山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.05.28日 れんだいこ拝


山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚
 「山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その一) 」。
※昭和49年8月、天理教敷島大教会発行の山田伊八郎伝より、伊八郎の入信及び”こいそ”との結婚に至るまでのエピソードを、長文の為め何回かに分けて暫らく紹介させて頂きます。(読み易くするためにれんだいこ文法による表記替えする)
 伊八郎は、明治6年、26歳の春、母”タカ”の里方、醍醐村(現、橿原市醍醐町)の吉井熊吉の親戚で田中村川原田中(現、橿原市田中町)の多田孫次郎(通称彦兵衛)の長女”ハル”(17歳)と結婚した。仲睦まじく暮す内に一年、二年が過ぎた。だが何故かこの二人には子供が授からなかった。伊八郎が大師信仰に一層心を打ち込んだのも、どうかして子供を与えてほしいとの切なる願いがあったからである。しかしそれも実らぬまま、三年、四年と歳月がすぎていくと、二人の心は次第にあせり、深刻な悩みとなっていった。この地方では、妊娠する迄は法律上の結婚手続きはせず、まして三年経って子供の生れない場合は離婚するという風習があった。当然のこととして、何度も離婚の話は出たし、里方からも娘を引き取りたいとの申し出があった。

 思い余った二人がこんなことを話しあった夜が幾度かあったという。「こうして何年も一緒にいても行燈の影には二人の姿しか映らん。これではどうも淋しゅうてならん。いっそのこと別れて、あんたは又他家へ嫁ぐ、私も他から貰う。そうしたら互に子供が授かるかもしれん。いっそのこと、そうしたらどうやろう」と。他には何いうこともない恵まれた二人であったが、子供を求める思いは又格別である。まして伊八郎には、友達がつぎつぎと子供を授けられて、人の子の親となっていく姿を見聞きするにつけ、自分たち夫婦の淋しさ、悩みはいよいよその度を増していくばかりであった。だが伊八郎には、どうしても離婚にふみきれなかった。そればかりか、信仰にますます力を入れ、子を産めない妻をいつくしみ、また村の為にも人だすけに心を砕いた。そして遂には、結婚四年後の30歳の秋、思いきって”ハル”を正式に妻として入籍の手続きをとったのである。

 ところが不思議にも、その後半年ほど経った11年4月、”ハル”は待望久しく子供を身ごもったのである。夫婦は勿論のこと、家族の喜びも如何ばかりだったろうか。とりわけ伊八郎は、以前にも増して村の仕事にも、大師信仰にも熱がこもり、また野良へ出ては、鍬持つ手にも、ひときわ力が入る明るく楽しい毎日であった。父伊平も殊の外うれしく「伊八郎もようやく一人前になった」と村人たちにもその喜びを語り、この年7月13日には正式に家督を伊八郎に譲り渡した。そして翌12年1月18日に長男伊太郎が生れた。皆に待ち望まれ祝福されて生れて来た男の子であった。がしかし、この待ち望まれた伊太郎も如何なる親神の御計りか、僅か十日の寿命で出直していったのである。やっと摑んだと思った幸せ、喜びの絶頂から、一夜にして悲しみの淵へ突き落とされた伊八郎は、ただ茫然自失、生きる気力さえも失ってしまった。代々続いた熱心な大師信仰の徳も、自分の今日までの信仰信念も、はかなく消えて、神仏の存在さえも疑い、深刻に世を厭い、眠れぬ夜が続いた。

 一方”ハル”も、やっと生れた我がいとし子を死なせてしまった心の傷は深く、嘆き悲しみの日々を過ごすうちに、遂には今でいうノイローゼのようになってしまった。どうかして子供を与えてほしいと祈り、苦悶した時以上に、今の伊八郎夫妻、また山田家は、急転して悲惨な空気に包まれていった。こんな日が約一ヵ月、互に気力を失ってしまった二人、かつて「いっそ別れようか」と幾度か語り合った話が本当になって12年2月27日、遂に離婚(※)にふみきったのである。思えば結婚以来二人仲睦まじく暮しながら、一人の子供も育て得ずして六年間の結婚生活に終止符をうったのである。これが伊八郎をして、道のよふぼくに引き出す為の親神様の遠大なる御計らいだったとは、当時伊八郎自身はもとより、誰も知るよしもない。


 ※子供が授からずに離婚した二人は、のち伊八郎は、山中”こいそ”と結婚して七人。”ハル”は、伊八郎の母の里、醍醐村の吉井熊吉(通称捨吉)と結婚六人の子供を授けられた。(つづく)
 「山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その二)」。
 伊八郎は、”ハル”との離婚によって心が晴れるものでもなく、むしろ以前にも増して心はふさぎ、村の惣代としてつとめてはいるものの、積極的に村へ顔を出すことも少なくなり、次第に無口に家に閉じこもりがちになっていった。父伊平はじめ親戚知人らにとって、これがまた新たな大きな心配の種となり、殊に父伊平は、日夜神仏に祈願をこめるかたわら、逢う人毎に「何とかならないものか」と尋ね歩いた。そうする内に日も過ぎ村の春祭りの日がやってきた。毎年陰暦の4月12日は「連座」(れんぞ)といって、村中のどの家も親戚を大勢招いて、村を挙げての賑やかな春祭りの日である。丁度この日、山田家に招かれて来た人の中に、伊平の従兄弟で西井上村に住む美野田新次郎という人がいた。この人が伊八郎に「早いとこ再婚したらどうや」と一つの縁談をもって来た。それは「大豆越村の大地主で山中忠七さんの一人娘”こいそ”さんというのが、一度嫁入っていたのが不縁(※)となり、今は庄屋敷村の中山家で、神様の信仰一条にお仕えしているという。人柄も大変評判が良いし、この人を貰わんか」というのであった。父伊平はじめ居合わせた親戚の者も皆「是非その話をすすめてくれ」と大賛成であった。日頃伊八郎の沈みこんだ姿を見るにつけ、「これで立ち直ってくれたら‥‥」と、一同祈るような気持ちでこの話にのったのである。(※当時、美野田新次郎は、山中”こいそ”の婚家の近くに住んでいたので、彼女の婚家での生活ぶりをよく知っていた) 伊八郎自身は、まだまだ長男死去、妻と離婚という大きな痛手の中にあり、再婚など考え及ばなかったこととて再三断った。がしかし、父をはじめ周囲の者のたっての勧めもあり、とも角見合いをすることにした。一方山中家の方は、美野田氏からのこの話に、忠七先生も非常に心を動かされたようである。やがて両家の話合いで見合いの日取りも決め、いよいよ庄屋敷の教祖のもとから”こいそ”を呼び戻し、山中家で見合いすることとなった。12年5月のことである。

 この見合いが又、実に変っていた。丁度その日は、焼けつくような炎天であったが、山中家の中庭の干し場一杯に筵が敷きつめられて、そこには、麦の穂のよく干し乾かされたのが一面に拡げられてあった。そして、その中で”こいそ”に「麦かち」(※)をさせ、それを伊八郎に見せるという見合いであった。(※唐竿という長さ2メートルぐらいの棒状の道具で麦の穂を叩いて脱穀すること。麦の穂の粉が汗ばんだ身体にひっついて、とてもかゆく、楽な仕事ではない) やっと生まれたただ一人の子供を亡くし、妻とは別れて悲しみの底にあった伊八郎は、初めからこの見合いにはあまり乗り気ではなかった。しかし、この日、炎天下で、男でも楽ではない「麦かち」の仕事を甲斐々々しくやっている”こいそ”が、実は女児二人を縁家に残して離縁となって帰って来たという。自分も今日まで苦しかったが、なおそれ以上に悲惨な運命をたどったという彼女が、親のいうまま素直に、庄屋敷の生神様のもとで、信仰一途に明るく生きているという。今日までの自分とひき比べて、全く違った陽気三昧な明るくほのぼのとした彼女の人間味に魅せられてしまったのである。

 この日の”こいそ”に逢ってからの伊八郎は、全く百八十度の心の転換をして、以前の伊八郎に見事に立ち直ったのである。あの人こそ、天からの授けだ。あの人を、しあわせにしてあげたい。と心底から、そう思った。再婚するならこの人と。と、心に堅く決めたのである。この一日の見合いで、本人たちはもとより、双方の親たちも、大変良い縁だということになり、早速に山中忠七先生から、教祖にその由を申し上げて、娘”こいそ”の結婚お許しを願い出られたのである。ところが意外にも、『”こいそ”は決して何処へもゆくのやない。いつまでも此処にいるのやで』とのお言葉があり、この縁談には神様のお許しがなく、結局、折角の話も立ち消えとなってしまった。それから半年、伊八郎はいろいろ考えたが、やはり「再婚するならこの人」と堅く決めた心は変わらず、他に嫁を探すという考えも毛頭なかった。そこで翌13年1月、山田家から再び美野田氏を通じて山中家へ申し込んだ。忠七先生もまた、教祖にお伺いされたところ、やはり結婚のお許しはなかったのである。(つづく)
 「山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その三) 」。
 これが教祖の、伊八郎に対するおためしであったのだろうか。この人こそと思い、この縁談に執心した伊八郎は容易にあきらめきれず、「本人も両親も皆な喜んでいるのに、山中さんは神様のお許しがなければ嫁にはやれんというし、その神さんは二度も断る。一体どんな神さんなのだろう」と庄屋敷の神様に興味を持ちはじめた。そして、”こいそ”が住み込んで仕える庄屋敷の神様のところへお詣りしてみようと思ったのである。しかし一人では行きにくかったのだろう。村の友人数名をさそって、この年はじめておぢばに参拝したのである。勿論この時の参拝は、本当の信仰を求めてのものではない。しかし日頃信仰心の深い伊八郎は、やはりいい加減な気持ちでは参拝できず、一寸お詣り程度のものだったはいえ、大師信仰の「願かけ」と同様、伊八郎なりに精進して真心込めて参拝したのである。とに角この時の伊八郎のおぢば参拝や、或はその後の心の成人を見澄まされたものか、翌14年早々、三たびこの縁談を願ったところ、教祖から、『嫁入りさすのやない。南はとんと道がついてないで、南半国道弘めに出す』とのお言葉をもって、鮮やかにお許しをいただいたのである。思えば、二度も破談になりながら、なおも熱心に懇願する伊八郎と”こいそ”の真実があったればこそとはいえ、この間満二年間、教祖は二人の心の成人ぶりをじっとご覧下されていたのである。”こいそ”には、三年間、ご自身のお側において住み込みづとめをさせられ、伊八郎には伊八郎なりにこの道の信仰心を植えつけられたのである。教祖には、これでいよいよ、南半国弘めの大任も十分この二人の心に托し得るとお認めになり、前述のようなお言葉とともに、二人の結婚をお許し下さったのである。

 伊八郎と”こいそ”の結婚式は、同年春、即ち明治14年5月30日(陰暦5月3日)に行われた。伊八郎34歳、”こいそ”31歳であった。鯉のぼりを立て、ちまきをつくって祝う男の節句の二日前、当時の農家にとっては実に忙しい時期の結婚だった。殊にそれぞれ大きな農家に育った二人には、さぞ一面の思い出も深かったことであろう。また、この年のおぢばでは、教祖は四月からおふでさき第16号のご執筆、4月8日(陰暦3月十日)秀司先生のお出直し(この為に二人の結婚式が5月まで延期になったともいわれる)。5月5日(陰暦4月8日)には滝本村の山で、かんろだいの石見が行われ、引続いてその石が、ひのきしんの手によって賑やかにお屋敷まで運び出され、9月初旬(陰暦8月初旬)までかかって、かんろだいの石ぶしんが、二段までできあがった頃である。二人にとっては、農繁期はもとより、こうしたかんろだいの石ぶしんの始まりと立て合っての「南半国道弘め」の結婚には、深く心に刻まれるものがあったろう。(つづく)
 「山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その四) 」。
 ~さて、敷島の元、南半国道弘めの土台となった”こいそ”の生い立ちについて簡単にふれてみよう。”こいそ”は、嘉永4年(西暦1851年)11月17日に、父山中忠七、母”おその”の次女として生れた。
(※戸籍は安政元甲寅年(西暦1854年)2月3日生となっている。明治35年から「いゑ」と改めたが、改名、改籍の時期は正確には分らない。明治40年頃でも婦人会の辞令に「こいそ」と署名したものもある。教祖は勿論のこと夫伊八郎も終生「こいそ」と呼んでいた。なお”こいそ”の山田家への入籍は明治14年9月15日附である) 


 山中家は、大和国式上郡大豆越村(現桜井市大字大豆越)で代々農業を営み、近隣では「忠七さん地持ち」と唄われた程、かなり知られた田地持ちの富農であった。しかし文久2年、”こいそ”12歳の時、祖父、姉、妹と三人続いて死亡、しかも母と兄が重病で床に臥すという、全く予期せぬ悲惨な状態となった。かくする内に文久4年正月中頃から、母”おその”がいよいよ重態となった時に、不思議な親神様のおたすけをいただいて、この道の人となったのである。以来忠七先生は、益々信仰熱心になり、入信一ヵ月後には「扇のさづけ」といただいたのをはじめ、教祖は二度までも山中家へお入り込みになり、秀司先生や小寒様はしばしばお越しになった。この間、忠七先生は「肥のさづけ」、「永代物種のさづけ」をいただき、更には「神の出張り所」の理をいただくなど入信後僅かの間に結講な理を次々といただいた。誠に大豆越の山中家といえば、親神様にいんねん深い家族であり、屋敷であった。

 そんな中で”こいそ”は自然と信仰の世界に導かれていったのである。正直で情け深く、特に”こいそ”は、姉妹亡きあと一人娘という立場になって、病身勝ちな母の手助けをしていたのであるが、この間には「秀司先生の嫁に」と、たびたび懇望された事もあったようである。しかし明治5年22歳の時、教祖にお伺いもしないまま、いとこの竜見栄造(※)と結婚した。この話には父忠七先生は、あまり気がすすまなかったのか、或は又、たった一人残った愛娘を嫁に出す父親のいい知れぬ淋しさからか、結婚当日は、夜具をすっぽりかぶって寝たまま、遂に起きて来られなかったという。(※芝村へ嫁している母の妹”なお”の長男で、学校の教員をしていた)


 さてこの結婚は、ごく近村であり、しかもいとこ同志の間柄でもあり、なお又竜見栄造氏は、小学校が数少なかった明治5年の当時、その教員をしているというので、よく釣り合った良縁だと誰もが考え、親戚知人から祝福されて、”こいそ”は芝村へ嫁いだ。だが結果は、人にうらやまれるような結婚生活では決してなかった。嫁いで間もなく、”こいそ”が大病を患い、ようやく全快した頃、今度は夫の女道楽がはじまった。それでも”こいそ”は、何一つ不足を口には出さず、教祖のお姿を胸にえがいては自らを励まし、こんな時こそと精一杯につとめた。しかし夫の道楽は止まらず、遂には妾を家へ入れ込んで、”こいそ”を女中扱いするようになっていった。たんのうの心を治めながらも、煩悶の日々を送る”こいそ”の姿を見て、近所の人たちからも「”こいそ”はんが可哀想や」と夫を非難する声が出たのも当然である。しかし、”こいそ”には既に二人の女の子が生れ、帰るに帰られぬ、全く暗い今にも心を倒してしまいそうな生活が続いたのであった。

 教祖から、『早くお帰り。早く帰らせよ』とのお言葉までいただいて、とうとう見るに見かねた山中家の両親や山沢良治郎先生(母”その”の弟)らの相談で、”こいそ”は二人の女児を残して無理に実家へ引き取られることとなり、六年間にわたる悲惨な茨の生活に終りをつげたのである。実家に帰った”こいそ”は、静かに改めて我が身、我が家のいんねんを悟り、教祖のお言葉の一つ一つをしみじみと心に味わい、真実の親神様の道へ素直にお導きいただく機会を与えられたのである。


 やがて教祖から、『早くおいで、おいで』との思召しのままに、翌明治11年正月(28歳)から13年暮まで満三ヵ年、伊八郎のもとへ嫁ぐまで、教祖のお膝元にお引き寄せいただき、勿体なくも日夜お側にお仕えさせていただくことになったのである。「六年間の苦しみの暮しを通り越えて来た私は、教祖にもたれきって信心一条に通らせてもろうたので、本当に夢のようやった。陽気ぐらしやった」と、後年よく語っていたように、教祖のご慈愛を一身にうけて、勿体なくも御手づから常々髪を結っていただくなどして明け暮れしたという。そうして、このお屋敷三ヵ年のつとめの内に、はかり知れない結構な理のお仕込みをいただいた。敷島の道の台になるにふさわしく、おぢばでの伏せ込みを通して、教祖が直々に”こいそ”をお育て下さったのである。(つづく)
 「山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その五) 」。
 (中略)こうして三ヵ年間、教祖のお膝元で、教祖の思召し通りつとめさせていただき、信仰的にも厳しくお育ていただいた”こいそ”は、『嫁入りさすのやない、南はとんと道がついてないで、南半国道弘めに出す』とのお言葉のまにまに伊八郎との結婚のお許しをいただいて大豆越の実家へ帰ったのである。そして結婚直前の5月28日には「さんじゃのさづけ」(※)を拝戴し、立派なよふぼくとして、勇躍山田家の人となったのである。思えば、既に、月日のやしろとしての教祖には「”こいそ”を三年間直々育て上げた暁には、南半国道弘めの土台として使い、その芯には山田伊八郎を立てる」との、世界たすけのご構想が描かれていたのであろう。こうして”こいそ”は、三年間のつとめを終えた時、教祖から、『先になると、この屋敷で暮すようになるのやで』と仰せいただいたお言葉の通り、後年ご本部勤めの理をいただき、老齢になって、雪が降り積もって歩き難い日には、素足に草履をはいて竹の杖をついてまで、喜び勇んで生涯夫伊八郎とともにお屋敷へ勤めきったのである。

 さて伊八郎は、”こいそ”との結婚三ヵ月経った明治14年の八月二十二日、義父の山中忠七先生に連れられて、生れてはじめて教祖の御前に出さしていただいた。勿論、生涯の信仰を堅く心に誓ってのおぢばがえりである。”こいそ”との縁談が出て以来、殊に結婚後は妻”こいそ”の口から、また義父山中忠七先生から、おぢばのこと、教祖のこと、お道のお話をいろいろに聞かしてもらう内に、山田家のいんねん、また自分自身の今日までの道をふり返りつつ、伊八郎なりに自分のおかれたいんねん、立場の自覚がついてきたのである。これは、それまでの大師信仰では到底摑み得なかったものであった。伊八郎は嬉しかった。これこそ本当にたすかる道だと思った。この教えを毎日毎夜熱心に聞かせてくれた”こいそ”が愛しく、これからは夫婦でもっともっと熱心に、真剣に道を通る決心がついたのである。早くおぢばの生神様のところへ参拝したいという衝動にかられた。

 この日伊八郎は、途中大豆越の山中宅へ立ち寄り、忠七先生に伴われておぢばへ帰ったのである。教祖は、『よう来た、よう来た』と、誰にでもそうであるように、伊八郎にもお言葉をかけられ、我が子か孫が帰って来たように非常にお喜びになり、いろいろと心を尽してお話をおきかせ下さったのである。伊八郎には、その一言一言が、腹の底にしみわたるように、全くの感激であった。この日以来伊八郎は、少しの暇を見つけては、絶えずおぢばへ帰るようになり、その都度教祖は、諄々と、やさしくお話をお聞かせ下さったのである。その時々のお話を伊八郎の当時の手記から、いくつか書き写してみよう。『世界中に土地所の村名は差し合うのが沢山ある。この庄屋敷という村名は、世界中どこたずねてもないで。この屋敷は人間一列元の親里、人間創めた元の屋敷や。世界中にもう一つ所とないで』、『この世に長命をしたくば、真実の心を長く持ちて、しんの心はおとしつけて心せき込め。長くは長いご守護』、『これから先になったら、石の長持ちの中で隠れて居ろうと思うても、隠れておれん時がありますのやで』、『子供の成人を楽しんでいよ。子供大きくなったら、皆なこの屋敷へ帰ってくるのやで』などと、時々にお聞かせ下さったのである。こうしたお話をだんだん聞かせていただくうちに、「弘法大師を深く信仰していた時代から、いろいろ心に抱いていた疑問の一つ一つが解けていった」と伊八郎自身書き遺している。(つづく)


※「さんじゃのさづけ」‥どのような”おさづけ”であるのか本書には説明がない。不明である。
 「山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その六)」。
 この明治14年8月22日のおぢばがえりが、伊八郎の本当の入信の日といえよう。即ち、実際には前述の如く、その一年前にもおぢばに参拝しているのであるが、その時はまだ信仰心あってのおぢばがえりとはいい難い。”こいそ”との結婚を許さない庄屋敷の生神様とはどんな神様か、一寸お参りして見てこようか、という程度の参拝だった。この事は後日長男倉之助にも話していたようで、「父上の明治14年初めて本教を信奉せられ‥‥中略‥‥明治13年、父上庄屋敷へ参拝せられし事ありし由なれど、当時はいまだ信仰の域に達し居らざりしやに聞く」と倉之助はその日誌(※)にも書き誌している。(※明治44年9月26日附の日誌の一部)

 ともあれ伊八郎は、この日以来たびたびおぢばがえりするようになり、教祖からいろいろとお諭しをいただき、同時に又、義父山中忠七先生、妻”こいそ”の信仰に導かれて、急速に信仰的に成人していった。そして”こいそ”と共に、村人への布教を開始したのである。やがてその年(明治14年)12月17日(陰暦十月26日)、出屋鋪村で八戸ーー即ち山田伊八郎、山本与平、田中徳平、上田音松、辻善十郎、谷田喜平、阪口勘平、北浦喜市郎の八戸(※)--をまとめて講社を結成することとなり、教祖から『心勇組』の講名をいただき(※※)、伊八郎はその講元としてお許しをいただいたのである。
 (※この内山本、辻、阪口の三軒は山田家の親戚である。
 
※※明治15年3月改のお屋敷の講社名簿に「倉橋村出屋鋪方講中心勇組」と銘記されている)

 思えば、『南半国道弘めに出す』との教祖のお言葉のまにまに、”こいそ”と結婚以来半年余り、また生涯の信仰を心に誓っておぢばがえりしてから僅か三ヵ月余しか経過していない。しかも布教に歩いたとはいえ、前記八戸の人たちを含めて不思議なご守護をいただいて入信するという人も居なかった。(むしろ、講社結成後に不思議なたすけを次々とお見せいただいているが、この事は後に記す)ただ教祖が、伊八郎夫妻の魂、いんねんを見澄まされての南半国道弘めであることを痛切に感じるのである。『南はとんと道がついてないで』との教祖の思し召しから、おぢばの南、倉橋村出屋鋪におろされた一粒の種が、ここに伊八郎によって、立派にその芽をふき出したのである。教祖のお喜び、お勇みは如何ばかりか。「心勇」と名付けて下さった講名に、こうした教祖の御心が、大きくにじみあふれ出ているのを見る。こうして心勇組ーー敷島が誕生した。

 以上、昭和49年8月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会史料集成部編)8~31ページより





(私論.私見)