小畑敏四郎



 (最新見直し2013.03.07日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派指導者の一人である山下奉文・陸軍大将を確認する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


小畑敏四郎

ウィキペディア(Wikipedia)小畑敏四郎

生誕 1885年2月19日
日本の旗 日本 高知県
死没 1947年1月10日(61歳没)
所属組織 War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍
軍歴 1904 - 1945年
最終階級 帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg 陸軍中将
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小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年明治18年)2月19日 - 1947年昭和22年)1月10日)は日本の陸軍軍人で陸軍中将栄典は、正四位勲一等(昭和20年8月19日時点)。高知県出身。

いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。

来歴・人物[編集]

1885年(明治18年)、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎子爵小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校大阪陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。少尉任官後、近衛歩兵第1連隊歩兵第49連隊、真岡守備隊長を経て、1911年(明治44年)に陸軍大学校を卒業(23期優等)。この時期、陸士の1期後輩にあたる東條英機が陸大受験に失敗しており、彼のために小畑が自宅で勉強会を開き、陸士同期の岡村寧次永田鉄山も集まっている。1913年大正2年)、大尉任官、参謀本部勤務。1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。軍務局課員、参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし日本軍がシベリア出兵中であったために入国できず、ベルリンに滞在。

この間、1921年(大正10年)10月頃、永田鉄山、岡村寧次と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。これらの顔ぶれから、陸士16期は「俊秀雲の如し」と呼ばれた。1922年(大正11年)、参謀本部員、1923年(大正12年)には中佐に進級、陸大教官となる。

1926年(大正15年)に参謀本部作戦課長に抜擢され、荒木貞夫第1部長のもと、部下の鈴木率道と共に「包囲殲滅戦+短期決戦」を軸とする「統帥綱領」の大幅改訂に携わる。これはその後1928年に正式改訂されている。1927年(昭和2年)に大佐に進み、1928年(昭和3年)8月、岡山歩兵第10連隊長となる。このときの部下として、作家の棟田博がいる。聨隊長としての小畑は、初年兵への私的制裁を徹底的に禁止する一方、軍規には厳しく、どしどしと違反者を営倉に送ったため、「営倉聯さん」というあだ名がついたという。1930年(昭和5年)8月陸軍歩兵学校研究部主事、1931年(昭和6年)8月陸大教官を歴任。

1931年(昭和6年)12月、犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、翌1932年(昭和7年)2月、同じロシア通で信頼の厚い小畑を再び参謀本部作戦課長に起用する異例の人事を行う。小畑は同年4月に少将に進み参謀本部第3部長に就任(作戦課長の後任は鈴木率道)、荒木の盟友である真崎甚三郎参謀次長の腹心として、皇道派の中枢と目されることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田鉄山と対ソ連・支那戦略を巡って鋭く対立、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。同年8月、永田と共に参謀本部を去り、近衛歩兵第1旅団長に転出した。

1934年(昭和9年)1月に荒木陸相が辞任、後継を期待された真崎も閑院宮載仁参謀総長の反対により教育総監に回り、皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。小畑は同年3月に陸大幹事、1935年(昭和10年)3月に陸軍大学校長となるが、陸軍内部の抗争は激化し、同年7月には真崎教育総監が更迭され、相沢事件で永田が斬殺される事態となる。1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発、部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、小畑も監督責任を問われることになる。またこの際、当時女学生だった姪が小畑に密書を運んだ。これは女学生なら怪しまれないという理由だった。同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇道派の一掃が図られ、小畑も同年8月に予備役に編入された。その後1937年(昭和12年)には、日中戦争にあたって召集を受け留守第14師団長に任ぜられたが、健康上の問題で召集解除となった。

太平洋戦争の戦局が悪化すると、かねて親しい近衛文麿の、東條内閣打倒による終戦工作に関与し、憲兵隊の監視下に置かれる。敗戦によって1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮内閣が成立し、近衛や緒方竹虎の意向に沿って国務大臣に就任、約2カ月にわたり下村定陸相を補佐して軍部の収拾に当たる。1947年(昭和22年)1月10日死去。満61歳没。

戦術思想[編集]

陸大校長としての小畑は、徹底した戦機の看破と好機の捕捉による積極攻勢思想を持論としており、防勢のみによって敵を屈服することは絶対にあり得ず、攻勢!攻勢!ただ攻勢あるのみ。たとえ防勢にたっても攻勢に転ずる機会を待つべきであると陸大で教えていた。

このため、学生達は当時陸大幹事(副校長格)であった岡部直三郎と比較し、積極攻勢な小畑と堅実戦法の岡部がそれぞれ司令官であったなら、同じ戦況であっても違う判断を下すのではないかと雑談していたという[1]

秘話[編集]

1945年(昭和20年)9月2日太平洋戦争降伏文書調印式に、陸軍参謀総長梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と梅津を叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させたという[2]

年譜[3][編集]

  • 1885年2月19日、高知県生まれ
  • 1891年学習院初等科入学
  • 1896年、京都府立尋常中学校転校3年編入
  • 1901年、大阪陸軍幼年学校卒業
  • 1903年、中央幼年学校卒業
        近衛歩兵第1連隊配属
  • 1904年、陸軍士官学校(16期)卒業
        陸軍歩兵少尉
  • 1905年4月、歩兵第49連隊附出征(樺太)
  • 1907年12月、陸軍中尉
  • 1911年11月、陸軍大学校卒業(23期)
        陸軍大学校附
  • 1913年8月、陸軍大尉
        参謀本部員
  • 1915年4月、ロシア駐在(第一次大戦時ロシア軍に従軍)
  • 1918年4月、帰国 参謀本部附
  • 同年7月、陸軍省軍事課員
        元帥伏見宮貞愛親王副官
  • 1919年7月、陸軍少佐
  • 1920年6月、ロシア大使館附武官
  • 同年11月、参謀本部部員
  • 1923年3月、帰国
  • 同年8月、陸軍中佐
        陸軍大学校教官
  • 1926年12月、参謀本部作戦課長
  • 1927年7月、陸軍大佐
  • 1928年8月、歩兵第10連隊連隊長
  • 1931年8月、陸軍大学校教官
  • 1932年2月、参謀本部作戦課長(第1次上海事変対応)
  • 同年4月、陸軍少将
        参謀本部第三部長(運輸・通信)
  • 1932年8月、近衛歩兵第一旅団長
  • 1934年3月、陸軍大学校幹事
  • 1935年3月、陸軍大学校校長
  • 1936年3月、陸軍中将
  • 同年8月、依願予備役編入
  • 1937年8月、召集・第14師団留守師団長
  • 1938年5月、召集解除
  • 1945年8月、国務大臣(東久邇宮内閣)
  • 1947年1月25日、死去

栄典[編集]

位階
勲章
外国勲章佩用允許

【山下大将遺訓考】
 「★阿修羅♪ > 戦争b14」の赤かぶ氏の2015 年 1 月 01 日付投稿「最期の一撃 第一話 山下大将の第一遺訓  武田邦彦」を転載する。
 最期の一撃 第一話 山下大将の第一遺訓
 http://takedanet.com/archives/1016239856.html
 2014年12月24日 武田邦彦 (中部大学)

 戦争に負けた翌年の昭和21年12月23日。シンガポール攻略戦とフィリピン守備戦で指揮を執った山下大将がアメリカ軍によってマニラで裁かれ絞首刑となった。その時に彼は「待てしばし 勲のこして ゆきし友  あとなしたいて 我もゆきなむ」と辞世の句を読んだ。 軍隊の指揮官たるもの自らの命令で国のために命を落とす戦友に早く会いたいという願いを持っている。それが指揮官というものだ。辞世の句を説明するとその価値は半減するが、山下大将は「いま少し待ってくれ。戦死した君のもとに私もすぐ行くから」と詠った。軍事法廷で山下大将に課せられた罪は、おそらく戦争直後に姿をくらまし、ほとぼりがさめた頃に出てきた辻政信に責をとうべきものだっただろうが、それもまた戦争の一つのあやに過ぎない。戦争は個人の運命を飲み込んで一気に進んでいくものである。

 辞世の句とともに残した山下大将の遺訓が四つある。その第一。戦争直後の日本の軍人の書いたものである。 「自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。この倫理性の欠除ということが信を世界に失ひ醜を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。この人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。諸君は、いま他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人といえども、この責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶことは許されないのであります。ここにおいてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります」。

 1、自由なる世界においては誰でもが、2、自らの意思、道徳的判断力、自己責任感を持ち、3、責任回避と安易な方法を避けよ。 戦争前夜から大戦中、山下大将は日本政府、日本軍部、日本国民が自らの強固な意志、道徳的判断力、自己責任感を失い、付和雷同し、責任回避をして安易な方法を選択してきたことを、敗戦直前に正確に指摘している。

 ところで戦前のことが語られるとき、「日本の軍部の暴走」とよく言われるが、軍部も一体ではなかった。細かい細工をして自分の仲間の利益だけを優先したグループと、山下大将のように細工をせず、政府の命令に従い、事実を優先するグループがあった。歴史は皮肉なものだが、細かい細工をする人たちの行動は表面から見ると実にまともに見えるので多くの人の賛同を得る。これに対して愚直に誠実に任務を果たした人たちはまるで罪人のようになる。 世に言う関東軍の暴走、ノモンハン事変、シンガポール攻略に伴う華僑の虐殺、パターン死の行軍、ガダルカナルの玉砕など、日本軍の汚点とされるものは「細工をするグループ」の主導によるものだが、「細工をする」という自体が「表面を塗布する」ことであり、それを潔しとしない人は細工をしないが故に、その責任を一身に受けることになる。山下大将はそういう人だった。「私は貝になりたい」とはこの世の常でもある。 現在、かつての日本軍を批判する人が果たして山下大将のようなしっかりした倫理観、職業観、日本全体の動きについて見識と信念を持っているだろうか? 人を批判するのは簡単だが、批判は事実の範囲内でなければならない。このあと、山下大将の第二遺訓を紹介していく。そこには現代社会でも驚愕の指摘があるのだ。

コメント
02. 2015年1月01日 13:00:37 : w3M1BHSquE
 しかし、この山下奉文大将 実は日米開戦に 反対していた事はあまり知られていない 。マレー シンガポール攻略の 最前線に行かされたのは、一種の懲罰人事とも言えるのです。(もっとも、開戦反対だけではなく 2.26事件でも味噌を付けていた事も響きましたが)皮肉にも それが結果的に大活躍して、マレーの虎と異名を取り 国民的英雄となるのですが、その割には軍中枢からは冷遇されており、あれほど大活躍したのに 天皇陛下に拝謁は出来なかったのです。したがって、軍中枢への恨み節は当然持っている事でしょう。そして、山下将軍のみならず、開戦時の最前線司令官・ジャワ方面の今村均、ビルマ方面の飯田祥二郎、フィリピン方面の本間雅晴、皆すべて日米開戦には反対もしくは消極的意見を述べた者たちばっかりだったのです。アメリカとの戦争に反対すると言う事は、それだけでもマトモな戦略眼を持っていたと言う事、皮肉な事に懲罰人事的な優れた指揮官の配置によって、序盤の快進撃が成された訳です。しかし、結局は 意思決定する軍中枢部には、開戦強硬派の妄将ばかりが名を連ねていては快進撃は最初の内だけだったのです。
03. 2015年1月01日 16:22:42 : BMxeq67UWc
> この人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。

 確かにこれも大切だが、他にもっと大切なことがある。日本政府は、真珠湾攻撃時にアメリカ政府の真の意図を知ることができなかった。アメリカ政府の真の意図は、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図っていた事である。フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)の前任者、フーバー第31代米大統領は 「ルーズベルトは、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」[1]と言っている。アメリカ政府の真の意図を知らなければ、戦争を回避する方法も分からない。

> 現在、かつての日本軍を批判する人が果たして山下大将のようなしっかりした倫理観、職業観、日本全体の動きについて見識と信念を持っているだろうか?

 「倫理観、職業観、日本全体の動きについて見識と信念を持っ」だけでは、全く不十分である。「日本全体の動き」だけでなく、中国共産党人民解放軍、ロシア、アメリカ、韓国・北朝鮮等、世界の国々の動きについて見識を持つことが必須である。

 [1]【真珠湾攻撃70年】 「ルーズベルトは、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」 フーバー元大統領が批判★3
 http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1323310737/
 1 :有明省吾 ◆BAKA1DJoEI @有明省吾ρ ★:2011/12/08(木) 11:18:57.96 ID:???0 ?PLT(12066)
【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874~1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882~1945年)について、 「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。

05. 2015年1月01日 20:49:01 : gOvaB2LO7A
>>03
 やむにやまれぬ戦争だったという意見表明、これすなわちすべて負けた側の論理なり。なぜならば勝者の論理が歴史を作っていく必然と同時に、時が往けば必ず敗者の論理も汲み上げられるのは必然であるがそのことによって勝者の歴史が揺り動くことは微動だにしない。それも当然のことで、負けた側の論理が汲み上げられたところで勝者の歴史の時間の中で取り上げられた一種の気休め、または慰めの域を出ぬものであることは言を待たない。戦争は狂気を成した同士が、その裏では実に冷徹で一進一退を賭けて明日の存亡を巡って戦う合理的かつ敵を破壊せしめ陣を崩していくゲームである。したがい、勝ち負けにも勝ち方と負け方というものがある。勝てないまでも負けないという戦い方もある。また、勝った側が勝利の歓喜を味わえぬような後味の悪い勝ちというものもある。第二次大戦の日本は負け方のいずれも戦略の隅に置くこともなくただただ敗れるべくして敗れた。勝者の歴史の上で敗者の論理を語るは、負け方にも戦略というものがあるを実行し勝者側に目に物見せた場合だけで、ただたんにグッチャグチャにやられてタコ殴りに殴られたような日本が言ったところで負け犬の遠吠え、引かれ者の小唄でしかない。
08. 2015年1月02日 09:25:39 : BMxeq67UWc
>>07. 2015年1月02日 03:54:20 : w3M1BHSquE
> 「やむにやまれぬ戦争」 と、考えていたのなら この昭和19年で終戦出来たはずである。そして、ここで止めていたなら もっともっと有利な講和が成し得た事は確実である。

 アメリカの戦争目的は、日本を無条件降伏させ、アジアの覇権を日本から奪うこと[1]。昭和19年に、日本がアメリカの無条件降伏の要求を受け入れるはずが無い。「もっともっと有利な講和が成し得た事は確実である」は、アメリカ政府の真意を知らない愚か者の妄想に過ぎない。

 [1] 講義名 アメリカのオレンジ計画
 http://www.kanda-zatsugaku.com/130628/0628.html#19
 16 フランクリン・ルーズベルト大統領が 「1936年版オレンジ計画」を策定。次にアメリカが、「オレンジ計画」に増補・改訂したのは、第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの第一期目の1936年である。「オレンジ計画」の研究は、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで、再び活発に行なわれた。フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官としての立場から、「オレンジ計画」の本質が、「仮借なき包囲攻撃で日本を完膚なきまでに打ちのめし、日本に『無条件降伏』を強要して『アメリカの意志』を押し付ける、『19世紀的な古典的帝国主義』の実践」であることを十分に熟知していた。

12. 2015年1月02日 13:57:23 : 3URFwg9g4g
 シンガポール攻略戦は日本が大英帝国に「勝った」のですよ。 それまでの数百年この地区の国は西欧諸国の植民地にされ西欧人に従わさせられ何の権利もない状態に置かれていたわけです。いわば奴隷状態でした。マレーシア、シンガポール、ビルマはイギリスにインドネシアはオランダにベトナム、ラオス、カンボジャはフランスにフィリピンはスペインにその後アメリカに ずーと支配されていました 。親も祖父母もその前の世代もすっとそうして西欧の宗主国に従って生きてきたのです、当時西欧の不敗神話は厳然と存在していたわけです。腹の底から西欧人は現地人をばかにしていたはずです。土人か家畜程度にみていたでしょう。開戦当初のイギリス人も現地人もそう考えていたのです。アジア系の日本人はばかで目も悪いからマレーシアのジャングルでは道に迷って進めないとか放言していたようです。それが開戦3日目にイギリスの誇る戦艦プリンオブウェールズと巡洋戦艦レパルスは沈められ、2か月後にはシンガポールは山下将軍によって陥落したわけです。これはこの地区の価値観を永久に変えたしまったのです。そう永久にです。日本がその後敗れたのは付け足しにすぎず戦後この地区は旧宗主国の再占領政策をはねのけて次々独立を果たします。フランスもオランダもまた軍隊を送り込んできました。しかし西欧の「不敗神話」はもう崩壊していたのです。

 ホーチミンは再占領をはかったフランス軍を打ち破りました。スカルノは同様にオランダ軍を打ち破りました(デビ第三夫人はまだ生きているようです)マレーシアはイギリスからの独立を勝ち取りました(シンガポールを含む)アメリカは体裁を取り繕ってしぶしぶフィリピンを独立させました。 その意味でこの地区は帝国主義国同士の戦争でもありましたがアジア独立戦争のきっかけにもなりました。日本の緒戦の勝利はこの地区の歴史を変えたのです。日本は侵略者でしたがその勝利はこの地区の歴史を確実に変えたのです。不敗を誇ったイギリスの将軍が白旗を掲げて山下将軍に降伏する。この光景を見た現地の人の意識は一気に変わりました。それはインドのネルーもマレーシアのマハティールもベトナムのホーチミンも述べています。日本が侵略者ではあったがこの出来事は自分を興奮させ世界の見方が一気に変わったと。


 「★阿修羅♪ > 戦争b14 」の赤かぶ 氏の2015 年 1 月 01日付投稿「最期の一撃 第二話 山下大将の第二遺訓  武田邦彦」を転載する。
 最期の一撃 第二話 山下大将の第二遺訓
 http://takedanet.com/archives/1016393276.html
 2014年12月26日 武田邦彦 (中部大学)

 山下大将は次に第二遺訓を残している。「敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとえ破れたりとはいえ、かくも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうということであります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発、あるいは生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります」。

 科学者としての私がこの遺訓の前段と後段を読むと胸迫ることがある。当時、戦闘はまだ肉弾戦が中心だったから、敵のトーチカに向かって突撃し、トーチカに辿りつた兵士が手榴弾をトーチカの中に投げ込めれば友軍の勝ち、それまでに小隊が全滅したらこちらの負けというようなことだった。だから、シンガポール要塞を落とすときに多くの日本兵が命を落とした。その一人一人には、「平和の光輝く祖国」へ帰ることができたのだという思いが山下大将にあった。軍隊は「戦争するため」にあるのではなく、「平和を保つ」ために存在するのだから、山下大将が「平和の光輝く祖国」と表現したのはよく理解できる。  後段はさらに私の心を揺さぶる。大東亜戦争、太平洋戦争は資源を豊富に持っていて、世界に植民地を有しているイギリス、フランス、オランダ、アメリカが日本の資源輸入を止めたことによって始まった。もし科学技術が発達していて、日本が独自に資源を獲得し、豊かな生活を国民に保証できれば、日本軍はシンガポールを攻撃しなくてもよかった。しかし、科学技術者はそこまで行くことができず、禁輸によって困窮した日本は軍隊で石油やゴム、スズなどを東南アジアから調達せざるを得なくなった。現在では「必需品の禁輸」は戦闘行為と同じとされているが、当時は「直接に軍隊を派遣しなければ開戦とはみなさない」という概念であって、今でも反日日本人は禁輸の意味を知って知らぬふりをしている。山下大将が麾下の兵士を失いつつシンガポールを攻めていたとき、「ああ、もう少し日本の技術が進んでいたら、兵士を死なせなくても良いのに、またここまで進軍する必要もなかったのに」と苦しい心中だったと推測される。山下大将の第一遺訓にもあるように、国が栄えるかどうかはそこにいるひとりひとりの道徳的判断力による。マレー半島を制圧した日本軍に対して中国華僑が妨害工作を続けたのに対して、辻政信のような道徳的判断力に乏しい将校が短期的視野から殺害を主張したのに手を焼いたのも、「道徳的判断力」に他ならない。いま、やや日本の科学技術は山下大将の希望にそった状態にある。自動車、家電製品、電子製品、建築技術などは世界有数または世界一になっている。また資源も石油や石炭、鉄鋼石などの粗原料の鉱山は日本にないが、「世界トップレベルの資源技術」を有していて、世界の資源国は日本の技術がなければ資源を掘り出すことや、優れた鉄板を作ることができない。資源があるかどうかはその国の土地の構造によるが、資源を獲得できるかは資源技術の勝負になってきた。石炭の山を持っていても、かつてはツルハシと人夫があれば良かったが、今は世界最優秀の石炭掘削機械を有さないと現実的に石炭を掘り続けることはできない(大赤字になる)。だから、山下大将が希望した「資源と豊かな生活を保証する日本の科学技術」はかなりのレベルで現実になったと言える。ご安心ください。私たちのご先祖が命を捧げて守った日本を私たちも全力で守ろうと思っています。


 「 ★阿修羅♪ > 戦争b14 」の赤かぶ 氏の2015 年 1 月 02日付投稿「最期の一撃 第三話 山下大将の第三遺訓  武田邦彦」を転載する。
 最期の一撃 第三話 山下大将の第三遺訓
 http://takedanet.com/archives/1016489632.html
 2014年12月28日 武田邦彦 (中部大学)

 フィリピン戦を終り、敗北して囚われ、絞首刑になる前に山下大将が記した第三遺訓ほど、驚くものはない。それは日本の女性に当てたものであった。「従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません」。


 「従順と貞節・・・日本婦人の最高道徳」、「日本軍人と同じ・・・男女同じ」、「従順と貞節・・・虚勢された徳・・・自己主張しない人」、「貞女も忠勇なる軍人・・・自由と自律性を持たない」。家長制度のもとの古い日本、でも山下大将のこの文章は現代でも最先端を行く認識だ。貞節も大事だけれど、それを有効にするためには自由と自律性であると記した。女性に求められるのは、高い教養、自ら行動しうる人とし、平和の原動力は婦人の心にあるから、自由に協力して平和を維持してもらいたいと結ぶ。女性と男性はもともと対立するものではない。女性の特性、男性の特徴をそれぞれが発揮して国や人類を発展させる・・・それには高い教養と自由が必要で、従順とか貞節という言葉のなかに含まれる虚勢された徳の方に行かないこと・・・それはまさしく現代でも日本の女性の多くがまだ達成できないことである。「女は大学に行く必要がない」と言った男性は、山下大将がこの世を去って50年以上も存在した。「女は子供を産む機械だ」と21世紀になって国会議員が発言した。男性側からの女性蔑視だけではない。女性の方も平和な天下国家、日本の未来(子供の将来)を考えるより、今日のグルメ、テレビのタレントのゴシップに明け暮れているように私には感じられる。


 山下大将が妻に当てた辞世の歌。

 「満ちて欠け晴れと曇りにかわれどもとわに冴え澄む大空の月」

 人生にはいろいろある。良かったり悪かったりするけれど、私は満足してこの世を去る。今日もいつもと変わらない月が美しく夜空に輝いている。さようなら・・・


 「★阿修羅♪ > 戦争b14 」の赤かぶ 氏の2015 年 1 月 03日付投稿「最期の一撃 第四話 山下大将の第四遺訓  武田邦彦」を転載する。
 最期の一撃 第四話 山下大将の第四遺訓
 http://takedanet.com/archives/1016610601.html
 2014年12月30日 武田邦彦 (中部大学)


 「私のいう教育は幼稚園、あるいは小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時をもって始められなければならないのであります。愛児をしっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時、何者も味うことの出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。母は子供の生命を保持することを考えるだけでは十分ではないのであります。子供が大人となった時、自己の生命を保持し、あらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、協調を愛し、人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。………これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」。


 妊娠した女性は臨月を迎えると徐々に体内時計が変化し、授乳時間に合わせて眠りが浅くなる。平均して2、3時間ごとに授乳が必要な赤ちゃんが泣いて乳房を欲しがった時に起きるためだ。夫にはそんな変化はない。男女が等しく国を支えるのは当然だが、男女が「同じことをする」のは男女共同参画ではない。赤ちゃんはお母さんが好きだが、お父さんにはゴマをする。それは人間が動物時代、「父親の子殺し」を体験し、それが遺伝子にあるからだ。夫婦と子供ふたりのネズミの家庭で、子供を他人の子供を入れ替えるとメスは気がつくが、オスは気がつかない。次にメス(お母さん)を入れ替えると、オス(父親)は直ちに子供を殺す。オスはじぶんの子供を見分けることができず、メスが自分の連れ合いだった場合に、その横にいる子供は自分の子供と認識できるだけだ。だから、新生児、乳幼児を母親から離すのは子供にとって不安な環境を与えることになる。最近、いかにして子育てをサボるかという視点から(それが「生活のため」というお金の場合が多いが)、男性が育児を担当することがあるが、慎重にしなければならない。山下大将が指摘しているように、子供こそ次世代の日本の宝であり、授乳を基本とする子育てで母親の果たす役割は大きい。戦場では母親があれほど懸命に育てた子供の命を奪う命令をくだす。その度ごとに山下大将はその兵士の母親の顔を思い浮かべたに相違ない。でもそんなことは平和日本では二度としてはいけない。そして母親の任務はただ子供を育てるだけではなく、その子供が「大人となった時、自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、協調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成する」のは母親の役目である、母親しかできないのだと彼は思ったのだった。マレーの虎と呼ばれ、勇猛果敢な陸軍大将として名を馳せた山下大将の胸中には、道徳的判断力、軍隊のいらない技術力、貞節で自律的な女性、そして無限の愛で優れた子供を育てる母親、それこそが戦争で傷んだ日本を立て直す大切なことして浮かんだ。現代の日本は一時、山下大将の遺訓通りに進んだが、途中で愚劣な輩に掻き回され、また逆の道を歩いていこうとしているように見える。白人と苦闘した日本、やむを得ない戦争で多くの犠牲を出した日本、その渦中にあって「正しい人、山下奉文」の遺訓は日本の宝である。

コメント
02. 2015年1月03日 17:59:26 : w3M1BHSquE
 有名なところでは 山本五十六が戦争に反対だったと言われておりますが、山本だけではない、この山下奉文も そして連合軍に最も恐れられた男と言われる 栗林忠道も、開戦に猛反対だった。さらに、序盤の快進撃の原動力となった 今村均 、飯田祥二郎、本間雅晴なども日米開戦に否定的だった。だから最前線に飛ばされたのです。連合国側から戦略的戦術的に評価の高い将軍はほとんど皆、戦争に反対だったのです。アメリカとの戦争に反対すると言う事は、それだけでもマトモな戦略眼の持ち主である事の証明。栗林忠道などは ほとんど暴言と言って良いほどの 開戦への批判をしています。こういう現実は、見て見ぬふりですかね武田センセー。
05. 2015年1月04日 12:34:23 : w3M1BHSquE
>>03
 山本五十六は、あくまで 「どうしてもやれと仰るならば」 と、前置きしている上で「半年や一年は大いに暴れてみせましょう、しかし二年三年になると・・・」と、言っているのでありますが。しかし、やはり 「大いに暴れて見せましょう」 の部分だけがクローズアップされて一人歩きした訳で、気を持たせるような言い回しをしたという意味で 大いに責任は有るでしょうな。事実、井上成美が 山本の死後、これを批判している 反対するなら何故最後まで反対しなかったのかと少なくとも非戦派軍人たちの目には、山本の裏切り と映ったのではないかと思う。
07. 2015年1月04日 16:02:39 : EwZhv7pbUo
>>05

 戦争は勝たなければ意味がありません。暴れて相手を興奮させて一時だけ良い気分になってどうするのですか。その後はボコボコに殴られて無条件降伏。2年で決着がつくと言うのならご自慢の米国留学時代の人脈をフル活用すればよいでしょう。やるべきでない事をやってやるべき事をやらない。そのために数百万の同胞が無残に殺され、国家が滅んだ。彼のおかげで未だに日本は禁治産国家ですよ。

>>06

 本当に分かってないね。ソ連の危機を救ったT-34戦車はアメリカのクリスティ戦車が原型。大戦中は一万両を超えるジープを初めとする大量の軍事援助、大戦後でさえクライスラーがソ連領内にトラックの大型工場を建設、アメリカはソ連に戦後日本とは比べ物にならないくらい入れ込んでいた事実。要するにスパイ云々以前に気持ちの問題なんだよ。日本とは利害関係で組んでいるが心情的には嫌い、ソ連とは利害関係で対立しているが心情的には好き。だから国際情勢が変わるとあっという間に態度も変わる。








(私論.私見)


 (最新見直し2013.03.07日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派指導者を確認する。皇道派指導者として真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将を確認する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


真崎甚三郎・陸軍大将
 「ウィキペディア真崎甚三郎」その他を参照する。
 真崎大将論を廻って論が二分されている。れんだいこが睨むところ、これは丁度ロッキード事件を廻る分裂と似ている。と云うことは、背後に国際ユダヤの陰謀があると云うことになり、そうとすれば非常に手の込んだ冤罪の可能性がある。そういう気づきから「れんだいこ式真崎大将論」に向かうことにする。

 方や「私は真崎こそ、日本を敗戦に追いやった元凶であり、今騒がれている所謂A級戦犯の人達よりもよほど罪が重いのではないかと思っています」論がある。方や「真崎大将こそ真の有能軍人であり、彼が葬られた経緯こそ疑惑せねばならない」論がある。この両論のどちらに軍配を挙げるべきやが問われている。
 1876(明治9).11.27日 -1956(昭和31).8.31日。日本の陸軍軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。外務省、宮内庁などの官僚で、延べ25年という異例の長期間昭和天皇の通訳を務めた真崎秀樹は長男。

 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)。

 1895.12月、士官候補生。1896.9月、陸軍士官学校へ。1897(明治30).11月、陸軍士官学校第9期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。1898(明治31).6月、 少尉に昇進。歩兵第46連隊附。1899(明治32).5月、対馬警備隊附。1900(明治33).11月、 中尉に昇進。12月、陸軍士官学校附(区隊長)。

 1904(明治37).2月、日露戦争に従軍(~1905.12月)。6月、大尉に昇進。歩兵第46連隊中隊長。「もし生き残って帰ったら、出家して坊さんになろうと思ったくらいで、世に戦争ほど悲惨なものはなし」と書いている。

 1907(明治40).11月、陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。1908(明治41).10月、軍務局課員(軍事課)。1909(明治42).1月、少佐に昇進。1911(明治44).5月、ドイツ駐在(~1914.6月)。1914(大正3).6月、歩兵第42連隊大隊長。11月、中佐に昇進。歩兵第53連隊附。

 1915(大正4).5.25日、久留米俘虜収容所長。この時代、収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可した。衛戍司令官・柴五郎中将からなじられると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答えて了解を求めた。これとは逆の記述も為されている。それによると、第一次大戦中、日本はドイツ人捕虜を概ね人道的に扱ったにもかかわらず、真崎が所長を務めた久留米俘虜収容所は捕虜側からの評判が最も悪く、真崎は所長在任中の1915.11.15日、ベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件を起こし、捕虜側は捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求した云々。どちらの話しが本当なのか、どちらも本当なのか真偽を糺す必要がある。

 1916(大正5).11.15日、教育総監第2課長。

 1918(大正7).1.18日、陸軍大佐に昇進。

 1920(大正9).8.10日、 陸軍省軍事課長。この時代、陸軍機密費の不正蓄積についての感触を得、持ち前の正義感から、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したところ直ちに近衛歩兵第1連隊に転出させられている。この当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。

 1921(大正10).7.20日、近衛歩兵第1連隊長。1922(大正11).8.15日、陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。1923(大正12).8.6日、陸軍士官学校本科長。1924(大正13).3月、欧米出張(~9月)。1925(大正14).5.1日、 陸軍士官学校幹事兼教授部長。

 1926(大正15).3.2日、陸軍士官学校校長。この時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。生徒のなかには、新カント派の哲学に影響されて、学校の規則のような他律の拘束には服する必要がないと主張する者がいて、その一人で、後に二・二六事件に連座して処刑された渋川善助を退学処分にした。また、軍人の一般教養の低下を憂慮し、軍事偏重であった士官学校の課程を改正した。

 1927(昭和2).3.5日、陸軍中将に昇進。

 8.26日、第8師団長。弘前に単身赴任。この時代、思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反するとし、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人が参加して革新運動をやると軍隊を破壊するだけでなく日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。

 1929(昭和4).7.1日、第1師団長。この時代、1931年に三月事件が起こり、師団参謀長・磯谷廉介からクーデターの計画を聞くと、軍事課長の永田鉄山に警告した。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告して、計画を阻止した。

 1931(昭和6).8.1日、台湾軍司令官。本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。

 1932(昭和7).1.9日、参謀次長。参謀次長兼軍事参議官に就任。国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために満州事変を引き起こしたと見なしていた真崎は、事変不拡大、満州事変は満州国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえた。万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。そのため拡大派や国家革新推進派から非難された。 

 荒木貞夫陸軍大臣とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長閑院宮載仁親王の下で事実上の参謀総長として参謀本部を動かした。

 1933(昭和8).6.19日、陸軍大将に昇進。軍事参議官。

 1934(昭和9).1.23日、教育総監に就任(軍事参議官との兼任)。天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し、率先して天皇機関説を攻撃。天皇機関説を葬り、国体を明徴にせよという運動が次第に強くなり、右翼、在郷軍人、ついには現役軍人に及んでくるようになると、三長官(大臣、参謀総長、教育総監)協議の上、陸軍大臣が訓示するのが当然で適切であるが、大臣訓示は閣議を経なければならず、また政府はすでに二回も声明を出しているから、時間がかかるので、現役軍隊だけなら教育総監の訓示でも可なりと決定され、教育総監の真崎が国体明徴の訓示を行った。

 1935(昭和10).7.16日、 陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任の岡田啓介内閣の林銑十郎陸軍大臣とその懐刀である軍務局長・永田鉄山少将が、「陸軍三長官」の一つである教育総監を、陸軍将官の人事決定は三長官の合意の上でなければやらないという規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で罷免し、後任に渡辺錠太郎を据えた。これにより教育総監を罷免、軍事参議官となった。高宮太平の「軍国太平記」によれば、真崎は教育総監という陸軍三長官の一員でありながら党派的、政治的行動にて勢力伸張をはかり、これを危惧した林陸相が閑院宮の庇護のもと真崎を教育総監から軍事参議官に追いやった云々と記されている。

 8月、この人事に統帥権干犯だと反発した皇道派の相沢三郎陸軍中佐が永田鉄山を殺害した。これを「相沢事件」と云う。
【2.26事件の際の真崎大将の立ち回り】
 1936(昭和11).2.26日、陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きた。蹶起を知った際、連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったと云う。2.26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なる何者かの陰謀ではないかと真崎は述べている。真崎は軍事参議官、軍の長老として、強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾しようと行動する。

 この時の真崎大将のとった行動が「真相は藪の中」になっている。反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであるが、事件関係者と真崎の証言が齟齬している。26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎の事件関与が指摘されている。他方、当時真崎の護衛であった金子桂憲兵伍長の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。
【真崎公判の様子】
 3.10日、陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における維新断行のための大詔渙発、戒厳令施行の促進などを図ったことが決起部隊に対する利敵行為とみなされ、予備役編入され、事実上解雇された。7月、拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた。

 12.21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。

 1937(昭和12).1月25日、事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが事件関与を否認した。9.25日、論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年。9.25日、無罪判決が下る。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが判明している。

 二・二六事件のとき参内して、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏し、なんとしても真崎を有罪にするか、官位を拝辞させなければ、天皇を騙したことになり、陸軍大臣としての立場がなかった寺内寿一大将は、大将拝辞を条件に不起訴にすることを真崎の家族に伝えたが、家族は頑として断った。真崎を取り調べる軍法会議の議長であり、起訴後は裁判長であった寺内は、真崎銃殺の意図をもって裁判を進めていたが、支那事変が起って最高司令官として北支へ転任となり、磯村年大将を真崎裁判の判士長にする際には、「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」といった。磯村は戦後、「ああ、あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。なお、荒木貞夫は判決文について、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。

 一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢聡明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げたと証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えている。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。

 結局、真崎甚三郎・大将(軍事参議官)は「叛乱者を利す」容疑を問われていたが無罪となった。また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。

 推理作家松本清張は「昭和史発掘」で、「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた」と主張している。

 磯部は、5.5日の第5回公判で、「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5.6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。磯部の獄中手記には、「…真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので…云々」と書かれている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるものと述べている。
 1941(昭和16)年、 佐賀県教育会長に就任。

 1945(昭和20).11.19日、終戦後のこの日、A級戦犯として逮捕命令が発令され巣鴨プリズンに入所し、2年間収監された。皇道派に属していたというだけの嫌疑であった。他の被告は弁護士を頼んだが、真崎は弁護士をつけなかったという。第1回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12.2日、第一ホテルで行われた。以降3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている。極東国際軍事裁判で不起訴処分。梨本宮殿下を除いて軍人では一番先に釈放された。同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、二・二六事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」、「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。

 真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん、自動車運転手間にも信望があった、と証言をしている。

 1956(昭和31).8.31日、死去。 遺言書では、第一に「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている。また巣鴨在監日記の12月23日(1945年)には、「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している。

 葬儀は9.3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。天皇からの祭祀料が届けられた。

 1989.2.22日、二・二六事件で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで次のように述べている。

 「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」。

 真崎大将論につき「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.2.24日付け投稿「太田龍 二・二六事件の真相、全面開示」、2013.3.6日付け投稿「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」がある。これを確認しておく。♪ペリマリ♪氏は、「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」で次のように述べている。(れんだいこ文法に則り現代文に書き直す。構成も変える。当然ながら文意の改変はしない)
 みなさんにお詫びしなくてはならにことがあります。太田龍の動画『2.26真相全面開示』について、 一部重大な誤りがあります。「真崎大将は2・26事件には無関係であるが、人格高潔でイルミナテイのエサになびかないから陥れられた。 真崎大将の名誉回復が急務である」 という太田龍の見解は誤まりです。

 河野司編『二・二六事件 獄中手記遺書』の中に収められている礒部浅一の獄中手記、及び2・26裁判記録に目を通すと、真崎大将が事件に関与したことは動かせない事実であり、青年将校を幇助しながら敵前逃亡したことが了解されます。また真崎大将が無罪を主張する強弁詭弁には、目を覆わんばかりのものがあり、「真崎大将は人格高潔なためイルミナテイに陥れられた」などというのはまったく馬鹿げています。こんなトンデモを太田龍に吹き込んだのは誰でしょうか・・・情報提供者としての落合莞爾の名前が頻繁に出ていますが・・・よく調べもしないで転載したことを大変申し訳なく思います。重ねてお詫びいたします。以下に磯部浅一の獄中手記および2・26事件裁判に関係した本から、真崎が事件に関与した証左となる該当箇所を抜粋します。

 河野司・編『二・二六事件 獄中手記遺書』河出書房新社 礒部浅一 前掲書より写真転載

 明治三十八年四月一日山口県大津郡菱海村河原に生まれる。 広島陸軍幼年学校を経て、陸士士官学校卒業。安藤輝三と同期。 陸軍経理学校を卒業し一等主計になる。 『十一月二十日事件』によって村中孝次とともに停職処分。 怪文書『粛軍に関する意見書』を作成・配布して免官。 2・26事件後第一次判決にて死刑宣告。 北、西田裁判の関係上、刑の執行が一年遅れた間、 長文の獄中手記を記し昭和十二年八月十九日銃殺刑に処される。

 以下、礒部浅一獄中手記より抜粋します。

 極秘(用心に用心をして下さい)千駄ヶ谷の奥さん(西田税夫人から、北玲吉先生、サツマ(薩摩雄次)戦死、岩田富三夫先生の御目に入る様にして下さい。万々一、ばれた時には不明の人が留守中に部屋に入れていたと云って云いのがれるのだよ(読後焼却)

 ・・・第三に申上げることは、反間苦肉の策であるかもしれませんが、一つの方法と信じます。それは、川島陸相、香椎中将(事件当時の戒厳司令官)、堀中将(事件当時の第一師団長)、村上大佐(事件当時の軍事課長)、小藤大佐(第一連隊長)、真崎大将、の七氏を叛乱幇助在で告発することです。・・・多くの青年将校を、死刑にせねばならない様な羽目に落とし入れたのは、寺内は勿論ですが、筆頭に揚ぐ可き人物は、川島陸相他前記の人です。

 真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将星にルイを及ぼし、軍そのものが国賊になるので、真崎の起訴を遷延しておいて、その間にスッカリ罪を着た、西田になすりつけてしまって処刑し、軍は国賊の汚名からのがれ、一切の責をまぬかれようとしているのです。軍部の腹の底は、北、西田、青年将校を先ず処刑してしまって、誰も文句を云うものがなくなった時、真崎を不起訴にし、川島、香椎等々の将軍、否、軍全部を国賊の汚名からのがれさせようとしているのです。

 私は今真崎に対し、川島、香椎、山下、堀、小藤、村上及び事件当時の戒厳参謀課長を告発せよと云うことを、シキリにすすめているのです。真崎はまだ決心がつきませんが、何とかして真崎に決心してもらいたいと努力しています。・・・私はこの数か月、北、西田両氏初め多くの同志の事を思って毎夜苦しんでいます。北、西田両氏さえ助かれば、少しなりとも笑って死ねるのです。どうぞどうぞ、たのみます、たのみます。

 真崎大将を不起訴にする様に運動している御連中がたくさんいる様ですが、私はこれに対しては非常に反感をもちます。真崎はたしかに吾々に対して同情して、好意的に努力してくれた人です。ですから、真崎個人に対して感謝もしますけれども、吾々同志が義士か国賊かと云う問題を決定する為には、真崎が義士か国賊か、川島その他軍首脳部の書簡が国賊化否か、而して真崎と如何に関係深かりしかを決定せねばならぬのです。吾々が国賊ならば、当然に真崎と川島とその周囲の人は国賊であるはずです。彼等が法の制裁をうけないならば、吾人も当然法の制裁を受けない筈です。二月事件に戒厳令を発したでもなく、大臣告示を発したるにもあらざる北、西田両氏の如きは、当然も当然も当然すぎるほどに制裁のケン外にある筈です。吾々青年将校は、北さんの戒厳命令により、或いは西田氏の大臣告示によって行動したのではないのでずぞ。陸軍の親玉からもらった命令によって動作したのに、命令を発した人は罰せられずに、命令を受けた人が殺されたり、全く命令や告示の圏外にあった人が死刑を求刑されるのです。こんなトンチンカンなベラボウな話はありません。

 どうしても話のすじ道を通す為には、真崎を起訴し、川島、香椎、堀、山下、村上等が起訴され、勅裁経て陸軍大将の裁判長を定めて黒白を明らかにせねばならんのです。而してこれをすることは、実に寺内等を窮地に追い込む第一弾になるのです。然るに真崎の不起訴を策動する人物の如きは、同志を犬死させたり、見殺しにさせたりするところのふとどき至極の奴輩です。

 所が入所して日時の経過するに従って、軍首脳部の公判方針がチョロチョロと出かかり出しまして、小生はそのたびに心痛をせねばならなくなりました。それは前記諸氏が小生を全く国賊あつかいにし、叛徒として無茶苦茶な証言をしているのです。これでは助かりそうにはない。全部処刑され、死刑も多数あるという様なことを思うと、私は同志に対して、立っても居てもおれない程にすまなくなりました。数日数夜を考えあげた末に、遂に意を決して真崎、荒木、川島、安倍、香椎、安井戒厳参謀長、古荘、山下、堀等十五士氏を告発しました。

 原秀夫『二・二六事件軍法会議』文芸春秋より、以下抜粋します。(事件から60年ぶりに初公開された裁判資料に基づいたものです)

 二・二六事件の裁判の中で、最後に残ったのが、真崎大将の公判だった。すでに昭和十一年七月十二日、香田ら十五人の将校らは、代々木陸軍衛戍刑務所内の処刑場で銃殺刑に処せられた。磯部、村中は、同じく死刑判決を受けながら、北一輝、西田税に対する裁判の証人として刑の執行が延期されていたが、翌昭和十二年八月十九日に処刑される。ちょうどこれと同じ頃、真崎大将の公判が進められていたのである。真崎公判は、事件発生から一年三か月たった昭和十二年六月一日から始まった。起訴はその年の一月だから、公判準備に半年かかったわけである。

磯村裁判長  「これより裁判官たる法務官をして、被告の尋問、証拠調、及び弁論の指揮に関する事項を行わせる」。
真崎大将  「私は、尋問を受くるに先立ちまして、一言申し上げておきたいと存じます。私は、これ迄、検察官及び予審官の御取調に対しては、事のありの侭に、又私の感じた侭を、極めて率直に申し上げて置いてあります。しかし腹の立った事もあり、不都合な云い現わし方、こう申上げた方が判り易かったと思うことがあります。私は実は公判廷では何も申し上げまいと思いましたが、天皇の御名に於いて行う神聖な法廷ですから、真相を究めるために、どんな御質問に対しても、お答え申し上げ、閣下方に訴えたいと思います」。
小川法務官  「只今、検察官が述べられた公訴事実に意見があるか」。
真崎大将  「意見があります。香田清貞を招きどうしたとか、教育総監更迭に最後まで同意しなかったと述べたとか、昭和維新を何したとか、述べられましたが、実に驚き入った次第であります。礒部の問題も違っており、漸く挙げて承りますと、御読み聞けの事柄は、全部も全部まるっきり事実と相違しております。何所で御聞きになり、何うして御調べになったか知りませんが、何も殊更このような理屈を付けられた感じがいたし、作り事をした様な気がいたします。いずれ御尋問に従いまして、如々申上げて参ります」

 起訴事実を全面否認した真崎甚三郎 原秀夫前掲書より写真転載

 第一回公判で読み上げられた調書に、香田清貞大尉の憲兵調書がある。香田大尉は歩兵第一旅団司令部付で、蹶起当日は礒部らと共に陸相官邸の占拠を担当している。香田大尉の調書は、事件の前年、真崎から招かれた私邸を訪ねたときの様子を次のように記している。

香田大尉の調書  <昭和十年十二月二十八日午後七時頃、真崎大将を訪問したところ、同大将は「近頃若い者は国体明徴問題を如何に考えているか。この問題をとらえてしっかり活動したならば、維新は合法的に開けてくるのだ。青年将校の活動が足らん」と言われ、・・・「着眼が悪い」と不満のようでした。「相沢中佐の公判も近づきました」と申すと、大将は奥から相沢中佐の常に口にした詩など書いてある手紙を持ってきて、「相沢公判についてはなにも具体的には話していないが、心の中では誰にも負けないほど、相沢のことについては考えている。相沢は時々やってきていたが、まったく純真な神様に近いような人物である。・・・自分も証人に出る心算である。ただ、自分が出るには勅許を得なければならに」と言われた。私が「国体明徴に関して軍教育の中枢にある渡辺大将が、天皇機関説を擁護する如き訓示をされたのは遺憾」と申すと、「そうじゃ、渡辺があの位置を退くようになれば、維新運動が都合よく運んでいく」と申された。>
真崎大将   「『青年将校の努力はまだ足らん』と発言したことも『同感の意を示した』といった不都合なことを告げたことはありません。どうして、そう間違ったか判りません。『お前は病気にかかっているのである。早く直さねばならぬ。軍人は政治に関与して、かれこれ言うべきではない。』と説き聞かせたのであります。香田は、私の教育方針を取り違えて解したように思います。仮に不都合な事を申したとしても、当時、彼は叛軍ではなく、一歩兵大尉であります。叛軍でない者に向かって彼是申したからとて、何が故に反乱者を利したといえるのでありましょうか・・・妻が病気だったので早く帰ってくれればよいと思った。嫌な気持ちで会った」。

 第二回、第三回公判では、叛乱の中心人物といえる磯部浅一と、小川三郎大尉の調書の一部が読み上げられた。二人は昭和十年十二月、十一年一月に真崎大将を訪ねている。その折の模様を次のように述べている。

小川大尉の調書   <私は昭和十年十二月二十四日、磯部浅一と共に真崎大将を訪問し、応接室で閣下に、「教育総監の辞表を出されたそうですが」と質問した。真崎大将は、「そんなことを誰が言うたか」と申しました。私「相沢公判は重大だから徹底的にやって貰いたい。辞表を出されたというが、一体どうするのですか」。真崎大将「俺はそんな弱いことはしておらん。相沢は命まで捧げてしたが、俺はそこまではいっておらんが、そんな弱いことはしておらん」。私「国体明徴問題とか今度の相沢公判が巧くいかねば血が流れるかもしれません」。真崎大将「そういうことになるかもしれんが、俺がそんなことを言ったら若い者を煽っているようにいうからどうも困るのだ」などの問答をし、同大将は私どもの如く維新的情勢にかんする時局に対し、相当突っ込んだ考えを有するものと信じた>
礒部浅一の供述  <昭和十一年一月二十八日早朝、真崎大将を訪ね、火急の用事と、強いて面会を願った。私は「統帥権干犯問題につき、決死的努力をしようと思いますから、閣下も尽力して頂きたし」と申したところ、将軍は、「俺は十分やる」と言われた。次いで、「金を下さい」と申し込み、「いくらいるか」と申されたから、「千円ほしいが五百円でも結構です」と申したところ、「俺も貧乏で金はないが、何か物でも売ってやろうか。君は森伝を知っているか。森に話してみたか」と言われたので、私は、「森氏は知っておりますが話さぬ」と答えて帰り、その翌日頃森を訪ねた。森は真崎から呼ばれた話をし、金五百円を手渡された。真崎大将は心より私どもの運動を理解し鞭撻し、私どもが剣をもって起つことも十分承知していると感じた。真崎大将は、わたしや村中のことをすこぶる心配し、「次の時代には免官を元に戻してやらねばならぬ」と言われ、要するに私は、真崎大将は今回の事件を知りながら有形無形の援助をなしてくれたものと信ずる。>
真崎大将   「『直接行動をする様な重大なことなれば、話さないでくれ』とは、私が如何に愚者でも言うはずはない。『俺もやる』とは言っていない。私は『貰いつけているところから貰えばいい』と言った。『都合する』とは言わぬ」。
真崎大将  「礒部は嘘を言っております。礒部を絞り上げてください。とにかく維新運動をやっているのは青年将校のアバズレ者だけであります」(第三回公判)
裁判長   「不利なことはことごとく否定するね」。
真崎大将   「磯部から金を貸してくれと言われて、考えておくからと答えたのは本当であります。『俺も十分やる』とは言わず、『自分も研究する』とか『考えておく』とか軽い意味の答えをしたと思う」(第六回公判)

 真崎大将による事件勃発以後の自らの行動についての弁明
○蹶起を知ったのは、二月二十六日の早朝、亀川哲也の訪問を受けてであった。
○実は亀川は、この数日前にも真崎邸を訪れ、蹶起が近いことを示唆していた。

 亀川の調書によると、「『いかなる事態があっても青年将校を見殺しにせぬように』と言うと、真崎大将は『老人を誤らさないように、若い者を指導してくれ』と語った」。

 真崎大将の反論
 「亀川から『青年達を見殺しにしないでくれ』と言われたことなし。『年寄を誤らせない様に若い者に話してくれ』と言ったこともない。浪人者は他の者に対し、自分の言うことを省いて吹聴しやすいものである。私は亀川を危険視していた」。

 二月二十五日夜、青年将校らの蹶起を知った亀川は、二十六日午前四時ごろ真崎邸を訪れる。

亀川の憲兵聴取書  <真崎大将の処へ行こうとしたのは、早く知らせる方が良いと考えましたからです。真崎さんを選んだ原因は、彼等が信頼して居るからです。・・・此時、大将を選んだ事は、前夜来西田の言葉もあり、事件の即日収拾、即日大赦の方針で工作を依頼する為に行きました。私は応接間で待って居りますと、(真崎)大将が寝間着に羽織を引っかけて出て来られました。私は大将を見るや胸がつかえて泣き出しました。そして、一語をも申しません。大将は私の傍に立って、「落ち着いたら、落ち着いたら」と言って居られましたが、大将も非常な胸さわぎを感じて居られました。約十分位、私は泣き続けて居った様に思いますが、私は涙を拭いて、「今朝青年将校が、部隊を率いて立つらしい。こう言う事態が無い様にと思って、数年の間願って来たが、とうとう来る所へ来てしまって残念です」と申しましたら、大将は死人のような顔色になられ、腕をくみ椅子に寄りかかり、じっとして居られました。私が続いて、「若い者の行動は乱暴でも、気持ちは純真だから、此際軍の長老連達は、一致結束して、一刻も早く事態を収拾せられねばならず、殊に貴方に対しては、若い者などが大きな望を持って居る。真崎内閣と言うような事も考えているらしい。ぜひ御自重を願いたい」と申しますと、大将は「残念だ。今迄の苦労が水泡に帰した」と言われました。>
真崎大将   「二月二十六日早朝の亀川の言は、閣下(下級者である小川法務官に対して、こう呼んだのである)、すべて捏造であります。亀川は実に酷い奴であります。検察官は亀川のような不逞な奴から愚弄されたのであります。私は『貴様のような危険人物は、早く出て行け』という気持ちで、『鵜沢博士の処には早く行け』と言ったのであります。」
裁判官   「二・二六早朝五時、亀川のような危険人物と、何で早朝に会ったのか。」
真崎大将  「相沢事件のことで来たと思った。私は馬鹿だった。」
裁判官   「危険人物なら面会謝絶にすべきではないか」
真崎大将  「お答えの仕様がありませぬ。神明に誓って偽りは申しませぬ。相沢事件のことが気になって会ったのです。後悔しています。」
裁判官  「二月二十五日夜、今夜は電話があっても起こすなと言っていないか」
真崎大将   「夢を見た様なことを承ります。ありもしない事を作ったものが幾らもあります。」

 (裁判官は続けて、真崎の妻・信千代に対する憲兵の聴取書を読み上げる。この中には、妻の証言として、真崎大将が「電話があっても起こすな」と言ったという内容が含まれていた)

 真崎大将 「妻がそう言ったなら、そうだろうと思います。

 亀川から蹶起の知らせを受けた真崎大将は、午前八時ごろ、陸相官邸に駆けつけて青年将校らから蹶起の趣旨を聞く。その後の真崎大将の行動は、何とか蹶起を擁護し、自分の有利に展開させようという意図から出たものだ、と批判されている。六月十七日の第八回公判において、真崎大将に対して磯部の調書の読み聞けが行われた。

礒部の調書   <歩哨の停止命令をきかずして一代の自動車が辷り込んだ。下車と同時に「閣下、統帥権干犯の賊類を討つ為に蹶起しました。状況は御存知でありますか」というと、「ウン」とだけ申され、次に私が「善処を願います」と申し上げると、「お前たちの精神はよくわかっておる」と二、三度言われたのをはっきり記憶している。同大将を官邸に案内したら、「落ち着いて、落ち着いて」と言われた。>
真崎大将  「二・二六朝、官邸前で礒部に会った覚えなし。『お前たちの気持ちはわかっている』と言った覚えなし。礒部に会ったのは、官邸を出るときである。礒部は夢を見ているのだ。仮に『諸君の精神はよくわかっている』と言ったとしても、『やれやれ』の意味ではなく、物騒に感じたので相手をごまかすくらいの気持ちで言ったのではないかと思います。仮に言ったとすれば、相手をごまかして通すつもりで言ったものと思います。『落ち着いて、落ち着いて』との発言については、兵が銃剣を突付けたので、『落ち着いて、落ち着いて』と言ったのであります)」


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 河野司編・磯部浅一獄中手記より抜粋
 「(二月二十六日早朝)歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。余が近づいてみると真崎将軍だ。『閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる』と答える。『どうか善処していただきたい』とつげる。大将はうなづきながら邸内に入る。門前の同志と共に事態の有利に進展せんことを祈る。この間にも丹生は、登庁の将校を退却させることに大いにつとめる。

 (原秀夫前掲書より抜粋続き)
 また、その後の法廷で真崎大将は、「落ち着いてと何度も言ったのは、自分が落ち着いていないからであります。心の中は煮え返るようになっても、臆していないような風を装うのが、軍隊指揮官に必要なことであります。私は自然に落ち着いたように見えたのだろうと思います」

 二・二六事件の朝、真崎大将は勲一等の勲章を佩き堂々たる姿勢で陸相官邸に乗り込んだ。同じ頃、陸相官邸に乗り込み、磯部に拳銃で撃たれた片倉衷(ただし)少佐は、その時の様子を、真崎公判準備のための証人尋問で次のように証言している。<真崎は私が撃たれたのを見ても何もせず、入院先の軍医学校で顔を見ても知らん顔。人情を解しない、愚痴が多い人だ。>

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 片倉衷がこんな風に真崎を非難する資格はありません。石原莞爾のポチとして満州事変で活躍した片倉は、226を統制派のためのクーデターに転換させる、『カウンター・クーデター』(片倉本人の弁)の原案を作成、青年将校たちを人柱として利用したグループの一人です。私は皇統派と統制派の対立の図式は八百長だと思います。

 (原秀夫前掲書の抜粋続き)
 真崎大将は、この証言に対して、次のように弁解している。「彼らを撤退させなくてはいかぬ、と一寸頭に浮かんだが誰にも言わなかった。言えばポンと撃たれるか、突き刺されるように感ずるくらいのゾッとするような空気だった。」

 公判記録を読みながら、私はなんともやり切れない気持ちになっていった。法廷には、青年将校らが尊敬する指導者としての陸軍大将の姿はない。ひたすら弁解と言い逃れに努める老人の姿である。

 「幸田は自分勝手なことを言っている」、「磯部が私の悪口を言って回っていると聞いている」、「亀川は嘘つきです」、「村中の造り話です」、「平野(助九郎」は不用意の質問をする男です。平野を絞り上げてくれ

 山口一郎太の陳述
 <午前八時頃になりますと後ろの方がざわざわするので振向くと、真崎大将が入って来られました。若い将校はいぢ等不動の姿勢をとり久しぶりで帰ってきた慈父を迎えるような態度を以て恭しく敬礼をしました。・・・(真崎大将は)成程行い其のものは悪い、然し社会の方は尚悪い、起こったことは仕方がない、我々老人にも罪があったのだから之から大いに働かなければならぬ、又非常時らしくどしどしやらねばならぬ事にも同意だ、と云うう様に大へん青年将校に同情のある言い方をされ、次官が立たれた後の椅子に腰を下されて、大臣との間に短い言葉で話を交わされました。

 大臣「大隊、今、斎藤少将からお聞きの通りだ」。真崎「彼らの要望はどんなものか」。大臣「ここに書いたものがある」と言って紙片を渡されると、真崎大将はそれを眺め、また蹶起趣意書とか、青年将校の希望事項の原稿とかいうものにも、頷きながら目を通しておられました。それから、真崎「こうなったら仕方がないじゃないか」。大臣「御尤もです」。真崎「来るべきものが来たんじゃないか」。大臣「私もそう思います」。真崎「これで行こうじゃないか」。大臣「それより外、仕方ありません」。真崎「君は何時参内するか」大臣「もう少し様子を見て」。真崎「僕は、参議官の方を色々説いてみよう」。などの話で、同大将は青年将校に対し、同情のある話しぶりでありました・・・>(山口太一郎予審官第二回調書)

 真崎大将
 「山口の言う所では、いかにも私が大臣といろいろ話合った様でありますが、夫れは山口の珍問答で小説を作っているのであります。山口の虚構、捏造であります。馬鹿気て聞く気にもなりません。あの場面は、シーンとして何も話すことはなかったのであります」。

 山口調書
 <若い人達は、「牧野、西園寺、宇垣、南の四名を逮捕して下さい」ということを云始め、そして、立派な内閣を作るということを早くやること、皇軍相撃たぬこと等を要求した。これに対して荒木大将が、「そんな老人を捕えて何になる」と言った。一方、真崎大将は、「吾々に総てを委せて呉れんか。委する以上は条件を付けないで呉れ。きっとやるから。吾々も命がけだ。今迄は努力が足りなんだ。今度はきっとやる」と答えた。>

 真崎大将
 「どうも驚く外ありません。山口の言うのは殆どちがいます。彼らが誰彼を逮捕すること、皇軍相撃せぬこと等の要求があったことは、その通りだが、私が『吾々に全てを任してくれ』と言ったというのは嘘であります。・・・山口等は私が彼らの精神を生かす様に骨を折っていたものと、感じたかも知れませぬが、私は何もそんなことを致して居りませぬ。・・・山口も芝居が好きと見えます。」(第十一回公判調書)。

 裁判官
 「山口大尉は『(真崎大将は)最も呑み込みの早い筈の人であり、嘘を吐かぬという点で有名は将軍でありますから、今朝陸相官邸で言われた処の「此精神を生かさないと、何回でもこういう事が起こるから之を生かす為に骨を折る」と言われた、あの通りに行動し各軍事参議官に此旨を説明され、荒木大将も之に同意して働かれたものと思う』と述べているが如何」

 真崎大将
 「夫れは彼等の勝手な考えであります」

 裁判官
 「山口は、被告を嘘を言わぬ有名な将軍だと思っているのだから、ありもせぬ事をいわないと思うが」

 真崎大将
 「山口は亀川と同じく、英雄の好きな男であります。私は副官に『こんな事しやがって何と理由を付けても申し訳ないぞ』と申してあります」(第九回公判調書)

 真崎の回想
 <昭和十一年七月十日、礒部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、礒部を待って居ったが、間もなく礒部も大いにやつれて入り来たり、私にしばらくでしたと一礼するや狂気の如く昂奮して、直ちに「彼等の術中に落ちました」と言うた。私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官(注・藤井法務官の誤り)は壇上より下り来たりて「それは問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、礒部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、これだけで対決は終わった。何のことか分からぬ。私は不思議でたまらなかった>(「暗黒裁判二・二六事件」「特集文芸春秋」昭和三十二年四月号)。

 問題の七月十日の予審調書は、被告人真崎大将に対する尋問調書であり、礒部は証人としてこの予審廷に出廷している。

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 磯部浅一獄中手記より

 「真崎とは七月十日に対決した。真崎は余に国士になれと云いて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であった。余は国士になるを欲しない。如何に極悪非道と思 われてもいいから主義を貫徹したいのだ。だから真崎の言は馬鹿らしく聞こえた。余は真崎に云った、大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ。閣下はその間の事情を知っている筈だから純真なる青年将校の為に告示発表当時、戒厳軍編入当時の真相を明かして下さい。これによって同志は救われるのです。閣下は逃げを張ってはいけない、青年将校は閣下を唯一のたよりにしているのだ。故に軍内部の事情を青年将校の為にバクロして下さいと願って簡短に引きあげさせられた。予審官たる藤井は余の論鋒をおそれてオロオロしていた。余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるるのもムリはない」

 (原秀夫前掲書より抜粋続き)

 昭和十一年一月二十八日、礒部が来たときの会話について。

真崎  「統帥権干犯問題に付き『決死努力をする』と云ったのに対して『俺もやる』と言った様なことはありません。金の問題に付いても私が家のものを売っても準備すると云った様なことは全然ありません。」
 「(礒部は)翌日か翌々日被告をよく知って居るものから金五百円貰ったということであるが如何。」
真崎   「私は判りません。」
  「一月二十八日、礒部が金の話をしたとき、森伝を知って居るかと被告から言い出したということであるが如何。」
真崎  「判りません。」

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 磯部浅一獄中手記より

 「川島(陸相)との会見に於いて充分なる結果を得なかったので、川島と交友関係に於いて最も暑い真崎を訪ねる事にして、一月二十八日、相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした。・・・真崎は何事かを察知せるものの如く、『何事か起こるのなら、何も云って呉れるな』と前提した。余は統帥権干犯問題に関しては決死的な努力をしたい、相沢公判も始まる事だから、閣下もご努力していただきたいと云って、金子の都合を願った。大将は俺は貧乏で金がないが、いくら位いいるのだと云う。金は千円位あればいい、なければ五百円でもいいと云って、大まけをして半額に下げた。『それ位か、それなら物でも売ってこしられてやろう、君は森を知っているか、森の方へ話してみて必ずつくってやろう』と云って、快諾して呉れた。余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助とをして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解と同情を有している動かぬ証拠だと信じた。特に森氏を真崎が絶対に信じている事、及び川島と森氏とが極めて親交があることを先に実見した事から、川島、真崎の関係が絶対に良好であることの確信を得た。森氏が実によく青年将校の情態を知っているのは、真崎、川島から聞くのだ。この事から想像すると、両将軍が青年将校の威武を相当たよりにしている事が明らかである。殊に真崎は村中、礒部は免官になったが、復職させてやるなどと森に語ったことすらあるらしいのだから、尚更だと云える。」

 (原秀夫前掲書より抜粋続き)

 礒部の予審調書

  「一月二十八日に真崎邸を訪れたのは何の用件で行ったのか」。
礒部   「私共は昨年末頃から決行の意向を有したるを以て、軍首脳部の意向を打診する為行ったのであります。其の理由として、私共が決行するに付いては今度の如く兵を連れて行くことを軍首脳の方はお知りになって居たと思いますが、兵を使うことに付いては私個人の問題でないから、軍首脳の方の判然とした態度を知り度く思った為訪問したのであります。」
  「夫れで、真崎大将に如何なることを話したか。」
礒部   「統帥権干犯問題に付いて決死的な努力をしたい、相沢公判も本日から開かれることになったのであるから、閣下に於かれてもご努力願い度いと云うことを申し上げますと、閣下は初め私が訪ねたとき「云って呉れるな」と云われましたので之は私が非常な決心で行ったのを見て・・・・其の様に云われたと思いました。私が前の様に申し上げますと閣下は『俺もやるんだ』と云われました。それから、私は金が欲しいと云いますと、何程入るかと云われたので千円位欲しいと答えました処、夫れ位ならば何とかなるであろうと云われましたが、私は如何なる考えか千円出来ねば五百円でもよいと云いました。すると閣下は森伝を知って居るかと云われましたので、私は、余りよくは知らぬが知っては居ります、将軍は森氏を御信用の様ですが、私は考えが違いますと云いますと、俺は貧乏して居るので金がないから物でも売って作ってやろうと云われました。夫れから、森の方へ電話を懸けて見様と云われた様に思いますが、此の点は確かではありませんが、きっと作ってやると云われました。」

 以上、原秀夫『二・二六事件 軍法会議』より転載。

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 河野司編・磯部浅一獄中手記より抜粋 森伝氏に宛てて

 「・・・二月二十九日、入所以来小生は如何にして千五百将兵の賊名を取り除き、叛乱罪たることを破砕せんかに万考、殆ど血滴をしぼりへらし、骨ズイをスリ減らしました。・・・それですから、川島、荒木、真崎、山下奉文、村上啓作等に対して、有利なる証言をして暮れることを一念に祈願しました。事を解決するの鍵は、川島等数氏にあって、これらの諸氏が青年将校の行動を認めたのだと一言云って呉れさえすれば、千五百全部助かるのだ。陸軍そのものが助かるのだ。軍首脳部からも責任者など一人も出さずにすむのだと思うと、川島、荒木、真崎、山下、古荘、村上、香椎等の諸氏の証言がどれだけ大切で、又どれだけ小生には心配であったかわかりませんでした。

 この小生の対公判策を有利に発展せしむる為には、真崎将軍をカツギ出すよりほかに仕方がないのです。唯単に真崎を出した丈では、真崎が知らぬといえばそれ迄になってしまうので、勢い金銭関係を云わざるを得なくなったのです。真崎と小生等と、精神的にまた物質的に深い関係がある事になりて、真崎が「僕は青年将校の行動を認める、俺ばかりではない、川島も事件当時は大臣告示を出して認めている。川島のみならず軍議参議官全部が認めたのだ。寺内も認めたではないか。それのみならず大臣告示中には、各閣僚も青年将校の真精神を理解して、今後<匪躬>の誠を致す事と明記されているのだから、青年将校の行動は罰してはならぬ。青年将校を罰するなら軍事案技官全部、特に川島は厳罰になり、又、現寺内大臣にも責任がある筈だ。又事に天皇先刻の戒厳軍隊に編入され、戒厳命令によって警備地区をもらって警備をしているのだから、絶対に罰してはならぬ」と云うてくれたら、吾々は非常に有利になりますので、小生としては先ず真崎にウント強いことを云ってもらい、川島その他をも同意させる事にせねばならないと考えました。

 大体以上の様ないきさつから、真崎将軍の事を比較的くわしく延べ、又川島将軍の事、先生の事に及び清浦子、大隈伯と佐賀閥の事にもおよびまして、真にやむを得ず同志を殺さぬ為に止むを得ず、先生を引き合いに出して意外の御迷惑をかけ、誠に相すみませんでした。先生、磯部と云う奴は恩を仇で返す奴だと御叱り下さらずに、小生の同志を救う為の非常手段を許して下さい。何事も那家万年の為めなれば御海容下され度、伏して願上ます。小生の止むを得ざる失言の為めに、先生に永い間の牢獄生活をさせた事を非常にすまなく思っております。何卒御海容下さい。」

 荒木貞夫大将

 「君、真崎の判決文を読んだことがあるか。あんな奇妙な判決文はないよ。判決理由はひとつひとつ真崎に罪状をあげている。そして、とってつけたように、主文は無罪。あんなおかしな判決はないよ」。

 三島由紀夫

 「礒部の獄中の手記が、ほとんど『ヨブ記』を思わせるような凄まじいい呪いを奔騰させており、悪鬼羅刹の面影をあらわしているのは理由なしとしない。それは日本の国体論者が、その限界状況において、かえって致命的な国体否定者に転化する劇的な瞬間を記録している。

 私は事件後三十年にして世に出たこの遺稿が、達筆の手書きの、ほとんど血書を思わせる墨痕淋漓たる姿のまま、現代アメリカの尖端的な複写機ゼロックス(アメリカ人はゼロックスという語をすでに動詞化している)によって複写されたものを読んで、複雑な感慨を禁じえなかった。

 絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくような状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云ってもよい。それは自己弁護ということとはちがう。二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による蹶起だった。というのは、義憤は経過しても絶脳は経過しない革命であるという意味と共に、蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命であるという意味である。こういう二・二六事件の根本性格を、磯部ほど象徴的に体現している人物はなく、そこに指導者としての礒部を配したのは、神の摂理とさへ思われるのである。蹶起の指導者としても、又、挫折の指導者としても。

 遺稿の第二部の結末で、簡潔に述べられている挿話であるが、礒部に告発された真崎が、獄中で礒部と対決させられる場面は、尽きぬ劇的興趣に溢れている。真崎は、磯部より森との関係を暴露されて、一時入所し、そこで礒部と対決させられることになったのだ。この煽動家の将軍は、恐ろしい呪詛の焔に充ちた青年の目を直視することができない。それでも虚勢を張って、「国士になれ!」と叱咤する。暗に金銭関係の暴露を封じようとして、そう言うのだと礒部は察する。そこで「余は国士になるを欲しない。以下に極悪非道と思われてもいいから主義を貫徹したいのだ」と答えるのである。


 しかし、告発し暴露した党の相手に対して、礒部も亦、その証言に頼らなければならぬ弱みを持っている。対決は七月十日のことで、十五士銃殺のわずか二日前である。もし将軍が誠意ある証言をしてくれれば、同志の命は救われるかもしれないのだ。将軍は将軍で、この危険な青年が、どこまで自分を恫喝しうるかを、恐怖を以て測っている。礒部が、蹶起の瓦解を将軍の責任だと信じていることは明白なのである。裏切り者はきらびやかな将軍であり、告発者は追いつめられた虜囚なのだ。ここは礒部の人間研究に甚だ大切なところと思われるので、煩をいとわず引用しておく。

 『他の同志はもはや死を観念しているのに、余はひとり楽観して、栗(原中尉)から、礒兄は永生きをする、殺されるのがきまっているのにそんなに楽観出来る様な人はたしかに永生きをする、等と云いて冷やかされた。栗(原)から、礒部さん、あんたは不思議な人だ、あんたに会うと何だか死なぬ様な気がする、等と云われたこともある。余は七月下旬には出所出来る、出所したら一杯飲もう、等云いて、栗(原)、中島をよろこばしたものだ。軍部や元老銃身が吾々を殺そうとした所で、日本には陛下がおられる。陛下は神様で決して正義の士をムザムザ殺される様な事はない、又、日本は神国だ、神さまが余等を守って下さる、と云う余の平素の信念がムクムクと起こって来て、決して死刑される気がしなくなったのだ』


 正直に言って、此度発表された遺稿を通して、私にもっとも興味があったのはこの問題である。私の年来の人間観をもう一度検証してみようという気を起こさせたのはこの問題である。ましてそれは三十年を経て今なおなまなましく、もどかしい禿筆の乱れるに委せて書かれた筆跡そのまま、今私の目の前にあるのである。人は日常生活では、これほど肺腑をえぐる、しかもこれほど虚心坦懐な告白に接することは、めったにあるものではない。そこにあるのは、人間の真相にほかならない。」(三島由紀夫『道義的革命の論理‐磯部一等主計の遺稿について』文藝 昭和42年3月 初出)
(私論.私見)
 こういう記録を読む場合のイロハであるが、まずは原文通りかどうか確認せねばならない。それから検討に入らねばならない。れんだいこの印象として、真崎大将が嵌められようとしている形跡を感じる。そもそも青年将校の予審調書は誘導尋問されている訳だから、決定的証拠にはし難い。その辺りを見てとらず、♪ペリマリ♪氏が、「 みなさんにお詫びしなくてはならにことがあります。太田龍の動画『2.26真相全面開示』について、 一部重大な誤りがあります。「真崎大将は2・26事件には無関係であるが、人格高潔でイルミナテイのエサになびかないから陥れられた。 真崎大将の名誉回復が急務である」 という太田龍の見解は誤まりです」とするの少々気が早いのではないのか。自分で「「太田龍 二・二六事件の真相、全面開示」」を持ちだし、次に「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」とするのは如何にも尻軽で手の込んだ芝居臭い。2.26事件にロッキード事件と同じような謀略を感じ取っているれんだいこは、資料的な面で参照させていただくことにする。真崎大将論は引き続き追及することにする。

 2013.3.6日 れんだいこ拝

【荒木貞夫考
 1877(明治10)―1966(昭和41)。大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、政治家、男爵。
 参謀本部のロシア班、第一次大戦中のロシア従軍武官などを歴任し、陸軍内のロシア通として知られる。 1918(T7)シベリア出兵に際して特務機関長、派遣軍参謀として反革命軍を援助。憲兵司令官・陸大校長・第6師団長・教育総監部本部長・31(S6)犬養内閣の陸相を歴任。陸軍内派閥の皇道派の中心人物として、5・15事件後も斎藤實(7-1-2-16)内閣の陸相に留任し、国内体制のファッショ的な改革と対ソ戦争の準備を推進。33陸軍大将、翌年軍事参議官。 36 2・26事件では反乱軍に同情的な態度をとり、事件後予備役。38第一次近衛内閣の文相となり、徹底した軍国主義教育を推進。39内閣参議。敗戦後、極東裁判でA級戦犯として終身刑を宣告されたが、病気で仮出所し、その後釈放された。

 *妻である荒木錦子は、日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員などを歴任した。
*大将に昇進した荒木貞夫が男爵に叙されたのは、犬養・斎藤両内閣の陸相を務めた後の昭和10年の暮れ。華族となっても東京・幡ケ谷の自宅はみすぼらしく小さな二階屋のままだった。

 長男である荒木貞發氏は2002年で93歳になるが回想で以下のように言っている。

 概要「父が華族に列せられた時、ロンドン大学を卒業し、日産自動車ロンドン事務所の駐在員だった。父がなぜ華族に列せられたのかよく分からない。父がニコライ二世の金塊を日本へ運び込んだと思われる旅には、カモフラージュのためか子供の私も父に呼ばれ同行した。帰国後に父が偉くなったのは、参謀本部に金塊を預けたせいではないか、華族になったのもそのおかげではないかと思う」 。

【山下奉文考】
 「マレーの虎、山下奉文履歴考」に記す。

【小畑敏四郎考
 1885(明治18).2.19日―1947(昭和22).1.10日。日本の陸軍軍人。陸軍中将。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長・元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。陸軍三羽烏の一人。

 1885(明治18)年、元土佐藩士にして土佐勤皇党の男爵・小畑美稲の三男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎。学習院を経て、京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。少尉任官後、近衛歩兵第1連隊、歩兵第49連隊、真岡守備隊長を経て、1911年(明治44年)に陸軍大学校を卒業(23期優等)。1913年(大正2年)、大尉任官、参謀本部勤務。

 1915(大正4)年、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。モスクワ、キエフなどに観戦武官として派遣された。軍務局課員、参謀本部員を経て、1920(大正9)年、ロシア大使館付武官。しかし日本軍がシベリア出兵中であったために入国できず、ベルリンに滞在。

 1921(大正10).10.27日、ソ連駐在を命じられしばらくベルリンに足を止めていた小畑敏四郎少佐は、陸士同期であるスイス駐在武官・永田鉄山、岡村寧次少佐と共に、ドイツのミュンヘンの西南のドイツボーデン湖の近くに「バーデンの森」の中の温泉地バーデン=バーデンに集まった。発案者は岡村で、「現状打破はいかにすれば可能か」を話し合った。ベルリンで岡村に会い、この提案を聞き、人一倍血の気の多い小畑はたちまち賛成し、それならスイスにいる永田も呼ぼうということになった。徒党を組むよりも自力独行をモットーとする永田は、はじめ承知しなかったが、小畑の押しと岡村の説得に負けてバーデンバーデンにやってきた。三人とも37,8歳、男真っ盛りの少壮中堅将校で、常に主席を歩みつつ清濁併せ呑む人間的な魅力をもつ永田と、それに類する頭脳を持つ小畑、そしてその間に性格的にふくよかで、協調性に富む岡村の力強いトリオあった。陸士16期は「俊秀雲の如し」と呼ばれた。

 互いに情熱的に論じ立てた。第一次大戦という史上例を見ない大戦争の結果、もはや国防という大事を単に軍事面からみていられない時代が到来している。にも拘わらず陸軍の現状は、陸相・山梨半造、参謀総長・上原勇作、教育総監・秋山好古の3巨頭をいただき、長州中心の藩閥に固められている。この体制を打破しないことには次代の国防に対応できない。我ら少壮将校が一致団結し、まとまった力を持って突破する他はない。第一次大戦におけるドイツ敗戦の教訓も語り合った。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなければ国防を全うできないとして、戦争技術の高度化、複雑化、学問化、国民の必要を語り合った。ロシア革命問題も議論した。明治40年の「帝国々防方針」の決定によって、陸軍の仮想敵となったソビエトが今や軍事大国として現れた。必然的に満蒙には暗雲が漂い始めた。そればかりでなく思想敵としても影響力を及ぼしだしていた。新たな世界情勢認識でもあった。こうした内外ともに切迫した状況下にありながら、陸軍首脳は日露戦争勝利の夢を貪り、感状とか金鵄勲章とかの精神的誇りにのみ生き、急激に変転しつつある情勢に対応しようとする意欲を失っている。かく3人の意見は一致し、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。

 1922(大正11)年、参謀本部員。次第に対ソ戦略家として知られるようになる。1923年(大正12年)、中佐に進級、陸大教官。1926年(大正15年)、参謀本部作戦課長。1927年(昭和2年)、大佐に進み、岡山歩兵第10連隊長。このときの部下として、作家の棟田博がいる。聨隊長としての小畑は、初年兵への私的制裁を徹底的に禁止する一方、軍規には厳しく、どしどしと違反者を営倉に送ったため、「営倉聯さん」というあだ名がついたという。1929年歩兵学校校長をつとめ、歩兵マニュアルの改訂に努力した。

 1930年(昭和5年)、陸軍歩兵学校研究部主務。陸大教官を経て、1932年(昭和7年)、再び参謀本部作戦課長。同年少将任官し、近衛第10連隊長、参謀本部第三部長。1933年(昭和8年)、近衛歩兵第1旅団長。陸大幹事から校長を経て、1936年(昭和11年)、中将。皇道派の中心人物の一人として、永田鉄山ら統制派と激しく対立する。

 二・二六事件後、辞表を提出した。これは当時の軍人官僚にまず見られない潔い姿勢である。粛軍により予備役に編入される。日中戦争にあたって留守第14師団長となったが、健康上の問題で召集解除となった。

 第2次大戦のドイツ東部戦線の敗退について、ドニエステル川を突破されたら、ハンガリー平原まで後がない、と極めて的確な評を行った。第1次大戦のレチツキーとシェルバシェフの突破を想起したと思われる。

 1945年(昭和20年)9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と梅津を叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させたという。

 近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務める。1945/10/05   東久邇宮内閣総辞職。

 1947(昭和22).1.10日、死去。満61歳没。
 小畑は昭和天皇の批判に対し反論を残している。これは細川護貞に語ったものとされる(『日本陸軍英傑伝』 岡田益吉 光人社 1972)。「満井は、誰も抑えるものがいないので自分が引き取って厳重に戒告していたのだが、満井を相沢中佐の裁判に引き出したのは、陸軍次官古荘幹郎であり、あとで満井は自分に詫び状をよこしている。また、満井は、陸軍大学校長(小畑)に抑えさせますと上奏したのは自分ではなく、あるいは陸軍大臣がしたのではないか」。
 荒木貞夫 (元陸相) の次のような評がある。
 小畑君は敵の多い人だった。しかし自分の見たものの中で、これくらい用意周到で鋭い頭脳をもった男はいない。しかも、これぐらい名利を捨てて国事を思う人間はなかった。普通の人間ならかかり合いになるのを怖れて遠ざかるところを、彼は怖れず、それにぶつかってゆく。 十月事件に何ら関係もないのに大事と見て出て来て、進んで南陸相の上奏文を起草していた、などはそれである。正義派で、どこまでも強く、場合によっては寸毫も仮借しないが、また一面暖い面もあった。 近衛公がこの人柄をもって小畑君を信頼していた。小畑君も天子様の身代りのように近衛公を見ていたようである。高知の出身で、父は高級判事で男爵、貴族院議員小畑大太郎君の弟だ。あれくらい黒白を明らかにする男はない。彼は一方便乗派を非常に嫌った。そのため敵も多かった。作戦用兵が最も得意であった。

 三吉義隆 (元陸軍大佐)の次のような評がある。
小畑閣下が陸大での戦術論の冒頭、必ず口にされる有名な言葉があった。「百戦百勝は善の善なるものに非るなり、戦はずして而して人の兵を屈するは善の善なるものなり」という支那古代の兵書、孫子の謀略篇の中にある有名な言葉だ。これが小畑閣下の最も好まれた格言であった。「三吉、これが作戦の要諦だよ」と、たしか二、三度将軍の口から、直に伺った。こんな小畑閣下の作戦思想は、あくまで防衛が第一で、ソ連の出方によってはもちろん干戈を交えなくてはならないが、当方に厳たる備えがあれば、ソ連は恐らく手を出さないだろう、と閣下は観測しておられた。

北一輝
 別章【皇道派イデオローグ・北一輝考】に記す。

西田税










(私論.私見)