大東亜戦争史4、ドイツ降伏後より敗戦終戦まで |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、ドイツ降伏後より敗戦終戦までを確認する。 |
ドイツ降伏後の1945(昭和20)年の動き |
5. 9日 | 日本政府、ドイツ降伏後も日本の戦争遂行決意は不変である旨の声明を出す。 | |
5.11日 | 「最高戦争指導会議」(総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、参謀総長、軍令部総長の6名からなる)が開かれ、ソ連による調停で戦争終結を図る案が検討されている。5.14日、正式にソ連に対し和平仲介依頼の申し込みを決定した。 |
【大本営が「義号作戦」発動】 |
5.24日、大本営が「義号作戦」発動。 沖縄の北・中飛行場に空挺隊を強行着陸させ、一時的に両飛行場を制圧し、その機に乗じて陸海航空兵力で沖縄周辺艦艇に総攻撃を行うことを企図した、陸軍による作戦で、熊本飛行場を離陸した重爆12機は沖縄に向かった。北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告されたが4機が目的地に達せず引き返した。空挺隊員の決死の奮闘により飛行場は大混乱に陥り、作戦は概ね成功した。米軍戦史によると、飛行機9機破壊炎上、29損傷、7万ガロンのガソリンが炎上した。米軍の死傷約20名、義烈空挺隊の死体は69名が確認されている。なお空挺隊員の1名が敵中を突破し、6月12日頃、島尻南部に到着、軍司令部に状況報告をした。 |
5.24日、B29・525機が東京南部や横浜などを絨毯爆撃。死者762名。以降も続くことになった。 5.25日、B29・470機が主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面などを絨毯爆撃。死者3651名、焼失家屋16万6千戸。 |
5.28日 | 第三回モスクワ会談。この会談で、ソ連の8.8日までの参戦が明らかにされた。 | |
6.3日 | 広田弘毅が、ソ連のマリク駐日大使(スメターニンの後任)を疎開先の箱根に訪ね、対米和平の仲介役になってくれるよう依頼している。しかし、マリク駐日大使の返事は曖昧だっため、徒労に終わる。 |
6. 8日 | 天皇臨席の最高戦争指導会議で、「本土決戦」の方針が打ち出される。 | |
6.13日 | 「大政翼賛会」解散。 |
【沖縄戦、最後の奮戦】 | |||
6月6日、米軍は小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制圧し、戦線は海軍司令部壕を中心とする直径4キロほどの小さな円に絞られた。その日の夕方、大田中将は次の辞世を詠んだ。「身はたとへ沖縄の辺に朽ちるとも守り継ぐべし大和島根は」。その後、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の長い電文をしたためた。牛島中将は、激戦に県民がいかに処したか、深い同情を込めながら次のように報告している。
海軍陸戦隊は最後まで抵抗を続けた。米軍の戦闘記録はこう記している。
6.11日、抗戦は続いていた。沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将が、海軍の沖縄根拠地隊司令部から小禄地区で32軍司令官牛島中将に 可能な限りの部下を地下壕から脱出させ、後方攪乱や遊撃戦を命じた。最後の自決に巻き込まないようにとの配慮である。さらに、これらの将兵が陸軍から脱走兵と誤解されないよう、わざわざ陸軍に通知している。 12日午後、司令部壕の上の丘も占領され、最後の時は迫った。「自力で行動できる者は最後まで生き延びて戦ってくれ」との指示が出された。13日午前1時、「総員、脱出せよ。壕は爆破される」との大声での命令が伝えられた。大田中将以下、幕僚たち6名が拳銃で自決する銃声が響いた。壕内で爆雷の爆発音が響き、爆風が押し寄せ、電気が消えて真っ暗になった。 |
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【沖縄線に於ける米側被害考】 | |||||||
「沖縄線に於ける米側被害」はまだ解明されていない。現段階で判明する情報は次の通り。
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【ソ連仲介の終戦工作始まる】 |
6.22日、天皇、終戦を目標とする「時局収拾」方策の具体化を指示。これを受けて対日戦に参加していないソ連を仲介にして和平交渉を開始することが決定された。 この対ソ交渉のための特使に近衛が選ばれ、この時ブレーンと共に作成された「和平交渉の要綱」は、和平交渉の基本方針として、概要「国体の護持=天皇制の維持を絶対条件とするも、最悪の場合御譲位も止む無し」、領土は「固有本土をもって満足とす」、「民本政治」への復帰のため「若干法規の改正、教育の刷新」、「最小限度の軍備の保持が認められない場合は、一時完全なる武装解除に同意する」などを骨子としていた。但し、天皇の合意を取り付けていたのかどうかはっきりしない。 |
【沖縄戦、玉砕】 |
6.23日、牛島中将と長参謀長とが摩文仁司令部前で自決、沖縄の日本軍が玉砕した。米軍上陸以来の激しい持久戦の幕が降りた。 県民約10万名余、陸軍牛島中将以下3師団約8万6千人、海軍太田少将以下約1万名、米軍約1万2千余名、さらに、陸海軍特攻隊員4千4百余名、併せて24万余名の膨大な県民、軍人の名前、出身地を大型石碑に刻み、整然と並べて広大な敷地に作られた見事な墓地を見て、県民の長年にわたるご努力には全く敬服の一語であると共に、世界に比するものの無い景観である。12歳以上の少年 |
6.23日 | 「義勇兵役法」公布。 | |
6.29日 | 天皇からスターリン宛に、米英との戦争終結についての話し合いのため近衛文麿元首相を派遣したいとの密電を打電。ソ連は色よい返事せず。 | |
6.30日 | 秋田の花岡鉱山で、強制連行の中国人労働者が蜂起する(花岡事件)。 |
【「ポツダム会談」】(「終戦への動き」) |
7.7日、トルーマンが、チャーチル.スターリンとの東ベルリンの郊外のポツダムでの会談に向かう。 連合国によって降伏の条件と戦後の対日政策の基本が定められ、米.英.ソ連.中国の4カ国が署名した「ポツダム宣言」が発せられた。宣言には、侵略した領土の放棄.天皇制の専制支配の除去.平和的民主的な日本の建設が要点網羅されていた。こうしてポツダム宣言によって日本の降伏が呼びかけられた。大本営参謀本部は、戦争継続による徹底抗戦-玉砕の道(本土決戦派と呼ばれた)か無条件降伏(和平派と呼ばれた)かの二股の道のいずれに針路を取るべきか最後の決断が迫られることになった。日帝支配層にとって「国体(天皇制)護持」こそが死守すべき望みであったが、「ポツダム宣言」は天皇制の専制支配の除去を明確にしており、隠密の外交交渉によってもその確約は得られず困惑を深めていった。 |
7.10 | 最高戦争指導会議が、近衛文麿のソ連派遣を決定し、ソ連に申し入れたが、7.18日拒否され、この目論みも潰えることになった。 | |
7.16日 | 米、ニューメキシコで世界最初のプルトニウム型原爆の実験成功。 |
【「ポツダム宣言」発表される】 |
7.17日、(~8.2日)ポツダム会談が開かれ、米英中3国の共同宣言として7.26日、ポツダム宣言発表。ソ連には通告されなかった。日本に無条件降伏を呼びかける。ソ連は対日参戦と共に参加する。
ポツダム宣言の内容を見るのに、軍国主義勢力の除去、連合国軍による保障占領、植民地・占領地の放棄、軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、国民の間の民主的傾向の復活・強化などの要求が突きつけられていた。 東郷外相は、「無条件降伏を求めたものではない」として受諾を主張した。陸海軍から見れば想像を越えた苛酷な条件であり反発した。7.28日、鈴木首相は、記者会見で、「日本政府としては何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺して戦争に邁進するのみである」との談話を発表した。 |
7.19日、B29・120機が福井空襲。死者1576人。
【広島へ原爆投下される】 | |||||
7.25日、原爆実験の成功を知ったトルーマンは、ソ連の対日参戦前までに原爆投下が必要と判断し、「広島、小倉、長崎、新潟いずれかの都市」への投下を命じた。 8.6日午前8時15分、広島市に原子爆弾投下される。実戦で使われた核兵器の世界最初の登場となった。当時の広島市の人口は推定で35万人、そのうち被爆直後から12月までの間の被爆死亡者は9万人ないし16万人と推定されている。原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。この米軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜された米軍爆撃機B-24(タロア号・ロンサムレディ号・その他)の乗組員である。彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった。 同日8時30分頃、呉鎮守府が広島が空襲を受けて壊滅した旨を大本営海軍部に報告し、続いて10時頃、第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。昼過ぎ、同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を届けている。大本営は、政府首脳に情報を伝え、午後早く「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との結論が出された。夕刻、蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に「広島市が全滅」と上奏した。大本営は翌7日15時30分に次のような大本営発表を出した。
8月6日深夜(米東部標準時。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。
新聞各紙は、原爆が投下された8月6日の段階では投下された爆弾が新型爆弾と確認が取れていなかったため黙殺した。翌8月7日、朝日新聞は一面の隅に小さく「B29廣島を奨爆。若干の被害を被った」と報道した。詳細を大本営から新型爆弾が投下との報道発表を受けた翌8月8日、一面トップで廣島に新型爆弾が投下された旨を報じた。8月9日の朝日新聞ではアメリカによる原子爆弾の投下を中立国であったスイスがいち早く非難声明を出したことを記事にした。 投下したのは米陸軍航空隊のB29型重爆撃機エノラ・ゲイ号(同機の機長・ポール・ティベッツの母親のファーストネームから命名、全長30.2m、翼幅43m)で、原子爆弾リトル・ボーイを搭載し、12名の搭乗員と共に太平洋西部のマリアナ諸島テニアン島の基地から飛び立った。原爆投下時の科学観測と写真撮影を行う2機を従えていた。日本時間午前8時15分、高度約9600mから原爆を投下、上空約600mで爆発した。同号は一線を退いた後、解体し保存され、胴体部分が1995年に米国スミソニアン博物館に展示されている。 トルーマンは、次のように述べている。
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【沖縄本島の伊江島で米軍爆弾輸送船(LCT)爆発事件】 | |
「★阿修羅♪ > 戦争b25 」「 蒲田の富士山 日時 2024 年 8 月 07 日 」「真っ白だった砂浜に遺体が散乱した…もう一つの「忘れてはならぬ8月6日」 米軍占領下、沖縄・伊江島の悲劇(東京新聞)」。
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【ソ連参戦の駆け引き】 |
スターリンは、45.5月のドイツ降伏後より3ヵ月後の8月下旬よりの対日攻撃計画を立てていた。しかし、7.16日にアメリカが原子爆弾実験成功の報を受けるや、急遽対日攻撃計画の日程切り上げを命令した。 日本側は、シベリア鉄道の輸送能力から推定し、ソ連軍の対日攻撃を早くても8月末、通常9月か10月まで開始できないと想定していた。ならば3ヶ月を乗り切れば、酷寒の季節が到来するので、翌年春までに防御施設の構築を進めれば関東軍は持ちこたえられると読んでいた。 しかし、広島への原爆投下を見て、ソ連は佐藤駐ソ日本大使に「明日、モロトフ外相が大使と会見する」との通知を行い、8.8日、佐藤駐ソ日本大使が出かけると、「ソ連政府は、7.26日に発表された『ポツダム宣言』(日本への無条件降伏要求)に加入しました。ソ連と日本は、現地時間の8.9日以降、戦争状態に入ります」の通告が為された。こうして、ソ連の対日参戦布告が為された。結局、虚虚実実の駆け引きの下で、日ソ中立条約は役に立たなかった。 8.9日、予告通りに、ソ連の赤軍が満州、朝鮮(8.13日)、南樺太に侵攻を開始した。しかし、不意打ちをくらったとはいえ、関東軍は頑強に抵抗し続けた。 |
【長崎へ原爆投下される】 | |
8.9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下された。米国のB29爆撃機「ボックスカー」が、広島を焼き尽くしたウラン型原爆より協力なプルトニウム型原爆を投下した。 原子爆弾の威力は凄まじく民族抹殺の危機を募らせた。こうして大日本帝国は「進むも地獄、引くも地獄の」体制危機に陥った。 |
8.9-10日朝にかけて、原子爆弾投下に関するリーフレット(AB-11)が大阪、長崎、福岡、東京に投下された。次のように記されていた。
8.10日、ソ連参戦を記した新しい内容のリーフレットが10日に熊本、八幡、大牟田、横浜に投下された。次のように記されていた。
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【御前会議(最高戦争指導会議)が開かれるも小田原評定繰り返す】 | |||
8.9日、御前会議(最高戦争指導会議)が開かれ、鈴木首相は、「これ以上の戦争継続は不可能だ」と初めて宣言受諾の意思を明言した。軍部は、1・国体維持(天皇制の存続)、戦犯処理に日本を加える、3・武装解除は日本が行う、4・占領の地域、兵力、期間を限定するの4条件が必要と述べ、、ポツダム宣言受諾派と条件付受諾派と徹底抗戦論調が交叉し、小田原評定の場となり容易に結論が得られなかった。 8.10日、御前会議で「国体護持」条件にポツダム宣言受諾を決定。政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」とスイスとスウェーデンに電報を打った。 鈴木首相が、「かくなる上は異例の措置で恐懼に堪えないが、聖断を仰ぎ、それをもって本会議の結論としたい」と上奏し、次のように発言したと云う。
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8.12日 | バーンズ長官名で、「降伏の瞬間から天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する(subject to)」との回答が為された。外務省は、「subject to」を「制限下におかれる」と訳したが、軍部は「隷属する」との意であるとして反発した。政府内は再び堂々巡りの議論に陥った。 | |
8.12日 | 北村サヨが「天照皇大神宮教(踊る宗教)」を開教。 | |
8.13日 | 御前会議とそれに続く閣議が開かれ、受諾慎重論が台頭し、紛糾。 |
【御前会議がポツダム宣言の受諾を最終的に決定】 | ||
8.14日、最後の御前会議。聖断は、「この際、先方の回答をそのまま受諾してよろしい」。午後11時、ポツダム宣言の受諾を最終的に決定、連合国に通告。 場所は宮中の防空壕の中であった。まず東郷外相が宣言受諾やむなしを述べた。これに対し、阿南陸相が本土決戦を呼号して反対した。米内海相は外相説に賛成。平沼枢密院相は40分近く詮議した後外相説に賛成。梅津.豊田両参謀総長は陸相説に賛成。こうして抗戦派と和平派の比率は3対3。鈴木首相は事故の意見を述べず、陛下の御前に進み出て「この際は聖断を拝して会議の結論と致したく存じます」。こうして最後の決が天皇によってしか決められない事態となった。 明治の政府と重臣達は、戦争しつつ引き際を考えていた節があるのに比して、天皇と最も近い立場にいた木戸内府は、「衆知を集めて熟慮すれども断行せず」。そうこうするうちにもこの間吉田派の和平工作が進行していた。 阿南惟幾陸相が陸相官邸で割腹自殺。遺書には「一死をもって謝し奉る」と記されていた。 |
【原爆投下直後の米軍ビラ】 | |
米軍は、原爆投下直後に全国で「即刻都市より非難せよ。日本国民に告ぐ」の見出しビラを大量散布した。ビラには次のように書かれていた。
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【以降の流れは、「大東亜戦争史5、戦争災害総括」の項に記す】
(私論.私見)