大東亜戦争史3、イタリア降伏からドイツ降伏まで |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、イタリア降伏からドイツ降伏までを確認する。 |
【イタリア降伏】 |
11.25日、イタリア降伏。既にこの頃戦局は明らかな敗退期に入りつつあった。 |
【カイロ会談、テヘラン会談】 |
11.27日、米英中連合国首脳会談(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石)によりカイロ会談が行われ、カイロ宣言を発表。日本に対し侵略地放棄を迫った。これを「カイロ会談」と云う。 11.28日、カイロ会談に引き続き米英ソ(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)間でテヘラン会談が開かれた。この時、スターリンが、ドイツ降伏後に対日戦に参戦するとの密約をしている。その参戦時期の駆け引きが陰に陽に重要性を帯びていったのが、もうひとつの第二次世界絵巻であった。 12.4日、第二回カイロ会談。 |
1944(昭和19)年の動き |
2.23日 | 竹槍事件。毎日新聞記事「竹槍では間に合わぬ」で差し押さえ。 | |
鹿島組花岡出張所へ中国人連行開始。 | ||
2月 | 連合艦隊の根拠地トラック島壊滅。 | |
2月 | 戦争敗北の流言が広まり東京で1月以来40余件が送検。 | |
4.12日 | ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領がOSSの解散を命じた。戦後、CIAに発展的解消される。 |
新谷 卓「終戦と近衛上奏文 アジア太平洋戦争と共産主義陰謀説3」。
国体と共産主義両立論によって、軍人に共産主義を受け入れ易くさせているとされる。すなわち、天皇の下の万民平等を説くことによって、軍人の共産主義アレルギーを排除し、彼らの出自から来る階級意識を覚醒させ、革新運動に身を投じさせるように仕向けた。先に触れたように、陸軍の軍人は、貧しい農村出身者が多かったし、また将校もこの時代になると旧武士階級ではなく、ふつうの職業出身者が多かった。こうした天皇の権威を自分の側に引き寄せて体制を批判するやり方は、為政者にとって脅威だった。とりわけ明治以来つづく薩長閥、公家の近衛や木戸、吉田のような姻戚関係によって作り上げた上層階級にとっては、国民が直接天皇と結びつくことは脅威だったに違いない。この戦略は延安の野坂も採用し、戦後共産党も当面天皇制を残す方向を打ち出すことになる。 (明治維新のとき、天皇は「玉」であった。維新の志士のほとんどが、戦略的に天皇をいかに利用するかだけを考えていたのだそうだ。 近衛の「凡そ共産主義と日本の国体とは相容れざるものにして、家族制度を破壊し私有財産を否認することは、結局皇室をも否認するの思想なるを以て、かかる考えは革命思想と何ら異なることなし」、天皇制社会主義は成立しない、というのは支配階級に所属する者の「断言・思い込み」であるし、軍・下層の庶民の「天皇は国民を慈しまれ、常に国民とともにある、天皇制社会主義は成立する」、というのも「思い込み・信仰」であった。 実際の歴史の経過を見ると、昭和天皇は牧野伸顕・吉田茂らの側に立ち、金持ち・支配階級の利益代表であったのではないか。――矢島俊一) |
6月 | 米軍の駐ソ軍事代表団が、ソ連軍参謀総長・ワシレフスキーに対日戦への早急参加を要望する打診をしている。ワシレフスキーは、「対独戦争終結後」との姿勢を崩さず。 | |
6.15日 | 米軍サイパン島に上陸。 | |
6.18日 | 日本軍長沙占領。 |
【マリアナ沖海戦】 |
6.19日、海軍の決定的な敗北となり、空母の大半を失った(空母部隊壊滅)。 |
6月、ノルマンジー上陸作戦によりヴィシー政権崩壊。 |
【ブレトンウッズ体制またはIMF体制の確立】 |
7月、勝利を確信した連合国44カ国が、米国のニューハンプシャー州のブレトン・ウッズに集まり、第二次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議を開き、国際通貨基金(IMF)協定、世界銀行(国際復興開発銀行)創設などを決定した。その結果、国際通貨制度の再構築や、安定した為替レートに基づいた自由貿易に関する取り決めが行われました。この体制をブレトンウッズ体制または、IMF体制という。米国の圧倒的優位の下に会議が運ばれ、米ドルを機軸通過として各国の交換比率が確定されることになった。 |
【サイパン島陥落。日本軍玉砕、占領される】 |
7.7日、サイパン島の陥落は、政局を一気に流動化させ、米軍は飛行場を整備して本土爆撃を本格化させるための基地とした。 |
7.18日 | 東條内閣総辞職。 | |
7.21日 | 米軍海兵隊がグアム島上陸。 | |
7.22日 | 東条英機内閣総辞職を受け、小磯国昭陸軍大将が内閣を組織、小磯内閣が発足。 | |
7.22日 | 中国で、バレット大佐を団長とする米軍事顧問団が延安の共産党勢力を視察訪問。この時随行したアメリカ政府外交官は「もし国民党が政治的・経済的な改革を行うことに失敗したならば、共産党は比較的短い歳月のうちに、中国における支配的勢力となるであろう」と報告書に記している。 |
【学童疎開始まる】 |
8月、学童疎開始まる。 |
8.1日 | 地下に潜伏していた抵抗組織を先頭にワルシャワ市民がナチスに対して蜂起(「ワルシャワ蜂起」)、戦闘は63日間に及んだが鎮圧され、死者18万人にのぼったとされている。当時、ワルシャワの目前まで進軍していたソ連軍はスターリンの命令により進軍を停止。米英軍も救援を求めた蜂起の市民を見殺しにした。 | |
8.5日 | 大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議に発展解消。会議の構成員が、両統帥部総長・首相・外相・陸相・海相と定められた。 | |
8.19日 | 午前会議が開かれ、「世界情勢判断」及び「今後採るべき戦争指導大綱」を策定決定し、「機を失せずにソ連を利用して情勢を好転させるよう努める」との政策が決定された。これに沿って対ソ特派使節派遣、対重慶政治工作が決まり、外交と戦争指導がどうにか噛み合い始めた。 | |
9月 | スターリンが、ドイツの敗北を見極め、「対日戦を想定した部隊移送と補給整備についての研究」を指示している。10月初旬に報告書が届けられている。 | |
9.29日 | グアム.テニアン日本軍全滅。 | |
10. 9日 | モスクワ会談。 | |
10.17日 | ソ連が米国に対日参戦の為の物資援助を要請。ルーズベルト大統領が直ちに援助物資と4万両のトラックを送る。 |
【レイテ激戦、米軍がレイテ島上陸】 | |
10.20日 アメリカ軍の怒涛の進撃が始まっており、日本軍はこれを阻止せんと必勝を期して「捷1号作戦」を発動した。この時中央部隊の司令官栗田健男中将が、仕官たちを集めて旗艦である重巡洋艦愛宕の甲板で次のような檄を飛ばしている。
海戦敗退後の栗田に宛てられた大本営からの電文指令も「天佑を確信し、全軍突撃せよ」。 戦艦「大和」・「武蔵」を中心とした日本連合艦隊がレイテ湾に突入した。この作戦のときから「神風特別攻撃隊」(カミカゼ特攻隊)が出現し、零戦でアメリカ空母めがけての体当たり攻撃が始まった。この戦闘が歴史上最後の最大の海戦となった。 特攻戦術は以降エスカレートし、「桜花」(=人間爆弾)「回天」(人間魚雷)などの特攻兵器も開発された。一九四五年に入ると「全軍特攻の精神」が強調された、などとある。対米戦が続くにつれ、圧倒的な戦力の差を見せつけられた日本の軍人が考え出したのが特攻戦術であった。 |
【フイリピン沖海戦、ルソン島の攻防】 |
10.24日、第14方面軍司令官山下泰文大将は、レイテ戦の敗北によって戦局の帰趨を知らされ、これまでの戦術を転換させ、持久戦構想を打ち立てた。アメリカ軍を出来るだけルソン島に釘付けさせ、日本本土攻撃を少しでも遅らせようとした。 |
11.7日 | リヒァルト・ゾルゲと尾崎がロシア革命記念日に東京巣鴨の拘置所で絞首刑を執行されている。 |
11.24日 | サイパン島からのB29による東京大空襲が始まる。東京はこの日以降、106回の空襲を受けることになる。 |
12月頃より、米ソ両国の間で、ソ連の対日参戦に関する具体的交渉が始まる。米側は、日帝の最精鋭部隊関東軍を対ソ連戦で釘付けさせることを狙い、ソ連側は、日帝の大陸権益の収奪と樺太・千島列島領土の取り込みを狙った。この両者の思惑がヤルタ協定へ結びついていくことになる。 |
復活節の日、日本のキリスト教会は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を送り、この戦争こそアジア諸民族の解放をめざすものであり、神の聖なる意志であると説くことを余儀なくされた。空襲が激化すると、東京は焼け野原となり、多数の教会が罹災した。こうした非常事態の中、キリスト教団は「信仰問答」の作製に努め、文部省に草案を提出したが、文部省は、キリストの復活信仰は幼稚な迷信であるとして改正を要望した。 |
1945(昭和20)年の動き |
【花岡事件】 |
中国から強制連行されて秋田県北の花岡鉱山の鹿島組花岡出張所で下請け仕事をしていた986名が、重労働や鹿島組補導員らの暴行・虐待・食糧不足などに抗議し、死を覚悟して6.30日深夜に蜂起した。しかし憲兵隊(秋田・青森地区)や地元の在郷軍人によって鎮圧された。日本の敗戦で帰国するまでに418名が死亡している。2000.11.30日、「歴史的和解」となる。 |
【「帝国陸海軍作戦計画大綱」】 |
1.20日、大本営、「帝国陸海軍作戦計画大綱」を上奏し裁可を受ける。 |
【「昭和天皇の廃位問題、敗戦後の処理を協議」】 |
1.25日、近衛文麿、岡田啓介、米内光政、京都の仁和寺の問跡岡本慈航らが会合、昭和天皇の廃位問題、敗戦後の処理を協議している。この場で、天皇の退位と出家が話し合われ、「天皇を法皇とさせ、問跡として仁和寺にお住みいただく」計画が練られたと伝えられている。 |
【「ヤルタ協定」と「第一回世界労働組合会議」】 | ||
2.4日(~11日) 、「ヤルタ会談」始まる。 米国ルーズベルト.英国チャーチル.ソ連スターリンが南ロシア・クリミヤ半島の保養地ヤルタで会談。中国の蒋介石は欠席。ソ連の対日参戦が議題にされた。米英は、日本の関東軍の世界に冠たる最強軍隊としての潜在能力を脅威に思っており、その活動を抑制するためにソ連軍の参戦が必要であった。 ソ連は既に大量の援助物資とトラック1万台を受け取っており、参戦密約を交わす。この時、スターリンは、「わかりました。日本の占領は、百年の夢やから云々」と述べたと伝えられている。かくて、連合国とソ連共同の対日占領計画が敷かれることになった。 但し、その見返りとして、モンゴルの承認、日露戦争で日本が取得した一切の権益(旅順港等々)と満州における鉄道権益の譲渡、帝政ロシア時代に失った各種利権(樺太、千島列島の領有権等々)をソ連が取得することがその条件であった。その他、国際連合の設置が討議され、ドイツ占領の目的とその管理方式、対独賠償などを取り決めた。 この時、コミンテルン解散が打ち合わせされており、ソ連が帝国主義諸国の「革命の輸出」を行わないとの誓約をさせられている。つまり、露骨なパワーポリテックスが演ぜられたことになる。 「帝国主義とスターリン主義と複合的分割支配たるヤルタ協定を基軸とする戦後世界体制の成立」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)とみなすことができる。 田川氏は、このソ連の取引に対しても次のように批判している。
注目すべきは、2.6日~17日までヤルタ会談と並行してロンドンで第一回世界労働組合会議が51カ国の労働者を代表する204名の代議員を集めて開かれ、世界労連結成の端緒をつくったことである。田川和夫「戦後日本革命運動史1」は次のように記している。
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この「ヤルタ協定」の成立により、連合国側にとってソ連の対日参戦は既定方針として位置付けられるようになり、ドイツの降伏を待つのみとなった。しかし、この密約について日本政府は知る由もなかった、とされている。 |
2月 | この頃、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機らの重臣が各々天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏している。この時、明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは近衛一人であった。 | |
2.14日 | 近衛文麿が「敗戦は必死」、「共産革命に備える敗戦対策の必要」を天皇に上奏。天皇、戦争継続を主張。 | |
2.15日 |
米空母機動部隊艦載機による本土初空襲。関東の軍需工場が標的。
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2.19日 | 米軍が東京都心部から約1200キロの硫黄島に上陸開始。以降36日間の戦闘が続く。11万人の米陸・海・空軍兵士のうち2万6千人が死傷する。 |
【硫黄島激戦】(「ウィキペディア硫黄島の戦い」参照) | |
3.1日、アメリカ軍は、B29による本土爆撃と沖縄作戦遂行の便宜からサイパンと東京の中間に位置する硫黄島攻略に目をつけ攻撃を開始した。栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)指揮する2万3千人の日本軍(硫黄島守備隊小笠原兵団)は洞窟陣地にたてこもり、抗戦した。 3.17日、米軍上陸約1か月後、日本軍守備隊全滅。この結果、B29の数百機の編隊が、日本の内地をいつでも好きなように空襲できることになった。 3.21日、 大本営、「硫黄島部隊の玉砕」を発表。その後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し、捕虜となった210人を除いて全員戦死する。米海兵隊は硫黄島の戦いの36日間で約7000人を失った(戦死6,821名、戦傷21,865名の計28,686名の損害)と伝えられている。「硫黄島激戦」は、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。次のように評されている。
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【マニラ市攻防戦、米軍がマニラを完全占領】 |
3. 3日、山下泰文大将はマニラ市を戦場から外そうとしたが、軍内部の反対により、2万人の兵士で玉砕死守戦に挑んだ。大将から元帥に昇進して意気軒昂のマッカーサー軍と闘ったが、撃滅された。 |
3.6日 | 「国民勤労動員令」公布。 |
【東京大空襲】 |
3.9日、3.9日夜から10日にかけて東京大空襲。米戦略爆撃機B29を主力とする150機の大編隊が東京上空に飛来し、100キロ爆弾6個と油脂焼夷弾45キロ級8500発、2.8キロ級18万発、エレクトロン1.7キロ級700発を投下した。東京の4割が廃塵と化し、死者8万8700名、負傷者4万-11万、焼失家屋26万8千戸の大惨事となった。 |
【米軍の沖縄空襲】 | ||
3.23日 | 米軍の沖縄空襲が始まった。千数百機が来襲し、爆撃と機銃掃射を繰り返した。翌24日からは、戦艦8隻、駆逐艦27隻からの艦砲射撃が本島南部を覆った。大田中将は、麾下(きか)の魚雷艇隊、震洋隊(モーターボートの先頭に爆雷を積み、体当り攻撃する特攻艇)の出撃を命じた。27日夜に出撃した27魚雷艇隊の10隻は、敵艦船群に魚雷16本を発射、巡洋艦2隻を撃沈、駆逐艦1隻を撃破という戦果を上げ、大田中将は功績を讃える電報を打った。一方、42震洋隊は2度、出撃するも敵とは出会えず、隊長の豊広中尉はジリジリしていた所、敵艦発見の報を受けて、30日夜、独断で第3艇隊12隻を出撃させた。 |
3.30日 | 「大日本政治会」結成。 |
3月、フランスド・ゴール政権下に移った仏印を日本軍第二師団による明号作戦で仏印占領。日本は、ノルマンディー上陸によりフランスがド・ゴール政権になって初めて仏印を解放した。
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【沖縄戦、米軍が沖縄本島に上陸開始】 | ||
4.1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始した。米軍はその日のうちに北・中飛行場を占領する。牛島中将指揮する日本軍は本島南部の分厚いサンゴ礁岩盤に地下壕を掘って住民共々の防衛体制を敷き、6.23日まで沖縄戦が続いた。いずれ負けることは目に見えているが、華々しい玉砕ではなく、一日でも長く米軍を引き留め、一人でも多くの敵を倒そうという陸軍参謀・八原博通大佐の作戦が奏功した。米軍司令部は「夕刻までに前進わずかに1フィート、1インチ毎に重大な損害」と報告する日もあったほどだった。空からは鹿児島から飛来した陸海軍の特攻機、約1900機が襲いかかり、34隻の艦船を沈め、空母・戦艦を含む368隻を損傷させた。 沖縄での日本陸海軍の戦死者約6万5千人(住民被害は除く)に対して、米軍は地上戦闘での死傷者、激戦による神経症発症者、特攻機による艦船攻撃の死傷者を合計すると7万5千人もの損害を出し、太平洋戦線で最も甚大な被害を受けた作戦であった。住民の集団自決も生み、一般県民の死者約9万4千名、軍属.軍人もほぼ同数が死亡した。この経験から、米軍は本土決戦を強行したら100万人規模の死傷者が出ると恐れ、当初の無条件降伏という苛酷な要求を引き下げさせる一因となった。ここから和平への道が開けた。 |
【小磯国昭内閣、沖縄戦最中に総辞職】 |
4.5日、小磯国昭内閣、沖縄戦最中に総辞職。 |
【ソ連が日本に日ソ中立条約不延長(廃棄)を通告】 |
4.5日、ソ連、日本に日ソ中立条約不延長(廃棄)を通告。ソ連のモロトフ外相が、モスクワで日本の佐藤尚武駐ソ大使に対し、「日ソ中立条約は、その意義を喪失し、その存続は不可能となった」とのメッセージを読み上げた。日本側は、「翌46.4月の条約満期後、延長しないとの意思表示」と受け止めたが、ソ連側は、「日ソ中立条約の破棄を通告」したとしている。 |
【大本営が「菊水作戦」発動】 |
4.1日の米軍の沖縄本島上陸により飛行場が整備されることを危惧した大本営は、戦機はここ数日として、ここに沖縄を最後の決戦場とする海軍の総反撃と、本土決戦の時間を稼ぐ陸軍の反撃が開始された 4.6日、大本営が「菊水作戦」を発動した。これは参加機数・作戦期間とともに大東亜戦争中、最大規模の航空作戦となった。「菊水1号作戦」は、特攻機が鹿児島・知覧飛行場から飛び立ち敢行された。 菊水作戦は、第3、5、10航空艦隊の航空兵力をもって沖縄来攻の米軍に対し、大挙特攻攻撃を加えた作戦で、4月6日の1号作戦から6月22日の10号作戦にわたった。都合約1500機の特攻機が参加し、約二千人の兵士が沖縄の空に散った。この間、台湾の第1航空艦隊はこれに呼応し、陸軍の第6航空軍、第8飛行師団も策応した。 |
【鈴木貫太郎海軍大将が内閣を発足】 |
4.7日、鈴木貫太郎海軍大将が内閣を発足。 |
【ルーズベルト(民主党)が急死、トルーマンが就任】 |
4.13日、米国第32代大統領ルーズベルト(民主党)が急死し、ハリー.トルーマンが第33代大統領就任した。 鈴木貫太郎首相は、同盟通信の海外向け英語放送を通じ、「大統領の逝去がアメリカ国民にとって非常なる損失であることが理解できる」云々と述べ、「深甚なる弔意」を米国民に表明した。一方、ヒトラーは、「運命が史上最大の戦争犯罪人を地上から取り除いた」との声明を発表した(五百旗真「日米戦争と戦後日本」)。 チャーチルは、トルーマンと打ち合わせして、ソ連の日本上陸阻止政策に向うことになる。ソ連を満州に釘付けして、アメリカと英国で日本占領をやるということで合意した。トルーマンは、ルーズベルトが約束していたソ連への上陸用舟艇贈与を反故にした。ソ連は上陸用舟艇で北海道から東北を占領する計画を持っていたが、為に日本占領戦に乗り遅れることになった。 |
4.15日 | 吉田茂が「近衛上奏文」関連容疑で憲兵隊に逮捕される。吉田は、45日間の勾留を経て釈放される。 |
【ドイツ降伏】 |
4.30日、ヒトラーが自殺。5.7日、(~8日)。ドイツ軍が無条件降伏した。 |
【以降の流れは、「大東亜戦争史3、イタリア降伏からドイツ降伏まで」の項に記す】
(私論.私見)