大東亜戦争史5、戦争災害総括


 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).8.23日

  【以前の流れは、「大東亜戦争史4、ドイツ降伏後より敗戦終戦まで」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、戦争災害総括をしておく。

 2015.08.21日 れんだいこ拝


【終戦時の皇室財産】
 赤間剛の「昭和天皇の秘密」―地獄でさまよえ天皇裕仁―」 (三一書房)の一節で、終戦時の皇室財産につき次のように記している。 
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4380902137/249-4187780-1256311

 天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。

土地 135万町歩余 3億6000万円余
木材 5億6000万石余 5億9000万円余
建物 15万坪 2億9000万円余
現金 2400万円余
有価証券 3億1000万円
合計 15億9000万円余

 評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。天皇家は日本最大の地主であった。日本最大の大ブルジョワであった。

【戦争犠牲者数】
 延べ1000万人の兵士が戦争に参加し、失われた兵対数は約200万、非戦闘員まで含めると約300万の人命が失われた。焼失住宅戸数は310万戸、戦費2200億円と云われている。
太平洋戦争における日本側の死者の数字

陸軍戦死者数 約144万人
海軍戦死者数 約42万人
軍属 約9万5千人
一般国民 約69万人
合計 約250万人

 このうち注目するのは、陸軍の死者が戦闘による戦死者より戦病死者数が上回っていたことです。戦病死者の多くはガダルカナル島での戦闘や、インパール作戦に見られる兵站を無視した作戦により、飢餓に陥り伝染病・風土病にかかり死んでいった兵隊達であります。いかに旧日本軍が無謀な作戦を行って無駄に兵隊の命を散らしていたか如実に示す実例であります。これでは既にまともな戦争をやっていたとさえ言えない。

【本土爆撃の実態】
 建設省が57年刊行した「戦災復興史」によると、全国の被災地は215都市計約645平方キロ.メートル、犠牲者は47年1月結成の全国戦災都市連盟が113都市を調べた分だけで51万人、被災人口は964万人に達していた。当初は、飛行機製作所、軍需工場が専ら狙われたが、45.3.10日の東京大空襲以降は、中低空で大量の焼夷弾を投下し市街地を焼き尽くす無差別爆撃が始まった。東京は45.3.10日の東京大空襲で約27万戸を焼き、約8万4000人が死亡した。日本政府は、45.8.10日付けで東京大空襲を始めとする都市爆撃は国際法違反にあたるとして米国政府に抗議している。この問題は未解決となっている。

 <1000人以上の死者を出した都市一覧表>(全国戦災都市連盟調査)

都市 被爆撃日 死者数
広島(11) 260000 広島(8.6、142.430)、呉(5.5、2071)(6.22、1600)(7.1、3700)
東京(299) 107,021 東京都105400
長崎(15) 74604 長崎70332、佐世保(6.29、1300)
大阪(55) 13,123 大阪10283、堺(7.10、1876)、豊中575
兵庫(35) 11,107 神戸/6235、明石1464、西宮716、姫路519
愛知(40) 名古屋10,139、豊橋655、一宮(7.28、727)、豊川(8.7、2477)
神奈川(21) 5,824 横浜(5.29、8000)、川崎(4.15、1000)
静岡(39) 6,337 浜松(6.18、3239)、静岡(6.19、1952)
鹿児島(63) 4,608 鹿児島(6.17、3323)
福岡(15) 4,374 福岡(6.19、902)、福岡.八幡(北九州)(8.8、2952)
三重 3,068 津1600、四日市808、桑名664
富山(2) 2805 富山(8.1、2767)
山口(34) 2,276 徳山(7.26、482)、岩国917、
茨城(7) 2,214 日立(6.10、1350)(7.15艦砲射撃、395)
福井(4) 1,929 福井(7.19、1576)
岡山(2) 1,772 岡山(6.29、1737)
青森 1767
和歌山(49) 1,733 和歌山(7.9、1212)
新潟(4) 1,558 新潟.長岡(8.1、1488)
徳島(1) 1,472 徳島(7.1、1451)
千葉(56) 1,425 千葉(7.7、1679)(7.19、1181)
香川(1) 1,409 高松(7.1、1359)
北海道(11) 1,283 北海道(7.14、)、室蘭艦砲射撃(7.15、436)
群馬(9) 1,216 群馬.前橋.高崎(8.5、1323)560
岐阜(7) 1,216 岐阜863
宮城(10) 1,212 仙台(7.10、1052)
愛媛(20) 1,207 松山(7.26、300)、今治551
山梨(1) 1,174 甲府(7.7、1045)
岩手(8) 1,070 釜石艦砲射撃(7.14、771)
熊本(8) 939 熊本(7.1、500)、大牟田1291
青森(5) 865 青森(7.14、747)(7.28、1000)
栃木(10) 673 宇都宮586
福島 649 郡山(4月、400)
高知(8) 647
宮崎(41) 565
埼玉(9) 467
大分(37) 400 保戸島(7.25、127)
沖縄(5) 371
佐賀(1) 187
京都府 132
鳥取(3) 106
秋田(1) 103
滋賀 43
長野(11) 40
山形(3) 37
奈良(1) 36
島根(7) 33
石川(0) 27
台湾 5000
八幡 1130

1944年[編集]

十・十空襲に遭う那覇市街

1945年3月[編集]

1945年4月[編集]

1945年5月[編集]

1945年6月[編集]

空襲後の鹿児島市街
空襲後の浜松市街
空襲後の静岡市街
空襲後の水島市街

1945年7月[編集]

空襲後の仙台市街
呉軍港空襲。7月28日に江田島小用沖で爆撃を受ける戦艦榛名
空襲後の青森市街

【日本各地の空襲被害】
 「日本各地の空襲被害」参照4。
 太平洋戦争中、日本全国の都市が米軍機による空襲を受けた。中には焦土と化した街もあった。ここで、都道府県別、及び主な被災都市別の空襲死者数を確認する。死者は全都道府県に及んでおり、民間人だけで41万人を越えている。都道府県別には、原爆が投下された広島が14万人以上と最も多く、焼夷弾による無差別爆撃を受けた東京が10万人超でこれに次ぎ、第3位は広島に続いて原爆が投下された長崎の7万人超である。これら3都県で空襲死亡者の約75%を占めている。4位以下は大阪、兵庫、愛知(以上1万人以降)、静岡、神奈川、鹿児島、福岡と続いている。他方、空襲死亡者の最も少ない県としては、石川の27人が最も少なく、このほか、山形、長野、滋賀、奈良が100人未満となっている。大都市を抱える地域としては京都が132人と目立って少なくなっている。

 都市別には、基本的には県庁所在都市など人口の多い中心都市の死亡者数が多い傾向にあるが、釜石市(岩手県)、日立市(茨城県)、長岡市(新潟県)、岩国市(山口県)、今治市(愛媛県)などでは、県庁所在都市ではなく県内の主要産業都市がメインの被災地となっており、製造業が特に空襲のターゲットとして狙われたことが分かる。図には軍直属軍事工場における犠牲者は含まれていない。例えば、豊川市(愛知県)では8月7日午前10時過ぎ豊川海軍工廠がB29爆撃機の大編隊による空襲を受け、派遣兵120名・動員学徒452名を含む工廠関係者2,500名以上の犠牲者を出した。その他、工廠周辺にも被害が及び、在宅中の児童21名、入学前の幼児22名を含む市民113名が犠牲となった。工廠関係の犠牲者は、豊川海軍工廠が直属の軍工場のため戦死として扱われ、軍人以外の犠牲者も海軍軍属として扱われたので、500人以上の民間人犠牲者を扱った上図には掲載されていない(資料)。東京大空襲など各地の空襲被害の詳細については、図録5226d参照。広島の原爆被害については図録7702参照。また、日本各地・各都市の戦災の状況については、総務省作成のホームページがある。また、空襲被害の日欧比較は図録5227b参照。

 空襲対象に関する米軍の意図や正当性については、東京新聞大図解「空襲被害」(2015年8月2日)に掲載された山辺昌彦氏(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)による解説文を以下に引用するので参照されたい。
 「米軍など連合国軍による空襲は、日本の軍事施設を破壊するとともに、国民の戦争継続の意欲をくじくことによって日本を降伏させようとの狙いがあった。本土空襲の初期は、飛行機工場が第一目標であり、それができない時は第二目標として産業都市とみなした市街地を空爆した。工場爆撃の巻き添えを含め、民間人に被害が出ており、軍事施設だけでなく民間施設をも狙う無差別爆撃が、すでに始まっていたといえる。これが大きく変わるのは、1945年3月10日の東京下町大空襲からである。米国は一年前から、都市の最も燃えやすい人口密集地域を目標に設定し、木造家屋を効果的に焼く油脂焼夷弾を開発し、大型で航続距離の長いB29爆撃機とともに大量生産していた。 これらがそろった3月に都市を焼き尽くす空襲を始めたのである。単に無差別攻撃というより、民間人を主な標的とした空襲だった。

 当時の国際法では民間人への空爆は禁止されていた。しかし、日本も日中戦争段階で中国の重慶などの都市を空襲し、それを現代の都市は高射砲や航空機で守られているので無防守都市ではなく、無差別攻撃をしてもよい、と正当化していた。米軍も日本の市街地爆撃に際し、そこは小さな軍需工場がある産業都市なので空襲する、などとしていた。そして戦争犯罪裁判では、連合国の空襲はもちろん日本の空襲も裁かれなかった。そのことが世界で今でも、盛んに空爆が行われ、誤爆の名のもとに民間人の被害が続いていくことにもつながっている」。

 太平洋戦中、日本の統治下にあった台湾では、戦後、空襲を受けたときには台湾におらず、抗日戦争勝利の立場の「外省人」の政権が長く続いていたため、空襲被害を受けたという事実は無視されてきたようだ。「90年代に民主化が本格化するまでは国民党が絶大な力を持ち、米軍の空襲が表だって語られることはなかった。当時の情勢はあまり知られていないのが実情だ」(朝日新聞2015年8月14日)。終戦前に中国から台湾に渡った人たちやその子孫は「本省人」と呼ばれるが、彼らにとっては、外省人とは異なり日本に勝ったというより空襲を受けたということの方が重たい事実なのである。

 なお、東京新聞の調べでは遺族に引き取られていない戦災遺骨が全国36カ所に約40万体ある。国は海外で軍人の遺骨は収集しているが、民間人の戦災遺骨については寺院や地域に任せているという。下には、地域別の数値をグラフにした。「空襲の遺骨は東京都が最多で、墨田区の都慰霊堂と弥勒(みろく)寺に計10万8500体を安置。大空襲を受けた大阪、横浜市では市営墓地などに、新潟県長岡市などでは寺院に納められている。神奈川県横須賀市の旧海軍墓地には、茨城県土浦市と愛知県豊川市の海軍施設の空襲死者が埋葬されていた。長崎原爆の遺骨は長崎市の追悼祈念堂(約9千体)、真宗大谷派長崎教務所(1万~2万体)など3カ所に安置されていた。推定数しかない場所も多い。国の唯一の納骨施設は国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)で18万5261体が眠る。沖縄県内ではほかに計5カ所の慰霊塔に約1500体残っていた」(東京新聞2017.12.4)。
 (2015年8月5日収録、図録5226dの名称を引き継いで新規作成、図録5226dはメインのグラフ名そのままの「主な空襲による死亡者数」に変更、8月9日豊川市の事例紹介、8月14日台北市・台湾追加、2017年12月4日引き取られていない遺骨数)

【靖国神社戦争別合祀者数】
 靖国神社戦争別合祀者数(靖国神社資料より 2004年10月17日現在)
戦役 (人)
明 治 維 新      7,751
西 南 戦 争      6,971
日 清 戦 争      13,619
台 湾 征 討      1,130
北 清 事 変      1,256
日 露 戦 争      88,429
第一次世界大戦      4,850
済 南 事 変       185
満 州 事 変      17,176
支 那 事 変     191,250
大 東 亜 戦 争    2,133,915
合   計     2,466,532

【第二次世界大戦等の戦争犠牲者数】
 「ピンからキリまで」の「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」を参照する。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

 第2次世界大戦における人的被害

国名 兵員の死亡 兵員の負傷 兵員の行方不明 一般市民の死亡 合計
ア メ リ カ
イ ギ リ ス 
フ ラ ン ス
ソ     連
ポ ー ラ ン ド
ユーゴスラビア
オーストリア 
チェコスロバキア
中     国
ド  イ  ツ
イ タ リ ア
日     本
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

【東京大空襲】
 「さてはてメモ帳」の2015-09-15GHQがかき消した東京大空襲 首都圏占領のための皆殺し 原爆に匹敵する残虐さ 長周新聞
 GHQがかき消した東京大空襲 首都圏占領のための皆殺し 原爆に匹敵する残虐さ 長周新聞 2015年9月11日付
 http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/ghqgakakikesitatoukyoudaikuusyuu.html

 原爆展全国キャラバン隊(後援/長周新聞社)が東京都内で街頭「原爆と戦争展」をおこなうなかで、東京都民からは、太平洋戦争の終結を目前にして10万人を超える犠牲者を生んだ東京大空襲の経験が口々に語られている。戦争の真実を語り伝え、「二度とくり返してはならぬ」との激しい思いが脈打っており、それはかつての戦争体験と切り離すことはできない。東京大空襲の真実は、現在、安倍政府の進める安保法制が、日本の「独立」や「防衛」とは縁もゆかりもなく、あの大殺戮から続くアメリカの植民地政策の帰結に他ならないことを如実に物語っている。
 
 戦後は「碑を建てるな」と通達

 太平洋戦争中、アメリカ軍が首都・東京に加えた空襲は130回以上におよんだ。最初の空襲は日米開戦からわずか5カ月後の1942年4月、茨城県沖の空母ホーネットから飛び立った艦載機B25による奇襲攻撃であった。その2カ月後、日本軍は空母ホーネットの基地であるミッドウェー島の攻略作戦で大敗。そして1944年7月以降、米軍はマリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアン3島を奪取し、ここを基地にB29による本格的な日本本土空襲を始めた。終戦前の2年間、「東京は毎日のように赤く燃えていた」と語られる。

 そして、1945年の3月9日夜、サイパン・テニアン基地を出撃した352機ものB29は、房総半島から低高度で東京に侵入し、都民が寝静まった10日午前〇時7分から約2時間40分の間に下町地域に油脂焼夷弾を約38万発(1800㌧)投下した。この焼夷弾は水では消えない特殊な油脂を周囲にまき散らして爆発的な火災を起こすもので、木造の日本家屋を効率よく焼き払うために特別に開発されたものだった。

 米軍はこの地域全体を焼き尽くすため、春先の強風が吹く3月を攻撃時期に選び、隅田川を中心にして浅草、本所、日本橋区全域を含む下町地域に照準点を設け、周囲から炎で囲い込んで住民が逃げられないように空爆を開始。まともな反撃もないなかで空爆精度を上げるために平均2000㍍の低高度からレーダーを用いて投下するなど、まさにやりたい放題の民族絶滅作戦を実行した。わずか2時間足らずで10万人超が犠牲になるような空爆は後にも先にもない。下町を中心に東京都の六割の面積が焦土と化し、約29万戸の家屋が焼失し、墨田区では人口が空襲前の4分の1にまで激減した。8月まで続いた東京への空襲では、判明しているだけで死傷者・行方不明者は25万670人(東京都調査資料による)、罹災者は304万4197人に及んだ。

 墨田区菊川町に住む80代の男性は、「当時小学6年で集団疎開していたが、卒業式のために2月末に菊川に戻ってきた。あの日はいつもの空襲と違う胸騒ぎがしていたが、警戒警報が鳴る前に家の周りはすでに火の手が上がっていた。父は地元の消防団だったのですぐに避難するわけにもいかず長姉と一緒に残った。私は母と祖母、姉と妹と一緒に逃げたが、途中で忘れ物を取りに戻った祖母は帰ってこなかった。その後、父と姉、祖母の3人を菊川橋付近で見たという人がいたが、菊川橋は身動きもできないほど避難者が押し寄せて3000人が亡くなった場所。おそらくそこで亡くなったのだと思っている。米軍機は低空飛行で、日本に高射砲などで撃ち返す気力も戦力もないことを知りながら、これでもかというほどの爆弾を落とした。逃げるときに雨が降ってきたかと思ったらガソリンだった。操縦者が下を見てあざ笑うように爆撃しているようだった」と怒りを込めた。その後、「菊川国民学校へ避難して一夜を過ごしたが、朝になると講堂の外には真っ黒焦げの遺体が無数に転がって言葉にできない光景だった。家の方面に向かうと、貯水槽に顔を突っ込んだまま死んでいる人、黒焦げになった馬もいた。菊川橋がかかる大横川も川の水面が見えないほどに遺体がびっしりと浮かんでいた。東京大空襲は戦争ではなく大量殺人だ。周りから焼いて中心に人を集めてそこに大量の焼夷弾を落とした。こんな残酷なことが許されていいわけがない」と強調した。

 空襲で兄を失った江東区深川在住の男性(86歳)は、「3月9日の夜に空襲警報が鳴ったが何事もなく解除になって一安心したとき、まもなくB29の飛行音が聞こえ、急いで防空壕に逃げ込んだと同時に辺りがパッーと明るくなった。照明弾だった。火勢に押されて家のあった三ツ目通りは避難者であふれ返ったが、黒煙が立ちこめるなかでB29は低空で狙いを定めて焼夷弾を落としてきた。総武線亀沢町のガード下の防空壕はどこも満員。炎は近くまで迫り、手足を必死に動かして火を防ぐのを少しでも休めると衣服に引火する。息も苦しい状況だった。近くにいた小学生くらいの男児が突然2、3㍍先へ転がり、防空頭巾に火が燃え移り目の前で火だるまになった」と語った。そして、「母と妹が入っていたガード下の防空壕は焼け落ち、煙が立ち込めているだけだったが、その後、髪は焼け乱れ、顔は真っ黒、もんぺが焼けてぼろぼろになった母に呼び止められた。母は、妹を含め中にいた11人が全員亡くなったことを声にならない声で泣きながら話していた。菊川周辺では遺体が1㍍もの高さに無造作に積まれていた。白骨化した遺体の群や、若い母親が子どもを背中に背負ったまま材木で火をおこし、夫とみられる遺体を顔中涙に咽(むせ)びながら火葬している姿など、まさにこの世の地獄だった。真っ黒焦げになった遺体が転がり、その熱でアスファルトが溶けて人の形をしたまま沈んだ箇所がいくつも残っていた。壁にも人の形が焼け移された場所が残っていた」と話した。

 台東区花川戸で履物屋を営む八七歳の男性は、「広島、長崎の原爆と同じ大虐殺だ。あれが戦争犯罪でなくてなんなのか。配給制度に移行する過程で浅草近辺の店は強制的に廃業させられたため神田の中学校に通っていたが、大空襲の数日後、同級生の安否を尋ねて深川方面へ向かった。道に散乱する炭化した死体をまたぎながら歩いているとき、門前仲町の三菱銀行の前で母親が赤ん坊を抱いたまま死んでいた姿が忘れられない。火にあぶられてピンク色をしていた。当時、東京では軍の指導で防空壕をつくったが、家の畳の下に穴を掘ったり、上に人が乗ったら屋根が落ちるような粗末なもので逃げ込んだ人はみんな蒸し焼きになって死んだ。自分の手で火葬場を掘ったようなものだ。一夜にして下町は焼け野原にされたが、その後も米軍の艦載機は生き残った人をめがけて機銃掃射をしかけ、おもしろ半分で笑いながら撃っている米兵の顔がくっきり見えた。戦後、この絨毯(じゅうたん)爆撃を指揮したルメイ将軍に天皇は勲章をやったが、腹が立って仕方がない。私の知り合いにインパール作戦の体験者がいるが、白骨街道になったビルマではみんな餓死と病死だったという。今安倍首相が“後方支援は安全だ”といっているが、それならなぜアメリカは無抵抗の市民が住む東京を取り囲むように焼き尽くし10万人もの人人を殺したのか。むしろ後方こそ標的にされるのだ」と話した。

 隅田川の両岸から人々が炎に追われて逃げ込んだ言問橋や吾妻橋などでは、戦後も橋の欄干に抱きついたまま焼死した人の油が人型のまま黒く残っていたこと、折り重なるように避難した亀戸のガード下でも壁面に山積みになって焼け死んだ人たちの油が跡になり、何度ペンキを塗っても浮き出てくることなど、体験した人人の凄惨な記憶とともに忘れてはならない傷跡として語られている。

 米占領軍の指導方針 日本人は戦争を忘れろ

 同時に語られるのは、2時間余りで10万人もの犠牲者を出す史上類を見ない大虐殺がおこなわれたにも関わらず、東京都内には70年たった今でも公的な慰霊碑や資料館がないという異常さである。この70年、「東京都史上初の革新都政」といわれた美濃部都政、「ノーといえる日本」といった石原都政でも、東京大空襲を継承する公的施設が建設されたことはない。

 墨田区に住む年配男性は、「戦後すぐに、多くの人が亡くなった菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所は拒否し建設が許されなかった。戦後、川のほとりを改装するたびに白骨がたくさん出てきたが、それでも区役所は許可をおろさず、東京都も一切関わろうとしなかったので、地元住民で“これ以上放っておくわけにはいかない”と無許可で地蔵を建立して毎年地元で法要をおこなっている」と話した。

 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目(旧深川区高橋5丁目)町内会では今年3月、大空襲70周年を記念して町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。当時の体験者が減少するなかで、「この経験を後世に語り継ぐ」という地元の強い意志から発案され、これまであった慰霊碑の隣に建立された。

 建立に関わった町内会役員の男性によれば、「大空襲で焼き尽くされたこの町では、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに“戦災死没者過去帳”という約10㍍にもおよぶ巻物がつくられていた。70年にあたり、遺族からも“一家全滅した家族も含め亡くなった人人がこの地域に住んでいた証しと、供養の場所がほしい”という話も出ていたので、その過去帳をもとに昨年1月から準備してきた」という。

 また、「建立の過程では、町内には1晩で1家12人が亡くなった家があることもわかった。東京大空襲は10万人以上もの犠牲者を出したにも関わらず、これまで国は何の慰霊もせず公に供養塔を建てることをしなかった。都内各所にある小さな碑はすべて町内会単位で自主的に建てられたもので、毎年の法要、清掃なども地域住民でおこなわれている。慰霊碑は広島などに比べて本当に少ない」と話し、その根拠として1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを示した。

 官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てられた通達文書には、当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設に対して、「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針を挙げ、これに「協力するよう求められた」ため、「今後はこの方針を徹底的に守るようにしなさい」と明記されている。

 あれから70年を経た今回の慰霊碑建立にも、区役所からは「区への申請は受け付けていない」と対応されたと語られており、「行政から助成を受けることもできないので、発起人を中心に町内外へ寄付を募ると“地元の者ではないが、私の家族も空襲で犠牲になった”“平和を伝えるために碑を建てて後世に残すことはよいことだ”とあちこちから寄付金が集まった。この町は戦災死没者名簿がつくられていたから墓誌が建立できたが、ほとんどの町では資料が残っておらず公的機関が動かなければ難しい。なぜいまだに占領下と同じなのか。こんな形であの残酷な東京大空襲の記憶が薄れて忘れられてはならない。学校でも、東京大空襲の経験を語る平和学習などはいっさいないので、今のうちにやらなければいけない」と切実な思いが語られた。

 空襲被災地一帯では、11万人ともいわれる犠牲者の亡骸を公園や校庭などで山積みにして火葬し、錦糸公園に1万3951体、猿江公園1万3242体、隅田公園は7530体、菊川公園には4515体など公園や寺などに万から数千単位で埋葬された。これら引き取り手のない個別埋葬者、氏名不詳の合葬者、合計約11万人の遺骨は、1951年に関東大震災の慰霊施設であった震災記念堂を東京都慰霊堂(墨田区横網)と改称して納骨されているが、その仮埋葬地には公的な説明板も慰霊碑も建てられていない場所も多く、公の手による慰霊碑の設置を求める声は強い。

 焼けなかった皇居 一方孤児たちは檻の中

 また、10万人以上の都民が焼き殺される大空襲のなかでも、皇居、国会議事堂、議員官舎のある永田町をはじめ、丸の内の金融街などは攻撃目標から外され、涼しげにたたずんでいたといわれる。

 その一方で、上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちが生きるために窃盗や売春をおこなっていたこと、GHQが「治安対策」を名目にして犯罪の有無に関わらず浮浪児を見つけ次第摘発していったことも、戦争が生み出した悲劇として伝えられている。この「狩り込み」を受けた孤児たちは、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致され、檻(おり)に入れられて監視・収容されたという。

 浅草で商売を営む80代の男性は、「皇居と東京駅に挟まれた丸の内近辺は攻撃されず、その中心にあった第一生命ビルには戦後GHQの本部が置かれた。国会議事堂や議員官舎も戦後処理に必要だから残された。マッカーサーが厚木に到着する前に武装解除をさせたが、その後も米兵は常に拳銃や小銃を携行し、自分たちが大空襲をやった相手の都民を相当に恐れていた。だが、都民にとって戦後最大の苦しみは食料がないことだった。米は供出させられ、お金があっても買う物がないし、物々交換するものすらない。田舎につてがなければ乞食同然で、今日、明日の食べるものがなく生きていくことがたたかいだった。配給の大豆を食べて水を飲んで生活し、占領軍のことや空襲犠牲者の慰霊など考えられる状態ではなかった。そのなかで米軍はララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとった。“ギブミー・チョコレート”という言葉が流行ったのもこのころだ。だが、あれほどの人が殺された大空襲の経験を私たちは忘れることはない」と話した。

 別の婦人は、「戦後、マッカーサー司令部と日本の軍司令部がうちあわせして戦犯の検挙が吹き荒れたが、その際、マッカーサーが国民の内乱を押さえ込むために天皇を戦犯にはしなかったといわれている。私の知人は下級兵士だったにもかかわらず戦犯で捕らえられて獄死した。その人は“天皇の責任を背負って死ぬんだ”と怒りを込めて遺書を書き残していた」とのべた。そして「今もすべてアメリカとの取引で、国民無視の政治は変わっていない。今でも中谷防衛大臣がまったく同じ答弁をしていた。安保法制で自衛隊が戦闘に巻き込まれても、また“現場の自主的な判断だ”といって切り捨てるのは目に見えている」と強調した。

【岡山大空襲】
 1945.6.29日、米軍のB29爆撃機138機が岡山市上空に来襲、午前2時40分過ぎから約1時間半にわたり、約9万5千発の焼夷弾を投下した。市街地の約6割が焼失。死者数は岡山市史では1737名。実際には2千名を超すとの指摘もある。米軍は、空襲の約1ヶ月前に高解像度カメラで市街地を上空から撮影し、正確に攻撃する為、目盛りを施した合成写真「リト・モザイク」を作成、全機に爆撃中心を狙うよう指示した上で、岡山市中山下付近を爆撃中心点にして半径1.2キロを焼き尽くすことを目的に攻撃した。







(私論.私見)