2.26事件史その2、決起直前の動き考 |
更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).1.31日
この前は【2.26事件史その1、決起前までの経緯考】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、2.26事件に至る経緯を確認する。2020年2月17日、「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】 」、「あの戦争の原因」、「ウィキペディア2..26事件」、「2.26事件を巡る(上)」、「ニ.ニ六事件を思う」、「皇道派と統制派の対立、二・二六事件」その他を参照する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【当時の農村の疲弊と惨状考】 | |
革新熱を高めた理由の背景に、慢性化した不況と農村の疲弊があった。1929(昭和4)年、アメリカ/ニューヨーク/ウォール街での株の大暴落パニックから始まった恐慌は日本をも直撃し、日本のアメリカへの主力輸出品である生糸の暴落へと導いた。生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落へと連動し、農家の生計は崩壊した。 追い打ちをかけたのが東北地方の凶作飢饉だった。農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年、7年、9年、10年の凶作群があって深刻化した。その中でも、北海道、青森の凶作は甚だしいものであった。農家は蓄えの米を食い尽くし、東北六県で3万4千人におよぶ欠食児童が出る事態となり、娘の身売りがあいついだ。1933(昭和8)年、昭和三陸地震が起き、三陸沿岸が津波で甚大な被害を受け、更に状況を悪くしている。 1934(昭和9)年、岩手県では農家7万7000戸の内40%は生活保護が必要とされていた。当時の新聞は「稗・粟さえも尽きようとし、楢の実が常食となり、農民が鶏のエサであるふすまや稗糠を買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は2万4000名を数え、12月には5万名を超えるものと予想された」と報じている。 1934(昭和9)年、山形県警察本部保安課の調査資料によると、昭和9年1月から11月までの間に山形県内の娘身売りの数は3298人で、その内訳は芸妓249人、公娼1420人、私娼1629人と記録している。「娘身売りの場合は、当相談所に御出下さい」と張り紙をした村役場も、東北地方では珍しくなかった。1934(昭和9)年、青森県の資料によると、青森県内の身売り数は2279人で、その内訳は芸妓405人+公娼850人+私娼1024人と記録している。 |
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青森県津軽車力村村史によると、1926(大正15)年、650人の農民の大行列が行進した。大行進の先頭に戸板に「小作料をまけろ」、「小作人の生血を吸う鬼畜生を倒せ」などのビラを貼りつけ、むしろの旗を押し立て、簑を着てインターナショナルを合唱しながら行進した。この村の村史には、「村役場には公然と娘を東京方面への娼婦としてあっせん紹介をする係りがあり、(中略)小学校は先生に月給の支払いのできないような状態に陥っていたのである」、兵隊は週一日の休みに、人力車曳きとして働き、僅かな金を貧しい実家の弟妹のために送金しているという状態すら村史に生々しく記録されている。二・二六事件の津島勝男中尉はこの津軽出身であった。(山口富永「近衛上奏文と皇道派」より抄出)。当時津軽は構造的に農民が困窮する問題を抱えていた。 | |
軍人たちはこうした貧困農家の子弟らを部下の兵士として持つことで、一層現実社会を変革する必要性を感じていった。事件参加者の一人、麦屋清済少尉は、事件を起こした青年将校の心情を代弁している。
すなわち、天皇親政という理想を掲げ、陛下の周りにいる「君側の奸」を討つことで昭和維新を成し遂げる、と云う世直し世の建て替え機運を醸成していた。事件に参加こそしなかったが、安藤等の同志であった大蔵栄一大尉は自分が革新運動へ参加した理由は貧困家庭への同情も勿論あるが、それよりは「権力への反抗の闘魂」が大きかった、と述べている 。 |
1936(昭和11)年の動き |
【政府が「第一次北支処理要綱」閣議決定(華北分離政策国家承認)】 |
1.5日、磯部は川島陸相を官邸に訪問し約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。磯部が「何とかしてもらわねばならぬ」と追及したが、川島の応答には具体性がなく、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うと、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えている。 |
【日本政府がロンドン軍縮会議から脱退】 |
1.15日、日本政府は、ロンドン軍縮会議から脱退通告。 |
【政府が「第一次北支処理要綱」閣議決定(華北分離政策国家承認)】 |
1月、政府が、武藤章が主導して永田鉄山の計画である「第一次北支処理要綱」閣議決定(華北分離政策国家承認)。「自治の領域は北支五省」、「いたずらに地域拡大しない」。石原莞爾も永田鉄山の同志として、正式に国家の政策として採用される。 |
【磯部が政治浪人の森伝とともに川島陸相と面会】 |
1.23日、磯部が政治浪人の森伝とともに川島陸相と面会し、「渡辺教育総監に将校の不満が高まっており、このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島陸相は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ」と告げている。 |
【磯部が真崎大将と時局談義】 | ||||||||||
1.28日、磯部が真崎大将を訪ねている。この時のことを磯部が次のように記している。
こうして磯部は真崎から金子の提供を受ける。これで、真崎が確実に自分たちの味方になってくれるという自信ができた。「余は、コレナラ必ず真崎大将はやつてくれる。余とは生まれて二度目の面会であるだけだのに、これだけの好意と援助とをしてくれるといふことは、青年将校の思想信念、行動に理解と同情と有している動かせぬ証拠だと信じた」。このやり取りによれば、真崎が、磯部らの決起に反対していないことが読み取れる。 |
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1.28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人の森伝を通じての500円の提供を約束した。磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。 |
【相沢三郎中佐裁判】 | |||
1.28日、相沢を裁く第一師団軍法会議が、青山にある第一師団司令部構内で開かれた。相沢の特別弁護人は皇道派の一人である満井佐吉中佐、弁護人は貴族院議員の鵜沢聡明博士が選ばれた。武藤章は、「永田少将殺害の相沢公判は、所謂公判戦術を弄して軍法会議の神聖を冒して上官を誹謗し、軍の秘密書類の提出を要求する等、全く言語道断の様相を呈した」と評している。 相沢三郎中佐裁判も青年将校の決起を促進した。高橋正衛氏は、相沢裁判について次のように記している。
磯部などはこの裁判を皇道派の弁明の場として活用しようとしていた。磯部は次のように評している。
磯部の決心は固まり二月二十六日へ向かって走り出す。 |
【安藤大尉が新井勲、坂井直などの将校を連れて山下邸訪問】 |
2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問している。山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」、「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。 |
【野中大尉と安藤大尉の密談】 |
2月初旬、野中四郎大尉が安藤輝三大尉を訪ねた。「俺は部下中隊を率いて参加することに決めたよ」と思い詰めた表情で話した。まさかと思っていただけに安藤は愕然とした。謹厳実直、一点の私心もなく、率先垂範、黙々と隊務に精進する先輩野中に対し、安藤は尊敬と憧憬の念を抱いていた。野中は在京革新将校の集会にもほとんど顔を出さず、圏外にあって専ら静観の態度をとってきた。安藤は、急進派の磯部浅一や栗原安秀中尉が主唱する兵力使用のクーデター計画に対して強硬に反対してきた。野中大尉は安藤大尉の考えに同調していたはずだった。それが豹変していた。磯部、栗原の説得工作が奏功したものと思われる。第一師団が満洲に移駐したら昭和維新断行は永久にこない。安藤大尉の考えは、(天皇親率の建軍の本義に反して、みだりに天皇の軍隊を私用することは、絶対に避けなければならない)もしも蹶起するならば大南洲、西郷隆盛に習わなければならない!首領西郷隆盛以下明治政府の軍人・官僚であった同志全員が職を退いて一端野に下った!そして郷里鹿児島に帰ったのち、私学校の生徒として薩摩隼人の軍団を編成し兵を起こして東上を始めた!挙兵の目的は、明治維新の初心を忘れ、権勢に驕って、欧米の自由思想に傾倒し、日本の進路を誤らんとしている新政府高官たちを問責し、綱紀を粛清して国政を正さんとした。この時、西郷の気持ちには軍事革命によって、政権を奪取しようなどの野望はまったくなかった。安藤を中心とする歩兵第三聯隊グループは現有指揮権を濫用して、軍隊を出動させることなど正面切って反対だったはずである。それが野中四郎大尉の突然の蹶起表明によって安藤の懊悩がはじまった。 |
【安藤大尉、栗原(中尉)、中橋(中尉)、河野、磯部の五人が秘密会合】 |
2.10日、決起の二週間前、歩兵第三連隊の週番司令室で安藤、栗原安秀(中尉)、中橋基明(中尉)、河野、磯部の五人によって会合が開かれた。磯部はこの会合を「A会合」と名付けられている。「五人以外の他の者を本会合には参加させまい。他の同志を参加させる会合をB会合としておく事」ということであるから、いわばこの「A会合」に集まる面々が決起の首脳部ということになる。 磯部の回想に「他の同志がたとい蹶起せずとも」と記されている。と云うことは、彼ら仲間内でも蹶起を強硬しようとする者と未だその時にあらずとする慎重派が居たことを示している。安藤は、その慎重派の一人だった。磯部は「余は安藤の決心を充分に聞きたかつたので 一応正してみると」、安藤「いよいよ準備をするかなあ」と答える。磯部「深重(ママ)な安藤が云ふことであるから安藤も決心していると考へた」。このやり取りから、安藤の言動が当初は決起に反対しており、次第に消極的ながら行動を共にする線を打ち出していったことが分かる。但し、「決意の披瀝」には至っていない。 |
【蹶起派の栗原安秀中尉と慎重派の新井勲中尉が激突議論】 |
2.12日、歩兵第三聯隊営門近くにあるフランス料理店の竜土軒で在京革新将校が激突した! 蹶起派の栗原安秀中尉と慎重派の新井勲中尉が激突議論した。炎のような栗原の早期決行論に対して新井は時期尚早論を主張して譲らない。険悪な空気の中で安藤輝三大尉は終始一言も発せず、頭を抱えて考え込んでいた。それから10日間、安藤は寝ても起きても懊悩し続けた。次のように自問している。
(大義とは大御心であり、天皇の神聖なお心である。すなわち、大御心が我々の義挙を是認して頂くのであれば、独断専行して兵力を使用することも許されるのではないか?
事前の承認を得ずして、軍隊を動かすことは完全な統帥権干犯となる。しかし、その責めは死をもって償えばよい。その後大御心が我々の赤心をお認め頂けば、実質的に大義に反することにはならない)
(蹶起すれば純粋な陛下はきっと烈しく憤られるであろう。あるいは逆上されるかも しれない。しかしそれは人間的な私憤であって、聖明な大御心というべきではない。陛下のお怒りに対しては、事の成否を問わず、我々が死を以てお詫びし、その責任を取らせていただく。その結果として世の中が良くなり、国民が幸せになれば、それが本当の大御心に添うことになる)
(一時は逆賊と呼ばれ、最大の汚名を蒙るだろう。しかし何十年後、何百年後に解って貰えれば、それでよい。楠木正成でも当時は逆賊叛徒として扱われたが、数百年を経た後、最高の忠臣として、日本人に尊敬されるようになった。安藤は、逆賊の汚名は喜んで受けるだけの心構えが出来た。真の大御心である永遠の大義に生きることを決心した秩父宮殿下も必ず解って下さるだろう)。
安藤は、10日間悩みぬいた。そして2.22日早朝、安藤を訪ねてきた磯部浅一に 「磯部、俺もとうとう決心がついたよ」と明るく話しかけた 。2.26日の蹶起以来、まったく動揺せず、2.29日の自決未遂まで突っ走っていく・・・・・。
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【「蹶起趣意書」考】 | |||
2.13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せている。蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、「依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す」と述べている。山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、一言も発しなかったと云われている。蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。 磯部は、獄中手記で次のように決起の心情を吐露している。
村中の憲兵調書には次のように記されている。
本庄日記にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可すると彼らが考えたとしても無理もないことになる。 菅波三郎は次のように述べている。
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【蹶起直前の五者申し合わせ】 | |
2.18日夜、栗原安秀中尉宅での会合で西園寺襲撃が決定された。磯部の回想録が次のように記している。
18日という、非常に切迫した段階でも安藤が時期尚早をとなえ決起に反対していることが判明する。磯部はとうとう独力決行の決意を披瀝し、このままでは両者は決裂するかにも見えた。 |
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「決起の少し前」と記しているだけで日にちが明らかにされていないが、龍土軒という料理屋で実行の是非を問う会合が開かれた。この時、決行を促す磯部や村中に対し、苦悩する安藤が決起をためらう理由づけの胸中を語っている。これを確認しておく。
これによると、安藤は、法的な裏付け、その合法性、正義性を模索していたことになる。 |
【憲兵隊の諜報活動と不審な傍観考】 |
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。クーデターの情報は、憲兵隊にも警視庁にも事前に入っていた。2月の初め頃、東京憲兵隊長に「歩一では山口、歩三では安藤が週番司令になった時一番あぶない」という情報が入っていた。 2.19日、三菱本社秘書課から「栗原安秀中尉一派が二五日頃重臣襲撃を決行する」との報告が憲兵隊にもたらされた。しかし東京憲兵隊は軍首脳に護衛をつけ、青年将校に尾行をつけたのみで、クーデターそのものを未然に防ぐための対策は何一つとらなかった。 |
【憲兵隊が海軍大臣直属の次官(山本五十六)に機密情報伝達】 | ||
2.19日、【極秘文書】2.26事件発生7日前、東京憲兵隊長(坂本俊馬)が海軍大臣直属の次官(山本五十六)に次のような機密情報をもたらしている。
海軍は2.26事件の計画を事前に知っていたことになる!
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【海軍の情報収集】 | ||
青年将校に襲撃されることになる岡田首相や斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長は共に海軍出身。海軍側は、事件勃発の前からその概要をほぼ正確に掴んでいたことになる。陸軍憲兵隊から知らされていたと云うことは陸軍当局も承知の上ということになる。ここから、「杉山元や東条英機ら統制派が反乱将校を泳がせ、戒厳令以後の権力掌握を狙っていた」とする澤地久枝女史の推理の信憑性が増す。澤地の推理には根拠がある。 | ||
2019.8.15日放送「NHKスペシャル 全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」が2.26事件の裏話を伝えている。それによると、海軍「軍令部」が、2.26事件勃発前後から事件終結までの顛末の一部始終を極秘文書6冊にしている。これを保管していたのは終戦時、海軍・軍令部第1部長だった富岡定俊少将。富岡が密かに保管し、これまで公にすることはなかった。 その内容を見ると、当事者である陸軍は軍人会館(後の九段会館)に急遽設置された戒厳司令部で情報を集めていた。それに対し、海軍は独自の情報網を築き、情報を取るため一般市民に扮した私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣、陸軍上層部に集まる情報を入手するなど、膨大な情報を収集していたことが判った。決起部隊の動きを監視し、分単位で記録、報告していた。と云うことは、「反乱将校の挙動が掌握されており、むしろ泳がされており、その仕掛けの中で事件が誘発された面が多分にあった」ことになる。誰が何の為にを詮索すればその闇は深い、と云うべきだろう。「NHKが二二六事件で、海軍が事件の一週間前から陸軍の決起部隊の動静を傍聴していた事実を公開。海軍は艦隊を東京湾に呼び寄せ国会議事堂に向けて大砲発射準備までしたとも」。 軍事史に詳しい大和ミュージアムの館長、戸高一成氏が次のようにコメントしている。
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2.26事件の事前の動きはいろんな所から漏れている。井上成美横須賀鎮守府参謀長は、5.15事件から「陸軍は必ずやらかす」という読みのもと、懇意の新聞記者にスパイさせて報告させていた。2.20日頃、今月下旬がヤバいという情報で鎮守府を緊急配備させ、当日軍艦を急行させようとしたが軍令部に止められている云々。 |
【磯部の根回し】 |
2.19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し同意を得る。対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。 |
【第19回総選挙】 |
2.20日、第19回総選挙。政友会惨敗、民政党は議席を回復するが過半数に届かず。社会大衆党が躍進。民政党 205議席(127 +78) 、政友会 171議席(242 –71)、国民同盟 15議席(20 –5):民政党からの分派 。社会大衆党他 18+4議席(5 +17)、昭和会 25議席(24 +1):政友会からの分派 、その他 28議席(48 -20) 。 |
【安藤大尉と西田の談義】 |
2.20日、安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。 |
【襲撃目標リスト】 |
2.21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。第一次目標は、岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、牧野伸顕(前内大臣)、西園寺公望(元老)。第二次目標は、後藤文夫(内務大臣)、一木喜徳郎(枢密院議長)、伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)、三井高公(三井財閥当主)、池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)、岩崎小弥太(三菱財閥当主)だった。磯部は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。 |
2.21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。 |
【暗殺目標決定】 |
2.22日、暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎陸軍教育総監が目標に加えられた。 |
【安藤大尉が参加確約】 | |
2.22日、磯部らの工作で歩兵第三連隊の安藤輝三大尉が部下と共に参加すると約束した。この経緯を確認しておく。磯部は、この日、安藤を訪ね、最後の決断を聞いた。「安藤、おれと一緒に死んでくれ」。安藤「磯部!安心してくれ。おれはやる。ほんとに安心してくれ」。ギリギリになっても決心ができなかった安藤が決起に賛成した理由につき、東京日日新聞記者の石橋恒喜が「同志への義理論」だったとして次のように記している。
石橋は、きっと失敗するに違いない同志を見捨てるに忍びなかったからこそ、安藤は決起に参加したのであろう、と考えている。確かに、安藤が決起したことで歩兵第三連隊は全体の六十パーセントの兵力を動員し、彼が率いた兵力は単独の指揮官のものとして最大の一五〇名にのぼる。安藤の性格を考えれば、同志へ殉ずるというのは考えられる理由である。 安藤は、野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と云われ、決起参加を決断した。安藤は、「個人的には蹶起せず、兵力を以て起ちたい」と述べて逡巡している。 磯部らは、この年1月から始まった相沢事件軍法会議が2.25日に結審となり、真崎も出廷し、皇道派の立場の宣伝のヤマ場を迎えると判断し、2.24日に至り、26日早朝の決起を決意した。2.25日、なぜ自分たちが重臣・元老を襲撃するのかという理由を「蹶起趣意書」に宣明し、具体的方策を「陸軍大臣要望事項」として書き上げた。この趣意書は2.24日に野中四郎が原文を書き、24日、北一輝宅で村中孝次が清書した。これらは事件当日、「陸軍大臣要望事項」と共に香田清貞が川島陸相の面前で読み上げることになる。 |
【安藤が部下の増田喬一等兵に語る】 |
2.23日、事件の直前、消灯後のこと。安藤は部下の増田喬一等兵を呼び出し、こんな話をした。「増田、お前は一選抜で上等兵になれず悲観しているだろうが、階級など問題にするな、一生懸命に軍務に精励すればそれでよいのではないか」。「ハイ」。「気を落とさず頑張れよ」。増田氏はこの時ことを、「大尉は弟をさとすような口調で暖かく励ましてくれた。中隊長が一等兵を呼んでこのようにお話されることは滅多にないことで、それ程までに私のことを心配してくれる安藤大尉に私は心から敬服せずにはいられなかった」と回想している 。 |
【25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止】 |
2.24日夜、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃、夜間演習名義で動員する計画を立てるが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。 |
【真崎甚三郎が軍法会議で相沢中佐擁護証言】 |
2.25日、相沢事件で相沢三郎中佐を擁護する為に真崎甚三郎が軍法会議で証言する。その翌日、2.26事件が発生する。 |
【西園寺避難】 |
事件直前、西園寺はなぜか事前に事件の起こることを知って、神奈川県警察部長官舎に避難している。 |
【憲兵隊本部が全国から300名の応援憲兵を東京に召集】 |
2.25日過ぎ、いよいよ情勢逼迫とみた憲兵隊本部は、全国から300名の応援憲兵を東京に召集、東京憲兵隊の兵力と合わせて警備する「非常警備計画案」を策定し、坂本俊馬東京憲兵隊長から憲兵司令官へ上申した。しかし司令官は病欠で代理の憲兵司令部総務部々長は「陸軍省が反対だ」という理由で、この案を握り潰している。陸軍省を占めているのは統制派で、統制派は事件を待っていた感がある。 |
この後は【2.26事件史その3、蹶起趣意書(二・二六事件)】に続く
(私論.私見)