1)
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「無用ノ浪人輩、特ニ上海香港ノ間ニハ支那ゴロヤ支那不通ガ多ク……折角ノ国交モ、其等ニヨリテ傷ツケラレ申スコトハ明カ」とし、「真ニ今日ノ急務ハ、先ズ浪人共ヲ取締ルコトニ候」と述べている。
同時に渡航の軍人について、「人格ノ傲慢不遜、又ハ主我的ナルハヨロシカラズ、思想ハ軍隊外ニモ通ジテ、非侵略主義ノ人タルヲ要件ト致度侯」と希望しているが、この要件は浪人についても期待されていたことであろう。11月10日(1911年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』436頁。
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2)
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しかし、この時期には孫文の勢力を排除することを求めていたわけではなかった。北は、孫文が革命に対して無力であると考えており、後に大総統の地位につこうとは全く予想していなかったにちがいない。1911年11月段階では次のように述べている。「孫逸仙ノ如キハ、内地ニハ全クノ無勢力ノ由、聞キテ驚入候。シカシコレハ、貴下等ノ胸中ニ止メテ一人デモ分裂セシメザルコトガ大事ニ存ジ候。」(11月13日、内田良平宛、同前438頁)、「孫君ノ愚ナル、何ゾ甚シキヤト申度候。……徒ラニ米国ノ遠キニ在リテ無用ノ騒ギヲ為シ……自家ハ康有為ト等シク、時代ノ大濤ヨリ役ゲ出サレツゝアルヲ知ラズ」(11月14日、清藤幸七郎宛、同前439頁)
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3)
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北は、三井・大倉・高田などが清朝側に武器売込をしていることは革命派にもわかっていることを指摘し、「僕ガ折角日漢ノ関係ヲ円満二シヤウトシテモ、後カラブチ壊シテヤラレテハ何ニモナラヌ。政府モ方針ガ一定シテル位ナラ、ウント腰ヲ据エテ、干渉デモ圧制デモシテハドーダ」(11月18日、内田良平宛、同前444頁)と憤激している。
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4)
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12月18日、内田良平宛、同前462頁。
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5)
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12月20日、内田良平にあてて、「杉山氏共ニ、山県桂公ニ説キ外務省ヲ圧迫セシメヨ」(同前462頁)と要請している。杉山氏は杉山茂丸。
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6)
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1月20日(1912年)、内田良平宛、同前464頁。
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7)
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1月25日、内田良平宛、「日本ノ優越権ハ彼ヲ成功セシムルコト、彼ヲ歓迎スルコトニアリ」(同前465頁)。なお1月4日、2月6日、3月17日の内田宛電信をも参照。同前646、466-8頁。
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8)
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2月 6日、内田良平宛、同前467頁。
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9)
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2月17日、内田良平宛、同前468頁。
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10)
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2月19日、内田良平宛、同前470頁。なお同じ日、宋教仁も内田にあてて、「貴国政府ノ責任者ヨリ満州独立ノ宣言ガ決シテ貴国ノ好ムトコロニアラザル事ヲ弊国ノ与論ニ普及スルガ如キ方法ヲ以テ言明セラレンコトヲ希望ス」(同前469頁)と打電しており、この宋の希望の実現をはかることを求めたものであった。
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11)
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3月13日、内田良平宛、同前473頁。
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