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上海時代の北の中国情勢に対する意見を直接に示す資料は今のところまだ紹介されていない。しかし北が満川亀太郎にあてて自らの意見を書き送っていたことは確認することができる。満川は北からの手紙を二つの会合で公開している。その一つは、1918年(大正7)11月22日の老壮会第4回例会であり、この会合で「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や」を論議した際、満川は「右問題に関する在支那北輝次郎氏の来翰を披露」した。(「老壮会の記」「大日本」大正8年4月号」もう一つは、ヴェルサイユ会議に対応するため、佐藤鋼次郎中将を発起人として結成された国民外交会の席上であり、満川は次のように回想している。「私は当時久し振りに、北一輝氏が上海から私に宛てて送って来た対支時局観を謄写刷りとし、或る日のこの会合に配布したことがあったが、松田源治氏が最も卓見として共鳴していたことを今猶記憶している」(『三国干渉以後』190〜1頁、1935年9月、平凡社)。この二つの会合で示された北の手紙が同じものだったのか、違うものだったのかわからないが、北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」で「拝啓、過日の書簡を広く示され誠に感謝します」(2−207頁)と書いているのは、これらのことを指しているものと思われる。しかしそれにつづけて「支那の事終に実行時代に入りましたので、今後は鮮血の筆が小生の拙文に代て御報告申すであろうと信じます」(2−207〜8頁)と述べている背後に、どのような情勢認議があったかは、今のところ推測することが出来ない。
なお、満川と北の関係については、あとで改めてとりあげることにしたい。
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