磯部浅一著作「行動記1」



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

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 2011.6.4日 れんだいこ拝


【磯部浅一著作「行動記」】
 磯部浅一行動記目次(昭和十一年八月十二日菱生 誌)
第一 ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる
八月十二日は十五同志の命日だ。因縁の不思議は此の日が永田鉄山の命日で
あり、今日は宛もその一周忌だ。昭和十年八月十二日、即ち去年の今日、余は数
日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した
。余の住所、新宿ハウスの三階にて氏は「昨日相沢さんがやって来た、今朝出て行
ったが何だかあやしいフシがある、陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た」。余
は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった。
第二 栗原中尉の決意
磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、私は他の同志から栗
原があわてるとか、統制を乱すとか云って、如何にも栗原だけが悪い様に云われて
いる事を知っている。然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、私の様
に居ても立っても居られない程の気分に迄、進んで呉れないかと云ふ事が残念で
す。
第三 アア何か起った方が早いよ
山下は改造改造と云ふが、案があるか、案があるならもって来い、アカヌケけのし
た案を見せてみろ、と云って一応嘲笑した態度であったが、「案よりも何事か起った
時どうするかと云ふ問題の方が先だ」といふ意味の余の返答に対して、「アア何か
起った方が早いよ」 と云って泰然としていた。
第四 昭和十一年の新春を迎えて世は新玉の年をことほぐ
昭和十一年の新春を迎えて 世は新玉の年をことほぎ、太平をうたふのであったが
、余の心は太平所か新年早々、非常な高鳴りをなし、ショウソウを感じて日々多忙
を極めた。年末に企図した倒閣運動は功を奏しないのみか、重臣元老の陣営は微
動もせぬ、牧野の後任として齋藤が入り、一木は依然として辞任しない。しかのみ
ならず、多少の信頼をつないでゐる川島の態度は、次第に軟化する様子さえ見え
第五 何事か起るのなら、何も云って呉れるな
川島と交友関係に於て最も厚い真崎を訪ねる事にして、一月二十八日、相沢公判
の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした。面会を求めた所が用件を尋ねら
れたので、名刺の裏に火急の用件であるから是非御引見を得たい、との旨を記し
て差出したら、応接して呉れることになった。真崎は何事かを察知せるものの如く、
「何事か起るのなら、何も云って呉れるな」と前提した。
第六  牧野は何処に
陸軍に於て、陸軍大臣と之を中心とした一団の勢力が吾人の行動を認め、且つ軍
内の強行派たる真崎が背後から支援をして呉れたら、元老、重臣に突撃する所の
吾人を弾圧する勢力はない筈だ。
第七 ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を戦わしてはいけない
そこで河野は一つの意見を出して、「磯部さん、ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今
になって戦はしてはいけない、それでは永久に決行出来ぬ事になるから、この度は
真に決行の強い者だけ結束して断行しよう、二月十一日に決行同志の会合を催し
てもらいたい、其の席で行動計画等をシッカリと練らねばならん」。
第八 飛びついて行って殺せ
河野は余に「磯部さん、私は小学校の時、陛下の行幸に際し、父からこんな事を教
へられました。「今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、若し陛下のロボ
を乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか」。私も兄も、父の問に答
へなかったら、父が厳然として、「とびついて行って殺せ」 と云ひました。私は理屈
は知りません、しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、賊にとび
ついて行って殺せと言ふ、たった一つがあるのです。牧野だけは私にやらして下さ
い、牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ」と、其の信念のとう徹せ
る、其の心境の済み切ったる、余は強く肺肝をさされた様に感じた。
第九  安藤がヤレないという
二月一八日、 栗原宅に村、栗、安、余が会合して、いよいよ何日に如何なる方法
で決行するかを決定しようとの考へで、意見の交換をした。所が以外にも、安藤が
今はやれないといふのだ。村中が理由をきいたが、理由は大して述べないで時機
尚早をとなへた。
第十  戒厳令を布いて斬るのだなあ
これより先、十五日、夜、安藤と共に山下奉文を訪ねた。歩三の青年将校は山下
から、統帥権干犯者は「戒厳令を布いて斬るのだなあ」との話をきき、非常に元気
づいてゐた。
第十一 君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ
一応西田氏に打ち明けるの必要を考へ、村中と相談の上、十八、九日頃になって
打ち明けた。氏は沈思してゐた。その表情は沈痛でさへあった。そして余に語った。
「僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、君等がやると云へ
ば、今度は無理にとめる事も出来ぬ。海軍の藤井が、革命のために国内で死にた
い、是非一度国奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた。彼の死は
悶死であったかもしれぬ。第一師団が渡満するのだから、渡満前に決行すると云
って思ひつめてゐた青年将校をとめる事は出来ぬのでなあ」と云って、何か良好な
方法はないかと苦心している風だった。余は若し失敗した場合、西田氏に迷惑の
かかる事は、氏の十年間の苦闘を水泡に帰してしまふので相すまぬし、又、革命
日本の非常なる損失と考へたので、一寸その意をもらしたら、氏は、「僕自身は五
・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、僕に対する君等の同情はまあい
いとしても、おしいなあ」と云った。余はこの言をきいて、何とも云へぬ気になった。
第十二 計画ズサンなりと云ふな
余は二月二十三日 北先生を訪ね、支那革命の武昌の一挙の時、サウサウたる
革命の志士が皆過失をおかしてゐるのは何故かとたずねたら、「何しろ革命と云ふ
奴には計画がないのだからね、計画も何もなく、自然に突発するのだから、どんな
人だってあわてるよ」と云はれた。成程と思った。革命は機運の熟成した時、自然
発火をするものだから計画がない、予定表を作成しておくわけにゆかぬ。
第十三 いよいよ 始まった
村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、栗原部隊の
後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。其の時俄然、官邸内に数発の銃声をき
く。いよいよ始まった。秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇
躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ(同志諸君、余の筆ではこの時の感じ
はとても表し得ないとに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。余はも
う一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ)。
第十四 ヤッタカ!!  ヤッタ、ヤッタ
田中は意気けんこうとして、「面白いぞ」と云ひつつ余をさがして官邸に来る。余は
田中のトラック一台を直ちに赤坂離宮前へ向はしめ、渡辺襲撃隊の為にそなへる。
高橋是清襲撃の中島帰来し、完全に目的を達したと報ず。続いて首相官邸よりも
岡田をやったとの報、更に坂井部隊より麦屋清済が急ぎ来り、齋藤を見事にやった
と告ぐ。安藤は部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る。ヤッタカ!! と問へば、ヤッ
タ、ヤッタと答へる。各方面すべて完全に目的を達した。天佑を喜ぶ。
第十五 お前達の心は ヨーわかっとる
歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。余が近づいてみると
真崎将軍だ。「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知
でありますか」といふ。「とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッー
わかっとる」と 答へる。「どうか善処していたゞきたい」とつげる。大将はうなづきな
がら邸内に入る。
第十六 射たんでもわかる
時に突然、片倉が石原に向って、「課長殿、話があります」と云って詰問するかの
如き態度を表したので、「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグヅグヅと文句を云
ふか!」と云ふ気になって、イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をア
テテ射撃した。彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった。余は
刀を右手に下げて、残心の型で彼の斃れるのを待った。血が顔面にたれて、悪魔
相の彼が「射たんでもわかる」と云ひながら、傍らの大尉に支えられている。
第十七 吾々の行動を認めるか 否か
午後二時頃か、山下少将が宮中より退下し来り、集合を求める。香、村、対馬、余
、野中の五人が次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立会ひの下に
、山下少将より大臣告示の朗読呈示を受ける。「諸子の至情は国体の真姿顕現に
基くものと認む。この事は上聞に達しあり。国体の真姿顕現については、各軍事参
議官も恐懼に堪へざるものがある。各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す。これ以上は
一つに大御心に待つべきである」。大体に於て以上の主旨である。対馬は、吾々の
行動を認めるのですか、否やと突込む。余は吾々の行動が義軍の義挙であると云
ふことを認めるのですか、否やと詰問する。山下少将は口答の確答をさけて、質問
に対し、三度告示を朗読して答へに代へる
第十八  軍事参議官と会見
午後十時頃、各参議官来邸、余等と会見することとなる。(香、村、余、対馬、栗原
の六名と満井、山下、小藤、山口、鈴木)香田より蹶起主旨と大臣に対する要望事
項の意見開陳を説明する。荒木が大一番に口を割って「大権を私議する様な事を
君等が云ふならば、吾輩は断然意見を異にする、御上かどれだけ、御シン念にな
っているか考へてみよ」と、頭から陛下をカブって大上段で打ち下す様な態度をとっ
た。これが、二月事件に於ける維新派の敗退の重大な原因になったのだ。
第十九 国家人なし 勇将真崎あり
午前八、九時であったか、西田氏より電話があったので、余は簡単に「退去すると
云ふ話しを村中がしたが、断然反対した、小生のみは断じて退かない、もし軍部が
弾圧する様な態度を示した時は、策動の中心人物を斬り、戒厳司令部を占領する
決心だ」 と告げる。氏は 「僕は亀川が退去案をもって来たから叱っておいたよ」と
いふ。更に今御経が出たから読むと云って、「国家人なし、勇将真崎あり、国家正
義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ」と零示を告げる。余は驚いた。「御
経に国家正義軍と出たですか、不思議ですね、私共は昨日来、尊皇義軍と云って
います」と云ひ、神威の厳粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ。
第二十 君等は奉勅命令が下ったらどうするか
突然石原大佐が這入って来て側に坐し、「君等は奉勅命令が下ったらどうするか」
と問ふ。「ハアイイデスネ」と答える。「イイデスネではわからん、キクカ、キカヌかだ
」と云ふ。「ソレハ問題ではないではありませんか」と答へる。
第二十一 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう
栗原が「統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申上げようではないか。奉勅命令
が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、御伺ひ申上げたうえで我々
の進退を決しよう。若し死を賜ると云ふことにでもなれば、将校だけは自決しよう。
自決する時には勅使の御差遺位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか」との
意見を出す。
第二十二 断乎決戦の覚悟をする
全同志を陸相官邸に集合させようとして連絡をとったが、なかなか集合しない。安
藤、坂井は強硬論をとって動じない。村中は安藤に連絡のため幸楽へ走る。暫くす
ると村中が飛び込んで来て、「オイ磯部やらふかッ、安藤は引かぬと云ふ、幸楽附
近は今にも攻撃を受けそうな情況だ」と斬込む様な口調で云ふ。余は一語、「ヤロ
ウッ」 と 答へ、走って官邸を出る。
第二十三 もう一度 勇を振るって呉れ
首相官邸に至り、栗原に情況を尋ねる。彼は余の発言に先だって、「奉勅命令が
下った様ですね、どうしたらいいでせうかね。下士官兵は一緒に死ぬとは云ってゐ
るのですが、可愛想でしてね、どうせこんな十重、二十重に包囲されてしまっては、
戦をした所で勝ち目はないでせう。下士官兵以下を帰隊さしてはどうでせう。そした
ら吾々が死んでも、残された下士官兵によって、第二革命が出来るのではないで
せうか。
第二十四  安藤部隊の最期
「オイ安藤、下士官兵を帰さう。貴様はコレ程の立派な部下をもってゐるのだ。騎虎
の勢、一戦せずば止まる事が出来まいけれども、兵を帰してやらふ」と あふり落ち
る涙を払ひもせで伝へば、彼はコウ然として、「諸君、僕は今回の蹶起には最後迄
不サンセイだった。然るに遂に蹶起したのは、どこま迄もやり通すと云ふ決心が出
来たからだ。僕は今、何人をも信ずる事が出来ぬ、僕は僕自身の決心を貫徹する」
と云ふ。
第二十五 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ
同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、陸相官邸に集合する。余が村中
、田中と共に官邸に向ひたる時は、永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、勝
ち誇ったかの如く、喧騒極めている。陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如
くに往来している。余等は広間に入り、此処でピストルその他の装具を取り上げられ
、軍刀だけの携帯を許される。山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。彼我共に
黙して語らず。余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁
さる。同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予
想しなかった。少なくも軍首脳部の士が、吾等一同を集めて最後の意見なり、希望
を陳べさして呉れると考へてゐた。然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬ
ばかりの態度だ。山下少将が入り来て 「覚悟は」 と 問ふ。村中 「天裁を受けま
す」 と 簡単に答へる。連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。夕
景迫る頃、憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が歩縄をかけ
る。刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップ
リと暮れてしまふ。
 (磯部浅一・行動記 )
 「『青年将校は、北、西田の思想に指導せられて日本改造法案を実現するために蹶起したのだ』と 云ったり、『真崎内閣を作るためにやったのだ』等の不届至極の事を云って、ちっとも蹶起の真精神を理解しようとはせずに、彼等の勝手なる推断によって青年将校は殺されてしまひました。北、西田氏も亦同様に殺され様としています。青年将校は改造法案を実現する為に蹶起したものでもなく、真崎内閣をつくるために立ったのでもありません。

 蹶起の真精神は 大権を犯し国体をみだる君側の重臣を討って大権を守り、国体を守らんとしたのです。ロンドン条約以来統帥大権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が宮中、府中にはびこって天皇の御位置をあやうくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。そもそも 維新と云ふことは皇権を恢復奉還することであって、陸軍省あたりの幕僚の云ふ政治経済機構の改造そのものではありません。

 青年将校の考へは 一言にして云へば『 皇権を奪取 (徳川一門の手より、重臣元老の手より) 奉還して大義を明らかにすれば、国体の光は自然に明徴になり、国体を明徴にすれば 直ちに国の政・経・文教全てが改まるのである。これが維新である 』と 云ふのです。考え方が一般の改造論者とひどく相違しています。法務官などは此精神がわからぬものですから、『オイ、御前達は改造の具体案をもっているか。何ッ、もっていないッ。 そんな馬鹿な事があるか。具体案もなくて維新とは何だッ。日本改造法案が御前達の具体案だらう。何ッ、ちがいますう。嘘だ、御前達の具体案は改造法案にきまっている。あれを実現しようとしたのだ。サウダ、サウダ』。こんな調子で予審を終り、公判になって、民主革命を強行し、・・・・を押しつけられたのです。藤田東湖の『 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 』。これが維新の真精神でありまして、青年将校蹶起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又、案と計画を実現すること、そのことでもありません。

 維新の意義と青年将校の真精神とがわかれば、改造法案を実現する為めや、真崎内閣をつくる為に蹶起したのではない事は明瞭です。統帥権干犯の賊を討つ為に、軍隊の一部が非常なる独断行動したのです。私共の主張に対して、彼等は統帥権は干犯されず、と云ひます。けれどもロンドン条約と真崎更迭の事件は、二つとも明かに統帥権干犯です。法律上干犯でないと彼等は云ひますが、法律に於て統帥権干犯に関する規定がどこにあるのですか。又、統帥権干犯などと云ふものは、法律の限界外で行はれる事であって、法律家の法律眼を以ては見定めることは出来ないのです。これを見定め得るものは、愛国心の非常に強く、尊皇精神の非常に高い人達だけであります。統帥権干犯を直接の動因として蹶起した吾々に対して、統帥権は干犯されていないとし、北の改造法案を実現する為に反乱を起こしたのだとして罪を他になすりつける軍部の態度は、卑怯ではありませんか」。
 「行動記」の「第一 ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる」は次の通り。
 八月十二日は十五同志の命日。因縁の不思議は此日が永田鉄山の命日であり、今日は宛もその一周忌だ。昭和十年八月十二日、即ち去年の今日、余は数日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した。余の住所、新宿ハウスの三階にて氏は「 昨日相沢さんがやって来た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た 」。余は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった。実は昨夜、村中貞次氏より来電あり、本日午前上野に着くとの事であったので、村中は仙台に旅行中で不在だったから、小生が出迎へに行く事にしてゐたので、病後の重いからだを振って上野へ自動車をとばした。自動車の中でふと考へついたのは、今朝の西田氏の言だ。そして相沢中佐が決行なさるかも知れないぞとの連想をした。さうすると急に何だか相沢さんがやりさうな気がして堪らなくなり、上野で村中氏に会はなかったのを幸ひに、自動車を飛ばして陸軍省に行った。来て見ると大変だ。省前は自動車で一杯、軍人があわただしく右往左往してゐる。たしかに惨劇のあった事を物語るらしいすべての様子。余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になったので、よくよく軍人の挙動を見る事が出来た。往来の軍人が悉くあわててゐる。どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行ってしまってゐる。余はつくづくと歎感した。これが名にし負ふ日本の陸軍省か、これが皇軍中央部将校連か、今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら 陸軍省は完全に占領出来るがなあ、俺が一人で侵入しても相当のドロホウは出来るなあ、情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、今にして上下維新されずんば国家の前路を如何せんと いふ普通の感慨を起すと共に、ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。振ひ立つ様な感慨をおぼえて 直ちに瀬尾氏を訪ね、金三百円? を受領して帰途につく。戸山学校の大蔵大尉を訪ねたのは十二時前であったが、この日丁度、新教育総監渡辺錠太郎が学校に来てゐた。正門で大尉に面会を求めると、そばに憲兵が居てウサンくささうにしてゐた。これは後に聞いた話だがこの時憲兵は、余が渡辺を殺しに来たらしいと報告をしたとの事である。陸軍の上下が此の如くあわてふためいてゐるのであるから、面白いやらをかしいやらで物も云へぬ次第だった。

 相沢事件以来、余と村中に対する憲兵、警視庁の警戒は極端であった。
特に赤坂憲兵分隊の態度は憤慨にたへぬものばかりであった。新宿ハウスへは朝から晩迄つききりに憲兵がゐる。大体八人は来てゐて外出にはウルサクつきまとふ。余は「 君等も日本人だらふ、正義を知れ、何れが正しいかを知れ、而して微行をやめよ 」と 下士に云った所が、驚く勿れ、この憲兵は「 いや微行ではありません、公然と付くことになっているのです 」と 云って、すましてゐるのだ。村中は仙台に帰ってゐたが、仙台も相当ひどかったらしい。この頃村中が東北の青年をつれて東京に潜入し、陛下に直訴をすると云ふ風説がとんだ。又、永田の葬儀の日に磯部が爆弾を以て青山祭場を襲ふたと云ふ風説もつたはった。葬儀の当日、余は相沢中佐に差入れをしやうと考へて、リンゴを黒い風呂敷につつんで家を出た所が、憲兵が直ちに微行して来たので、いきなり円タクに乗って憲兵をまきながら、青山から代々木の刑務所へ出た様な事実があった。陸軍の上下も、国家の内外も、吾等同志の間も実に騒然として、天下の事いよいよ多事ならんとするの気配だ。栗原、明石両君等は、若い将校とひそかに何事かを語ってゐる様子。
地方の青年将校からも激烈な通信がある。羅南の長尾少尉は聯隊を抜け出して上京し、田中勝君と連絡してゐるらしい。菅波大尉上京せりの風説は起ったが、大尉の所在は杳として不明。天下はあげて吾等同志将校に気をもんでゐる。
 「行動記」の「第二、栗原中尉の決意 」は次の通り。
 一時バット高まった気分が段々と落ちついて、東京も各地も同志はジックリと考へる様になった。特に在京の同志は一様に中佐にすまぬ、在京青年将校のいく地のない事が天下の物笑ひの種になるぞ、猛省一番せねばならぬ秋だとの考へを起した様子がありありと見えた。栗原中尉の如きは、気鋭の青年将校を集めては絶へず慷慨痛憤していた。

 栗原君は 某日余を訪ねて泣いた。磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云って、如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、進んで呉れないかと云ふ事が残念です。栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。今度、相沢さんの事だって青年将校がやるべきです。それに何ですか青年将校は、私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。唯、自分がよく考えてやります。自分の力で必ずやります。然し、希望して止まぬ事は、来年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出来ます。栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は剣にかけても許しません。私は必ずやるから磯部さん、その積りで盡力して下さい」 と。私は栗原から胸中を打ち明けられて自分でも千年来期する当があったので僕は僕の天命に向って最善をつくす、唯誓っておく、磯部は弱い男ですが、君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる。私は元来松陰の云った所の、賊を討つのには時機が早いの、晩いのと云ふ事は功利感だ。悪を斬るのに時機はない、朝でも晩でも何時でもいい。悪は見つけ次第に討つべきだとの考へが青年将校の中心の考へでなければいけない。志士が若い内から老成して政治運動をしてゐるのは見られたものではない。だから私は今後刺客専門の修養をするつもりだ。大きな事を云って居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ。お互いに修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、
君と二人だけでやるつもりで準備しよう、村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、又むかふの心中もよくきいてみようと 語り合ったのである。

 実際、栗原の様なヤルヤル専門の同志がもう三、四人いたら出来るがなあ、暴虎嗎河の勇者がほしい、熟慮退却の人間が多すぎる。青年将校は政治家でも愛国団体の公演掛でもない筈だと言ふ考へを起して、すこぶるあきたらぬ時であったから、栗原の言をいちいちもっともなことだと考へた。栗原に云はれる迄もなく、自分で力を作り自分一人でやると云ふ準備をせねばならぬ事だけは充分に判ってゐたつもりだが、相沢中佐の様にえらい事は余にはとても出来なかった。其れで相沢事件以来は弱い自分の性根に反省を加へ、之を叱咤激励する事につとめた。特に、ともすれば成功主義即ち打算主義に流れようとする薄弱賤劣な心を打破して、一徹な正義感によって何事もせねばならぬことを、自己の信仰とせねばならぬと考へて、一切の打算から離隔する事に努めた。

 村中、香田には意中を語った所、来年三月頃迄には解決せねばならぬと云ひ、特に香田の如きは七月、真崎大将更迭事件の統帥権干犯問題に非常なる憤激をなし、蹶起する決意で武装を整へて週番に服した事を語って、決意すこぶる堅い事を知った。相沢事件以来、警戒厳重になって相当に活動をジャマされたが、村中と余は同居して東西に奔走した。十月末になって、余は思ふ所あって、村中と別居して一戸を構へた。思ふ所といふのは、いよいよ蹶起の準備にとりかかる事だ。村中、渋川が、相沢中佐の片影、大眼目等の文章戦事務に熱中してゐるので、余は武力専門でゆかう、文書戦など如何にして見た所で、金がいるばかりだと云ふ至極簡短な考へから、文書戦事務から遠ざかったのだ。余はどこ迄も実力解決主義で、実力をつくること、然もその実力は軍隊を中心とした実力でなければいけないと考へたので、自分一人ででも蹶起し得べく、田中勝の部隊を中心として実力編成に専念する事にした。この考えから、十月末以降は栗原との連絡と田中、中島部隊及び、河野との連絡打合せをしばしば実施した。
 「行動記」の「第三 アア何か起った方が早いよ」は次の通り。
 十一月中は専ら田中部隊を中心として、少数の同志で快速なる活動により斬奸の目的達しようと考へ、図上の考案や腹案をねったが、なかなか思ふ様に行かぬ。特にどう考へても満足出来ぬのは、将校同志三名(田中勝、河野壽、余) だけで数目標を攻撃することが至難である関係上、下士官を如何に配置するかと云ふことと、如何に之を短日時の間に訓練するかと云ふ事であった。田中勝は砲兵学校在学中であったから、十二月卒業帰隊後、下士官、兵の革命教育を始めねばならぬ状況にあるし、河野は元野重七出身であるが、飛行在学中で とても下士官等の訓練、訓とう は出来得べくもない。何れの条件から云っても、部隊はとても思ふ様に維新的訓練は出来さうにもない。玆に於て余は、下士官兵が思ふ様に訓練出来なければ、指揮官の決心を異常に高めておく必要があると考へ、田中、河野との連繋を密にする一方、余自身の決意を確りとさせる修養をした。十二月になってからは、一日から二十日迄は他出して、雑多な人と雑談するをさけ、妄念の断離につとめた。之が為 毎朝早く起き、明治神宮に参拝することと、北氏筆の国体論の精読浄書を日課とした。かくの如くして居る間に、余の腹中に何物か堅い決意の中心が出来た。いよいよ決行出来る丈けの腹が出来たと云ふわけだ。それで今度は少しく軍当局者の腹中もさぐって見たいと云ふ慾が出来たので、秦中将を通じて荒木、真崎、古莊、杉山等から、何事か起った場合の中央部の態度を知ることにつとめた。村上大佐を通じ陸軍大臣の態度をたしかめ、且、菅野氏を通じ森伝氏から 真崎、川島の態度について確かめた処が、どれもこれも大した返事はきかれぬ、唯 一同一様に困ってゐるらしい事だけはたしかだ。何事か起らねば かた付かぬ、起った方が早く片付くと 云った事丈は皆考へてゐる事がたしかである。十二月中には小川の上京を機会に、古莊、山下、真崎に会った。古莊は一流の理屈をクドクドと云ってゐて、とても 吾々の様にせいている人間と話があひさうにもなかったが、小川が、「このままおいたら必ず血を見ますがいいですか」と 云ったに対し、ウウ と つまった。そして急進ではいかんとの旨を述べた。山下は改造改造と云ふが、案があるか、案があるならもって来い、アカヌケけのした案を見せてみろ、と 云って 一応嘲笑した態度であったが、案よりも何事か起った時どうするかと云ふ問題の方が先だと いふ意味の余の返答に対して、アア何か起った方が早いよと 云って泰然としていた。又、真崎は非常に憤慨したおももちで、このままでおいたら血を見る、俺がそれを云ふと真崎がせん動してゐると云ふ、何しろ俺の周囲にはロシアのスパイがついている等、断片的に時局いよいよ重大機に入らんとするを予期せる如くに語った。これより先、七月頃? 余は川島を訪ねて談を聞いた所、川島は現状を改造せねばいけない、改造には細部の案なぞ始めは不必要だ、三つ位ひの根本の方針をもって進めばいい、国体明徴はその最も重要なる一つだ、軍備は宇垣、山科時代に、馬の脚を三本にした様に全くカタワにしたから至急に充実せねばいかん、三十億位ひの予算を必要とするのだ、広義の国防と云ふ見地から国民生活の事も考へねばいけないと 云ふ様な話を二時間にわたって熱心にして呉れた。そして 真崎、荒木の事を世間で彼是云ふが、二人とも立派な将軍だ、余は人事局長時代、真崎、荒木を要職につかしむべきを具申した事がある。真崎を参謀次長にスイセンしたのは余である、と云ふ事も語った。又、川島は林のあとをうけて大臣に就任する時、菅野氏 ( 菅野氏は森氏より ? ) を通じて、青年将校の動静をたづねて来た。余は時局の重大性をとき、青年将校の蹶起の必然をほのめかし、川島の断じて大臣たるべからざるを力説して譲らなかった。森氏の如きは、余の意見に全部的同意をなし、川島の出馬を阻止したが、川島は断乎出馬した。彼が大臣に就任するにあたり、真崎と相談し、「青年将校の方はどうだらふか」 と問ひために、真崎は「この状態では誰が大臣になってもむつかしいが、君がなるなら俺が出来る丈の事はして助ける」と 答へたとの事は確実なる話しだ。大臣就任早々、彼は七月訪問の際、余に語りたる所の三つの方針を発表して強硬態度で活動し出した。余はヤルヤルと思ったので、十二月迄に内閣を倒して川島に引け、といふ意見の具申をして見た所が、なかなか さう急にはゆかぬが、ヤラネバナラヌコトはやると云った様な態度である事が分った。以上の諸点を表裏から考案してみると、川島には何等かの腹がある、事件突発の時、頭から青年将校を討伐はしない、必ず好意的善処してくれると考えた。
 「行動記」の「昭和十一年の新春を迎えて世は新玉の年をことほぐ 」は次の通り。

昭和十一年の
新春を迎えて
世は新玉の年をことほぎ、太平をうたふ
ので あったが、
余の心は太平所か新年早々、非常な高鳴りをなし、
ショウソウを感じて日々多忙を極めた。
年末に企図した倒閣運動は功を奏しないのみか、重臣元老の陣営は微動もせぬ、
牧野の後任として齋藤が入り、一木は依然として辞任しない。
しかのみならず、
多少の信頼をつないでゐる川島の態度は、次第に軟化する様子さえ見える。
年末の軍事予算問題にミソをつけた川島は部内から反対をされ、
後任として余の最も警戒し居たる寺内の呼び声が起った。
ここで寺内にでも出られたら、大変な事になる。
寺内は斉藤の腹臣児玉と従兄弟関係にあり、
湯浅とは同郷関係、木戸幸一とも裏面の関係がある事は想像にかたくない。
然る次第で、
寺内の陸軍大臣説に対して、
余は重臣元老群の逆襲拠点の補強作業がはじまったのだと観察した。

十二月末頃迄は倒閣によって少しでも局面の新しく展開することを希望してゐた。
玆に於て、余は倒閣運動に対する考へを一変した。
その理由は倒閣は必ずしも不可ではないが、
その結果寺内が出馬することになると、維新派のために極めて不利になる、
だから優柔でも川島が存在してゐる事の方が好都合だ、
従って倒閣運動などに力を入れることはつまらぬことだと云ふわけだ。

一月廿日すぎてからは
専ら武力解決の為に全力をそそいだ。
議会が解散されて相当に世の中が騒しくて、
同志中にも選挙の結果がどうなるの、かうなるのと云って、
それに気をとられて情況判断の競争をしてゐるかの感を抱かしむる物等もあったが、
余はそんな事に不関ず、否選挙運動に興味をもち之に没頭する様な同志はこの際、
見かぎりをつける可きだ、革命運動は選挙運動でもなく、政治ゴロの政治運動でもない、
革命家が選挙運動をすると云ふことは、革命家の堕落だとさへ考へた。
それでも同志中の誰かに語った事がある。
選挙運動なんかやる連中は、吾人の真の同志にはなり得ないものだ。
愛国運動者の屑だ。
吾人はかくの如き同志の為に、その冷厳な革命精神をかき乱されてはならぬ。
特に革命将校は劔によって事を解決する事を誇りとしなければならぬ程度のものである筈だ。
だから選挙運動をやる連中などと絶縁せよ。
而して 二月の下旬に定る選挙の結果などを、
一ケ月も前からかれこれと想像したり 判断したり してゐる事は、時間と精力の浪費だ。
今や吾人革命軍人が考へねばならぬことは選挙の結果ではなくて、
それがどうであらうと選挙終了の時機には劔をとって蹶起せねばならぬと云ふことだ。
今は情況判断の時機ではない、決心の時機だと。
余は武力蹶起について、兵力部署等に関しては目安をつけてゐたので、
大体心配ないと考へたが、軍部の態度については一面憂慮した。
それで一月二十日以降に於ては、
軍上層部の意向を少しでも知っておきたいと考へたので、川島陸相の所を先づ訪ねた。
一月二十三、四日頃の夜、
森氏と共に官邸に至り、
三時間余り会談したが、大した収穫もなかった。
唯 余は
「渡辺教育総監は世の疑惑大である。
特に新年早々テキ屋にねらはれた事実さへあって、青年将校の憤激は一通りではない。
あのままにしておくと必ず血をみる。
然も教育総監部系統の将校が多数して渡辺大将を斬る様な事態が必ず起る。
青年将校も今度やれば五・一五事件位ひの小さな事ではなくて、大仕掛な事をやると思ふが、
一体事件の起きた時、如何に軍部はなすべきや」
と 問を発してみた。
所が大臣は、
「渡辺大将は自分でやめるとよい、君等はそれをすすめたらいいだらう」
と 答へ、
更に余が、
地方でも将校団の青年将校や教導学校の区隊長等が、
誠心をひらいて辞職をすすめてゐるが、却って之等の将校が弾圧されてゐる。
最早 つくすべき所は盡したのだから、
此の次なは必ず何事か起きるといふ事を返答したら、
大臣は大体、千葉歩校、豊橋教校及び九州、朝鮮、東北各地将校の教育総監に対する
辞職勧告乃之が弾圧の状態を知っていて、
余に之を語りながら、仕方がないなあと云ふ旨をもらした。

行動記」の「第五 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 」は次の通り。

そこで余は、
必ず何事か起りますぞと強く一本釘をさした。
又、森氏は、
磯部君は青年将校をなだめるのに困る状態にあるらしい、
私は磯部君を常に引止める様にしてゐるが、
どうも一般の状態は最早停止させる事は出来ぬらしいのだから、
大臣、あなたがウンと力コブを入れて努力せられねばいけません、
と 付加へた。

会見は以上の程度の内容しかなかったが、
この会見に於て、余の川島から受けた感じは、
何事か突発した場合、弾圧はしないと云ふ事であった。
夜十二時過、
帰宅せんとするとき大臣は、わざわざ銘酒の箱詰になったのを玄関に持出し、
一升ビン一本を取り出し
この酒は名前がいい 雄叫と云ふのだ、
一本あげよう、三、四本あるといいが 二本しかないから一本あげやう、
自重してやりたまへ、
等 云ってすこぶる上機嫌であった所などを考へても、
何だか吾々青年将校に好意を有してゐる事推察するに難くなかった。
川島の会見に於て充分なね結果を得なかったので、
川島と交友関係に於て最も厚い真崎を訪ねる事にして、
一月二十八日、
相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした。
面会を求めた所が用件を尋ねられたので、
名刺の裏に火急の用件であるから是非御引見を得たい、
との旨を記して差出したら、応接して呉れることになった。
真崎は何事かを察知せるものの如く、
何事か起るのなら、何も云って呉れるな
と 前提した。
余は統帥権干犯問題に関しては決死的な努力をしたい、
相沢公判も始まる事だから、
閣下も御努力していただきたいと云って、金子の都合を願った。
大将は俺は貧乏で金がないが、いくら位ひいるのだと云ふ。
金は千円位あればいい、なければ五百円でもいいと云って、大まけをして半額に下げた。
「それ位ひか、それなら物でも売ってこしらへてやらう、
君は森を知ってゐるか、森の方へ話してみて必ずつくってやらう」
と 云って、快諾して呉れた。
余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、
余とは生れて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助とをして呉れると云ふ事は、
青年将校の思想信念、行動に理解と同情を有してゐる動かぬ証拠だと信じた。
特に森氏を真崎が絶対に信じてゐる事、
及び川島と森氏とが極めて親交があることを先に実現した事から、
川島、真崎の関係が絶対に良好であることの確信を得た。
森氏が実によく青年将校の状態を知ってゐるのは、真崎、川島から聞くのだ。
この事から想像すると、
両将軍が青年将校の威武を相当にたよりにしてゐる事が明らかである。
殊に真崎は
村中、磯部は免官になったが、
復職させてやるなどと森に語った事すらあるらしいのだから、
尚更だと云へる。

 「行動記」の「第六 牧野は何処に」は次の通り。
陸軍に於て、
陸軍大臣と之を中心とした一団の勢力が吾人の行動を認め、
且つ 軍内の強行派たる真崎が背後から支援をして呉れたら、
元老、重臣に突撃する所の吾人を弾圧する勢力はない筈だ。
若し弾圧することになると、
弾圧した勢力は 国民の敵たる元老、重臣の一派とならねばならなくなるのだから、
大変なことになる。
まさか軍部が国民の敵となって重臣、元老と結託はすまい。
多少の異論、或は相当の混乱は軍部内にも起るだらふが、
頭から青年将校をたたきつける様に事はすまいと云ふのが、余の一月迄に得た情況判断だ。
これは、真崎、川島、古莊、山下、村上軍事課長と直接面会して感得した所だ。
村上の如きは余に対して、
君等を煽動するのではないが、
何か起らねば片付かぬ、起った方が早い、
と云って、宛も事の起るのを待つかの如くであった。

相沢中佐の公判は劈頭より大波乱を起した。
予審のズサンなる取調べに対し、弁護士が俄然鋭い攻撃を始めたからだ、
公判に対する世論の評は、将に中佐に九割の勝利を示してゐる、
全国民の声援も甚だしく高まりつつある。

余は去年来の決心をいよいよ強固にした。
それで他の同志がたとい蹶起せずとも、
余は田中部隊を以て河野、山本と共に蹶起する決心で着々準備をした。
栗原もその周囲 (歩一を中心として近三) を ガッチリとかためる事に日夜をあげている様子だ。
唯 困った事は襲撃目標を如何なる範囲にし、如何に部隊を配当するかと云ふ事である。
余は最初は少数同志でやるつもりでゐたが、栗原の言によると相当なる部隊を出し得るとの事だ。
余の計画は最初は田中、河野、余の三人で
岡田及び内府をたほして政変を起す程度で満足せねばならぬと思ってゐたのであったが、
栗原は、その関係方面の実力を以て、三目標は完全にやれると云ふのだ。
そこで栗原が一案を出して、岡田、齋藤、鈴木貫位ひでどうですかと云ふのだ。
余は牧野は如何と云ふたら、牧野はいいでせう。
もう内府をしりぞいて力を振ふわけにはゆかぬではないか、と云ふのだ。
余は牧野、西園寺をたほさねば革命にはならぬ、維新の維の字にもならぬ。
政変が起って、しかもそれが吾々同志に不利な政変になるかも知れぬぞ、と答へて。
大きくやるなら徹底的に殺してしまはぬと駄目だ、特に牧、西は絶対に討たねばだめだ、と主張した。
そしたら栗原も同意して、牧野は一体どこに居るのだと云ふことになった。
さあ困った、
牧野の居所も知らずに
ヤルヤル云ふの愚を恥ぢ、
且つ 笑った。
急に考へついて、牧野の住所を偵察する事にして色々と調べてみると、
鎌倉に居ると云ひ、芝に居ると云ひ 麻布の内府官邸にまだ居ると云ひ、
一向に見当がつかぬが、二人して一心に探した。
栗原は鎌倉に二度も行って別荘の要図を作製して来た。
 「行動記」の「第七 ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を戦わしてはいけない 」は次の通り。
栗原と余は、牧野の偵察に余念がないのだが、
どうも所在が分らない。
警察へきけばわかるだらうが、
うかつな事をしたらとんでもない事になるし、
それかと云って、
知名の士で牧野と近い人との知り合ひももたぬし、
新聞記者にでもきけばよからうとも思ったが、適当な人物を見出さぬ。
ほとほと困ってゐた所が、
二月三、四日頃の東京朝日?
の人事消息爛に牧野伯、湯河原の光風荘に入る、
午後一時卅幾分に小田原駅通過、
の 記事があるのだ。
余はシメタと思ひ河野に連絡したら、
河野は至急に偵察して、見当り次第ヤルと意気込む。
河野の決意を部隊の担当者たる栗原に通じたら、
彼は今やられたら部隊で困る、
同時決行でないと各個撃破を受けるから、
一時 隠忍して貰いたいといふ。
余はここに於て、
速かに歩三部隊の決意をきき、
且つ 歩一、歩三、田中部隊、近三、単独将校
各々の間の連絡打合せもしておかねばならぬ事に気がついた。
何故にもっと早く各部隊の決意を正し、
連絡を完了しておかなかったかと云へば、それには多少の理由がある。
即ち余は、最近迄は余の周囲の力 (田中、河野) のみで決行し、
他部隊に迷惑をかけずに
歩一、歩三等、多くの部隊を残しておこうと云ふ腹であったが一つ、
それに企図の秘匿だ。
この事は決心が強固になればなる程、
完全に出来ると云ふ哲理を附記しておかふ。
いよいよ強い決心をしてしまふと、
俺はやるのだが等、他人に云へなくなる。
他人に決心を打ち明けて見たい気のする時は、
まだまだ自己の決意が固くないのだ。
この場合は他人に話してみて他人の意見をきき、
自分の決心の不足分を補足せねばならぬわけだ。
この哲学を理解せぬ憲兵や法務官に、
「一人でもやると云ふかたい決心をしたのだから、西田税に相談しない筈はない、
西田には早くから相談したのだらふ」
と 云って責められて、
説明に困った事が予審中しばしばあったが、
実際ウソでもかくし事でもない、強固な決心をすると他人に相談する必要がない、
したがって企図の秘匿は完全にゆく。
余は昨冬より独力決行の決意であった為に、
部隊の将校にやらぬかやらぬかと云って 勧誘をする必要がなく、
下手な勧誘が企図の暴露にもなると考へた事が理由の一つだ。
以上の様な理由で、
二月はじめ迄は殆んど部隊との連絡打合せの必要を感じなかったので、
二月初めに河野が先駆すると云ひ出した時には、相当にあわてねばならなかった。
そこで河野は一つの意見を出して、
磯部さん、
ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今になって戦はしてはいけない、
それでは永久に決行出来ぬ事になるから、
この度は真に決行の強い者だけ結束して断行しよう、
二月十一日に決行同志の会合を催してもらいたい、
其の席で行動計画等をシッカリと練らねばならん

と云ふのであった。
 「行動記」の「第八 飛びついて行って殺せ 」は次の通り。

河野の意見にもとづいて
二月十日夜、
歩三の週番指令室に於て、
安藤、栗原、中橋、河野と余の五人が会合した。
会談の内容は、
いよいよ実行の準備にとりかからふ、
準備の為には実行部隊の長となるものの充分なる打合せが必要だから、
今後時機を定めて会合する事にしやう、
而して 秘匿の為、
この会合をA会合として、
五人以外の他の者を本会合には参加させまい、
他の同志を参加させる会合 を B会合としておく事にする
等のバク然たる打合せをした。
余は安藤の決心を充分に聞きたかったので、
一応正してみると
「いよいよ準備するかなあ」
と 云った返答だ。
慎重な安藤が云ふことであるから、安藤も決心していると考へた。
河野は余に語って
「今度こそは出来る、顔ブレがいい」
と 非常に喜んでいた。
二月十一日に西田氏を訪ねた所、
氏は五・一五事件の時、射たれた時の着物類を裁判所から受取って来たと云ったので、
余は見せて呉れと頼んで之を見た。
ベットリと黒ずんだ血が一杯についてゐる
当時の惨劇を偲ばせる。
余は
西田さん、
血がかへって来るといふことはいい事です、
今年はきっといいですよ
と 云った。
此の時、同志の情況について語らふかとも思ったがやめた。
西田氏の血のついた記念品を見てかへって、
十一日の夜は
相沢中佐の写真の前で 「私は近く決行します」 と誓言をした。
もとより西田氏の仇討ちだと云ふ簡短な感慨も多分にあった。

余は日本改造法案を絶対に信じてゐるし、
北、西田両氏を非常に尊敬しているから、
西田氏を射った時世と人間どもに対して激しい怒りを有してゐる。
二月十四、五日頃(土曜日の晩)、
河野が軍刀とピストルをもって訪ねて来て
「私は一足先にやるかも知れぬ」 と いふのだ。
我慢出来ないかと云ったら、
いや牧野の偵察をしに湯河原へ行くだけですよ、と云って笑っている。
余は部隊の方の関係から云ふと軽挙は出来ぬぞ、
と 注意したら、
「 何にッ、牧野と云ふ奴は悪の本尊だ、
それにもかかわらず運がいい奴だから、やれる時やっておかぬと、
又何時やれるかわかりませんよ、やられたらやってもいいでせう 」
と 云って笑っている。
余も河野の人物を信じているから、
「 よからふ、やって下さい、
東京の方は小生が直ちに連絡をして、急な弾圧にはそなへる事にしやう、
若しひどく弾圧をする様なら、
弾圧勢力の中心点に向って突入する事位ひは出来るだらふからやって呉れ」
と たのんだ。

これより先、河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました。
私は理屈は知りません、
しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
牧野だけは私にやらして下さい、
牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ

と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、
余は強く肺肝をさされた様に感じた

 「行動記」の「 第九 安藤がヤレないという 」は次の通り。

確乎たる決心をもって湯河原に行った河野が
翌日夜に入って、ガッカリしましたと云って帰って来た。
湯河原の光風荘をさがしたが、そんな所はないとの事だ。
牧野は天野屋へ時々やって来るとの事を旅館のものにきいたので、
それとなく天野屋をさまーぐってみたが、牧野は来ていない事がたしかだとの報告だ。
余は何等かの方法で探る事を約した。
清浦が最近牧野に会見を申込んだ所が、
牧野から断られたとの旨を記した清浦の手紙を、森氏の宅で見た事を思ひ出して、
それとなく森氏に尋ねてみたらと思って訪問してきいてみると、
それは何とかしてしらべてみようとの話だ。

二月一八日、
栗原宅に村、栗、安、余が会合して、
いよいよ何日に如何なる方法で決行するかを決定しようとの考へで、意見の交換をした。
所が以外にも、安藤が今はやれないといふのだ。
村中が理由をきいたが、
理由は大して述べないで時機尚早をとなへた。
最後の紙一重と云ふむづかしい事になると、
ヤルと云ふ方も、やらぬと云ふ方も お互ひに理由など大してないのが自然だらふ
(直感といふか、カンと云ふか)。
余はヤルと主張した。
余のヤルと云ふのも大した理由はないのだ。
一日も早く日本の悪を斬り除かねば気がすまなかった迄だ。
悪を斬るといふ事にだけ成功すれば、先ずそれでいいではないか、
と 云ふのが
余の不断の主張だからだ。
悪を斬っただけでは駄目だ、
その次に何か起る、その又次を考へよと云ふ、
よくを出すときりがない。
今一度に昭和三十年頃迄の事を予定して、蹶起か否かを決定する様な事は出来ない。
余は最初から、
歩一がやらぬでも、歩三がやらぬでも、独力決行するつもりでいたのだから、
安藤の時機尚早の時機早しとの意見に左右される程の事もないと考へたので、
「俺はヤル」 と 云った迄だ。
とに角 この会合で来週中にやると云ふことだけは決定した。
二月十九日
朝十時、東京発で豊橋へ行く。
対馬に愈々在京同志が近く決行する事を語り、興津の襲撃を依頼した所、直ちに快諾した。
金の入用を訴へたので、
鈴木に話して見てくれと云って、余より鈴木宛の依頼状をしたためておいて、
翌日帰京した。
西園寺邸は対馬、竹島と共に、余が昭和九年偵察したし、
去年八月田中勝が再度の偵察をして、地形及び警戒状態は詳細にわかってゐた。
特に余は西田氏を通じ、サツマ氏より邸内の様子
家屋の間取り迄くはしく研究して (昭和九年より) いたので、
大して困難な襲撃目標でない事を知ってゐるが、
豊橋より興津迄自動車で夜間七時間近くを要するので、此の点を心配した。
二月二十一日、
山口大尉を村中と共に訪ね、
行動発起直後に於ける歩一の残部部隊の行動に関し依頼をした所、
残部隊は週番司令の独断で市中の警戒につける事、
柳川を台湾から呼ぶこと等を大尉は語った。
余は柳川問題なんかたぬきの皮をとってからの話だと考へ、大して問題にしなかった。
又、山口大尉より西園寺を襲撃することはやめたら如何、
との話があったが、余は断乎之に反対した。

 「行動記」の「第十 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」は次の通り。
同じく二月二十一日の夜、
森氏を訪ね、先日以来の牧野の居場所をたずねると、
湯河原の伊東屋旅館にいるとの事だ。
余は平然をよそほっていたが、内心飛び立つ程にうれしかった。
この夜十一時頃、
安藤を訪ねて、この数日間の情況について語って、
不安なく決行して呉れる様に話した。
山口大尉の決心処置、真崎、本庄、清浦等の工作
並びに豊橋部隊の情況等がその主なるものだ。
二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ

と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
本日の午後四時には、
野中大尉の宅で村中と余と三人会ふ事になってゐるので、
定刻に四谷の野中宅に行く。
村中は既に来てゐた。
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
野中氏は十五日より二十二日の午前仲迄、週番司令として服務し、
自分の週番中に決行すると云って安藤を叱った程であったから、
其の決意も実に牢固としてゐた。

これより先、
十五日、夜、
安藤と共に山下奉文を訪ねた。
歩三の青年将校は
山下から、
統帥権干犯者は
「戒厳令を布いて斬るのだなあ」
と の話をきき、
非常に元気づいてゐた。
野中大尉の部下たる常盤少尉の如きは十六、七日頃、
警視庁襲撃の予行演習をやった事があって、
歩三は警視庁から仁義をきられた様なうわさもあった。
野中、安藤、栗原、河野、中橋、村中等、同志の決心はシッカリとキマッタので、
二十二日の夜は
栗原宅に河野、中橋、栗、村、余の五人が会合して、
襲撃の目標、決行日時、兵力部署等を決定した。
襲撃目標は五・一五以来、
同志の間に常識化してゐたから大した問題にならず、簡単に決定した。
唯 世間のわけを知らぬ者共から見て、
渡辺と高橋は問題になると思ふから、理由を記しておく。
高橋は
五・一五以来、維新反対勢力として上層財界人の人気を受けてゐた。
その上、彼は参謀本部廃止論なぞを唱へ、
昨冬予算問題の時には、軍部に対して反対的言辞をさえ発している。
又、重臣、元老なき後の重臣でもある。
渡辺は
同志将校を弾圧したばかりでなく、
三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しさうな人物の筆頭だ。
天皇機関説の軍部に於ける本尊だ。
玆に 特に附記せねばならぬ事は、
林銑十郎を何故やらなかったかである。
それは第二次的にやると云ふことと、
林はすでに永田事件でみそをつけていて一般の人気もないし、
単なる軍事参議官にすぎぬから
大して問題にせぬでもよからふ位ひに極くカンタンに考へてしまったからだ。
名分の上から言ふと、
統帥権干犯の首カイたる林は、
どうしても討たねばならぬのであった。
 「行動記」の「第十一 君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ」は次の通り。
栗原は二十三日に豊橋に行き、
対馬部隊と細部の打合せをなす事になる。
この時当然に、
栗原は平素準備しておいた小銃弾 (二千発) を携行した。
村中は、演習出張の為不在であって、
未だ決定事項の連絡或は意見の聴取をしていなかった香田と連絡し、
余、中橋等と各々連絡を担任する。
二十三日夜は
歩三週番指令室に於て
安藤、村中、香田、野中、余、坂井の会合をなし、
いよいよ計画の細部打合せをする。
二十四日は
歩一司令室にて 野中、山口、香田、村、余、会合す。
当日も行動計画の研究が主であった。
夜、田中勝が夫人同伴で連絡旁々来る。
二十五日は
湯河原へ偵察に行った渋川の連絡を待った。
午前十一時、渋川の夫人が西田宅に帰って来たので手紙を見ると、
牧野はたしかに伊東屋の別館に滞在してゐるとの通知、
伊東屋本館に滞在中の徳大寺の所へ時々囲碁をやりに来る。
その時も警戒付で、平素四、五人の警官がつしてゐるとの報だ。
此の報を余は河野に伝へる約束で、
自宅で河野を待ったが、定刻の十一時になっても来ず、
午後二時迄待って来ぬので、
余が自ら牧野を討ちに行く事を栗原に相談して出発しようとしていたら、
河野が急いでヤッテ来た。
そして遅刻の弁解が面白い。
「今朝登校したら、急に金丸原へ飛行せよと命ぜられて、
断る訳にもゆかず、仕方なく飛行機を出しましたよ。
午前十一時におくれては大変と思ひ、ママヨ墜落したら其れ迄だと思って、
無茶に速力を出してとびましてね。
一番乗りをやりました。
神様が助けて呉れたか、無茶苦茶をやって飛んだのに落ちなかったですよ」

と 云ふのだ。
余は少々あきれた、
大胆不敵な男だと思ってあきれたのだ。

河野が出発した後、西田氏を訪ねた。
西田氏は、今回の決行に何等かの不安を有してゐる事を余は知ってゐるので、
安心をさせるために、予定通りに着々と進んでゐる旨を知らすためであった。
西田氏の不安といふのは、
察するに失敗したら大変になるぞ、
取りかえしがつかぬ、有為な同志が惜しいと云ふ心配であった様だ。
余は所期には西田氏にも村中にも何事も語らないで、
自力で所信に邁進しようとしてゐたので、
昨年末以来、西田氏に対してヤルとかヤラヌとか云ふ話は少しもしなかったのだ。
所が 二月中旬になって、
在京同志全部で決行する様な風になったので、
一応 西田氏に打ち明けるの必要を考へ、
村中と相談の上、
十八、九日頃になって打ち明けた。
氏は沈思してゐた。
その表情は沈痛でさへあった。
そして余に語った。
僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、
君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ。
海軍の藤井が、革命のために国内で死にたい、
是非一度国奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた。
彼の死は悶死であったかもしれぬ。
第一師団が渡満するのだから、
渡満前に決行すると云って思ひつめてゐた青年将校をとめる事は出来ぬのでなあ

と 云って、
何か良好な方法はないかと苦心している風だった。
余は若し失敗した場合、
西田氏に迷惑のかかる事は、氏の十年間の苦闘を水泡に帰してしまふので相すまぬし、
又、革命日本の非常なる損失と考へたので、
一寸その意をもらしたら、
氏は、
僕自身は五・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、
僕に対する君等の同情はまあいいとしても、おしいなあ

と 云った。
余はこの言をきいて、
何とも云へぬ気になった。
どこのどいつが何と悪口を云っても、
氏は偉大な存在だ、革命日本の柱石だ。
我等在京同志の死はおしくないが、氏のそれはおしみても余りある事だ、
どうしても氏に迷惑をかけてはならぬと考えた。
 「行動記」の「第十二 計画ズサンなりと云ふな」は次の通り。

二十五日
夕、山本又を待つ。
午後六時すぎ来たので
いよいよ夜半より準備して、
明払暁決行する旨を語り、参加を求む。
直ちに諾す。
流石法華経の行者だけに、
尊皇討奸の折伏をのみ込むのも早い。
平素立派な人だと信じていた通り、
大事に臨んでひるむ色を見せぬ大男児である。
午後七時
平然と家を出る。

妻は何事も知らず帰宅の時刻を尋ねる。
「今夜はおそい、先に休め」 と 簡短に云って別れる。
自動車を飛ばして歩一へ急ぐ。
大東京は何も知らぬ夜の幕につつまれてしまってゐる。

機関銃隊にて栗原、林八郎、池田俊彦、丹生誠忠等の同志と、万端の準備を急ぐ。
鴻之台より伝令が来て、田中部隊の支障なきを知らせる。
余は軍服に着換へ、十一中隊に移動した。
村中、香田と共に諸々の打合せをする。
蹶起趣意書を刷り、
陸軍大臣に対する要望事項の案等をつくる。
又、斬殺すべき軍人、通過を許すべき人名表等を作る。
要望事項は村中、香田両人が作案した。
其の概要を記すると、
一、事態容易なるざるを以て、速やかに善処すべきこと。
一、小磯国昭、建川美次、宇垣、南次郎等将軍をタイホすること。
一、同志将校、大岸頼好、菅波等を招致すること。
一、行動部隊を現地より動かさぬこと。
吾等は維新の曙光を見る迄は断じて引かず、死を期して目的を貫徹する。
と 云ふのであった。
又、余の作製した斬殺すべき軍人は
林、石原莞爾、片倉衷、武藤章、根本博の五人であったと記憶する。
斯くする内、
二月二十五日夜は刻々に更けてゆく。

憲兵法務官等が余に、二月事件は計画がズサンだと云ふ事を廔々云った。
恐らくこの批評は社会の公評であらふ。
余は第三者的法務官、憲兵などから、計画がズサンだと云はれても大して恐る者ではない。
たとへそれが社会の公評であっても、何等意に介するを要しない。
然し、同志から計画がズサンと云って、一笑にせらるることは限りない苦痛だ。
だから玆に、計画に関する一つの所見を付しておくことにする。
蹶起の目的は----
重臣、元老、特にロンドン条約以来の統帥権干犯の賊を斬り、
軍部を被帽して維新の第一段階に進むことであって、
決して五・一五でも、血盟団でもなく、生野の変でも、十津川の変でもない。
鳥羽伏見の戦のかくごである。
所が表面あく迄軍部を被帽して進むものであるが、
軍部が弾圧態度を示した時には自爆して、帽軍部と共に炸裂せねばならぬ、
すこぶる微妙な鳥羽、伏見である。
このために実行計画も甚しく立案の困難なものである事になる。
例へば襲撃目標についても、
最初から軍内の弾圧勢力を相当数斬るか、軍内には全然刃を向けないか、
と云ふハンモンすべき問題にブッ突かる。
襲撃後の部隊の集結位置及び行動計画に於ても、陸軍省、参謀本部を包囲する如くやるか、
或ひは全然両所を解放してしまふか。
又は最初から省、部内への交通を杜絶して、
幕僚等の大臣に対する一切の策動を避くる如くするか。
第一次目標襲撃後、軍内の空気を速やかに看取して、
第二次目標を襲撃すべきか否かを決定せねばならぬのであって、
不適当な時機に無暗に動乱化を計れば、却って軍部の怒りを買わねばならなくなる等、
一切合切の問題が極めて複雑であって、
すべて最初から計画することの不可能な条件ばかりである。

情況は陣内戦である。
各級指揮官の果敢なる独断と、各部隊の勇敢なる戦闘によって
戦果を拡張せしむるより外に方法がないのだ。
余は二月二十三日 北先生を訪ね、
支那革命の武昌の一挙の時、
サウサウたる革命の志士が皆過失をおかしてゐるのは何故かとたずねたら、
「何しろ革命と云ふ奴には計画がないのだからね、
計画も何もなく、自然に突発するのだから、どんな人だってあわてるよ」
と 云はれた。
成程と思った。
革命は機運の熟成した時、自然発火をするものだから計画がない、
予定表を作成しておくわけにゆかぬ。
その発起より終末迄、殆ど無計画状態にて終始する。
この哲理を理解せずに、二月義軍事件を評する勿れだ。
計画ズサンなりと云ふな、
相当の計画腹案はあったのだ。
然し それがいちいちあてはまらなくなってしまったり、
予想外に的中したりするのだ。


 「行動記」の「第十三、いよいよ始まった」は次の通り。
 又、一部の急進者がアセリすぎて失敗したのだ等云ふな。決して然らず。機運の熟しない時は一部や半部の急進同志があせっても、決して発火するものではない。今回の決行は余や河野が強引にかけたものでもなく、栗原があせったわけでもない。同志の大部分が期せずして一致し、モウヨシ 決行しようと云ふ気になったのだ。

 日本の二月革命は計画ズサンの為に破れたのではない。又 急進一部同志があせり過ぎた為に破れたのでもない。兵力が少数なる為でもなく、弾丸が不足のためでもない。機運の熟成漸く蛤御門の変の時機にしか達してゐないのに、鳥羽、伏見を企図したが、収穫は矢張り機の熟した程度にしか得られなかったと云ふ迄の事だ。同志よ、蛤御門なら長藩の損失になるのみだ。やらぬがいい等と云ふ様な愚論をするな。維新の長藩を以て自任する現代の我が革命党が、蛤御門も長州征伐も経過する事なく直ちに、鳥羽、伏見の成功をかち得やうとする事が、余りに虫のよすぎる注文であることを知ってくれよ。

 二月二十六日午前四時、各隊は既に準備を完了した。出発せんとするもの、出発前の訓示をするもの、休憩をしてゐるもの等、まちまちであるが、皆一様に落ちついた様に見えるのは事の成功を予告するかの如くであった。豊橋部隊は板垣徹の反対に会って決行不能となったが、湯河原部隊はすでに小田原附近迄は到着してゐる筈である。各同志の連絡共同と、各部隊の統制ある行動に苦心した余は、午前四時頃の情況を見て、戦ひは勝利だと確信した。衛門を出る迄に弾圧の手が下らねば、あとはやれると云ふのが余の判断であったからだ。

 村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まった。秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。五時五、六分頃、陸相官邸に着く。

 「これから後の手記は成るべく詳細にして、後世発表の官報、官吏のインチキを叱正したいのだが、手記が余の行動を中心としたものたるをまぬかれ難いので、全同志の行動、並各方面の情況に対する全般的のものたる事を保し難い。又、遺憾なのは、余も村中も明日にも銃殺されるかも知れぬ身だから、記録が毎日、毎日、序論と本論と結論とをせねばならぬので、一貫した系統のあるものに成し難いことである。願くば革命同志諸君の理論と信念と情熱とに依って判読せられんことを」。

 香、村、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余は遅れて到着す。余と山本は部隊の後尾にゐたのと、独逸大使館前の三叉路で交番の巡査が電話をかけてゐるのを見たので、威カクの為と、ピストルの試射とを兼ねて射撃をしたりしていたのでおくれたのだ。官邸内には既に兵が入ってゐる。香田、村中は国家の重大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと云って、憲兵とおし問答してゐる。余は香、村は 面白い事を云ふ人達だ、えらいぞと思った。重大事は自分等が好んで起し、むしろ自分等の重大事であるかも知れないのに、国家の重大事と云ふ所が日本人らしくて健気だ、と 思って苦笑した。憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと云ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に云って来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物でも着て是非出て来て会って戴きたい、と 懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。

 彼によると、日本は明治維新革命以来、「天皇の独裁国家ではなく」、「重臣の独裁国家でもなく」、「天皇を中心とした近代的民主国」なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」に変じていると云う。その大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた。銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。






(私論.私見)