2.26事件史その7、鎮圧考2、28日 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日
この前は【2.26事件史その5、決起その後考】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「2.26事件史その7、鎮圧考2、28日」をものしておく。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
2.28日 | |
「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【後編】」その他参照 |
【叛乱軍が決戦覚悟】 |
早朝、情勢一変。反乱軍として鎮圧軍の包囲を受け、緊張の日中を過ごす。 |
2.28日午前0時、反乱部隊に「所属原隊への撤退」を命ずる奉勅命令情報が伝わった。晩には戦車が降伏勧告のビラを貼り付けてバリケード前を通り過ぎていった。叛乱軍も決戦の覚悟を決めて、閑院宮館、陸軍省、首相官邸、山王ホテルなどに布陣し、兵の士気高揚の為の軍歌や万歳の声が周囲に響いていた。また、叛乱軍は戦線を縮小して山王ホテル、幸楽、三宅坂での決戦を考えた。磯部は「全部隊を山王ホテルに移動しよう。あそこは背中に宮城を背負ってるから向こうは撃ってこられないはずだ、絶対勝てる」と檄を飛ばしている。鎮圧に踏み切った戒厳司令部・軍本部もこうした叛乱軍側の覚悟を感じて緊張が高まった。 |
【反乱部隊に「蹶起部隊を所属原隊に撤退させよ」の奉勅命令下る】 | |||
午前5時8分、事件発生から48時間後、「叛乱軍は原隊に帰れ」との絶対神聖なる奉勅(ほうちょく)命令が戒厳司令官に下達された。これにより2万人を超す鎮圧部隊が決起部隊を包囲する事態となった。
命令書を見ると参謀総長が命令してるように受け止められるが、参謀総長は天皇の命令の伝達者として記名されている。これがいわゆる奉勅伝宣である。この命令により、叛乱軍は原隊にもどらねば「天皇の意思に背いている」ことになり、また事態をそのままにしておくだけで勅命に抗した逆賊になった。この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれた。事態が大きく動き始めた。天皇が奉勅命令を出し、自分たちを反乱軍と位置づけたことを知った決起部隊は、天皇が自分たちの行動を認めていないこと、そして、陸軍上層部はもはや味方ではないことを確信した。 |
【決起部隊と海軍の交渉決裂】 | ||
同じ頃、決起部隊と面会を続けていた海軍・軍令部の岡田為次中佐は、交渉が決裂したと報告する。
決起部隊は天皇に背いたと見なされ、陸軍上層部から見放され、期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍。決起部隊との戦いが現実のものとなろうとしていた。 |
【香椎浩平戒厳司令官が武力鎮圧に向かう】 |
午前5時半、香椎浩平戒厳司令官は説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていたが、次第に流れは武力鎮圧の方向に向かっていき、堀丈夫第一師団長に「蹶起部隊の撤去」を発令した。 6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長や石原戒厳参謀が反対したため「討伐」に意志変更した。 朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして維新の断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させてはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。 午前9時頃、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した。 |
【五中隊の小林美文中尉が安藤大尉に忠告】 | |
午前6時、五中隊の小林美文中尉がきて安藤大尉に告げた。「安藤大尉殿、間もなく総攻撃が開始されます。もし大尉殿がここを脱出されるようでしたら自分共の正面にお出下さい。我々は喜んで道を開けますから」。「有り難う、御厚意に感謝する
」。時間の経過と共に緊張が高まり兵士はみな悲壮な覚悟を決めた。 「小林美文中尉・それなら、私の正面に来て下さい。弾丸は一発も射ちません」。
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【村中大尉が吉報を吹聴】 |
10時、村中大尉が吉報をもってきた。「 闘いは勝った。われらに詔勅が下るぞ、全員一層の闘志をもって頑張れ 」。次いで地方人池田氏 ( 神兵隊事件関係者 ) がきて種々援助をしてくれた。 |
【蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合命令】 | |
同時刻頃、小藤大佐の名に於て蹶起部隊の各指揮官に陸相官邸集合命令かかる。しかし安藤大尉は頑として応ぜず、今ここを離れたらどんなことになるか判らないと判断し、坂井中尉を代理として
LG一コ分隊、小銃一コ分隊をつけ自動車で差出す。 「昭和維新・山口一太郎大尉 (3) 27日」は次の通り。
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【杉山次長が侍従武官長に討伐決定を伝達】 |
午前11時、香椎の決心を見届けた杉山次長は、 参内して、侍従武官長にいよいよ兵力を使うことになった旨を伝えこれが伝奏方を依頼した。愈々 討伐することになった。ところが
十一時四十分頃になると、第一師団から現態勢においては攻撃不可能なりとの報告がなされた。正午頃、荒木、林、寺内、植田の各軍事参議官は打ち揃って憲兵司令部に杉山次長を訪ねて討伐回避を申言した。次長は兵力使用のやむなきを説明したが、林大将は、「
彼らの考えているところを汲んでやるような考慮されたい 」と意見を述べた。事態はなかなか統帥部の考えているようには運ばなかった。 また、同じ頃、真田戒厳参謀は統帥部に意見を具申した。それは反乱部隊がわれわれ将校に敬礼するようになった。反乱兵士と話して見ると往々にして泣くものもある。反乱将校十三名は師団長の命令に服従しますという一札を入れた。そこで第二師団、第十四師団よりの兵力増派の件は上奏を見合わされたいというものであった。いわば情勢の好転を伝えるものであったのだ。その反乱将校が師団長に服従するとて一札を入れたというのは誤伝ではあったが、しかしその頃には確かに兵隊たちは 蹶起当日の興奮からさめかけていた。 だが、統帥部は依然討伐方針を堅持し、午後三時には第二師団、第十四師団の一部、諸学校よりの兵力召致の件を上奏 御裁可を仰いだ。この拝謁の際、次長は、すでに討伐に決し着々実施中なる旨を言上した。ところが、戒厳司令部は第一師団の準備が整わないことを理由に、二十八日の攻撃は不可能という。あわてた統帥部は あくまでも攻撃即行を強要したが、そのうちに今から開始しても野戦となり かえって戦闘の終結を遅らし、かつ、混乱と損害を増大することとなるおそれがあるので、総攻撃は二十九日払暁に延期することになった。次長は戒厳司令官を同道して 再び参内しこれが延期方につき陛下のお許しを得た。(大谷敬二郎「二・二六事件 」) |
【討伐作戦を練る】 |
) 奉勅命令出て討伐に決した時、軍事参議官中の某より、「 何としても流血の惨を避けようではないか、其方法としては 維新断行に関する御沙汰書を戴き 之を彼等に示せば速に納まらん 」と 強硬なる意見あり。しかし「自分 及び 他の軍事参議官は今 奉勅命令を頂き 直に之と反対の御沙汰書を頂くは不可なりと反対す」。 |
こうして、討伐の方法が検討されることになった。既に討伐に向けて佐倉、甲府連隊が上京しており、さらに仙台駐屯の第2師団、宇都宮駐屯の第14師団からの兵力抽出も決定されていた。奉勅命令には歩兵第一師団に討伐するよう命じられていたが、参謀本部では歩一、歩三をアテにせず地方連隊による討伐を計画していた。歩兵第1連隊長の小藤大佐は自分の職責、そしてなにより軍首脳の意向、省部の意向を誰よりもよく知っていたので事件の帰趨を察知して、事件が片づいたら辞めると覚悟していた。討伐命令が下されれば、「討つも歩一、討たるるも歩一」という連隊長として悲痛な運命が待っていた。 会議が討伐でまとまるのをみて、石原大佐はただちに命令受領者の集合を命じ、即時攻撃の開始を伝えようとした。戒厳司令部の安井参謀長がまず「奉勅命令の徹底が充分でないおそれがある」として、しばらく発令を見合わせさせた。そうしていると今度は堀第1師団長が「大臣告示の趣旨実現に努めたく、また流血を避けるため説得に努めるから、奉勅命令の下達時機は第一師団長に一任されたい」と申し出があり、香椎がこれを認め、堀師団長は陸相官邸に出掛けて叛乱軍将校の説得を始めた。 |
【栗原中尉の将校だけ自刃論】 | |
どの時の会談かはっきりしないが、最後に栗原中尉が次のように提言している。
一同暗涙をのみ山下少将、鈴木大佐も感激して別れた。 |
【反乱軍の自決の申し出を昭和天皇が拒絶】 | |||
正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。山下の教唆をうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。 山下奉文少将(陸軍省軍事調査部長)が川島陸相と堀第一師団長を説き伏せ、宮中に参内して本庄侍従武官室を訪ね来て、「青年将校が陛下に罪を謝するために自決(切腹)する覚悟であり、下士官以下は直ちに原隊に帰営させる。その罪のお許しを願っていること。自刃にあたり特別のお慈悲をもって侍従武官の御差遣(勅使派遣)を賜い、彼らに死出の光栄を与えてくれるよう」伝奏を申し入れた。 本庄は事件発生以来の軍の処置に対しお上はご不満の様子だから出来ないと断ったが、山下の熱意におされて伝奏をひきうけた。川島陸相と山下少将の仲介の意を受けた本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は激怒し、「本庄日記」によると次のように述べている。
また本庄は、第一師団長の堀丈夫が「部下の兵を討つに耐へず」と述べているとも伝えた。すると天皇は、次のように御返答された。
昭和天皇がここまで感情をむき出しにしたケースは珍しかった。 この件に関して「昭和天皇独白録」は次のように記している。
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その一方で、同日、難を逃れた岡田啓介首相が参内すると、天皇は「よかった」と述べるとともに、その自決などを心配して、広幡忠隆侍従次長に「岡田は非常に恐縮して興奮しているようだ。周囲のものが、よく気をつけて、考えちがいのことをさせぬように」と配慮する言葉をかけている(「岡田啓介回顧録」)。両者にたいする態度の違いは実に天地の差だった。 |
【投降か決戦か問答】 | ||||||||||
蹶起将校の自決論によって事件の無血鎮定の見込みがつき、皇軍相撃の惨事が避けられるかに見えたのも束の間、事態は逆転した。それは磯部の強硬な反対と説得、北一輝の霊告、安藤の闘志の三要因によった。将校らは栗原の意見を了承したが、まかり間違えば自決、撤退の道だった。村中は香田とはかって将校全員を至急官邸に集合するよう手配した。その集合を待っている時のこと、ある将校が集合理由を村中に問うた。村中は、「
自刃でもせねばならん形勢になりつつあるので、皆に相談したいのだ 」と答えた。傍らでこれを聞いた清原少尉は、「なんというざまだ」と憤慨して席をけって安藤のところに走った。村中は安藤らの来着を待たないで、一同にこれまでのいきさつを説明し、「こと、ここまでくれば、あるいは自決せねばならなくなるかも知れない。そのときはいさぎよくお互いが自決しよう」と一同にはかった。磯部が即座に「オレはいやだ」と拒否した。そして、香田、栗原を各個に個室につれていって説いた。「一体君らは本当に自決する気なのか。そんなバカな話はないじゃないか。オレが栗原の意見に賛成したのは自決するというところではない。統帥系統を通してお上に我々の真精神を申し上げ
お伺いするというところだ。山下、鈴木、山口らは何か勘違いしているのではないか。いま我々が自決したのでは兵はどうなるんだ。何もかもブチこわしになる。自決なんていうことは全く理由のないことだ」。栗原、香田は翻意した。一方で鈴木、小藤らに撤退を説得され、やむなく撤退あるいは自決を決意した者も出ていた。同志の足並みが乱れてきた。 これより先、村中は安藤がいつまでも来邸しないので、彼に参集をうながそうと幸楽に行った。そこでは戦闘準備を整えて殺気が充満していた。下士官兵は村中をおさえて安藤に会わそうとしない。やむなく彼は遠くから呼びかけた。
村中は安藤に峻拒され、他の同志の力を借りてさらに説得しようとし、急いで官邸に引き返した。彼が官邸に入ると、磯部と栗原が、「我々は自刃することを本旨としたのではない。陛下の御命令に従うということだ。栗原から山下に答えたのもこの意味なのだ。我々今自決したのではこの維新はどうなるんだ」と攻めたてた。 村中も、「その通りだ。我々は大命によってその行動を律して行けばよい」と彼らに同意した。そこで村中は、また このことを同志にはかろうとして、あたりを見渡したが、すでに大部分の同志はいなかった。彼らが対談中に、「戦争だ ! 戦争だ ! 幸楽に集まれ ! 」と伝えたものがあって、香田大尉をはじめ参集した将校たちは、続々幸楽に走ってしまっていた。 村中が茫然とつっ立っていると、電話が鳴った。彼が電話室にとび込むと、「自決するという話があるが決して早まってはいけない」と、北のおだやかな声だった。村中がすがりつくように、「奉勅命令が出て我々を討伐するということですが、その真偽がはっきりしなくて困っています」。「奉勅命令は多分おどかしでしょう。なぜなら、いやしくも戒厳部隊に編入された部隊に対し討伐ということはあり得ないことです。多分おどかしの手だから君らはそれにのせられないで、一旦蹶起した以上はその目的達成のために、あくまで上部工作をやりなさい。また 自決云々のことも、もし、君らが死ぬようなことがあったら、私たちとて晏如として生きてはおれんのだからこれらの処理をよくわきまえて、あくまで目的貫徹に進みなさい」と北はじゅんじゅんと説いた。「わかりました。皆にもよく伝えます」。 北が彼らの自決を知っていたのは、既に栗原が知らせたものだった。これより、やや前、栗原は山下、鈴木らの勧告によって将校は責をおって自決のやむない状況に至ったことを電話したのである。北はこの朝、読経中、「神仏集い、賞賛々々、おおい、嬉しさの余り涙がこみあげた、 我軍、勝って兜の緒を締めよ」との霊告を得て、 快報の至るのを待ちうけていたのに、その形勢の逆なのに驚いて、「自決するなんて弱気ではいけない、昨日の軍事参議官の回答を待つべきだ。自決は最後の手段、いまはまだ最後の時ではない、決して早まってはいけない」と栗原に教えたのであった。このように、一旦きまったかに見えた自決論は逆転して再び流血必死の情勢となった。 |
【安藤隊の料亭幸楽での民衆とのやり取り】 | |||
自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届いた。安藤、安藤隊は激怒し、自決と帰営の決定事項を拒否し戦闘を覚悟し悲壮な気持ちで背化等準備に掛かった。 | |||
午後〇時20分、安藤中隊長は遂に戦闘準備を宣し、一同勇躍して出陣に就いた。襷掛けの悲想な出陣となつた。兵隊との別れの握手、実に見る者をして涙ぐましめたり、民衆は之を見んものと道路を埋めた。折しも雪はチラチラと降りしきり、悲壮な最後の出陣に相応しきものがあった。安藤中隊長も最後の握手を兵隊達と交わした。 | |||
安藤隊が悲壮な気持ちで戦闘準備にかかった頃、幸楽の前には民衆が黒山の如く集まり口々に「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」 と叫んでいた。丁度歩一の栗原中尉がきていたので、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
すると民衆は異口同音に 「できるぞ!やらなきゃダメだ、モットやる」 と 感を込めて叫んだ。続いて安藤大尉が立ち簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。堂込小隊の血旗 「 尊皇討奸 」背負はせ、下士官が日本刀を持ち半紙二枚の声明書を群集に向って次のような文面を朗読した。
この時、一般群衆が数百名おり口々に次のようにエールしている。甲/是れから尚国賊をやつて仕舞へ。乙/愛宕山の放送局を占領して今の声明書を全国に知らして下さい。丙/買収されるなよ。丁/腰を折るな確かりやれやれ。戊/妥協するな。大勢御苦労であった。群衆の声「 諸君の今回の働きは国民は感謝して居るよ」。幸楽の前に民衆が黒山の如く集まり口々に、「 我々も一緒に闘うぞ、行動を共にさせてくれ 」と叫んだ。歩一の栗原中尉がきて、彼は早速民衆に対して一席ブッた。
民衆は異口同音に、「できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる」と 感を込めて叫んだ。続いて安藤大尉が立ち、簡単明瞭に昭和維新の実行を説いた。民衆は二人の演説に納得したのか万歳を叫びながら徐々に散っていった。 |
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幸楽で次のようなやり取りが交わされている。
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午後1時頃、村中大尉がきて安藤大尉に「 今までの形勢はすっかり逆転した。もう自決する以外道はなくなった」と 悲壮な覚悟を示した。すると安藤大尉は一瞬ムッとした表情で次のように𠮟責している。
村中大尉の報告を立ちどころに一蹴し決意の程を表明した。安藤大尉は蒼白となり、戦闘準備を宣し、皆な中隊長とともに死ぬ覚悟で白襷掛けになった。 |
【決起将校に対する個別陥落作戦始動】 | |||||
「渋川善助証言」。
高橋太郎少尉証言
池田俊彦少尉証言
麦屋清済少尉証言
昭和維新・山口一太郎大尉(4) 28日
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【戒厳司令部は奉勅命令は伝達できず】 |
午後1時半頃、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。 |
【安藤隊の遺書】 | ||||
午後3時頃、山岸伍長が郵便葉書を各人三枚ずつ配った。「家族に遺書を書け」 という。 市瀬操一・二等兵の遺書
「 必死三昧」 は日蓮主義だった安藤がつけた六中隊の標語だった。 大谷武雄・初年兵の遺書
大谷氏の留守宅は母親一人だったが、この葉書を受取って動転してしまったという。 相沢伍長の遺書
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【安藤隊が出陣せんとした折、吉報が入る】 |
午後4時、安藤隊が出陣せんとした折、吉報が入る。「皇族会議の結果、 我々の勤皇の行動を認める」との中隊長の伝達があり、一同どっと喜の声が挙がった。兵士は実包を抜きとり始め、志気作興のため演芸会を開催した。 夕方、吉報が舞い込んだ。今日陛下と伏見宮様がこん談され、陛下も尊皇軍をよく解って下さったようだというもので、これを受けた安藤大尉はニッコリして、「明日は逆転するぞ。みておれ、反対に悪臣たちに腹を切らせて我々が介錯するのだ」 と、いった。大阪から在郷軍人団がやってきた。彼等は早速附近に集っていた民衆に熱弁を振るい協力を求めていた。 |
【戒厳司令部は武力鎮圧を表明】 |
午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除した(同第11号)。 |
【陸軍大臣通達】 | |
28日の夕方、三宅坂台上一帯は立退きを始めていた。赤坂見附、半蔵門、警視庁等各方面には、戦車を先頭に鎮圧軍隊はその包囲網を縮小して、交通通信はすべて断たれ、騒擾部隊は外部との連絡は完全に不可能となった。二十八日午前五時奉勅命令の下達をうけた戒厳司令官は、なお兵力使用に躊躇していたが、統帥部の反対にあって、ついに討伐にふみきった。だが、第一師団の討伐準備遅延が禍してその日の攻撃開始は二十九日払暁に待たなくてはならなかった。 この夕六時、陸軍大臣は在京師団長に対し左の通達を行った。
この通達は始めてこの事件に対する陸軍の意思を部内に示したもので、特に、その末尾にある「所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ」とあるのは、いわゆる散在する地方青年将校の蠢動に対する弾圧を意味するものであり、こうした通達をうけては、もはや第一師団も部下の情誼とかお互いの撃ち合いとかを理由に討伐を回避することを許されなかった。 |
【戒厳司令部トップ会談】 | |||
午後7時30分頃、満井中佐の提言で、戒厳司令部に荒木、林の軍事参議官と、今井軍務局長、飯田参謀本部総務部長、石原(戒厳)作戦課長、川島(元)陸相、杉山参謀次長が集まった。石原が強硬に軍事参議官の干渉を拒絶し、退席させようとした。荒木は、「一同相談の結果、叛軍を武力討伐するにおいては、きわめて重大な影響あるにつき、ここに次の意見を出す」と前置きし、皇軍相撃を避けよと力説したが、石原は頑と動じず、遂に二人を退席させることとなった。 | |||
林、荒木 両参議官が退場し、大臣、次長、局長、部長、戒厳司令官らの首脳部のみが残った。その席で、戒厳司令官・香椎浩平は 改まった態度で次のように述べた。
これに対し、杉山参謀次長が断固として反対し次のように述べた。
ここにおいて香椎中将は数分にわたって沈思黙考した。既に攻撃命令を下しながらも、まだ、奉勅命令の下達をためらっていた香椎司令官も、この統帥部の反対にあって苦しんだ。彼は皇道派の同情者であった。だが、ついに 討伐断行の腹をきめた。「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します」と言い切った。時に午前十時十分であった。ここに叛乱軍の命運は決した。 |
【堀師団長の説得顛末】 | |
堀師団長の説得に、山下少将、鈴木貞一大佐、山口大尉、栗原中尉、そして村中が同席し、いちおう撤退するということで話がまとまった。しかし、先に戒厳司令部に行っていた磯部が戻ってくるなり、「おーい、いったいどうするというのだ。いま引いたらたいへんになるぞ。絶対引かないぞ」と叫ぶ。とりあえず、堀や山下が帰った後で相談をする。 この時、徹底抗戦派の安藤大尉、磯部らと、香田、村中、栗原の自決・撤退派がお互い論戦となった。栗原が次のように述べて提議した。
磯部も統帥体系を通じた上奏、つまり「小藤→堀→香椎→陛下」という順序でお上に自分らの真精神を伺うというのはこの際極めて的を得たものであると思い、賛成した。しかし、陛下の大御心がまったく異なっていることを彼らは知らなかった。 |
【反乱軍に悲報到来】 | ||||||||||||||||
午後9時頃、攻撃準備を進める陸軍に、追い詰められた決起部隊から思いがけない連絡が入った。決起部隊の首謀者のひとりの磯部浅一が以前より面識ありのある陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきた。山下は磯部の2期先輩で親しい間柄だった。山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。磯部は、天皇の本心を知りたいと山下に手がかりを求めてきたのが真相だった。次のような会話をしている。
磯部と山下の問答は噛み合わず、物別れに終わった。 |
【反乱軍に悲報到来】 |
午後9時、悲報が到来した。明朝、鎮圧軍が軍旗を奉じ、やってくるとのこと、もし原隊に帰らなければ武力をもって鎮圧するという。最早や交渉の余地はなくなっていた。 |
【安藤隊が香田隊と合流し山王ホテルに陣取る】 |
午後10時、安藤隊がそこで戦闘を有利に実施できるよう陣地変換に移った。幸楽を撤収、裏門から隠密裡に抜け出し山王ホテルに移動した。第一小隊は階下及び玄関、第二小隊は二、三階、指揮班は階上。窓に銃座を作り交戦の準備に入った。以後、香田大尉の部隊と協同で戦闘することとなる。 |
【幸楽や山王ホテルの維新義軍ビラ】 | |
二十八日午後より夜にかけては必死の説得がつづけられていた。だが、彼らは頑としてこれをうけつけなかった。兵隊たちはいきりたった将校や下士官の気合に支えられ、決死の覚悟で前面の包囲軍と相対峙し、その志気はいやが上にもたかぶっていた。その夜
幸楽や山王ホテルにはこんなビラが貼られていた。陸将官邸にあった蹶起部隊首脳が部隊の志気を鼓舞するために、この夜ガリ版ずりのこのビラを配ったものであった。
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【司令部が攻撃開始準備指令】 | |||||||||||
午後11時、司令部が「戒作命十四号」を発令し、反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう包囲軍に下命した。
だが、この命令は反乱部隊には下達されることはなかった。戒厳部隊に編入され麹町地区警備隊としてこれが警備に任ずるように命令されていた反乱部隊には、その戒厳部隊から除外されることもなく、また警備の任務も解かれることはなかった。そして彼らは、その同じ戒厳部隊から包囲され攻撃されたのであった。ここに重大な指揮の混乱がある。 この戒厳命令に基づいて、第一師団では、佐倉部隊主力に砲兵工兵を加えて左翼に、そして第二旅団長工藤義雄少将を長とする佐倉の一個大隊、歩兵学校教導聯隊、工兵第十四大隊の一部をもって中央に配し、攻撃態勢を整えた。夜十時、第一師団長は反乱部隊長小藤大佐の指揮を解いた。事態の悪化によって小藤大佐は師団長にその任務遂行の不可能を訴え「小藤大佐ハ爾後占拠部隊ノ将校以下ヲ指揮スルニ及バズ」として解任になった。 |
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奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議の声を上げた。 | |||||||||||
蹶起部隊を出している歩一と歩三が相討ちの犠牲と惨害を避けるべく活発に説得交渉を続けた。歩三では、部隊長が先頭に立ち佐官級の将校や古参大尉らがそれぞれ上官と部下との系列をたどって戦線をかけ廻った。十二月まで部隊長だった参謀本部課長の井出宣時大佐もその責任を痛感して、安藤中隊や野中中隊を訪ねて説得に積極的だった。歩一では、小藤大佐が反乱部隊を指揮していたので、聯隊付中佐が主として対策を練っていた。栗原や丹生に対する怒りよりも山口大尉に対して憤慨するものが多かった。山口が週番司令としてやすやすと部隊を出動せしめたのだ。あいつこそ聯隊の歴史を汚した元兇だ、山口がかえればたたき殺してやるといきまいていた。小藤大佐に対しても反感をもっていた。聯隊長があまり若い者をあまやかすからこういうことになるのだとつぶやく将校もいた。しかし、彼らを連れ戻すことにはあまり熱心でなかった。小藤大佐は二十八日夜、その指揮権を解かれてから みずから第一線の兵隊たちを説得して歩いていた。 軍事課長村上大佐は皇道派に好意をもつ幕僚として位置づけられていた。事実、二十六日以来の村上大佐の行動には反乱軍支援の疑がわしいものがあった。宮中での参議官会同の席につながり大臣告示の立案にも関与していたし、もともと、大臣の政治幕僚としてこの事態を契機として維新に進むべきだとし「蹶起部隊を叛徒と認めてはならない」との意見を大臣に具申したとも伝えられていた。その村中大佐が、正午頃、安藤大尉に維新の大詔なるものを示して撤退をすすめている。第一線で最も強硬なのは安藤大尉だと信ぜられていた。従って、安藤の占拠していた幸楽にはひっきりなしに説得使がやってきた。 |
【「戒作命十四号」余話】 |
夜、新井中尉が配置部署を離れ部下の中隊を率いて靖国神社に参拝した。軍当局は、事件前に叛軍の会合に出席していたこともある新井中尉に対し極度の警戒をもって受け留めた。この行動により新井中尉は事件後、禁固6年の刑を言い渡されている。新井中尉はこの判決は不当だと抗議した。 |
また、東久邇宮を擁して叛乱軍が攻撃を開始するとウワサが流れ、戒厳司令部は東久邇宮邸を戦車4台を含む部隊で包囲した。名目は保護・警戒ということだった。相沢事件の際、相沢が上京して永田軍務局長を斬殺しようとするとき、わざわざ大阪の第4師団長の東久邇宮と面会してから行ったという経緯があるので、皇道派との結びつきを警戒していたことになる。 |
【鎮圧軍の包囲網】 |
翌29日(土)の決戦に向けて鎮圧軍では石原戒厳参謀の指揮の下で着々と包囲網を布く。赤坂見附交差点には甲府の歩四九聯隊、「幸楽」に対するは歩三聯隊残留組、山王下電停には宇都宮の歩五九聯隊が布陣した。さらに応援部隊が続々到着の手筈だ。水戸の歩二聯隊は夜9時に渋谷駅、高崎の歩一五聯隊は同時刻に新宿駅、さらには富士山麓で演習中の歩兵学校教導隊が零時に両国駅。とりわけ千葉習志野に駐屯地がある教導隊は猛訓練を積んだ最新鋭エリート部隊。両国に到着すると、装備を背負って現場までの約一〇キロの距離を駆け足で夜間行軍、未明までに展開を終える予定とされた。重機九挺(うち空砲銃身三)で武装した決起軍最大の拠点、首相官邸を攻略する想定だ。 |
【決起軍を支援する街頭演説】 | ||
こうした緊迫感のなかでも鎮圧軍の兵士たちは庶民の行動にまでは干渉しなかった。それゆえ阻止線を越えて、永田町界隈に群衆が五〇〇〇人は流れ込む。数は万に達したという説もある。あちこちで街頭演説が行われていた。夕刻、民間人の渋川善助ら数名の者がきて幸楽前の大通りに集った群衆に対し大演説を行った。大喝采の声が四囲に響き渡るほどの白熱的な情況であった。「明朝は皇軍相撃もやむなし!」。大群衆を前に次々に演説する蹶起将校や下士官たちの声は上ずっていた。白鉢巻きに白襷姿の歩三大六中隊の下士官たちがとりわけ眼を引く。「天下無敵、山田分隊」 と書かれた大日章旗を掲げる山田政男伍長(20)率いる一隊だ。「尊皇討奸」と認めた赤い幟を持つ兵を従えて移動した。そのあとをゾロゾロと群衆が従う。あたかも街頭野外劇を俳優と共に移動しながら楽しむ観客のようだ。 大部隊が駐屯する料亭 幸楽 には、ピリピリした殺気が漲った。赤坂見附交差点から五〇〇メートルほど溜池方向に進んだ門前には「尊皇討奸」と大書した白い幟が林立する。軽機関銃が備えられ白襷、白鉢巻で安藤中隊の一〇名もの歩哨が着剣し厳戒にあたった。中庭には薪火が二か所で焚かれ残雪にあかあかと反射する。幸楽の門前の雑踏に、一台のサイドカー がエンジンの音も高らかに止まる。運転席には陸軍中尉の制服の将校が乗り、横の座席には日の丸の鉢巻に日本刀を背負った若い将校が鎮座している。上半身はシャツのままで上着は腰に巻き付け伊達ないでたちだ。凛々しく端整な顔立ちは寒さと緊張感でことさらに引き締まっている。たちまち黒山の人だかりとなった。いかにも決戦の雰囲気が感じられたからだろう。「兵隊さん!頑張って日本を良くして下さい」。どこから来たのか、乳飲み子を背負い引っ詰め髪の女が金切り声で叫ぶ。さらに若い職工風の菜っ葉服を着た男が手を差し伸べた。機関車の運転手か「私たちが後ろにいますよ、応援します!」。若い将校に向かって人々は口々に訴える。どの表情も真剣でしかも輝いていた。 これが森伝と中橋中尉との最初で最後の出会いだった。サイドカーを運転していたのは田中中尉。二人は明朝の決戦を前に鎮圧軍の包囲網を偵察するため占拠地域を見回っていたのだ。この夜、無名の庶民たちの励ましで意を強くしたのだろう。中橋は次々に手を差し伸べ握手したあと、門前に置かれたテーブルに上がる。若々しい声で拳を振り上げながらの熱弁だった。
地鳴りのような拍手が起こる。尊皇討奸万歳の唸りが津波のように押し寄せて来た。 |
この後は【】に続く。
(私論.私見)