵と見なす』との意見」。
 「海軍当局としては直ちに芝浦に待機中の約三ヶ大隊を海軍省の警備につかしめたり」。

 決起部隊は天皇に背いたと見なされ、陸軍上層部から見放され、期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍。決起部隊との戦いが現実のものとなろうとしていた。

【香椎浩平戒厳司令官が武力鎮圧に向かう】
 午前5時半、香椎浩平戒厳司令官は説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていたが、次第に流れは武力鎮圧の方向に向かっていき、堀丈夫第一師団長に「蹶起部隊の撤去」を発令した。

 6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。

 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。

 午前9時頃、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した。

【五中隊の小林美文中尉が安藤大尉に忠告】
 午前6時、五中隊の小林美文中尉がきて安藤大尉に告げた。「安藤大尉殿、間もなく総攻撃が開始されます。もし大尉殿がここを脱出されるようでしたら自分共の正面にお出下さい。我々は喜んで道を開けますから」。「有り難う、御厚意に感謝する 」。時間の経過と共に緊張が高まり兵士はみな悲壮な覚悟を決めた。

 「小林美文中尉・それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません」。
 二十八日午前六時頃、福吉町附近に新井中尉が、第十中隊を指揮して配備に就いて居りますので、隣接中隊の関係上、大隊長にお願いして 新井中尉の許に連絡に出かけましたが、途中から新井中尉の所へ行くのは止めて、幸楽に居る安藤大尉の所に行く気になりました。大隊長は大隊本部の位置におらずに、説得のみ歩いて居るので、私もじっとして居られず、此の以前に一度大隊長に行動隊へ説得お願ひしましたが、御許しがないので、其の儘になつて居りましたが、新井中隊へ連絡に行く心算で出で、福吉町の所へ行く途中、何とはなしに幸楽の方へ足が向いて行きました。私は安藤大尉に対する説得は駄目だと聞いて居りましたから、説得はせずに、次の話を交はしました。安藤「 よくきて呉れた」。小林「 私は貴兄を説得は致しません。唯、聯隊の将校は皆全知全能を絞って文字通り真剣になつて居ります。貴兄の所謂 昭和維新と言ふのも出来た様に思ひます。私としては、是非聯隊の方に帰って来て戴き度いと思ひます」。安藤「 さうか。然し、近衛の方は猛烈に攻勢の意図があるし、幕僚等のやることがどうもお可笑しい。我々は小藤大佐の指揮下に在り乍ら、野中大尉が真崎大将と直接交渉して、小藤大佐が中に這入って居らぬ等、どうも幕僚のする行為は分らぬ事が多いから、頑強に抵抗しようと思ふ」。小林「 頑強に抵抗するなら、此の配備を突破したら良いでせう」。安藤「 突破して聯隊に行こうかと思ふ」。小林「 それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません」。安藤「 秩父宮殿下が御出になつて居られるを見たが、誰か聯隊の者が行って呉れゝば、直ぐ解決するのだがなあ。此の事件を起こすときには、予め殿下に連絡すれば、直ぐ御出になると言はれて居ったがなあ。誰か行って呉れないかしら」。「 主謀者は自決し、兵は返すと言ふことなら、話が分かるが、麦屋少尉外 新任少尉三名は自決を許して貰い度い」と 言ひました。次いで、安藤大尉が、高橋少尉に遭って来いと言ひますので、高橋少尉の寝て居る所に行きまして、「 どうした 」 とか 何とか掛声をしまして、一寸安藤さんとの会話の事柄を話した様な気持もしますが、兎に角 二、三分 煙草を吸ひながら、無言の行で顔を見合せつ、同じく其処へ寝て居る 坂井中尉、麦屋少尉とも顔を見合せた儘、直ぐ別れました。其後、安藤さんも探しましたが、見当らないので、安藤さんに逢はねば済まない様な気がしましたので、洗面中の高橋少尉に 安藤さんに宜しく伝へて呉れ、と申しまして、幸楽を出て行きました。

 « 二月二十九日 »午前一時頃大隊長である伊集院少佐が説得に来た儘要領を得ませんで、大隊長の様子を見に行く為に山王ホテルに出かけました。山王ホテルの玄関の所へ行って見ると、伊集院少佐と安藤大尉、山本又予備少尉と三人で激論して居りました。其処には内堀大尉、河野薫中尉も居りました。その時 警備司令部の少佐参謀が来まして、安藤大尉に、「 兵の前で自決しろ 」 と云ひました所、安藤大尉は憤慨しました。其処で、伊集院少佐が 「 大隊長が命令するから、兵の前で自決しろ 」 と云ひましたので、安藤大尉は自決することになりました。其の時、村中、磯部が居るのも見ました。又、栗原中尉、丹生中尉、香田大尉の居るのも見ました。

【村中大尉が吉報を吹聴】
 10時、村中大尉が吉報をもってきた。「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」。次いで地方人池田氏 ( 神兵隊事件関係者 ) がきて種々援助をしてくれた。

【蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合命令】
 同時刻頃、小藤大佐の名に於て蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合命令かかる。しかし安藤大尉は頑として応ぜず、今ここを離れたらどんなことになるか判らないと判断し、坂井中尉を代理として LG一コ分隊、小銃一コ分隊をつけ自動車で差出す。 
 
昭和維新・山口一太郎大尉 (3) 27日」は次の通り。
 「小藤大佐の名に於て発令致しました。栗原、中橋、田中/首相官邸及農相官邸。丹生/山王ホテル。安藤、坂井/幸楽。其他、鉄、蔵/文相官邸。斯くして部隊は午後八時頃迄、右往左往した事は誠に気の毒に思ひます。然し各部隊共小藤大佐の宿営命令に良く從って呉れまして、副官役を致して居ります私としては涙の流れる程嬉しくありました」。

【杉山次長が侍従武官長に討伐決定を伝達】
 午前11時、香椎の決心を見届けた杉山次長は、 参内して、侍従武官長にいよいよ兵力を使うことになった旨を伝えこれが伝奏方を依頼した。愈々 討伐することになった。ところが 十一時四十分頃になると、第一師団から現態勢においては攻撃不可能なりとの報告がなされた。正午頃、荒木、林、寺内、植田の各軍事参議官は打ち揃って憲兵司令部に杉山次長を訪ねて討伐回避を申言した。次長は兵力使用のやむなきを説明したが、林大将は、「 彼らの考えているところを汲んでやるような考慮されたい 」と意見を述べた。事態はなかなか統帥部の考えているようには運ばなかった。

 また、同じ頃、真田戒厳参謀は統帥部に意見を具申した。それは反乱部隊がわれわれ将校に敬礼するようになった。反乱兵士と話して見ると往々にして泣くものもある。反乱将校十三名は師団長の命令に服従しますという一札を入れた。そこで第二師団、第十四師団よりの兵力増派の件は上奏を見合わされたいというものであった。いわば情勢の好転を伝えるものであったのだ。その反乱将校が師団長に服従するとて一札を入れたというのは誤伝ではあったが、しかしその頃には確かに兵隊たちは 蹶起当日の興奮からさめかけていた。

 だが、統帥部は依然討伐方針を堅持し、午後三時には第二師団、第十四師団の一部、諸学校よりの兵力召致の件を上奏 御裁可を仰いだ。この拝謁の際、次長は、すでに討伐に決し着々実施中なる旨を言上した。ところが、戒厳司令部は第一師団の準備が整わないことを理由に、二十八日の攻撃は不可能という。あわてた統帥部は あくまでも攻撃即行を強要したが、そのうちに今から開始しても野戦となり かえって戦闘の終結を遅らし、かつ、混乱と損害を増大することとなるおそれがあるので、総攻撃は二十九日払暁に延期することになった。次長は戒厳司令官を同道して 再び参内しこれが延期方につき陛下のお許しを得た。(大谷敬二郎「二・二六事件 」)

【討伐作戦を練る】
 ) 奉勅命令出て討伐に決した時、軍事参議官中の某より、「 何としても流血の惨を避けようではないか、其方法としては 維新断行に関する御沙汰書を戴き 之を彼等に示せば速に納まらん 」と 強硬なる意見あり。しかし「自分 及び 他の軍事参議官は今 奉勅命令を頂き 直に之と反対の御沙汰書を頂くは不可なりと反対す」。
 こうして、討伐の方法が検討されることになった。既に討伐に向けて佐倉、甲府連隊が上京しており、さらに仙台駐屯の第2師団、宇都宮駐屯の第14師団からの兵力抽出も決定されていた。奉勅命令には歩兵第一師団に討伐するよう命じられていたが、参謀本部では歩一、歩三をアテにせず地方連隊による討伐を計画していた。歩兵第1連隊長の小藤大佐は自分の職責、そしてなにより軍首脳の意向、省部の意向を誰よりもよく知っていたので事件の帰趨を察知して、事件が片づいたら辞めると覚悟していた。討伐命令が下されれば、「討つも歩一、討たるるも歩一」という連隊長として悲痛な運命が待っていた。

 会議が討伐でまとまるのをみて、石原大佐はただちに命令受領者の集合を命じ、即時攻撃の開始を伝えようとした。戒厳司令部の安井参謀長がまず「奉勅命令の徹底が充分でないおそれがある」として、しばらく発令を見合わせさせた。そうしていると今度は堀第1師団長が「大臣告示の趣旨実現に努めたく、また流血を避けるため説得に努めるから、奉勅命令の下達時機は第一師団長に一任されたい」と申し出があり、香椎がこれを認め、堀師団長は陸相官邸に出掛けて叛乱軍将校の説得を始めた。

【栗原中尉の将校だけ自刃論】
 どの時の会談かはっきりしないが、最後に栗原中尉が次のように提言している。
  「『私共は陛下の御命令に従ひます』と奏上して戴きたい。若しそれで撤退せよとの御命令であれば潔く撤退し、又死を賜はると云ふ事であれば、勅使の御差遣を願って将校だけ自刃しやうじやありませんか」。

 一同暗涙をのみ山下少将、鈴木大佐も感激して別れた。

【反乱軍の自決の申し出を昭和天皇が拒絶】
 正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。山下の教唆をうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。

 山下奉文少将(陸軍省軍事調査部長)が川島陸相と堀第一師団長を説き伏せ、宮中に参内して本庄侍従武官室を訪ね来て、「青年将校が陛下に罪を謝するために自決(切腹)する覚悟であり、下士官以下は直ちに原隊に帰営させる。その罪のお許しを願っていること。自刃にあたり特別のお慈悲をもって侍従武官の御差遣(勅使派遣)を賜い、彼らに死出の光栄を与えてくれるよう」伝奏を申し入れた。

 本庄は事件発生以来の軍の処置に対しお上はご不満の様子だから出来ないと断ったが、山下の熱意におされて伝奏をひきうけた。川島陸相と山下少将の仲介の意を受けた本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は激怒し、「本庄日記」によると次のように述べている。
 「・・陛下に伝奏せし処、陛下には非常なる御不満にて、『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、かくの如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』と仰せられ拒絶した」(「本庄日記」)。

 また本庄は、第一師団長の堀丈夫が「部下の兵を討つに耐へず」と述べているとも伝えた。すると天皇は、次のように御返答された。
 「『師団長が積極的に出づる能わずとするは、みずからの責任を解せざるものなり』と、未だかつて拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命をこうむる」(「本庄日記」)。

 昭和天皇がここまで感情をむき出しにしたケースは珍しかった。

 この件に関して「昭和天皇独白録」は次のように記している。

 「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」。


 「木戸幸一日記」にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使 なぞ、以ってのほかなり」とある。

 これで叛乱軍将兵の希望は潰えた。これを受けて戒厳司令部では速やかに討伐準備が整えられていった。

 この時の山下の行動が天皇の心証を害してしまった。陛下は先の返答につづけて、「そのようなことで軍の威信が保てるか。山下は軽率である」と、普段臣下を名指しで批判したことのない天皇が言った。それを耳にした山下は愕然としたという。宮中を下がる悄然たる姿は同行した川島陸相の脳裏にも深く残っていたほどだ。後日、「山下は陛下に嫌われている」と軍中央で噂されるようになったのもこの一件による。

 その一方で、同日、難を逃れた岡田啓介首相が参内すると、天皇は「よかった」と述べるとともに、その自決などを心配して、広幡忠隆侍従次長に「岡田は非常に恐縮して興奮しているようだ。周囲のものが、よく気をつけて、考えちがいのことをさせぬように」と配慮する言葉をかけている(「岡田啓介回顧録」)。両者にたいする態度の違いは実に天地の差だった。

【投降か決戦か問答】
 蹶起将校の自決論によって事件の無血鎮定の見込みがつき、皇軍相撃の惨事が避けられるかに見えたのも束の間、事態は逆転した。それは磯部の強硬な反対と説得、北一輝の霊告、安藤の闘志の三要因によった。将校らは栗原の意見を了承したが、まかり間違えば自決、撤退の道だった。村中は香田とはかって将校全員を至急官邸に集合するよう手配した。その集合を待っている時のこと、ある将校が集合理由を村中に問うた。村中は、「 自刃でもせねばならん形勢になりつつあるので、皆に相談したいのだ 」と答えた。傍らでこれを聞いた清原少尉は、「なんというざまだ」と憤慨して席をけって安藤のところに走った。村中は安藤らの来着を待たないで、一同にこれまでのいきさつを説明し、「こと、ここまでくれば、あるいは自決せねばならなくなるかも知れない。そのときはいさぎよくお互いが自決しよう」と一同にはかった。磯部が即座に「オレはいやだ」と拒否した。そして、香田、栗原を各個に個室につれていって説いた。「一体君らは本当に自決する気なのか。そんなバカな話はないじゃないか。オレが栗原の意見に賛成したのは自決するというところではない。統帥系統を通してお上に我々の真精神を申し上げ お伺いするというところだ。山下、鈴木、山口らは何か勘違いしているのではないか。いま我々が自決したのでは兵はどうなるんだ。何もかもブチこわしになる。自決なんていうことは全く理由のないことだ」。栗原、香田は翻意した。一方で鈴木、小藤らに撤退を説得され、やむなく撤退あるいは自決を決意した者も出ていた。同志の足並みが乱れてきた。

 これより先、村中は安藤がいつまでも来邸しないので、彼に参集をうながそうと幸楽に行った。そこでは戦闘準備を整えて殺気が充満していた。下士官兵は村中をおさえて安藤に会わそうとしない。やむなく彼は遠くから呼びかけた。
「安藤、何事だ ! どうしたんだ !」。
「前面の近衛部隊が攻撃を開始しようとしているんだ。オレの方も今出撃するところだ」。
「それはいかん、しばらく待て ! オレのいうことを聞け ! 」。
「何をいっているのか、この前の状況を見よ、君らは自決するならしたらよいだろう、オレはあくまで戦うのだ」。
「とにかく、もう一度相談してくるからそれまで出撃することだけは待ってくれ」。

  村中は安藤に峻拒され、他の同志の力を借りてさらに説得しようとし、急いで官邸に引き返した。彼が官邸に入ると、磯部と栗原が、「我々は自刃することを本旨としたのではない。陛下の御命令に従うということだ。栗原から山下に答えたのもこの意味なのだ。我々今自決したのではこの維新はどうなるんだ」と攻めたてた。 村中も、「その通りだ。我々は大命によってその行動を律して行けばよい」と彼らに同意した。そこで村中は、また このことを同志にはかろうとして、あたりを見渡したが、すでに大部分の同志はいなかった。彼らが対談中に、「戦争だ ! 戦争だ ! 幸楽に集まれ ! 」と伝えたものがあって、香田大尉をはじめ参集した将校たちは、続々幸楽に走ってしまっていた。

 村中が茫然とつっ立っていると、電話が鳴った。彼が電話室にとび込むと、「自決するという話があるが決して早まってはいけない」と、北のおだやかな声だった。村中がすがりつくように、「奉勅命令が出て我々を討伐するということですが、その真偽がはっきりしなくて困っています」。「奉勅命令は多分おどかしでしょう。なぜなら、いやしくも戒厳部隊に編入された部隊に対し討伐ということはあり得ないことです。多分おどかしの手だから君らはそれにのせられないで、一旦蹶起した以上はその目的達成のために、あくまで上部工作をやりなさい。また 自決云々のことも、もし、君らが死ぬようなことがあったら、私たちとて晏如として生きてはおれんのだからこれらの処理をよくわきまえて、あくまで目的貫徹に進みなさい」と北はじゅんじゅんと説いた。「わかりました。皆にもよく伝えます」。

 北が彼らの自決を知っていたのは、既に栗原が知らせたものだった。これより、やや前、栗原は山下、鈴木らの勧告によって将校は責をおって自決のやむない状況に至ったことを電話したのである。北はこの朝、読経中、「神仏集い、賞賛々々、おおい、嬉しさの余り涙がこみあげた、 我軍、勝って兜の緒を締めよ」との霊告を得て、 快報の至るのを待ちうけていたのに、その形勢の逆なのに驚いて、「自決するなんて弱気ではいけない、昨日の軍事参議官の回答を待つべきだ。自決は最後の手段、いまはまだ最後の時ではない、決して早まってはいけない」と栗原に教えたのであった。このように、一旦きまったかに見えた自決論は逆転して再び流血必死の情勢となった。

【安藤隊の料亭幸楽での民衆とのやり取り】
 自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届いた。安藤、安藤隊は激怒し、自決と帰営の決定事項を拒否し戦闘を覚悟し悲壮な気持ちで背化等準備に掛かった。
 午後〇時20分、安藤中隊長は遂に戦闘準備を宣し、一同勇躍して出陣に就いた。襷掛けの悲想な出陣となつた。兵隊との別れの握手、実に見る者をして涙ぐましめたり、民衆は之を見んものと道路を埋めた。折しも雪はチラチラと降りしきり、悲壮な最後の出陣に相応しきものがあった。安藤中隊長も最後の握手を兵隊達と交わした。
 安藤隊が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃、幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」 と叫んでいた。丁度歩一の栗原中尉がきていたので、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
 「皆さん!我等のとった行動は皆さんと同じであなた方にできなかったことをやったまでである。これからはあなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい」、「我々は今や尊皇義軍の立場にありますが、これに対して銃口を向けている彼等と比べて、皆さん方はいずれに味方するか、もう一度叫ぶ、我々は皆さんにできなかったことをやった。皆さん方は以後我々ができなかったこと、即ち全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、どうですか、できますか?」。

 すると民衆は異口同音に 「できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる」 と 感を込めて叫んだ。続いて安藤大尉が立ち簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。堂込小隊の血旗 「 尊皇討奸 」背負はせ、下士官が日本刀を持ち半紙二枚の声明書を群集に向って次のような文面を朗読した。
 「尊皇愛国の精神を説き軍人にして財閥と通じ皇軍をして私兵化せしむる如き国賊は之を排除し、その他国家の賊物を悉く打ち斃し、次いで国家の安泰を計るが目的である云々。諸君 吾々は歩兵第三聯隊安藤大尉の部下である。吾々は之より死を覚悟して居るものである。而して私の希望は何物もない。吾々には国家の為に死ぬものである。遺族の事は何分頼む」。

 この時、一般群衆が数百名おり口々に次のようにエールしている。甲/是れから尚国賊をやつて仕舞へ。乙/愛宕山の放送局を占領して今の声明書を全国に知らして下さい。丙/買収されるなよ。丁/腰を折るな確かりやれやれ。戊/妥協するな。大勢御苦労であった。群衆の声「 諸君の今回の働きは国民は感謝して居るよ」。幸楽の前に民衆が黒山の如く集まり口々に、「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」と叫んだ。歩一の栗原中尉がきて、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
 「われわれは天皇陛下の軍人として、上は元帥、下は一兵卒に至るまで、一切を挙げて陛下にすべてをお委せすれば、現在のように腐敗堕落せる政党、財閥の巨頭連中を一掃して、皆さんの生活は必ず良くなる。今回の蹶起は下士官、兵もすすんで強力したもので、下士官、兵の声は皆さんの声であります」、「皆さん!我等のとった行動は皆さんと同じであなた方にできなかったことをやったまでである。これからはあなた方が我々の屍を乗越えて進撃して下さい 」、「 我々は尊皇義軍の立場にありますが、これに対し銃口を向けている彼等と比べて、皆さん方はいずれに味方するか、もう一度叫ぶ、我々は皆さんにできなかったことをやった 」、「 皆さん方は以後我々ができなかったこと、即ち全国民に対する尊皇運動を起こしてもらいたい、どうですか、できますか?」。

 民衆は異口同音に、「できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる」と 感を込めて叫んだ。続いて安藤大尉が立ち、簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。民衆は二人の演説に納得したのか万歳を叫びながら徐々に散っていった。
 幸楽で次のようなやり取りが交わされている。
 「紺の背広の渋川が熱狂的に叫んだ。『幕僚が悪いんです。幕僚を殺るんです』。一同は怒号の嵐に包まれた。何時の間にか野中が帰って来た。かれは蹶起将校の中の一番先輩で、一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。『野中さん、何うです』。誰かが駆け寄った。それは緊張の一瞬であった。『任せて帰ることにした 』。野中は落着いて話した。『何うしてです』。渋川が鋭く質問した。『兵隊が可哀想だから』。 野中の声は低かった。『兵隊が可哀想ですって・・・・全国の農民が、可哀想ではないんですか』」。渋川の声は噛みつくようであった。『そうか、俺が悪かった』。野中は沈痛な顔をして呟くように云った」。
 午後1時頃、村中大尉がきて安藤大尉に「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった」と 悲壮な覚悟を示した。すると安藤大尉は一瞬ムッとした表情で次のように𠮟責している。
 「今になって自決とは何事か、この部下たちを見殺しにする気か。軍幕臣どものペテンにかけられて自決するなど愚の骨頂だ 」、「 俺は何といおうとそれらの人間とあくまで闘うぞ」、「 俺は最後までやる」。

 村中大尉の報告を立ちどころに一蹴し決意の程を表明した。安藤大尉は蒼白となり、戦闘準備を宣し、皆な中隊長とともに死ぬ覚悟で白襷掛けになった。

【決起将校に対する個別陥落作戦始動】
 「渋川善助証言」
 「坂井、高橋、麦屋の三人が別室で同志以外の将校に説得されて居るらしいので、中橋、池田等が迎へに行ったが帰って来なかったので迎ひに行ったが、夫れでも帰って来ませんでした。今度は同志が 「私に行け」 と申しますので行きまして、「生死一如の翼賛」を説き三人共漸く諒解して呉れました。私は安心して皆の所に帰ろうとしますと、憲兵が 「皆の処にお連れするから」 と欺いて別室に拉致し、施縄しました」。

 高橋太郎少尉証言
 「「生死は何処迄も同志と共にして呉れ、やるなら是非同志と会て呉れ、我等も勿論死は期して居る、同志全部が一緒に自決しやうではないか」とて我等の挙を止め、次で渋川善助来り 「生死は一如なり」 とて我等を諫めたので同志に会ふことに決めました」。

 池田俊彦少尉証言
 「皇軍の衝突による犠牲者の発生を協議の結果、中橋中尉、中島少尉、林少尉、池田少尉の四名は徒歩で首相官邸を出発、途中より、自動車で陸軍大臣官邸に赴き、栗原中尉、田中中尉 は官邸に残って居りました。当時陸相官邸には、坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉、が居りましたが、後から、野中大尉、対馬中尉、竹島中尉、常盤少尉、清原少尉、鈴木少尉、渋川氏が来たので合計十四名が一室に居りましたが、野中大尉及渋川氏は何処かへ出て行きましたので十二名になりました。室内には多数の将校が来て「血を流さないでよかつた」と申されましたが、中には「切腹しろ、切腹しろ」と云ふ人もありましたが、今死んでは犬死になるから自決しなかつたのであります。即ち、一旦国法に反した以上、刑罰を受くることは元より覚悟の上で、生命など問題にして居りませんが、せめて公判を通じて吾々の精神を国民に知悉せしめ、国民の皇国精神を勃興して終りを遂げたいと思ったので自決しなかつたのであります」。

 麦屋清済少尉証言
 「坂井中尉殿は下士官を二分して編成を替へ、自ら紀ノ国坂を下り赤坂見附を通って平河町の市電停留所付近に至り停止を命じました。私はその間、先頭の坂井中尉殿と一緒に参りました。丁度その時は明るくなりかけて居た頃で五時半頃であつたと思ひます」。

 昭和維新・山口一太郎大尉(4) 28日
 「師団長閣下の命令に依り、参謀長室に拘禁されました。爾後私は一切の自由を奪はれました。其の命令と言ふのは小藤大佐に命令して、貴官の任務を解き、本属に帰らしてやると云ふことでした」。

【戒厳司令部は奉勅命令は伝達できず】
 午後1時半頃、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。

【安藤隊の遺書】
 午後3時頃、山岸伍長が郵便葉書を各人三枚ずつ配った。「家族に遺書を書け」 という。

 市瀬操一・二等兵の遺書
 「愈々時期切迫し、生か死かの境に立つ。勝てば官軍 敗ければ賊軍だ。これより戦いに行く。勿論必死三昧の気だ。 では ごきげんよう。元気で戦います」。

 「 必死三昧」 は日蓮主義だった安藤がつけた六中隊の標語だった。
 大谷武雄・初年兵の遺書
 「我々は今 昭和革新の一員として鈴木大将を討ち、反対者は徹底的に之を討つべく決心の勢いほ以て奮闘します。皆様によろしく」。

 大谷氏の留守宅は母親一人だったが、この葉書を受取って動転してしまったという。
 相沢伍長の遺書
 「生還を期せず (血書) 」。
 木下岩吉・初年兵の遺書
 「自分達第六中隊は幸楽を出発する前に貴家の父母兄弟に一通差上げます。自分達の仲間歩三、歩一、近歩三 各東京部隊は二十六日朝五時をきして政治家を夜襲しました。自分達満洲に出発する前、国賊を皆殺して満洲で戦う覚悟であります。自分達中隊長初め国の皆様に国賊と言われるか又勤皇と言われるか、今議会(?) に 来て居るのであります。自分達を射つ為に佐倉の五十七聯隊が出発して居り 今三聯隊に来て居るそうであります。自分達は中隊長殿初め国賊と言われたら皆脈を切って死ぬ覚悟であります。自分達が真でから母国の皆様によくわかると思います。自分達もこの東京で死ぬ覚悟でありますから、もし生きて居ましたら 御書面差上げます。父母兄弟御身大切に。さようなら」。

【安藤隊が出陣せんとした折、吉報が入る】
 午後4時、安藤隊が出陣せんとした折、吉報が入る。「皇族会議の結果、 我々の勤皇の行動を認める」との中隊長の伝達があり、一同どっと喜の声が挙がった。兵士は実包を抜きとり始め、志気作興のため演芸会を開催した。

 夕方、吉報が舞い込んだ。今日陛下と伏見宮様がこん談され、陛下も尊皇軍をよく解って下さったようだというもので、これを受けた安藤大尉はニッコリして、「明日は逆転するぞ。みておれ、反対に悪臣たちに腹を切らせて我々が介錯するのだ」 と、いった。大阪から在郷軍人団がやってきた。彼等は早速附近に集っていた民衆に熱弁を振るい協力を求めていた。

【戒厳司令部は武力鎮圧を表明】
 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除した(同第11号)。

【陸軍大臣通達】
 28日の夕方、三宅坂台上一帯は立退きを始めていた。赤坂見附、半蔵門、警視庁等各方面には、戦車を先頭に鎮圧軍隊はその包囲網を縮小して、交通通信はすべて断たれ、騒擾部隊は外部との連絡は完全に不可能となった。二十八日午前五時奉勅命令の下達をうけた戒厳司令官は、なお兵力使用に躊躇していたが、統帥部の反対にあって、ついに討伐にふみきった。だが、第一師団の討伐準備遅延が禍してその日の攻撃開始は二十九日払暁に待たなくてはならなかった。

 この夕六時、陸軍大臣は在京師団長に対し左の通達を行った。
 「今次三宅坂占拠部隊幹部、行動の動機は国体の真姿顕現を目的とする昭和維新の断行にありと思考するも、その行動は軍紀を紊り国法を侵犯せるものたるは論議の余地なし。当局は輦轂の下同胞相撃つの不祥事をなるべく避け、なしうれば流血の惨を見ずして事件を解決せんとし、万般の措置を講じたるも、未だその目的を達せず、痛く宸襟を悩し奉りたるは恐悚恐懼の至りに堪えず。本職の責任極めて重且つ大なるを痛感しあり。陛下は遂に戒厳司令官に対し最後の措置を勅命され、戒厳司令官はこの勅命に反するものに対しては、たとえ流血の惨を見るも断乎たる処置をとるに決心せり。事ここに至る、順逆おのずから明らかなり。各師団長はこの際一刻も猶予することなく、所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ後害を胎さざるに違算なきを期せられたし」。

 この通達は始めてこの事件に対する陸軍の意思を部内に示したもので、特に、その末尾にある「所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ」とあるのは、いわゆる散在する地方青年将校の蠢動に対する弾圧を意味するものであり、こうした通達をうけては、もはや第一師団も部下の情誼とかお互いの撃ち合いとかを理由に討伐を回避することを許されなかった。

【戒厳司令部トップ会談】
 午後7時30分頃、満井中佐の提言で、戒厳司令部に荒木、林の軍事参議官と、今井軍務局長、飯田参謀本部総務部長、石原(戒厳)作戦課長、川島(元)陸相、杉山参謀次長が集まった。石原が強硬に軍事参議官の干渉を拒絶し、退席させようとした。荒木は、「一同相談の結果、叛軍を武力討伐するにおいては、きわめて重大な影響あるにつき、ここに次の意見を出す」と前置きし、皇軍相撃を避けよと力説したが、石原は頑と動じず、遂に二人を退席させることとなった。
 林、荒木 両参議官が退場し、大臣、次長、局長、部長、戒厳司令官らの首脳部のみが残った。その席で、戒厳司令官・香椎浩平は 改まった態度で次のように述べた。
 「(決起将校の精神について)全く昭和維新の精神の横溢なり。深くとがむべき限りにあらず」。
 「この機会に及びて平和解決の唯一の手段は、昭和維新断行のため御聖断を仰ぐにあり。自分は今より参内上奏せんと考う。上奏の要点は、昭和維新を断行する御内意を拝承するにあり。目下の情況においては、叛乱軍将校は、たとえ逆賊の名を与えらるるも奉勅命令に従わずという決心を有す。奉勅命令未だ出しあらざるも、これを出すときは皇軍相撃は必然的に明らかなり。兵にまったく罪はなし。幹部の責任のみ。しかして罪は独り将校の負うべきものにして、罪は軍法会議において問えば可なり。しかも 将校とても その主張する主義精神は全く昭和維新が横溢(おういつ)している。深く咎むるべき限りではない。また 場合によっては 後に至り大赦をおおせ出されることも考えられる。元来、彼らは演習名義にて出動せるもので他意はない。もしこれに対して兵力を使用せんか、弾丸皇居に飛び 外国公館に損害を与え無辜むこの人民にも負傷させることになろう。本来自分は彼らの行動を必ずしも否認せざるものなり。特に皇軍相撃に至らば、彼らを撤退せしむべき勅命の実行は不可能とならん」。

 これに対し、杉山参謀次長が断固として反対し次のように述べた。
 「全然不同意なり。二日間にわたり所属長官から懇切に諭示し、軍の長老もまた身を屈して説得せるにかかわらず、遂にこれに聴従するところなし。もはやこれ以上軍紀維持上よりするも許し難し。また陛下に対し奉り、この機に及んで昭和維新の断行の勅語を賜うべくお願いするは恐懼に絶えず。統帥部としては断じて不同意なり。奉勅命令に示されたる通り兵力にて討伐せよ」。

 ここにおいて香椎中将は数分にわたって沈思黙考した。既に攻撃命令を下しながらも、まだ、奉勅命令の下達をためらっていた香椎司令官も、この統帥部の反対にあって苦しんだ。彼は皇道派の同情者であった。だが、ついに 討伐断行の腹をきめた。「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します」と言い切った。時に午前十時十分であった。ここに叛乱軍の命運は決した。

【堀師団長の説得顛末】
 堀師団長の説得に、山下少将、鈴木貞一大佐、山口大尉、栗原中尉、そして村中が同席し、いちおう撤退するということで話がまとまった。しかし、先に戒厳司令部に行っていた磯部が戻ってくるなり、「おーい、いったいどうするというのだ。いま引いたらたいへんになるぞ。絶対引かないぞ」と叫ぶ。とりあえず、堀や山下が帰った後で相談をする。

 この時、徹底抗戦派の安藤大尉、磯部らと、香田、村中、栗原の自決・撤退派がお互い論戦となった。栗原が次のように述べて提議した。
 「統帥体系を通じてもう一度お上にお伺い申し上げようではないか。奉勅命令が出るとかでないとかいうがいっこうにワケがわからん。お伺い申し上げた上で我々の進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときは勅使の御差遣くらい仰ぐようにでもなれば幸せではないか」。

 磯部も統帥体系を通じた上奏、つまり「小藤→堀→香椎→陛下」という順序でお上に自分らの真精神を伺うというのはこの際極めて的を得たものであると思い、賛成した。
しかし、陛下の大御心がまったく異なっていることを彼らは知らなかった。

【反乱軍に悲報到来】
 午後9時頃、攻撃準備を進める陸軍に、追い詰められた決起部隊から思いがけない連絡が入った。決起部隊の首謀者のひとりの磯部浅一が以前より面識ありのある陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきた。山下は磯部の2期先輩で親しい間柄だった。山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。磯部は、天皇の本心を知りたいと山下に手がかりを求めてきたのが真相だった。次のような会話をしている。
磯部 「何故に貴官の軍隊は出動したのか」。
山下 「命令により出動した」。
山下 「貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか」。
磯部 「空中に向けて射撃するつもりだ」。
山下 「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか」。
磯部 「断じて反撃する決心だ」 。
山下 「我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか」。
磯部 「本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」。

 磯部と山下の問答は噛み合わず、物別れに終わった。


【反乱軍に悲報到来】
 午後9時、悲報が到来した。明朝、鎮圧軍が軍旗を奉じ、やってくるとのこと、もし原隊に帰らなければ武力をもって鎮圧するという。最早や交渉の余地はなくなっていた。

【安藤隊が香田隊と合流し山王ホテルに陣取る】
 午後10時、安藤隊がそこで戦闘を有利に実施できるよう陣地変換に移った。幸楽を撤収、裏門から隠密裡に抜け出し山王ホテルに移動した。第一小隊は階下及び玄関、第二小隊は二、三階、指揮班は階上。窓に銃座を作り交戦の準備に入った。以後、香田大尉の部隊と協同で戦闘することとなる。

【幸楽や山王ホテルの維新義軍ビラ】
 二十八日午後より夜にかけては必死の説得がつづけられていた。だが、彼らは頑としてこれをうけつけなかった。兵隊たちはいきりたった将校や下士官の気合に支えられ、決死の覚悟で前面の包囲軍と相対峙し、その志気はいやが上にもたかぶっていた。その夜 幸楽や山王ホテルにはこんなビラが貼られていた。陸将官邸にあった蹶起部隊首脳が部隊の志気を鼓舞するために、この夜ガリ版ずりのこのビラを配ったものであった。
 尊皇討奸ノ義軍ハ如何ナル大軍モ兵器モ恐レルモノデナイ。又 如何ナル邪智策謀ヲモ明鏡ニヨッテ照破スル。皇軍ノ名ノツク軍隊ガ我ガ義軍ヲ討テル道理ガナイ。大御心ヲ奉戴セル軍隊ハ我ガ義軍ニ対シテ全然同意同感シ、我ガ義軍ヲ激励シツツアル。全国軍隊ハ各地ニ蹶起セントシ、全国民ハ万歳ヲ絶叫シツツアル。八百万ノ神々モ我ガ至誠ニ感応シ加護ヲ垂レ給ウ。至誠ハ天聴ニ達ス、義軍ハアクマデ死生ヲ共ニシ昭和維新ノ天岩戸開キヲ待ツノミ。進メ進メ、一歩モ退クナ、一ニ勇敢、二ニ勇敢、三ニ勇敢、以テ聖業ヲ翼賛シ奉レ

 昭和十一年二月二八日    維新義軍

【司令部が攻撃開始準備指令】
 午後11時、司令部が「戒作命十四号」を発令し、反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう包囲軍に下命した。
 戒厳司令部作戦命令第十四号
叛乱部隊は遂に大命に服せず、依って断固武力を以て当面の治安を恢復せんとす。
第一師団は明29日午前5時までに概ね現在の戦ヲ堅持に守備し、随時攻撃を開始しうるの準備を整え、戦闘地域内の敵を掃討すべし。
近衛師団ハ明二十九日午前五時マデニ概ネ現在ノ戦ヲ守備シ随時攻撃ヲ開始シ得ルの準備ヲ整エ戦闘地域内ノ敵ヲ掃蕩スベシ、又師団ハ主トシテ禁闕守衛ニ任ズルノ外、依然戒厳司令部附近ノ警備ヲ続行シ且特ニ桜田門附近ヲ確保スベシ。
攻撃開始ノ時機ハ別令ス。五、第十四師団ハ二十九日午前五時マデニ靖国神社附近ニ至り待機シアルベシ。 

 戒厳司令官  香椎浩平

 だが、この命令は反乱部隊には下達されることはなかった。戒厳部隊に編入され麹町地区警備隊としてこれが警備に任ずるように命令されていた反乱部隊には、その戒厳部隊から除外されることもなく、また警備の任務も解かれることはなかった。そして彼らは、その同じ戒厳部隊から包囲され攻撃されたのであった。ここに重大な指揮の混乱がある。

 この戒厳命令に基づいて、第一師団では、佐倉部隊主力に砲兵工兵を加えて左翼に、そして第二旅団長工藤義雄少将を長とする佐倉の一個大隊、歩兵学校教導聯隊、工兵第十四大隊の一部をもって中央に配し、攻撃態勢を整えた。夜十時、第一師団長は反乱部隊長小藤大佐の指揮を解いた。事態の悪化によって小藤大佐は師団長にその任務遂行の不可能を訴え「小藤大佐ハ爾後占拠部隊ノ将校以下ヲ指揮スルニ及バズ」として解任になった。
 奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。
 蹶起部隊を出している歩一と歩三が相討ちの犠牲と惨害を避けるべく活発に説得交渉を続けた。歩三では、部隊長が先頭に立ち佐官級の将校や古参大尉らがそれぞれ上官と部下との系列をたどって戦線をかけ廻った。十二月まで部隊長だった参謀本部課長の井出宣時大佐もその責任を痛感して、安藤中隊や野中中隊を訪ねて説得に積極的だった。歩一では、小藤大佐が反乱部隊を指揮していたので、聯隊付中佐が主として対策を練っていた。栗原や丹生に対する怒りよりも山口大尉に対して憤慨するものが多かった。山口が週番司令としてやすやすと部隊を出動せしめたのだ。あいつこそ聯隊の歴史を汚した元兇だ、山口がかえればたたき殺してやるといきまいていた。小藤大佐に対しても反感をもっていた。聯隊長があまり若い者をあまやかすからこういうことになるのだとつぶやく将校もいた。しかし、彼らを連れ戻すことにはあまり熱心でなかった。小藤大佐は二十八日夜、その指揮権を解かれてから みずから第一線の兵隊たちを説得して歩いていた。

 軍事課長村上大佐は皇道派に好意をもつ幕僚として位置づけられていた。事実、二十六日以来の村上大佐の行動には反乱軍支援の疑がわしいものがあった。宮中での参議官会同の席につながり大臣告示の立案にも関与していたし、もともと、大臣の政治幕僚としてこの事態を契機として維新に進むべきだとし「蹶起部隊を叛徒と認めてはならない」との意見を大臣に具申したとも伝えられていた。その村中大佐が、正午頃、安藤大尉に維新の大詔なるものを示して撤退をすすめている。第一線で最も強硬なのは安藤大尉だと信ぜられていた。従って、安藤の占拠していた幸楽にはひっきりなしに説得使がやってきた。

【「戒作命十四号」余話】
 夜、新井中尉が配置部署を離れ部下の中隊を率いて靖国神社に参拝した。軍当局は、事件前に叛軍の会合に出席していたこともある新井中尉に対し極度の警戒をもって受け留めた。この行動により新井中尉は事件後、禁固6年の刑を言い渡されている。新井中尉はこの判決は不当だと抗議した。
 また、東久邇宮を擁して叛乱軍が攻撃を開始するとウワサが流れ、戒厳司令部は東久邇宮邸を戦車4台を含む部隊で包囲した。名目は保護・警戒ということだった。相沢事件の際、相沢が上京して永田軍務局長を斬殺しようとするとき、わざわざ大阪の第4師団長の東久邇宮と面会してから行ったという経緯があるので、皇道派との結びつきを警戒していたことになる。

【鎮圧軍の包囲網】
 翌29日(土)の決戦に向けて鎮圧軍では石原戒厳参謀の指揮の下で着々と包囲網を布く。赤坂見附交差点には甲府の歩四九聯隊、「幸楽」に対するは歩三聯隊残留組、山王下電停には宇都宮の歩五九聯隊が布陣した。さらに応援部隊が続々到着の手筈だ。水戸の歩二聯隊は夜9時に渋谷駅、高崎の歩一五聯隊は同時刻に新宿駅、さらには富士山麓で演習中の歩兵学校教導隊が零時に両国駅。とりわけ千葉習志野に駐屯地がある教導隊は猛訓練を積んだ最新鋭エリート部隊。両国に到着すると、装備を背負って現場までの約一〇キロの距離を駆け足で夜間行軍、未明までに展開を終える予定とされた。重機九挺(うち空砲銃身三)で武装した決起軍最大の拠点、首相官邸を攻略する想定だ。

【決起軍を支援する街頭演説】
 こうした緊迫感のなかでも鎮圧軍の兵士たちは庶民の行動にまでは干渉しなかった。それゆえ阻止線を越えて、永田町界隈に群衆が五〇〇〇人は流れ込む。数は万に達したという説もある。あちこちで街頭演説が行われていた。夕刻、民間人の渋川善助ら数名の者がきて幸楽前の大通りに集った群衆に対し大演説を行った。大喝采の声が四囲に響き渡るほどの白熱的な情況であった。「明朝は皇軍相撃もやむなし!」。大群衆を前に次々に演説する蹶起将校や下士官たちの声は上ずっていた。白鉢巻きに白襷姿の歩三大六中隊の下士官たちがとりわけ眼を引く。「天下無敵、山田分隊」 と書かれた大日章旗を掲げる山田政男伍長(20)率いる一隊だ。「尊皇討奸」と認めた赤い幟を持つ兵を従えて移動した。そのあとをゾロゾロと群衆が従う。あたかも街頭野外劇を俳優と共に移動しながら楽しむ観客のようだ。

 大部隊が駐屯する料亭 幸楽 には、ピリピリした殺気が漲った。赤坂見附交差点から五〇〇メートルほど溜池方向に進んだ門前には「尊皇討奸」と大書した白い幟が林立する。軽機関銃が備えられ白襷、白鉢巻で安藤中隊の一〇名もの歩哨が着剣し厳戒にあたった。中庭には薪火が二か所で焚かれ残雪にあかあかと反射する。幸楽の門前の雑踏に、一台のサイドカー がエンジンの音も高らかに止まる。運転席には陸軍中尉の制服の将校が乗り、横の座席には日の丸の鉢巻に日本刀を背負った若い将校が鎮座している。上半身はシャツのままで上着は腰に巻き付け伊達ないでたちだ。凛々しく端整な顔立ちは寒さと緊張感でことさらに引き締まっている。たちまち黒山の人だかりとなった。いかにも決戦の雰囲気が感じられたからだろう。「兵隊さん!頑張って日本を良くして下さい」。どこから来たのか、乳飲み子を背負い引っ詰め髪の女が金切り声で叫ぶ。さらに若い職工風の菜っ葉服を着た男が手を差し伸べた。機関車の運転手か「私たちが後ろにいますよ、応援します!」。若い将校に向かって人々は口々に訴える。どの表情も真剣でしかも輝いていた。

 これが森伝と中橋中尉との最初で最後の出会いだった。サイドカーを運転していたのは田中中尉。二人は明朝の決戦を前に鎮圧軍の包囲網を偵察するため占拠地域を見回っていたのだ。この夜、無名の庶民たちの励ましで意を強くしたのだろう。中橋は次々に手を差し伸べ握手したあと、門前に置かれたテーブルに上がる。若々しい声で拳を振り上げながらの熱弁だった。
 「皆さん、最後のアピールです。明朝、決戦が待ち受けています。生きて永らえることは毛頭考えていません。決死の覚悟です。ですが私たちには大義がある!それは腐敗した日本を壊して、明治維新に続く昭和維新を断行することです。実は腐っているのは政治家や財閥ばかりではありません。軍もまた腐敗しているのです。私は最近まで北満州のチャムスで抗日ゲリラの掃討作戦に従事していました。しかし関東軍には阿片の密売から上がる多額の機密費が流れ込み、軍の幹部たちはこれを私的に使い込んでいるのです。ある師団参謀長は八〇円のチップを出して飛行機に売春婦を乗せて出張したと云われます。そうした幹部にかぎって弾丸を恐れる輩が多い。怒った下士官兵が将校を威嚇する。ある中隊長は部下に後から射殺されました。公務死亡で処理されています」。
 「諸君!チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。冬は零下三〇度にまで下がる大地です。食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。ですがゲリラにも遭遇しません。これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。皇軍は腐敗し切っているのです。こんなことで満蒙の生命線は守れますか?日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!みなさん!必要なのは粛軍! それゆえ我々は蹶起したのです!」。

 地鳴りのような拍手が起こる。尊皇討奸万歳の唸りが津波のように押し寄せて来た。

 この後は【】に続く。






(私論.私見)