「古屋哲夫氏の北一輝論3」考



 (最新見直し2011.06.04日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「古屋哲夫氏の北一輝論3」を確認する。「人文学報」の第39号(1975年3月)に掲載されたもののようである。これを転載し論評しておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



【「古屋哲夫氏の北一輝論3(人文学報第39号、1975年3月)】
 10、亜細亜モンロー主義

 北の云う対外政策の「革命的一変」とは、中国革命の達成を支援することを「正義」とし、その「正義」を基礎として日本民族の新たな使命を構想すること、そしてそれを対外政策の中核に据えるということにほかならなかった。そしてそのため彼は、一方では前節でみたように、日本の膨脹と適合できる形に中国革命の将来を想定したのであったが、他方ではそれに対応した、「正義」に立脚した日本の対外政策を構築しなければならなかった。

  彼はそこでの原則的立場を「日本民族の対外行動は挙手投歩唯正義と強力とあるのみ」(2−92頁)と述べる。 正義はそれを遂行する強力と不可分のものとして捉えられていた。そしてここでの「強力」とは、極東に於ける日本の軍事的優位を前提とするものであった。北は日露戦争の勝利のあとでは、中国をめぐる国際関係に於ては、日本が圧倒的な軍事力を有すると信じていた。「支那を奪はんと欲せば須らく1個師団の陸兵と3隻の巡洋艦を以てすべし」(2−93頁)、「日本が其の陸軍と海軍とを有して、誠実に而して勇敢に全亜細亜の保護者を任じて毅立せば千百の不割譲条約ありと雖も反古に等し」(2−91頁)といった言葉からは、北が日本は極東において自ら望む方向に軍事行動を起し、勝利することが出来ると考えていた、あるいは少くともこの想定を対外政策論の前提としていたことを読みとることが出来る。従って「正義」とは、この力をどのような方向に行使し、あるいはどのような方向に行使してはならないかを決定する基準となるものであった。北はまず「支那保全主義」のなかに、対外政策における「正義」の基礎を求めようとした。

  と云っても「支那保全主義」は言葉としては決して北の発明になるものではなかった。というよりもむしろ、当時、対中国問題を論ずる場合の1つの基準として、一般に通用していた考え方であったと云う方が正しいであろう。「支那保全主義」が対中国政策論議のなかに登場してきたのは、すでに古く日清戦争直後に、列強の中国からの利権奪取が露骨な形で進行し、遂に領土的分割に至るかと考えられた時からであった。ここでの「保全」とは、列強の領土的中国分割によって日本の大陸発展の道が閉ざされることを防ごうとする発想から生れたものであり、従って「支那保全主義」は、一般的には、中国の領土的分割に反対しながら、中国に対する経済的進出や利権の獲得を果そうとするものであった。それ故、日露戦争もまた、ロシアの満州領有=中国の領土的分割に反対する保全主義の戦いと意識される場合が多く、北自身も「日露戦争は支那全部の保全的正義の為めに戦われたるもの」(2−90頁)と述べているのであった。

  北はこのような当時一般に通用していた「支那保全主義」を捉え、それを彼なりに純化することによって、対外政策論の出発点を築こうとしたのであった。彼はまず「人道的要求から迸発せる保全主義」(2−94頁)と述べているように、保全主義は列強の錯綜する利権奪取競争をかいくぐって自らの利権や勢力をのばすためのものではなく、文字通り中国の独立と自立的発展を保全するためのものでなければならないと主張した。それはまさに、当時一般に通用していた保全主義が、領土的分割を否定しながら、勢力範囲・優越権の設定や利権の獲得を肯定していたことへの批判であった。彼は云う、「由来正義に根拠する日本の支那保全主義と利権の保持に汲々たる英国の資本的侵略政策とは、仮令露西亜の分割的勢力に対抗せし期間外見上相似なるかの如きも根本精神に於て全く氷炭相容れざるものなり」(2−90頁)、「特に況んや優越権の如きは保全主義の本義に撞着する一個の侵略として許容すべき限りのものに非ず」(2−94頁)と。

  そして更に「支那保全」は中国自身の自立なくしては成立しえないものであることを強調した。「人道的要求より迸発せる保全主義は支那其者の自立によりて真の実現を見るべく、国家を白人の競売に附しつつありし亡国階級を存在せしめて期待すべきものにあらず」(2−94頁)、つまり「日本が誠実に支那の保全の為めに支那の復活を望」(同前)むことが「支那保全主義」の基本的態度でなければならないというのである。それはまさに中国革命が「自ら成せる革命」として発展しつつあるとみた中国革命認識と表裏をなすものであった。

  しかし、このように中国の自立的発展を望み、不侵略・不干渉の保全主義を貫くとすれば、当然、これまで中国から奪取した既得権益についてどう考えるのかという問題につきあたらざるを得ない。とくに焦点は在満権益の問題であった。しかし北はここではこうした論理の筋道を断ち切り、態度を一変して次のように叫ぶ。「不肖を以て南満州を獲得したることを非議するものとなす勿れ」(2−102頁)と。北も一応は「形式に於て」と留保をつけながら、日露戦争の結果が保全主義に反していることを認める。そしてその上で次のような反論を試みている。即ち日露戦争が「終に南北満州の分割を結果して戦前の保全主義を形式に於て損傷したることは、当時の清国が既に露国に割譲し更に加るに日露戦争に参加せざりし権利放棄として露西亜の領有より譲渡せられたる者」(2−90頁)だというのである。しかし清国がロシアに満州を割譲したというのは事実ではないし、また彼が在満権益を正当化する論拠とする「権利拠棄」にしても、それが日本の強制の結果であることを北自身も認めているのである。「又日露戦争に支那の参加せんことを申込みしに係らず日本は之を拒絶し、支那亦日本に拒絶せられたるが故に茫然として傍観したり」(2−101頁)、とすれば、「権利放棄」という理由づけには問題がおこってくる筈である。しかし北はこの問題にかえることなく、すぐつづけて「是れ両国の将来が同盟を以て露国の東進に対抗すべき運命に立てること」(同前)を示すものだ、という具合に問題をはぐらかしてしまった。

  ここでは明らかに北の保全主義は一貫していない。日露戦争を保全的正義のための戦いとみることは、ロシアの満州領有の意図を打破することが戦争目的であったということであり、すでに満州がロシアの領土になっていたということになれば、日露戦争は直接には「支那保全」にかかわらない日本とロシアの間の領土争いだということにならざるを得ない。しかも彼は、遼東租借地を除けば鉄道・鉱山の利権と鉄道守備兵の駐兵権を得ているにすぎない―従って明らかに中国の主権下にある南満州を日本の領土として論じているのである。北にとってもこの保全主義の矛盾は気になる所であったのであろう。「不肖等は日本の国家的正義に訴へて南満州領有の法理を考ふるに露西亜より得たる南樺太と同一なりと断ずる者なり」(2−102頁)と述べたのに続けて、「明確なる法理に基く南満州主権の了解は今後日支に取りて重大なる必要なり」(同前)と付記しているのであった。

  しかし北はこれ以上この問題に深入りしようとはしなかった。彼の問題関心は、「既往は追ふべからず」(2−101頁)として、将来に於ける日中の握手を、保全主義の「正義」の上に如何に実現してゆくのかという点に向けられていたからであった。満州問題にしても、日本の支配権を今後どのように運用してゆくのかという点に関心の中心がおかれ、保全主義はまさにその運用の点で強調されることになるのであった。即ち上述のようにして日露戦争による「南満州領有」を「支那保全主義」から切り離して擁護した北は、その後の事態については次のような形で保全主義の立場から批判するに至るのである。

  「不肖は日露戦争によりて露西亜より奪へる南満州を以て日本の正義を疑ふものにあらず。只正義の発動は一張し一弛す。日本が露西亜より其れを奪ひし時に緊張したる国家的正義は南満州を占拠すると共に崩然として跡なく、支那を露西亜の侵略より防護せんが為めの占有にあらずして全く北満州に拠れる其れと相携へて支那を脅かさんとする南満州に一変したり。日露戦争の南満州占有は支那保全主義の為めの城壁としてなりき。日露協約に至りての同一なる其れは露西亜の分割政策に協力し助勢する所の前営となれり。」(102〜3頁)

  ここには明らかに保全主義の転換がみられる。まず最初に、利権や勢力範囲を否定する保全主義によって自らの立場を「正義」とした北は、ついで保全主義の「ための」利権や地位の要求を肯定する方向へと一転してゆくのであった。そしてこの転換の鍵になるのが満州においてすでに権益を確保しているという現実であった。南満州を中国侵略の基地とせず、ロシアに対する城壁とするならば、保全主義の上に立った満州領有についての日中の了解が成立するであろうというのが北の想定であった。すでにみたような、中国革命において「露支戦争」を必然とするという主張が、満州領有を正当化し更にその拡張・強化を要求するために不可欠のものになることはもはや云うまでもあるまい。

  そして北はこの論理を更に、中国の周辺全部に城壁をめぐらすための侵略主義へと拡大してゆくことになるのであった。もしも事態がこのように進展するならば、満州支配には新たな根拠が与えられ、在満権益についての歴史的疑惑などは一挙に吹き飛んでしまう筈であった。彼は云う。「日本の保全主義を徹底せしむべく更に北満州を奪ひて支那の北境に万里延々の長城を築き、好機一閃黒竜沿海の一帯を掩有して彼が東進の根拠を覆へし、以て朝鮮と日本海とに一敵なからしめん」(2−103頁)、「而して南満州は日本の血を以て露西亜より得たる所。未解決のままに2個の主権を存立せしむることは断じて両国親善の所以に非ず。北満に至っては英の妨ぐるなくんば日露戦争当時既に獲得すべかりし者。大戦の意義に照して終に露西亜より奪はずんば止まず。−是れ支那の為めに絶対的保全の城廓を築くものに非ずや」(2−184頁)と。そして北は更に満州支配の代りに、21カ条要求によって得た内蒙古に関する権利を返還することで、「対露日支同盟」は完成すると夢想した。「内蒙古の権利は露支戦争を援助すべき一条件として『満蒙交換』の協定によりて対露日支同盟の条件たるべし。支那は外蒙古と共に内蒙古を得べし。日本は南満州と共に北満州を得べし。内外蒙古は支那存立の絶対的必要なり。彼が日本の後援によりて内外蒙古を得ることは西蔵を維持し支那全部を保全し得る保障を得る者にして南満の一角と較量し得べき者に非らず」(2−185頁)。

  北が中国革命完成の国際的局面として、「露支戦争」と「日英戦争」の組合せによる露英両国勢力の打破を唱えたことはすでにみたが、彼にとっては日本の対英開戦もまた、こうした「支那保全主義」の必然的結論にほかならなかった。「不肖は支那保全主義と日英同盟とが絶対的に両立する能はざることを信ずるものなり。而して支那の革命によりて支那自らの力を以て領土の保全を主張せんとする日は、当然に両立せざる日英同盟は日本及び支那の一撃により破却さるべきことを信ずるものなり」(2−82頁)とする彼は、「日本の対英露策に取りて独逸が支那保全主義の為に唯一同盟国たるべきことを思考だもせず」(2−175頁)に、日英同盟を利用してイギリス側に参戦してしまった政治指導者を痛烈に批判した。彼にとっては、第一次世界大戦は、「露支戦争」と「日英戦争」を組合せて中国革命を完成させると共に、南北にわたる「支那保全」の万里の城廓を築きあげるための絶好の機会とみえていたのであった。彼は云う。「日本が真に保全主義を唱ふるならば北露と南英との領土を奪ひて四百余州を抱く雄大なる箍を外交方針とすべかりしなり」(2−190頁)と。

  中国大陸全体を抱きかかえる「箍」とは、たしかに雄大な構想と云うべきであろう。しかしそれはもはや「支那保全主義」の枠からはみ出していると云わざるをえない。北はさきの文章につづけて「軍人と国論とが侵略主義を高調するは興国の正気にして妄りに抑圧すべきものに非ず。要は向うべき所に放つに在り」(同前)と書いている。それは彼の「支那保全主義」が、侵略主義そのものに対する原理的批判を意味するものではなく、たんに侵略の方向を規制し、侵略を正当化する根拠を提供するためのものにほかならなかったことを示している。『支那革命外史』においても叙述が後半に進むに従って、中国状勢にかかわりなく、日本が本来実現すべきものとしての領土拡張の要求が次第に前面に押し出されてくる。例えば彼は云う。「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり。英国がスエズ以東に威権を振ふことが東洋の英国を自負する日本と両立すべからざる覇権の衝突なることは明白なり。…則ち南亜細亜より英国を駆逐せんとする日英戦争は支那の如何に関せず、今の『小日本』が『大日本』として覇権を確立すべき領士を英国の持てる者に奪はずんば行く所なきを以てなり」(2−178頁)と。

  この主張は、云いかえれば、中国革命の反英的性格を認識することによって、日本民族はイギリスとの覇権争奪戦が必然であることにめざめ、この戦いに蹶起せよというに等しい。更にまた『支那革命外史』の末尾の部分で、北が「諸公何ぞ支那の革命が伊勢大廟の神風なることを悟らざるや」(2−203頁)と書いているのも同じ文脈で読める。つまり彼は、中国革命は、日本民族を自らの使命にめざめさせるために、天が与えたチャンスなのだと云いたかったのではなかったか。

  結局のところ、北が「支那保全主義」を対外政策論の出発点に据えたのは、それが日本の対外行動のすべてを律する根本原則であると考えたからではなかった。彼が試みたのは「保全主義」という「正義」の立場から中国革命をみるとき、日本民族の使命がどのようなものとして映し出されるかを問うことにほかならなかった。そして彼は、中国革命は日本に対して「白人投資の執達吏か東亜の盟主か」(2−116頁)の選択を迫っているとみた。勿論そこには、「黄白人種競争の決勝点」(3−84頁)として対露開戦を主張した人種意識・国家の強化を人類進化の道だと考える進化論・日露戦争の勝利に至る日本の対外発展の根本的な肯定などが前提されていることはもはや云うまでもあるまい。そして彼が、この選択に於て「東亜の盟主」の道を選んだこともまた。

  北は「支那及び他の黄人の独立自彊を保護指導すべき亜細亜の盟主」たることが「日本の天啓的使命」(2−111頁)であると説き始める。「天啓的」とは何かについて彼は多くを語ってはいない。しかし「亜細亜の自覚史に東天の曙光たるべき天啓的使命」と書き、また「日清戦争は日本が天佑によりて列強の分割より免かるゝと共に、黄人諸国の盟主たるべき覇位争奪の墺普戦争なり」(2−101頁)と述べているところからみれば、日本がアジアで最初に民族意識に基く独立国家を形成したこと、日清戦争の勝利によって、アジア諸国の中で最強の軍事力をもつことを実証したこと、という2つの点から「天啓的使命」を基礎づけているように思われる。

  日本が国家的独立の先駆者たることを以てアジアの指導者となし、日清戦争の勝利者たることを以て、欧米列強と抗争するアジアの保護者として位置づけるというこの使命観は、八紘一宇・大東亜共栄圏という怒号の時代を経験した我々にとっては、ひどく平凡なものにみえるかもしれない。しかしそれは西洋文明のあとを追いつづけてきた明治の風潮を逆転させるということであり、やはり辛亥革命と世界大戦という状況の変化なしにはなしえなかったことに違いない。辛亥革命にあたっては、革命派に接した多くの日本人が、その客観的内実がどうあったにもせよ、主観的にははじめて他のアジア人に対して指導的相談役的地位にあると感じることができたのであり、また第一次大戦はヨーロッパの弱体化を実感することをはじめて可能にしたものと云えた。北はこうした新しい感覚を明確な使命観として打出した点で、確かに先駆的であった。すでに辛亥革命の渦中にあって、革命が日本から学んだ国家民族主義によって指導されていると論じた北は、また第一次大戦という未曽有の大戦乱のさなかに於て、はやくも大英世界帝国解体の可能性について論じはじめたのであった。日英同盟を破棄しドイツと結んでイギリスを攻めるべきであったとする北は、「日独の海軍は大西洋と太平洋に彼の海軍を分割せしめ、本国の降伏は独逸によりて、本国其者に値する印度の独立は日本によりて実現せらるべし」(2−178頁)と述べて、はるかのちの、太平洋戦争期の政治指導者たちを想起させる。

  「支那保全主義」から出発し、「白人投資の執達吏」であることを拒否して「東亜の盟主」たることを選んだ北は、自らの立場を「亜細亜モンロー主義」と名づけた。そしてこの立場が確立されるに至るや、「支那保全主義」がその一側面として吸収されてゆくことは必然であった。「支那保全主義」は次のように云いかえられねばならなかった。「革命的(中国)新興階級の親日主義は日本の左顧右盻せる保全主義が亜細亜モンロー主義の天啓的使命によりて正義化したる後始めて至純至誠なる信頼に表現すべし」(2−95頁)と。それは、「支那保全主義」を基盤として生み出された筈の使命観が、亜細亜モンロー主義に到達すると同時に、逆に亜細亜モンロー主義が「支那保全主義」を従属化してゆく転換点を示すものとして読めないであろうか。

  亜細亜モンロー主義とは、『支那革命外史』に於ては、革命中国との 「日支同盟」によって、イギリスとロシアの勢力を駆逐することを目的とするものとして提示され、そのための方策が論議されるに至っている。そしてそこでは、亜細亜モンロー主義の成否こそが−中国革命が必然的に戦争によらなければ完成しないという想定を前提としながら−中国の将来を決定するものとされる。「支那保全主義」をもふくめてすべての問題は、亜細亜モンロー主義実現のための戦略に従属させられ、押しのけられていった。

  保全主義で否定された筈の利権獲得が、今度はモンロー主義の名によって正当化される。「亜細亜の安全の為めに支那と共に日本の擁護せざるべからざる経済的利権の存するあらば、至誠一貫堂々として支那と共に之を協るべし(2−93頁)。 そしてこの観方からすれば、さきには孫文の愛国心の欠除を示し失脚の原因とされた漢治萍問題も、次のような形で再登場することとなる。即ち「漢治萍が白人国の分割を予想したる債権の下に置かるることが日本及び支那の危機なりとせば、誠実聰明なる両国の協定は支那の進で求むる所なるべし」(同前)、つまりモンロー主義実現のための利権は中国が進んで提供するであろうというのであった。彼は更に漢治萍による一大兵器製造会社を夢みながら「日支の軍事同盟に依る軍器の共通は支那の側より進んで漢治萍の解決を求めざるを得ず」(2−191頁)とさえ書いているのであった。

  日中合弁の兵器廠とは、かの悪名高い21カ条要求の第5号にふくまれていたものではなかったか。北は遂に21カ条要求でさえも、亜細亜モンロー主義→「曰支同盟」の基盤としてならば、中国は喜んで応じたであろうとまで考えるに至るのであった。彼は次のように云う。文中の「曰支交渉案」が21カ条要求を指していることは云うまでもない。「彼の恥ずべき恫喝と譎詐とを闘はしめたる日支交渉案の如き、北、満蒙は日露大戦の正義に返ることによりて解決すべく、南、漢治萍の鉄は啻に日本の軍器独立に必要なるのみならず支那の存亡の為に支那の進んで共同経営を求むべきは論なし。日本第一の噴飯すべき外交家加藤氏の如く英国に致されて『第五項案』を保留するに及ばず、又或る種の陸軍系政客の如く漢治萍解決の為めに周特使を迎えて逆臣の纂奪を日本皇帝の名に於て承認せんとする国民道徳の指弾を受くるにも及ばず。−漢治萍其他の鉄炭を基礎とせる大々的クルップ会社を組織し、三分して其一を支那政府に、他の一を日本政府に、余の一を日支両国民の民有とせば両国軍事同盟の礎石茲に於て動かず」(2−191頁)。そして彼は更に次のようにつづける。「あゝ日支両国を永遠に結合する日支官民の一大軍器製造会社よ。営利は不肖の知る所に非ず。唯軍器の製造は国権の拡張を意味す」(同前)と。

  一大合弁兵器廠が、「国権の拡張」であり両国「永遠」のきづなであるということは、「亜細亜の盟主」による中国植民地化でなくて何であろうか。排日運動に対してさえ、国家民族主義の高まりとして同感を惜しまなかった彼の中国革命認識は、一体何処に消えたのであろうか。そして更に、合弁兵器廠と共に「日支同盟」を支えるもう一つの柱として、「日米経済同盟」による大鉄道網建設について語り始める時、北が語っているのは植民地経営論以外の何物でもなくなっている。列強の中国分割に反対して門戸開放を唱え、日露戦争に於ては日本を支援したアメリカが、「露支戦争及び日本の西比利亜侵略に対して再び有力なる同盟的立場に立ち得」(2-193頁)るであろうと考える北は、日米経済同盟の身勝手な幻想にふけるのであった。日米間には「彼(アメリカ)の弱点は支那の投資に於て日本の保証なくんば元利一切の不安なることにして、日本の弱点は彼の投資により支那の開発さるゝなくんば日本の富強なる能はざる利害の一致」(同前)があり、アメリカ資本は日本の保障があれば、中国に続々と投資されるであろうというのが北の想定であり、革命政権が没収した外国既設鉄道の上にこの米国資本を加えて、「軍隊輸送を基本とせる設計」(2−199頁)によって大鉄道網を建設するならば、中国統一の基礎条件となるであろうと云うのであった。

  「実に支那の統一者は袁孫に非ず譚黄に非ずして一に唯鉄道なり。支那の郡県制度は鉄道によりて統一せられ、支那の『産業革命』は鉄道によりて中世的経済生活を近代に飛躍せしむべし。鉄道は支那の主権者なり。…四百余州の郡県に連れる蒙古西蔵が軍隊輸送本位の鉄道に統一さるゝに至りて、支那は内地の為の軍隊浪費を要せざるべし。是れ日支軍器製造会社と共に支那が統一的有機的一国たる根本基礎にあらずや」(2−199頁)。

  『支那革命外史』前半においては、「同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解」(2−17頁)という中国民衆の「大勢」の中に、中国統一の基礎を見出そうとした同じ著者が、わずか3か月の中断の後に書きあげた後半の末尾では、同じ問題について、アメリカ資本による軍隊本位の鉄道建設という全く異った答えを提示することは如何にして可能だったのであろうか。我々はもはや、北の亜細亜モンロー主義が不干渉・不侵略の「支那保全主義」の規制を全く断ち切って暴走し始めたことを確認しなくてはなるまい。「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」(2−1頁)という北の最初の設問に即して云えば、「支那の覚醒」=中国革命に感応することによって生み出された筈の「天啓的使命」観が、中国革命をふり切って、「日本国権の拡張」のみを追求する「片輪的」方向に走り始めたということでもあろう。それは別の問題で云えば、中国革命の対外戦争への必然的発展という想定を媒介として生み出しされた積極的開戦論が、その媒介項を切り捨ててゆくことにほかならなかった。とすれば、『支那革命外史』の末尾は、すでに『国家改造案原理大綱』の「開戦ノ積極的権利」に接続していたと云いうるであろう。

 11改造法案への契機へ
 11、改造法案への契機

 『支那革命外史』を書き終えた北は、すぐさま、中国への渡航を企てた。直接の目的は譚人鳳のもっていた10万円の不渡公債をつかって、資金をつくることにあったとされているが、天津で領事館警察に抑留され送還されてしまった。しかし1916年(大正5)6月には上海に渡り、妻すず子と共に同志長田実の経営する医院の2階で居候生活をはじめた。そしてこの生活が、19年(大正8)12月、大川周明の訪問にこたえて帰国の途につくまで続いている。

  北が再度中国に渡ったのは、資金関係の問題を別にすれば、中国を反英・反露の方向に動かすことを意図したものであったであろう。しかしすでに軍閥割拠の時代にはいっていた中国情勢のなかで、宋教仁という盟友と黒竜会という後援者とを共に失ってしまっている北は、中国側に働きかける手だてをつくり出すことが出来なかった。彼に出来ることとしては、日本の為政者や同志に対して自らの意見を送りつけること位しかなかった。のちに「6年(大正)2月11日、神武建国の其日に於て、不肯北一輝なればこそ断乎として支那の対独断交に参加すべき理由なきを彼等に指示し」(2−357頁)と書いているところからみると、北はこの時、中国の参戦に反対する意見書を日本の有力者に送ったものと思われる。しかし同年8月、中国は彼の意に反してドイツ・オーストリアに宣戦を布告した。この間、3月にはロシア2月革命によって彼が当面の敵としたツァーリズムが倒れた。4月にはアメリカも聯合国側に立って参戦している。『支那革命外史』に於ける、「希くは諸公の活眼達識能く一転独米と結んで英露を撃破し以て抑塞せる国力の向ふ所を南北に分ちて恣に放たしむることなきか」(2−191頁)という北の訴えが実現する可能性は完全に消滅してしまっていた。11月にはレーニンのソビエト政府が出現する。

  翌1918年(大正7)1月、ウィルソンの14か条の平和原則が発表されると、その影響は民族自決権を中心として中国にも広まり、11月には「独逸の対抗力なき全敗と云ふ意外なる結果」(2-210頁)を以て第一次大戦は終った。19年(大正8)1月、ヴェルサイユ宮殿でウイルソンの14か条を中心として講和会議が開かれると、そこでの討議はたんなる戦争の後始末ではなく、「世界改造」をめざすものとしてうけとられた。講和会議からの報告に中野正剛は「世界改造の巷より」と名づけ、馬場恒吾は「改造の叫び」と題した。「改造」が新しい流行語となったことは、講和会議のさなかの、19年4月、雑誌「改造」の創刊に象徴されていると云ってよい。しかしこの「改造」の潮流は、民族自決・デモクラシー・平和主義という、北の思想とは異質の方向をめざして流れ始め、彼の周囲にも日本帝国主義に反対する中国民衆の運動が大衆的な盛り上りを示し始めてきた。5・4運動の波は6月に入ると上海で最高の高揚を示した。北は長田医院の2階から、「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を「投函して帰れる岩田富美夫君が雲霞怒涛の如き排日の群衆に包囲されて居る」(2−355頁)のを空しく眺めねばならなかった。

  『支那革命外史』の末尾において、すでに中国革命と思想的に離れてしまっていた北は、この過程においてその距離を実感として捉えたに違いない1)。「眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤して居る者が、悉く10年の涙痕血史を共にせる刎頸の同志其人々である大矛盾」(2−356頁)は、北の思考を祖国日本の対外政策の問題へとかり立てるものであった。自らの眼の前に盛上る排日運動を、「英米相和する時巴里に於て日本全権の被告扱となり、支那に於ては全部に亙る排日熱の昂騰となる」(2−211頁)として、外からの影響の結果と捉える北の認識から云えば、あるべき中国革命を発展させるためには、この外からの影響を断ち切ることが必要であり、そのためには、日本の対外政策の変革を求めることが緊急の課題となる筈であった。
1)  上海時代の北の中国情勢に対する意見を直接に示す資料は今のところまだ紹介されていない。しかし北が満川亀太郎にあてて自らの意見を書き送っていたことは確認することができる。満川は北からの手紙を二つの会合で公開している。その一つは、1918年(大正7)11月22日の老壮会第4回例会であり、この会合で「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や」を論議した際、満川は「右問題に関する在支那北輝次郎氏の来翰を披露」した。(「老壮会の記」「大日本」大正8年4月号」もう一つは、ヴェルサイユ会議に対応するため、佐藤鋼次郎中将を発起人として結成された国民外交会の席上であり、満川は次のように回想している。「私は当時久し振りに、北一輝氏が上海から私に宛てて送って来た対支時局観を謄写刷りとし、或る日のこの会合に配布したことがあったが、松田源治氏が最も卓見として共鳴していたことを今猶記憶している」(『三国干渉以後』190〜1頁、1935年9月、平凡社)。この二つの会合で示された北の手紙が同じものだったのか、違うものだったのかわからないが、北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」で「拝啓、過日の書簡を広く示され誠に感謝します」(2−207頁)と書いているのは、これらのことを指しているものと思われる。しかしそれにつづけて「支那の事終に実行時代に入りましたので、今後は鮮血の筆が小生の拙文に代て御報告申すであろうと信じます」(2−207〜8頁)と述べている背後に、どのような情勢認議があったかは、今のところ推測することが出来ない。
なお、満川と北の関係については、あとで改めてとりあげることにしたい。
 

と云っても、北はこうした激変する国際情勢のなかで、改めて日本の対外政策のあり方を再検討しようとしたわけではなかった。後年、「私の根本思想を申しますれば、この『支那革命外史』に書いてある日本の国策を遂行させる時代を見たいと謂ふ事が唯一の念願でありまして」 1)と述べているように、すでにこの時、日米経済同盟と対英一戦、つまりアメリカと手を握って、イギリスを倒すことを以て、北は確固不動のあるべき国策と考えるに至っていた。従って問題はそのために何を為すべきかであった。そしてこの観点からみれば、アメリカ参戦後の北の関心が「今後日本の方針は如何にして英米を引裂くことに成功すべきかに在り」2)という点に集中してゆくのは必然であった。北がヴェルサイユ条約が調印された1919年(大正8)6月28日、満川亀太郎に書き送った「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」もこの点に関する論議にほかならなかった。


 1) 2・26事件関係憲兵隊調書、3−445頁。
2) 「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」のなかに、昨年(大正7年)満川に送った手紙の一節とし て引用されている。2−211頁。
 

 北はここで、まず「柄にも無き世界改造といふ大望に逆上」した「口舌の雄」(2−209頁)してウィルソンの理想主義を否定し、ついで「日米両国の完全なる提契あらば、疲弊せる英仏伊を屈服せしむる易々たるものであった」(同前)にも拘らず、この提契をなしえなかった両国外交を批判する。それは勿論アメリカの野心を中国からそらせて、イギリスの植民地に向わせ、「英国を分割すべき共同目的」(2−212頁)に導いてゆくという観点からなされた批判であったが、その根底には人類進化の現段階では、あらゆる強国は「世界ノ大小国家ノ上ニ君臨スル最強国家」(2−280頁)をめざして領土拡張に狂奔するものだとする彼特有の進化論が前提されていることに注意しておかなくてはなるまい。そして彼はこの見地から「日本は米国に向て亜弗利加の独領占有を約束し、米国は日本に向て赤道以南の南洋独領を約束する。……国際聯盟か亜弗利加独領かと云ふ二つを提出した時、ウヰルソンと雖も後者を取るは自明の理である」(2−210〜1頁)とみるのであるが、この同じ見方は、相手を食わなければこちらが食われるという形で、北の危機感を極度に増幅させる結果を招くことにもなるのであった。

  「講和会議に於ける英米の提携−現時の支那に於ける英米提携の排日運動−を大きくする時は−英米同盟の日本叩き漬ぶしという元冠来の恐怖を推論することが出来ます」(2−212頁)という北の言葉からは、このような形で増幅された危機感を読みとることが出来る。そしてこの危機感が、北に改造法案を書かせる一つの契機となったことを彼は『国家改造案原理大綱』末尾の一節に次のような形で書き記している。即ち「日本ハ米独其ノ他ヲ糾合シテ世界大戦ノ真個決論ヲ英国二対シテ求ムベシ…米国ノ恐怖タル日本移民。日本ノ脅威タル比利賓ノ米領。対支投資二於ケル日米ノ紛争。一見両立スベカラザルカノ如キ此等ガ其実如何二日米両国ヲ同盟的提携二導クベキ天ノ計ラヒナルカノ如キ妙諦ハ今ノ大臣連レヤ政党領袖輩ノ関知シ得ベキ限リニ非ラズ。一ニ只此ノ根本的改造後二出現スヘキ偉器二侍ツ者ナリ」(2−278頁) と。そしてまた同じ問題を、のちにはこう語ってもいる。「私は改造案を書きました時、既に日本の改造は日本の対外政策遂行上…止むを得ざる結果として国内改造に帰着するものと断じて、前半の国内改造意見よりも後半の対外策に付いて力説詳論した訳であります」1)。


1) 2・26事件関係警視庁聴書、3−483頁。
 

 勿論この危機感だけだったならば、北は改造法案を書くまでには至らなかったであろう。彼を決定的に改造法案の方向に踏み切らせた第二の契機は、「日本危し」とする国内情勢に対する危機感にほかならなかった。1918〜19年には、改造をとなえるさまざまな団体が生まれ、それらは全体として云えば、デモクラシーや社会主義の方向を指向しつつあった 1)。いわば「改造思潮」は左への潮流として滔々として流れ始めるかにみえた。北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送ったちょうど1年前、1918年(大正7)7月から9月にかけて、米騒動が日本全国をゆるがせていた。米騒動は大衆運動発展の画期をつくり出し、1917年から急激な盛り上りをみせ始めた労働争議は、19年に至って一つのピークにまで達した。


1) こうした状況については、伊藤隆「日本『革新』派の成立」(「歴史と人物」昭和47年12月号、中央公論社)参照。
 

  これらの情報を北が、どの程度、どのような形で受けとったかは明らかではない。しかし 5・4運動のうずまく上海に在った北は、排日・反帝の大衆運動の実感によってより鋭敏とな った感覚を以て、日本の情勢をうけとめたのではなかったであろうか。後に北は次のように回想している。「其の当時(大正8年)」は、日本国内に於ても、頻々として『ストライキ』が起り、米騒動が起り、大川周明が上海に私を迎へに来た時には、東京の全新聞は悉く発行不可能の『ストライキ』であると云ふ様な状態、世界の革命風潮が、日本をふきまくっている最中でありました」 1)。それは一般的には「ロシア革命あり、自由主義、共産主義の勃興時代」。2)として捉えられる。そしてその上に現実に全国的規模で米騒動がおこっているのであり、つい前年の出来事としてまだ強烈な残像を残しているドイツの革命による敗戦という事態が、日本の未来のものとして感じられてくるのであった。それは右翼や軍人の間に、程度の差こそあれ広く存在した感覚であったと思われるが、チャンスがあればすぐにでも大英帝国解体のための戦いを起したいと考えている北にとっては、特別に痛切な、決定的な危機感をひきおこし、改造法案作成の決定的な契機となったのであるまいか。官憲に対するものとは云え、次の述懐からは当時の北の心情が読みとれるように思われるのである。「私は必ず世界の第二大戦が起るものと信じまして、夫れには日本が戦争中、ロシアの如き国内の崩壊又はドイツの如き5カ年間の戦勝を続けながら最後に内部崩壊に依り敗戦国となった実例を見まして、日本は是等の轍を踏んではならない。即ち免がれざる世界第二大戦の以前に於て国内の合理的改造を為す事を急務と考へ、『国家改造案原理大綱』と題するものを書きました。之れは大正8年8月の事であります」3)。


1) 2・26事件関係憲兵隊調書、3-445頁。
2) 同上、3−434頁。
3) 2・26事件関係警視庁調書、3-449頁。
 

 北はまさに、最初の総力戦としての第一次世界大戦を踏まえながら、デモクラシー、さらには社会主義革命へと流れるかにみえる「改造思潮」と対決することを決意したのであった。のちの言葉を借りれば、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造」1)を実現することこそが「革命的大帝国主義」(2−序3頁)に至る唯一の道と信じたのであった。そして北がこの点で先駆者たりえたのは、亜細亜モンロー主義の「天啓的使命」観をうち立て、イギリスを主敵とする世界戦略を構想していたからにほかならなかったであろう。


1) 2・26事件関係憲兵隊調書、3−434頁。


 (未完)















(私論.私見)