「古屋哲夫氏の北一輝論2」考



 (最新見直し2011.06.04日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「古屋哲夫氏の北一輝論2」を確認する。「人文学報」の第38号(1974年10月)に掲載されたもののようである。これを転載し論評しておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


【「古屋哲夫氏の北一輝論2(人文学報第38号、1974年10月)】
 6、『国体論』からの転回

 『国体論及び純正社会主義』(以下『国体論』と略称)が発売禁止の処分をうけたことは、北のその後の思想的展開を容易にし、また促進する1つの条件となったとも考えられる。この著作で彼が主張した根本的命題は、国家意識の普及と強化によって国家を発展させることが、人類を進化させる原動力となる、というものであった。しかし彼がこの命題をうち立て証明しようとしたのは、そこに止まるためではなく、それを基礎としてその次の問題にとり組むための準備であった筈である。

  日露戦争前夜の彼の問題関心に即して言えば、『国体論』は「帝国主義と社会主義」との原理的関連についての彼なりの答えを示したものではあったが、日本帝国主義を欧米帝国主義と区別して「正義」であると価値づけたことの根拠までは提示してはいなかった。それは、この著作において、「公民国家」と性格づけたままで残されている諸国家の特殊性の問題を世界=人類の進化過程のあり方とどう関連づけるのかという点にかかわってくる問題でもあった。そしてその際、普通選挙による無血革命や、世界連邦の連邦議会による世界平和の達成といった『国体論』の結論をそのまま維持するとすれば、日本国家の使命について語るとしても、後年の北とは異なった語り方をしなければならなかったであろうし、後年の如くに語るとしたら、幸徳秋水と共に「余が思想の変化」について述べねばならなかったのではあるまいか。発売禁止処分を北はこのようなわずらわしさから脱れるために利用したように思われるのである。

  『国体論』は、自費出版にも拘らず、相当に大きな反響を得た 1)。そしてそのなかから、社会主義者と大陸浪人という二つの手が彼に向って差し出されたのであった。結局のところ、彼は大陸浪人の手の方を握ったのであるが、この選択そのもののなかに、すでに『国体論』以後の問題関心の変化の方向を読みとることが出来る。


1) 『北一輝著作集』第3巻(1962年4月、みすず書房)には、『国体論及び純正社会主義』に対する書評10編、『純正社会主義の哲学』に対する書評13編が収録されている。

  『国体論』が刊行されたのは、1906年(明治39)5月9日であり、5月14日には発売禁止処分に付されたが、北が社会主義者と直接の接触を持ったのはこの直後からであった。堺利彦が使を派して、発禁本を売りさばいてやらうと申出たのがその直接のきっかけと思われるが、彼は社会主義者と接触した模様を叔父本間一松にあてた6月の手紙で、次のように報じている。

  「先日浦本の叔父様見送りの帰りに、片山潜氏を訪れ、色々話し侯。大に崇敬の情をこめて歓待せられ、談聊か万国社会党大会の日露戦争否認の決議に及び候へども、氏も何となく自信の動揺せることは認められ侯。しかし多くの議論に於て相違有之候に係らず、社会党が皆一将を得しかの如く歓び迎へられるるには満足罷在候。然れども少々考ふる処も有之、先日『光』に論説の寄稿を願はれ候へど、体よく断はり、全く遊撃隊として存せしめよと申居り候。……咋日より社会党の公判傍聴に赴く。今の処社会党はホンの卵子にて、到底権力者と戦闘するには堪へず候。」(3-496頁)

  北が、当時の日本社会党の実際上の中央機関誌であった「光」ヘの寄稿を断り、社会主義の本隊に入るのを避けて、自ら「遊撃隊」と位置づけたのは、直接には、『国体論』の分冊再刊に奔走していたことも関係していたかもしれない。彼は、発禁のおそれのない部分から分冊刊刊することを考えており、この手紙も、『純正社会主義の哲学』刊行(7月13日出版)のための金策を依頼したものであった。しかしより根本的には、日露戦争論をはじめ「多くの議論に於て相違有之候」と述べているように、社会主義者との間の思想的な違いを、じかに身をもって確認したためであったと考えられる。そしてその直後から始まった直接行動か議会政策かをめぐる日本社会党内部の論争をみることによって、北は社会主義者たちとの距離を測り、自らの思想を展開する方向を見定めていったのではなかったであろうか。

  アメリカから帰国した幸徳秋水が、「世界革命運動の潮流」と題する講演を行い、議会政策以外の「社会的革命の手段方策」として、総同盟罷工=革命的ストライキの問題を提起したのは、北が先の手紙を書いたのと同じ月の月末、6月28日であり、 更にその要旨は7月5日の「光」に掲載された。すでに述べてきたことからも明らかなように、社会主義者たちと根本的に発想を異にする北の「社会民主主義」が、社会主義者たちと交わるのは、社会主義運動の第一着を普通選挙の実現に求めた点だけであったと言ってよい。従って普通選挙論という接点が、社会主義者の側から突き崩されてきたことは、北の側にも、その普通選挙=無血革命論の根拠の再検討を迫る衝撃をもたらしたとみることが出来る。そして彼はそこから、普通選挙=無血革命論─従ってそれを投影したにすぎない世界連邦会議の投票による世界平和という構想をも─思想の変化について語ることなしに捨て去っていったのではなかったであろうか。大陸浪人からのべられた第二の手は、北にこの方向に動き出す大きなきっかけを与えたものと言う ことが出来る。それは「革命評論」のグループであった。

  「革命評論」は宮崎滔天、池享吉、和田三郎、萱野長知、平山周、清藤幸七郎らを同人として、1906年(明治39)9月5日付で第1号が発行されている。そしてこの創刊号が北の手許にも送られて来たのは、このグループに好意をよせていた社会主義者たちの紹介によるものだったのであろう。月2回発行、1号10頁のこの小雑誌は、「誰か20世紀を以て世界革命の一期にあらずと云ふ者ぞ、然り現時の文明を鞭って、百尺竿頭一歩を進転せしむるは、正に今時に在り」(「発刊の辞」第1号)として、ロシアと中国の革命運動に関する論評・記事を中心に編集されていった。

  この20世紀は世界革命の時代だとする指摘を、北は世界、とくに隣接諸国の革命と日本帝国の発展との関連の問題として受けとめたことであろう。彼は早速弟のヤ吉を革命評論社に派遣する。「16日(9月)……此日森近運平氏及北輝次郎氏の令弟来訪、北氏は殊に令兄の代理としてその著書を恵贈せらる。謹んで謝す。」と「革命評論」第3号(8月5日発行)の「編輯日誌」は記している。第2号の発行は9月20日だから、北は創刊号を読んだだけで弟をさし向けたことになる。北自身の革命論社訪問はその約50日後の11月3日のこととして、第5号(11月10日発行)の「編輯日誌」に記録されている。

  「3日、……此日北輝次郎氏来訪、寛談数刻、氏談半にして断水に向ふ、『暗示の進化』なる文を艸せし鳳梨とは雖、断水指し示す、氏即ち鳳梨を見てハアー! アノ方ですかと太だ怪訝の色あり、鳳梨仍て頭を撫して私語して曰く、僕の顔は余程変ってるかナと、聞くもの豈に同情に堪へんや、北氏今回著す所の『純正社会主義の経済学』又発売禁止の厄に逢ひしと、古人曰く口を塞く水を塞くよりも酷だしと、况んや高尚なる理想をや、政府者未だ此の意を解せずと見ゆ。」

  文中の「暗示の進化」は第4号(10月20日発行)に掲載されている一文であり、「人間萬事信念に職由せる暗示を以て支配せらる」と書き出し、暗示の基礎となる信念が時代と共に変化することを指摘したものであるが、その中の次の一節が恐らく北の眼をひきつけたのではなかったかと思われる。「然れども世の進運に供ふて此の根底なき暗示は次第に消滅し、太守様と握手し徳川様と膝を交ゆるも『目も潰れず罰も当らず』と云ふ心念を認識すると同時に、萬乗の君は神聖なりと云ふ暗示時代に推移し来れるなり」─この一節は筆者の意図がどうあったにせよ、「萬乗の君は神聖なり」というのも、時代と共に変化する暗示の一つにすぎないとの主張と読める。

  この小論ののっている第4号のトップは「暗殺と思想の変遷」と題する評論であるが、「暗殺」の記事が多いというこの雑誌の特徴にも当然北の眼がむけられていたことであろう。2号には「帝王暗殺の時代(歴史的観察)」、3号には「暗殺の露西亜」、さらに1号から「雪雷編(近日発刊)秘密小説虚無党、発売元春陽堂」の広告が連戦され、ゴチック体の「虚無党」の文字が人眼をひいている。北は『国体論』第二分冊としての『純正社会主義の経済学』の出版を準備しながら、「革命評論」のこのような雰囲気に関心を強めて行ったことであろう。そして『純正社会主義の経済学』が発行(11月1日付)後直ちに発売禁止処分となるや、革命評論社をおとずれ、すぐさま同人に加わったとみられる。そしてその日、幸徳秋水に次のように書き送った。

  「拝復御見舞奉謝候。今度は如何なる故か別して癇癪も起きず、国体論の未練がサッパリと切れた為め、近来になき霽光風月の心地致し候。何が自己に適するか、自己の任務が何であるかの如き考へも致さず、只自由の感が著しく湧きて、モウ何でもするぞと云ったやうな元気なり。先づ病気を征服して真に奮闘します。」(明治39年11月3日付3-507頁)

  「国体論の未練がサッパリと切れ……只自由の感が著しく湧きて」と北が書いたのは、革命評論社の雰囲気のなかに、『国体論』の思想を、『国体論』の結論とはちがった方向に発展させる可能性の如きものを感じとったからではなかったであろうか。北の来訪を記した次の号、第6号(11月25日発行)には、最近北の執筆と推定されるようになった「自殺と暗殺」(署名は外柔)が掲載された。私もこの推定を支持したい。

 この小論は、天皇制のもとでは、自殺にまで至る「煩悶」は、「革命的暗殺」に転ずる可能性のあることを指摘したものであった。「余輩は煩悶の為めに自殺すといふものゝ続々たるに見て、或は暗殺出現の前兆たらさるなきやを恐怖す」(3-137頁)と書き出したこの論文は、「煩悶」とは何かについて次のように展開される。即ち「煩悶とは個人が自己の主権によって他の外来的主権に叛逆を企つる内心の革命戦争」(3-138頁)なのであり、外的権威に服従して「個人なるものなく、自己なるものなく、自己の自主権によりて社会的思想と歴史的慣習の上に批判せんとする人格」(同前)がなければ「煩悶」の起る筈がない。とくに日本に於ては、天皇は「国民の外部的生活を支配する法律上の主権者たるのみの者ならず、実に其主権は思想の上にも学術の上にも道徳宗教美術の上にも無限大に発現するもの」(3-139頁)であり、そこでは忠君愛国の道徳があれば足り「煩悶」の生れる余地はない。従って「煩悶」の生ずるのは、外国の事実に心を躍らせて「恣に比較研究をなし、終に等しく自己の主権を以て評価せんとするが故」(3-138頁)にほかならないと。そして「爾乱臣賊子の徒は天皇主権の領土を法律の範囲内にのみ縮めて己に思想界の版図に掠奪の叛旗を翻がへし得たりしか」(3-139頁)と述べたこの小論は、「あゝ誰か煩悶的自殺者の一転進して革命的暗殺者たるなきを保すべきぞ」(3-139〜40頁)という一文で結ばれていた。

  そこには「自己の主権」から、いわゆる国体論を復古的革命主義=反革命と批判して弾圧され、暗殺に肯定的な革命評論社に没入していったこの時期の北の心情がにじみ出ているように思われる。そしてそれは、後年「幸徳秋水事件等の外に神蔭しの如く置かれたる冥々の加護1)」について語っているように、日本の社会主義者のなかでは幸徳一派への親近感となってあらわれてもいた。しかし、いわゆる国体論に叛旗をひるがえしたとは言え、明治天皇英雄論によって、日本帝国をその根底において承認した北の思想には、天皇暗殺を志向する何のモメントも存在してはいなかった。彼にとっては、あるべき国家意識の基礎を問うための国体論批判の次には、その国家意識を集中強化するための、あるべき使命感の模索が思想的課題となる筈であった。この課題を北がどの時点でどれ程自覚的に捉えたかは明かではない。しかし、革命評論社に入るとすぐに中国革命同盟会にも入会し、国際主義派孫文を排して国家主義派の宗教仁との結びつきを強め、大陸浪人の生活様式になじむ2)と共にその大アジア主義をうけいれてゆくという北の歩みは、この思想的課題への一つの迫り方を示していることも確かであった。
l) 『日本改造法案大綱』「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」(2-359頁)
2) 「革命評論」は10号(明治40年3月25日付)までしか出なかった。その後北は翌明治41年夏から黒沢次郎方に寄宿し、大陸浪人とのつき合いを深めてゆく。この間の北の生活を、黒沢次郎・北ヤ吉両氏の談話にもとづいて叙述した田中惣五郎氏は、「北の黒沢時代の仕事といえば、中国の革命党と往来し(たまには日本の革命党とも)、革命資金をうることであり、その資金を流用して、自己も生きてゆくことのくり返しであったといえる。」(『増補北一輝』114頁、1971年1月、三一書房)と評している。

  革命評論社以後の北が、次第に黒竜会に近づいて行ったことは、1911年(明治44年)9月、同会が刊行した雑誌「時事月函」の編集にたずさわり、10月に辛亥革命が勃発すると直ちに、黒竜会から中国に派遣されたことからも知られる1)。しかしそのことは、彼が黒竜会の思想に全く同化してしまったと言うことではなかった。たしかに彼は日露戦争を肯定し韓国併合を支持する点では黒竜会と同じ立場に立っていたとみられる。もっとも彼が韓国併合をこの時点でどうみていたかを直接に示す資料はない。しかしのちの『国家改造案原理大綱』で、朝鮮は大国にはさまれているという地理的条件と、内部の「亡国的腐敗」のために亡びたとして、「其ノ亡国タルベキ内外呼応ノ原因ハ統治者ガ日本タラサル時ハ露支両国ノ焉レカナリシハ明白ナリ。……自立シ能ハザル地理的約束ト真個契盟スル能ハサル亡国的腐敗ノ為二日本ハ露国ノ復讐戦二対スル自衛的必要二基キテ独立擁護ノ誓明ヲ取消シタル事ガ真相ナリ。」(2-261頁)と述べていることからみると、北は朝鮮には自立する力がないという独断的な朝鮮観で一貫していたように思われる。

  そして北は、このような朝鮮にくらべて、中国の場合には、現に彼の身近かに存在する中国の革命運動家たちによって、清朝を頂点とする「亡国的腐敗」が打破されるならば、日本の発展と支え合うような新興国家が形成されるにちがいないとの期待を持ったのではなかったか。そしてそれはまた、社会を拡大することが生存競争の力を強化することになるという彼の進化論が、世界史の発展を大国による小国の同化として捉えていったこととも関連していたことであろう。あとでみるように、彼は朝鮮は日本と同化さるべきものと考えていたが、中国はすぐさま同化の対象とするにはあまりにも大きかった。

  彼が、韓国併合に狂奔する黒竜会首脳の活動を傍観しながら、その間中国の革命運動家との交流を深めていったことは、このような朝鮮と中国に対する見方の差にもとづくものとして理解できる。おそらく彼の観点からすれば韓国併合は既定の事実にすぎなかったのに対して、中国革命を支援して新興国家をつくりあげることが出来るかどうかは、日本の将来を左右するほどの決定的問題と映じたにちがいない。そしてこの立場からすれば、中国革命の支援とは、それによって中国における日本の利権を拡大することではなく、中国の亡国的腐敗を打破して新興国家をつくるためのものでなくてはならなかった。この点で彼は革命支援の代償として満州を獲得する等の利権を得ようとした黒龍会2)等の大陸浪人の主流と袂を分たねばならなかった。そしてまたこの点で彼は、中国革命のよき理解者と評されるような一面をも持ち得ることとなった。しかし同時に、彼は決して日本帝国の発展という彼の思想の基本的要求を放棄した訳ではなかった。彼は日本帝国の発展と新興中国の発展とを、日露戦争の肯定の上に構想することで、やがて、「日本ファシズムの源流」と呼ばれる地点に到達することになるのであった。

  いわば彼は、革命評論社から黒龍会を経て辛亥革命の内側にはいり得たことで、『国体論』の立場を脱皮すると同時に、既成右翼をもつき抜ける道を見出したといいうるであろう。彼はこの後、自らの立場を積極的に「社会主義」として語ろうとはしなかったし、『国体論』における「社会民主主義」は、『支那革命外史』においては、「国家民族主義」と表現されるに至るのであった。

1)  黒龍会では、辛亥革命に関する現地からの電信の写しを綴って関係者に配布したようであるが、それには次のような序言が付されている。「支那革命軍ノ武昌ニ蹶起スルヤ、是ヨリ先キ、革命党ノ領袖等、密二内田良平二結托シ、事ヲ拳グルノ日、遙二声援ヲ約スル所アリ。10月17日、領袖者ノー人宋教仁上海ヨリ内田二飛電シ、我当局二向ッテ革命軍ヲ交戦団体卜公認スルノ交渉尽力ヲ依頼シ来ル。内田乃ハチ之ヲ諾シ、同時二従来革命党領袖間二信用アル黒龍会時事月函記者北輝次郎ヲ上海に簡派シ彼地二於ケル一般ノ状勢ヲ視察シ、併セテ革命党ノ為メ二斡旋スル所アラシム。」(西尾陽太郎編「辛亥革命関係資料」福岡ユネスコ協会編『日本近代化と九州』所収、424頁、1972年7月刊、平凡社)
なお、西尾氏の紹介されたものは、内田家所蔵の資料であるが、小川平吉文書にも同様の写しが保存されており(小川平吉文書研究会編『小川平吉文書』2、所収、1973年3月、みすず書房)『北一輝著作集』第3巻に収録されているのは、出所は明かにされていないが、ほぼ小川文書と同一の内容のものである。しかし、西尾氏紹介の内田文書には、他の文書にはみられない電信もふくまれているので、ここでは西尾氏編の資料集より引用させて頂くことにした。
2)  内田ら黒龍会主流と北の違いについては次節参照。
 「7辛亥革命への参加」へ
 7、辛亥革命への参加

 北の中国からの第一信は1911年(明治44)10月31日付上海発内田良平宛電報であり、 彼はおそらく10月30日に上海に到着したものと思われる。そしてすぐさま革命派の上海占領工作に参画し、ついで11月8日宗教仁の先行している武昌に向った彼は、12日武昌で宋と会談しすぐ彼等と共に出発、南京を経て、18日には上海に帰っている。彼はこの間、内田良平、清藤幸七郎、葛生修亮等にあてて多くの電信を発しているが、その内容は単なる状況報告や連絡のみではなく、中国革命の根本的性格とそれに対する日本の態度についての意見を主張することに多くの紙面を割いていることが特徴的であった。

  彼はまず、朝鮮に対すると同じ姿勢で中国革命に対してはならないと警告する。即ち内田にあてて、「万々一、対朝鮮ノ心得ヲ抱キテハ折角ノ大効業ガ手ノ裏ヲ翻へスヤウ可相成候間、ヨクヨク御体得願上候 1)」と注意をうながし、清藤に対してはより具体的に「君ノ従来ノ支那観ハ根本ヨリ一掃シナケレバナラヌ。又内田氏モ亡国ノ朝鮮人ノ大臣共ヲ遇スル時ヨリモ一留学生ノ値ハ不可量ノ覚悟ヲ以テサレムコトヲ望ム2)」と書き送った。この「留学生」とは中国から日本に留学した青年たちを指している。
1) 11月10日、北発内田良平宛「武昌行途中、船南京ヲ過ギタル時発シタル書翰」前掲『日本近代化と九州』436頁。
2) 11月5日、北発清藤幸七郎宛「上海占領行動二関スル情報」同前429頁。


  北はこの中国留学生たちが、日本で学んだ国家民族主義をもって、革命運動の指導的部分を形成しているという点に二重の期待をかけていたと言える。即ち第1には、彼等によって、中国にも亡国的腐敗を一掃する明治維新と同質の革命が実現されるであろうとの期待であり、第2には、彼等が新たな治者階級となった新興中国は、日本帝国のよきパートナーたりうるであろうとみる期待であった。そしてこの二重の期待が実現されるか否かに、日本の将来がかかっているようにみえた。勿論そのためにはやがて、彼の論理のなかで、日本と中国との発展を結びつける可能性を求めねばならなくなってゆくが、当面はとりあえず「日本的」思想をもった青年たちが革命の中心であることを認識し、彼等を新しい治者階級たらしめるよう援助するという課題を、日本の政治的指導者たちに理解させなくてはならなかった。彼はこのような方向の媒介者たることを内田良平ら黒龍会幹部に求めたのであった。さきの清藤宛書翰はこれらの点について次のように書いている。

  「直裁簡明ニ単刀直入的ナル革命党ノー般的気風ハ実ニ日本教育ヨリ継承シタモノデアル。……前後ヲ通ジテ幾万ノ留学生即チ四億万漢人ノアラユル為政者階級ノ代表的子弟ニ日本ノ国家主義民族主義ヲ吹込ダカラ排満興漢ノ思想ガ出来タノダ……コレホド明カニ思想的系統ノ示サレテ居ル事例ハ余リ類ガアルマイ。日本ハ革命党ノ父デアル。新国家ノ産婆デアル。日本ノ教育勅語ハ数万全漢民ノ代表者ノ上ニ此ノ大黄国ヲ産ムベキ精液トシテ降リ注ガレタモノデアル1)。」

  つまり彼は、第一に日本が中国革命運動に与えた影響は、国家の独立を第一義に考えるという思想的なものである点を強調しようとした。従って、中国革命に対する援助とは、中国の独立を達成させるという点を根本としなければならず、そうでなければ、援助は干渉となり中国側が「排日」の態度をとるのは必然であると考えた。言いかえれば、中国革命を援助するとすれば、日本の対中国政策は一変されねばならない筈であった。

  「新シキ大黄国ハ日本卜等シク国権卜民族ノ名ノ下ニ行動スベシ。コノ点ハ明ラカニ排日ヲ意味スルト同時ニ根本的ニ精神的ニ親日デアル。…コノ国権卜民族ノ覚醒ガ来タ而モ日本的ニ来ッタ新興国ニ対シ一点デモ其レニ対スル侮リガ見エタラ最後、日本ハ全四百余州カラボイコットサレルノダ。…革命党、即チ数万ノ日本的頭脳ガ治者階級ヲ形ヅクッテ居ル新支那ニ対シテハ、日本ノ対支那策モー変シナケレバナラヌ─而モ其一変タルヤ、支那ノ革命シツゝアルニ併行シテ革命的一変タルベキハ申スマデモナイ。…毛唐共ノ御先棒ハ北清事件ノ馬鹿ヲシタダケデ沢山デアル2)。」


1) 11月5日、北発清藤幸七郎宛書翰『日本近代化と九州』431-2頁
2) 同前432頁


 上海上陸後一週間にして、北がこのような手紙を書いていることは、彼が自ら革命派の立場に立とうとし、その立場からみると革命に対する日本の干渉、あるいは革命の機会をねらった日本の侵略が最も恐るべきものとして映じたことを示しているのであろう。事実、革命の当初から日本政府の内部には、在満権益の確保、居留民の保護を名とした出兵論が存在し、やがて、満蒙の勢力範囲分割を中心とするロシアとの交渉が始められる。(1912年7月8日、第三回日露秘密協約調印)また、清朝援助を最初の方針とした外交当局は、立憲君主制─君主制維持の方向で英国との共同干渉を企図している。そして、この企図が英国の支持を得られずに失敗に帰すると、今度はロシアと共に四国借款国に加入し、袁世凱を通じた中国の国際管理の方向に加わっていった。

  この間、民間では川島浪速らが宗社党を支援して満蒙独立を企て、革命派援助の大陸浪人と対立した方向に動いているが、満蒙支配の確立をめざしている点では、革命援助派も異るところがなかった。そしてこれらの動きと共に、軍払下げの武器の売り込みが南北両派に対して活溌となっていった。

  このような日本側の動向は、北が想定した中国革命に対するあるべき日本の姿とは全くかけ離れていると言ってよかった。彼は1911年11月から12年3月、つまり革命派がまだ次の局面の主導権を握る可能性を持つと考えられていた時期には、このような中国革命に対する姿勢を修正するための活動を内田良平らに期待して、次のような問題を提起していた。即ち(1)無用の浪人の取締1)(2)孫文が革命運動の中心ではないことについての認識2)、(3)清朝側への武器売込みの禁止3)、(4)中国の共和制支持4)、(5)日英干渉打破のための元老勢力の利用5)、(6)南方中心の講和を促進する政策6)、(7)革命派代表としての宗教仁の訪日を成功させる必要7)、(8)武器商人8)の不信、(9)日米借款による革命政府9)支援、(10)満州独立宣言(川島らの満蒙独立運動を指す)の取消10)、(11)袁世凱の手で六国借款を成立させることに反対11)等々といった問題について、内田良平の注意をうながし、あるいは奔走を求めているのであった。


1) 「無用ノ浪人輩、特ニ上海香港ノ間ニハ支那ゴロヤ支那不通ガ多ク……折角ノ国交モ、其等ニヨリテ傷ツケラレ申スコトハ明カ」とし、「真ニ今日ノ急務ハ、先ズ浪人共ヲ取締ルコトニ候」と述べている。 同時に渡航の軍人について、「人格ノ傲慢不遜、又ハ主我的ナルハヨロシカラズ、思想ハ軍隊外ニモ通ジテ、非侵略主義ノ人タルヲ要件ト致度侯」と希望しているが、この要件は浪人についても期待されていたことであろう。11月10日(1911年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』436頁。
2) しかし、この時期には孫文の勢力を排除することを求めていたわけではなかった。北は、孫文が革命に対して無力であると考えており、後に大総統の地位につこうとは全く予想していなかったにちがいない。1911年11月段階では次のように述べている。「孫逸仙ノ如キハ、内地ニハ全クノ無勢力ノ由、聞キテ驚入候。シカシコレハ、貴下等ノ胸中ニ止メテ一人デモ分裂セシメザルコトガ大事ニ存ジ候。」(11月13日、内田良平宛、同前438頁)、「孫君ノ愚ナル、何ゾ甚シキヤト申度候。……徒ラニ米国ノ遠キニ在リテ無用ノ騒ギヲ為シ……自家ハ康有為ト等シク、時代ノ大濤ヨリ役ゲ出サレツゝアルヲ知ラズ」(11月14日、清藤幸七郎宛、同前439頁)
3) 北は、三井・大倉・高田などが清朝側に武器売込をしていることは革命派にもわかっていることを指摘し、「僕ガ折角日漢ノ関係ヲ円満二シヤウトシテモ、後カラブチ壊シテヤラレテハ何ニモナラヌ。政府モ方針ガ一定シテル位ナラ、ウント腰ヲ据エテ、干渉デモ圧制デモシテハドーダ」(11月18日、内田良平宛、同前444頁)と憤激している。
4) 12月18日、内田良平宛、同前462頁。
5) 12月20日、内田良平にあてて、「杉山氏共ニ、山県桂公ニ説キ外務省ヲ圧迫セシメヨ」(同前462頁)と要請している。杉山氏は杉山茂丸。
6) 1月20日(1912年)、内田良平宛、同前464頁。
7) 1月25日、内田良平宛、「日本ノ優越権ハ彼ヲ成功セシムルコト、彼ヲ歓迎スルコトニアリ」(同前465頁)。なお1月4日、2月6日、3月17日の内田宛電信をも参照。同前646、466-8頁。
8) 2月 6日、内田良平宛、同前467頁。
9) 2月17日、内田良平宛、同前468頁。
10) 2月19日、内田良平宛、同前470頁。なお同じ日、宋教仁も内田にあてて、「貴国政府ノ責任者ヨリ満州独立ノ宣言ガ決シテ貴国ノ好ムトコロニアラザル事ヲ弊国ノ与論ニ普及スルガ如キ方法ヲ以テ言明セラレンコトヲ希望ス」(同前469頁)と打電しており、この宋の希望の実現をはかることを求めたものであった。
11) 3月13日、内田良平宛、同前473頁。


  北は宋教仁の活動の方向が、北自身の想定した中国革命のあり方に最も適合するものと考え、宋教仁を支援することを彼の活動の中心としていた。しかし情勢の進展は次第に彼の期待を打砕いていった。まず清朝側の全権を握った哀世凱のために、11月26日、革命軍は漢陽で一敗地にまみれる。しかし哀世凱もそこで軍をとどめ、以後革命軍との妥協交渉が断続的に継続されるに至った。この間革命派内部では、新政権樹立への動きが活発となってゆくのであるが、そのなかで北が期待した「黄興大元帥、宋教仁総理大臣1)」の線も崩れていった。一時は黎元洪大元帥、黄興副元帥に動くかにみえた各省代表者会議は、12月25日、孫文が上海に帰着すると、圧倒的支持を以て、孫文を臨時大総統に推戴するという北の予期しない事態があらわれた。1912 年1月1日、孫文を臨時大総統、黎元洪を副総統とする南京臨時政府が成立する。


1) 北は12月1日付、内田良平宛電報で次のように述べている。「黄興大元帥、宋教仁総理大臣、中央政府発表近シ、漢陽失敗ハ(大局ニ)関係ナシ、三人秘密ニヤル。北」(『日本近代化と九州』461頁)


  臨時政府樹立によって、袁と革命軍との講和会議は表面上決裂したが、裏面では、清帝退位、共和制実現を条件とした妥協の方向に動いていた。この間講和実現の大勢をみた北は、新中央政府部内での革命派の主導権確保を日本が支援すべきだと考え、宋教仁の訪日促進(実現せず)などを画策したが、日本側の動きは彼の期待とはますます隔絶して行った。満蒙独立運動や第三次日露協約への動きが明確になるのはこの時期であり、日本政府内部にはさまざまな意見があったとは言え、北京の伊集院公使は、袁世凱に共和制反対の圧力を加えつづけ、列強のなかでも孤立しつつあった。また、他方黒龍会などこれまで革命派支援の立場をとってきた大陸浪人のグループは、いわゆる南北妥協そのものに反対の態度を示していた1)。これに対して北は、「革命党ガ根本ノ勢力タルコトヲ確信シテ、袁ニ六ケ月開花ヲ持タセタリトテ何ノ恐ルゝトコロゾ2)」と反論したが、彼等の態度を変えさせることは出来なかった。

  日本の支援のもとに革命派の主導権を確保するという北の構想が実現の手がかりをつかめないうちに、「南北妥協」は進行した。1912年2月12日清帝退位の上諭が発せられると孫文は辞任、3月15日袁世凱は北京で臨時大総統の地位をついだ。そしてその直後、四国借款団(英米独仏)は、6千万ポンドの借款を袁政権に与えることと共に、日露両国の借款団参加に異議のないことを申合せた。日本外交は袁世凱支援に追ずいし、やがて展開される革命派弾圧の資金づくりに手を貸していた。袁の地位はもはや6カ月花をもたされたという程度のものではなくなりつつあった。北の構想は全面的に敗北しつつあったと云ってよい。彼を中国に送った大陸浪人たちからも孤立し、活動資金にも欠乏した北の姿を3月末の一電文は次のように伝える。 「北金策ニ窮シ(大局ヲ)誤ルノ恐レアリ。ナホコゝニ置クノ要アリ。金送レバ余コレヲ始末スベシ、ヘンデンS3)」と。これ以後、彼が内田良平らにどのような電信を送ったか明らかでない。 ただ南北妥協に反対して革命派を見限りつつあった内田と、なお宋教仁を支持しつづけた北との距離が次第に拡がりつつあったと推定できるだけである。彼が依拠した宋教仁は、5月革命派を糾合して国民党を組織、翌1913年(大正2)2月の総選挙に大勝したが、その翌月、3月 22日上海で暗殺されて32才の生涯を閉じた。北自身もまた、4月8日、上海領事を通じて日本政府から中国退去を命ぜられたのであった。


1) 例えば、内田良平等黒龍会幹部は、南北妥協の報を「意外のことゝし」妥協交渉中止を勧告するために、葛生能久を南京に派遣している。(黒龍会編『東亜先覚志士記伝』中巻、446〜7頁。1935年3月、同会出版部刊)また、内田らと革命派支援のために有隣会を組織していた小川平吉は、「吾々は万難を排して戦争を遂行し南北統一の実を挙げなければならないと云ふ考へ」から妥協に反対し、2月9日には宋教仁にあてて「袁世凱が時局を左右するに至る事は我々の絶対に反対する所なり。袁に欺かれず断乎として初心を貫徹するよう、孫、黄ニ君にしかと注意を乞ふ。尚ほ君の来朝を待ちて面談す。早々来れ」と打電している。(小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書』、1-584頁及び2-443頁参照)
2) 2月19日北発内田良平宛、『日本近代化と九州』470頁。
3) 3月26日、佐藤(惣治カ)発内田良平宛、同前474頁、なおカッコ内は西尾陽太郎氏の推定及び判読。


 退去命令によって余儀なく帰国してから、『支那革命党及革命之支那』(のち『支那革命外史』と改題)の執筆にかかる1915年(大正4)秋までの約2年半ばかりの間、北がどのような生活を送ったかについて語る資料は少ない。しかし「支那ノ完全ナル独立ハ、日本ノ絶対的必要1)」という観点からみれば、情勢は悪化する一方であった。北が帰国した同じ月の月末、4月27日には、 五国借款国(さきの六国借款団よりアメリカが脱退)と袁世凱政府との間に、いわゆる「善後借款」が正式調印される。そしてこれに力を得た袁は、国民党に対する弾圧を強化、追いつめられた形の国民党幹部は、七月第二革命と通称される武力闘争に立ちあがるが、たちまちのうちに敗退していった。そしてそのあとには、辛亥革命の成果をとりつぶしてゆく袁世凱独裁化の過程がつづく。


1) 1月20日(1921年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』464頁。


 袁の独裁化過程は、1915年(大正4)後半には、袁自ら皇帝たろうとする帝制樹立工作にまで発展する。しかし袁政権の基礎は彼が思いあがった程強固ではなかった。前年8月に始った第一次世界大戦は、袁政権支援の国際的強調を破産させていた。日英同盟を利用して参戦した日本は、年内に山東省のドイツ権益を占領、ついで翌15年(大正4)1月には、悪名高い「21 カ条要求」をつきつけて袁政権を動揺させるに至る。日本はついに5月7日最後通告を発し、5月9日袁政権はこれをうけいれて、一応交渉は終ったが、このニつの日付が「国恥記念日」として中国民衆の間に記憶されてゆくことは、それだけ袁政権の基盤が失われてゆくことを意味していた。すでに威信を失墜しつつあった袁世凱の帝制工作には、これまで反革命の線で袁と手を握ってきた諸勢力も離反して、1915年12月第三革命に踏み切り、16年6月、袁が失意のうちに没したあとには、軍闘割拠の状況が残されることになるのであった。

  北が『支那革命党及革命之支那』を執筆したのは、15年11月から16年5月にかけてであり、彼は袁世凱の帝制樹立工作が強引に遂行されるかにみえた時点に筆を起し、袁死去の前月に書き終ったことになる。それは辛亥革命から離脱した彼が、「世界大戦」という新しい状況のもとで、中国の将来と関連させながら、日本帝国の使命についての新たな構想を獲得し、それによって、日本の対外政策の「革命」を企てはじめたことを意味していた。そしてその場合にも権力中枢に直接に働きかけようとする辛亥革命時の姿勢がそのまま維持されてはいたが、しかしここではもはや、内田らを媒介とする訳にはゆかなくなっていた。

  南北妥協を「対日背信1)」とみた内田は、第ニ革命勃発の1913年(大正2)7月には「宗社党ヲシテ満蒙ニ一区域ノ独立国家ヲ建設スル2)」方向を示唆した意見書を山本首相に送り、「満蒙問題の解決について中国革命党の協力を期待した従来の方式を拠棄し、専ら宗社党及び愛親覚羅氏に心を寄せる満蒙諸藩との協力によって満蒙新帝国を建設するという方式に傾斜3)」していた。そして彼は露骨な満州侵略を主張する「対支連合会」を組織し、その活動に力を注いでいた。


1) 孫文の「満蒙譲渡の公約」が「来るべき革命後の日支関係に対し多大の光明を与へた」と考えた内田にとって、袁世凱との妥協はこの公約への背信とうけられた。『国士内田良平伝』527〜9頁参照。
2) 大正2年7月26日付、山本権兵衛宛意見書『小川平吉関係文書』2-69頁。
3) 『国士内田良平伝』531〜2頁。


  内田はもはや、中国革命に対する認識を全く放棄していた。彼は「現下ニ於ケル支那南北ノ抗争ハ支那人古今ヲ通ジタル政権慾ノ結果ニ出デ侯行動ニ有之、其双方ニ於テ主張卜云ヒ主義卜云ヒ人道卜云ヒ名分卜云フガ如キモノハ倡優一夕ノ粉粧ニモ値ヒセザル底ノ義卜奉存候1)」と述べており、中国の政治情況を民族的利害などという観点を失った泥沼の如きものとして捉えているのであり、従ってそれに対する日本の政策は、「浮動セル支那共和民国ノ噪妄ヲ威圧ス可キ2)」ものでなければならないとしたのであった。


1) 前掲山本首相宛意見書『小川平吉関係文書』2-66頁。
2) 同前 69頁。


  これに対して北は、中国革命はいまだ継続中であるとの認識を前提としており、従って、中国革命の性絡と行方を見定めることが日本帝国の使命を把握し、対外政策を立案する基礎とされねばならないと考えた。彼は辛亥革命の渦中から内田らに書き送った意見を出発点として中国革命認識を再整理し、今度は内田らの仲介を排して自ら権力中枢に働きかけるために、『支那革命党及革命之支那』を「執筆の傍より印刷しつつ時の権力執行の地位に在る人々に示した」(2-1頁)のであった。彼は1921年(大正10)『支那革命外史』と改題刊行に際して付した序文のなかで、この著作の性格について次のように述べていた。即ち「此の書は支那の革命史を目的としたものでないことは論ない。清末革命の前後に亘る理論的解説と革命支那の今後に対する指導的論議である。同時に支那の革命と並行して日本の対支策及び対世界策の革命的一変を討論力説してある。即ち『革命支那』と『革命的対外策』という2個の論題を1個不可分に論述したものである」(2-序2頁)と。

  北は、中国革命に対する認識を整理・再編しつつ、それとの関連のなかで、日本の「変革」の問題を提起しようというのであった。それは、『国体論』とは全く異った視角であると言える。すでにみたように、『国体論』においては、さまざまな問題を持つとは言え、とにもかくにも、「階級闘争」と「啓蒙運動」とが、つまり国内大衆の団結が社会主義の前提に置かれていたのに対して、ここでは、「革命支那」と「革命的対外策」という外からの要請が、彼の関心の基底をなすに至っているのである。そしてさらに「革命支那」との関連において設定された筈の「革命的対外策」が、その関連を失って独走しはじめるという点に、北の思想の決定的転換の鍵があるように思われるのである。ともあれ、彼は、中国革命の認識を媒介として『国体論』の立場から飛躍してゆくことになるのであった。

 「8中国革命認識の特徴」へ
 8、中国革命認識の特徴

 『支那革命外史』の序文によれば、北は本書を2回に分けて執筆したという。すなわち前半の第8章「南京政府崩壊の真相」までは1915年(大正4)11月から12月の間に、第9章以下の後半は翌16年4月から5月の間に書き上げたものとされている。内容から言うと、前半は辛亥革命の勃発からいわゆる南北講和によって袁世凱が臨時大総統に就任するまでの過程を中心として、中国革命の基本的性格を明らかにすることに力点がおかれている。後半の方は、以後第三革命の問題にまで触れられてはいるが、その間の政治情勢の変化を検討することよりも、今後の中国革命の展開の方向を展望し、それに対応する日本の対外策のあり方を議論することの方に力点が置かれるようになっている。

  ところで3か月の時間をおいて書かれた前半と後半とでは、非常に異った印象をうけることが、刊行当時から注目されていた。例えば吉野作造は、前半は非常に立派な近来の名論だと思って国家学会雑誌で批評しようと思ったが、後半で意見を異にするのでやめたと述べている 1)し、また北自身もこの著作の反響について「初めの支那革命の説明は、皆喜んで了解して呉れました。後半の日本外交革命と謂ふ点になりましたら皆驚いて態度を変へました2)」と語っている。このように前半と後半とが全く異った評価をうけたのは、前半では中国革命を反帝国主義の民族革命として内在的に理解しようとし、日本の干渉にも反対しているのに対して、後半では叙述が進むに従って軍国主義・武断主義の主張が前面に押し出され、革命中国と日本とが手を握って対外戦争にのり出さねばならないと結論されるに至っているからであろう。北自身も、これらの後半の主張は「皮相的デモクラシーの徒の愕き否んだ所の者であった3)」と述べているが、そこには確かにデモクラシーの徒をおどろかせるに足る論理の異様な展開と飛躍とがみられるのである。


1) 佐渡新聞、大正6年7月28日、3-554頁。
2) 2.26事件関係憲兵隊調書、3-444頁。
3) 改題刊行の際の序文、2-序8頁。


 この飛躍は、北自身にとってもかなりな精神的エネルギーを必要としたのではなかったであろうか。というのは、彼が法華経読誦に専念し始めるのは、前半の執筆を終えて後半にかかる間のことであり、彼はそこに後半執筆の支えを求めたのではなかったかと思われるからである。北自身の述べているところによれば、彼は前半を書き終えた直後の1916年(大正5)1月、「突然信仰の生活に入り1)」「以来法華経読誦に専念し爾来此事のみを自分の生命として1年1年と修業2)」を重ねたという。そしてそれに対応して後半では「如来の使」「救済の為の折伏」「彌陀の利剣」などといった表現が用いられるようになった。それはいわば「仏の宇宙大に満つる大慈悲は道を妨ぐる一切の者を粉砕せずんば止まらず。──観世音首を回らせば則ち夜叉王」(2-154頁)といった観念の支えを得て、中国革命が大流血の局面を経なくては完成しないことを予言し、さらには日本と中国の将来に於ける武断主義・軍国主義を主張しようとするものであったように思われるのである。

  ともあれ、北は中国革命を支援することに日本の「正義」を見出し、そこに日本の発展を構想する基礎を求めたのであった。そして一度は中国革命派の立場に身を置こうとしたかにみえた北が、彼のいわゆる「革命的大帝国主義」(2-序3頁)の方向に飛躍してゆくのも、中国革命の将来を「日本国権の拡張と支那の覚醒の両輪的一致策如何」(2-1頁)という観点から模索する過程に於てであった。従ってここではまず、『支那革命外史』前半を中心としながら、北の中国革命認識がどのようなものであり、そこでどのような問題が彼を武断主義・軍国主義へと飛躍させる契機となったかを検討しておかなくてはなるまい。


1) 2.26事件関係憲兵隊調書、3-444頁。
2) 2.26事件関係憲兵隊調書、3-444頁。


  北はまず、中国革命はたんに満州王朝という異民族支配を打倒するに止まるものではなく、列強帝国主義の抑圧を排除して民族の独立を達成することを基本的な課題としており、この基本的な課題の故に、革命は長期にわたる全社会的な規模での変革の過程にならざるを得ないとみていた。この見方からすれば、満州王朝=清朝を打倒した辛亥革命は、全体の中国革命の序幕にすぎないということになるわけであるが、その序幕からしてすでに反帝国主義という課題によって規定されていたというのであった。即ち彼は当時の中国が直面した対外的危機を「支那の憂は北境よりする日露の武力的分割と、英米独仏が清室と結托してする経済的分割の二あるのみにして他無し」(2-31頁)と捉え、また財政の崩壊がそれに対応する国内の危機状況を象徴しているとした。つまり清朝の腐敗と列強の圧迫とは相乗的に財政危機を深化させており、その結果清朝の列強依存=列強の財政支配と領土的分割とが相関的に進行しているというわけである。そしてそれはもはや革命によってしか打破しえないまでに深化しているとみる。「清朝の財政が破産し終はれるが故に民国の革命あり」(2-115頁)と北は書いている。

  このような清朝の腐敗・弱体化の結果生じた民族的危機に対して、中国民衆は国家の独立を求めて起ちあがった、つまり民族的危機に直面して「国家」の意識にめざめた民衆が革命に立ちあがったと北は理解する。「全国土に拡汎せる民族的情操国家的覚醒」(2-79頁)は「愛国的革命」を「渇望」(2-18頁)していたというのである。従ってそこでの主題は「亡国」から「興国」ヘという点にあった。「革命とは亡国と興国との過渡に架する冒険なる丸木橋」(2-115頁)であり、その点で中国革命と明治維新とは同質であると捉えられた。腐敗した徳川幕府と腐敗した清朝とは売国的であるという点で同じであり、「封建国としての日本の固より亡国なりしことは、清国としての支那の亡国なりしと同様なり」(2-112頁)と。

  それは言いかえれば、中国革命の本質は興国階級と亡国階級との対決であり、漢民族による満州民族の排除という形では捉えられないということでもあった。清朝が打倒されねばならないのは、それが亡国階級の最上部をなしているからであり、従って清朝打倒ののちには、革命はさらに、清朝につかえていた漢人官僚を一掃する方向に深化・拡大しなければ完結しないというのである。何故なら清朝と共に腐敗し弱体化した漢人官僚は「内治外交たゞ強者の勢力に阿附随従する」にすぎない「事大主義者」(2-82頁)になり下っており、従って彼等の存在を許す限り、彼等は外国の後援をたのんで革命に対抗するに違いない、つまり北は清朝と漢人官僚を亡国階級という一つの範疇で捉えねばならないというのである。例えば、北は袁世凱を「奸雄」とする一般の見方に反対して、袁はこのような亡国階級の代表的人物でありイギリスの買弁となった事大主義者にすぎないと断じた。そして事大主義を「通有性」(同前)とする亡国階級を一掃しなければ、第2第3の袁世凱が出てくることは必然であり、列強の帝国主義的支配を排除することは出来ないとしたのであった。

  ところで、この亡国階級=漢人官僚とは、国内的にみれば、封建的支配者にほかならず、従って民族的危機を打開するために亡国階級の打倒をめざした革命は、必然的に封建国家を打倒して近代国家を創出する方向に発展する性格を持つものと考えられた。そしてその点でもまた、中国革命と明治維新は同質であるとされた。北は亡国階級の中核をなす清朝下の漢人官僚とは、「皇帝に対しては単純なる代官」にすぎなかったけれども、人民に対しては「封建的全権能を有する」「中世的統治者」=「其の制令する地域の人民に対する権能に於ては生殺興奪の絶対的自由を有し、軍事財政司法一切の専権を行使すること全く中世的統治者」(2-122頁)に他ならず、日本の大名と同質であるとした。北は次のように述べている。

  「人種的感情を除却して考ふる時は『排満』は自らにして満人及び満人の中世的統治権の代官たりし凡ての漢人官僚の排斥を包含すること、恰かも『倒幕』が幕府及び幕府を盟主とせ凡ての諸候武士の倒壊を意味せる如し」(2-136頁)と。即ち辛亥革命のスローガン・「排満興漢」に即して言えば、「排満」とは「亡国階級の根本的一掃を求むるもの」、「興漢」とは「真の近代的組織有機的統一の国家を建設」することを意味し、従って「排満は興漢の予備運動」(2-21〜2頁)に他ならない、そしてこの旧支配層の全体を打倒する「興漢」革命は、清朝を廃止するよりも困難な全社会的規模の変革の過程とならざるを得ず、従って長期にわたる過渡的な局面があらわれるであろうことが予測された。「1911年以後の支那は此の興国魂の或は顕現し或は潜伏する過渡期として察すべし」(2-48頁)、つまり清朝滅亡後の袁世凱の独裁も、軍閥の割拠も革命途上の過渡的な現象にすぎず、革命運動の一時的後退・潜伏期として考察しなければならないと北は言うのである。

  この見方は、前節でみたような、辛亥革命後中国は政権争奪の泥沼と化したとする内田良平的な見方に較べて、はるかに深く中国の情勢を見抜いていたと言える。そして北がこのような見方をとることが出来たのは、革命運動の指導者の背後にある民衆の「大勢」こそが、革命の動向を左右する基本的な力であると考えていたからにほかならなかった。「革命とは政府と与論とが統治権を交迭することなり」(2-32頁)、「革命は戦争に非ず大勢の決定なり」(2-38頁)とする彼は、「民衆に普汎せる愛国的覚醒」(2-12頁)が「与論」となり「大勢」となったと考える。そして武昌蜂起に呼応して「諸省の挙兵自立する前後通じて僅々月余の日子を要せざりしなり」(2-38頁)という革命運動の急速な展開は、「一石の投下が全局に饗応する如き支那現時の劃一的覚醒」(2-167頁)を立証するものとみたのであった。

  北はこの観点からさらに、辛亥革命が中国民衆の「自ら成せる革命」(2-39頁)であり、外国の援助によって成功したものでないことを強調しようとした。そしてこの論点は当然、自らの革命援助を誇示して何らかの利権を得ようとする日本側の態度、とくに彼の身近かな右翼勢力に対する批判ともならねばならなかった。彼は自らの経験にもとづいて、革命の発端において 「不肖を始めとして、所謂支那浪人なるものの全部が微少なる援助だに無かりし事を証明」 (同前)し、「渡来囂々たりし日本人が殆んど全部……酒間の声援者」(2-52頁)にすぎなかったと断じた。また日本からの武器輸出については、革命軍が南京を占領したのは、「日本商館の暴利を貪りたる廃銃廃砲が未だ横浜の税関をも通過せざりし」(同前)時ではなかったかと反論 している。

  北は日本が中国の革命運動に与えた影響は、思想的な側面に限定して捉えねばならないと主張した。彼はすでにみたように、辛亥革命の渦中からも革命運動における日本留学生の役割の大きさを強調していたが、ここでもまた、中国の革命派が自らの主体性において日本の国家民族主義を学びとったという理解を基本においていた。つまり「支那革命が日本的思想家の事業にして、革命の根本要求が日本と同様なる国家民族主義」(2-42頁)であったということは、彼等が決して無条件の親日家であることを意味するものではない、彼等は「同文同種と言い唇歯輔車と言ふが如き腐臭紛々たる親善論に傾聴すべく彼等は遥かに覚醒したり。亡国階級を凌迫 し慣れたる日本の伝習的軽侮感を以て親善ならんには彼等は余りに愛国者」(2-28頁)であり、従って日本が中国を脅威した場合に彼等が排日運動に立ちあがるのは当然ではないかと北は言うのである。そして「日本的愛国魂が漸く支那に曙光を露はして彼等革命党となれるに於ては、日本の或る場合の処置に対して排日運動を煽起するは寧ろ歎美すべき覚醒にあらずや」(同前) という立場から、21箇条要求に際しての排日運動の激発をも、中国民衆に於ける国家民族主義の発展として捉え、この点を理解しなくては日中両国の握手はありえないことを次のように強調していたのである。

  「是れを排日の−小部分たる彼の日貨排斥につきて見るも数年前の辰丸事件に施せし地方的 其れと、今春の日支交渉に対せし全国挙りての其れと、強烈の差等に較ぶべからざる国家的理解あり。袁の亡国階級の治下に於てすら己に然り。日本的精華に錬治されたる革命党の愛国者が統治すべき今後は予じめ想像に堪ふべきにあらずや」(2-28〜9頁)、従ってまた、中国革命に 於て「何等か重大の援助ありしかの如き虚構誣妄を流布するは、革命遂行後の両国々交に恐る べき爆弾を埋むるものにあらずや」(2-73頁)と。

  では辛亥革命は如何にして成功しえたのか。北はここでもまた明治維新と対比しながら、中国の革命派も維新の討幕派と同じ道を歩んだと説く。即ち辛亥革命においても、討幕派が外国の援助を求めることなしに、藩権力を奪取して討幕のための武力をつくりあげたのと同じ過程がくり返されたというのである。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の争に非ず゜。其の藩侯の軍隊を把握せずんぱ倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり。攘夷せんとする外国の浪人より囂々たる助力を受けたることなし。支那が革命さるべきならば革命の途は古今一にして二なし」、「外邦の武器を待たず外人の援助を仰がざる革命の鮮血道」(2−26頁)を歩む以外にはない。

  「則ち叛逆の剣を統治者其人の腰間より盗まんとする軍隊との聯絡これなり。−革命さるべき同一なる原因の存在は革命の過程に於て同一なる道を行く。実に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西、革命指導者の以て乗ずべしとする所。彼等は全党の心血を茲に傾注したり。」(2-25頁)「彼等は其の軍隊との連絡運動に於て大隊長以上に結托せざることを原則としたリ。革命されべき程に堕落せる国に於ては大隊長以上の栄位に在る者は悉く飽食暖衣の徒に して冒険の気慨なきは固よりなり。特に己に斯る栄位を得たるは軍功学識にあらずして一に請托贈賄の賜なるが故に、其の関係上直ちに反覆密告に出づべきは推想し得べし。彼等は又大隊長以下に連絡するに於ても下級士官に働ける手と、兵士を招ぐ手とを互に相聞知せざらしむる ことを規定したり。斯る複雑煩累なる手数を重ねずしては陰謀の漏洩を保つ能はざるほどに道念の頽廃し国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。」(2-33〜34頁)

  北はここから「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」(2-32頁)をくみとり、さらに「古今凡ての革命が軍隊運動による歴史的通則を眼前に立証せられたる者」(2-41頁)と 一般化しており、この点はのちの青年将校たちに一定の影響を与えたのであった。

  このように軍隊運動を中心として、辛亥革命を「自ら成せる革命」と捉えた北は、中国革命が向うべき方向をも、民衆の「大勢」のなかから読みとろうとした。そしてこの「大勢」が 「統一」と「共和」とを要求しているとみた。北はまず、革命の大勢が「数十萬の書生によって支那の全土に同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解が普汎せられしこと」(2-17頁)によって生れたとするのであり、従ってそこから「統一」ヘの要求が拡がるのは必然であると捉えた。彼は歴史の上からも「支那は歴史ありて以来統一せらる。……治者 と民衆の理想が常に統一に存して其の分立し抗争せる時代は統一的覚醒が未だ拡汎せざる所」(2-8頁)であり、統一の要求は中国の歴史を一貫しているとみるのであるが、さらにこの要求 は、帝国主義的分割の危機を打破することを目的とした革命運動においては更に、決定的に民衆にまで浸透したと言う。「四境より響く分割に恐'肺する彼等は、省的感情に従ひて各省分割的立法に禍さるるよりも統一の大勢を鞭撻するの遙かに困難少なきを洞見する者なり」(2-9頁)と。そして中国の地方的差異が大きいと言っても、その「省的感情は維新前の独立国的統治によりて養はれたる各藩の其れに比すべからざる稀薄なるもの」にすぎず、逆に「各省の頑強なる団結力が其実却て国家的統一の第一歩」(同前)となることが強調されているが、そこにもまた藩的結合を基底としながら中央集権国家をつくり出していった明治維新の討幕派の姿が投影されていたことであろう。

  北はさらに、この統一への要求は、軍閥として割拠する亡国階級打破の観点からも一層切実なものとならざるを得ないとする。即ち彼は、革命政府が樹立されたとしても、「中世的代官階級は或は都督となり絹紳となりて諸省に残存すべきが故に、自己等を掃滅せんとする新権力者に対しては極力抗争し、恐くは外国の後援を引きて対立を計ること仏蘭西貴族等の如くなるべし」(2-167頁)と予測したのであり、 それ故に「武断政策を取りて中世的代官を一掃し各省の乱雑を統一せざるべからず」(2-163頁)と強調したのであった。

  このように亡国|階級の打倒と結びついて強まってくる統一の要求は、当然に「共和」に結実することになる。「維新革命に於て攘夷鎖港の文字が倒幕の異名詞なりし如くに、共和政の主張は征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号として政体論以上の意義を有したるものなりき」(2-84頁)。そして清朝が滅亡したあとの中国には、革命の中軸となしうる伝統的権威は残されていなかったと北はみる。即ち革命派は「国粋的復古主義者も日本的国家民族主義者も、異人種の統治を排除したる後にルヰ16世紀に代ふべきオルレアン公を有せず、徳川 に代ふべき天皇を持たず。為に茲に欧米の一政治的形式を取入れて東洋的消化を経たる共和政体を樹立」(2-59頁)せざるをえなかったのだと。そして北は、このような革命の大勢がもつ統 一と共和の要求から、革命後の中国の政治形態は中央集権制と大統領制を二つの柱とするに違いないと考えたのであった。

  ところで北が、時の政治指導者たちにこのような中国革命の大勢についての認識を、常に孫文批判とからませつつ提示したのは、日本のとなえる革命援助なるものが「革命の思想的系統 と革命的運動系の大綱」(2-39頁)を把握することなく、それと係りない孫文援助に集中してしまっているとみたからであった。彼の言う如く「支那の要求する所は孫君の与へんとする所と 全く別種の者」(2-6頁)であるとすれば、孫文を援助することは、 中国革命を妨害することに他ならなくなる。『支那革命外史』前半の叙述は、日本の朝野に「斯る革命に交渉なき別個の思想家を選びて援助したる自己の無知無理解」(2-71頁)の反省を求めようとする実践的意図に貫かれていた。

  北の孫文に対する批判は、彼が、ナショナリズムを基礎として「自ら成せる革命」として展開されている中国革命を内在的に理解しようとせず、アメリカの独立戦争を範として中国革命を考え、またアメリ力的な政治形態を中国に押しつけようとしているという点であった。北自身の言葉で言えば、「愛国的注意の欠乏、興国的気魄の薄弱」(2-10頁)と、「米国的迷想」(同前) とが、孫文と中国革命の本流とを分つ点だと言うことになる。北はまず、孫文がアメリカ独立戦争にならって、常に外国の援助を求めようとするのは、独立戦争と革命の区別を理解せず、 革命に対する援助が常に干渉に転化することを忘れた態度だと批判する。即ち「植民地の経済的政治的興隆によりて旧き本国の支配を要せずして分離せんとする別個の一新国家の創建」の場合には、「旧本国との開戦に於て、本国の敵国たる者に援助せらるることは恥辱にあらずして堂々たる国際間の攻守同盟なり」(同前)、 しかし革命はこのような「独立せる地域に拠りて 戦ふ一種の国際戦争」(2-11頁)としての独立戦争とは異って、一国内の内乱であリ従って援助 は干渉と同義となると北は言う。「革命とは疑ひなき一国内に於ける内乱にして、正邪孰れが援けらるるにせよ内乱に対して外国の援助とは則ち明白なる干渉なり」(2-10頁)と。そして北 はのちにみるように、この点の認識の欠如に孫文が臨時大総統の地位を失うにいたる最大の原 因を求めたのであった。

  つぎに国内政治体制の問題については、北は孫文がアメリカ的な連邦制と大統領制を主張し ているとして批判した。北が連邦制に反対したことは、彼が統一を革命の大勢とみ、また列強帝国主義に対抗するための必要から捉えていた以上当然のことであったが、アメリカ的大統領制への反対は、中国の情勢に対する独自の把握と結びついて出されてきた問題にほかならなかった。

  北が『支那革命史』前半で孫文を批判しつつ提起した「東洋的共和制」とは、「大総統は米国の責任制と反し自ら政治を為さず内閣をして責を負わしめ単に栄誉の国柱として立つ事と、 米国的連邦に非ずして統一的中央集権制なるべしと云ふ二大原則」(2−58頁)の上に立つもので あったが、ここで彼が政治的責任を負はない「栄誉の国柱」としての大総統という範疇を押し出してきたのは、革命の混乱期において革命派の権力を如何にして維持してゆくかという問題 に答えようとしたからであった。彼は「栄誉の国柱」をうち立てることが、「君主制より共和制に激変せんとする支那に於て、仏蘭西の如き反動と革命の反覆を避くべき」(2-62頁)唯一の方策とみたのであった。 彼はこの点について次のように書いている。「米国的大総統政治は大総統が責任を負ふものなるを以て、斯く議会と与論に弾劾さるゝに当りては大総統其者の引責辞職に至るべく、即ち国柱の交迭を見ざるべからず。平時ならば或は以て忍ぶべし。漸く覚醒せる各省の心的共通を統一せんとして求めたる心的中心を、今の南北対立の際に突として交迭 し得べくんば始めより孫君を上海の埠頭より逐ふに如かざるに非ずや」(2−68頁)と。

  北がこのような大総統の政治的無責任制を提起したのは、民族的危機を感じて革命へと昂揚 した民衆の「大勢」がその激しさの反面に、群衆心理としてゆれ動く浮動性を持つとみてとっ たからであり、またこの群衆心理の統御こそが、革命政権の当面する課題とみたからにほかならなかった。彼はまず、「革命の渦中は一切の事理性の判断を許さず」(2−55頁)として「大勢 と名くる群衆心理」(2-59頁)に注意をうながす。そして「一国の過渡期に於て賤民階級が常に新理想と没交渉なる歴史的通則を忘却」(2-57頁)すべからずと一般化して述べている。しかし彼は、アメリカ的大統領制を採用し難い理由として、中国民衆を規制している伝統的な「国民精神」のなかに、アメリカ的な「自由」が欠除していることをあげているのであり、中国民衆 の伝統的な在り方が、革命に際しての群衆心理的動揺を一層大きなものにする要因になってい ると考えていたと思われる。

  北は民衆の大勢を性格づけている伝統的在り方を「国民精神」と名づけ、アメリカと対比しながら中国の場合を次のように特徴づけている。即ちアメリカの場合には「自由は彼の歴史を 一貫せる国民精神なり。支那は之に反して全く自由と正反対なる服従の道徳即ち親に服し君に従ふ忠孝を以て家を斎ヘ国を治め来れる者、被治的道念のみ著しく発達せる歴史の下に生活す る国民なり」(2-7頁)と対比する。そしてこのアメリカ的な自由とは具体的には「反対の自由、 監督の自由、批評攻撃の自由、交迭して自ら代はるべき自由、則ち反対党の存立し得べき凡ての自由」(同前)として理解された。北は中国の歴史のなかにも、眼前に展開されている中国革命の進展のなかにも、 このような「自由」の存在を見出すことはできないとした。「支那の建国にも歴史にも在野党の自由を擁護すべき国民精神の自由を発見し得べからず。……実に自由の建国精神あるが故に独立後嘗て自由を犯すものなかりし米国の事実と、服従の歴史的約束あるを以て革命後忽ち袁の専制を見るに至れる支那の事実とを見よ。」(同前)

  彼は中国革命がこのような「国民精神」の根本的性格の変化の結果起ったものではなく、清朝を倒した後でも、まだそこに顕著な変化は始っていないと見たのであった。「革命の勃発は……愛国運動によりて火蓋を切りし者なり。民主共和にあらず、又自由平等にあらず」(2-30頁)、 「支那の革命は民主共和の空論より起りたるものにあらずして、割亡を救はんとする国民的自衛の本能的発奮なり」(2−12頁)といった言葉からは、中国革命が個人の立場を基礎とする自由・平等・民主などの要求からではなく、国家の自立と栄光への渇望から起こったとみる北の認識と、それ故にこそ同感と支援を惜しまなかった北の心情とを読みとることが出来る。つまり北は中国革命における「大勢」を個人の自立性の弱さと国家への渇望の強さという両面で捉えていたと言えよう。そしてその自立性の弱さの故に、この「大勢」は振幅の大きな群集心理的浮動性を持たざるを得ず、従って革命指導者にとって群集心理を如何に統御しうるかが、革命の成否を決する程の重大な課題とされたのであった。北が「栄誉の国柱」、「心的中心」と呼んだものは、言いかえれば「群集心理を統制すべき中枢」としての「新精神の体現者」(2-43頁)ということにほかならなかった。

  北は辛亥革命が袁世凱の独裁の下に敗退していく過程を、「新精神の体現者」をうち立てることが出来ず、群集心理の統御に失敗した過程として捉えた。北の意見によれば、革命派の最初の失敗は、武昌蜂起が成功したにも拘らず、革命派の政権を組織することなく、亡国階級の一司令官であり、革命軍の俘虜にすぎない黎元洪を表面に押し立てたことであった。「一個の俘虜を都督として全国の耳目を欺ける第一歩の発足点の不幸は、呪いの如く革命運動の展開に附き纏ひたりき」(2-43頁)。つまり革命の最初において革命派の権威を打ち立てなかった失敗は、中心的指導者であった黄興の漢陽での敗戦という事情も加わって、群集心理の統制をいちじるしく困難にしたというのである。

  北は革命派の第二の失敗は、南京政府臨時大総統として現実の革命と没交渉な孫文を擁立したことにあるとしたが、この間の事態は、群集心理という形で浮動する「大勢」をあるべき方向に導き得なかった指導者たちが、逆に「大勢」のなかにのみ込まれてしまったことを示しているとみた。即ち南京政府設立過程に於いて、宋教仁らは黎元洪を大元帥、黄興を副元帥とする新政府樹立を企てたが、「革命の洶濤に渦き流るゝ群集心理」(2-53頁)は、彼らを「俘虜と敗将」(2-54頁)とみてこの人事に不満を示し、その上に立つ「英雄」を求めた。そしてその時ようやく、中国同盟会総理孫文がアメリカから欧州を経て日本浪人団の熱狂的声援をうけながら帰国する、「群集心理は倖ひにも嘗て己等の指導者たり党首たりしものを担荷すべき偶像として得たり」(2-55頁)というのである。

北は孫文が擁立された根拠を彼が中国同盟会総理の地位にあったことと共に、共和政の首唱者とみられていたことのなかに求めた。「兎に角孫逸仙君は共和制の犯すべからざる首唱者にして同時に権化なりき」(2-59頁)、「彼の中華民国史に於ける百代不磨の功績として看過すべからざる事は、彼が此の新建国の始めに於いて支那の将来は必ず共和制ならざるべからずといふ大憲章の精神を宣布したることなりとす」(2-57頁)。しかしそれらの根拠もまた、中国革命と孫文との距離を縮めるものではなく、革命政府と孫文との結合は不合理であったと北は断ずる。「二者の接合の不合理なるは俘虜を大元帥となし敗将を副元帥となせるよりも優りて、殆ど悪魔の胴に天使の首を載せたる如し」(2-70頁)と。そしてこの不合理は、孫文が外国の干渉への警戒心を持たず、外国の援助を求めたことによってたちまちのうちに暴露されたというのである。具体的には孫文は三井との間に漢治萍借款を進めたことによって彼を偶像としてかつぎあげた筈の群集心理から見離され、南京政府崩壊の原因になったとして、北はこの間の経緯を次のように解説している。

  「外国に生まれて国家的執着心を有せず且つ現下の革命運動に局外者たること等しく外国人の如き孫君は該借款を以て目的の為の手段と考へたるべし。而も是れ目的の為の手段に非ずして臨時政府の政費に過ぎざる一手段の為に革命勃発の大目的とせるところを蹂躙する者に非ずや。粤川鉄道借款に反対して四川より起これる革命は、南京に拠れる革命党の首領が漢治萍借款を企つるを寛恕する能はず。満州に於て日露の武力的侵入を扞禦せんとしてさらに英米独仏の経済的侵略を誘引したる者は亡国階級の事なり。中原に於て四国が鉄道を奪取する事を坐視せざりし革命的新興階級は、他の一国が鉄山を占領することを拒斥せずして止む能はず。」 (2-66頁)「革命連動が彼に何の恩恵を蒙らざりしのみならず革命の理想に対して彼の理想は却て明白なる反逆者なりき」(2-71頁)、「彼等は革命の始めに於て四国に向けたる鋒先を今日本に転ぜざるを得ざる恐怖に戦慄すると共に、彼等の泰戴せる偶像を仰ぎ視て実に売国奴の相貌を 持てることに驚愕したり」(2-66頁)、そして孫文は「只自己に逆行して波立ち始めたる群衆心理を呆然として眺め」(2-67頁)ねばならなかった、と。

  つまり北に言わせれば、哀世凱をして「南北統一の役者たらしめしことは孫逸仙君の弁解すべからざる責任なり」(2-87頁)ということになる。彼は、孫文が日本の干渉を引き入れるので はないかという恐怖が、中国内部の統一を確保することを緊急の課題として意識させ、大勢は袁世凱による統一をも耐え忍ぶ方向に動かざるをえなかったとする。そしてさらには「被治的道念のみ著るしく発達」した中国民衆は袁世凱の専制をもうけいれてしまったとみるのである。

  『文那革命外史』前半は、中国革命に対して「日本人が感謝さるべき何の援助を与へざりしみならず、日本政府は革命の遂行を中途に阻止したる妨害者にあらざりしか」(2-74頁)という 痛'限の念によって貫かれている。そしてそこでの北は、日本帝国主義に対する痛烈なる批判者 として立ちあらわれているかにみえる。しかし彼が批判者たりえたのは、革命中国と日本の発 展を「正義」の名に於て結合させようとする欲求によるものであり、日本帝国の拡大を断念したからではなかった。彼が自らに課したのは「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」(2-1頁)という問いに答えることであり、 中国革命をたすけるために、日本国権の拡張を思いとどまるということではなかった。しかしこれまでみてきたような形で中国革命を把握するとすれば、その革命の発展に一致する日本の政策は、中国より奪った利権を返還し、不干渉不侵略・反帝国主義の立場をとるという以外になくなる筈である。だが日露戦争を全面的に 肯定した北は、それによって得た在満権益を放棄しようなどとは考えてもいなかった。とすれば両輪的一致策は如何にして可能となるのか、北はこの難問に挑む前に一たん筆を休めた。

  彼は『支那革命外史』執筆中断の事情について、いわゆる第三革命の勃発によって、「革命党の諸友悉く動き、故譚人鳳の上京して時の大隅内閣との交渉を試むる等のことあり、為めに筆を中止した」(2-序1頁)と述べている。勿論そのような外的な事情の介在を否定するつもり はない。しかし同時に中国革命の将来と日本の発展を一致させるために、基礎的な問題の捉え 直しがこの間に行われたことも否定し難いことのように思われる。何故なら、3カ月の中断に書かれた後半においては、群衆心理についての議論も、大総統無責任制の提昌も姿を消し、「東洋的共和政」は全く新しい相貌の下に再登場してくるのであるから。

 「9「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退」へ
 9、「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退

 「支那自らが自立独行すべき一国家」として存立することが「日本の利益」(2-28頁)でもあると主張する北の立場からすれば、日本のあるべき対中国政策は、中国革命に干渉せず、中国革命を阻害するような列強の政策を阻止することを基礎として構想されねばならなかった筈である。従ってそこから日中の「両輪的一致策」を求めるとすれば、列強に日中共同して対決する という局面を想定することが必要であった。そしてさらにこの共同の対決のなかから「日本国権の拡張」を引き出そうとすれば、それに見合った形での革命中国の積極的な対外政策を予定 しなければならなくなる。『支那革命外史』執筆中断の際に北がつきあたっていた問題はおそ らくこの点にかかわるものであったと思われる。

  つまり民衆の「大勢」のもつ群衆心理的浮動'性を重視し、それを統御するために「栄誉の国柱」 を立てねばならないといった捉え方では、中国革命のなかに対外行動に立ちあがる強力なエネ ルギーを見出すことは困難にならざるをえない。しかも当時の中国の政治情勢は、袁世凱の帝 制計画は失敗に終ったとは言え、いわゆる第三革命とは旧官僚勢力の内部分裂を示すものにす ぎず、革命運動は完全に停滞してしまっていた。従って対外行動に立ちあがる力は、何よりも まず、革命の停滞を打破しうる力でなくてはならなかった。法華経読誦に専念し始めた北は、 そこにこのような中国革命の原動力についての新たなイメージを得る助けを求めたことであろう。そして執筆を再開した彼は、政治責任を負わない大総統について論ずろ代りに、やがて現われるであろう武断的英豪について語り始める。「革命とは地震によりて地下の金鉱を地上に 揺り出すものなり。支那の地下層に統一的英豪の潜むことは、天と国民の渇望とが証明すべし。 之を人目に触れしむることは地震の後なり」(2-159頁)。そしてその英豪に「大殺戮を敢行し得る器」(2-153頁)たることを求め、またそれによって「東洋的共和政」論を再編成したのであった。その基礎となっているのは、言うまでもなく中国革命の原動力についての新たな構想にほかならなかった。

  中国革命のエネルギーをつかみ直そうとする北の作業は、まず「自由」の問題を再検討する ことから始められた。すでにみたように、彼が中国民衆は自由の意識にめざめていないと指摘 したのは、アメリカとの対比に於いてであり、従ってそこでの「自由」とは、アメリカ的な、 社会秩序の核となる「自由」にほかならなかった。このような秩序形成力をもった自由が中国 民衆の間に欠如しているとの認識は、北は一貫して持ちつづけている。しかし同時に、「社会的解体の意味における自由」(2-144頁)という新たな観点を提起し、この意味における自由な らば、中国社会にも存在していると主張し始めるのであった。つまり革命がおこるということは、社会が解体して革命を起す自由が得られたということではないかというわけである。北はこの点について次のように書いている。

  「固より革命に当りては旧き統一的権力を批判し否定し打破し得る『思考の自由』と、其の自由思考を実行し得る程度にまで旧専制力の弛頽し了はれる『実行の自由』を要す。是れ社会 的解体の意味に於ける自由なり。従って革命とは自由を得んが為めに来るものに非ずして、自由を与へられたるが故に起るものなりとも考へ得べし」(2-144頁)と。勿論それを「自由」の 名で呼んだとしても、 近代的秩序を形成するための「自由」とは異ることは北も認める。「即ち同一なる自由にして未だ新たなる統一的権力を得ざる時期の−例えば腐朽せる旧専制政治の弛緩せる結果として生ずる、脱税し得る自由、法網を免れ得る自由、罪悪を犯して罪する力を見ざる自由、 兵変暴動を起して征討されざる自由、 帝力我に於て何かあらんの自由は、是れ革命前の政治的解体と称すべきものにして近代的意義の自由に非ず」(2-143頁)、それはむしろ「野蛮人及び動物の生れながらに有する本能的自由」(同前)とも言うべきものであろう、しかし、人間が「物格」として支配されていた中世を脱するためには、一度こうした「本能的自由」の階段を経ることが必要なのだと北は主張するのである。

  「先ず天賦人権説によりて人類としての動物的本能より覚醒せざるべからず。耕作用に馴育 したる家畜の鎖を断ちて、曠野に放たれたる猛獣としての人類に覚醒されざるべからず。而し て中世的権力の鎖は腐朽して自ら断たれたり。家畜は檻を出でて猛獣の天賦を現はしたり。… …則ち近代史が自由なき中世史より脱却せんが為めに人類をj寧猛なる破壊に駆る期間を名けて 革命と云ふ」(2-150頁)。つまり北は家畜の段階を脱するためにはまず人間としての本能を自由 に発揮しみることが必要だとして、近代をつくり出す力をそのような本能的エネルギーに求めたのであった。そしてそのエネルギーは中世的な権力や秩序を破壊するだけではなく、近代的 な権利主体としての個人をつくり出す力にもなるというのであった。「支那は明らかに人類的生活の権利に覚醒したり。四億萬民が各自権利の主体にして君主と其 の代官とのために存する物格にあらずとの覚醒は、実に中世的君主政治を排除して近代的共和政を樹立し得べき根基にあらずして何ぞ。各入悉く権利主体たる覚醒は切取強盗の中世的権利思想に対抗して、労力の果実に対する所有権の神聖を主張せしむ」(2-148〜9頁)と。

  しかし猛獣としての破壊と反抗が個人の覚醒と権利の基礎となりうるとしても、その新しい基礎の上に立つ新しい秩序は、社会的解体状況のなかから自生的に形成されるものではないと北は考えた。いわば猛獣には猛獣使いが必要だというわけである。そして彼はこの猛獣使いと しての「専制」権力の問題を提起してくるのであった。彼はまず原理的に言って革命は専制的権力を必要とすると主張した。「凡て革命とは旧き統一即ち威圧の力を失へる専制力が弛緩 して、新たなる統一を求むる意味に於て強大なる権力を有する専制政治を待望する者なり」 (2-143頁)と。つまり「社会的解体の意味における自由」とは、いわばアナーキーな破壊力と して作用するだけで、新たな建設力とはなりえないとみる北は、この「一切の統制なき本能的自由」(2-145頁)を専制権力によって「圧伏」しなければ、破壊の過程がつづくだけで新しい秩序を建設することは出来ないではないかというのである。しかし旧秩序の破壊力として荒れ狂った本能的自由をただ単に圧伏してしまったのでは、革命はそのエネルギーを失って失速・ 墜落するほかはない。そこで革命に必要とされる専制権力は、本能的自由のアナーキーな暴走を抑えると同時に、それを国民の「心的傾向」(2-160頁)の改造の方向に導かねばならないと いうことになる。そしてアメリ力がこのような専制権力を必要としなかったのは、アメリカの 独立が本能的自由によって中世を打倒する革命ではなく、「掠奪より免れんとする人類の本能 に従って」「中世的掠奪者を本国に放棄したる近代的人類」(2-159〜60頁)による新社会の建設 という例外的な事例にほかならなかったからだとされるのであった。

  北がこのような本能的自由という新たな観点をもち出してきたのは、革命の中心に国民の 心的傾向の改造=「国民信念の革命」(2-162頁)という問題を位置づけるためであったと言ってよ い。彼は「革命の根本義が伝習的文明の一変、国民の心的改造に存する事」(2-169頁)を主 張し始める。つまり社会的解体の結果として露出する本能的自由は、たんに秩序や制度を破壊するだけでなく、その基底にあって民衆を捉えてきた信念や教義をも破壊する点で革命の根底的な力となりうるのであり、同時にまた、専制権力による国民の改造を可能にする条件をつく り出すものでもあるというのであった。「革命とは数百年の自己を放棄せんとする努力なり。 制度に対する自己破壊は即ち国民信念に対する自己否定なり」(2-169頁)とする北は、この旧来の信念を自己否定した国民を新たな信念の形成に導いてゆくことが専制権力の任務であり、 それがまた革命の中核となる過程にほかならないとみるのであった。そしてそこから更に、自己否定によって本能的自由のレベルにまで解体された国民は、革命の必要に応じた形で改造す ることが出来るという論理を引き出すに至っているのである。

  北の中国革命論は、この論理を踏切板として明らかな逆転をとげる。そしてそれまで中国民衆の「大勢」を基礎として、辛亥革命以来の中国革命の過程を捉えようとしてきた筈の北は、 今度は内に対する武断主義と外に対する軍国主義とを革命の必要として中国革命の未来に押しつけはじめる。内に対する武断主義は、本能的自由をかきたてながら、旧社会を破壊し、革命権力を創出し、国民信念を革命する過程を見通すために、また外に対する軍国主義は、この武断主義を基礎とすると同時に、日本の国権拡張を前提とした「日支同盟」論を引き出してくるために不可欠の観点であった。そしてそのことは北が、中国革命が軍国主義的な国民を作りうるという論理を持ち出すことによってはじめて、それが如何に幻想的であったにもせよ、とにかく日中の両輪的一致策にについて語りうる地点に達したことを意味しているものでもあった。

  北はまず中国革命における国民改造の方向を、国民を服従的かつ文弱にしていた儒教文化を排除して、「国家のための国民」(2-189頁)をつくり 出すという形で提示した。「支那の文弱による亡運は孔教に在り」(2−161頁)とみる北は、孔教の教義もそれにもとずく「文士制度」も共に革命の敵として打倒しなければならないと断じた。即ち「君臣の義を人倫の大本となし政道の根軸とする教義は、其の枝葉と雖も共和国に公許すべからざる異端邪説となれり。平和なる無抵抗主義の信条は、支那の山河が天下の凡てなりと考へし時代にすら多くの価値なき者なり。武断政策によりて各省を統一し、軍国主義を掲げて外敵を撃攘すべき救世済民の英雄を弾劾する結果を導くに至っては寸言の存在をも許す能はず」(2-162頁)。そしてまた、このような教義にもとづく文士制度は「治国平天下の論策を職業となし、行政的能力なき者が官を売買するに至りて」(2−161頁)中国の衰弱を決定づけたというのである。そして今や革命の進行と共に、この孔教は急速に国民から棄てられつつある、「第一革命に於いて共和制を樹立したること其事が孔教の否認なり、官僚討伐其事が文士階級の一掃なることに於いて亦孔教の終焉なり」(2−163頁)、しかしその害毒が一掃されたわけではないと北は言う。『支那革命外史』前半における「群集心理」の問題は、ここでは儒教文化の残存の問題におきかえられてしまっている。

  北は、群集心理にかつぎあげられた孫文、というさきのくだりを今度は次のように書き改めてゆく。「孔教に発せる文士制度の害毒は中世的文士の亡ぶると共に今や却て革命的階級の或る部分と国民との心的傾向に宿りて―見よ一たび言論文章の徒に大総統と参議院を委ねたり。是れ答案を英文又は日本文に求めたる形式の変更に過ぎずして依然たる科挙法の精神を継承する者。空虚なる言論を崇敬する文弱なる心的傾向なくんば、誤謬の知識を伝ふるに過ぎざる英語の達人を大総統に迎ふるの理あらんや」(2−161頁)。

  彼はもはや、群集心理の問題にかかわり合う必要はなかった。群集心理は孔教の害毒を洗い流し国民信念の革命をすすめることによっておのずと姿を消してゆく筈であった。従って革命の停滞を破るべき亡国階級との闘争は、本能的自由をかき立てるような暴力的な形で構想されねばならなかった。彼は内に対する武断主義を奏の始皇帝のイメージを援用しながら語り始める。即ち「教理其者に対する革命家は支那に於いては太古唯一人の奏始皇帝ありしのみ。『書を焚き儒を坑に』せしと伝へらるゝ者、後の反動は是を別個の説明に求めざるべからずと雖も、要するに孔孟の文士教を以てしては禹域の統一断じて望むべからざるを洞見せしが故なり」(2−162頁)、「而して凡て国家の統一と国民の自由の為めに将に屠殺さるべき中世的代官等は実に孔孟の文士教を信仰する文士制度の遺類なり。―窩濶台汗と上院の諸汗とは書を焚き儒を坑にすべき大使命の下に立てる者ならざるべからず」(2−163頁)。「窩濶台汗と上院の諸汗」とはあとでみるように、中世蒙古史のイメージで、革命中国の専制権力を言い表したものであるが、北はこの権力に「焚書坑儒」の武断主義を求めたのであった。「自由の楽土は専制の流血を以て洗はずんば清浄なる能はず」(2−154頁)、「革命は速やかにギロチンを準備せざるべからず」(2−156頁)と。

  そしてさらに北は、亡国階級の財産を掠奪し没収し、彼等を亡命を許さない敏速さで打倒せよと叫ぶ。一切を力関係に還元しながら北は言う。「租税とは掠奪が法律の美服を着たる者なり。国家の存立のために必要なる物質的資料を徴集せんとして強要する掠奪力の最も強大なる最も組織的なるものが則ち法律なり。国家が平和に存する時租税となり、軍事行動をとる時徴発となり、物資徴収組織を根本的に一変せんとする革命の時に於いて掠奪となる」(2−118〜9頁)。「勇敢なる掠奪、大胆なる徴発、一歩の仮借なき没収、斯の如くにして一切の政治的腐敗財政的紊乱を醗酵する罪悪の巣窟は顛覆せられ、茲に始めて新政治組織新財政制度を建設すべき基礎を得べし」(2−125頁)と。そしてこの過程で亡国階級の亡命を許すならば、彼らは外国の干渉をひき込むてさきになるであろうと警告したのであった。

亡国階級打倒の過程がこのような形で進行するとすれば、それは「国民の軍事的精神其者を一変すべき信念と制度に対する根本的革命」(2−171頁)となる筈であった。そしてそこから、列強と武力で対決する軍国主義も生れてくると北は言うのである。「即ち不肖は革命の支那が一大陸軍国たるべき可能的目的に向って躍進すべしと推断せんと欲す」(2−168頁)、「革命の支那が孔教の文士制度と共に其文弱文明を否定して蒙古共和国の軍国主義に急転し得べき事は、実に革命なるが故の真理なり」(2−169頁)、「一大陸軍国たる支那の将軍は革命的青年と4憶萬民の泥土中より出ずべし」(2−172頁)と。しかも彼は、革命の過程における対外的緊張そのものがこのような外に対する軍国主義を形成する契機となるであろうと予測するのであった。

  「革命の支那が武断政策によりて国内を統一し軍国主義に立ちて外邦に当るべしとの以上の推定は、即ち支那と英露との衝突避くべからざるを断決せしむるものなりとす」(2−173頁)。北は英・露両国を中国に対する最大の侵略者とみ、中国革命はこの両者との軍事的対決を避けることは出来ないと断じた。「英国にシンガポールと香港とに拠れる経営を放棄せんことを望むは、尚露西亜に西比利亜鉄道の割譲を求むる如き不可能事にして、―即ち国家の存亡を賭して争はざれば能はざる事」(2−174頁)であり、「支那の革命」は「革命と同時に対外戦争を敢行せざるべからざる……運命を負へるものなり」(2−187頁)と北は言うのである。

  北はまず、中国の財政的独立を奪い、自己の利権保持のために亡国階級を支援しているイギリスは、革命が許すことの出来ない侵略者であるとする。「支那が財政的独立を得ることは、直に埃及の如く其れを侵しつつある英国の駆逐を意味す。己に海関税を奪ひ将に塩税を奪はんとする彼は、支那の財政革命と同時に若くは前提として先ず第一に革命政府の許容する能はざる侵略者なり。挨及が英国の主権の下に於て財政の独立を得べしと言ふ愚論無し。支那の革命政府は中世的代官階級の維持に腐心し其維持によりてのみ自己の利権を保持せんとする英国の駆逐を先決問題の一とせざるべからず」(2-173頁)、とすれば、中国革命は亡国階級に対するのと同じく、掠奪・没収・徴発の方法を以てイギリスともたたかわねばならないと北は言う。 「英国資本の利払ひを拒絶すべし。主権は絶対なりの原則に従ひて必要の場合彼れの資本其者を収得すべし」(2-174頁)と。

  このようなイギリスの経済的侵略に対して、ロシアは蒙古の侵略にみられるように領土的侵略を中心にしていると北は言う。そしてこのロシアの侵略を許すことは、たんに蒙古を失うだ けではなく、列強の中国分割を呼びおこすことになるのだと北は言う。「蒙古其者は支那の大を以てすれば数ふるに足らざる如し。而も蒙古に露西亜の北的侵略を導くことは直ちに西蔵に英国の南的経営を迎へ、仏の雲南貴州を求むるあれば英は更に揚子江流域を呑まんとし、露独亦協定して山西陜西の森と山東の海より呼応し、対岸の島国は狼狽して亦ツーロンに上陸すべ し。蒙古一角の喪失は則ち全支那の割亡を結果す。即ち蒙古西蔵は浅薄なる支那学者等の考ふる如き中世史の外藩にあらずして,英露の経略に対抗して支那の存立を決する有機的一部なり」 (2−179〜80頁)。北は中国革命の求める「統一」とは、漢民族によるいわゆる中国本部だけの統一を意味するものではなく、「支那の国民的理解は共和旗の下に五族を統一する大共和主義」 (2-147頁)を意味するものと理解する。従って、周辺からの中国分割を認めるということは、 日本を例とすれば、北海道をロシアに九州をイギリスに米仏などに夫々その欲する所を与えて本州だけの明治維新で満足するのと同じではないかと反論しているのである。

  しかし、革命中国が英露二正面作戦を遂行することは如何にして可能なのか。ここで北は中国にとっての敵・英露は、日本にとっても敵であるとし、両国が「日支同盟」を以て共同の敵 に立ち向うという局面を想定する。「窩濶台汗の共和軍が英人を駆遂し蒙古討伐を名として対露一戦を断行する時、日本は北の方浦港より黒龍沿海の諸州に進出し、南の方香港を掠し、シ ンガポールを奪ひ……」(2-182頁)と彼のイメージは拡がる。そしてそのなかの主要な局面を 日英・中露の対決として構成する。つまり、英露対日中の対決を「日英戦争」と「露支戦争」の組合せを柱として考えようというのである。一方で「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり」(2-173頁)、「日英開戦の大策は、今や将に支那革命の展開に伴へる必然の運命となれり」(2-175頁)、とみる北は、他方では、「支那の分割か保全かを端的に決定する者一に唯窩濶台汗と其諸汗とが露西亜を撃破 し得るや否やに存す」(2-178頁)と言う。つまり彼は日英戦争が日本の発展の必然の道であるのと同様に、「対露一戦」は、中国革命の成否を分つ分岐点になるというのであった。北は「対露一戦」をたんに列強の侵略を打破するために必要な方策としてだけでなく、同時にまた革命を徹底させ、文弱な中国を一大陸軍国に転換させる跳躍台としても想定しているのであった。

  「支那は対露一戦を以て山積せる革命的諸案を一挙に解決し得べし」(2-187頁)とする北は、国家存亡の危機→挙国一致→民衆の対外戦への蹶起→全社会的変革の実現という図式を画いているのであった。「腐敗堕落して国内の革命的暴動をすら鎮圧する能はざりし都督将軍等の代官階級は逃亡して『泥土の将軍』と『地下層の金鉱』とがゴビ砂漠の陣頭に立つべし。……代 官に購買せられたる『最悪なる人民』の中世的軍隊は四散して、『国家の為めの国民』に覚醍せる至純なる農民の組織せる愛国軍を見るべし」(2-189頁)、「不肖は固く信ず、対露一戦の軍費は代官階級の富を没収徴発することによりて得べく、政治的財政的革命亦対露一戦に依りてのみ始めて望むべしと」(同前)。従ってまた革命中国の政治権力も、この過程のなかではじめて確立されるということになってくる。北は言う。「徹底的革命後の大総統は断じて露支戦争の凱旋将軍ならざるべからず。兵は4億萬の組織さるべき国民軍あり。資は亡さるべき代官階級の富数十憶萬の山積せるあり。 而して各省乱離の統一、財政基礎の革命、 一大陸軍国の根柱、自らにして成る」(2-190頁)と。

  このような北の中国革命論は、いわば二つの想定を組合せ、逆転させてゆくという形でつく りあげられていると言える。彼はまず第1には、本能的自由による破壊の局面と、専制的革命権力がそのエネルギーを「国民信念の革命」に誘導する局面とを想定する。そしてそこから軍国主義的国民の形成の可能性を示唆する。しかしこれは革命の基礎過程についての観念的想定 に他ならず、そのなかから中国革命の停滞を打破してゆく現実的契機を引き出すことは出来ない。そこで彼は次に現実の問題として、中国革命と帝国主義列強との対立が激化するという局面を想定する。それは確かに現実の中国情勢に根拠を有するものではあるが、しかし現実の中国情勢をこの列強との対立、とくに英露の中国侵略の問題に局限している点でまた観念的であることを免れがたくなっている。つまりそこではその他の問題は捨象され、例えば国内の革命過程はさきの観念的想定におきかえられてしまう。そして北の中国革命論はこの二つの想定を 次のように組合せることによって構成される。

  北はまず第1の想定で示した軍国主義中国の可能性を第2の想定に適用し、中国も英露との対立を戦争という方法で解決することが出来ると主張する。そしてそこから反転して、戦争こそが革命の基礎過程を引き出す現実的契機にほかならないとするのに至るのである。いわば、中国革命の根底に戦争を位置づけるわけである。そしてその戦争を「日英戦争」と「露支戦争」 の複合形態で設定することによって、日中関係を根底的に結びつけようというのであった。従 ってまた、革命中国の権力のあり方=「東洋的共和政」も、今度は基本的にはこの「露支戦争」 との対応から性格づけられてゆくことになるのであった。

  北は「東洋的共和政」を、『支那革命外史』前半の場合とは異って、ここでは「中世史蒙古の建国に模範」(2−158頁)を求めて構想しようとする。彼は中世蒙古がヨーロッパに向って大征服を敢行した事実に革命中国のイメージを重ね合せ、同時にまた、武将達による専制的共和制という独自の政治形態を引き出してくるのであった。「実に成吉,思汗と云ひ、窩濶台汗と云 ひ、忽必烈汗と云ひ、君位を世襲継承せし君主に非ずして『クリルタイ』と名くる大会議によ りて選挙されしシーザーなり。而してシーザーの羅馬よりも遙かに自由に遙かに統一して更に遙かに多く征服したり。…革命の支那は自由と統一との覚醒によりて将に最も光輝ありし共和政的中世史の其れを採りて窩濶台汗を求めんとす」(2-158頁)、「而も剣を横へて神前に集まれる数百の諸汗が大総統を選出して是れを大汗となす者、古代羅馬に比すべからざる大共和国 にあらずや」(2-160頁)。
北は「東洋的共和政」を、窩濶台汗としての終身大総統と軍事的革命指導者の集団としての 「クリルタイ」を中核とし、議会主義を排除する形で構成する。そしてそこでの彼の関心は、 如何にして革命指導者の専制体制を維持し安定させてゆくかという点に向けられており、その点では彼の関心は『支那革命外史』前半から一貫するものであったと言えよう。即ち、終身大総統制の問題についてみても、そこでは「総統一人の責に於てすると将た小数革命家の団集に任を分つと形式は云うの要なし」(2-158頁)と述べられているように、大総統個人への権力の集中を求めていのるではなく、安定した政治的権威の確立のための方策が模索されているのであり、それ故に大総統の「終身制」が主張されているのであった。

  また議会主義を排除するのも、革命期の議会は必ず反革命の拠点となり、革命権力の安定を 脅すものとなるとの観点からであった。革命が国民の心的改造を目的とするとすれば、その中途に於て国民の意思を問うことは、「投票の覚醒なき国民の法律的無効なる投票」を求めるという自己矛盾におちいるというのであった。北は「革命の或る期間に於て反動的勢力が必ず議会と与論とに拠りて復活を死活的に抗争すべしとの事実」(2-155頁)を強調しつつ、革命中国の政治体制を次のように画き出していた。「中華民国大総統とは所謂投票神聖論者の期待する如き翻訳的議会より選挙さるゝものにあらず」(2-157〜8頁)、「是れ革命後に於ては統一者其人のみが国民の自由を代表し、而して議会又は与論に拠るものゝ多くが反動的意志を表白する者なればなり。固より大総統は革命の元勲等によりて補佐せらるべし。而も彼等は投票の覚醒なき国民の法理的無効なる投票によりて議会に来るものに非ず。旧権力階級を打破せる勲功と力 とによりて自身が自身を選出すべき者、断じて世の所謂人民の選挙に非ず゜。即ち適切に云へば、彼等は新国家の新統治階級を組織すべき『上院』の人なり。真に国民の自由意志を代表する 『下院』は、下院を組織すべき国民を陰蔽せる今の中世的階級を一掃屠殺したる後ならざるべからず」(2-159頁)、「東洋的共和政は大総統と上院にて足れり」(2-160頁)と。 そして北が自ら構想した中国共和政を「東洋的」を名づけたのも、この点に大きくかかわっていたと思われる。 彼は中国に向って「断じて投票萬能のドグマに立脚する非科学的非実行的なる白人共和政の輸入に禍さるゝ勿れ」(2-159頁)と警告しているのであった。

  北の中国革命論は、以上みてきたように、「露支戦争」ヘの展望を基底におき、「窩濶台汗」 を呼び求める声で終っている。彼は『支那革命外史』を、「不肖は窩濶台汗たるべき英雄を尋ねて鮮血のコーランを授けん」(2-204頁)という−節で結んでいる。そして北は、このあるべ き中国革命と結合するために日本の対外政策の「革命的一変」を説くのであるが、その問題は節を改めて検討することとし、ここでは、以上のような「東洋的共和政」論を構想する過程で、 彼の国体論批判に一定の修正が加えられている点に眼をむけておきたい。

  すでに述べたように北は『支那革命外史』前半においては、中国革命における共和制の要求を、一方では「征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号」(2-84頁)として積極的に解すると同時に、他方では「徳川に代ふべき天皇を持たず」(2-59頁)と消極的に理由づけていた。これに対して『外史』後半になると、この消極的な側面に議論の中心がおかれるようになり、その反面で日本の天皇制の価値が強く意識されるようになってくるのである。北自身後年この点について次のように述べている。「支那自身の漢民族中に、君主と仰ぐべき者がないために、大統領が度々起きたり倒れたり、又は袁世凱が皇帝となろうとしても1つも国内の建設が出来ないので、万民塗炭の苦しみを続け居るを見、痛切に皇統連綿の日本に生れた有難さを理論や言葉でなく、 腹のどん底に泌み渡る様に感じました1)」。この陳述は官憲に対するものではあるが、しかし『支那革命外史』の叙述のなかからも彼のこのような天皇制に対する意識の変化を読みとることが出来る。辛亥革命敗退の決定的な原因の1つを、革命派が政治的権威を打立てるのに失敗したことにあるとみた北は、革命政権安定の問題は大きな関心を払い 「終身大統領制」を提議するに至るのであるが、この思考の過程で彼は、革命派が革命の渦中で伝統的権威を利用できればそれにこしたことはないと考え始めたように思われるのである。
1) 二・二六事件関係憲兵隊調書、3-444頁


 北は「東洋的共和政」を論ずるにあたって、明治維新で確立した天皇制を「東洋的君主政」 としてその対極におき、フランス革命を君主政と共和政との間を動揺した「変態化の革命」(2-151頁)としてその中間に位置づけるという対比を用いた。そしてそこでは、革命は必ずしも伝統的権威を打倒することをめざすものではないという認識が前提とされていた。例えば彼 は、フランス革命についてこの観点から次のように述べている。「見よ。バスチールの破壊さるる時と雖も、軍隊の威嚇に対してミラボーが議会の神聖を叫びし時と雖も、飢民乱入してチュレリー宮殿の階上に鮮血の鎗が閃きし時と雖も、仏蘭西国民は帝王に対する忠順を失はざりき。彼等は古来貴族の横暴に対して抗争すべく常に王権の擁護を得たる歴史的感謝を持てるものなりき。彼等は不幸にしてルヰ16世なる売国奴を与へられしが為めに、当初の方針を持続する能はざりしのみ」(2-145頁)と。つまりフランス国民は「革命の統一的中心を王室に仰」 (同前)いでいたにも拘らず、亡命貴族の先導する列強の反革命軍に皇帝が内応するという事態がおこったため帝制打倒に向はざるを得なくなったのだというのである。

  そして彼は、このように統一的権力の中心を「王室」に求めて得られず、更に「『革命政府』に求め『公安委員会』に求め終に『奈翁』に求めて漸く安んずるを得」(同前)るというように「左廻右転」したフランス革命を革命の模範とすることは出来ないとする。言いかえれば、 革命の最初から統一的権力の中心を見定め、一貫してその実現に邁進するのが革命の望ましい姿だというわけである。そしてその点で明治維新は模範に足ると北は言う。「是に反して日本の皇室は約1千年の長き貴族階級に対する痛恨の涙を呑みて被治的存続を忍びしもの。而して明治大皇帝は生れながらなる奈翁なりき」(同前)、「最初より萬世一系の奈翁に指揮せられたる維新革命は革命の理想的模範たるものに非ずや」(2-146頁)と。

 では中国革命の場合はどうなるのか。中国には革命に利用し得る伝統的権威は存在していないとみる北は、最初から一貫して共和政を目標とし、そのなかから政治的権威を生み出すための一貫した努力を中国革命に求めるのであった。「『東洋的君主政』は2千5百年の信仰を統一 して国民の自由を擁護せし明治大皇帝あり。『東洋的共和政』とは神前に戈を列ねて集まれる諸汗より選挙されし窩濶台汗が明白に終身大総統たりし如く、天の命を享けし元首に統治せらるゝ共和政体なりとす。近代支那と近代日本との相異は終身皇帝と万世大総統との差のみ。連綿の系統なき支那は日本に学びて皇帝を尋ぬることを要せず」(2-158頁)。いわば彼は、統一的権力の中心を創り出す一貫性において、明治維新を学ぶべき模範として、フランス革命を学ぶべからざる悪例として提示したのであった。

  ところで、このような対比が、すでに皇統連綿たる天皇の価値を前提としていることは明らかであろう。北は万世一系について、連綿の系統について、更にはまた国民の信仰的中心としての天皇について語り始める。即ち「万世一系の皇室が頼朝の中世的貴族政治より以来700年政権圏外に駆除せられ、単に国民の信仰的中心として国民の間に存したこと」は維新革命における天佑であった(2-136頁)とされ、また明治維新は、「維新の民主的革命は一天子の下に赤子の統一に在りき」(2-147頁)と規定しなおされるのであった。『国体論及び純正社会主義』におけると同一の、「民主的革命」の用語が使われていても、その内容は全く異質のものとなりつつあった。かつての『国体論』に於て北は、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」 (1-328頁)と断じ、皇統連綿たることを以て明治国家における天皇の地位を基礎づけることは、 維新革命に対する明らかな反革命であると斥けた筈である。そこでの彼は、維新革命によって天皇の性格が幕府・諸侯と同質な家長君主から公民国家の最高機関へと質的に変化したという点を力説し、維新の民主的性格について、「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主主義に似たりと雖も、天皇も国民も国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」(1−353頁)と述べていたことはすでにみた通りである。

  しかし今や北は、国家意識にめざめ、国民と共に闘った維新の英雄という天皇観を捨てて、国民の信仰的中心として伝統的権威を保持していたが故に本能的自由の乱舞する討幕運動を統御 し専制者たりえたという側面から天皇を捉えようとするのであった。「然らば維新革命を見よ。 王覇を弁じ得る『思考の自由』と覇を倒して王を奉ずべしとする『実行の自由』とが、其の階級間に歯されざるほどの最下級武士によりて現われ、而して封建制の旧権力が是れを弾圧せんとして却て白昼大臣の頭を切り取られたる程度にまで腐朽せし社会的解体なりき。所謂勤王無頼漢と称せられし切取強盗の本能的自由を恣にすることを得て幕府を倒したるもの、維新革命は自由を与へられたるが故に来れるものなり。而も明治大皇帝の革命政府は……明白に統一 的専制の必要を掲げたり。而して革命の目的は一天子の権力下に一切の統制なき本能的自由を 圧伏することに在りとして、秋霜烈日の専制を23年間に互りて断行したり」(2-144〜5頁)。ここに述べられている天皇のイメージは、伝統的権威の上に立った「窩濶台汗」とみることも出来るであろう。

  ともあれ、北が『国体論及び純正社会主義』の柱をなした強烈な国体論批判を大きく後退させていることは明らかであろう。彼はこの10年後(大正15年1月)、『日本改造法案大綱』に寄せ た序文、「第3回の公刊頒布に際して告ぐ」の中で「『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で1千頁ほどのものであり且つ20年前の禁止本である故に、一読を希望することは誠に無理であるが、其機会を有せらるる諸子は「国体の解説」の部分だけの理解を願ひたい」(2-361頁)と述べているが、それは公民国家論の部分だけを理解して欲しいということであり、もはやかつての国体論批判から離脱していることを告げる言葉とも読める。

  この北の天皇観の変化のなかには、おそらくは混迷をつづける中国情勢を見通そうとする執念と、維新の英雄をついだ病弱な天皇に対する思念とが二重写しに投影されていたことであろう。彼はもはや個人としての、或いは機関としての天皇よりも、国民を統合し得る伝統的権威 としての、いわば制度としての天皇により強い関心を寄せるに至っていたのではあるまいか。 天皇大権の発動により天皇を奉ずるクーデターの構想は、『国体論及び純正社会主義』から直接にではなくて、このような天皇観の変化を媒介として生み出されてくるように私には思われるのである。そしてその上に、『支那革命外史』における日本対外政策の「革命的一変」のイ メージを重ね合せた時、北はすでに「日本改造法案」の骨格をつくりうる地点に達していたのではなかったであろうか。(未完)

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(私論.私見)