大東亜戦争史4、ドイツ降伏後より敗戦終戦まで


 更新日/2022(平成31.5.1日栄和改元/栄和4).1.7日

 【以前の流れは、「大東亜戦争史3、イタリア降伏からドイツ降伏まで」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ドイツ降伏後より敗戦終戦までを確認する。


ドイツ降伏後の1945(昭和20)年の動き

 5. 9日  日本政府、ドイツ降伏後も日本の戦争遂行決意は不変である旨の声明を出す。
 5.11日  「最高戦争指導会議」(総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、参謀総長、軍令部総長の6名からなる)が開かれ、ソ連による調停で戦争終結を図る案が検討されている。5.14日、正式にソ連に対し和平仲介依頼の申し込みを決定した。

【大本営が「義号作戦」発動】
 5.24日、大本営が「義号作戦」発動。 沖縄の北・中飛行場に空挺隊を強行着陸させ、一時的に両飛行場を制圧し、その機に乗じて陸海航空兵力で沖縄周辺艦艇に総攻撃を行うことを企図した、陸軍による作戦で、熊本飛行場を離陸した重爆12機は沖縄に向かった。北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告されたが4機が目的地に達せず引き返した。空挺隊員の決死の奮闘により飛行場は大混乱に陥り、作戦は概ね成功した。米軍戦史によると、飛行機9機破壊炎上、29損傷、7万ガロンのガソリンが炎上した。米軍の死傷約20名、義烈空挺隊の死体は69名が確認されている。なお空挺隊員の1名が敵中を突破し、6月12日頃、島尻南部に到着、軍司令部に状況報告をした。

 5.24日、B29・525機が東京南部や横浜などを絨毯爆撃。死者762名。以降も続くことになった。
 5.25日、B29・470機が主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面などを絨毯爆撃。死者3651名、焼失家屋16万6千戸。

 5.28日  第三回モスクワ会談。この会談で、ソ連の8.8日までの参戦が明らかにされた。
 6.3日  広田弘毅が、ソ連のマリク駐日大使(スメターニンの後任)を疎開先の箱根に訪ね、対米和平の仲介役になってくれるよう依頼している。しかし、マリク駐日大使の返事は曖昧だっため、徒労に終わる。

 6. 8日  天皇臨席の最高戦争指導会議で、「本土決戦」の方針が打ち出される。
 6.13日  「大政翼賛会」解散。

【沖縄戦、最後の奮戦】
 6月6日、米軍は小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制圧し、戦線は海軍司令部壕を中心とする直径4キロほどの小さな円に絞られた。その日の夕方、大田中将は次の辞世を詠んだ。「身はたとへ沖縄の辺に朽ちるとも守り継ぐべし大和島根は」。その後、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の長い電文をしたためた。牛島中将は、激戦に県民がいかに処したか、深い同情を込めながら次のように報告している。

 発 沖縄根拠地隊司令官

 宛 海軍次官

 左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ、県ニハ既ニ通信力ナク、三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付、本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ、現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ。

 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ、県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ、相次グ砲爆撃ニ、家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ、僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難、尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ、乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ。

 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ、看護婦烹炊婦ハ元ヨリ、砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ。所詮敵来リナバ、老人子供ハ殺サルベク、婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ、親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ。


 看護婦ニ至リテハ、軍移動ニ際シ、衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ。更ニ軍ニ於テ、作戦ノ大転換アルヤ、夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ、輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ。

 是ヲ要スルニ、陸海軍□□沖縄ニ進駐以来、終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)、只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ、遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ。沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。

 沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う)

 海軍陸戦隊は最後まで抵抗を続けた。米軍の戦闘記録はこう記している。
 頑強な日本海軍の防衛戦にあって、海兵隊は6月7日、8日と二日間にわたる戦闘で、わずかしか進撃できなかった。戦車は使用できなかった。泥の層があつく、広い地域にわたって地雷が埋めてあり、さらにその周囲の丘には機関砲座がいっぱいあったからだ。

 6.11日、抗戦は続いていた。沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将が、海軍の沖縄根拠地隊司令部から小禄地区で32軍司令官牛島中将に別(けつべつ)電を、海軍次官あてに「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の長い電文を発した。県民の苦闘ぶりを報告し、県民に対して「後生特別ノゴ高配」を願った仁愛あふれる一文は、多くの県民の心を慰め、戦後は心ある政治家を動かして、沖縄の祖国復帰の原動力となった。

 可能な限りの部下を地下壕から脱出させ、後方攪乱や遊撃戦を命じた。最後の自決に巻き込まないようにとの配慮である。さらに、これらの将兵が陸軍から脱走兵と誤解されないよう、わざわざ陸軍に通知している。

 12日午後、司令部壕の上の丘も占領され、最後の時は迫った。「自力で行動できる者は最後まで生き延びて戦ってくれ」との指示が出された。13日午前1時、「総員、脱出せよ。壕は爆破される」との大声での命令が伝えられた。大田中将以下、幕僚たち6名が拳銃で自決する銃声が響いた。壕内で爆雷の爆発音が響き、爆風が押し寄せ、電気が消えて真っ暗になった。

【沖縄線に於ける米側被害考】
  「沖縄線に於ける米側被害」はまだ解明されていない。現段階で判明する情報は次の通り。
 ダグラス・マッカーサー陸軍元帥
 「沖縄では、大部分が特攻機から なる日本軍の攻撃で、米側は、艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害をだした。 これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出した米側の損害の総計を超えているものであった」。
 アーネスト・J・キング海軍元帥
 「四月六日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。 この特攻戦は凄惨を極めた。海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった」 。
 チェスター・W・ニミッツ海軍元帥
 「我が海軍が蒙った損害は、戦争中のどの海域よりも、はるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。  この大損害は、主として日本の航空攻撃、とくに特攻攻撃によるものであった」
 第五艦隊司令官スプルーアンス大将
 「敵軍の自殺航空攻撃の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能な、あらゆる手段を採用すべきである。第20航空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、 九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」

【ソ連仲介の終戦工作始まる】
 6.22日、天皇、終戦を目標とする「時局収拾」方策の具体化を指示。これを受けて対日戦に参加していないソ連を仲介にして和平交渉を開始することが決定された。

 この対ソ交渉のための特使に近衛が選ばれ、この時ブレーンと共に作成された「和平交渉の要綱」は、和平交渉の基本方針として、概要「国体の護持=天皇制の維持を絶対条件とするも、最悪の場合御譲位も止む無し」、領土は「固有本土をもって満足とす」、「民本政治」への復帰のため「若干法規の改正、教育の刷新」、「最小限度の軍備の保持が認められない場合は、一時完全なる武装解除に同意する」などを骨子としていた。但し、天皇の合意を取り付けていたのかどうかはっきりしない。

【沖縄戦、玉砕】
 6.23日、牛島中将と長参謀長とが摩文仁司令部前で自決、沖縄の日本軍が玉砕した。米軍上陸以来の激しい持久戦の幕が降りた。

 県民約10万名余、陸軍牛島中将以下3師団約8万6千人、海軍太田少将以下約1万名、米軍約1万2千余名、さらに、陸海軍特攻隊員4千4百余名、併せて24万余名の膨大な県民、軍人の名前、出身地を大型石碑に刻み、整然と並べて広大な敷地に作られた見事な墓地を見て、県民の長年にわたるご努力には全く敬服の一語であると共に、世界に比するものの無い景観である。12歳以上の少年
(てい)身隊員の地下(ごう)を駆け回る立派な働き、女子ひめゆり看護活動のけなげな働き等、悲惨暗(たん)たる物語りは到底語り得ない。

 6.23日  「義勇兵役法」公布。
 6.29日  天皇からスターリン宛に、米英との戦争終結についての話し合いのため近衛文麿元首相を派遣したいとの密電を打電。ソ連は色よい返事せず。
 6.30日  秋田の花岡鉱山で、強制連行の中国人労働者が蜂起する(花岡事件)。

【「ポツダム会談」】(「終戦への動き」)
 7.7日、トルーマンが、チャーチル.スターリンとの東ベルリンの郊外のポツダムでの会談に向かう。

 連合国によって降伏の条件と戦後の対日政策の基本が定められ、米.英.ソ連.中国の4カ国が署名した「ポツダム宣言」が発せられた。宣言には、侵略した領土の放棄.天皇制の専制支配の除去.平和的民主的な日本の建設が要点網羅されていた。こうしてポツダム宣言によって日本の降伏が呼びかけられた。大本営参謀本部は、戦争継続による徹底抗戦-玉砕の道(本土決戦派と呼ばれた)か無条件降伏(和平派と呼ばれた)かの二股の道のいずれに針路を取るべきか最後の決断が迫られることになった。日帝支配層にとって「国体(天皇制)護持」こそが死守すべき望みであったが、「ポツダム宣言」は天皇制の専制支配の除去を明確にしており、隠密の外交交渉によってもその確約は得られず困惑を深めていった。

 7.10  最高戦争指導会議が、近衛文麿のソ連派遣を決定し、ソ連に申し入れたが、7.18日拒否され、この目論みも潰えることになった。
 7.16日  米、ニューメキシコで世界最初のプルトニウム型原爆の実験成功。     

【「ポツダム宣言」発表される】
 7.17日、(~8.2日)ポツダム会談が開かれ、米英中3国の共同宣言として7.26日、ポツダム宣言発表。ソ連には通告されなかった。日本に無条件降伏を呼びかける。ソ連は対日参戦と共に参加する。  

 ポツダム宣言の内容を見るのに、軍国主義勢力の除去、連合国軍による保障占領、植民地・占領地の放棄、軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、国民の間の民主的傾向の復活・強化などの要求が突きつけられていた。

 東郷外相は、「無条件降伏を求めたものではない」として受諾を主張した。陸海軍から見れば想像を越えた苛酷な条件であり反発した。7.28日、鈴木首相は、記者会見で、「日本政府としては何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺して戦争に邁進するのみである」との談話を発表した。

 7.19日、B29・120機が福井空襲。死者1576人。


【広島へ原爆投下される】
 7.25日、原爆実験の成功を知ったトルーマンは、ソ連の対日参戦前までに原爆投下が必要と判断し、「広島、小倉、長崎、新潟いずれかの都市」への投下を命じた。

 8.6日午前8時15分、広島市に原子爆弾投下される。実戦で使われた核兵器の世界最初の登場となった。当時の広島市の人口は推定で35万人、そのうち被爆直後から12月までの間の被爆死亡者は9万人ないし16万人と推定されている。原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。この米軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜された米軍爆撃機B-24(タロア号・ロンサムレディ号・その他)の乗組員である。彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった。

 同日8時30分頃、呉鎮守府が広島が空襲を受けて壊滅した旨を大本営海軍部に報告し、続いて10時頃、第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。昼過ぎ、同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を届けている。大本営は、政府首脳に情報を伝え、午後早く「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との結論が出された。夕刻、蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に「広島市が全滅」と上奏した。大本営は翌7日15時30分に次のような大本営発表を出した。

一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり。

  8月6日深夜(米東部標準時。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。
 16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、2000倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。

 新聞各紙は、原爆が投下された8月6日の段階では投下された爆弾が新型爆弾と確認が取れていなかったため黙殺した。翌8月7日、朝日新聞は一面の隅に小さく「B29廣島を奨爆。若干の被害を被った」と報道した。詳細を大本営から新型爆弾が投下との報道発表を受けた翌8月8日、一面トップで廣島に新型爆弾が投下された旨を報じた。8月9日の朝日新聞ではアメリカによる原子爆弾の投下を中立国であったスイスがいち早く非難声明を出したことを記事にした。

 投下したのは米陸軍航空隊のB29型重爆撃機エノラ・ゲイ号(同機の機長・ポール・ティベッツの母親のファーストネームから命名、全長30.2m、翼幅43m)で、原子爆弾リトル・ボーイを搭載し、12名の搭乗員と共に太平洋西部のマリアナ諸島テニアン島の基地から飛び立った。原爆投下時の科学観測と写真撮影を行う2機を従えていた。日本時間午前8時15分、高度約9600mから原爆を投下、上空約600mで爆発した。同号は一線を退いた後、解体し保存され、胴体部分が1995年に米国スミソニアン博物館に展示されている。

 トルーマンは、次のように述べている。
 「原爆をどこでいつ使うか。その決定は私に一任されていた。誤解がないようにしてもらいたい。私は原爆を一つの武器だとみなしていた。その使用に疑念を持ったことはない。私がチャーチルに話したとき、彼も躊躇せず答えた。戦争を終わらせるのに役に立つであろうから、使用に賛成だと」。

【沖縄本島の伊江島で米軍爆弾輸送船(LCT)爆発事件】
 「★阿修羅♪ > 戦争b25 」「 蒲田の富士山 日時 2024 年 8 月 07 日 」「真っ白だった砂浜に遺体が散乱した…もう一つの「忘れてはならぬ8月6日」 米軍占領下、沖縄・伊江島の悲劇(東京新聞)」。
 広島への原爆投下から79年の「原爆の日」を迎えた6日、沖縄の離島・伊江島(いえじま)では、島を襲った惨事の犠牲者を悼む式典が静かに営まれた。戦後間もない1948年8月6日、米軍の爆弾輸送船(LCT)が爆発し、住民ら107人が死亡する事件があった。今も多数の不発弾が残る沖縄では「もう一つの8.6」が語り継がれている。(太田理英子)

◆あの日も雲一つない晴天だった
 沖縄本島の北西に位置する人口約4000人の伊江島。6日午後、島の玄関口・伊江港近くで、慰霊碑を前に遺族や住民ら約70人が黙とうをささげた。「あの日も、今日みたいに雲一つない晴天だった。港には船を出迎える人たちがたくさん来ていた」。式典に参列した元伊江村長・島袋清徳(せいとく)さん(86)はそう振り返った。

◆125トンの爆弾を積んだ船が爆発
 76年前の8月6日午後5時ごろ、港で約125トンの爆弾を積んだLCTが爆発した。港には島と本島を結ぶ連絡船が到着したばかり。この船に、当時小学5年の島袋さんと父親も乗船していた。島袋さんはのどが渇いていたため、船をいち早く下りると父親から離れ、近くの民家へ向かった。ひしゃくで水がめから水をすくい、口に入れようとした瞬間、耳が引き裂かれるような爆音が響き、目の前が一瞬真っ暗に。周りは家族を捜す声や怒鳴り声が飛び交い、パニック状態だった。母親とともに父親を捜しに港へ向かうと、真っ白だった砂浜が黒く染まり、真っ黒に焦げた遺体が散乱。凄惨な光景に立ちすくんだ。父親は無事だったが、さっきまで一緒だった乗客を含む多くの住民が爆発に巻き込まれ、命を落とした。

◆調査報告書が公開されたのは60年後
 伊江島は終戦前の1945年4月に米軍に占領され、本土空襲に向けた大量の爆弾が集積された。住民は島外に強制移住させられ、帰郷が許されたのは47年3月。爆発の1カ月前、米軍は島に持ち込んだ爆弾の投棄を始めていた。島袋さんは「住民は焦土と化した故郷に戻り、日常と農地を回復しようと一生懸命だった。ようやく未来が見えてきたときに起きた事件だった」と語る。当時、事件はほとんど報道されなかった。惨事を目の当たりにした住民たちの精神的ダメージはあまりに大きく、事件を口にする人は少なかったという。米軍側の調査報告書が公開されたのは2008年で、それまで詳細な記録もなかった。

◆不発弾は今も日常的に見つかる
 島袋さんは、数少ない語り部の一人。終戦後の出来事だが、戦争の延長線上で起きたと考えてきた。「伊江島にとっての『戦後』は沖縄本島よりも遅い。この島の戦争体験が忘れ去られないよう、継承していかなければならない」。「事件は現在にも通じる問題」と強調するのは、伊江島出身で、事件を語り継ぐ「伊江島米軍LCT爆発事件8・6の会」発起人の島袋和幸さん(76)=東京都=だ。沖縄では、沖縄戦の不発弾が日常的に見つかっている現実がある。県は今も、約1878トンの不発弾が埋没していると推定。工事などで見つかることが多いが、市民生活への影響は大きく、事故の危険と隣り合わせの状況だ。「『爆弾禍』は広島と長崎の原爆、東京大空襲に加え、進行中のイスラエルの(パレスチナ自治区ガザへの)攻撃にも通じ、今なお続く。伊江島の被害実態を伝えることは、これからの反戦にもつながるはずだ」。

【ソ連参戦の駆け引き】
 スターリンは、45.5月のドイツ降伏後より3ヵ月後の8月下旬よりの対日攻撃計画を立てていた。しかし、7.16日にアメリカが原子爆弾実験成功の報を受けるや、急遽対日攻撃計画の日程切り上げを命令した。

 日本側は、シベリア鉄道の輸送能力から推定し、ソ連軍の対日攻撃を早くても8月末、通常9月か10月まで開始できないと想定していた。ならば3ヶ月を乗り切れば、酷寒の季節が到来するので、翌年春までに防御施設の構築を進めれば関東軍は持ちこたえられると読んでいた。

 しかし、広島への原爆投下を見て、ソ連は佐藤駐ソ日本大使に「明日、モロトフ外相が大使と会見する」との通知を行い、8.8日、佐藤駐ソ日本大使が出かけると、「ソ連政府は、7.26日に発表された『ポツダム宣言』(日本への無条件降伏要求)に加入しました。ソ連と日本は、現地時間の8.9日以降、戦争状態に入ります」の通告が為された。こうして、ソ連の対日参戦布告が為された。結局、虚虚実実の駆け引きの下で、日ソ中立条約は役に立たなかった。

 8.9日、予告通りに、ソ連の赤軍が満州、朝鮮(8.13日)、南樺太に侵攻を開始した。しかし、不意打ちをくらったとはいえ、関東軍は頑強に抵抗し続けた。

【長崎へ原爆投下される】
 8.9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下された。米国のB29爆撃機「ボックスカー」が、広島を焼き尽くしたウラン型原爆より協力なプルトニウム型原爆を投下した。

 原子爆弾の威力は凄まじく民族抹殺の危機を募らせた。こうして大日本帝国は「進むも地獄、引くも地獄の」体制危機に陥った。

 8.9-10日朝にかけて、原子爆弾投下に関するリーフレット(AB-11)が大阪、長崎、福岡、東京に投下された。次のように記されていた。
 即刻都市より退避せよ 日本国民に告ぐ!!

 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人もなし得なかつた極めて強力な爆薬を発明するに至つた。今回発明せられた原子爆弾は只その一箇を以てしても優にあの巨大なB-29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考へなければならないことであり我等は誓つてこのことが絶対事実であることを保証するものである。我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。この無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。米国大統領は曩に名誉ある降伏に関する十三ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承認しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我等は慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであらう。“即刻都市より退避せよ”

 8.10日、ソ連参戦を記した新しい内容のリーフレットが10日に熊本、八幡、大牟田、横浜に投下された。次のように記されていた。

 日本国民に告ぐ!! “即刻都市より退避せよ”

 このビラに書いてあることは最も大切なことでありますから良く注意して読んで下さい。日本国民諸君は今や重大なる秋に直面してしまつたのである。軍部首脳部の連中が三国共同宣言の十三ヶ条よりなる寛大なる条項を以て此の無益な戦争を止めるべく機会を与へられたのであるが軍部は是を無視した。そのためにソ聯は日本に対して宣戦を布告したのである。亦米国は今や何人もなし得なかつた恐しい原子爆弾を発明し之を使用するに至つた。之原子爆弾はたゞ一箇だけであの巨大なB-29二千機が一回に投下する爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君が広島に唯一箇だけ投下された際、如何なる状態を惹起したかはそれを見れば判るはずである。此の無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡てを此の恐るべき原子爆弾を以て破壊する。米国は此の原子爆弾が多く使用されないうち諸君が此の戦争を止めるよう天皇陛下に請願される事を望むものである。米国大統領は曩に諸君に対して述べた十三ヶ条よりなる寛大なる条項を速やかに承諾し、より良い平和を愛好する新日本の建設をなすよう米国は慫慂するものである。随つて日本国民諸君は直ちに武力抵抗を中止すべきである。然らざれば米国は断乎この原子爆弾並に、其他凡ゆる優秀なる武器を使用しこの戦争を迅速且強制的に終結せしむるであらう。“即刻都市より退避せよ”

【御前会議(最高戦争指導会議)が開かれるも小田原評定繰り返す】
 8.9日、御前会議(最高戦争指導会議)が開かれ、鈴木首相は、「これ以上の戦争継続は不可能だ」と初めて宣言受諾の意思を明言した。軍部は、1・国体維持(天皇制の存続)、戦犯処理に日本を加える、3・武装解除は日本が行う、4・占領の地域、兵力、期間を限定するの4条件が必要と述べ、、ポツダム宣言受諾派と条件付受諾派と徹底抗戦論調が交叉し、小田原評定の場となり容易に結論が得られなかった。 

 8.10日、御前会議で「国体護持」条件にポツダム宣言受諾を決定。政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」とスイスとスウェーデンに電報を打った。  

 鈴木首相が、「かくなる上は異例の措置で恐懼に堪えないが、聖断を仰ぎ、それをもって本会議の結論としたい」と上奏し、次のように発言したと云う。
 概要「それならば自分の意見を云う。ポツダム宣言を受諾することに賛成である。(中略)かくの如き状況で本土決戦をしてどうして勝てようか。国民全部が玉砕するとならば国を後世に伝えることができない。どうしてもこの際は終戦の決心をしなければならぬ。(中略)後世の為に平和な道を開くには、忍び難いものも忍ばねばならぬ。自分の一身のことや、皇室のことは心配せぬでよろしい」。

 8.12日  バーンズ長官名で、「降伏の瞬間から天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する(subject to)」との回答が為された。外務省は、「subject to」を「制限下におかれる」と訳したが、軍部は「隷属する」との意であるとして反発した。政府内は再び堂々巡りの議論に陥った。
 8.12日  北村サヨが「天照皇大神宮教(踊る宗教)」を開教。  
 8.13日  御前会議とそれに続く閣議が開かれ、受諾慎重論が台頭し、紛糾。

【御前会議がポツダム宣言の受諾を最終的に決定】
 8.14日、最後の御前会議。聖断は、「この際、先方の回答をそのまま受諾してよろしい」。午後11時、ポツダム宣言の受諾を最終的に決定、連合国に通告。  

 場所は宮中の防空壕の中であった。まず東郷外相が宣言受諾やむなしを述べた。これに対し、阿南陸相が本土決戦を呼号して反対した。米内海相は外相説に賛成。平沼枢密院相は40分近く詮議した後外相説に賛成。梅津.豊田両参謀総長は陸相説に賛成。こうして抗戦派と和平派の比率は3対3。鈴木首相は事故の意見を述べず、陛下の御前に進み出て「この際は聖断を拝して会議の結論と致したく存じます」。こうして最後の決が天皇によってしか決められない事態となった。

 明治の政府と重臣達は、戦争しつつ引き際を考えていた節があるのに比して、天皇と最も近い立場にいた木戸内府は、「衆知を集めて熟慮すれども断行せず」。そうこうするうちにもこの間吉田派の和平工作が進行していた。 

 阿南惟幾陸相が陸相官邸で割腹自殺。遺書には「一死をもって謝し奉る」と記されていた。

【原爆投下直後の米軍ビラ】
 米軍は、原爆投下直後に全国で「即刻都市より非難せよ。日本国民に告ぐ」の見出しビラを大量散布した。ビラには次のように書かれていた。

 「米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その一個を以ってしても優にあの巨大なB29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。---もし諸君がなお疑いがあるならば、この原子爆弾がただ一個広島に投下された際いかなる状態を惹起したか調べて御覧なさい---」。

 【以降の流れは、「大東亜戦争史5、戦争災害総括」の項に記す】






(私論.私見)