貧に落ちきれ財物不執心論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理の「貧に落ちきれ財物不執心論」教理を確認しておく。

 2003.7.23日 れんだいこ拝


【貧に落ちきれ財物不執心論】
 お道教義では、

 御神楽歌、お筆先では次のように諭されている。

 教祖は次のようにお諭し為されている。

 お指図では次のように御言葉されている。

【貧に落ちきれ財物不執心論考】
 「貧に落ち切れ」その他参照。
 稿本天理教教祖伝の「第三章みちすがら」の冒頭(P23)、「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、『貧に落ち切れ』と、 急込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された」と書かれている。この教理が、稿本天理教教祖伝逸話編4「一粒万倍にして返す」(『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなも のである。一粒万倍にして返す』)、同30「一粒万倍」(「教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、『人間は、これやで。一粒の真実を蒔いたら、 一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国 に蒔く程になるで』と、仰せられた」)の教えと連携して、教団への献金を促す教理の根拠となっている。これを検証する。
 天理教の宗教二世で貧苦の中で青春時代を過ごした作家、芹沢光治良が、娘を売って本部に献金する事例を、「人間の運命/第一部第二巻、友情」(P118)の中で次のように記している。
 「……親のために、あたしは吉原へ売られたのにね。おせんが病気で家へ帰って、一昼夜で息をひきとってよかったと、おせんのた めに喜んでいます。十日も二十日も看病したら、迷惑がって、海へでもすてに行きたい、と思ったでしょうからね。そのおせんも、 親のために売られた娘なのに……次郎さんでなくて、教会の会長さんだったら、本気に言ってやりたいことがあったのよ……あた したちを売ったお金の大部分は、天理教の本部の普請のために、会長さんにわたしたそうですもの。本部の普請に献金すれば、一粒千倍に なってもどって来る、幸福の種をまくようなもので、あたし達もしあわせになるからといって、会長さんは無理に出させたようです けれど……しあわせになるどころか、おせんはあんな風にして死んだわね。吉原で苦労しなかったと、人様の前ではいったけれど、 涙で枕をぬらしたことが幾度あったか知れないわ……だから、会長さんに詰問したかったのよ、ほんとうに神さんがあるのかって。 娘が身を売った金まで献金させて、本部の普請をしてでんとしているような神さんなんて、真面目におがめるかって、ね」。
 「貧に落ち切れ」教理の由来考

 貧に落ち切れ」教理の由来は、公開されている最初の教祖伝である明治16年の「神之最初之由来」(備考/明心組梅谷四郎兵衛より和光寺尼宮へ提出せるもの)(復元31号P7)の次の記述を初見とする。

【貧に落ちきれ財物不執心論論評考】
 ヨーロッパ出張所長/永尾教昭「2006年10月大祭神殿講話」。
 ご承知のように、今年1月26日、おぢばでは教祖百二十年祭がつとめられました。そして、今年一年は年祭の年として、真柱様はおぢばを賑やかに、とおっしゃっています。おぢばを賑やかにするということは、大勢の観光客を連れていこうということでは、もちろんありません。一人でも多くの信者が帰らせて貰い、同時に未信者の人をお連れしようということです。つまり「おぢばを賑やかにする」ということは、布教を活発に行うということに他なりません。その真柱様の思いにお応えしようと、ここヨーロッパからも、大勢の信者がおぢばに帰っておられますし、また別席を運ばれた方も既に200人を越えております。それほど、教祖の年祭は天理教にとって大事な祭典です。何故、教祖の年祭がそれほど重要なのか、ということを考えてみたいと思います。言うまでもなく、天理教の教祖の年祭は、一般に行われる故人を偲ぶ祭典ではありません。教祖一年祭は、神道の神官達が乱入してきて、途中で中止されております。従って、本教最初の年祭は、1892年に勤められた教祖5年祭という事になります。

 教祖が御身を隠された後、教団の重大な決定や教義の裁定は、本席飯降伊藏さんの口から発せられる「おさしづによっておりました。無論、5年祭を勤めるに当たっても、おさしづを仰いでおられます。それは
「なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しいのや。ひながたの道より道がないで」

 というものでありました。要するに、年祭に至るまでの約千日、3年間、教祖のひながたを辿りなさい。3年間など3日間のようなものである。そうすれば、教祖のように50年通ったのと同様に受け取ってやろう。ひながたの道以外に道はないということであります。こう考えると、教祖の年祭の意義は、教祖のひながたを辿ることにあると言うことが分かります。では、教祖のひながたを辿るとは、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。ここで、今一度、教祖のひながたを振り返ってみたいと思います。

 教祖は、41才で月日のやしろとなられます。最初にされたことは、家財道具、土地に至るまで、ほとんど売りに出され、それを貧しい人に施されます。元々非常に裕福であった中山家ですが、これで完全に零落します。そうなると、親戚、友人は離反していきました。時には、家族の中でさえも、教祖は孤立されます。そういった生活が約20年続いた後、ようやく、信者が出来てくるようになる頃になると、それを妬む既存の宗教である仏教の僧侶や神道の神官などの攻撃を受けられます。それでも、この道は急速に延び広がり、日本中に大勢の信者が出来てきます。そうすると、この道の進展を危ぶんだ国家権力の介入を受けられて、18,9度、警察に呼び出され、監獄に留置されます。
 私たち信者が、ひながたを通るということは、私たちの家財道具や家、土地など固有の財産を売り、そのお金を貧しい人に施そうと言うことでしょうか。そして、親戚、友人との縁を切り、孤立せよということでしょうか。私はそうではないと思います。なぜならば、教祖が、家財道具を施されたのは、一つの手段であって目的ではないからです。私は、信仰者たる者、過度の贅沢はするべきではないと思います。しかし、普通の社会生活を送る上で、やはり家も家財道具も、それなりに必要でしょう。また私たちが、そういった物をすべて売り払い、そのお金を貧しい人に施すということが、本当にその人を助けることになるのかどうか、大いに疑問だと思います。加えて、仮に私が私の全財産を売り払ったとして、助けられる人は一体何人いるでしょうか。ぜいぜい一人か二人、それも永続的ではなく、わずかな期間、食べ物や着物を与えられるだけでしょう。それはそれで、大変重要なことではありますが、それがひながたを通るということではないでしょう。財産を手放すという行為によって、教祖が示されたのは、贅沢を排除することと同時に、富や名声、社会的地位が決して人間の本質的な価値ではないということを知らされたのだと思います。そういった付随的な物を排除することによって、社会の最下層の人たち、あるいは弱者と言われるような人たちでも、教祖の教えに付いてくることが出来たのであり、それが目的であったのです。逸話編に「表門構え玄関造りでは救けられん」とあります。人を助けるのは、財力ではないということを示されたのです。

 さらに、贅沢を控えて、世の中には水も喉を越さないと苦しんでいる人がいる現実を決して忘れずに、今の情況を喜ながら、人生を通ろうということであろうと思います。もちろん、困っている人に対して、物質的な救済を完全に否定するものではありません。私たちも年に一度バザーを開催して、売り上げを救援活動に供しております。時には、そういったことも必要であろうと思います。もちろん、親戚、友人との交わりは大切にし、何も孤立する必要はありません。
(私論.私見)
 教祖の財物不執心論に対するこの受け取り方は、これを私有財産制否定論と受け取るのを硬派とすれば、対極的な軟派なそれであろう。真実は恐らく、両者の中庸的なところにあるのだろうと思われる。これに付き、改めて問答することにする。
 教祖は、既存の宗教の攻撃を受けられました。私たちがひながたを辿るということは、これも必要なのでしょうか。私は、ここヨーロッパにあって、意識的にキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などを信仰しておられる方とぶつかる必要はまったくないと思います。むしろ、人類の歴史の中で、宗教の違いが紛争の原因になっていることを謙虚に反省し、キリスト教やイスラム教など、他宗教の方達と手を携えて、平和な世界を作っていくべきなのです。

 教祖が、既存の宗教から攻撃を受けられたことは確かに事実ですが、教祖自身はそれに対し、反攻をされてはいません。逆に、お言葉に「行く道すがら神前を通る時には、拝をするように」とおっしゃっています。逸話編には、「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」あるいは「産土の神に詣るは、恩に報ずるのである」とも述べられています。これは他の宗教、他の詣り所を敬えということでしょう。このように、既存の宗教を敬うことと、自分の信仰に誇りを持ち、それを一生懸命広めることは決して矛盾しないのです。

 最後に警察など、国家権力の攻撃を受けられました。これも、教祖のひながたを辿るために、表面だけを見てそれを真似ようとするとなると、私たちも公的機関の攻撃を受けねばならないのかとなります。あるいは、監獄に留置されなければならないのかとなります。決してそうではありません。どこの国であろうとも、その国の法律を遵守し、善良な市民として生きるべきなのです。教祖が、警察など公権力からの迫害、干渉を受けられたのは、主として、おつとめを勤められたからであります。当時の日本は、現在と違い、本当の意味で信教の自由はありませんでした。正確に言えば、まだそこまで法律が整備されていなかったということです。従って、つとめを勤めるためには多くの制約を受けました。当時の信者の方々が、仏教寺院の講社の一つであるように見せたり、神道の管轄下の教会であるように見せられたのも、それがためであります。しかし、教祖はそういったことを決してよしとされず、思召し通りのおつとめを、堂々と勤めよと命じられています。つまり、警察などの公権力と衝突するのが目的ではなく、つとめの重要性を知らしめられたのです。かつての共産主義独裁国家ならともかく、現在のヨーロッパで、恐らくおつとめを勤めることによって、検挙されるというところはないと思われます。毎日つとめても、何ら問題はありません。現在は、そういった外的障害よりも、むしろ、わずらわしい、面倒くさいといった自分自身の気持ち、精神的なものがつとめ勤修の障害になっていることが多いと思います。1月26日に本部にて勤められた教祖百二十年祭の祭典後の講話の中で、真柱様は「今では信仰することはもちろん、おつとめを勤めるについても、法律による制約や、あからさまな妨害はありません。しかし、どこまでも親神様の思召しに沿っていくという心定めが第一であることには、昔も今も変わりはありません。官憲の迫害干渉を恐れなければならない当時を思うと、比較にならないくらい結構な今日でありますが、道を通るうえで、今日には今日なりの葛藤があるだろうと思います。世間の習慣や義理との間で迷ったり、あるいは無理解や冷たい態度に心をいずませたりすることもあるでしょう。

 しかし、もっと問題なのは、そうした外的な要因よりも、むしろ自分自身の心からくるものではないでしょうか。利害や体面、さらには都合、勝手などなど、神一条の道から逸れる誘因はいくらでもあるのであります」とおっしゃっています。毎日、おつとめを勤めさせて頂くことは、ひながたの一部分を通るということです。勇んだ明るい心でおつとめを勤めると言うよりも、おつとめを毎日勤めれることによって、心が勇みます。手を覚えておられない方は出来ませんが、十二下りを踊ってみて下さい。本当に心が勇んできます。十二下りが出来なければ座り勤めだけでもよろしい。それも出来なければ、本を見ながらお歌を唱えても良いと思います。さらに教祖は、警察に拘引されるときも、いそいそと出掛けられ、留置場にいても担当の警察官にねぎらいの言葉を掛けておられます。この態度から私たちが学ぶべき事は、警察に留置されるということではなく、いついかなるところにあっても、心を勇ませる。加えて、自分に反対する者に対しても、いたわりの心を持つということでしょう。

 私たちはともすると、教祖のひながたを歩もうと言い、その事歴の表面だけを真似しなければいけないように取ることがあります。そうではありません。ひながたを辿ると言うことは、すなわち教祖の心に習わせていただくということであります。教祖伝のうわべではなく、一つ一つの記述の中に潜んでいる教祖の精神を捉えるべきなのです。贅沢をしない。言い換えれば、慎みの心を忘れないということです。富や財産、社会的地位といったものが人間の本質ではないことを認識し、貧しい人、障害を持った人、老人、そういった弱者の救済を忘れないこと。これは、ひのきしんの実践であり、おさづけの取り次ぎでしょう。また、おつとめの重要性を片時も忘れることなく、このつとめで身上や事情を助けて頂けるという信念を持って、出来るならば毎日勤めること。さらには、いついかなるところにあっても、勇んだ心を持ち、自分と意見を異にする人に対しても、いたわりの心を持つこと。これは、たんのうの心を持つということです。そういった態度で、日々を通るということが、すなわち、ひながたの道を辿るということであろうと思います。

 もちろん、これは簡単なことではありません。極めて、難しいと言っても良いでしょう。ただ今、皆さんに語っている私も、ひながたを辿るどころか、反省、後悔の毎日です。しかし、ひながたの道を辿るための方法、特別なテクニックなどはありません。一度にすべて成し遂げようと思わずに、何か一つでも、心がけて実行することと、同時に継続させることが大事でしょう。一生続けよと言われるとなかなか、難しいですから、「おさしづにあるように3年間に絞るのです。例えば毎日ひのきしんを3年間継続するということが、重要です。世界には、数えられないほど多くの問題があります。私は、どの問題も、究極的な原因はすべて人間の心にあると思います。環境問題などは、一見、心とは関係ないように思えますが、やはり慎みを欠いた結果とも言えるでしょう。ということは、世界平和、私たちの信仰で言えば陽気ぐらしの世界を実現するには、一人一人の心を直していくより他にないのではないでしょうか。私たち天理教信仰者には、教祖のひながたという立派な教科書があります。さきほど拝読した「おさしづには、
「難しいことは言わん。難しいことをせいとも、紋型なきことをせいと言わん。皆一つ一つのひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。…世界の道は千筋、神の道は一条。…ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい」

 とあります。世界中には千筋もの生き方があるが、天理教信仰者が目指すべき生き方はおやさまのひながた、ただ一つとおっしゃっています。この人生の教科書を片時も心から離さず、一歩一歩、歩ませて頂きたいものです。ご静聴ありがとうございました。
 2023.02.22日、青年会人材派遣生の三石晋一郎委員の正心2月号掲載分「貧に落ち切る―天理教海外部における青年会人材派遣生の教理発表」。
 私は今回、「貧に落ち切る」について考えていきたいと思います。諭達第四号に、「教祖はひながたの道を、まず貧に落ち切るところから始められ」と書かれており、教祖のひながたをたどらせていただく私にとって非常に重要なことだと思ったので、少し考えさせていただきました。稿本天理教教祖伝(以下『教祖伝』)に、月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまにまに、「貧に落ち切れ」と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困っている人々に施された。(23頁)とあります。家財道具に至るまで施し尽されて後、「この家形取り払え」、「瓦下ろせ」、「家の高塀を取り払え」と、次々に家の財産を離していかれました。やがては、母屋を取りこぼちになります。その結果、世間の人には笑われ謗られ、周りの人々には見放されました。中山家は格式の高い家であり、夫・善兵衞様は、今でいう村長のような存在であったそうです。周りからの信頼も厚く、慕われていました。このような結構な生活をしていた中山家であったのに、なぜ教祖は貧に落ち切られたのでしょうか。『教祖伝』には、一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける(23頁)とあります。

 この点について矢持辰三先生は次のようにおっしゃっています。
教祖はひながたの最初に、「貧に落ち切る」行いをされましたが、それには、「親神の思召のまにまに」という大前提があるわけです。それと教祖の五十年の大目標があったと思うんで、その大目標と離れた部分的な歩みではなくて、大きなたすけ一条の道の確立に向かうという大前提の最初の段階としての「貧に落ち切る」道だったということです。(道友社編『ひながたを温ねる』9頁)

 また、諸井慶一郎先生は、すなわち、たすけ一条のこの道は、人間の知恵や学問、あるいは財物によってつけられるものではなく、親神のお働きによってのみつけられる、人為によらぬ天然自然の道である。そこでたすけ一条の道をつけられるために邪魔になる一切のものを取り払われた。(『あらきとうりよう』第91号 61頁)といわれています。

 大目標と離れた部分的な歩みではなくて、大きなたすけ一条の道の確立に向かうという大前提の最初の段階としての「貧に落ち切る」道だったということ。人為によらぬ天然自然の道。貧に落ち切る行いについて、矢持先生と諸井先生はこのようなことをおっしゃっていますが、私には少し意味がわかりませんでした。しかし、二代真柱様のお言葉を読ませていただくと、少し意味がわかったような気がしたので、紹介させていただきます。
どん底の場合におきましても、一番素直になれるであろうと思うのであります。物の執着を取って、明らかに胸の掃除のできる立場、態度になってくると思うのであります。それはどん底になって、裸になってしまうのが目的ではないので、かくして胸を掃除してきれいな清らかな心になって、そうして陽気ぐらしの御守護を頂くことなのであります。裸になるのは目的ではなくて、風呂に入るのが目的です。風呂に入る目的のために、まず裸になるのと同じ―多少意味が違うかもしれませんが―段取りであるわけであります。 

 ここの場合におきましても、どん底へどん底へと落ち切られて、いろいろな意味を何しておられるのは、一面において世間の人の同情を寄せる手立てであったかのように見えるのでありますが、決してそうではないのであります。おそらくさようなことによって、一番行動がとりやすい、親神様のお心がわかっていただけるようなことが、掃除的なもの、そうして施しという反面の事柄が立て合って、かようなことになってあるので、どん底へ落ち切らなかったならば、どん底の人たちの心がわからないというような説明に、それは後になって、われわれに対するお仕込みの上から、お出しになった言葉でありますが、その時に、たとえお出しになっても、それはわれわれの心を養う上からおっしゃったもので、決して目的ではないということを考えていただきたい。これによって次へ来るもの、心を明らかに、しっかりと陽気ぐらしへ、物の執着を取って進んで行くところの根底を築く意味であるということを、お考えいただきたいのであります。(中山正善『第十六回教義講習会 第一次講習録抜粋』152~153頁)

 このようにあります。教祖の貧に落ち切る行いは、たすけ一条の道、陽気ぐらし世界を目的とした御行動であったということです。格式を離して親しみをもってもらうことが、目的ではありません。親神様、教祖は私たちが想像を絶するような先をみています。その中で、陽気ぐらし世界の実現に向けた土台として、この貧に落ち切ることを始められたのだと考えます。また、「心を明らかに、しっかりと陽気ぐらしへ、物の執着を取って進んで行くところの根底を築く意味であるということを、お考えいただきたいのであります。」と、二代真柱様のお話の中にあるように、物への執着をとることが、陽気ぐらし世界への土台となるといわれています。では、物への執着をとると、どうなるのでしょうか?「水を飲めば水の味がする」、「お月様が、こんなに明るくお照らし下されている」。これらの教祖のお言葉は、貧のどん底に落ち切ることによって初めて、これまで気づかずにいた親神様の御守護が身にしみて感じることができるようになり、そこから本当の喜びと感謝の気持ちが生まれてくることをお教えくだされたものです。貧に落ち切ることで、今あるもの、この世界のすべては親神様からのかりものである、ということに気づけるようになるのではないでしょうか。貧に落ち切ることを通して、お月様がこんなにも明るい。有難い。水を飲めば水の味がする。と感じられるようになってくる。親神様の御守護を御守護として感じられるようになってくる。これが本当の幸せなのではないでしょうか。このように思います。幸せと感じる瞬間が多ければ多いほど幸せです。

 さて、ここまでは、なぜ教祖は貧に落ち切られたのか、また貧に落ち切ることでどのようになるのかについてみてきました。では、現代を生きる私たちにとって、貧に落ち切るとはどういうことなのでしょうか。「貧に落ち切る」ことの捉え方として、二つの見方があると思います。一つは従来からの立場、社会的地位などすべてを断ち切っていくということ。もう一つは「貧に落ち切る」ことを心の問題としてとらえ、物への執着心をなくすことが陽気ぐらしへとつながっていくという心理構造を示されたという見方です。「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味がわからん」(『教祖伝逸話篇』四 一粒万倍にして返す)。

 このお言葉の意味について、二代真柱様は第十五回教義講習会において次のように述べられています。
 教祖様が自ら貧のどん底へお落ちにならなければ、教祖様には貧のどん底の意味が解らないのだ、と斯様に人間一般の様に考えましたならば、それは我々の考えは非常に偏って居りますので、それは当らないのであります。親神様の思召しを以てお考えになって居る教祖様にとったならば、百も二百もその味わいは御存じであります。(中略)人間各自が、ひながたとして左様な立場に立ち到った時の心の持ち方が解るのであります。つまり、行いを以て、どん底に置き乍らも陽気ぐらしへと起ち上って行く道すがらをお教えになったのであります。(『真柱訓話集』昭和二十九年 926~927頁)

 このお言葉をみると、二代真柱様は、そのような困難な立場に到った時の心の持ち方をお示しになったと仰っています。

 また、『教祖伝逸話篇』には、教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』と、仰っしゃりました。」(五 流れる水も同じこと)とあります。金子圭助先生はこのお言葉について、何よりもまず現象的に、形の上で貧乏することによって、心の救い、魂の救いへ進む道があるのだということをおっしゃっているのではないかと私は理解しています。(前掲『ひながたを温ねる』10頁)といわれています。では、形の上だけで貧に落ち切ってもいいのでしょうか。二代真柱様のお話の中に、「心を明らかに、しっかりと陽気ぐらしへ、物の執着を取って進んで行くところの根底を築く意味である」(前掲「第十六回教義講習会」)とあるように、この土台を築くためには、やはり形だけ通ればいいということにはならないと考えます。物への執着をとり、今この瞬間にも親神様から与えてもらっている御守護に心から感謝できることが大切なことではないかと思います。

 宮森與三郎先生のお話の中に、
 教祖様は唯ある財産を無くして低くなられたのやない、心までや、腹から優しい温かい心になつて低くなられたのや、(中略)教祖様のよふに温かく誠の心で低くならねばならん。(『みちのとも』大正六年七月号 68頁)

 とあるように、教祖のように温かく誠の心で低くなることが必要であると思います。そのためにはやはり求道の部分が非常に大切であると改めて感じさせていただきました。教祖はどういう思いで御行動されたのかを考え、その心をたどらせていただくためにはどう行動するのかが大切であると思います。

 本当に形の上で教祖のように貧に落ち切ることを教えられているのか。または心の持ち方について、ひながたを通して教えてくださっているのか。はたして貧に落ち切るというひながたをたどるとは、どういうことなのか。大事なことは、教祖のひながたを形だけたどっても意味はないということです。教祖の心をたどらなければならないと思います。しかし、その心をたどるためにはやはり形をたどることが必要ではないか。どちらにせよ、現代で貧に落ち切る必要はないということにはならないのかなと思います。相手を理解する心、たすけ一条の心、神一条の心。このことを理解する上で、私たちは貧に落ち切るという道をたどらせていただかなければならないと思います。実際に自分が落ち切らなければ、そこにあるものが見えません。

 しかし、教祖のように今ある財産をすべて手放すことは、今の私にはできませんし、この現代においてそれが必要かもわかりません。しかし、落ち切った先に何があるのかは、やはり自分が経験しないとわからないものだと思います。これから始まる海外での活動を通して、少しでも教祖のように他者へ心から施し、おたすけができるようになりたいと思います。
インターネットで見つけたんですが、こんなことを書いている方がいました。「この『貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば、難儀なるものの味が分からん』。この部分の『貧に落ち切る』は、例えば『病気』に言い換えてみる。次に『人間関係』に言い換えてみる。なぜ『貧』なのか。それは、病気はかりものであるこの体を自ら傷つけることになる、人間関係は相手を傷つけてしまう。しかし、貧に落ち切ることはそうではない。このことから、じぶんが自ら進もうと思えば、この道は通れるのであります。なので神様は主体性を大事にしている」。このように、書かれていました。いつの時代でも、人間は財産や社会的地位、名誉に走り、それがいかにも幸せかのように考えがちです。そうした人間の心の持ち方を切り替えるために、まず貧に落ち切るという道を、身をもって歩まれたのです。

 「教祖様が西へ行つてござるのに、東向いて歩いて居つては足跡を踏して貰ふ事が出来ない。」(前掲『みちのとも』59頁)と宮森先生が仰っています。そのことをしっかりと理解させていただき、これから始まる教祖百四十年祭へ向けての三年千日を、一生懸命自分なりに通らせていただきたいと思います。
(私論.私見)
 なるほどのことを言っているようで、何を云っているのか分からない問答になっているように思われる。なぜそうなるのかと云うと、「貧に落ちきれ財物不執心論」の根底にあるものが踏まえられていないからのように思われる。「貧に落ちきれ財物不執心論」は教祖のひながたの実践であり、それは神の自由自在お助け力を確かめる契機として位置づけられているのであって、だがしかし、教祖のひながたの通りに歩むのは実践的に相当な困難が予想されている。実際には、教祖のひながたを知る事、学ぶ事により、これを手引きにすることで充分と心得たい。教祖のひながた通りにすることは相当に危険であり、必ずしもその通りにする必要はない、但しいつでも教祖のひながたに照らして歩むことが肝要なのである、という教えであると心得たい。







(私論.私見)