分かち合い論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理の「分かち合い論」教理を確認しておく。

 2003.7.23日 れんだいこ拝


分かち合い論
 お道教義では、

 御神楽歌、お筆先では次のように諭されている。

 教祖は次のようにお諭し為されている。

 お指図では次のように御言葉されている。

【分かち合い論】
 「おてぶくぼ」。
 私はよく、珍しいものをいただいた時や、御馳走をいただきまする時は、必ずこれを側の人々にも分け合うていただいてもらいます。それで家の者や孫などは、自分の好きなもの当たった時は黙っていますが、そうでもない時は面倒がって、なぜおばちゃんはそんなことをするのかと尋ねます。すると私はいつも、教祖のお食事を遊ばした時の物語りをいたして言うて聞かしますると、みんな得心してくれます。私は神様のお言葉、秀司先生のご下命によりまして、永らくの間、教祖のお守り役を仰せつかりましたが、その間、特に深く感じさしていただいたのに、この‘’おてぶくぼ‘’と言うのがあります。それは、神様の御食膳に何か珍しいものを差し上げますると、神様は、必ずご満足の後、お箸をお取り上げになってから‘’おてぶくぼ‘’と仰せられて、御自身で相手の手のひらにそれをお移しになって、ともに喜びをお分かちになるのであります。二人おれば二人、三人おれば三人に、それぞれたくさんお移しになって、ともにお喜びになるのであります。神様はいかなる時も決して御自身だけでご満足なさることなく、皆とともにお喜びをお分かちになりました。恐れ多いことであります。
 昭和4年6.20日号「みちのとも」(道友社新書)の26「先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん」120-122pの「教祖の御好物/おてぶくぼ」。
 教祖は何がお好き、何がお嫌いというようなことは、かつて仰せられたことがござりませんでした。どんなお粗末なものを差し上げました時でも、必ず御黙祷の上『おいしいな』と仰せられましたが、少々御好物のごとく拝されたものに飴と少量の味醂とがありまする。味醂の方はごく小さいお盃に二、三杯お召しになったように記憶いたします。それで私は河内に帰った時は、途中で飴と味醂とを買ってきて差し上げるのが楽しみでした。なお、お召し上がりにならなかったものに牛肉と鳥肉等がありまする。ある日も信徒の方で大きな山鳥を教祖に差し上げたことがありますが、その時教祖は山鳥の背(せな)をさもあわれげにお撫でになってから『こんな目に逢うたのやなあ、可愛そうに、今度は鳥に生まれずに他のものに生まれておいで』と仰せられてから、下におさげになりました。御慈悲禽獣に及んでいたのであります。ただお召し上がりの時のお茶碗はかなり大きい‘’どうくろ‘’のお茶碗を御使用でございました。これは‘’おてぶくぼ‘’の時、小さいのではみんなに行き渡りませんので、大きいのをお用い遊ばしたのであろうと拝察いたしています。






(私論.私見)