【磯部浅一著作「行動記」】 |
(磯部浅一・行動記 ) |
「『青年将校は、北、西田の思想に指導せられて日本改造法案を実現するために蹶起したのだ』と 云ったり、『真崎内閣を作るためにやったのだ』等の不届至極の事を云って、ちっとも蹶起の真精神を理解しようとはせずに、彼等の勝手なる推断によって青年将校は殺されてしまひました。北、西田氏も亦同様に殺され様としています。青年将校は改造法案を実現する為に蹶起したものでもなく、真崎内閣をつくるために立ったのでもありません。
蹶起の真精神は 大権を犯し国体をみだる君側の重臣を討って大権を守り、国体を守らんとしたのです。ロンドン条約以来統帥大権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が宮中、府中にはびこって天皇の御位置をあやうくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。そもそも 維新と云ふことは皇権を恢復奉還することであって、陸軍省あたりの幕僚の云ふ政治経済機構の改造そのものではありません。
青年将校の考へは 一言にして云へば『 皇権を奪取 (徳川一門の手より、重臣元老の手より) 奉還して大義を明らかにすれば、国体の光は自然に明徴になり、国体を明徴にすれば
直ちに国の政・経・文教全てが改まるのである。これが維新である 』と 云ふのです。考え方が一般の改造論者とひどく相違しています。法務官などは此精神がわからぬものですから、『オイ、御前達は改造の具体案をもっているか。何ッ、もっていないッ。 そんな馬鹿な事があるか。具体案もなくて維新とは何だッ。日本改造法案が御前達の具体案だらう。何ッ、ちがいますう。嘘だ、御前達の具体案は改造法案にきまっている。あれを実現しようとしたのだ。サウダ、サウダ』。こんな調子で予審を終り、公判になって、民主革命を強行し、・・・・を押しつけられたのです。藤田東湖の『
大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 』。これが維新の真精神でありまして、青年将校蹶起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又、案と計画を実現すること、そのことでもありません。
維新の意義と青年将校の真精神とがわかれば、改造法案を実現する為めや、真崎内閣をつくる為に蹶起したのではない事は明瞭です。統帥権干犯の賊を討つ為に、軍隊の一部が非常なる独断行動したのです。私共の主張に対して、彼等は統帥権は干犯されず、と云ひます。けれどもロンドン条約と真崎更迭の事件は、二つとも明かに統帥権干犯です。法律上干犯でないと彼等は云ひますが、法律に於て統帥権干犯に関する規定がどこにあるのですか。又、統帥権干犯などと云ふものは、法律の限界外で行はれる事であって、法律家の法律眼を以ては見定めることは出来ないのです。これを見定め得るものは、愛国心の非常に強く、尊皇精神の非常に高い人達だけであります。統帥権干犯を直接の動因として蹶起した吾々に対して、統帥権は干犯されていないとし、北の改造法案を実現する為に反乱を起こしたのだとして罪を他になすりつける軍部の態度は、卑怯ではありませんか」。 |
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「行動記」の「第十三 いよいよ 始まった」は次の通り。
又、一部の急進者がアセリすぎて失敗したのだ等云ふな。決して然らず。機運の熟しない時は一部や半部の急進同志があせっても、決して発火するものではない。今回の決行は余や河野が強引にかけたものでもなく、栗原があせったわけでもない。同志の大部分が期せずして一致し、モウヨシ
決行しようと云ふ気になったのだ。
日本の二月革命は計画ズサンの為に破れたのではない。又 急進一部同志があせり過ぎた為に破れたのでもない。兵力が少数なる為でもなく、弾丸が不足のためでもない。機運の熟成漸く蛤御門の変の時機にしか達してゐないのに、鳥羽、伏見を企図したが、収穫は矢張り機の熟した程度にしか得られなかったと云ふ迄の事だ。同志よ、蛤御門なら長藩の損失になるのみだ。やらぬがいい等と云ふ様な愚論をするな。維新の長藩を以て自任する現代の我が革命党が、蛤御門も長州征伐も経過する事なく直ちに、鳥羽、伏見の成功をかち得やうとする事が、余りに虫のよすぎる注文であることを知って呉れよ。
二月二十六日午前四時、各隊は既に準備を完了した。出発せんとするもの、出発前の訓示をするもの、休憩をしてゐるもの等、まちまちであるが、皆一様に落ちついた様に見えるのは事の成功を予告するかの如くであった。豊橋部隊は板垣徹の反対に会って決行不能となったが、湯河原部隊はすでに小田原附近迄は到着してゐる筈である。各同志の連絡共同と、各部隊の統制ある行動に苦心した余は、午前四時頃の情況を見て、戦ひは勝利だと確信した。衛門を出る迄に弾圧の手が下らねば、あとはやれると云ふのが余の判断であったからだ。
村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まった。秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。五時五、六分頃、陸相官邸に着く。
「これから後の手記は成るべく詳細にして、後世発表の官報、官吏のインチキを叱正したいのだが、手記が余の行動を中心としたものたるをまぬかれ難いので、全同志の行動、並各方面の情況に対する全般的のものたる事を保し難い。又、遺憾なのは、余も村中も明日にも銃殺されるかも知れぬ身だから、記録が毎日、毎日、序論と本論と結論とをせねばならぬので、一貫した系統のあるものに成し難いことである。願くば革命同志諸君の理論と信念と情熱とに依って判読せられんことを」。
香、村、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余は遅れて到着す。余と山本は部隊の後尾にゐたのと、独逸大使館前の三叉路で交番の巡査が電話をかけてゐるのを見たので、威カクの為と、ピストルの試射とを兼ねて射撃をしたりしていたのでおくれたのだ。官邸内には既に兵が入ってゐる。香田、村中は国家の重大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと云って、憲兵とおし問答してゐる。余は香、村は
面白い事を云ふ人達だ、えらいぞと思った。重大事は自分等が好んで起し、むしろ自分等の重大事であるかも知れないのに、国家の重大事と云ふ所が日本人らしくて健気だ、と 思って苦笑した。憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと云ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に云って来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物でも着て是非出て来て会って戴きたい、と
懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。 |
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「行動記」の「 第十四 ヤッタカ!! ヤッタ、ヤッタ に 続」は次の通り。
余はこの間に、 正門其の他の部隊配置を見て歩く。
田中部隊の官邸到着が七、八分位ひ予定よりおくれた為に心配したが、
田中は意気けんこうとして、 「 面白いぞ 」 と 云ひつつ 余をさがして官邸に来る。
余は田中のトラック一台を直ちに赤坂離宮前へ向はしめ、渡辺襲撃隊の為にそなへる。
時間はどんどん経過するに大臣はまだ会見しようとせぬ。
高橋是清襲撃の中島 帰来し、完全に目的を達したと報ず。
続いて首相官邸よりも岡田をやったとの報、 更に坂井部隊より 麦屋清済が急ぎ来り、齋藤を見事にやったと告ぐ。
快報しきりに至る時、
歩哨が走って来て、 憲兵が多数来て、無理矢理に歩哨線を通過しやうとする由報告する。
見ると、トラックに乗った二十名ばかりが既に来て居る。
余は隊長(少佐)に会ひて、しばらく後退して呉れと頼む。 隊長はウンと云はなかったが、
軍隊同士が打ち合ひを演ずる様な事の不可なるを説き、
又、大臣に危害を加えざる旨を告げると、 それなら憲兵も一所に警備させて呉れと云うふので、
余は何等差支へなし、勝手にするといいだらふ、と云ひて自由意思にまかせる。 ・
安藤は 部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る。
ヤッタカ ! ! と 問へば、 ヤッタ、ヤッタ と 答へる。
各方面すべて完全に目的を達した。 天佑を喜ぶ。 官邸門前より邸内に入りて見れば、今だ大臣は出て来る様子。 小松秘書官が来た時、余、香、村、三人にて事情を話したる為、 大臣も安心して会見することにしたらしい。 ・ 午前六時三十分をすぎて、大臣漸く来る。 余等は広間に於て会見する。 香田が蹶起趣意書を読み上げ、 現在状況を図上説明し、 更に大臣に対する要望事項を口述する。 小松秘書官は側にて筆記。 此の時、 渡辺襲撃部隊より、目的達成の報告あり。 大臣に之を告げると 「 皇軍同士が打ち合ってはいかん 」 と 云ふ。 卒然 栗原が来り色をなし、 香田と口を揃へ 「 渡辺大将は皇軍ではない ! ! 」 と 鋭い応シュウをする。 大臣少しひるむ様子。 余は同志の国体信念にとうてつせる事をよろこんだ。 渡辺を皇軍と混同して平然たる陸軍大臣に、 厳然として其の非を叱りてゆづらざる同志の偉大なる事がうれしくてたまらなかったのだ。 大臣はウムとつまって、 「皇軍ではないか」 と 言ひ、 成程と云った態度。 要望事項に対して大臣は、 「この中に自分としてやれることもあればやれぬこともある。 勅許を得なければならぬものは自分としては何とも云へぬ」 旨を語る。 この頃 山口大尉、小藤恵大佐、齋藤少将等、相前後して来る。 余等は大臣に対し、真崎、山下、古莊、今井、村上等の招集を願ふ。 直ちに秘書官に依って電話で連絡がされる。 更に、満井佐吉、鈴木貞一等の招致をする事となる。 官邸正門より将校がたくさん這入って来て、静止し切れないとの報があったが、 余は丹生に向ひ、 成るべくテイ重に断り、 省内に入れない様にしておいて呉れとたのむ。 情況を見ようと思って玄関を出た所、山下少将の来るのに会ふ。 余は 「ヤリマシタ、ドウカ善処して戴きたい」 と 言ふ。 少将は ウムというとうなづき、 「来る可きものが遂に来た」 と 云ふ様な態度で官邸内に入る。
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「行動記」の「第十五 お前達の心は ヨーわかっとる 」は次の通り。
官邸正門前に於て
登庁の軍人を適当になだめて退却させていると、
一少佐が憤然として、
「余りひどいではないか、兵が吾々将校に対して銃剣をツキツケて誰何をする」 と 云ふ。
余は、其の通りだ、 すこぶるひどいのだ、 軍隊はすでに何年か以前に自覚せる兵と下士によって将校を非定しようとしていたのだ、 全将校が貴族化し、軍閥化したから、 此処に新しい自覚運動が起こった、 それが上官の弾圧にあふたびに下へ下へとうつって、 今や下士官兵の間にもえさかってゐるのだ、 貴様等の様に、自分の立身成功の為には兵の苦労も、 其の家庭の窮乏をも知らぬ顔の半兵衛でうなぎ上りをした奴にはわからぬのだ。 兵に銃剣を突きつけられて恐ろしかったのだらふ、 正直に云へ恐しかったのだろふ、 ドキンとしたのだらふ、 今に見ろ、 平素威張り散らした貴様等がたたきのめされる日が来るぞ、 と 云ってやりたかったが我慢して、 「アア左様ですか、仕方がないですね」 と 意味あり気に答へた。 実際、渡辺大将を襲撃して帰って来た安田、高橋太郎部隊の下士官、兵は、
トラックの上で万歳を連呼して、昭和維新を祝福し、 静止させる事の出来ぬ滔々の気勢を示していた。 時の陸軍大将、教育総監を虐殺して欣喜乱舞する革命軍隊の意気の前に、 陸軍省あたりの小役人、一少佐が何であるか。
歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。
余が近づいてみると真崎将軍だ。
「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか」 と いふ。
「とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる」 と 答へる。
「どうか善処していたゞきたい」 と つげる。
大将はうなづきながら邸内に入る。
門前の同志と共に事態の有利に進展せんことを祈る。
この間にも 丹生は、登庁の将校を退去させることに大いにつとめる。
余は邸内広間に入りて齋藤少将に、 「問題は簡単です、
我々のした事が義軍の行為であると云ふ事を認めさへすればいいのです、
閣下からその事を大臣、次官に充分に申上げて下さい」 と 頼むと、
「さうだ義軍だ、義軍の義挙だ、ヨシ俺がやる」 と 引受ける。 ・
石原莞爾が広間の椅子にゴウ然と坐している。
栗原が前に行って 「大佐殿の考へと私共の考へは根本的にちがふ様に思ふが、
維新に対して如何なる考へをお持ちですか」
と つめよれば、 大佐は
「僕はよくわからん、僕のは軍備を充実すれば昭和維新になると云ふのだ」 と 答へる。
栗原は余等に向って 「どうしませうか」 と 云って、ピストルを握っている。
余が黙っていたら何事も起さず栗原は引きさがって来る。
邸内、邸前、そこ、玆、誠に険悪な空気がみなぎってゐる。
齋藤少将が何か云ったら、
石原が 「云ふことをきかねば軍旗をもって来て討つ」 と 放言する。
少将は直ちに石原に向ひ、 「何を云ふか」 と 云ふ態度でオウシュウする。
大臣と真崎将軍とは別室に入りて談話中。
山口大尉は小藤、石原、齋藤少将等と何事かをしきりに談合中。
註
時間の関係が全然不明。 二十五日夜より二十九日夕迄、食事をとること僅かに三度だ。 呑気に食事なぞする余裕がない程に、事態が変転急転するので、 時計を見るひま、その時間を記憶する余裕などとてもない。 左様な次第ですから事実の前後関係については、多少の相違があるかもしれん。
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「行動記」の「 第十六 射たんでもわかる 」は次の通り。
午前九時過ぎ、
田中勝が 「片倉が来ています」 と告げる。
直ちに正門に出て見たが、どれが片倉か不明だ。
約十四、五名の軍人が 丹生其の他の同志と押問答をして、 なかなかラチがあきさうにないのを実見して、 広間に引きかへす。 余は登庁の幕僚との間に、斬り合ひ、射ち合ひが起ると、 折角 真崎、川島、山下、齋藤 等の将軍が好意的援助をしさうにみえるのに、 流血の一事によって却って同情を失ひ、 余等の立場が不利になりはしないかと云ふことを、 ヒョット考へついた為に、 片倉をヤル事をチュウチョせねばならなかった。 然し、門前に於ける同志と幕僚との接渉が極めて面倒になって来た事を考へたので、 二たび室外に出て片倉を見定める事にした。 ・ 幕僚の一群はその時、 ガヤガヤと不平を鳴らしつつ門内に入り来って、丹生の制止をきかうとしない。 此処で余は一人位ひ殺さねば、 幕僚どもの始末がつかぬと思ひ、片倉を確認した。
その頃、広間では、
陸軍省の者は偕行社、参謀本部は軍人会館に集合との命令を議案中であったので、
成るべくなら早く命令を下達してもらって、 血の惨劇をさけようと考へたので、又、広間に引きかへした。
丁度、集合位置に関する命令案が出来て下達しようとする所であった。
その時 丹生が来て、 とても静止することが出来ません、射ちますよと、云ふ。
余が石原、山下、その他の同志と共に玄関に出た時には、
幕僚はドヤドヤと玄関に押しかけて不平をならしてゐる。
山下少将が命令を下し、 石原が何か一言云った様だ。
成るべく惨劇を演じたくないといふチュウチョする気持ちがあった時、
命令が下達されたので、余はホットして軽い安心をおぼえた。
時に突然、片倉が石原に向って、
「課長殿、話があります」 と 云って詰問するかの如き態度を表したので、
「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグヅグヅと文句を云ふか ! 」
と 云ふ気になって、 イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をアテテ射撃した。
彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった。
余は刀を右手に下げて、残心の型で彼の斃れるのを待った。
血が顔面にたれて、悪魔相の彼が
「射たんでもわかる」 と 云ひながら、傍らの大尉に支えられている。
やがて彼は大尉に附添はれて、 ヤルナラ天皇陛下の命令デヤレ、と怒号しつつ去った。
滴血雪を染めて点々。 玄関に居た多数の軍人が、この一撃によってスッカリおぢけついたのか、 今迄の鼻意気はどこへやら消えてかげだにない。 一中佐は余に握手を求めて、 「俺は菅波中佐だ、君等は其れ程に思っているのか、もうわかった、俺もやる」 と 非常成る好意を示した。 余は 「私は粛軍の意見書を出して免官になった磯部です、 貴下の令弟三郎大尉にはクントウを受けました、国家の為によろしく御盡力下さい」 と 懇願した。 何だかハリツメた気がユルンダ様だった。 栗橋主計正に会ったので、 「菅野主計正によろしく伝言をしてたのみます、 片倉を殺しましたと云ふ事を一言お伝へ下されば結構です」 と 云ったら、 主計正は 「死なないだらふ」 と 云ふ。 余はハットした。 しまったと思った。 頭に銃口をつけて射った程だからきっと斃れる、 三十分とはもてまい位ひに考へて、致命傷だと信じ切ってゐた時、 「死なないだらふ」 の 一言は、冷水を背に浴びる程の思ひがした。 この一言をきいてイライラして立って居ても居られぬショウサウを感じた。 二十五日、午后西田氏と決別するとき、 「失敗しましたらコレをやって、他の人に迷惑をかけない様にする」 と 云って、 自分の頭部を射撃する真似をした程で、
頭部を射てば一発で死ねるものだと信じ切ってゐたので、 片倉が 「射たんでもわかる」 「天皇陛下の命令でヤレ」 等と云って、 死なないで去って行くのを目げきしながら、 微塵の疑問を起こさなかったのだ。 はずかしながら自分でもわけがわからぬ、 格別あわてたとも思はないのだが。
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「行動記」の「第十七 吾々の行動を認めるか 否か 」は次の通り。
片倉射撃の状況が新聞に報道されたのによると、
「犯人が射撃した時、馬鹿と大声で叱ったら腰をぬかしてピストルを落した」
と 片倉の家族が談話してゐるとの事だが、 腰をぬかしたのは断じて余に非ず。
余の腰はピンと張ってゐて、軍刀を右手にヒッサゲ、 左足を一歩前に踏出して次の斬撃を準備し、
一分のスキも見せなかったことはたしかだ。
ピストルを落したのは事実だ。 それは余が右手で射撃したら片倉がパット四、五歩避けたので、
間髪を入れず軍刀を抜いた。
その時ピストルをサックに入れる余裕をもたなかった。
ピストルを棄てるのと抜刀するのと同時だったのだ。
この間の動作は無意識だから、 今になってなぜピストルを棄てたかと、なぜ軍刀を抜いたかと問はれても、 理由は全くわからん。
予審中 理由をきかれてこまった。
唯ハッキリしてゐる事は、 一発射撃すれば充分死ぬと信じ切ってゐたので、
射撃後は単に軍刀で残心を示した程度で、殺意が猛烈でなかったことだけは明言出来る。
( 同志諸兄、殺人が悪にしろ、善にしろ 一刀両断、 唯一刀にして人を殺して、またたきもせぬ程の人間は余程の人物だ。
死屍を自ら点検し、トドメを刺す程の落着いた動作は、 修養をつんでおかぬと、とても出来さうにもないことを実感した。
林、安田、安藤等多くの同志が、皆斬殺時、
殺した直後ホッとした気のゆるみを感じたと云ってゐる。
余もはずかしながら一刀両断してまたたき一つせぬ程の徹底悟入した境地には、
余程遠いことを自白する。)
片倉は射撃された時、 「馬鹿ッ」 と 云って大声で叱りはしなかった。
「射たんでもわかる」 と 云った。
その語気は弱々しいもので、 極端に云ふと、泣き声の様であった事を附け加へておく。
片倉ばかりではない。 そこにいた軍人が等しく泣きたい様な感じをもった事は、誰も云ひのがれは出来まい。
丹生、竹島、両人は余の手をとって涙を出していた。
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午前十時頃か、陸軍大臣参内、 続いて真崎将軍も出て行ってしまった。
官邸には次官が残る。
満井中佐、鈴木大佐 来邸する。
午後二時頃か、 山下少将が空中より退下し来り、集合を求める。
香、村、対馬、余、野中の五人が 次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立会ひの下に、
山下少将より大臣告示の朗読呈示を受ける。
「諸子の至情は国体の真姿顕現に基くものと認む。この事は上聞に達しあり。
国体の真姿顕現については、各軍事参議官も恐懼に堪へざるものがある。
各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す。
これ以上は一つに大御心に待つべきである」 大体に於て以上の主旨である。 対馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む。 余は吾々の行動が義軍の義挙であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する。 山下少将は口答の確答をさけて、 質問に対し、三度告示を朗読して答へに代へる。 次官立会の諸官は大いにシュウビを聞きたる様子がみえる。 次官は欣然とした態度になって参内し、陸軍大臣と連絡し、 吾等行動部隊を現地に止める様 盡力する旨を示す。 西村大佐は香椎中将に連絡し、同様の処置をなすべく官邸を出る。 将に日は暮れんとする。 雪は頻り。 兵士の休養を考へたのだが、 軍首脳部の態度の不明なる限り警戒をとくわけにもゆかぬ。 ・ 参謀本部の土井騎兵少佐が来て、 「君等がやったからには吾々もやるんだ、
皇族内閣位ひっくって政治も経済も改革して、軍備充実をせねばならん、 どうだ吾々と一緒にやらふ、 君等は荒木とか真崎とか年よりとばかりやっても駄目だ、 あんなのは皆ヤメサシてしまはねばいかん」 等と、とんでもない駄ボラの様な話をし出した。
余は此のキザな短才軍人に怒りをおぼえたので、
維新は軍の粛正から始まるべきだ (幕僚の粛正)、
これを如何に考へておられるのか、と 突込む。
返答に窮したる情態。 時に村中が、 「オイ磯部、そんな軍人がファッショだ、
そ奴から先にやっつけねばならぬぞ、放っておけ、こっちへ来い」 と 叫ぶ。
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「行動記」の「 第十八 軍事参議官と会見 」は次の通り。
馬奈木敬信中佐が吾々の集っている広間へ来て、
「吾々もやる、君等は一体如何なる考へを持ってゐるのか」 と問ふ。
維新内閣の出現を希望すると答える。 中佐は参謀本部では皇族内閣説があるが、君等は如何に考へるかと言ふ。 余が皇族内閣の断じて可ならざるを力説すると、氏も同調する。 この時 満井中佐がドアの所より 磯部一寸来い と呼ぶ。 中佐はイキナリ 「馬奈木からきいたか」 と 「ハア、皇族内閣ですか、石原案ですか、ソレナラ断じて許しませんよ」 と答へる。 中佐も同感なる旨を告げる。 「コノママブラブラしてゐるといけない、宮中へ行こう、参議官に直接会って話してみよう」 と 云ふ意見を中佐が出す。 村中、香田、余の三名は山下少将について、
満井、馬奈木 両氏と共に参内せんとして自動車を準備する。 出発せんとした時、 山下は 「官邸にて待て、俺が参議官を同行する」 と 云ひたるも、 余はどんな事があるかもしれんから、 兎に角 宮中に行かうと主張して少将の車を追ふ。 日比谷、大手町あたり市中の雑踏は物すごい。 御成門( 坂下門) に到り 少将は参入を許されたるも、満井、馬奈木中佐、余等共に許されぬ。 止むなく官邸に帰り参議官の到来を待つ。 ・
午後十時頃、 各参議官来邸、余等と会見することとなる。
(香、村、余、対馬、栗原の六名と満井、山下、小藤、山口、鈴木)
香田より蹶起主旨と大臣に対する要望事項の意見開陳を説明する。 荒木が大一番に口を割って 「大権を私議する様な事を君等が云ふならば、吾輩は断然意見を異にする、 御上かどれだけ、御シン念になっているか考へてみよ」 と、頭から陛下をカブって大上段で打ち下す様な態度をとった。 これが、二月事件に於ける維新派の敗退の重大な原因になったのだ。 余はこの時非常にシャクにさわった。 「何が大権私議だ、この国家重大の時局に、 国家の為に此の人の出馬を希望すると言ふ赤誠国民の希望が、なぜ大権私議か。 君国の為 真人物を推す事は赤子の道ではないか。 特に皇族内閣説が幕僚間にダイ頭して策動頻りであるとき、 若し一歩を過らば、国体をきづつける大問題が生ずる瀬戸際ではないか」 と 言ふ意味の云を以て、 カンタンに荒木にオウシュウする。 村中は皇族内閣説の不可なる理由を理路整然と説く。 これには大将連も一言もなかった。 スッカリ吾人の国体信念にまいった様子がみえて 駄弁な荒木も遂に黙する。 植田がコビル様な顔つきで村中に何か話している。 林は青ざめた顔をして下をウツムイて頭を揚げ切らぬ。 カスカかにふるへてゐる様にも見えた。 安部も真崎も西義一も何も云はぬ。 寺内がどうすればいいのだと云ふ。 此の会見が全くウヤムヤに終わり、
吾等も大した具体的な意見を出し得ず、彼等も何等良好な解決策をもたず、 単なる顔合せになってしまったのは、ヘキ頭の荒木の一言が非常に有害であったのだ。 和やかに青年将校の意見を聞き、御互ひに福蔵なく語り合ったらよかったのだが、
陛下、陛下でおさえられて、お互ひに口がきけなくなったのだ。 山下、満井、鈴木の諸氏の中、 誰か一人縦横の奇策を以てこの会見を維新的有利に導くことが出来たら、 天下の事、此の一夜に於て定まっていたのだ。 余は 「軍は自体の粛正をすると共に維新に進入するを要する」 との旨を紙片に記し、
各官に示したるに、寺内は之を手帳に記入した。
(皮肉なる哉、余の此の意見によって、今や寺内が吾が同志を弾圧してゐるのだ、
余の軍粛正は維新的粛軍であったが、寺内は維新派弾圧の佐幕的粛軍をやっている。) 会見に於て具体的な何物をも収カク出来なかったが、 各官が吾々を頭から弾圧すると言ふ態度はなくて、 ムシロ子供がえらい事を仕出かしたが、 まあ真意はいいのだから何とか処置してやらずばなるまいと云ふ風な、 好意的な様子を看取する事が出来たのは、いささかの安心であった。 ・ 深更、二十七日午前、 戦時警備令が下令され、吾が部隊がこの中に編入された事を知る。 払暁戒厳令の宣布をきき、我が部隊が令下に入りたるを確知し、余は万歳を唱へた。 この頃、帝国ホテルにて満井、亀川哲也等と会ひたる 村中帰来し、 「同志部隊を歩一に引揚げやう。皇軍相撃は何と云っても出来ぬ」 と 云ひて同志にはかる。 余は激語して断然反対する。 「皇軍相撃が何だ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、
若し同志が引きあげるならば、余は一人にても止りて死戦する」 の 旨を主張した。 若し情況悪化せば、余は田中部隊と、栗原部隊を以て出撃し、 策動の本拠と目されるる戒厳司令部をテン覆する覚悟を以て陸相官邸を去り、 首相官邸に陣取る。 |
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「行動記」の「 第十九 国家人なし 勇将真崎あり」は次の通り。
(一) 午前八、九時であったか、 西田氏より電話があったので、
余は簡単に 「退去すると云ふ話しを村中がしたが、断然反対した、
小生のみは断じて退かない、もし軍部が弾圧する様な態度を示した時は、
策動の中心人物を斬り、戒厳司令部を占領する決心だ」 と 告げる。
氏は 「僕は亀川が退去案をもって来たから叱っておいたよ」 と いふ。
更に今 御経が出たから読むと云って、
「国家人なし、勇将真崎あり、国家正義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ」
と 零示を告げる。
余は驚いた。
「御経に国家正義軍と出たですか、 不思議ですね、私共は昨日来、尊皇義軍と云っています」
と 云ひ、 神威の厳粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ。
丁度その時、村中が香田と共に首相官邸に来たので、
このことを告げ 真崎に依頼しようと云ふことを相談し、各参議官の集合を求める事にした。
且一方、部隊を一と先、議事堂に集結することに決す。
(二) この日の首相官邸は、 激励の訪客が引っきりなくあった為に、極めて多忙であった。
右翼団体の幹部とか、陸海軍の予備役将官等が電話で激励をして呉れたり、
青年団体、日蓮宗の宗団が邸前へ来て、 ラッパや太鼓をならして万歳を唱へたりした。
この日、 午前中に陸相官邸その他永田町台上一帯の警戒を寛にして、 出入りの自由を許した為、
見物人が続々と這入って来て、賑かな騒ぎを生じてゐた。
行動隊は戒厳命令によって、 台上一帯の警備を命ぜられ、 且つ 印刷の大臣告示に依ると、
「 諸氏の行動は国体の真姿顕現の為であると認める、 この事は上聞としてある、云々」
と 明記されて行動を認められているのだ。
戒厳命令は第一師戒命として、
「二十六日以来行動せる将校以下を、 小藤大佐の指揮に属し、永田町・・・・の間の警備を命ず」
と 云ふものである。
余等はこの事を知って百万の力を得た。
然し、何だか変な空気がどこともなくただよっているらしい事には、
しきりに吾が隊の撤退を勧告する事だ。
満井中佐や山下少将、鈴木貞一大佐迄が、撤退をすすめるのである。
満井中佐は、 維新大詔渙発と同時に大赦令が下る様になるだらふから一応退れと云ふし、
鈴木大佐 又、一応退らねばいけないではないか、と云ふ意向を示す。
余は不審にたへないので、 陸相官邸に於て鈴木大佐に対し、
「一体吾々の行動を認めたのですか、どうですか」 と 問ふ。
大佐は、 「それは明瞭ではないか、戒厳令下の軍隊に入ったと云ふだけで明かだ」 と 答へる。
行動を認めて戒厳軍隊に編入する位であるのに、 一応退去せよと云ふ理屈がわからなくなる。
か様な次第で、 不審な点も多少あったが、概して戦勝気分になって、
退去勧告などは受けつけようとしなかった。
午後二時頃になったかと思ふ。
真崎外の参議官と会見する事となり、全将校同志が陸相官邸に集合する。
真崎、阿部、西 (荒木、植田、寺内、林は不参) の三将軍 と 山口、鈴木、山下、小藤の諸官が立ち会った。
野中大尉が、
「事態の収拾を真崎将軍に御願ひ申します、
この事は全軍事参議官と全青年将校との一致の意見として御上奏をお願い申したい」
と 申込む。
真崎は
「君等が左様云ってくれることは誠にうれしいが、
今は君等が聯隊長の云ふことをきかねば、何の処置も出来ない」
と 答へ、部隊の退去をほのめかす風さえ察せられる。
どうもお互ひのピントと合はぬので、もどかしい思ひのままに無意義に近い会見をおわる。
安部、西 両大将が真崎をたすけて善処すると言ふことだけは、ハッキリした返事をきいた。
註 同志中に大政略家がいたら、極めて巧妙なカケヒキ (或いは極めて簡短なる一石を以てかもしれぬ) を以て、 全軍事参議官と青年将校との意見一致として、事態収拾案の大綱を定めて、 上奏御裁下をあおぐ事は易々たる事であったと思ふ。 今の小生にはそれが出来るが、当時の同志には誰にもそれ程の手腕がなかった。 この会見は極めて重大な意義をもっていたのに、
全くとりとめのないものに終わった事は、維新派敗退の大きな原因になった。 吾人はシッカリと正義派参議官に喰ひついて幕僚を折伏し、
重臣、元老に対抗して、戦況の発展を策すべきであった。 真崎、阿部、西、川島、荒木にダニの如くに喰ひついて、 脅迫、煽動、如何なる手段をとってもいいから、 之と離れねばよかったのだ。
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「行動記」の「第二十 君等は奉勅命令が下ったらどうするか 」は次の通り。
廿七日は時々、軽微な撤退勧告があったが、 午後になって宿営命令が発せられたので、スッカリ安心してしまった。
註 本日朝来、余が面会した人は、 田中国重大将、江藤源九郎少将、齋藤少将、日高海軍少佐(軍令部)、
某海軍中佐、榊原主計大尉(参謀本部)、陸軍大学兵学教官、某砲兵中佐等であった。
その他 相当多数の人に会ったが、氏名は不明又は忘却して今はわからぬ。
今になって反省してみるに、 革命暴動的立場にあるものが、種々雑多な面会者に会見する事は避くべきである。
常に革命党の対照的位置にある当局者、 責任者をねらって、之と交渉を断たぬ様にせねばならぬ。
特に反対派の中心人物の動きには一瞬も目をはなってはならぬ。
反対的中心点は見つけ次第にテンプク討滅せねばならぬ。涙は禁物である。
如何におどかされても、すかされても、哀願されても、だまされてはならぬ。
冷厳一貫の信念に立って進まねばならぬ。
夜に入り、各部隊は宿舎につく、
野中部隊、鉄道大臣官邸。
鈴木部隊、文部大臣官邸。
清原部隊、大蔵大臣官邸。
栗原、中橋部隊、首相官邸。
田中部隊、農林大臣官邸。
丹生部隊、山王ホテル。
安藤部隊、幸楽。
而して 支隊本部は鉄道大臣官邸に位置する。 余は田中と共に農林官邸に入りて休む。
午後十一時頃、 首相官邸を本夜夜襲して武装解除をすると云ふ風説ありとの通報を受ける。 余はこの風説は単なる風説ではないと感じたので、
或は吾々の方より偕行社、又は軍人会館を襲撃して、 反対勢力を撃破せねばならぬのではないかと考へ、 栗原に出撃の時機方法を考究しようとの旨を連絡した所、 林八郎がやって来て 「吾々は戒厳令下なあるから戒厳軍隊を攻撃すると云ふ様なことはあるまい」 と云ひて、 出撃問題は立ち消えとなる。 (当夜は、各隊ともに安心して休宿した事を後になって知った) ・ 二十八日朝、 山本又が神谷憲兵少佐を伴ひて来る。 三、四 雑談を交したる後、 少佐は戒厳司令部に至り、君の意見を司令官に話したらどうだと云ふ。 余は本朝来の二、三の情報 ( 清浦が二十六日参内せんとしたるも、湯浅、一木に阻止されたこと。 註、清浦参内案は森氏の平素の案であって、 真崎スイセンがこのグループの方針であった。 この事に関し、 余と森氏の間に相当に具体的談合は交わされてゐた事を付記しておく。 晩夜半寺内、植田謙吉、林三大将が、香椎浩平司令官を訪ねたる結果、 軍首脳部は行動部隊を弾圧することに意見決定せりとのこと ) より 推察して、 情況は一夜の内に逆転して維新軍に不利になっていることを考へたので、 少佐の勧めに従ひ、司令官に面接して赤心を吐露してみようと決心した。 自動車にて市中の雑とうを縫ひて司令部に至れば、実に物々しい警戒だ。 とても吾々の意見を受け容れて呉れそうな空気はない。 余はそこで、コレハ非常の手段をとらねばならぬかもしれぬ。 司令官と差しちがへる腹で事にあたらふと決意して、神谷少佐にアッセンを依頼し、 副官に取次ぎをたのみたるも、言を左右にして面会をさせぬ。 一時間以上も待ちぼうけをくはされた後に、少佐は余のピストル、短刀をあずかるといふ。 余は 「コノママ検ソクされるのではないか」 と 語をあらめて尋ねたが、 ちかって左様な事はせぬと云ふので、二品を渡す。 暫くして神谷少佐は、 「司令官は唯今陸軍大臣と会談中だから面会出来ぬさうだ」 と 告げる。 余は大臣同席の場で面会をさして呉れと云ふたが、きき容れるどころではない。 この時、この重大時機に第一に会見意見を求むべき余等を無視するの態度が、 グッと胸にこたへたので、今にみろと言ふ反撥心が湧沸する。 突然 石原大佐が這入って来て側に坐し、 「君等は奉勅命令が下ったらどうするか」 と 問ふ。 「ハアイイデスネ」 と 答える。 「イイデスネではわからん、キクカ、キカヌかだ」 と 云ふ。 「ソレハ問題では ないではありませんか」 と 答へる。 一向に要領を得ぬ。 余は大佐に、行動部隊を現地におく様司令官に意見を具申して呉れとたのむ。 大佐は去る。 満井中佐が来る。 「中佐殿、貴下方は私共を退かす事にばかり奔走して居られるが、 それは間違ひではないか、 吾々があの台上に厳乎として存在して居ればこそ、機関説信奉者が頭をもたげないのです。 一歩でも引けば反対勢力がドットばかりに押しよせるのではないですか、 何とかして現地において下さい」 と 悲痛な声をしぼる。 実際、余はこの時程痛切な思ひをした事はない。 満井中佐程の人物ですら、この理屈とこの哀願がわかって呉れぬのだ。
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「行動記」の「第二十一 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 」は次の通り。
満井中佐は、 司令官にも、一度自己の意見を具申すると云ひて去る。
再び 石原大佐が入り来り、
「司令官に強硬なる意見具申をしたるも、 きかれず、司令官は奉勅命令は実施せぬわけにはゆかぬ。
御上をあざむく事は出来ぬと云ひ、断乎たる決心だ。
どうだ、君等は引いてくれぬか、この上は男と男の腹ではないか」 と 云ふ。
満井中佐再び来り、 落涙しつつ余の手を取り、引いてくれといふ。
石原大佐亦握手をして、引いてくれと落涙する。
余は少しく感動したるも、 引く事は全維新派の敗北になると信じていたから、
両氏の切願に対して快諾を与える事が出来なかった。
「同志の軍隊は、私が総指揮官であるわけではないから、 私が引けといふわけにもゆかぬし、云ってもとても引きはしますまい、 然し私は、私の力だけで出来る丈善処しませう。
唯磯部個人としては絶対に引きません、 林大将等の如きが現存して策動してゐる以上、
これをたほさずに引きさがる様な事があっては蹶起の主旨にもとるのです、 一人になってもやります、絶対に引きません」 と 明答する。
石原、満井 交々 「林大将の問題はおそからず解決されるのだから引いてくれ」
と 云ひて、声涙共に下る。
余は力なく ハイ と 答へて訣別をする。
すべての希望を断離されたる無念さ、云はんかたなし。
自動車にて陸軍省への帰途、 車中、柴大尉は戦車、軍隊、ロクサイ等による包囲陣を指しながら、
「磯部、これではとても頑張ってみた所で駄目だ、引かないか」 と 勧める。
余は無言。
この時烈々の叛意が全身に沸き立つ。 ・
陸軍大臣官邸に同志をさがして 一室に突入するや、
「オイッ、一体どうすると云ふのだ。今引いたら大変になるぞ、絶対に引かないぞ」
と 大声一番する。
この席に 山下、鈴木、山口の諸子と 村、香、栗等が居て、
既に退去することに決定している模様である。
余は一応理由を云ひて、決戦的態度で飽く迄頑張るべきことを主張した。
この為に もう一度よくよく相談しようと云ふ事になり、 山下、鈴木の両氏去り、山口氏を交へ五人にて相談す。
栗原が
「統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申上げようではないか。
奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、
御伺ひ申上げたうえで我々の進退を決しよう。
若し 死を賜ると云ふことにでもなれば、将校だけは自決しよう。
自決する時には勅使の御差遺位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか」
と の意見を出す。
余が一寸理解し兼ねて質問を発しようとした時、 山口氏かせ突然大声をあげて泣きつつ、
「栗原、貴様はえらい」 と 云ひて 栗原のかたわらに至り、相擁す。
栗原も泣く、香田も泣く。
統帥系統を通じて(小藤--堀--香椎) 御上に吾人の真精神を奏上し、 御伺ひをすると云ふ方針は、此の際極めて当を得たるものなることを感じたので、
余は 「ヨカロウ、それで進まう」 と 云ふ。
ここにおいて山下、鈴木両氏に栗原の意見を開陳せる所、
両氏も亦落涙して、有難う有難うと云ひつつ吾等に握手する。
この時、堀、小藤来り、 奉勅命令は近く下る状況にあるのだから引いて呉れ、と涙にて勧告する。
時に余が、ヒョイト考へたことは、
どうも 山口、山下、鈴木は、吾々の自決する覚悟に対して感泣 したらしいので、
山口氏に対し 「上奏文に何と書くのです、死を賜りたい等と書いたりしたら大変ですよ」
と 云ふ。
山口氏は一寸考へてゐたが吾々は陛下の御命令に服従しますと書いた。
どうも余の考へと少し相違する。
その頃 同志はボツボツ官邸に集合して来る。
村中は同志集合の席で、 「自決せねばならなくなるかもしれん、自決しよう」 と 云ふ。
余は 「俺はイヤダ」 と吐き捨てる様に答へる。
そして香田、村中、栗原を各個に小室に伴ひて、
「一体、ほんとうに自決するのか、そんな馬鹿な話はないではないか、
俺が栗原の意見にサンセイしたのは、自決すると云ふ所ではない、
統帥系統を通じて御上に吾人の真精神を申上ぐべく御伺ひすると云ふ所だ。
山下、鈴木、山口 共に感ちがひをしてゐるのではないか」
と 云ひて、自決の理由なきを説く。
註 ①二十八日午前、
余が戒厳司令部に行きたる間に 村中、香田、対馬等は第一師団司令部に堀丈夫中将を訪ひ、
奉勅命令は出たか、否かをただした所、 奉勅命令は下達されていないと云ふ事を明言した事実がある。
村、香は、此の後 陸軍省にて余と行き合ひ、前記の始末になった。
二十八日午前八時勅命実施といふのが延期されたので、 堀は下達されてゐないと答へた所が、
午前十時から実施すると云ふことが確定したので、 山下、鈴木、満井等が、退去を勧告したのだ。
吾々は其の裏の事情を少しも知らぬ、 唯何だか奉勅命令でオドカサレテゐる様にばかり考へた。
堀は十時よ り勅命実施の事を知って驚いて陸軍省に来り、 退去を勧告したわけだ。 ②鈴木、山下、堀、小藤各官が交々退去を勧告するので、 止むなく退去、或ひは自決を覚悟する。
余は吾々をこの羽目におし落した不純幕僚に対し、沖天の怒りをおぼえた。
悲憤の余り、別室に入りて天地も裂けよと号泣する。
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「行動記」の「第二十二 断乎決戦の覚悟をする 」は次の通り。
全同志を陸相官邸に集合させようとして連絡をとったが、 なかなか集合しない。
安藤、坂井は強硬論をとって動じない。
村中は安藤に連絡のため幸楽へ走る。
暫くすると村中が飛び込んで来て、
「オイ磯部やらふかッ、安藤は引かぬと云ふ、幸楽附近は今にも攻撃を受けそうな情況だ」
と 斬込む様な口調で云ふ。
余は一語、 「ヤロウッ」 と 答へ、走って官邸を出る。
註 陸相官邸で自決論が起きたのを耳にした清原が、 アワテテ安藤に之を連絡した所が、安藤は非情に憤ったのだ。
今更自決なんて言ふ理屈はない。
一体首脳部(同志の)は何をしているのだ、と云ふ感じを持った。
そこへ村中が連絡に行ったわけだ。
余は奉勅命令を下達もしない前から既に攻撃をとってゐることに関し、
非常な憤激をおぼえ、断乎決戦する覚悟をした。
時は既に午後二時頃、 死戦の覚悟を定めて、 田中部隊と栗原部隊の一小隊を以て、閑院宮邸附近に位置す。
夜に入り 常盤、鈴木両部隊行動を共にす。
坂井及び清原部隊が陸軍省、参謀本部附近の地区、余が官邸附近。
栗原、中橋、首相官邸。安藤、丹生、山王ホテル幸楽附近。
野中部隊は予備隊として新議事堂に、各位置する。
夕刻来、台上一帯の住民は立退きを始める。
赤坂見附、半蔵門、警視庁等各方面戦車の轟音頻り、 交通、通信(電話)を断たれ、外部との連絡不可能となる。
兵士の給養をせばならぬのだが、如何ともする術がない。
止むを得ず自動車でパン、菓子等を徴発し、 清酒一樽を求めてうえをしのぐ程度の処置をする。
夜、近歩四、山下大尉が訪ねて来たので情況をきくと、 奉勅命令も攻撃命令も出ておらぬと云ふ。
何が何だか、サッパリわけがわからなくなる。
しかも包囲各部隊の将校は射ち合ひする事は嫌だと云ってゐて、
むしろ同志将校に同情する態度であるとの由。
註 此の日は、各部隊共ヒンパンに撤退勧告を受けた。
安藤の所へは 村上啓作大佐が維新大詔の草案をもって来て後退をすすめ、
聯隊長も亦奉勅命令を持参して後退をすすめ、 第一師団参謀、桜井少佐も来たらしい。
但し 聯隊長持参のものはインチキなものである事が公判廷でわかった。
桜井少佐のは本物であったらしいが、 激こうせる兵等に阻止されて、安藤と会う事が出来なかった。
山王ホテル、首相官邸、幸楽からは 万歳の叫喚と軍歌の怒濤が全部をゆるがす如く、引きりなく起きる。
赤坂の所々には街頭演説が始り、 山なす群衆に向って蹶起の主意、維新の要を絶叫する。
群衆は激励の辞を浴せかける。
市中各所に暴動が起こるとの風説頻々、菅波、大岸大尉上京するとの報、
歩三の残留部隊が義軍に投じたりとの報、同志の志気は益々高まる。
註 一、野中大尉のもとへ 歩三の某大尉が来て、
チチブの宮殿下の御言葉として、青年将校は最後をキレイにせねばならん、
蹶起部隊に部外者が参加せることは遺憾だ等、
数ヶ条のことを伝へたのは夜 (二十八日) の出来事であった。 二、安藤への所へは 歩三出身の某将校が来て
「今、歩三で会議があって、 安藤はチチブの宮殿下の御言葉もキカナイから殺さう、
然し他の将校団のものに殺させてはならぬから、
歩三の将校で殺すことにしようと云ふ事がきまった」 と 伝へて呉れる。 三、安藤、栗原部隊の下士、兵の志気はスバラシイ。
一歩も引きません。 吾等に刃向ふものは大将でも中将でも容赦しません、
昭和維新万歳、尊皇討奸万歳等々と 口々に絶叫してアタルベカラザルモノデアル。
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「行動記」の「第二十三 もう一度 勇を振るって呉れ 」は次の通り。
廿九日 午前三、四時頃、 鈴木少尉が奉勅命令が下ったらしいと伝へる。
室外に出てラジオを聞く。
明瞭に聴きとる事が出来ぬ。
この頃 斥候らしい者が出没するとの報告を受けたが、 攻撃を受け、戦闘に なりはしないだらふとたかをくくる。
理由は余の正面は、近四、山下大尉だ。
大尉は昨夜来訪し、決して射撃はしない、
皇軍同志が射ち合ひすることは 如何に上官から命令があつても出来ない、
との旨を述べて去った。
余と山下大尉とは近四時代親しくしていたから、 誠実一徹の大尉の人格を熟知し、その言を信じていたのだ。
夜の明け放たれんとする頃、 いよいよ奉勅命令が下って攻撃をするらしいとの報告を下士、兵から受ける。
各所、戦車の轟音猛烈、下士官、兵の間に甚だしく動揺の色がある。
註 昨日来の、 所謂奉勅命令が未だ下達もされず、 如何なる内容かわからぬので、余は奉勅命令によって、吾吾を攻撃すると云ふのが真実なら、
その奉勅命令は賊徒討伐の勅命である筈だ。
所が吾々は、 天皇陛下宣告の戒厳部隊に編入されているのだから、 決して賊徒ではない。
大臣告示では行動を認めると云ってをるし、上聞にも達している。
色々と考へてみたが、どうも腑に落ちないから、 一応同志と連絡してみようと考へた。
首相官邸に至り、栗原に情況を尋ねる。
彼は余の発言に先だって、
「奉勅命令が下った様ですね、どうしたらいいでせうかね。
下士官兵は一緒に死ぬとは云ってゐるのですが、可愛想でしてね、 どうせこんな十重、二十重に包囲されてしまっては、戦をした所で勝ち目はないでせう。
下士官兵以下を帰隊さしてはどうでせう。
そしたら吾々が死んでも、残された下士官兵によって、第二革命が出来るのではないでせうか。
それに実を云ふと、中橋部隊の兵が逃げて帰ってしまったのです。
この上、他の部隊からも逃走するものが出来たら、それこそ革命党の恥辱ですよ」
と 沈痛に語る。
余は平素、栗原等の実力 (歩一、歩三、近三部隊の実力) を信じていた。
然るにその実力部隊の中心人物が、情況止むなく戦闘を断念すると云ふのだから、
今更余の如き部隊を有せざるものが、
無闇矢鱈に強硬意見を持してみた所で致し方がないと考へた。
栗原は第一線部隊将校の意見をまとめに行く。
余は一人になって考へたが、どうしても降伏する気になれぬので、
部隊将校が勇を振るって一戦する決心をとって呉れることを念願した。
その頃、飛行機が宣伝ビラを撒布して飛び去る。
下士官兵にそれが拾い取られて、 手より手に、口より耳に伝へられて、忽ちあたりのフン意気を悪化してゆく。
「下士官兵に告ぐ、御前等の父兄は泣いている、今帰れば許される、帰らぬと国賊になるぞ」
と 云った宣伝だ。
「もうこれで駄目かな」 と 直感したが、 もう一度部隊の勇を鼓舞してみようと考へ、
文相官邸に引返す。
嗚呼、何たる痛恨事ぞ、 官邸前には既に戦車が進入し、敵の将兵が来てゐる。
しかも我が部隊は戦意なく、唯ボウ然として居るではないか。
註 余が栗原と連絡中に、歩三の大隊長が、常盤、鈴木少尉及び下士官兵を説得に来た。
この説得使と前後して戦車が進入する、だからまるで戦争にはならぬのだ。
何と云っても自己の聯隊の大隊長だ、 その大隊長が常盤、鈴木少尉、下士官兵に十二分の同情を表しつつ説得するのだ。
斬り合ひ、射ち合ひが始まる道理がない。
陸軍省附近に居た清原(歩三)少尉は 奉勅命令と聞くや、直ちに中隊をヒキアゲて帰隊してしまった。(後にわかった)
独逸大使館前に到れば、
坂井中尉が憤然として
「何も云って下さるな、私は下士官を帰します」
と 語り、 歩三の大隊長や荒井中尉と感激の握手をしている。
註 蹶起以来、四日間四晩 頑張りつづけたのに、最後に気が弱くなった事は残念である。
決戦して斃れるか、敵をたほすかと云ふ所迄やるべきであったとも考へられる。 然し大勢は如何ともすることが出来ない。 二月二十七日払暁、 既に撤退しようと云ふ意見が同志の過半数を占めるかの情況に立到ったので、 余は断乎反対して之を止めた。 翌二十八日の午後は前日にもまして自決論が起つたが、
余はからうじて之を阻止し、再び維新戦線に立たしめたのであった。 二十九日に至るや、 全同志将兵以下は宣伝、脅威、説得、あらゆる手段を以てするシツヨウな敵の降伏勧告と、
休養の不充分と、編成の不完全と、その他幾多の不利なる条件の為につかれ果て、 遂に闘志を失ってしまったのだ。 冥々の絶大な力の為に、最後の一戦を制チウされたと云ふことが一番当ってゐる。 死刑になる位なら一その事、全同志が一戦して戦死する所迄、 意地を立て通したらよかったと云ふ意見を屢々同志の間に聞いた。 けれども少なくとも二十九日にはそれは出来なかった。 今考へてみると、 あの情況でよく四日四晩 頑張り通したものだと云ふ感じの奉が強い。 そしてあれ以上にやる事は、却って次の時代の為に悪いのではなかったか。 即ち全国同志をムリヤリに事件の渦中に引ずり込んでしまって、 より多くの死刑者、処刑者を出して、
革命党の全生命を断たれてしまふ結果になるのだと云ふ感じも起ってくる。 親愛なる、而して尊敬すべき同志諸君、吾等のすべての過失を寛恕して下さい。 而して 吾等の一貫の誠意を信じて下さい、順にせよ、逆にせよ
(奉勅命令に抗したにせよ、せざるにせよ) 吾等は只管に尊皇奸を討つべく義戦を闘ったのです。 維新の為、全同志がよかれよかれと思って力一杯にやったのです。 全智全能をつくして、やっとあれ丈出来ました。
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「行動記」の「第二十四 安藤部隊の最期 」は次の通り。
大廈の倒るるや、
一木のよく支ふる能はず。
誠に然り、 既に大勢如何ともすべからざるに至り、 一二の強硬意見は何等の作用もなさない。
山王ホテルに集合し、 今後の方針につき意見を求めたるも、何等良好なる具体策を見出し得ない。 安藤のみ最期迄ヤルと云ひて頑張ったが、
ヤッてみた所が兵士を殺傷し、国賊の名を冠るのみである事が明らかだ。 余は忠烈の兵士が壁により窓に掛け、
将に盡きなんとする命を革命の歌によって支へてゐる悲壮極まる情景を目撃した時、 何とかして安藤に戦を断念させねばならぬと考へた。 「オイ安藤、下士官兵を帰さう。 貴様はコレ程の立派な部下をもってゐるのだ。 騎虎の勢、一戦せずば止まる事が出来まいけれども、兵を帰してやらふ」 と あふり落ちる涙を払ひもせで伝へば、 彼はコウ然として、 「諸君、僕は今回の蹶起には最後迄不サンセイだった。 然るに遂に蹶起したのは、どこま迄もやり通すと云ふ決心が出来たからだ。 僕は今、何人をも信ずる事が出来ぬ、僕は僕自身の決心を貫徹する」 と 云ふ。 同志は公々意見を述べる。 安藤は 「少し疲れてゐるから休ましてくれ」 と云ひて休む。 安藤は再び起き上り、 「戒厳司令部に言って包囲をといてもらおお、包囲をといてくれねば兵は帰せぬ」 と 云ふ。 そこで余等は、石原大佐に会見を求めようと考へ、柴大尉? に連絡を依頼する。 間もなく戒厳司令部の一参謀(少佐)が来り、 石原大佐の言なりとして、 「今となっては自決するか、ダッ出するか、二つに一つしかない」 と 伝へる。 同志一同此の言を聞き、切歯憤激云ふところを知らず。 ・ 歩三大隊長、伊集院少佐来り 「安藤、兵が可愛相だから、兵だけは帰してやれ」 と 云へば 安藤は憤然として、 「私は兵が可愛想だからヤッタのです。大隊長がそんな事を云ふとシャクにさわります」 と、不明の上官に鋭い反撃を加へ、 突然怒号して 「オーイ、俺は自決する、さして呉れ」 と、ピストルをさぐる。 余はあわてて制止したが、彼の意はひるがえらない。 「死なして呉れ、オイ磯部、俺は弱い男だ。 今でないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌ひだ、 裁かれることはいやだ、幕僚共に裁かれる前に、自ら裁くのだ、死なしてくれ」 と 制止の余を振り放たんとする。 悲劇、大悲劇、兵も泣く、下士も泣く、同志も泣く、 涙の洪水の仲に身をもだえる群衆の波。 大隊長も亦 「俺も自決する、安藤の様な立派な奴を死なせねばならんのが残念だ」 と 云ひつつ号泣する。 「中隊長殿が自決なされるなら、中隊全員御伴を致しませう」 と、曹長が安藤に抱きついて泣く。 「オイ前島上等兵 お前が、曾て中隊長をってくれた事がある。 中隊長殿、いつ蹶起するのです、 このままおいたら農村はいつ迄たっても救へませんと云ってねえ。 農村は救へなすなあ、 俺が死んだらお前達は堂込曹長と永田曹長をたすけて、 どうしても維新をやりとげよ。 二人の曹長は立派な人間だ、イイカ、イイカ」 「曹長、君達は僕に最後迄ついて来てくれた、有難う、あとをたのむ」 と 云へば、 群がる兵士等が 「中隊長殿、死なないで下さい」 と 泣き叫ぶ。 余はこの将兵一体、鉄石の如き団結を目のあたりにみて 、同志将兵の偉大さに打たれる。 「オイ安藤ッ、死ぬのはやめろ、
人間はなあ、自分が死にたいと思っても、神が許さぬ時には死ねないのだ、 自分では死にたくても時機が来たら死なねばならなくなる。 こんなにたくさんの人が皆して止めているのに死ねるものか。 又、これだけ尊び慕ふ部下の前で、貴様が死んだら、一体あとはどうなるんだ」 と、余は羽ガヒジメにしてゐる両腕を少しゆるめてさとす。 幾度も幾度も自決を思ひとどまらせようとしたら、
漸く自決しないと云ふので、余はヤクしてゐた両腕をといてやる。 兵は一堂に集まって中隊長に殉じようと準備してゐるらしい様子、 死出の歌であらう、 中隊を称える 「吾等の六中隊」 の軍歌が起る。 ・
註 拙文 安藤部隊の最後の場面を如実に記する事が出来ぬのを遺憾とする。 安藤は実にえらい奴だ。
あれだけに下士官兵からなつかれ慕はれると云ふ事は、術策や芝居では出来ない。 彼の偉大な人格が然らしめたのだ。 然るに此の安藤を、幕僚は何と云って辱しめたか。 「安藤は死ぬ死ぬと云って、兵の前で芝居をやったのだ」 と。 余はこの大侮辱に対して同志諸君に復讐してもらひたいことを願ふ。 維新だとか、皇国の為だとか云ふ キレイらしいことは云はない。 唯、仇うちをして下さいとたのみたい。 人間の最も神聖厳粛な最後の場合を侵したり、 けがしたりする幕僚の腐魂にメスを刺すことをせずに、 維新だとか、天皇の為だとか、 キレイな事ばかり云っていたら、決して維新にならぬと信じます。 |
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「行動記」の「第二十五 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 」は次の通り。
同志将校は 各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、 陸相官邸に集合する。
余が村中、田中 と 共に官邸に向ひたる時は、 永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている。
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している。
余等は広間に入り、 此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される。
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。
彼我共に黙して語らず。
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる。
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予想しなかった。
少なくも軍首脳部の士が、 吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた。
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ。
山下少将が入り来て 「覚悟は」 と 問ふ。
村中 「天裁を受けます」 と 簡単に答へる。
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。
夕景迫る頃、 憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が捕縄をかける。
刑務所に送られる途中、 青山のあたりで 昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ。
註 (1) 野中大尉は陸軍大臣官邸に於て、井出宣治大差(元歩三聯隊長) にムリヤリに自殺させられる。
(2) 安藤は自決しようとしたが、兵に制せられて目的を果さず。
(3) 他の多数同志は自決する決心で陸軍省に集り、各々遺書等を認めたのであったが、 当局の 「死ね、死んでしまへ」 と 言った様な、 残酷な態度に反感をいだき、心機一転して自殺を思ひ止る。
(4) 陸軍省では自決の為に、白木綿などを前以て準備していた。
(5) 余はどうしても死ぬ気が起らなかった。 自決どころではない、 山王ホテルから逃走して支那へ渡ろうと思って、柴大尉に逃げさしてくれとたのんだ位ひであった。 どこ迄も生きのびて仇うちをせねば気がすまなかつたのだ。
(6) 山本又は二十九日夜、山王神社に野宿し、地方人の印半てんを着て逃走した。
一、奉勅命令に関する事
一、大臣告示・・・・
一、戒厳令下の軍隊に同志の軍隊が編入された事
一、所謂チチブノ宮殿下令旨の事
一、皇族内閣に反対をトなへたる理由及前夜の事情
一、予審、公判間の事情
右の各条に関しては別に記載する事とする。
昭和十一年九月一二日 同志刑せられて満二ヶ月
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彼によると、日本は明治維新革命以来、「天皇の独裁国家ではなく」、「重臣の独裁国家でもなく」、「天皇を中心とした近代的民主国」なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」に変じていると云う。その大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた。銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。 |