山本五十六聯合艦隊司令長官——日本を破滅に追い込んだあの戦争にかかわった軍人の中で、戦後もヒーローとして取り上げられる筆頭といえば、この人だろう。昭和18(1943)年4月18日、最前線の部下たちを激励に向かった搭乗機が、暗号を解読していた敵の戦闘機隊に急襲され、墜落、戦死した。この重要人物の護衛にあたっていた戦闘機はわずか6機に過ぎず、搭乗員はみな20歳そこそこの若者たちだった。その中で唯一、戦後まで生き延びた搭乗員が、神立氏に語ったあまりに「悲壮な覚悟」とは?
後編となる本稿では、山本五十六長官の護衛任務を伝えられた6名の搭乗員の運命について語る。 |
徹底的に秘匿された山本長官の死
6機の護衛戦闘機の搭乗員に任務が伝達されたのは、17日夜のことであった。指揮官兼第一小隊長・森崎武予備中尉、二番機・辻野上豊光一飛曹、三番機・杉田庄一飛長(飛行兵長)。第二小隊長・日高義巳上飛曹、二番機・岡崎靖二飛曹、三番機・柳谷謙治飛長。司令室に呼ばれた六人の搭乗員は、翌日の任務は聯合艦隊司令長官の護衛であり、その責任の重いことを伝えられた。
森崎予備中尉は24歳。神戸高等工業学校在学中に召集されて昭和15(1940)年4月、飛行科予備学生7期生として海軍に入った。ミッドウェー海戦で重傷を負い、顔の右頬や手にまだケロイドが残っていた。ラバウルに進出以来半年あまり、実戦の経験はすでに十分に積んでいたが、負傷の後遺症で視力がよくなく、薄いサングラスを常用していた。
日高上飛曹も24歳、昭和15年1月に操縦練習生を卒業していて、開戦以来、フィリピンから東南アジアを転戦。この日の6機のなかでいちばん搭乗歴の長いベテランだった。
辻野上一飛曹は21歳。4月3日に着任したばかりだが、飛行隊長・宮野大尉の眼鏡にかなったのであろう、「い」号作戦では宮野の二番機として出撃している。
岡崎二飛曹は20歳。ラバウルに来て5ヵ月が経過しているが、大きな空戦にはこれまであまり縁がなく、「い」号作戦で急に頭角を現した感のある搭乗員であった。
柳谷飛長は24歳。昭和15年、徴兵で海軍に入り、内部選抜で戦闘機搭乗員になって以後は、ずっと二〇四空にいて、すでに相当な実戦の場数を踏んでいる。
杉田飛長は、最年少の18歳。だが、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男で、敵爆撃機を空中衝突で撃墜するなど、その元気で向こう見ずなところは比類がなかった。 |
あっという間の出来事
6人の搭乗員のうち、ただ一人、戦争を生き抜いたのは柳谷謙治飛長(のち飛行兵曹長)である。私は柳谷さんに、都合3度にわたってインタビューしている。柳谷さんの右手は、手首から先が失われていた。「一番機の左後ろに二番機がつくのが普通ですが、この日は長官機の右後ろに二番機(参謀長機)がついていたと思う。その右後ろに、零戦は3機、3機でついた。敵機がもし来るとすれば海側、つまり右側(南側)からなので、海岸側を警戒していたということです。ところが――」。ブーゲンビル島上空に差しかかり、島の南端にあるブイン基地がマッチ箱のように小さく見えてきたところで、日高上飛曹が、予想に反して北側のジャングルの方向から向かってくる敵戦闘機・ロッキードP-38の編隊を発見した。米軍は日本側の暗号を解読し、米軍戦闘機のなかでもっとも航続力のあるP-38を16機発進させ、山本機を討ち取ろうと待ち構えていたのだ。「敵機の方が先にこちらを発見したらしく、P-38はすでに攻撃態勢に入っていた。われわれは長官機の上空500メートルほどのところに位置していましたが、敵機は意表をついて、低高度から突き上げてきたんです。長官機を守ろうと、森崎予備中尉機、日高上飛曹機が突っ込んでいき、われわれもそれに続いた。私もすぐに敵機に追いつきました。威嚇射撃だから当たらなかったかも知れないが、一発、追い払って機体を引き起こした。続いて攻撃態勢に入ったとき、ふと見ると長官機は煙を噴いていました……」。長官機は浅い角度でジャングルに撃墜され、ひと筋の黒煙が天に上った。参謀長機も、海上に撃墜された。全てはあっという間の出来事だった。 |
徹底的に秘匿されることになった山本の死
この日、ブイン基地には第五八二海軍航空隊(五八二空)の零戦20数機がいたが、長官機の到着予定時刻に上空哨戒もしていない。ここで上空に零戦を飛ばせていれば、敵機もやすやすと手出しはできなかったのかもしれないが、そんな命令すら司令部からは出されていなかった。五八二空零戦隊の一員としてこのときブイン基地にいた角田和男さん(飛曹長、のち中尉)は、この日、山本長官が視察に来ることすら知らされていなかったという。先の野村参謀の嘘は、このことからも明らかである。6機の護衛戦闘機は全機、無事であった。報告を受けて、五八二空飛行隊長・進藤三郎大尉が墜落地点の確認に飛んだ。「ジャングルのなかから、長官機の墜落地点から黒煙が高く上がっているのが見えました」と、進藤さん(のち少佐)は私のインタビューに答えている。「どうして長官がこんなところまで、わざわざ来なくても俺たちは頑張ってやってるのにな、というのが率直な思いでしたね」。一番機の乗員は、山本以下、全員が戦死。海に墜ちた二番機に乗っていた宇垣参謀長と、艦隊主計長・北村元治少将、主操縦員・林浩二飛曹の3名だけが奇跡的に助かった。のちに発見された山本長官の遺体には、背中から心臓にかけての盲管銃創、下顎からこめかみへの貫通銃創があり、これらが致命傷となって機上で戦死したものと思われた(これには、山本は墜落後もしばらく生きていたとする元軍医の回想など異説もある)。報告を済ませた6機の搭乗員には厳重な緘口令が言い渡され、やがて、ラバウルへの帰還が命ぜられた。「すでに長官機が撃墜された情報は届いていて、森崎予備中尉の報告に、杉本司令と宮野隊長は悲痛な表情でうなずくだけでした。司令は『ご苦労』と沈んだ声で言うと、このことは他言無用であるということを、厳しい調子で言いました」と、柳谷さんは回想する。最高指揮官が前線で不慮の死を遂げたとなると、全軍、全国民の士気に与える影響は計り知れない。山本の死は、まずは徹底的に秘匿されることになったのである。緘口令を敷かれたのは米側のパイロットも同じだったが、こちらの方は暗号解読の機密を漏らさないための処置で、その後は英雄として扱われる。 |
護衛の任務を果たせず「もう生きては帰れない」
ところで、山本長官戦死の責任問題はどう扱われたか。意外なことに、この件に関係する南東方面艦隊司令部など、責任の中枢にあって処分を受けたものはいない。現場の当事者も同様で、杉本二〇四空司令はもちろん、宮野飛行隊長、森崎予備中尉以下6名の零戦搭乗員が査問に付されることも、懲罰を言い渡されることも、軍法会議にかけられることもなかった。その後も続く激戦で、「6機」のうち、被弾して右手を失った柳谷さん以外の5名全員が戦死する運命が待っているが、これはよく言われるように懲罰的に出撃を強いられたものではなかった。記録の上で、この6名の出撃回数が他の搭乗員と比べて特別に多いということはない。防衛省に残る「二〇四空戦闘行動調書」から具体的な数字を拾ってみると、山本戦死翌日の4月19日から宮野や森崎が戦死する6月16日までの作戦参加回数は、●山本長官機護衛の6機 森崎予備中尉・22回、日高上飛曹・15回、辻野上一飛曹・25回、岡崎二飛曹・18回、柳谷飛長・10回、杉田飛長・21回。●その他の搭乗員(一部抜粋) 宮野大尉・20回、渡辺秀夫一飛曹・20回、橋本久英飛長・18回、渡辺清三郎飛長・28回、大原亮治飛長・19回、中澤政一飛長・20回。と、6名よりも多い出撃を記録している者もいて、全体としてもとりたてて差はないのがわかる。あえて言うなら、当時の二〇四空の出撃そのものが過重であったのだ。とは言え、数字と当事者の心中はまた別である。柳谷さんは、「誰もなにも言わない。しかし懲罰があろうがなかろうが、長官機の護衛を果たせなかった責任は取らないといけない。もう生きては帰れないと、思いつめた悲壮な覚悟でしたよ」と語っている。還ってきた6名のただならぬ気配に、二〇四空の零戦搭乗員のなかには、何ごとかを感じ取った者もいたし、最後まで気がつかなかった者もいた。大原亮治飛長(のち飛曹長。2018年歿)は、18日夜、杉田飛長の告白でそのことを知ったと言う。「私たちの宿舎は、占領前に白人が住んでいた洋館で、私と杉田ほか、同年兵ばかりの6人が同部屋で寝起きしていました。夜、暑くて眠れないので建物の前の涼み台で涼んでいると、杉田が思いつめたような表情で話しかけてきた。『実はな、今日長官機を護衛して行ったんだが、長官機がやられた』と。帰ってきてから様子がおかしいので、うすうす気づいてはいましたが……」。数日後、ラバウル東飛行場で待機していた大原さんは、着陸してきた一式陸攻に数台の自動車が横付けし、機内から小さな白い箱を奉持した士官が降りてくるのを見て、「長官がお戻りになったのだ!」と悟ったと回想している。 |
その後、終戦まで…
6機の護衛戦闘機のその後の運命をたどってみると、まず、昭和18(1943)年6月7日、ガダルカナル島の手前に位置するルッセル島上空の空戦で、日高義巳上飛曹と岡崎靖一飛曹(5月進級)が戦死。柳谷謙治さんが空戦で被弾し、右手を失ったのもこの日のことである。柳谷機の被弾の瞬間を、大原亮治さんが目撃している。「ルッセル島に向かって南から北へ、爆撃のために緩降下を開始したとき、グラマンF4Fが2機、こちらに向かってくるのが見えました。私は三番機で隊長機の右後ろについているので、左側はよく見えています。逆に四番機の柳谷機は、隊長機の左後ろにいて右側を見ているから敵機は見えてない。やっと投弾したそのとき、グラマンがダーッと頭上を通り過ぎ、見ると柳谷機が、グラッと傾いて墜ちていきました」。柳谷さんは、墜落状態の中で意識を取り戻した。敵弾で穴の開いた風防から風が轟々と入っていた。無意識のうちに右手を伸ばして操縦桿を引こうとしたが、操縦桿がつかめない。見ると、右手の親指一本を残して、他の四本が吹き飛び、血がドクドクと噴き出していた。柳谷さんは左手で操縦桿を握ると、巧みに機を水平飛行に戻した。操縦席のなかは鮮血で染まっている。出血で、ともすれば意識が薄れ、右手と右足には、重い鈍痛が広がっていた。そんななか、柳谷さんはどうにか、日本海軍の不時着場として使われていたニュージョージア島ムンダ飛行場に着陸することができた。ああ、地面に着いたと思ったとたん、柳谷さんは意識を失った。「気がついたときには、私は小屋の板の上に寝かされていました。そこで、このまま放置すると破傷風で生命が危ない、ということで、名も知らない軍医に、麻酔もかけないままノコギリで右手首を切断されました。暴れるといけないからと、三人の看護兵に押さえつけられ、口には脱脂綿を詰め込まれて、私は叫ぶこともできませんでした。手術が始まったとたん、ドンッと殴られるような激痛が体中を走りました……」。手首から先がなくなった右手にはグルグルと包帯が巻かれ、血と脂汗にまみれた柳谷さんは、ふたたび意識を失った。6月16日には、森崎武予備中尉と飛行隊長・宮野善治郎大尉がガダルカナル島上空の空戦で行方不明となり、戦死。柳谷さんは、現在、横浜・山下公園に係留されている病院船「氷川丸」で内地に送還されるとき、宮野と森崎の戦死を知らされ、衝撃を受けたという。7月1日、辻野上豊光上飛曹(5月進級)が、レンドバ島上空の空戦で撃墜され、戦死。杉田庄一二飛曹(5月進級、のち上飛曹)は、8月26日、ブイン基地上空の邀撃戦で乗機が被弾、落下傘降下したものの、空中火災のため大火傷を負い、内地に帰還している。杉田は、その後もマリアナ、フィリピンなどで多くの激戦をくぐり抜けたが、昭和20(1945)年4月15日、新鋭機「紫電改」に搭乗し、鹿児島県の鹿屋基地を離陸直後、米海軍のグラマンF6F戦闘機に撃たれ戦死した。柳谷さんはその後、もう一度空を飛びたい一心でリハビリに励み、義手で操縦桿を握って搭乗員として再起。九三式中間練習機の操縦教員として、山形県の神町海軍航空隊(現・山形空港)で終戦を迎えた。 |
長官の死から半世紀が経っても癒えなかった心の傷
戦後、不動産業を営んだ柳谷さんは、山本長官戦死から約50年後、日高義巳上飛曹の故郷・屋久島を、墓参のため訪ねた。屋久島にはもう一人、宇垣参謀長搭乗の一式陸攻二番機の主操縦員として奇跡的に生還した林浩さんが暮らしている。柳谷さんと林さんは、専攻機種こそちがうが、予科練の同期生である。柳谷さんはあらかじめ林さんに連絡をとり、久闊を叙した。だが林さんは、予科練の戦友会からの回想記執筆の依頼には頑なに応じなかったという。海上に撃墜され、宇垣参謀長、北村艦隊主計長とともに救助されたときの林さんは、重傷を負い、朦朧とした意識のなかで、「いますぐ私をラバウルに還してください! 明日もう一度出撃して、必ず仇をとります!」と叫んでいたと伝えられる。林さんは、撃墜された陸攻の搭乗員として、終生その責任に苛まれていたのかもしれない。林さんは平成18(2006)年、柳谷さんは平成20(2008)年に、相次いでこの世を去った。
ラバウルでは、いまも伝説的ヒーローとしてその名を語り継がれる山本五十六。いまや日本人の多くが戦争を知らない世代であるのと同じく、ラバウルの人たちもほとんどは戦争を知らない。現代を生きる現地の人たちにとって、「ヤマモト」の名は、パプアニューギニアでも映画を通じて人気だという「ニンジャ」と同様、デフォルメをともない、「強きもの」の代名詞になっているのかもしれない。しかし、敵に暗号を解読されていたとはいえ、杜撰な巡視計画による最高指揮官の不注意な最期は、護衛にあたった若者たちに、生きては還れないほどの重荷を負わせ、奇跡的に生還した者にも、生涯癒えることのない傷を残した。そのことを、泉下の山本はどう感じるのだろうか。そして、その後もエリートコースから外れることなく栄達を続け、戦後は「死人に口なし」とばかりに、責任を現場に被せたまま天寿を全うした参謀は……。 |