大東亜戦争史1、開戦からミッドウェー海戦まで |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、大東亜戦争史1、開戦からミッドウェー海戦までを確認する。この戦争を日本帝国主義の錦の御旗から見れば、大東亜共栄圏の確立を大義として太平洋の覇権をめぐって連合国軍と争ったことから大東亜戦争とみなすことになる。これをアメリカ帝国主義の錦の御旗から見れば、対ドイツ.イタリアの大西洋戦域に対して太平洋戦域で争われた戦争であったことから太平洋戦争とみなすことになるようである。この戦争はほぼ15年の長きにわたったが、1945年に至って日本帝国主義の戦局は日増しに不利となっていった。 |
【日英海軍によるマレー沖海戦】 |
12.9日、日本海軍の陸上攻撃隊が、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(3万5千トン)と巡洋戦艦「レパルス」(3万2千トン)の二隻を撃沈。このマレー沖海戦により、日本軍が南方地域の制空権と制海権を確保することになった。 |
【「マレー沖海戦」の衝撃】 | |
マレー沖海戦。海軍の陸上攻撃隊が、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(3万5千トン)と巡洋戦艦「レパルス」(3万2千トン)の二隻を撃沈。このマレー沖海戦により、日本軍が南方地域の制空権と制海権を確保することになった。 チャーチルは、「チャーチル日記」に次のように記している。
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12.9日、全国の治安維持法違反被疑者・要視察人・予防拘禁予定者計396名を検挙・検束・仮収容。
12.10日 | 【日本陸軍による南方資源地帯占領作戦開始される】 第一次比島作戦により、ルソン島上陸。石油資源確保の為、破竹の勢いで進撃を続ける。 |
12.11日 | 独伊、対米宣戦布告。 |
12.25日 | 香港島占領。 |
12.19日、言論出版集会結社等臨時取締法公布。
1942(昭和17)年の動き |
「華人労務者移入」の閣議決定。 | ||
1月 | 「繊維製品配給消費統制規則」の公布、次いで「衣料切符制」が実施される等繊維関係の統制機構が敷設されていった。海運機構の国家管理も進められ、戦時海運管理令も発布されていくことになる。 | |
1. 2日 | 首都マニラ占領。 | |
1.14日 | 日本軍ビルマに進撃開始。 | |
1.19日 | 香港占領1ヵ月後、香港総督府(初代総督・磯谷廉介陸軍中将)設置。 | |
1.21日 | 第79帝国議会の劈頭で、東条首相が施政方針演説。 | |
2.15日 | シンガポール占領。バタビヤ沖海戦勝利。その後ビルマ占領に向かい掌握する。 |
【インパール作戦】 | ||
3.8日、日本陸軍第15軍3個師団とインド国民軍の総計約10万人が、中国軍(国民党軍)を支援する援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の要衝都市インパールを占領する目的で、ビルマ・インド国境の3000メートル級のアランカン山系の険阻な道越えを目指した。第15軍の小畑信良参謀長らは補給困難を理由に反対したが、発案者の牟田口廉也司令官が参謀長を更迭して強行した。これを「インパール作戦」(日本側作戦名:ウ号作戦)と云う。 第15軍(林)( 司令官:牟田口廉也、参謀長:久野村桃代)、第15師団(祭)(師団長:山内正文)、第31師団(烈)( 師団長:佐藤幸徳)、第33師団(弓)( 師団長:柳田元三)を主力とし、6月末まで継続された。インパール作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援する狙いがあり、インド国民軍6000名も作戦に投入された。 連合軍は、暗号解析などにより日本軍が三方向より侵攻する攻撃計画の全容を把握し、第14軍(司令官:W.スリム中将)第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に約15万人が、日本軍の進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で待ち受けた。日本軍は英軍と激しく交戦するが、補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により武器弾薬、食料に事欠き、且つジャングル地帯での作戦は困難を極めた。「ウィキペディア・インパール作戦」は次のように記している。
4月に入って雨季が始まり、前線では補給を断たれて飢える兵が続出、衰弱した日本兵の多くがマラリア、赤痢に感染し、次第に身動きが取れなくなった。これにより7割の軍を失った。日本軍は歴史的敗北を喫し、これが日本陸軍瓦解の発端となったと云われている。インパール作戦は 無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される。 第31師団長・佐藤孝徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して撤退を進言し始めた。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。双方の対立は次第に激化した。 6.5日、ビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が牟田口をインタギーに訪ねて会談。二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。 牟田口は後に、防衛庁防衛研修所戦史室に対して、この時の状況を次のように述べている。
これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。 5月末、佐藤は司令部に対し、「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、日本軍初の独断撤退を強行した。「撤退道は白骨街道となった」。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件となった。 7.3日、作戦中止を正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。戦死者3万2千人余、戦病者は4万人余。最終撤退は10月。 牟田口司令官は、全師団長を解任し責任追及した。佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと云う。また、第33師団長・柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長・山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。当の牟田口は、配下の部隊の帰還を待たず、後に「北方撤退路の視察」と称して司令部を離れ、そのまま単独帰国することになる。牟田口は戦後、インパール作戦失敗の責任を問われると弁明に終始し、インパール作戦で自身に責任がなかった旨を強調している。冊子やラジオやテレビ、雑誌などで同様の強調を繰り返した。 この作戦失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ=ベンガル湾戦線は崩壊した。翌1945(昭和20).3月、日本軍が組織、育成したアウンサン将軍率いるビルマ国防軍が連合軍側へと離反し、結果として日本軍がビルマを失陥する原因となった。1994(平成6)年、日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立した。 |
3月 | スティルウェル中将が蒋介石の軍事顧問として、南京から重慶に移転していた国民党本部に到着。 | |
3. 1日 | ジャワ島上陸。 | |
3. 8日 | ラングーン占領。日本海軍はジャワ沖海戦で蘭印艦隊主力を壊滅させた。 | |
3. 9日 | インドネシアのオランダ軍から全面無条件降伏。マッカーサー元帥はフィリピンを脱出し、オーストラリアに逃れ、そこで西南太平洋連合軍司令部を作って作戦の建て直しを図った。 | |
4. 1日 | ニューギニア上陸。 | |
4.11日 | 4.9日、日本軍がパターン半島総攻撃、占領。この時投降してきた米軍やフイリピン軍兵士7万6千名近くをパターン半島南端マリべレスからマニラの北方サンフェルナンドまでの90キロを炎天下で徒歩で移動させたのが「パターン死の行進」(推定死傷者2万5千名)といわれるものであり、戦後東京裁判で捕虜虐待として問題にされた。 この時期は連戦連勝の歓呼の渦巻いて国民が有頂天になっていた時期である。ここが日本戦勝の頂点と考えられる。 |
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4.18日 | 真珠湾攻撃で無傷となった空母「ホーネット」から発進した米軍機B25の16機が飛来し、米陸軍機が日本本土初空襲。 | |
4.30日 | 翼賛選挙。この時東条内閣は貴族院議員18名をはじめ33名の協力議員を集めて、翼賛政治体制協議会を作り、この「翼協」が466名、定員一杯の候補を推薦し、臨時軍事費から500万円の資金を配り、選挙に臨んだ。それでも、非推薦候補が85名も当選している。その中には、鳩山一郎、芦田均、河野一郎、三木武吉、尾崎行雄、三木武夫など、戦後の与党政治を担う党人派の猛者達が居た。西尾末広、水谷長三郎、三宅正一など、戦後の社会党を担う運動家達も居た。この後敗戦まで選挙が行われておらず、衆議院はこの陣容で続いていくことになる。 |
4.24日、尾崎行雄、選挙演説で不敬罪で起訴。翼賛選挙における非推薦候補の運動に対する全国的干渉の一環。
【珊瑚海海戦】 |
5.7日、コレヒドール島占領。ニューギニアのポートモレスビー攻略のため珊瑚海に入った日本機動隊はアメリカ第17機動部隊と遭遇、「翔鶴」・「瑞鶴」対「レキシントン」・「ヨークタウン」が闘い、大戦史上初の空母戦の火蓋が切って落とされた。これを「珊瑚海海戦」と云う。 |
【三派教会に対する 一斉検挙】 |
6月、日本基督教団第六部 (元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社・東洋宣教会きよめ教会に対する 一斉検挙が行われ、合計134名の教職が投獄され、7名の牧師が殉職した。特高警察は、「ホーリネス系三派は、我国体を否定し、神宮の尊厳を冒涜すべき内容の教理を信奉宣布し 来れる不穏結社」とみなしていた。日本基督教団の富田満統理は、伊勢神宮に参拝し、天照大神に教団の成立を報告し、その発展を祈らざるを得ない立場に追い込まれた。翌1943(昭和18)年、三派教会は、神宮への不敬、国体変革を企図せる罪によって宗教結社禁止となった。また、聖公会の牧師の中にも投獄される人もおり、セブンスデー・アドベンチスト教会は解散を命ぜられた。 |
6月29日:中西功ら上海反戦グループ(「中共諜報団」)の検挙。
【以降の流れは、「」の項に記す】
(私論.私見)