古屋哲夫氏の北一輝論1」考



 (最新見直し2011.06.04日)

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「古屋哲夫氏の北一輝論1」を確認する。「人文学報」の第36号(1973年3月)に掲載されたもののようである。これを転載し論評しておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


【「古屋哲夫氏の北一輝論1(人文学報第36号、1973年3月)」】
 は じ め に
 故田中惣五郎氏の著作『日本ファシズムの源流―北一輝の思想と生涯』が刊行されたのは1949年であった。それは最初の北一輝に関する研究書であると共に、その題名が、北についてのその後の一般的イメージを代表するようになった点でも、記憶さるべき著作であった。この北を「日本ファシズムの源流」とする見方は、現在でもある程度常識化しながら流通しているし、それは北をとりあげる場合の基本的観点を示してもいると今でも私は考えている。しかし、そのことは、すでに北の歴史的位置づけが確定されたということを意味してはいない。常識的に言っても、「源流」は必ずしも「主流」であることと同義ではないし、また「源流」と言っただけでは、それが唯一の、あるいは基本的な源流であるのか、複数のもののなかの一つのものという意味なのかも明かではない。

  まず、「大政翼賛会」に象徴されるような支配体制のファッショ化の観点からみれば、2・26事件において銃殺されてしまった北が「主流」に位置していたとは言えない。しかしまた、1919年(大正8年)大川周明にむかえられて上海から帰国した北、及び彼が持ち帰った『国家改造案原理大綱』(のち『曰本改造法案大綱』と改題刊行)が、その後のファッショ化を促す大きな衝撃力となったことも否定し難い事実であろう。とすれば、その間には如何なる関連が存在したのであろうか。問題は、体制化した日本ファシズムに対する北の特殊性とは何か、北が日本ファシズムの源流となりえた衝撃力とは何かという二つの観点を中心として解かれねばならないであろう。

  たしかに北の思想は、1937年文部省が国民教化をめざして発表した『国体の本義』などの立場からみれば、異端とされざるを得ないような性質を持っていた。その点について、2・26事件直後の1936年5月、将校閲覧用に作成された「調査彙報」第50号は『日本改造法案大綱』を次のように批判している。「要するに著者の根本思想は強烈なる社会民主主義の上に立ち、極端なる機関説を採り、天皇の神聖と我が国体の尊厳を冒涜し奉るものにして、表面尊皇の念を装へるも其内包する思想を検討するとき、彼の所謂国体観は絶対に我が軍人精神と相容れざるのみならず、日本臣民として正視するに忍びざるものと言ふべし1)」と。それは以後の日本ファシズムの主流からする基本的な北一輝批判の観点を代表するものでもあった。2)


1) 『北一輝著作集』第3巻所収、621〜2ページ、なお、『北一輝著作集』については、以下(3−621頁)の如く略記する。
2) 例えば、1941年4月、司法省刑事局「思想研究資料」特輯第84号として刊行された山本彦助検事の報告書『国家主義国体の理論と政策』も、北について「彼は、不敬不暹思想の抱懐者であって、我国体と,全く相容れざるものである」と述べている。(東洋文化社復刻、1971年、112頁)


 なるほど北は、すでに早く、1906年(明治39)に自費出版した最初の著作『国体論及び純正社会主義』において、自らの立場を「社会民主主義」と規定し、いわゆる国体論の妄想を打破せんと企てた。そこでは天皇は、帝国議会と共に国家の最高機関を構成する要素として性格づけられていた。そして北は20年後の1926年(大正15)、『日本改造法案大綱』の刊行にあたって、自分の思想は「二十年間嘗て大本根抵の義に於て一点一画の訂正なし」「一貫不惑である1)」と述べ、『国体論及び純正社会主義』の序文をその附録として収録したのであった。2)


1) 「第3回の公刊頌布に際し告ぐ」、大正15年1月3日付、2−360頁。
2) 北が、発売禁止のうきめにあった『国体論及び純正社会主義』に後年まで強い執着を持っていたことは満川亀太郎の次の記述からもうがじえる。「しばらくは猶存社に平和なる日が続いた。北君は朝夕の誦経が終ると、15年前の著作たる『国体論及び純正社会主義』に筆を入れるを日課としていた。」(満川亀太郎箸『三国干渉以後』1935年、平凡社、246頁)
おそらく北が、満川や大川周明らの招きで上海から帰国した1920年のことであろう。しかしこの時、北がどのような加筆、訂正を行ったか今のところ明かでない。


 北が一貫不惑であったかどうかは評価の分れるところであるが、彼の「社会民主主義」が日本ファシズムの主流と異質であったことは疑いないところである。同時にまた、北の「社会民主主義」は、世の一般の社会民主主義とも箸るしく異質であった。従って、北一輝研究は、まずこの異質の内容を明らかにすることから始めねばならなくなる。

  研究史の上から言っても、北一輝研究が盛んになったのはこの問題が提起されてからであるが、その場合、問題がファシズム主流からの異質性、とくに国体論=天皇制イデオロギーの批判者という観点を軸として立てられたことが特徴と言えた。そしてそれはファシストとしてのそれまでの北のイメージを180度転換させるような効果をもたらした。 最近の研究動向は、この観点から、北を日本ファシズムの問題から切り離しても通用する独自の思想家ないし革命家として再評価しようとする方向に傾いているように思われるのである。
ところでこの北一輝の新しいイメージを最初に提起したのは、久野収氏の「日本の超国家主義一昭和維新の思想1)」であった。久野氏は、まず北を「昭和の超国家主義の思想的源流2)」と位置づける。そしてこの「超国家主義」は「明治以来の伝統的国家主義」から切れていると同時に、第2次大戦期の支配的思想とも異質だというのでる。つまり氏は、明治の国家主義と、昭和の体制化したファシズム思想とを連続したものと捉え、「超国家主義」をその対極に置こうとしたのであった。

  そしてこの「超国家主義」は天皇を伝統のシンボルから変革のシンボルに捉え直すことで伝統的国家主義への反抗を試みたが、2・26事件の失敗によって、結局「明治以来の国家主義に屈伏し、併合された3)」とみるのである。

  このような位置づけから言えば、明治の国家主義に対立する点で、「超国家主義」と「民本主義」とは共通の性格を持つことになり、この論文は、北一輝と吉野作造をそうした共通性で捉えた点で、それまでの北一輝のイメージに深刻な衝撃を与えたのであった。氏は明治以後の状況について次のように述べている。「天皇中心のシステムは、だんだんと統合力、求心力をうしない、まだ外部からはみえなくても、内部から解体をはじめた。この時伊藤の作った憲法を読みぬき、読みやぶることによって、伊藤の憲法、すなわち天皇の国民、天皇の日本から、逆に、国民の天皇、国民の日本という結論をひき出し、この結論を新しい統合の原理にしようとする思想家が、二人出現した。主体としての天皇、客体としての国民というルールを逆転し、主体としての国民、客体としての天皇というルールを作ろうというのである。 一人は、吉野作造、他は、北一輝であった。吉野は、議会と政党の責任内閣を基礎として、このルールの実現をくわだて、北は、軍事独裁を通じて、このルールの実現をくわだてた4)」。そして、吉野の民本主義が大衆をとらえずに挫折したとき、代って北の超国家主義が舞台の正面に立ちあらわれたとみる久野氏は、その間に「土着的シンボルの回復」、「社会主義とナショナリズムの結合」といった問題をも示唆したのであった。


1) 久野収、鶴見俊輔共著『現代日本の思想』所収、岩波書店、1956年。
2) 同前139頁。
3) 同前181頁。
4) 同前138〜9頁。


  この久野氏の問題提起は、北一輝研究を大きく発展させることになった。1959年には北の主著を復刻した『北一輝著作集』第1巻・第2巻が刊行され、さらに72年には、その後松本健一氏らによって発掘された北の初期の論文や関係資料を集めた第3巻が続刊された。しかし同時にまた、その後の研究は、久野氏のシェーマを基礎とし、それを増幅するという傾向を持つに至っているように思われる。それは大まかに言えば、一つは氏の言及した「土着」の問題から、土着革命家としての北一輝像をつくろうとする傾向であり、もう一つは明治から第2次大戦期に至る支配的国家主義に対する批判者・反逆者としての北のイメージをさらに引きのばして、北のなかに戦後改革をも透視する進歩的側面を読みとろうとする傾向である。

  例えば鵜沢義行氏は、『国家改造案原理大綱』の思想を「天皇ファシズム」と規定しながらも、その「国民ノ天皇」の部分は、戦後の象徴天皇の「過渡的原理」を暗示するものと読み込んでいる1)。また村上一郎氏は北のなかに「天皇制を逆手にとって天皇制を打倒する方向2)」をよみとろうとし、河原宏氏は「土着革命の構想─北一輝が自らに課した課題、したがって彼の思想がかもしだす異様な魅力はかかってこの一点に要約されるであろう3)」と述べる。さらにG.M.ウィルソン氏は北を近代化の推進者だったとして次のように言っている。「北は、社会主義者たちが国民の中のナショナリズムに働きかけて、これを自分たちの支持源とすること、すなわち、国家とそのシンボルたる天皇を、『全国民』の要求に従うものにすることを望んでいた4)」「(北の国内改造案)は明らかに、近代の社会問題に対する一種の福祉国家的な考え方を示している5)」「北は近代化推進者(モダナイザー)であった6)」と。

  そして最後に松本健一氏の次の一節を引用しておこう。「北一輝の思想は今日なお生き残っており、国民国家をもつき動かす可能性をさえもっている。……なぜならば,北は明治国家を天皇制国家として把握せずに、近代国家の成立、つまり国民国家として把握したからである。だからこそ8月15日以後のいわゆる『民主憲法』によって、北の国家改造法案のほとんどが実施されるという状態が現出したのである。けれど、北の内在論理としての『超国家主義』は、この国民国家が他の国民国家と相剋し、争い、超国家─世界連邦にまで突き進むと説いており、それこそが北の超国家主義思想だったと思えてならない。つまり超天皇制国家であるのはいうまでもなく、 超国民国家でさえあったということだ(手段は帝国主義戦争であるにせよ)。それゆえに、国民国家の形態を法制度上でいちおう成就した今日でも、北の思想が有効である所以があるのであり、そこに北の怖ろしさがあるのだと思わざるをえない7)」。


1) 「昭和維新の思想と運動」日本政治学会編『政治思想における抵抗と統合』、若波書店、1963年、129頁。
2) 『北一輝論』三一書房、1970年、32頁。
3) 「超国家主義の思想的形成─北一輝を中心として」、早稲田大学社会科学研究所・プレ・ファシズム研究部会編『日本のファシズム』早稲田大学出版会、1970年、4〜5頁。
4) 『北一輝と日本の近代』、岡本幸治訳、勁草書房、1970年、44頁。
5) 同前、79頁。
6) 同前、83頁。
7) 『北一輝論』、現代評論社、1972年、60〜61頁。


 北の著作には、それだけをとり出せば、このように読みうる部分がないわけではない。すなわち、これらの北一輝像に共通しているのは、『国体論及び純正社会主義』における国体論批判と、『国家改造案原理大綱』巻1「国民ノ天皇」とを結び、そこを北の思想の本質的部分として高く評価しようとしている点にあるようにみえる。しかし反面でこの評価は、北の国体論批判が、彼の「社会民主主義」の不可欠の一環であることを軽視する結果におちいってはいまいか。すなわち、明治維新で社会民主主義が日本国家の本質となったとみる彼の社会民主主義論は、国体論批判なしには成立しえないのである。従って、橋川文三氏が「奇妙な問題」「わかりにくいところ1)」と指摘したような、彼の言う社会主義・民主主義の特異性と切り離して、国体論批判だけを強調するとすれば、北自身の思想とは「思想系を異にする」―北の用語を借りれば―北一輝像にたどりつくことにならざるをえまい。私には、最近の北一輝研究の動向は、北を日本ファシズムの主流から区別するのに急なあまり、北の社会民主主義がもつ、一般の社会主義・民主主義に対する特異性に十分な分析を加えていないように思われるのである。 しかし、この面こそが北の思想の最も本質的な部分であり、それがまた北を日本ファシズムの源流たらしめる要因となっているのではあるまいか。


1) 「国家社会主義の発想様式―北一輝、高畠素之を中心に」、日本政治学会編『日本の社会主義』岩波書店、1968年、124頁。


 この問題もまた久野収氏によって指摘されながら、しかしその後掘り下げられないままに終っているように思われる。1959年「超国家主義の一原型─北一輝の場合1)」を書いて、『国体論及び純正社会主義』を中心に再び北一輝をとりあげた久野氏は、今度は北の社会民主主義のなかに、後年の「ファシズム化」の要因を指摘しておられる。すなわち、ここでは、『国体論』の段階と『改造法案』の段階の北とを区別し、前者で進歩的であった北は、後者ではファシストとして再登場するという見解が示される。その天皇論、国家構造論で進歩的であった北の社会民主主義は、その国家観によってファシストに転化するとして、次のように述べられるのである。

  「北の天皇論、国家構造論こそは、……国家目的のための“君民同治”“君民共治”の姿、民主共和をイデーとして認める君民共治の姿を明治憲法のなかに読み抜いた思想だといってよく、この思想こそ明治以後の日本人の進歩的部分の“原哲学”をなす天皇観だといえるであろう。……天皇観、憲法観、国家体制論、社会的理想像において、あれほど進歩であった北が、後年、中国の独立革命での体験を通じ、『法案』によって、ファッシストとして再登場する秘密の一つは、実に彼の国家観にひそんでいたと考えられる2)。」

  しかし、北の思想において、天皇観、国家体制論は進歩的で、国家観はファシズムヘ通じるといった分離が可能なのであろうか。氏は北の国家観を分析されたのち、 北の論理からは、「個人のなかに含まれる体制構想的契機、一言でいえば民主(デモクラティック)=自由的契機(リベラル)は落丁しないわけにゆかない3)」と指摘される。しかしこの点は果して北の天皇観、国家体制論と無縁なのであろうか。北の天皇機関論が天皇の特権の内容を検討しようとはせず、またその公民国家論が、公民国家か否かの本質判定にとどまり、それ以上の制度論に深入りしようとしないのは、この「落丁」との関連を除いては理解しえないのではあるまいか。


1) 『近代日本思想史講産』第4巻所収、筑摩書房、1959年。
2) 同前、145−6頁。
3) 同前、147−8頁。


 私には現在の北一輝研究の状況は、はなはだ混沌としているようにみえる。そしてそれは北の思想のなかから、何かすぐれた点をとり出そうとする意図が先走ってしまった結果ではないかと思われる。

  本稿は、第1に北の思想において、さまざまな要素がどのような関連をもち、どのように内容づけられているか、それはどのような発展方向をもっているのかを追求すること、第2に北の思想が、日本ファシズムの形成に参与する諸グループにどのような影響を与えたのかを明らかすることをめざしている。それが、日本ファシズムの形成過程と性格を解明するために、さらにまた、かつて久野氏が提起された日本の国家主義の問題を検討するためにも、必要にしてかつ有効な作業となりうるのではないかと考えているからである。

 「1帝国主義と国家の必要」へ
 1、帝国主義と国家の必要

 1883年(明治16)佐渡ヶ島に生れた北は、日清戦争が開始された時12才であった。このことは、彼が戦争そのものと戦後の「臥薪嘗胆」のスローガンによって国家意識が大衆にまで浸透していった時代に、10代を過したことを意味している。またそれは同時に、日清戦争の敗北によって中国に対する列強の植民地侵略が急テンポで進められた時期でもあり、日本の国内でも、「支那分割論」「支那保全論」などといったテーマに世論の関心が向けられていた。このことは北の思想形成の1つの背景と考えておいてよいであろう。

  もちろん、それは北が10代において早くも強烈な国家主義者になったという意味ではない。彼は1900年(明治33)に『明星』が創刊されるとすぐさま投稿をはじめる文学青年であったし、また佐渡における自由民権の流を身近かにうけとり、同時に新しくおこってきた社会主義思想にも眼をむけていたことは、すでに田中惣五郎氏(『北一輝』増補版1971年、三一書房)や、松本健一氏(『若き北一輝』、1970年、現代評論社)などによって明らかにされている。そして特に内村鑑三に特別の敬意を払っていたことは、後で述べる「咄、非開戦を言ふ者」のなかの次のような内村についての叙述にもみることができる。

  「氏は十字架を指して人道の光を説きぬ、世が尊王忠君を食物にして私慾を働くの時に於て、氏は教育勅語の前に傲然として其の頭を屈せざりき、……実に内村鑑三の四字は過去数年間の吾人に於ては一種の電気力を有したるなり」(3−88頁)

  このような北の思想的出発点は、政治問題についての最初の論文「人道の大義」(佐渡新聞、明治34・11・21〜29)に掲げられている次のような改革項目からも推測することができる。

一、 天皇は一般民人を親近し拝謁を贈ふを得るの制度となすべし
  二、 臣民間の階級制度を廃止すべし
  三、 智識の分配を平等ならしむべきこと
  四、 議員撰挙法を改正して広義なる普通法となすべし
  五、 労働組合を組織して資本家利益の壟断を制し及び相互救護するの方法を講ずべし」
(3−5〜9頁)

 それは、自由民権や社会主義の主張を彼なりに整理したものとみることができる。そして、ここではまだ、国体論打破の志向はあらわれていない。「伏して惟みるに天皇は民の父母たり民は其子女に異ならず、是れ我が立国の大本にして万世不易の格言国情の列国に異なる所爰に在り」(3−5頁)として、「君臣の疎隔」を除去しようとする論法は、国体論の枠内のものであった。しかし後の北の思想展開との関連で言えば、ここで早くも国内改革と国際的発展を結合する視点がみられることに注意しておく必要があろう。

  彼は、さきにあげた諸改革の目的が「現在の散邦裂士を連合し……世界的大政府を建立するの一事」にあるとし、そのために「率先して人道の大義を唱へ以て世界列邦を指導」することが「君子国たる吾日本の以て畢世の任務となすべき所」と述べている。そしてその「順序」として「先づ自国の国力を養成し、文明の基礎を確立し上下相一致し君民相和同して、而る後始めて其志を一世に行ふべきのみ」とするのである。(3−4〜5頁〉すなわち、国力養成・文明の基礎確立→列国と異る君主国(日本の特殊性)→列邦に対する指導性→世界的大政府として、この「順序」を図式化することが出来る。そして国体論批判は、この「文明の基礎確立」のための試みとして出されてくるのであり、そのことによって日本の特殊性の問題は再検討せざるを得なくなったにちがいない。同時にまた1900年の義和団事件以後ロシアとの対立が激化しつつあるという現実のもとでは、戦争か平和かの問題を通して、列邦に対する指導性を確保 しながら世界的大政府に至る道程についても検討し直すことが必要となったと思われる。

  北が最初に国体論批判の声をあげたのは、明治36年6月25、26日にわたって「佐渡新聞」に掲載された「国民対皇室の歴史的観察(所謂国体論の打破)」と題する論説においてであったが、この連載が新聞社の側の自主規制によって2回だけで中止された一週間後には、彼は「日本国の将来と日露開戦」(明治36・7・4〜5)なる論説をもって、再び佐渡新聞に姿をあらわしている。この論説は「政界廓清策と普通選挙」(明治36・8・28〜30)をはさんで、「日本国の将来と日露開戦(再び)」(明治36・9・16〜22)と続き、更に「咄、非開戦を言ふ者」(明治36・10・27〜11・8)において、社会主義者の非戦論への反撃へと発展しているのである。つまりここでは日露開戦を唱えるような国家意識の高揚が国体論批判を生み出しているという点に注意しておきたい。すなわちこの関連がのちの『国体論及び純正社会主義』の基本的骨組みを形成したと考えられるからである。

  「国民対皇室の歴史的観察」は次のように書き出される。「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を載く、是れ国体の精華なりといひ、教育の淵源の存する所なりといふ。而して実に国体論なる名の下に殆ど神聖視さる。」(3−36頁)そしてこの神聖視される国体論は実は「妄想」にすぎないことを明らかにしようとする。

  そしてその意図を彼は次のように述べている。「迷妄虚偽を極めたる国体論といふ妄想の横はりて以て、学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其根源に於て腐敗毒しつゝあることこれなり。吾人が茲に無謀を知って而も其れが打破を敢てする所以の者、只、三千年の歴史に対して黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途とに対して、実に慚愧恐倶に堪へざればなり。」(3−37頁)

  彼は「事実をして事実を語らしめよ」(同前)と言い、日本国民は1000年にわたって皇室を暗黒の底に衝き落してきたというのが歴史的事実ではないかと指摘した。しかしこの論文は新聞社側の自発的掲載中止によって、ほんの序論部分が発表されただけで姿を消したのであったが、 その末尾は「吾人の祖先は渾べて『乱臣』『賊子』なりき。」(3―38頁)なる一文で結ばれていた。我々はこの未完の短文から、3年後の『国体論及び純正社会主義』のうち、「例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の殆ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なり」(1-296頁)、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」(1−328頁〉と述べられているような部分の構想がすでに出来あがっていたことを確認することができる。 しかし北の目的は、たんに歴史的事実をもって国体論の妄想にすぎないことを証明することだけではなかった。彼は国体論を排し、「以て我が皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざることを示さんと試む」(3−36頁)と述べているが、しかし彼の意図が君主と人民、あるいは国家と国民の一般的関係を解き明かすだけに止まるものでなかったことは、先の引用の「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」という言葉のなかにあらわれているように思われるのである。彼にとっては、国体論の打破はあるべき国家意識を明確にするための第一歩にほかならなかった。そしてその点において、次の日露開戦論につながっていたと言える。

  北の日露開戦論は、彼にとっては、日本のあるべき姿の模索という意味をもっていた。「露国に対する開戦、然らずむば日本帝国の滅亡」(3−73頁)−北は再論をふくめると8回にわたって連載された「日本国の将来と日露開戦」をこう書き出している。この論説において彼は、まず世界的な帝国主義の潮流を認識し、日本もまた積極的にこの潮流に加わりこれを突き抜けてゆかねばならないと主張する、彼はすでに、かつて主張した世界的大政府の下での世界平和─「天下ハ乃ち泰平にして交戦は祖先の未開を証する話柄となるに至らん」(3−4頁)─は、帝国主義の段階を経過することなしには実現しないとの考えに傾いていたと思われる。

  彼は、「侵略的意味に解されたる民族的帝国主義は現下世界列強の理想なり」(3−73頁)と世界の現状を認識する。そしてこの帝国主義の原動力を「人口の増加」に求めた。「見よ。世界は電気と蒸気とを以て全く縮少せられたり。人口は恐るべき勢を以て増加しつつあり。この増加する人口がこの縮少されたる世界に於て其の利益と権利とを争ふ。帝国主義が多くの場合に於て血と火とを以て主張さるゝ当然のことに属す。」(3−78頁)北はこの「人口の増加」を基本におく見方からさらに帝国主義を「人種的競争」と捉えるに至るのである。そして「吾人は実に人種的競争の、砲火に於てか平和に於てか、終に吾人の時代に於て結着の勝敗を見ざるべからざるを想ふ」(3−4頁)、とすれば、「来るべき人種的大決戦」(同前)に勝ち残るための条件をさぐらねばならなくなる。

  すでに国体論を妄想としりぞけていた北は、まず「吾人は不幸にして甚だ優等なる人種に非ざること」を率直に認識せよと言う。日本の独立がおかされなかったといっても、それは「単に四囲の風浪と鎖国政策との為めに穴熊の如き冬眠的状態に於て僅かに」維持されたにすぎず、その結果として「人種の政治的法律的経世的能力無く」、残されたのは「小さき、醜くき、虚弱なる、神経質なる、早熟早老の吾人」(同前)にほかならない。さらばと言って、経済的資源があるわけでもなく、欧米帝国主義のように「経済的帝国主義」に立って商工的戦争を行うだけの力もない。「米大陸といひ、西比利亜といひ、濠州といひ、印度といひ、亜弗利加といひ、渾べて皆英米仏独露の列強によって握らるゝ者。彼等が是等豊饒にして広大な領土により、関税の塁を築きて其激甚なる経済的戦争を戦ひつゝあるの時。粟大の島国が奈何ぞ商工に於て立 を得むや」(3-79頁)つまり「この島々に籠城して農業立国といひ商工立国といひ早晩の滅亡を察せず」(3−82頁)というのである。

  では、日本が帝国主義的に発展するための条件は何なのか。北は「三千年間不断の乱世と、戊辰、西南、日清、北清の戦争とを以練磨されたろ戦闘的特性」(3−84頁)があるではないかと答える。日本人は「現今の世界に於ては最も能く戦争に長ず」(3−74頁)と。彼の結論は戦争しかありえなかった。「吾人は貧と戦闘の運命を荷いて二十世紀の日本に生る」(3−77頁)。三国干渉以来の「臥薪嘗胆」のスローガンによる軍備拡張の下で、10代の少年期を過し終えたばりの北にとって、対露戦準備は進捗し、軍事情勢は我に有利と思われた。「実に千歳の一遇なり」(3−83頁)、「吾人は言ふ、戦争のみ、戦争を以て帝国主義を主張するにあるのみと。」(3−81頁)

  北が戦争に期待したのは広大な領土の獲得であった。彼は帝国主義の本来的なあり方は経済的帝国主義だと考えていた。そして日本も帝国主義の列に加わるためには、領土の拡大が先決だというのである。「経済的帝国主義の戦争には領土てふ資本を要す」, 「吾人は残酷なる経済的帝国主義の敗者たるに堪へず。……帝国主義の残酷を免れむとする、或る場合に於ける方法として侵略は止むべからざるに非らずや。……吾人は商工的戦争を為すの前、前駆として必ず先づ傾土の拡張をなさゞるべからず」(3−82頁)。彼は対露戦争の勝利によって、「満州・朝鮮、而して西比利亜の東南部」を獲得した日本の将来を夢想する。それによって「来るべき人種的大決戦に於て再び成吉〔思〕汗たり、タメーラーンたる」(3-74頁)ことも可能になるであろうと。そしてそれが黄色人種のためにもなるであろうと。「吾人は嘗て清国を打撃して同胞の黄色人種を奴隷の境遇に陥れぬ、然らば吾人は其の罪滅ぼしとして其打撃を進で露に下さゞるべからざるに非ずや。……日本帝国の飛躍、黄色人種運命の挽回、今や三十歳の小児は世界歴史に向って最も壮厳なる頁を綴らむとす。吾人五千万の国民はこの光栄に対して大胆に覚悟する所なかるべからず」(3−84頁)。

  こうして帝国主義者として立ちあらわれた北も、自らは同時に社会主義者であるとの自覚を捨てることができなかった。

  従って、彼の尊敬した内村鑑三をふくめて、社会主義者たちが非戦論の主張を声高く主張しつづけるという現実に直面したとき、改めて社会主義と帝国主義の関係をどう理論づけるかの問題に直面しなければならなかった。そしてその過程で、単純明快な帝国主義の主張を微妙に修正しなければならなくなっていったように思われる。

  明治36年10月27日から11月8日まで9回にわたり、佐渡新聞に「咄、非開戦を言ふ者」を連載した北は、まず自らの立場を次のように述べている。「吾人は明白に告白せむ。吾人は社会主義を主張す。社会主義は吾人に於ては渾べての者なり。殆ど宗教なり。……而も同時に、吾人は亦明白に告白せざるべからず。吾人は社会主義を主張するが為めに帝国主義を捨つる能はず。否、吾人は社会主義の為めに断々〔乎〕として帝国主義を主張す。吾人に於ては帝国主義の主張は社会主義の実現の前提なり。吾人にして社会主義を抱かずむば帝国主義は主張せざるべく。吾人が帝国主義を掲げて日露開戦を呼号せる者、基く所実に社会主義の理想に存す」(3−86〜7頁)。彼にとっては、帝国主義から人種的大決戦への道は、社会主義をもってしても避けることの出来ない世界史の必然と考えられたのであった。そこで彼は、「帝国主義の敵は社会主義なり、社会主義の敵は帝国主義なり」とする「世界を通じての定論」(3−87頁)に挑戦を試みるのである。

  非戦論を唱える社会主義者に対する北の批判は、2つの論点に要約することが出来る。すなわち、第1には国家の必要という問題であり、第2は帝国主義における正義という観点である。 まず第1の問題について、北は自らの社会主義を次のように説明する。「吾人の社会主義は…… 無政府主義に非らず。社会主義の実現は団結的権力を恃む。国家の手によりて土地と資本との公有を図る。鉄血によらず筆舌を以て、弾丸によらず投票を以て。─生産と分配との平均、即ち経済的不公平を打破することが是れ吾人の社会主義なり。」(3−90頁)この限りでは、北は社会主義の実現のために権力の獲得が必要であることを強調しているにすぎないようにみえる。しかしここから彼の議論は国家一般へと飛躍する。彼の文章は次のようにつづく。「故に社会主義は必ず国家の存在を認む。故に国家の自由は絶対ならざるべからず。故に他の主権の支配の下に置かるべからず。故に国家の独立を要す」(同前)と。

  ここで「国家の自由」という言葉にどのような内容が含ませられているのか明らかでない。しかしそれがたんに「国家の独立」と等置されているものでないことは、次の一文からも推測される。すなわち彼は、社会主義の目的は「筆舌を以て国家の機関を社会主義の実現に運転せむとするに在り、……投票を以て国家の羅針盤を社会主義の理想に指導せしむとするに在り」とし、「科学的社会主義は機関の破壊と羅針盤の粉砕とを最も恐る。機関の破壊と羅針盤の粉砕とを企てる者は渾べて社会主義の敵なり。無政府党は社会主義の敵なり、国家の機関と国家の羅針盤とは社会主義者の全力を挙げて護らざるべからざる所なり。」(3-91頁)というのである。ここでも「国家の機関と羅針盤」とは何を指すのか説明がない。しかしその言わんとする所は、国家は人為的につくりえないものであり、国家の連続的な発展の上にしか社会主義も成り立ちえないという点にあったのではないかと思われる。勿論まだそのような方向が明示されているわけではなく、北自身もまた国家について明確な主張を持ち得ていなかったようにみえる。例えば、前掲引用文のすぐ前には 「固より社会主義の実現されたる状態が、今日の国家なる称呼と全く別物なるは言ふまでもなしと雖も、其の実現の手段として国家の手を煩はさゞるべからざるは亦論ずるの要なし」(同前)と書いている。これでは国家が社会主義のための「手段」であるようにみえるのであるが、このような表現は以後は全く使用されなくなっている。また、社会主義の下で国家が全く別物になるということは、社会主義によって国家がつくり変えられるということではなく、国家の発展を促進し進化させるというニュアンスで主張されたものと思われる。この論稿でも「人類が千年二千年の後進化して政府を要せざるに至らば無政府主義は夢想にあらざるべし」(3−90頁)と述べているのであり、それはやがて、「国家の進化」という方向に展開されてゆくことになるのであった。

  従って、北の言う「国家の独立」とは国家の発展と同義であり、その国家とは現実の明治国家にほかならなかった。彼の社会主義は明治国家の発展上にえがかれていたと言ってよい。そう理解しなければ、「満韓の併呑さるゝの日は、乃ち帝圃の独立の脅かさるるの時なり。帝国の独立の脅かさるゝの時は乃ちスラヴ蛮族の帝国主義に蹂躙さるゝの時なり。」(3−91頁)との主張を彼の社会主義や国家についての主張と結び合せて理解することは出来なくなろう。

  しかし、国家の独立と発展を肯定するとしても、それはただちに侵略的帝国主義を是認することを意味しはしない。さきには帝国主義を宿命としてうけいれ、「侵略」も止むべからずとした北は、ここで「国家の正義」という観点を引き入れてくる。彼はまず日本の戦争を国際的無産者の階級闘争になぞらえることで、社会主義者を納得させようと思い至ったのであった。「社会主義者なる吾人が日露開戦を呼号するはスラヴ蛮族の帝国主義に対する正当防禦なり。謂はゞ富豪の残酷暴戻に対して発する労働者の応戦と些の異る所なき者なり。」(3−87頁)この主張はのちのファシズムに於ける「持てる国」と「持たざる国」の論理につながっていると言えよう。つまり、北はさきには領土拡張によって「持てる国」になることが、帝国主義の商工的戦争に加わるための必須の課題であると説いたのであったが、今度は「持たざる国」の「持てる国」に対する挑戦を正義」の名によって擁護しようとしているのである。従ってここでは、その反面で「持てる国」の帝国主義を不正義として倫理的に断罪することが必要となってくる。そしてそこではさきの人口の増加→商工的戦争を軸とする帝国主義の一般的把握は、正義─不正義という倫理的価値づけによっておしのけられ、社会主義者の任務もこの帝国主義の倫理的価値に対応して異ったものにならねばならないとされるのであった。

  彼は「世界の社会主義者が、国民的利益線の膨脹と国権的勢力圏の拡大とを事とする帝国主義に反対することは事実なり」(3−92頁)と認める。 そして欧米帝国主義国における社会主義者が自国の帝国主義に反対するのは「大いに理あり」とするのである。すなわち、ロシアの帝国主義はピーター大帝の旧き夢想を追う「血を好む軍人と事を悦ぶ外交家の挑発」によるものであり、アメリカの帝国主義は「富豪資本家の私利私慾を図る」ものにほかならない。またヨーロッパ大陸の帝国主義は「皇帝や政治家の偏侠にして卑小なる名利の心と、旧思想の凝結せる国民の、国家的浮誇と国家的嫉妬の情との為めに、関税の城壁を築き海陸の防備を設け、全欧州をして尚戦争の恐怖より免かる能はざらしむる者」(3−93頁)なのであり、社会主義者がこれに反対するのは当然だというのである。

  欧米帝国主義をこのように規定した北は、日本帝国主義を次のように対置した。「吾人の帝国主義は国家の当然の権利─正義の主張のみ。外邦の残酷暴戻なる帝国主義の侵略に対して国家の機関と国家の羅針盤とを防禦するのみ。狭隘の国土より溢れ出づる国民をして外邦の残酷暴戻なる帝国主義の脚下に蹂躙せしめず、国家の正義に於て其の権利と自由とを保護するのみ。吾人の帝国主義とは乃ち是れなり」(3-94〜5頁)。さきには帝国主義一般の起動力の如くに説かれた「人口の増加」は、ここでは日本帝国主義の特殊性として、その正当化の根拠に転化させられているのである。そしてそれにもまして重要なことは、北における社会主義者は、国家の倫理的価値に従属させられているという問題であろう。彼は「日本に於ける社会主義者は、其の社会主義の為めに断じて帝国主義を執らざるべからず」(3−93〜4頁)として、社会主義者に日本帝国主義の正義への従属を求めているのであった。そして更にこの正義」を媒介として社会主義と帝国主義を内的に関連づけようと試みながら次のように書いている。

  「社会主義は『国民』の正義の主張なり。帝国主義は『国家』の正義の主張なり。経済的諸侯の貧慾なる帝国主義は、労働過多と生産過多とを以て国民の正義を蹂躙す、社会主義の敵なる所以なり。而も其の経済的諸侯の侵入に対して国家の正義を主張する帝国主義なくば、国民の正義を主張する社会主義は夢想に止まるべし。」(3−96頁)

  北が「国家の正義」を「国民の正義」に先行するものとして捉えようとしていることは明らかであろう。自ら社会主義者と称する北が、国内における「国民の正義」がすでに完全に実現されていると考えていた筈はないのだから。

  以上のような日露戦争前夜の北の言論をみるとき、社会主義者の非戦論に対する批判が彼の思想形成の上で大きな役割を果したと考えることが出来る。彼はそこで提起した問題に固執することによって、その後の思想を展開したといってもよい。問題は社会主義と帝国主義という形で提起されたけれども,その核心は「国家」の問題に他ならなかった。彼は社会主義者として、或いは反国体論者として現実の明治国家を批判したけれども、他方では帝国主義者として、その同じ明治国家の膨脹を擁護した。この間の矛盾を解決するためには、明治国家を本質的に肯定しうるものとして価値づけることが必要であった。彼自身もまた、この問題の解決を自分にとって切実な問題として考えたにちがいない。「咄、非開戦を言ふ者」の末尾を「社会主義と帝国主義とにつきての吾人の態度は、他日巨細に渉りて披瀝すべし」(3−98頁)と結んだこ とは、彼のそのような思いをあらわしたものに他ならなかったであろう。彼は、社会主義と帝国主義、国家の正義、明治国家の性格、国体論の反動的役割などの問題を統一的に説かんが為めに、国家論の構築を志したにちがいない。3年後の『国体論及び純正社会主義』はこの課題への彼なりの解答であった。日露戦争のさなか、明治37年夏に上京した彼は、日露講和条約成立の翌月、佐渡新聞に「社会主義の啓蒙運動」(明治38・10・13〜21)を発表、この著作が完成しつつあることを示していた。

 「2社会の進化と個人」へ
 2、社会の進化と個人

 『国体論及び純正社会主義』は5編16章より構成されているが、その編別は次のようである。
 第1編 社会主義の経済的正義(3章)
 第2編 社会主義の倫理的理想(1章)
 第3編 生物進化論と社会哲学(4章)
 第4編 所謂国体論の復古的革命主義(6章)
 第5編 社会主義の啓蒙運動(2章)

  つまり、第3・4編でこの著作の3分の2近くを占めているのである。このうち第4編は、いわゆる国体論の妄想を打破して明治国家の性格を明らかにしようとするものであり、この著作の中心部分をなすことは言うまでもないが、第3編ではそのための基礎として自らの「進化論」を確立することが意図されているのである。

  北は、当時の流行思想ともいえる「進化論」によって、社会主義の問題を解き明かそうと試みたのであった。彼は「進化」を、ただ単に環境への適応による生物の変化としてではなく、より高い価値が実現されてゆく過程として捉えた。従って人類の歴史もまた「進化」として捉えられ、この人類の「進化」を如何にすれば積極的に推進することが出来るかを問うことになるのであった。彼が「社会主義とは人類と言ふ一種属の生物社会の進化を理想として主義を樹つる者なり」(1-97頁)というとき、そのようないわば倫理的進化観が前提とされているのであった。

  彼は「生存競争」の概念を利用して、社会科学の基礎理論をつくろうと試みた。勿論そのためには、生存競争によって人類が発展することを認めただけでは不十分である。彼は人類社会の発展段階を決定づける基本的な力を生存競争のなかに見出し、社会のあり方が、生存競争のあり方によって規定されていることを明らかにしようとしたのであった。そのためには、生存競争についての彼なりの理論をつくることが必要であった。彼はまず進化の程度に従って生存競争の内容も異ってくると想定した。つまり生存競争の内容そのものも進化するというのである。

  彼は「今の生物進化論者は人類の生存競争も獣類の生存競争も其内容に等差無き者」(1-102頁)と考え、またその理論は「恰も人類を進化の終局なるかの如き独断の上に組織」(1-101頁)されていると批判する。つまり「吾人々類は将来に進化し行くべき神と過去に進化し来れる獣類との中間に位する経過的生物」(同前)であることが忘れられているというのである。そして彼は、「進化の階級」1)によって、生存競争の内容が異ってくるという主張を対置した。


1) 後年の『国家改造案原理大綱』(大正8年)の「結言」のなかに「歴史ハ進歩ス。進歩二階級アリ」という一節があるが、大正12年に『日本改造法案大綱』と改題刊行した際には、この「階級」の語を「階梯」と訂正している。(2ー280、350頁参照)従ってこの例にならえば、「進化の階級」も「進化の階梯」に改められることになったであろう。

  すなわち、人類と獣類とは「進化の階級」が異るのであるから、弱肉強食、優勝劣敗などと言っても、強者・優者の内容も異っている、「人類の生存競争は死刑を以て不道徳の者を淘汰しつつある如く其の内容は全く道徳的優者道徳的強者の意義なり」(1-103頁)と言うのであった。そしてここから北は、更に積極的に生存競争の内容が進化の階級を決定するという論点を導き出していた。

  彼は「食物競争」と「雌雄競争」を「生存競争の二大柱」としているが、そのあり方の変化を通じて、進化はより高い階級へと進んでゆくと考えた。 例えば彼は、「人類」の将来に、「類神人」「神類」というより高い進化の階級を想定するのであるが、そこに至る過程は、食物競争の重圧を排除して雌雄競争を中心とするような、生存競争の内容の変化によって実現されるものと考えていた。それは、生存競争の内容の進化が進化の階級を高めてゆく基本的な力であるという考え方を示すものにほかならないであろう。彼はその過程で更に排泄作用や生殖作用の廃滅という肉体的進化についても述べているが、ここでは彼のそうした空想の後をおう必要はなく、人類進化の終極に「人類」を想定することによって、進化が倫理化され、美化される傾向がより明碓になっていることを指摘しておけば足りるであろう。

  さて、一般に生物の生存競争の内容が進化の階級に対応して異り、生存競争の内容の進化が、進化の階級を高める基本的な力であるとすれば、次には、人類の生存競争はどんな内容を持ち、どんな要因によって進化するのかが問われねばならないであろう。北はさきの引用では、人類の生存競争の道徳性を強調しているようにみえるのであるが、しかし彼はまた「道徳的行為とは社会の生存進化の為めに要求せらるゝ社会性の発動なり」(1-182頁)とも述べているのであり、問題は結局、生存競争における社会性という点に還元されてくるわけである。北はまずこの問題を「生存競争の単位」という一般的な形で提起していた。彼は再び「今の進化論」の批判から始める。

  「吾人は信ず、今の生物進化論は生存競争の単位を定むるに個人主義の独断的先入思想を以てする者なりと。」(1-103頁)

  すなわち彼は、生存競争を一般的に個々の生物の間の競争と考えるのは誤りであって、生物の進化の程度が進むに従って、生存競争の単位は拡大するというのである。つまり「下等生物の生存競争の単位は最も低き階級の個体即ち個々の生物単独の生存競争なるに高等動物に進むに従ひ其の競争の単位たる個体の階級を高くして社会と言ふ大個体を終局目的とする分子間の相互扶助による生存競争に進化する」(1-109頁)と。そして彼は、生存競争に於けるより拡大した単位を、より高級な個体」と考えるのである。従って、行動の単位としての集団を拡大し、その結合を強化することが、進化の「階級」を高める力となるという結論が導かれてくる。

  「即ち、相互扶助による高級の個体を単位として生存競争をなす菜食動物は、分立による下級の個体を単位とする肉食動物に打ち勝ちて地球に蔓延せりと言ふことなり。……喰人族の野蛮人も其の喰ふ処の肉は個人間の闘争によりて得るに非ずして、生存競争の単位は少くも戦闘の目的に於て協同せる部落なり。最も協同せざる肉喰動物と雌も生存競争の単位は如何に少くも相互扶助の雌と子とを包合せる聊か高級の個体に於て行はれ、最下等の虫類たる蚯蚓の如きすら土中に冬籠る必要の為めには二三相抱擁するが如き形に於て暖を取るの共同扶助を解すと言ふ。生物の高等なるに従ひて愈々個体の階級を高くし、鳥類獣類の如き高等生物に至りては殆ど全く人類社会に於て見るが如き広大強固なる社会的結合に於てのみ見出され、社会的結合の高き階級の個体を単位として生存競争をなす。而して此の高き階級の個体を単位としての生存競争は其個体の利己心、即ち社会的利己心、更に言ひ換ふれば分子間の相互扶助によりてのみ行われ、個体の最も大きく相互扶助の最も強き生物が最も優勝者として生存競争界に残る。人類の如きは其優勝者中の最も著しき者の例なり」(1−108頁)

  要するに北は、生存競争の単位としての社会が自らを拡大、強化してゆくことが、人類進化の原動力になると考えたのであった。そしてこれまで結果として実現されてきた進化を意識的に目的として推進することを、自らの社会主義の基本的な立場としたのである。彼は言う。「吾人は社会主義を生物進化論の発見したる種属単位の生存競争、即ち社会の生存進化を目的とする社会単位の生存競争の事実に求むる者なり」(1-103頁)と。

  しかし、社会の拡大・強化は如何にして実現されるのか。北はこの問題に答えるために社会と個人との一般的関係を明かにしようとする。彼が自らの立場を「純正」社会主義と名づけたのは、この問題の把握についての独自性を自負したからにほかならなかった。

  彼はこれまでの思想が、社会か個人かのいずれかに偏っていたと批判する。すなわち「社会の中に個人を溶解する」「偏局的社会主義」や、「思想上に於てのみ思考し得べき原子的個人を終局目的として、社会は単に個人の自由平等の為めに存する機械的作成の者なりと独断せる」「偏局的個人主義」(1−88〜9頁)の双方から自らの社会主義を区別しようとするのである。彼はこの両者の止揚をめざして次のように言う。

  「社会主義は固より社会の進化を終局目的として偏局的個人主義の如く機械的社会観を以て社会を個人の手段として取扱ふ者に非ず、而しながら社会進化の目的の為めに個人の自由独立を唯一の手段とする点に於て個人主義の基礎を有する者なり」(1-91頁)

  これまで述べてきたことからも明らかなように、北は「社会主義」を第一義的には「社会」 に重点をおく「主義」として理解していた。しかし同時にこの「社会」は「個人の自由独立」 なくしては発展し得ないと主張するのである。「緒言」でも「社会の部分を成す個人が其権威を認識さるゝなくしては社会民主主義なるものなし。殊に欧米の如く個人主義の理論と革命とを経由せざる日本の如きは、必ず先づ社会民主々義の前提として個人主義の充分なる発展を要す」と述べている。ではこの「個人の自由独立」や「個人の権威」の発展と、生存競争の単位 としての社会の強化・拡大とはどのような関係に立つのであろうか。ここで確認しておかなく てはならないことは、北における「個人の自由独立」は原理的な意味を持つものではないと言 う点である。つまり北にとって基本的なことは、「個人の独立自由」は「社会進化」のための「唯一の手段」だということである。つまり、それは最初から「社会進化の手段」という形に於てしか認識されていないのであった。

  そして彼は、社会的な拘束力がいかにして超越的な有機体に転化するのかを説明することなしに、社会は個人を分子とする高次の有機体であると主張するのであった。「人類の如き高等生物も生殖の目的の為めに陰陽の両性に分れたる者なるを以て、是れを男子として或は女子として、又親として、子として、兄弟としてそれぞれ一個体たると共に、中間に空間を隔てたる社会と言ふ一大個体の分子なり」(1-104頁)つまり個人も社会も共に一つの「個体」として、同じ次元で扱おうとするのであり、そこで「分子」とは集団の構成員という意味をこえて、一つの有機体の部分という意味を与えられているのである。 そして彼が、個人と社会とを共に「個体」だと主張するのは、個体は「個体としての意識」をもつ、つまり、社会には社会としての意識があることを主張したいがためなのである。

  「一個の生物(人類に就きて言へば個人は)−個体として生存競争の単位となり、一種属の生物は(人類につきて言へば社会は)亦一個体として生存競争の単位となる。而して個体には個体としての意識を有す。―個人が一個体として意識する時に於て之を利己心と言ひ個人性と言ひ、社会が一個体として意識する時に於て公共心と言ひ社会性と言ふ。何となれば、個人とは空間を隔てたる社会の分子なるが故に而して社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会とは同じき者なるを以てなり。即ち個体の階級によりて、一個体は個人たる個体としての意識を有すると共に、社会の分子として社会としての個体の意識を有す。更に換言すれば、吾人の意識が個人として働く場合に於て個体の単位を個人に取り、社会として働く場合に於て個体の単位を社会に取る、吾人が利己心と共に公共心を、個人性と共に社会性を有するは此の故なり。―即ち公共心社会性とは社会と言ふ大個体の利己心が社会の分子としての個人に意識せらるゝ場合のことにして、分子たる個人が小個体として意識する場合の利己心も其の小個体が社会の分子たる点に於て社会の利己心なり。 故に利己心利他心と対照して呼ぶが如きは甚だ理由なきことにして寧ろ大我小我と言ふの遙かに適当なるを見る。」(1-105頁)
この社会論の中心点は、「社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に個人と社会とは同じき者」という点にみられる。だがここではまだ社会は、個人の公共心=社会の利己心という形で、つまり個人の意識の一部分にその姿をかいまみせているにすぎず、個人を超える社会の個体性は明らかになってこない。そこで北は、個人の公共心を規定する「道徳」に社会をみ、道徳の展開のなかに、個人と社会、社会進化の動態をつかまうとするのである。

  「道徳の本質は本能として存する社会性に在り。而しながら道徳の形を取りて行為となるには先づ最初に外部的強迫力を以て其の時代及び其の地方に適応する形に社会性が作らるることを要す。道徳とは此の形成せられたる社会性のことにして、……地方的道徳時代的道徳として地方を異にし時代を異にする社会によりて形成せられたるものとして始めて行為に現はる。……然るに社会の進化するに従ひて此の外部的強迫力を漸時に内部に移して良心の強迫力となし、惨酷なる刑罰によりて臨まれずとも又無数の神によりて監視されずとも、良心其れ自体の強迫力を無上命令として茲に自律的道徳時代に入る。他律的道徳と自律的道徳とは人の一生に於て小児より大人に至る間に進化する過程なる如く、社会の大なる生涯に於ても其の社会の生長発達に従ひて他律的道徳の時代より自律的道徳の時代に進化する者なり。」(1-300頁)

  ここで自律的道徳とは、さきの「個人の権威」、「個人の自由独立」に対応するものであることは明らかであろう。すなわち、自律的道徳が進化の過程で形成されたとみることは、自律した個人が歴史のある発展段階ではじめて登場してくるという把握を基礎としているわけである。従って北は、人類の進化を社会の拡大強化と、個人の自律化との二重の構造で捉えることとなるのである。彼はこの構造を、「同化作用」と「分化作用」という用語で説明しようとした。「社会の進化は同化作用と共に分化作用による」(1-119頁)と。

  彼はまず原始時代に個人意識の発生しない部落を想定する。そしてこの部落が「衝突競争の結果として征服併呑の途によりて同化せられ、而して同化によりて社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競争とな」(1-120頁)るというのである。つまり進化の歴史は「同化作用によりて小さき単位の社会たりしものより漸時に其の単位を大社会となし、又分化作用によりて最初には部落若しくは家族団体の如き個人より大なる単位に分化したるものが、更に小さく分化して個人を単位となして愈々精微に分化的競争をなすに至れり」(1-124頁)ととらえるのである。

  北の社会進化論は、この同化=分化の論理で言えば、自然成長的な同化=社会の拡大によって、個人へと向う分化が生れ、その結果、自律的な個人が形成されることによって初めて、人類は意識的に同化作用を推進し、従って進化の過程を自らの力でおし進めることが出来るようになるということにほかならないであろう。つまり自律的個人の形成は人類史の第一の画期をなすものなのである。

  彼がさきにみたように、「個人の自由独立」が社会進化の「唯一の手段」であると述べたのは、このような把握を前提としてのことであった。彼が「個人の自由独立」を強調したことは、一方における個性の自由な発展と他方での道徳への自律的な同化を、矛盾なく展開し得るものと考えたからであり、社会主義はまさにこの矛盾なき展開の道を拓きうると想定したからであった。そして社会主義の実現による未来への進化は次のようにえがかれるのである。 「物質的文明の進化は全社会に平等に普及し、更に平等に普及せる全社会の精神的開発によりて智識芸術は大いに其水平線を高む。経済的結婚と奴隷道徳とは去り、社会の全分子は神の如き独立を得て個性の発展は殆ど絶対の自由となる。自我の要求は其れ自身道徳的意義を有して社会の進化となり、社会I性の発展は非倫理的社会組織と辿徳的義務の衝突なくして不用意の道徳となる。」(1-181頁)

  つまり北は、 社会主義を「社会性を培養する社会組織」とみ、そこに於てはじめて「次なる行動が凡て道徳的行為」となる「無道徳の世」が実現され、同化=分化の両作用が合体し進化の新しい段階が開けると考えたのであった。そしてこのような進化を目的とする北は、同化と分化の同時的推進を道徳的義務として要求することになるのである。「道徳とは社会性が吾人に社会の分子として社会の生存進化の為めに活動せんことを要求することなり。故に吾人が吾人自身を社会の一分子として(小我を目的としてに非らず)より高くせんと努力することが充分に道徳的行為たると共に、多くは他の分子若しくは将来の分子の為めに、即ち大我の為めに小なる我を没却して行動することをより多く道徳的行為として要求せらろ。」(1-184頁)

  繰り返して言えば、この「道徳の要求」が、「個人の自由独立」によって達成されると考える点で、北は自らの思想の独自性を主張したのであった。従って外部からの強制は排されねばならなかった。彼が天皇は倫理学説を制定することが出来ないとして教育勅語を否認し(1-269、357頁)、近代国家は「良心の内部的生活に立ち入る能はざる国家」(1−368頁〉であることを原則とすると主張したのもこの点にかかわっていた。

  だがこの個人の独立・権威の強調、従って教育・啓蒙の重視は、あくまで北の理論の一つの 側面にすぎなかった。彼は決して個人の自由・独立を原理として、社会の再組織を考えているわけではなかった。自律的個人の小我は、社会の大我に吸収されることが予定されているのである。しかし社会の大我とは何か。それを道徳として捉えてみても、社会は個人を拘束する力であることが説明できるだけで、個人を超える主体としての社会はあらわれてこない。北がここで用意していたのは「国家人格」の理論であった。それは比喩的に言えば、社会を肉体とし国家を人格とする見方とも言えるもののように思われる。さきに述べた日露戦争前の彼の思想展開をみるとき、彼が進化論で自らの思想を基礎づけようとしたのは、このような社会=肉体、国家=人格の構想を思いついたからではなかったであろうか。

  個人の自律化を人類史の第一段階とした北は、次に「国家人格」の顕在化を人類史の第二段階として設定しようとするのであった。

 「3公民国家=社会民主主義論」へ
 3、公民国家=社会民主主義論

 北の理論に於て、社会と国家の関係があいまいであることは、既に多くの論者によって指摘されているところである。例えば神島二郎氏は「彼には、国家と社会との区別がなく、支配機構としての制度観が確立されていない 1)」と述べ、或いは久野収氏は「国家と民族と生活上のゲマインシャフト〈共同体〉をほとんど無差別に混用し、それらをすべて国家という名前で呼ぶ意味論的まちがいをおかしている2)」と批判している。
  1) 『北一輝著作集第1巻』「解説」(1-440頁)。
  2)
「超国家主義の一原型」『近代日本思想史講座』4、149頁。

   なるほど北は国家と社会との関係を一般的な形では何等説明せず、両者を等置するかの如きやり方で、突如として国家の問題を引き入れているという印象をあたえる。例えば「社会主義者は…社会国家の為めに社会国家に対して個人の責任を要求す」(1−91頁)、「地理的に限定せられたる社会、即ち国家」(1-211頁)、「故に国家其者の否定を公言しつつある社会主義者と称する個人主義者は社会其者の否定に至る自殺論法として取らず」(1−348頁)などといったたぐいである。しかし彼の論理の展開をみると、その要となっているのは、国家の問題を如何にして社会進化論のなかに位置づけるかという問題なのである。そしてその両者を結びつける論理として主張されたのが「国家人格実在論」であった。

  「国家人格」とは、進化の過程で拡大・強化される社会性そのものを指していると解される。「国家の人格とは吾人が前きに『生物進化論と社会哲学』〈第3篇〉に於て説きたる社会の有機体なることに在り。 即ち空間を隔てたる人類を分子としたる大なる個体と言ふことなり」(1-239頁)という言葉もこのように解さなくては意味をなさなくなってくる。彼はまた、国家を擬制的な法人格とみる学説を批判して、「個人主義の仏国革命を以て国家を分解せしと言ふも国家は依然として社会的団結に於て存し破壊せられたるは表皮の腐朽せる者にして国家の骨格は嘗て傷れざりしを見よ」(1-238頁)とも述べている。従って、彼の国家と社会とを等置した用語法は、国家が社会性の代表者であることを強調するためのものであったと読めるのである。

  ではそのような用語法が何故読者を納得させず、「混用」と批判されるのかと言えば、彼が基礎理論としてきた社会進化論によっては何ら国家の形成が説明されていないからにほかならない。つまり、国家人格によって社会進化と国家との対応関係が示されるだけで、社会進化が何故国家人格を生み出すのかは全く明らかにされていないのである。

  このことはおそらく、北が国家の存在を自明のこととして前提してしまっていたことを意味するにちがいない。すでにみたように日露戦争を目前にした彼の関心は、国家の必要を如何にして論証するかという点に向けられていたのであり、そこから出発した彼は、国家を如何に意義づけるかという問題を中心に置き、そのための理論として社会進化論を用意したように思えるのである。従ってそこでは、国家を社会によって内容づけ、社会主義にとってもまた必要不可欠のものとして意義づけることに関心が集中し、国家を社会から区別するという逆の方向は欠落してしまったとみることが出来よう。彼はまた「人格は人格の目的と利益との為めに活動す」(1-240頁)とも述べているのであり、従って、国家人格を中核としない社会は、それ自身主体的に活動できないより低次の有機体と考えていたと思われるのである。つまり北の理論では、社会有機体論は国家有機体論としてしか完結しないのであり、言いかえれば、国家人格は社会を有機体として完成させるものとして意義づけられていたのであった。

  では、国家人格の問題は、進化論のなかに如何に位置づけられているのか。ここで北は「人格」という言葉を2つの意味で使っている。第1は国家人格と言う場合の人格であり、北はこの言葉で社会の有機体としての統一そのものを指しいるようにみえる。すなわち、国家人格は常に主体的に行動出来るのではなく、社会のなかに潜在的に実在している場合が想定されているからである。第2には、物格に対するものとしての人格という用語があげられる。つまり物格とは他人の所有物としてその処分に服従している客体を指し、これに対して人格とは自己の利益と目的のために活動する権利の主体となるものを指しているのである。

  北は人格についてのこの2種の用法を用いて、まず国家人格が現実の権力とは別に実在していると説く。そしてそれが、君主の所有物=物格としての国家から、権利の主体となり主権をもった人格としての国家へと進化するというのである。この説明では、国家人格と国家との関係があいまいであり、それがまたさきの国家と社会の混用という問題につながっていることは明らかであるが、ともかく北の主張したかったのは、国家人格の人格化ということであったと思われる。それは、社会のなかに埋没していた個人が、自由独立な個人として分化してくるのと同様な過程として、国家の進化を考えたものと言いうるであろう。北は次のように説明している。

  「国家は始めより社会的団結に於て存在し其の団体員は原始的無意識に於て国家の目的の下に眠りしと雖も…其の社会的団結は進化の過程に於て中世に至るまで、土地と共に君主の所有物となりて茲に国家は法律上の物格となるに至れり。即ち国家は国家白身の目的と利益との為めにする主権体とならずして、君主の利益と目的との為めに結婚相続譲与の如き所有物としての処分に服従したる物格なりき。即ち此の時代に於ては君主が自己の目的と利益との為めに国家を統治せしを以て目的の存する所利益の帰属する所が権利の主体として君主は主権の本体たり。而して国家は統治の客体たりしなり。此の国家の物格なりし時代を『家長国』と言ふ名を以て中世までの国体とすべし。今日は民主国と言ひ君主国と言ふも決して「中世の如く君主の所有物として国土及び国民を相続贈与し若しくは恣に殺傷し得べきに非らず、君主をも国家の一員として包含せるを以て法律上の人格なることは諭なく、従て君主は中世の如く国家の外に立ちて国家を所有する家長にあらず国家の一員として機関たることは明かなり。即ち原始的無意識の如くならず、国家が明確なる意識に於て国家自身の目的と利益との為めに統治するに至りし者にして、目的の存する所利益の帰属する所として国家が主権の本体となりしなり。此れを『公民国家』と名けて現今の国体とすべし。」(1-214〜5頁)

  北の国家論の骨格は、この引用部分のなかに尽きているように思われる。彼は人格化された国家を「公民国家」と名づけるのであるが、この公民国家の出現は、人類進化の上の一大画期を意味することになるにちがいない。すなわち、自律的な個人の出現を第1の画期とすれば、この公民国家の出現は第2の画期とされねばならないであろう。すでにみたような、自律的個人の公共心の拡大強化が、社会の進化をもたらすという論理だけでは、その強化の度合いから社会の進化を質的に画期づけることは困難であったが、北はそこに国家の物格から人絡への進化という観点を引き込むことによって、主権を獲得し生存進化の目的を有する主体的有機体としての国家=公民国家を設定したのである。そしてそこから、個人の公共心は国家へと焦点をしぼることによって、より明確な進化の担い手たりうるとの観点が導かれてくるのであった。 いわば有機体としての社会の統一そのものを国家人絡と名づけることによって、これまでみたような社会と個人との関係は、そのまま国家と個人の関係におきかえられ、しかもそれは進化にとって一層本質的なものとみなされるに至るのである。すなわち、社会を拡大強化したのが個人の公共心であり、それはまた社会そのものの意識であるとされたのと同様に、公民国家を成立せしめたのは個人の国家意識の発展であり、それはまた国家そのものの意識にほかならないと主張されるのである。彼が人格化した国家を「公民」国家と呼んだのも、このような国家意識の発達した個人を基礎におくことを強調したかったがためであろう。それはまた個人に対する国家の要求へと転化されるのは必然であった。

  「実に公民国家の国体には、国家自身が生存進化の目的と理想とを有することを国家の分子が意識するまでに社会の進化なかるべからず。即ち国家の分子が自己を国家の部分として考へ、決して自己其者の利益を終局目的として他の分子を自己の手段として取扱うべからずとするまでの道徳的法律的進化なかるべからず。」〈1−348頁)

  つまり、公民国家に於てはじめて、国家は社会有機体と一致し、従って国家の強化が社会の強化と一致し、国家は進化のための生存競争の単位たるの資格を得るのであり、それ故にまた、国家は進化の名において、個人に対して忠誠を要求し得る立場に立つことになるのである。「国家は生存の目的を有す、国家は進化の理想を有す、而して吾人は凡て上下なく国家の分子なり、国家の分子として国家の生存進化の目的理想のために努力すべき国家の部分たる吾人なり」(1−350頁)と。

  北は、公民国家が出現した進化の段階では、国家主義者であることが、進化の担い手となる必須の条件であり、社会主義もまた、この公民国家を完成させるためのものでなければならないと考えたのであった。かくして北は、日露戦争前に直面した社会主義と帝国主義の矛盾という問題を、公民国家という基盤の上で解決し得ると自負したにちがいないし、そのことが彼をして『国体論及び純正社会主義』の自費出版に駆り立てたであろうことは想像に難くない。

  では北の言う公民国家とは一体どのような内容を持っているのか。彼はまず、君主国か共和国かという分類に反対する。彼は国家を考える基準として「国体」と「政体」を用いるのであるが、彼の「国体」によると、一般に通用している君主国か共和国かという分類は無意味になるというのである。すなわち「国体とは国家の本体と言ふことにして統治権の主体たるか若しくは主権に統治さるる客体たるかの国家本質の決定なり」(1-236頁〉とするのであり、従って国家が統治権をもつ主権者であるか、或いはまた統治される客体にすぎないかが国体の分れめなのであって、君主が存在するかどうかは二次的な問題にすぎないということになるのである。この前者、国家が統治権の主体である場合が、「公民国家」であることは言うまでもないであろう。つまり、彼にとっては、公民国家か否かを判定することが国体論の最も重要な課題なのであった。

  では君主の存在はどういうことになるのかと言えば、君主個人が統治権の主体=主権者である場合にはその国家は公民国家と区別される「家長国家」とされるが、国家が王権をもつ「公民国家」の場合には、君主は存在していてもそれは統治権の所有者ではなく、統治権発動のための制度=「機関」だというのである。北はこの「統治権発動の形式」(同前)を「政体」と名づけるのであり、「機関」、とくに最高機関の組織によって政体を分類するのである。彼においては、公民国家における政体は、次のように3分類される。

第1 最高機関を特権ある国家の一員にて組織する政体(農奴解放以後の露西亜及び維新以後23年までの日本の政体の如し)
第2 最高機関を平等の多数と特権ある国家の一員とにて組織する政体(英吉利独乙及び23年以後の日本の政体の如し)
第3 最高機関を平等の多数にて組織する政体(仏蘭西米合衆国の政体の如し〉 (1-236頁)

 ここで「特権ある国家の一員」なる語が君主を指していることは容易に推測されるであろう。そして北は天皇をもこのなかに含ませていた。このことはあとで詳しくみることにするが、この文章で日本に触れている部分の意味は、明治維新から大日本帝国憲法の制定までは最高機関は天皇だけによって、その後は天皇と帝国議会の両者によって組織されているということにほかならない。従って公民国家の政体は、専制君主制、立憲君主制、共和制のいずれの場合もあり得るということになるのである。そして「特権ある国家の一員」の「特権」についてはそれ以上追究せず、ただ国家の必要によるものと理解するだけに止っているのである。そのことは、北にとって公民国家であるか否かが本質的な問題であり、その下の政体の問題は二義的な意味しか持たなかったことを示していると言ってよい。そして、この論理でゆけば、日本は欧米に対する後進国ではなく、欧米とならぶ「公民国家」となる筈であった。北のねらいはこの点にあったのであろう。彼はこれ以上政体の問題に深入りしようとはしなかった。彼が強調しようとしたのは、公民国家に於いては、君主と国民は相対立する階級ではなく、共に国家に対して権利義務を持つ機関なのだという点であった。彼は言う。

  「近代の公民国家に於ては…主権の本体は国家にして国家の独立自存の目的の為めに国家の主権を或は君主或は国民が行使するなり。従って君主及び国民の権利義務は階級国家に於けるが如く直接の契約的対立にあらずして国家に対する権利義務なり。果して然らば権利義務の帰属する主体として国家が法律上の人格なることは当然の帰納なるべく、此の人格の生存進化の目的の為めに君主と国民とが国家の機関たることは亦当然の論理的演繹なり。」(1-214頁)

  従って、さきの「特権ある国家の一員」の「特権」も、国民に対する特権ではなく、「国家の目的の為めに国家に帰属すべき利益として国家の維持する制度」〈1-213頁)ということになるのである。つまり公民国家に於ては、君主も国民も国家の機関の観点からみれば平等だというのである。彼が「国家の進化は平等観の発展に在り」(1-349頁)という時、その平等観とは 国家の一員として平等だとの意識、つまるところ国家意識そのものを指していたと解されるのである。しかもそれは彼の進化論にあっては、国家人格そのものの意識とされるのであるから、国家人格の主体化としての公民国家において最高機関がどのように組織されるかは、その国家人格の「個性」―彼はそのような言葉を用いてはいないが―の問題と考えられていたのではないであろうか。北が、公民国家の3つの政体の間の得失について論じようとしなかったのは、そのような考え方によるものではなかったか。つまり、日本が「公民国家」として欧米国家と肩をならべたとする彼の論から言えば、政体の問題は国家の本質にかかわりない国家の個性の問題とならざるをえないように思われるのである。

  ところで、以上のような形で、北が公民国家を人類進化の画期として設定したのは、たんに自らの進化論を完成させるためではなかった。彼のもう1つのねらいはこの公民国家を以て社会主義を基礎づけるという点にあった。彼が「土地及び生産機関の公有と其の公共的経営と言ふことが社会主義の背髄骨なるなり」(1-60頁)と述べている限りでは、3年前の「国家の手によりて土地と資本との公有を図る」(3−90頁)という社会主義観そのままであるかにみえる。しかしさきには、国家の必要が強調されたのに対して、ここでは社会有機体が最高の所有権者であるとする論点が正面に押し出されてくるのである。「社会主義は社会が社会労働の果実に対して主張する所有権神聖の声なり」(1-25頁)つまり彼は富は社会的に形成されたものなのだから本来社会に帰属すべきものだとして、社会のものを社会に返させることを以て社会主義の目的と考えるのである。それは同時に労働者階級による公有を否定することでもあった。

  「真に法律の理想によりて円満なる所有権を主張し得るものは、其等個々の発明家にもあらず、其の占有者たる階級の資本家にもあらず、 又その運転を為しつゝある他の階級たる今の労働者にも非ず、只歴史的継続を有する人類の混然たる一体の社会のみ。 機械は歴史の智識的積集の結晶物なり。 機械は死せる祖先の霊魂が宿りて子孫の慈愛のために労働しつゝあるものなり。 …故に若し所有権神聖の理由を以て社会主義に対抗せんとするものあらば、 社会主義は寧ろ社会労働の果実たる資本に対して所有権神聖の名に於て公有を唱ふと言はん。」(1-26頁)

  社会を最高の所有権者とみるこの社会主義は、国家を社会の人格化とする理論によって国家主義へと転化する。すなわち、社会は国家人格が主体化した公民国家に於てはじめて所有権者たる資格を得たことになるのであり、社会主義は公民国家に於てはじめて実現の基礎的条件を得たとされるのである。従って社会主義は、公民国家の擁護者、その進化の推進者として性格づけられることになる。つまり社会主義の任務は、土地・資本を国家に与えて、公民国家を強化することにほかならなくなるのであった。

  同時に北は、さきの平等観の発展=国家意識の浸透を以て民主主義の基礎的条件の成立とも考えていた。彼は公民国家を社会主義と同時に民主主義をも内含するものとして設定したのであった。もちろんそれによって民主主義の意味がそれ相応に変容させられたことは当然であろう。彼は言う。「国民(広義の)凡てが政権者」たるべきことを理想とし国民の如何なる者と雖も国家の部分にして、国家の目的の為め以外に犠牲たらざるべからずとの信念は普及したり。即ち民主主義なり」(1-360頁)と。北は国民の政権への参加や普通選挙についても語っている。然し彼が民主主義の基本的条件としたものが、国家意識の普及にあったことはこの引用からも明らかであろう。そして、政権参加の具体的あり方を重視しなかったことは、さきの君主の特権の内容を問おうとしなかったことと表裏をなすものに他ならなかった。
ともあれ、先には偏局的社会主義と偏局的個人主義から自らを区別するために「純正社会主義」を名のった北は、今度は公民国家を基礎とする点で、自らの立場を「社会民主主義」と称したのであった。

  「『社会民主主義』とは個人主義の覚醒を受けて国家の凡ての分子に政権を普及せしむることを理想とする者にして個人主義の誤れる革命論の如く国民に主権存すと独断する者に非らず。主権は社会主義の名が示す如く国家に存することを主張する者にして、国家の主権を維持し国家の目的を充たし国家に帰属すべき利益を全からしめんが為めに、国家の凡ての分子が政権を有し最高機関の要素たる所の民主的政体を維持し若しくは獲得せんとする者なり。」(1-246頁)

  このような北の社会民主主義から言えば、現実の国家が基本的に公民国家の性格を持つと考えられる場合には、そこにはすでに社会民主主義の要素が存在しているということになり、この要素を強化すると共に主として経済的な面での変革を行うことによって社会主義は実現し得るということになるのである。彼はかつての矛盾―帝国主義者として現実の明治国家の膨脹を積極的に支持しながら、他面では社会主義者として体制の変革を志すという矛盾を、このようなやり方で、つまり明治国家を公民国家と認定することによって解決しようとしたのであった。

 「4国体論批判の性格と天皇機関論」へ
 4、国体論批判の性格と天皇機関論

 北は公民国家の成立過程を次のように説明する。すなわち、「家長国時代に於ては社会の未だ進化せざるが為めに社会自身の目的と利益とを意識して国家の永久的存在なることを知らず、社会の一分子若しくは少数分子が其等個人としての(社会の一部としてにあらず)利己心を以て行動するより外なく、他の下層分子は其等上層の利己心の下に犠牲として取扱はれ以て社会を維持し来れる者なり。…近代の公民国家に至っては然らず。社会は大に進化して社会其れ自身が生存進化の目的を有することを解し,国家の利益と目的とが全分子に意識せられ,其の国家の意志を表白すと言ふ機関たる分子に於ても社会の一部としての社会的利己心を以て(機関が其自身を個人として意識する場合の個人的利己心にあらず)行動する者なり。」(1-345頁) この過程の中心が社会の全分子が国家意識にめざめるという点におかれ、それが公民国家成立のメルクマールとされていることは明かであろう。それは君主や天皇をも含めた「国家の意志を表白すという機関たる分子」においても例外ではなく、彼等もまた個人的利己心ではなく社会的利己心を以て、すなわち国家の進化を目的として行動するに至るとされるのである。そして北は明治維新をこのような公民国家成立の過程そのものとして捉えたのであった。従って公民国家論が彼の理論の中枢に位置するのと対応して、彼の日本の現実への把握は明治維新論をその中軸にすえることになる。そしてそこから国体論批判は論理構成の上からも必然的要請となるのであった。

  「維新革命とは国家の全部に国家意識の発展拡張せる民主々義が旧社会の貴族主義に対する打破なり。而してペルリの来航は攘夷の声に於て日本民族が一社会一国家なりと言ふ国家意識を下層の全分子にまで覚醒を拡げたり。恐怖と野蛮の眼に沖合の黒煙を眺めつゝありし彼等は、日本帝国の存在と言ふ社会主義を其の鼓膜より電気の如く頭脳に刺激せられたり。…実に維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点に於て社会主義なり、而してその意識が国家の全分子に明かに道徳法律の理想として拡張したる点に於て民主主義なり。…徳川氏時代に至りての百姓町人は最早奴隷賤民にあらず、土百姓にあらず、亦平民にあらず、維新後忽ちに挙がれる憲法要求の叫声を呑みつゝありし民主的国民なりしなり。」(1−350頁)

  しかし明治維新を公民国家の成立=社会民主主義革命として捉えるためには、それに見合った天皇観をつくりあげることがどうしても必要であった。天皇を権力と同時に倫理的価値の源泉とするような支配的イデオロギーを肯定しては、明治国家を公民国家だと言うわけにはゆかなくなる。彼の公民国家論でゆけば、明治国家の骨格をなしているのは、天皇への忠誠ではなく、国家への忠誠でなければならない筈であった。しかしこの観点を貫くためには、明治国家における天皇の性格を明らかにすると同時に、彼の言う社会民主主義革命としての明治維新が何故、天皇を政治の中心に押し上げていったのかをも説明しなければならなかった。彼の国体論批判は、今やこのような公民国家論にみ合う天皇観を築くためのものとなっていた。そしてそのためには、明治維新を王政復古とするような見方を打破することが先決であった。

  「維新革命の本義は実に民主主義に在り。…維新革命を以て王政復古と言ふことよりして已に野蛮人なり。」(1-344頁)「維新革命は家長国の太古へ復古したるものにあらず、家長国の長き進化を継承して公民国家の国体に新たなる展開をなせるものなり。」(1−353頁)しかしこの王政復古否定論を成り立たせるためには、明治維新における天皇の地位を尊王イデオロギー以外の要因によって説明しなければならなくなる。北はまず維新以前の天皇を、次のように捉えた。すなわち天皇は神道的信仰の勢力による「神道の羅馬法王」(1−337頁)という特殊性を持つとは言え、本質的には幕府諸侯と変らない「家長君主」であったとする。つまり著るしく弱体であったとしても、公卿を臣下とし土地人民の上に絶対の権利を有したことは明らかだと言うのである。そして彼はまた天皇家がともかくも存続し得たのは、「他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閉雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」(1−325頁)であり、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」(1−328頁)と強調するのである。それは言いかえれば、尊王を中心とした国民的運動がおこるような歴史的条件は存在しなかったということになろう。では何故幕末に尊王論がおこるのか。彼は倒幕運動における尊王論を、外圧により革命論をねりあげる時間的余裕がなかったための便宜的なものと評するのであった。 彼は尊王倒幕論者について次のように書いている。

  「彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く、皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも転覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき、今の忠は血を持って血を洗はんとせる民主主義の仮装なり。彼等は理論に暇あらずして只儒学の王覇の弁と古典の高天ヶ原との仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり。曰く―幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと、而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に対して忠順の義務なしと、而して是れに対抗して皇室は高天ヶ原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

  維新革命は国家間の接触により覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが、未だ国家国民主義(即ち社会民主々義〉の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。」(1-352頁)

  つまり、尊王論は倒幕革命の理論を早急に、従って既成の理論からつくり出すための「仮定」にすぎず、若し理論的検討の十分な余裕があれば、倒幕論は社会民主主義の方向で、国家の問題を中心として論議されたであろうと言うのである。

  このような国体論批判及び維新革命論から言えば、天皇制を生み出したことは、明治維新の必然的結果とは言えなくなる。彼の論理からは、天皇制否定を叫んだ方がより明快であったと思われる。しかし彼はこのぎりぎりのところから、天皇の地位の肯定へと転換してゆくのであった。そこには、明治国家を本質的には肯定的にとらえたいという彼の願望をよみとることができよう。ともあれ、彼はこの転換によって、倒幕運動における尊王論の役割を否定的に捉えることと天皇が維新革命によって家長君主から公民国家の最高機関に変身したことを矛盾なく説明する必要に迫られることになる。

  彼は「君主固有の威力」という問題について「固有とは君主の一個人が先天的に肉体の中に有すとのことならば、力と言ひ威力と言ふ者は決して君主の固有に非らず社会と言ふ者の有する団結的権力なり。即ち君主の威力あるかの如く見らるゝは此の団結的権力の背後より君主を推し挙ぐるが為めにして」(1-242頁)と述べているのであるから、維新の場合にも、倒幕運動が天皇を「推し挙げた」とみていることは明らかである。では何故倒幕運動は天皇を押し上げることになったのか。尊王論は拒否する北は、天皇は家長君主の地位を脱して国民と共に倒幕運動に参加し、その英雄的指導者となったと主張することで、この問題に答えようとした。

  彼は言う。「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も、天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」(1−353頁)「現天皇は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき」(1−354頁)「現天皇が万世一系中天智とのみ比肩すべき卓越せる大皇帝なることは論なし。常に純然たる詩人たりしものが徳川氏の圧迫を排除せんが為めに、卓励明敏の資質を憂憤の間に遺伝したり。…維新革命の諸英雄を使役して東洋的摸型の堂々たる風耒は誠に東洋的英主を眼前に現はしたり。(吾人は想ふ、今日の尊王忠君の声は現天皇の個人的卓越に対する英雄崇拝を意味すと)」(1-357頁)

  北が明治天皇に対して何か特別の感情をもっていたことは、後年の北の仏壇に軍服姿の明治天皇像がかざられていたことからも推測することが出来る。ここで述べられている維新の英雄としての明治天皇のイメージには、明治後期に彼が抱いた明治天皇観が投影されていることは疑いもない。しかしまた、いわゆる国体論を拒否した上で、天皇の存在を肯定するためには、このようなやり方以外にありえなかったであろうことも明らかである。この明治天皇英雄論は実証的根拠のない一つのフィクションである。彼は国体論の神話にかえて、維新の英雄という神話をつくったとも言える。彼はこのフィクションを以て、一方で天皇の現存に根拠を与えると共に、他方では天皇を国家の進化という目的以外には行動し得ないものとして限定づけようとしたのであった。つまり天皇はこのフィクションにより、公民国家の強化、すなわち彼の言う社会民主主義の方向を代表しなければならないものとして規定されることになるのであり、一見明治天皇への個人崇拝にすぎないかの如き「維新の英雄」論は、実はいわゆる国体論を拒否して、天皇機関論―と言っても公民国家論にみあう特殊なものであったが―を導き出すという役割を負わされていたのであった。

  北は、維新の英雄としての活躍によって、天皇の性格は次のように変化したとする。「現皇帝は維新以前と以後とは法理学上全く別物なり。維新以前は諸侯将軍の君主等と等しく其の範囲内に於ける家長君主たる法理上の地位なりしと雖も、維新以後二十三年までは唯一最高の機関として全日本国の目的と利益との為めに国家の意志を表白する者となれるなり」(1−363頁)ここで「国家の意志」とは、あとでみれるように、国家の進化を目的とする社会的勢力のなかにあらわれるとされるのであるから、「最高機関」としての天皇は、そのような社会的勢力を代表すべき者なのだということになる。北は明治維新を明治憲法制定に至る一連の過程とみるのであるが、その憲法制定はこのような形での「最高機関」の働きとして捉えられていた。

  「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主々義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にありと。即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす。」(1−354〜5頁)つまり彼は明治憲法を明治維新の帰結とみると同時に、「憲法要求の大運動によりて得たる」ものと評価しているのである。そしてこの評価は次のような「欽定憲法」における「欽定」の理解につづいていた。「欽定とは…国家の主権が唯一最高機関を通じて最高機関を変更して特権の一人と平等の多数とを以て組織すべきことを表白したることなりとす。」(1−364頁)すなわち、欽定とは、国家の意思を表明する最高機関が天皇だけであったから、天皇が定めるという形式になったということであり、天皇個人が定めたということではない、天皇は国家意思の媒介たるにすぎないというわけである。つまり明治憲法は「憲法要求の大運動」が国家意思を形成し、それが最高機関である天皇を通じて「欽定」という形式で制定されたと把握されているのである。

  それは観点を移して言えば、天皇と国民は直接に相対立する存在ではないとする主張に変わる。「約言すれば日本天皇と日本国民との有する権利義務は各自直接に対立する権利義務にあらずして大日本帝国に対する権利義務なり。例せば日本国民が天皇の政権を無視す可からざる義務あるは天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し国民は国家の前に義務を負ふなり。日本天皇が議会の意志を外にして法律命令を発する能はざる義務あるは国民の直接に天皇に要求し得べき権利あるが為めにあらず、要求の権利ある者は国家にして天皇は国家より義務を負ふなり」(1-213頁)従って「国民の忠は国家に対するもの」(1−369頁)であって天皇そのものに向けらるべきものではない、「『国家の為めに』と言ふ社会主権の公民国家と、『君の為めに』と言ふ君主々権の家長国とは、国体の進化的分類に於て截然たる区別をなす」(1−368頁)ということになるのである。北は「爾臣民克く忠に」という「忠」の内容は、「国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと言ふこと」(1−369頁)にすぎないと断ずるのであった。それは当時の支配者のスローガンであった「忠君愛国」を切断し、「忠君」ではなくて「愛国」こそが道徳の基本であることを強調するものにほかならなかった。

  この論理で言えば、天皇もまた「愛国」という政治道徳によって拘束される存在であり、北は、天皇をも含めた最高機関としての「君主」が個人的利己心で行動するようになれば、公民国家が「事実上の家長国と化し去ることあり」(1−362頁)と考えたのであった。「今日の天皇は…国家の特権ある一分子と言ふことにして、外国の君主との結婚によりて国家を割譲する能はず、国家を二三皇子に分割する能はず、国民の所有権を横奪して侵害する能はず、国民の生命を『大御宝』として殴傷破壊する能はず、実に国家に対してのみ権利義務を有する日本国民は天皇の白刃に対して国家より受くべき救済と正当防衛権を有するなり。」(1-218頁)

  彼は孟子の「一夫紂論」を援用しながら、論理的には国家の利益に反する天皇は打倒の対象となりうることを認める。しかし現実には、「天皇等の徳を樹つることの深厚なりしは…歴史上の事実なり(1−420頁)とし、「固より独乙皇帝の如き一匹夫ならば…国家機関たる所の君主に非らざる帝冠の叛逆者として一夫紂論の爆発することはあり得くしと雖も、親ら民主的革命の大首領たりし現天皇は固より歴史以来の事実に照らして日本今後の天皇が高貴なる愛国心を喪失すと推論するが如きは、皇室典範に規定されたる摂政を置くべき狂疾等の場合より外想像の余地なし」(1-421頁)としてその現実的可能性を否定したのであった。

  このような北の天皇観は、国家の最高機関としての天皇に敬意を払うべきことを説き、天皇打倒の現実の可能性を否定したとは云え、支配的イデオロギーからみれば明らかに異端であった。北はこのような状況の下で大日本帝国憲法そのもののなかから、彼の天皇観、公民国家=社会民主主義論にみあう解釈を引き出し、自らの主張を補強しようと試みるのである。

  北はまず憲法第5条と第73条に着目する。 第5条とは「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」との規定であり第73条は憲法改正手続についての規定である。即ち憲法改正案は勅令により帝国議会に付議し、議会は議員総数の3分の2以上が出席し、出席者の3分の2以上の多数を得れば改正の議決をすることが出来るとしたものである。この規定から北は、天皇が行政の長官として、或は陸海軍の統率者として活動する場合には独立の機関であるが、立法についてはたんに機関の一要素であるにすぎないと主張する。「即ち、立法機関は天皇と議会とによりて組織せられ始めて一機関としての段落ある活動を為すことを得」(1-231頁)と。そしてこれを根拠に「天皇は統治権を総覧する者に非らず」(1-230頁)として、第4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総纜シ此ノ憲法ノ條規二依り之ヲ行フ」」を否定する。つまり立法機関として不完全な天皇が、統治権の総覧者でありえないことは明らかだというのである。

  憲法の条文に矛盾のある場合には、「各々其の憲法の精神なりと認むる所、国家の本質なりと考ふる所によりて自由に取捨するを得べく」(1-235頁)とする北は、天皇を「神聖」とし、「元首」とする規定をも切り捨てる。すなわち、「神聖」は歴史的に踏襲された形容詞にすぎず、学理上は意味のないものであり、また「元首」は君主を頭とし労働者を手足とするような児戯に類する比喩的有機体論の産物にすぎないとした。

  では大日本帝国憲法において、統治権を有する機関は何なのか、まず「『最高機関』とは最高の権限を有する機関のことにして即ち憲法改正の権限を有する機関なり」(1-232頁)と定義される。そしてさきの第73条の規定から云って、天皇と議会の合体したものを最高機関とみなすべきだとするのである。「若し此の国家の意志の表白さるる所の者を以て主権者と呼び統治者と名くるならば、天皇は主権者にあらず又議会は統治者に非らず、其等の要素の合体せる機関が主権者にして統治者なりとすべし」(同前)と。

  このような北の天皇論・憲法論から云えば、いわゆる国体論はそれが単に根拠のない妄想であると云うだけではなく、打倒すべき反革命であり、国民を国家に向ってより強力に集中してゆくために排除しなければならない障害であった。彼は云う。世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず、又過去の日本民族の歴史にても非らず、明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なり」(1-211頁)と。復古的革命主義とは反革命と云うに等しい。彼は国体論の内容として君臣一家論や忠孝一致論をとりあげて批判するが、その観点は要するに「所謂国体論の背髄骨は、如何なる民族も必ず一たび或る進化に入れる段階として踏むべき祖先教及び其れに伴ふ家長制度を国家の元始にして又人類の消滅まで継続すべき者なりと言う社会学の迷信なり」(1-260頁)という一節につきていた。それは云いかえれば、国体論は折角公民国家にまで進化した日本の国体を、再び家長国家に逆転させようとする反革命だということにほかならないのである。

  たしかに北の国体論批判は当時においては極めて強烈であり、官憲をして発禁処分に走らせるに十分であった。しかしそこでの問題関心が明治国家を如何にして根底的に肯定するかという点にあったことは、「伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて、敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり」(1‐355頁)としてその専制的性絡を指摘しているにも拘らず、憲法論としては天皇大権の大きさにも、議会の権限の弱さにも触れることなく、ただ次の結論で満足していることからも明らかであろう。すなわち、現在の政体は「最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによりて組織せらるる世俗の所謂君民共治の政体なり。故に君主のみ統治者に非らず、国民のみ統治者に非らず、統治者として国家の利益の為めに国家の統治権を運用する者は最高機関なり。是れ法律の示せる現今の国体にして又現今の政体なり。即ち国家に主権ありと言ふを以て社会主義なり、国民(広義の)に政権ありと言ふを以て民主々義なり。

  依之観之、社会主義の革命主義なりと云ふを以て国体に抵触すとの非難は理由なし。其の革命主義と名乗る所以の者は経済的方面に於ける家長君主国を根底より打破して国家生命の源泉たる経済的資料を国家の生存進化の目的の為めに国家の権利に於て、国家に帰属すべき利益と為さんとする者なり」(1-247頁)と云うのである。

  つまり、社会主義は国体と矛盾しないばかりでなく明治国家の本質的な意義を肯定するものなのだという結論を導くことだけが目的であり、北はそれ以上に憲法に執着しようとはしなかったと云える。 云いかえれば、彼の憲法論は、彼の公民国家論にみあう天皇機関論を導くためのものであり、彼はそれ以上に憲法解釈に立入ろうとはしなかった。天皇機関説という呼び方で理解すれば、北は美濃部達吉と共通の立場にあるかの如くみえるけれども、この点で彼は美濃部と決定的に異っていた。彼が憲法解釈学に立ち入らなかったのは「天皇と帝国議会とが最高機関を組織し而もその意志の背馳の場合に於て之を決定すべき規定なきに於ては法文の不備として如何ともする能はざるなり」(1‐364頁)つまり憲法の解釈権者が指定されていないという見方も関係しているであろう。しかし根本的な問題は、北の理論においては国家意思は常に憲法を越えるものとされている点にある。彼は云う。「国家主権の今日及び今後に於ては、其の手続きを定めたる規定其者と矛盾する他の規定を設くとも、又其の規定されたる手続によらずして憲法の条文と阻格する他の重大なる立法をなすとも、国家主権の発動たる国家の権利にして、国家は其の目的と利益とに応じて国家の機関を或は作成し或は改廃するの完き自由を有す」(1-248頁)すなわち主権者としての国家は、憲法によって規定されるものではなくて、憲法を自由に改廃しうる超憲法的存在だというのである。さきにみた国家人格実在論がこの基底に置かれていることは繰返すまでもあるまい。

  しかし、憲法をこえる国家は、如何にして自らの意思を発動することになるのか、ここでは、北の進化論が想定した社会そのものの意識にしろ国家人格にしろ、現実には個人の公共心や国家意識の展開としてしか自らをあらわしえなかったのと同様に、超憲法的存在としての国家も、結局具体的な人間の活動によってしか自らの活動をなし為ないことになるのであった。北は次のように書いている。「只、如何なる者が国家の目的と利益とに適合する主権の発動なるかの事実論に至りては、是れ自ら法理論とは別問題にして其の国家の主権を行使すと言ふ地位に在る政権者の意志に過ぎず。即ち事実上政権者の意志が国家の目的と利益との為めに権力を行使するや否やは法理論の与かり知らざる所なり。―是を以ての故に憲法論は強力の決定なりと云ふ。」(1-249頁)そしてその「強力」については、「凡ては強力の決定なり。強力とは社会的勢力なり(単純に中世時代の腕力が社会的勢力を集めたることを以て今日の強力を腕力と速断べからず)。社会的勢力は社会の進化に従ひて新陳代謝す」(1-406頁)と説明する。また「社会的勢力」については、次のようにも書いている。「国家は決して個人の自由に解散し若しくは組織し得べき機械的作成の者にあらずして、革命とは国家の意思が時代の進化に従ひて社会的勢力と共に進化すと云ふことなり。」(1-376頁)「今の社会民主々義者は維新革命の社会民主々義を経済的革命によりて完備ならしめんとする経済的維新革命党なり。革命党の迫害せらるゝは其の社会的勢力を集中せざる間は社会の進化として常態なり」(1-382頁)と。

  従って彼の社会主義運動のあり方についての論議も、社会主義と国体は矛盾しないという点で憲法論にかかわるだけで、むしろこの強力論を主たる基盤として展開されているといえる。すなわち彼の社会主義運動論は、次のような形で導かれてくるのであった。まず公共心→国家意識がその社会で主導的な勢力=「強力」となるとき、そこに国家人格が顕在化し、その勢力の代表者が政権を握った時、国家人格は公民国家として現実のものとなる、しかし、政権についた代表者は、その社会的勢力から離れて個人的利己心にとらわれ、あるいは進化を更に進めることを忘れた保守反動に転化するのが常である。従って、公民国家が基本的には社会民主主義の方向を持つとは云え、その方向を現実のものとするためには、新な社会的勢力を結集して、眼前の政権担当者を克服しなければならない。このような国家の進化を担うべき社会的勢力=強力をつくりあげてゆくことが、社会主義者の任務なのだと。

 「5社会主義運動論の特徴と矛盾」へ
 5、社会主義運動論の特徴と矛盾

 北は明治国家の現実を次の2つの観点から捉えた。彼はまず第1に、明治維新後の権力者は、維新の本質であった社会民主主義の進展を阻害するに至っているとみる。「凡ての進歩的勢力が其の権力を得ると同時に保守的勢力」に転ずるのは「社会進化の原理」だとする北は、倒幕の志士たちも同様の運命をたどったとする。すなわち「彼等藩閥者は維新革命の破壊的方面に於て元勲なりき。而しながら維新革命の建設的本色に至っては民主々義者を圧迫する所の元兇となれり」(1-355頁)と。ついで彼は第2に、維新によって政治的家長君主が打倒されたあとに、今度は「秩序的掠奪」(1-5頁)によって、土地人民を私有する経済的君主・黄金大名があらわれ、日本は経済的家長国に転じたと論ずるのである。そして保守化した政治勢力は、この黄金大名の力の下にくみ入れられるに至ったとみる。

  「凡ての事は天皇の名に於て、国家の主権に於てなさる。而も現実の日本国なるもの天皇主権論の時代にもあらず国家主権論の世にもあらずして、宛として資本家が主権を有するかの如き資本家万能の状態なり。大臣も資本家の後援によりて立ち議員も資本家のしん(臣+頁)使によりて動く。斯くの如くにして国家の機関が国家の意志なりとして表白しつゝある所は、国家の目的、理想の為めに国家が執らんとする意志にあらずして自己若しくは自己の階級の利益のみを意識して意志を表白するを以て事実上は階級国家となれり。」(1-378〜9頁)

  北の見方から云えば、公民国家が空洞化されて、階級国家、経済的家長国家に転ずるということは、公民国家を成り立たしめた国家意識の担い手である国民が、賃金奴隷や農奴として貧困化することであり、それはとりもなおさず、経済的君主が強大化するのと反比例して国家そのものが弱体化するということであった。「日清戦争に勝ち日露戦争に勝ちて、利益線の膨脹、貿易圏の拡大が無数に存在する経済的家長君主の強大を加ふるとも、其れによりて国民と国家とが強大なりや否やは全く問題を異にす。十六軍団の陸軍と数十万トンの海軍とを以て武装せる巨人が骸骨の如く餓えて、貧民の上には小盗人を働き富豪の前には跪きて租税の投与を哀泣しつゝある醜態をみよ。大日本帝国は今や利益の帰属すべき権利の主体たる人格を剥奪せられて経済的家長君主等の為めに客体として存するに過ぎずなれり。経済的専制君主等は強大なるべし。而しながら大日本帝国は斯くても強大の国家か。」(1-57頁)すでに述べたように、国家を強化することを目的とする北の社会主義は、この経済的君主と保守的政治勢力を打倒して、土地・資本の公有をめざすものであった。

  北はこの闘争を一応は「階級闘争」と名付ける。「おゝ来るべき第二のの維新革命よ。再び第二の貴族諸侯に対して階級闘争を開始せざるべからず。…一切は階級闘争による。」(1-394頁)しかしこの階級闘争は彼の進化論にみあって特殊であった。彼もまた階級闘争のためにまず第1に「団結」を求める。「団結は勢力なり。社会主義勢力は主権なり。」(1-391頁)だがこの「団結」は階級的利害を結集して、敵対的階級を打倒しようという発想とは異なっていた。彼は階級闘争の目的は「階級絶滅(1-38頁)にあるという。しかしそこで彼が力点を置いているのは、資本階級をも労働者階級をも共に解体して社会主義を実現するという点にあった。

  「固より社会主義は当面の救済として又運動の本隊として今の労働者階級に陣営を置くものなりと雖も此れあるが為めに労働者階級を維持する者と解すべからず、階級なき平等の一社会たらしむるのみ。社会主義は社会が終局目的にして利益の帰属する主体なるが故に名あり。現今の階級的対立を維持して掠奪階級の地位を転換せんと考ふる如きは決して社会主義に非らず。」(同前)このような考え方が出てくるのは、彼が自らつくりあげた進化論に於ける同化作用と分化作用の論理を、社会主義実現のためにもより基本的なものとみ、階級闘争よりも根底的なものとみていたからにほかならなかった。それは簡単に言えば個人の自律性が強まるにつれて、同化作用も拡大・強化され、それによって社会は進化するとするものであったが、その場合、北は個人の自律性の内容を問題とすることなく、たんに個人の自由や権威が上層から下層へと漸次浸透するという形でしか捉えていないことが特徴的であった。すなわち、「社会の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする模倣による」。「個人の権威が始めは社会の一分子に実現せられたる者より平等観の拡張によりて少数の分子に実現を及ぼし、更に平等観を全社会の分子に拡張せしめて茲に仏蘭西革命となり維新革命となり」(1-191頁)などと言った具合である。

  それは言いかえれば、個人の分化作用は社会の上層より下層にと下降し、従って同化作用は下層から上層への上昇運動としてあらわれるということになる。北はこの考え方をそのまま階級闘争に持ちこんで次のように述べているのである。「社会民主々義の階級闘争は執て代らんとするの闘争に非らず。否、凡ての階級闘争とは運動の本隊が下層階級に在りと言ふことにして闘争の結果は模倣と同化とによりて下層階級の上層に進化して上層階級の拡張することに在り。即ち下層階級が其れ自身の進化による階級の掃討にして上層階級の地位が転換されて下層となり、若しくは社会の部分中進化せる上層が下層に引き下げらるゝ原始的平等への復古にあらず。」(1-393頁)もっとも、「模倣と同化」と言っても、上層階級の何を模倣し、どの部分に同化するのか明らかではない。北としては、下層階級の不自由と貧困が「平等」の基準となるものではないことを強調したかったのであろう。

  しかし北がそれ以上に云いたかったことは、この文章で言云えば、下層階級が自らの「階級の掃討」をなさねばならないとする点にあったと思われる。彼は良心は階級的に形成されるとしているのであるから、上層階級の階級的良心を下層階級の階級的良心が「模倣と同化」の対象とすることを期待しているわけではない。むしろこのせまい階級的良心を解体してより普遍的な良心を形成することが同化作用の基本だとみていることは、社会主義の目標を「現今の経済的階級国家を打破して経済上に於ても一国家一社会となし、以て国家社会の利益を道徳的理想とする良心の下に現時の階級的良心を掃討せんことを計る」(1−84頁)という形で述べている点からもうかがうことが出来る。従って北における階級闘争とは、下層階級が上層階級の階級的良心を打倒すると共に、自らの階級的良心をも解体して、より普遍的な良心の下で旧上層階級と同化し、上層階級の自由と豊かさをわがものにする過程として捉えられていたと思われるのである。

  こうみてくると北の言う「団結」は階級的連帯を軸とするものではなくて、より普遍的な良心の形成を伴うものでなくてはならなくなる。北の場合それが国家意識であり、国家への忠誠であるとされることは、これまで述べて来たことからも明らかであろう。国家意識の強化による階級的良心の掃討―そこから「社会民主々義の運動は純然たる啓蒙運動なり」という命題が生れる。「啓蒙運動は凡べての革命の前に先ちて革命の根底なり。 社会民主々義は其の実現を国民の覚醒に待つ」(1−385頁)。 結局のところ、彼の言う社会主義をめざす「啓蒙」とは、下層階級を階級として結集させるのではなく、逆に階級としては解体し、国家意識の明確な国民としての自律性を強化してその線に沿って団結させると言うことにほかならなくなる。従ってまた彼の言う社会主義社会像は、革命運動に於ける階級的連帯に支えられるのではなく、国家への忠誠をちかう個人としての国民に解体された労働者や資本家を、国家が目的合理的に組織するという形で提示されることとなるのであった。

  このことを最も端的にあらわしているのは、彼の「社会主義の労働的軍隊」「徴兵的労働組織」という発想であろう。北の社会主義経済についての基本構想は「ツラストの進行を継続」した資本の「大合同」(1−63頁)によって、破壊的競争と浪費をなくすということにつきているが、この大合同に「徴兵的労働組織」(1−31頁)を対置している点が著るしく特徴的と言える。彼は次のように説明する。「今日の公民国家の軍隊は絶対の専制と無限の奴隷的服従の階級とに組織せられ、其の報酬の如きは往年の主従の如き差ありと雖も、社会主義の労働的軍隊に於ては各個人の自由と独立は充分に保障せられ、権力的命令組織を全く排斥して公共的義務の道徳的活動と他の多くの奨励的動機とによりて労働し、物質的報酬に至っては如何なる軽重の職務も全く同一となること是れなり。即ち約言すれば、社会主義の軍隊的労働組織とは徴兵の手続によりて召集せられたる壮丁より中老に至るまでの国民が、自己の天性に基く職業の撰択と、自由独立の基礎に立つ秩序的大合同の生産方法なりと云ふを得べし」(1−32頁)と。

  なるほど待遇は画期的に改善され、組織は民主化されたと云えよう。しかし、徴兵という手続きは権力的な上からの動員であり、自由と独立もその枠のなかだけのことにすぎなくなる。従って北の言う社会主義の啓蒙運動とは、このような徴兵に堪え得る愛国心を持った国民をつく出すことにほかならないとも云えよう。そしてこれこそが北の社会主義運動論の軸をなす観点なのであった。

  北が「革命とは思想系を全く異にすと云ふことにして流血と否とは問題外なり」(1-389頁)と云う時、それはこれまでみてきたような、旧い階級的良心の掃討こそが革命の本質的問題なのだという主張と読める。そしてこのような啓蒙によって形成された団結からどのような形態の連動が生れるかは、その直面した条件にかかわるというのである。彼はこの点については、日本では流血を必要としないと断じ、彼の社会主義運動論は啓蒙運動を基礎とした「法律戦争」論として展開されてゆくことになるのである。「吾人をして露西亜に生れしとせよ、吾人は社会民主々義者の口舌を嘲笑して爆烈弾の主張者たるべし!」(1-388頁)と述べた北は、日本の場合には「実に維新革命の理想を実現せんとする経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」(1-389頁)とするのである。つまり日本には「法律戦争を戦ふべき法律的形式」が存在しているというのである。「国家内容の革命は国家主権の名の下に一に投票によりて展開す。―『投票』は経済的維新革命の弾丸にして普通選挙権の獲得は弾薬庫の占領なり。」(同前)「経済的維新革命は投票の階級闘争を以て黄金貴族の資本と土地とを国家に吸収し事実上の政権独占を打破すべし」(1-393頁)と。そしてまた、彼は「社会が今日まで進化し而して階級闘争の優劣を表白するに投票の方法を以てするに至れり」(1−388頁)と述べて、このような「投票」による革命が可能となったことは、闘争方法そのものの進化なのだと強調するのであった。

  しかし、この法律戦争論をたんに普通選挙さえ獲得されれば第2の維新革命が実現できるのだというように読んでしまっては、北がこれまでつみ上げてきた論理にそぐわなくなるであろう。彼は「一切は生存競争なり、真理の生存競争に打ち勝ちて社会民主々義が全国民の頭脳を占領せる時、茲(ここ)に国家の意志は新たなる社会的勢力を表白して経済的維新革命が法律戦争によりて成就せらるゝの時なり」(1−385頁)と述べているのであり、啓蒙運動によって「新たなる社会的勢力」が「強力」となっているという前提があってはじめて、普通選挙による法律戦争の勝利がありうるとの主張と解すべきであろう。そして彼は、現実には日露戦争に於ける国民の団結、とくに満州から帰還してくる兵士たちに、この新しい社会的勢力を見出そうとしていた。

  「満州の誠忠質実なる労働者が帰り来る時!―今、彼等は続々として帰りつゝあり、人は彼等の凱旋を迎ふと雖も彼等は凱旋者にあらずして法律戦争を戦はんが為めの進撃軍なり」 (1-390〜1頁〉「吾人は断言す、普通選挙権の獲得は片々たる数千百人の請願によりて得らるべからず、実に根本的啓蒙運動による全国民の覚醒によりて彼等権力者の一団を威圧して服従せしむることなりと。凡ての権利は強力の決定なり。団結に覚醒せるときに強力生ず。…国民の下層にして団結の強力なることを覚醒せざる間は権利を要求すべき基礎の強力なし。吾人はこの点に於て万国社会党大会の決議に反して日露戦争の効果を天則の名に於て讃美す。国民は団結したり。団結の強力なることは明らかに意識せられたり。 而してしょう(火・章)烟の間に翻へりたる『愛国』の旗は今や法律戦争の進撃軍の陣頭に高く掲げられたり。」(1−392頁)

  北にとって普通選挙とは、多様な利害の統合のためのものではなく、「愛国」の団結を国家意志に高めるためのものであった。そして彼がそのための啓蒙運動を戦争と徴兵制軍隊に期待していることは、さきの徴兵的労働組織の問題と合せて、北のその後をみるために注目しておかなくてはならないであろう。彼は天皇の軍隊を国民の軍隊と読みかえることでこの論を立てていると思われるが、この読みかえがそのように簡単にゆく問題でなかったことは、のちの青年将校と北との関係のなかにも現れてくる。もちろん北のこの読みかえは、さきの最高機関としての天皇の性格づけを前提としていたにちがいない。そしてその問題はもう一つの別の面でも彼の普通選挙論の暗黙の前提となっていたことであろう。

  すなわち北の憲法論から言えば、国家の最高機関は天皇と議会の合体したものとされるのであるから、たんに議会の多数を得たとしても最高機関の一部にくい込んだにすぎない。しかも彼は貴族院の問題に触れていないのだから、普選で制圧することが可能なのは衆議院だけということになる。とすれば、彼の普選=無血革命論は、普選によってその姿をあらわした社会的勢力の意志に他の国家機関が従うということが前提されねばならない。しかし事態がそのように進行するという保証は、制度的には存在せず、社会的勢力の圧倒的強さという点以外には求めえなくなる。ところで、圧倒的な社会的勢力は北の理論から言えば、国家意志を形成することになり、それは超憲法的存在となるはずであった。

  こうみてくると、彼の普選中心論は彼の理論から出てくる唯一必然の結論ではないと云わざるをえなくなる。何故なら超憲法的な力が何も普選だけにこだわることはないからである。国家の最高機関を構成する要素のうち最大の力を持つ天皇を動かした方がはるかに効果的であることは明らかであろう。もちろん当時は、後世の我々からは想像し難い程に、普選の効果が過大視されていたことが、北をこのような普選中心論に走らせたのであろうし、またそれは当時としては極めて急進的と云える議論ではあった。しかし北のこれまでつみ上げて来た理論から云えば、後年の天皇を擁したクーデターの方が、より直接的結論であるように思われるのである。

  『国家改造案原理大綱』は次の如く述べている。「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終二天皇大権ノ発動を奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」(2-219〜20頁)、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動卜見ルヘシ」(2-221頁)。そしてそれはまさに、さきに引用した「団結は勢力なり、 社会的勢力は主権なり」という13年前の一文と直結していると云えよう。そこでは普通選挙権はもはや変革の突破口ではなくなり、クーデターの下で、改造体制の一環として上から与えられるものに転化していた。

  このように、普選=無血革命論が、北の論理の筋道から云って、基礎薄弱なものであったとすれば、この普選論にみあう形で提示されている世界連邦による世界平和論が、彼の理論体系から完全にはみ出したものになることは必然であった。彼はまずその進化論の見地から、国家を発展させる基本的な力である社会の同化作用が更に拡大すれば世界大の単一社会があらわれると考える。そしてそこに至る中間頃として世界連邦による世界平和という進化の段階を設定しこれを社会主義の当面の目標にしようとするのである。つまり、階級闘争が「投票」で解決されるまでに進化したとする考え方を拡大して、国家競争をも世界連邦の連邦議会に於て解決するように進化させうるというのであった。日露戦争の勝利という状況の下で、北は帝国主義者としての興奮からさめて、帝国主義を克服する問題に眼をむけたとも言える。

  「社会主義の世界連邦論は斯の競争の単位を世界の単位に進化せしむると共に、国家競争の内容を連邦議会の議決に進化せしめんとする者なり」(1-112頁)、「社会主義の戦争絶滅は世界連邦国の建設によりて期待し、帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能はざらしむるに至らしむる平和にあり」(1-111頁)、「社会主義の世界連邦国は国家人種の分化的発達の上に世界的同化作用を為さんとする者なり」(同前) 。そして彼は、主体化した国家人格は帝国主義という野蛮な段階から世界連邦の形成へと進化するというのである。「個人が其の権威に覚醒せるとき茲に戦士となりて他の個人の上に自己の権威を加へんとする如く、君主等の所有権の下より脱したる国家は其の実在の人格たる権威に覚醒したる結果、他の国家の権威を無視して自己の其れを其の上に振はんとす。―帝国主義と云ふもの是れなり。天則に不用と誤謬となし。社会主義は国家の権威を主張すべき点に於て明らかに帝国主義の進化を継承す。即ち個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なき如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずしては万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし」(1-434頁)。そして日本が帝国主義の野蛮な段階にあることを認めて、次のようにも書いた。「吾人は日本国の貴族的蛮風の自由が更に進化して文明の民主的自由となりて支那朝鮮の自由を蹂躙しつゝあるを断々として止めしめざるべからず」(1-435頁)と。

  しかしこの世界国家を展望した世界連邦による世界平和論が、理論的難点を持っていることは、おそらく北自身も気づいていたのではないかと思われる。彼は次のように書いていた。「階級的道徳、階級的智識、階級的容貌によりて今日階級闘争の行はれつゝある如く、階級間の隔絶より甚しく同化作用に困難なる今日の国家間に於ては国家的道徳国家的智識国家的容貌の為めに行はるゝ国家競争を避くる能はず」(1-432頁)。つまり、 世界連邦から世界国家への進化の推進力となるべき世界的同化作用が、どのような基礎の上に展開されるかについて、北の理論は何の解答も用意していないとうことである。彼は「経済的境遇の甚しき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現と及び世界的言語(例へぱエスペラントの如き)とによりて掃討されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能はず」(同前)として、世界連邦と世界的言語が世界的同化作用の基盤であるかのように述べているが、しかしこの説明も、そもそも世界的同化作用を前提としなければ、世界連邦の成立さえもありえないではないか、との疑問に答えることが出来ない。

  彼の進化論から云えば、国家競争は「避くる能はず」とか「無視する能はず」といった消極的に容認さるべきものではなく、人類進化のための積極的な力であり、それ故に国民の国家への集中と国家の強化とを強調した筈である。それは国家を通さない個人間の国際的連帯を否定するまでに強烈であった。彼は社会主義者の非戦論を「原子的個人を仮定して直ちに今日の十億万人を打て一丸たらしめんとする如き世界主義なり」(1-431頁〉としてしりぞけている。つまり北の理論で云えば、個人の側から国家をこえる世界的同化作用が生ずる余地はなくなってしまうのである。残る方法は、国家そのもののなかに世界への方向が内在するという論理を組む以外にはなかった。

  北は個人と国家との間に想定した関係をそのまま持ち込んで、国家は世界に対して道徳的義務を負う倫理的制度だと主張しようとする。「国家が個人の分子を包容して一個体たると共に、世界は国家を包容して其の個体の分子となす。故に個人が其れ自身を最善ならしむるは国家及び社会に対する最も高貴なる道徳的義務なる如く、国家は其の包含する分子たる個人と分子として包含せらる世界の為めに国家自身を最善ならしむる道徳的義務を有す。此の義務を果すことによりて国家はルーテルの言へる如く倫理的制度たり。然るに、個人が其の小我を終局目的として国家の利害を害するならば国家の大我より見て犯罪なる如く、 国家にして若し―否!今日の如く世界の大我を忘却し国家の小我を中心として凡ての行動を執りつゝあること帝国主義者の讃美しつゝある如くなるは、実に倫理的制度たるを無視せる国家の犯罪なり」(1-122頁)と。

  しかし、彼が社会=大我、個人=小我と述べた際には、個人は社会のなかでしか生きられず、 そこから社会を強めようとする意識が生まれるという点を基礎としたのであった。また国家は 国家意識にもとづいた社会的勢力によって規制される筈であった。とすれば、社会と個人との関係をそのままあてはめて、国家=小我、世界=大我とする主張は、彼のこれまでの理論の展開からはづれたものと言わざるを得ない。彼の理論展開からすれば、問題はあくまでも、個人―国家―世界の3段階を切り離すことなく、その進化の筋道を説明しなければならなかったと考えられる。彼は進化を倫理的価値の実現とみるのであるから、帝国主義→世界連邦→世界国家が進化の必然の過程であるということを証明したうえで、国家は世界連邦実現の倫理的義務を負うと主張するのでなければ、彼は自ら設定した論理の手続きを無視するものと評されても致方あるまい。つまり、帝国主義から世界連邦への進化の必然を説くことなく、「社会主義は近代に入りて漸く忠君より覚醒せる愛国心を更に他の国家に拡充せしめて他の国家の自由独立を尊重する所の愛国心なり」(1-381頁)などと説くことは、北自身の進化論的見方と相反して いるということなのである。

  では北の進化論を世界国家に向っておしすすめてみるとどういうことになるのであろうか。彼が想定した進化の基本的な形は、社会従って国家が拡大し、そのなかでの国民の同化作用と分化作用とが進行する、それによって強化された社会=国家が生存競争のなかで更に自らを拡大してゆくというものであった。従って単一の世界社会=世界国家もこの基本形の進行のはてに設定されねばならなかった筈である。つまり現実の国家を固定しておきながら、その国家をこえる世界的同化作用を考え、世界連邦の実現を説くのではなしに、現実の国家の拡大による同化作用の拡大が世界にまで達するというのが、北の進化論から出てくる結論だったと思われるのである。

  ここでもまた、後年の『国家改造案原理大綱』の方が、この結論に忠実なのではないかと思われてくるのである。『原理大綱』は「国家改造ヲ終ルト共二亜細亜連盟ノ義旗ヲ飜シテ真個到来スベキ世界連邦ノ牛耳ヲ把」(2-220頁)ることを目的とする。しかしこの亜細亜連盟から世界連邦への道は、『国体論及び純正社会主義』に於ける世界連邦による世界平和論とは本質的に異っている。『原理大綱』の説く展望は次のようなものであった。「現時マテノ国際的戦国時代二亜イテ来ルヘキ可能ナル世界ノ平和ハ必ス世界ノ大小国家ノ上二君臨スル最強ナル国家ノ出現ニヨツテ維持サル丶封建的平和ナラサルベカラズ。…全世界二与ヘラレタル当面ノ問題ハ何ノ国家何ノ民族ガ徳川将軍タリ神聖皇帝タルカノ一事アルノミ」(2-280〜1頁)。つまりこの世界連邦は、連邦議会で国家競争を解決するようなものではなく、最強の国家が君臨することを予定したものにほかならなかった。北の云う国家改造が日本をこの最強国家たらしめんとするものであることは云うまでもないが、同化作用もまた─この用語は使われなくなっているが─この過程と共に進展するものとされているのである。例えば、彼は改造国家の教育に於て「英語ヲ廃シテ国際語(エスペラント)ヲ課シ第二国語トス」ることとしたが、その理由として次のように述べている。

  「国際語ノ採用ガ特二当面二切迫セル必要アリト言フ積極的理由ハ…日本ハ最モ近キ将来二於テ極東西比利亜濠洲等ヲ其ノ主権下二置クトキ現在ノ欧米各国語ヲ有スル者ノ外二新タニ印度人、支那人、朝鮮人ノ移住ヲ迎フルガ故二殆卜世界凡テノ言語ヲ我ガ新領土内二雑用セシメザルベカラズ。此二対シテ朝鮮二日本語ヲ強制シタル如ク我自ラ不便二苦シム国語ヲ比較的良好ナル国語ヲ有スル欧人二強制スル能ハズ。印度人支那人ノ国語亦決シテ日本語ヨリ劣悪ナリト言フ能ハズ。…言語ノ統一ナクシテ大領土ヲ有スルコトハ只瓦解二至ルマテノ槿花一朝ノ栄ノミ」(2-253頁)と。それは大帝国内部に於て、エスペラントによってより広汎な同化作用を推進するということにほかならないであろう。また世界的同化作用については「東西文明 ノ融合トハ日本化シ世界化シタル亜細亜思想ヲ以テ今ノ低級文明国民ヲ啓蒙スルコトニ存ス」(2-280頁)と述べているが、これもまた大帝国の建設を前提としていることは言うまでもないであろう。

  北が『国体論及び純正社会主義』に於て、一方で、「国家の強化拡大を熱望しその理論的基礎づけに狂奔する強烈な国家主義者としての自己をあらわにしながら、他方、その社会主義運動論の結論として普選=無血革命論、世界連邦=世界平和論を説いたことは、恐らく日露戦争の勝利によって帝国主義国家としての日本の地位が確立したという現実と、日露戦争にあらわれた国民のエネルギーを、彼の云う国家主義としての社会主義の方向に誘導しうるという期待とにもとづいていたことであろう。そしてこの点において変らなかったならば、彼が、その進化論の必然的帰結とは言えない社会主義運動論を維持しつづけるということもありえたかもしれない。

  しかし彼は、中国革命という新たな状況のなかに身をおくことによって、中国革命に対応する日本の改造という新たな視点を獲得し、それと共にかつての社会主義運動論を捨て去ってゆくのであった。

 〔未 完〕

 北一輝論(2)へ

















(私論.私見)